
「真城院」は天台宗のお寺で、山号は「高岡山」、寺号は「瑞泉寺」。
ご本尊は「阿弥陀如来」(阿弥陀三尊形)です。
阿弥陀三尊とは、阿弥陀如来を中尊として、左の脇侍に観音菩薩を、右の脇侍に勢至菩薩
を配する形式です。

山門に至る細い道の入口に「自から其の意を淨うす 是れ佛の教なり」と刻まれた石柱
があり、奥に山門が見えています。


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重厚な造りの四脚門(しきゃくもん)です。
四脚門は、真ん中の二本を門柱とし、前後に四本の控柱を置く、格式の高い門です。

「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には次のような「真城院」の記述があります。
「高岡山眞城院 高岡村大字高岡字西の内に在り域内千六百八十坪天台宗にして阿彌陀佛
を本尊と為す寺傳に曰ふ應永三年丙子六月僧證尊の開基するところなり往古は隣村猿山區
字眞城に在りしを以て眞城山眞城院と稱せしが後ち此に移し山號を改むと曰ふ後ち數ば
火災に罹りしを以て古書の徴すべきなし」
応永三年は西暦1396年ですから、620年もの長い歴史を有する古刹です。
「真城院」の寺号は、寺が開かれた猿山村の字(あざ)真城からきたものです。


本堂の前に「一隅を照す此れ即ち國の寶なり」という伝教大師・最澄の言葉が刻まれた
石碑があります。
最近の学説的には最澄の時代の背景や諸史料から「照千一隅此則国宝」(一隅を守り
千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされているようです。
ただ、長い間に渡り「照于一隅此則国宝」(一隅を照らす、これすなわち国宝なり)とする
解釈が広く知られていますし、今の時代背景からは「照千一隅」より「照于一隅」の方が
しっくりくるようです。
裏面には「本堂落成記念」と記され、次のように刻まれています。
「抑モ当院ハ武田勝頼ノ妃諏訪ノ姫慰霊ノ為ニ源田村眞敷ニ建立サレ小坂氏ノ氏寺トナリキ
井上清兵衛大名ニ列シ高岡ニ其ノ館ヲ置クニアタリ当地ニ移シ祈願所トナス 東叡山直水ニ
シテ寺格三万石ヲ賜ハレリ特ニ菊菱ノ紋着用ヲ許サレタリ 明治以降寺領及外護大名ヲ失ヒ
大書院庫裡長屋門籾倉等ヲ相次ギ失ヒ大東亜戦ニ梵鐘ノ供出ヲ成シ鐘楼モ取リ毀シ大門ト
本堂ノミトナリタリ 此ノ間二百五十年本堂ノ破損モ甚シク依而昭和四十五年本堂同五十三
年向拝並ニ回廊ヲ檀徒ノ浄財ニヨリ完成セルナリ」
寺伝では、武田勝頼が長篠の戦いに敗れた後、武田晴信(信玄)の旧臣が勝頼の妃の位牌
を持って落延び、眞城院に隠遁したとされています。
「勝頼の妃」とは、織田信長の養女で勝頼に嫁いだ「龍勝院」のことと思われますが、その縁
で寺紋に菊菱が使われるようになったようです。
また、「諏訪の姫」と言えば、信玄の側室であった「諏訪御料人」を指しますので、旧臣が持ち
出した位牌は二つだったのかも知れません。
旧臣はどんな想いでここまで落延びてきたのでしょうか?
本堂や山門の屋根には、天台宗の三諦章(さんたいしょう)と菊菱紋が並んでいます。

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寺は元禄年間に現在の地に移転し、堂宇は一新されたと、寺伝にはあります。
約320年前のことになります。
歴史あるお寺らしく、広い境内には多くの石碑や宝塔が並んでいます。

裏の墓地の入口に並ぶ「六地蔵」。
左端の地蔵には正徳六年(1716)の紀年銘があります。

墓地の外れに立つ大銀杏。

延宝、享保、寛保、安永、寛政、文化、天保、安政などの年号が読めます。

境内の右端には「大日如来」と刻まれた安政五年(1858)の石碑。
安政五年は井伊大老による安政の大獄が始まった年です。


「下総町史 通史近世編」(平成6年)には、「真城院」を次のように紹介しています。
「高岡山と号し、常陸国河内郡小野村(茨城県新利根村)逢善寺の末。本尊は阿弥陀如来。
寺伝では応永三年(一三九六)に証尊という僧が開いたという。また当初は隣の猿山村の
字真城にあったので、寺名になったともいう。宝永二年(一七〇五)の村差出帳には弁才天・
明神・水神二か所の別当寺で神田二反八畝を管理していると記されている。」
山門と本堂の向きが微妙にずれているのは、真城から移設した時に、山門をかつての寺の
方向に開いたためだと、お寺の方に聞きました。

山門を出て県道を横切ると弁天堂があります。


「千葉縣香取郡誌」には弁天堂について記した部分があります。
域外に辧財天堂あり明治三年寺内に移せしが近年に至り區人青野某更に舊位置に復し
堂宇為に一新せり今縣道の傍なる地中に在るもの乃ち是れなり像は舊領主井上正榮
筑後守甞て本寺の九世俊秀に歸依し之を寄進せしものなりと信者多しと曰ふ」
「弁天堂」は池にせり出した島のような場所にあります。

「明和八年辛卯」と刻まれた手水盤。
明和八年は西暦1771年になります。


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ここは「しもふさ七福神」の一つです。
「しもふさ七福神」は、
恵比寿(中里・楽満寺)・大黒天(名木・常福寺)・毘沙門天(滑川・龍正院)
弁才天(高岡・真城院)・福禄寿(名木・ゆめ牧場)・布袋尊(名古屋・乗願寺)
寿老人(西大須賀・昌福寺) となっています。


地蔵堂の横に数基の石仏が並んでいます。


年代不詳の青面金剛


弁天堂横の「稲荷大明神」

県道を渡って、墓地のある裏側から「真城院」に戻ります。


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無縁塚には、元禄、宝永、正徳、明和、安永などの古い墓石がビッシリと並んでいます。

墓地の一角に随朝父子の墓を見つけました。
左が父の随朝陳、右が子の達の墓です。
随朝家はもともと京都の公家の出で、父の陳(のぼる)は高岡藩の藩校で教鞭を取った人物
で、息子の達(さとる)は犬吠崎燈台の煉瓦をここ高岡の土で焼くことに貢献した人物です。
「成田市史研究 32」(平成20年3月発行)に収録されている「下総地区は歴史の宝庫」と題
する礒辺大暢氏の論文中に、随朝父子についての詳しい記述があります。(P76~78)
また、達については「千葉縣香取郡誌」中の「人物誌」に、“文人”としての記載がありました。
「高岡村の人なり字は子善通稱揆一欽哉と號す夙に經術を朝川善庵に受く弘化嘉永の際
同門長谷川鐡之進大樂源太郎小川節齊等と共に國事に奔走し後ち藩主井上氏の講席に
侍し維新の際藩主に勸め諸藩に先たち上京せしむ癈藩置縣に及び辟されて江刺縣大屬と
為る官に在る一年餘辭して郷に歸り帷を下して諸生を教授す性詩之を好み閑適餘念なき
ものゝ如し明治二十六年六月十二日歿す年六十二慈徳院壽學淨達と法諡し村の眞城院に
葬る著するところ詩文集、性善論、春秋獲麟論、算題鐘鳴録等あり相川角太郎報」
ここでは犬吠埼灯台に寄与したことには触れらていませんが、多才な人物だったようです。


陽も傾き、冷気が境内を包みます。
大銀杏に緑が戻るにはまだまだ時間がかかりそうです。

※ 「高岡山真城院」 成田市高岡163
前回の「勝光寺」と同じ「高」地区にあります。

この神社に関する資料はほとんど見つかりません。
「下総町史」には、
「高の字栗台にあり、祭神は月読命。伝承では江戸時代の別当寺は延寿院であった。」
とのみ記載されています。
また、「千葉縣香取郡誌」にも、神社誌の項に「その他神社」としての一行のみの記載です。
「千葉県神社名鑑」には、
「祭神 月讀命(つきよみのみこと) 本殿・亜鉛板葺 流造〇.二五坪、拝殿・亜鉛板葺
切妻造一坪、境内坪数一、〇二九坪 氏子五〇戸 由緒沿革 徳川時代の創建といわれる」
と書かれています。

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灯篭は平成8年の寄進です。

境内に入るともう一つの手水盤があり、「寛政九丁巳」と刻まれていました。
寛政九年は西暦1797年になります。


拝殿には「金環殿」の神額が架かっています。
月読命(ツクヨミノミコト)は月の神で、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟神、須佐之男命
(スサノオノミコト)の兄神になります。
伊弉諾命(イザナギノミコト)が伊弉冉命(イザナミノミコト)の許から逃げ帰って禊をした時に
右の目から生まれたとされています。
天照大神の命で保食神のもとを訪れた時、保食神が口から出した食物で饗したことを怒り、
剣で刺し殺してしまいます。
天照大神はこれを怒って会うことを拒み、日と月とが離れて住むことになったため、それ以来
昼と夜が分れたとされています。
「金環殿」の由来についてはどこにも説明がありませんが、金環日食の時、太陽が月の後ろに
隠れて見える「金環」から来たのでしょうか?


流造の本殿は重厚な造りです。

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本殿は木柵で囲まれていて良く見えませんが、脇障子には何かの物語を題材にした彫刻が
施されています。


神社の裏手に細い道があり、30メートルほど進むと「天神様」がありました。
鳥居の下には自然石をくり抜いた手水石が置かれています。


小さなお堂の中には菅原道真公の木像がありました。
風雨に晒されて、彩色はすっかり剥げ落ちています。
月輪神社に戻って、本殿裏にある石祠を見てみます。

「寛保四甲子」の紀年銘のある祠。
「■嶋大明神」と刻まれていますが、■の部分がどうしても読めません。
「下総町石造物目録」(下総歴史民俗資料館編)を見ると、どうやら淡島大明神のようです。
寛保四年は西暦1744年になります。

大きい方の祠には「元文四己未」と記され、小さい祠には「文化七■午」と記されています。
小さい祠には「疱」の文字が微かに読めますので、「疱瘡神」のようです。
元文四年は西暦1739年、文化七年は1810年になります。

境内にポツンと一つだけ離れて立つ石祠。
名前も年代も分かりません。


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神社の周りは鬱蒼とした森で、境内にはあまり陽が入らないため、一面に苔が生えています。
まるで緑の絨毯のようで、歩くのが憚られます。


「下総町史 近世編史料集」に収録されている、文久三年の「高村延寿院寺柄書上書」の
中に「月輪神社」の名前がチラリと出てきます。
「鎮守満月輪菩薩宮壱ヶ所 本社弐尺四方 拝殿九尺弐間 天満宮壱ヶ所」
との記述です。
明治三年に廃寺となった真言宗の「延寿院」はこの月輪神社の別当寺であったようです。
「延寿院」は「月輪神社」の傍にあったとのことですが、今ではそれらしき痕跡はありません。
前回の「勝光寺」の現状を見ると、ここ高地区にはお寺は無くなってしまいました。
150メートルほど離れた場所に、数基の石仏とお堂がありましたので、立寄ってみます。

お堂の右側に三基の月待塔が並んでいます。


一番道路側にある、「明和元■申」と刻まれた「十三夜月待塔」。
明和元年は西暦1764年になります。
宝冠の形から「虚空蔵菩薩」だと思いましたが、背中に子供の顔のようなものがあります。
補修跡かとも思いましたが、何となく左右に十七夜と十九夜の文字があるように思えます。
再度訪れた時に、風化が進んでいますが、両手で赤子を抱いていることに気付きました。
背中の顔も補修跡ではありません。
陽光の角度だったのでしょう、十七夜、十九夜の文字も読めました。
「子安観音」でした。

延享三年(1746)の十九夜待ちの月待塔。
十九夜の守り本尊の「如意輪観音」が彫られています。

二十三夜と刻まれた月待塔。
隣にある十九夜塔と同じ延享三年のもので、風化が進んでいてはっきりとは分かりませんが
「勢至菩薩」が彫られているようです。
十九夜塔や二十二夜塔には、守り本尊の「如意輪観音」が彫られていることが多いのですが、
二十三夜塔に守り本尊の「勢至菩薩」が彫られることは珍しいようです。

奥にある「青面金剛」。
年代等は読めませんでしたが、像形ははっきりしています。
六臂像で、それぞれの手に法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラを持ち、邪鬼を踏みつけて、
台座に三猿を配しています。
「下総町石造物目録」には、この「庚申塔」が元文五年のものと記載されていました。
元文五年の干支は庚申、西暦1740年になります。

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お堂は左右に仕切られています。
右側には厨子があり、扉が閉まっています。
左は隙間からチラリと合掌する赤子が見えますので、「子安堂」かも知れません。

子安堂の横、道が交差する角に「地蔵菩薩」が立っています。
「念仏供養」「享保」と読めるような気がします。

「地蔵菩薩」の左隣には、「奉侍二十三夜尊」と刻まれた「勢至菩薩」の月待塔像があります。
「■永三■午」と読めますが、寛永、宝永、安永、嘉永等の「永」の付く年号の中で、三年の
の干支が■午となるのは安永三年(1774)のみです。

右側は奉誦塔です。
「奉誦普門品千部供養塔」「文化十癸酉天十一月吉日」と刻まれています。
文化十年は西暦1813年になります。

ここは「台の十字路」と呼ばれているそうで、地元の方たちに大切に守られているようです。
地区からお寺は消えてしまいましたが、この石仏や「月輪神社」がいつまでも地域の平穏を
護ってくれることでしょう。

※ 「月輪神社」 成田市高681
「高」は明治二十二年(1889)に町村制の施行により高岡村字高となるまでは「高」村で、
井上氏が治める高岡藩領でした。
昭和30年になって、昭和の大合併により「下総町高」となり、平成18年の平成の大合併で
「成田市高」となりました。

まずはこの景色です。
ここには「勝光寺」というお寺があったはずです。
どう見てもこれは廃寺跡の光景です。
「下総町史 通史近世編」(平成6年)には、この「勝光寺」が次のように紹介されています。
「興隆山と号し、龍安寺末。本尊は地蔵大士(地蔵菩薩の異名)。明治時代の社寺明細帳
によれば、龍安寺五世の田村正和尚が、正保三年(一六四六)に創立したとある。宝永二年
の村差出帳によれば、二反二畝一六歩の寺地を持ち、境内に地蔵堂がある旨記されている。」
また、「香取郡誌」にはその他寺院として一行のみの記載があります。
「郡誌」が編さんされた大正十年(1921)はもちろん、「町史」が編さんされた平成6年の時点
では「勝光寺」はこの場所にあったはずですから、その後の20年あまりの間にこんな景色に
なってしまうとは、一体どんな事情があったのでしょう?
ゼンリン地図で確認すると、ここには「高青年館」と記載され、「勝光寺」の名前はありません。
昨年11月時点の千葉県宗教法人一覧表には「勝光寺」が記載されていますので、廃寺と
なったわけではなさそうです。
何の表示もありませんが、境内跡にある「高青年館」が本堂を兼ねているのでしょうか?
それにしても寂しい景色です。


境内入口の「馬頭観世音」。
昭和13年の紀年銘がありますが、文字だけの馬頭観音は、信仰というより愛馬の供養の
ために建てられることが多いようです。


境内の真ん中に笹に囲まれた梅の古木があり、寒風の中、小さな花をつけています。
境内の一角に数基の石仏が立っています

一番左にある「享保十四己酉」と刻まれた石仏。
頭部が補修され、両手も欠損があるため、自信はありませんが地蔵菩薩だと思います。
享保十四年は西暦1729年になります。

隣の「十九夜如意輪観世音」と刻まれた月待塔。
紀年銘は読み取れませんが、後日「下総町石造物目録」(平成18年・下総歴史民俗館編)
にこの月待塔が掲載されているのを見つけました。
「正徳五乙未天十一月十九日高村同行善女五十四人敬白」と刻まれているようです。
正徳五年は西暦1715年になりますから、300年前のものですね。

一つおいて「元禄十三 奉誦十九夜供養」と刻まれた如意輪観音の月待塔。
元禄十三年は西暦1700年になります。

月待塔に挟まれた墓石には「明治三庚午」と刻まれています。
右から二番目は明治三十年の戦没者の慰霊碑。
右端は明治二十六年の墓石。


「下総町史」にあった「地蔵堂」がこれでしょうか?
中を覗くと、どうやらこれは大師堂のようです。

大師堂は左右に仕切られ、左側に大師像が安置され、右側には厨子が置かれています。
厨子の扉がほんの少し開いていて、朱色の仏像の一部がわずかに見えています。

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扉の隙間が狭く、暗いため肉眼ではほとんど中が見えません。
フラッシュをたいて画像を確認すると、女形で表情も穏やかな仏像のようです。
弁才天のようにも思えますが、琵琶を持っていませんし、赤い弁才天は記憶にありません。
全身が赤く、蓮の華の上に結跏趺坐で座る姿は愛染明王(あいぜんみょうおう)を思わせ
ますが、忿怒相であるはずがあまりにも表情が柔和で、どうも違うようです。


一段高いところにもう一つお堂があります。
中にはシンプルなお姿の観音様が安置され、三峰神社のお札がたくさん置かれています。


観音堂の横にある唐屋根の祠は三峰社でしょうか?
隣の小さな祠は、屋根を見ると流造になっています。


境内からは遠く筑波山が望めます。
昔の村人は、境内からみえる筑波山に何を想ったのでしょうか?

境内の横を登る急坂に、取り残されたような小さな墓地がありました。
かつてはここも「勝光寺」の境内だったのでしょう。


急坂を登って行くと、崖っぷちにへばりつくように「妙見神社」があります。
この神社については「香取郡誌」、「神社名鑑」共に記載は無く、由緒は分かりません。
「妙見」は房総に広く根を張った千葉一族にとって、その結束の根幹を成す信仰でした。
一族が勢力下に置いた村々にはほぼ例外なく「妙見社(妙見神社)」が勧請されています。
ご祭神は「妙見菩薩」です。


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神明鳥居や狛犬は新しく、平成8年に寄進されたものです。
足許は崖、道の反対側は山林で、陽の当らない場所にある昭和13年寄進の手水盤の
水は凍りついていました。

鞘堂の中に流造のお堂があります。

小さな亀が置かれています。
「妙見菩薩」は北方を守護する神で、北極星を指すと言われています。
亀と蛇が合体した「玄武(げんぶ)」という想像上の動物に乗る、甲冑を着けた武将の姿が
一般的ですので、そこからきたものでしょう。

見えているのは名木から神崎方面でしょうか。
先ほどの赤い仏像がどうしても気になるので、戻ってもう一度見ることにします。


柔和相の馬頭観音を「赤観音」と呼ぶことがありますが、一面二臂像は珍しく、もしこれが
「赤観音」であれば、このような形で放置されることは無いと思われます。
明王の中の唯一の柔和相である「孔雀明王」の可能性は捨てきれません。
台座部分にあるべき孔雀が欠損したと考えると像形としては一番近いのですが、光背の
部分が孔雀の羽根というより牡丹や椿のようで疑問が残ります。
修復の結果手に持つ琵琶が欠落した「弁才天」か?、とも考えましたが、赤い弁才天は
聞いたことがありません。
像形から考えて「愛染明王」の可能性は無いようです。
結局、結論は出せませんが、疑問は疑問のままで良いのかもしれないと思いました。


たまたま通りかかった地元の方にお聞きしたところ、だいぶ前から境内はこんな状態で、今後
本堂が再建されることは無いだろうとのことでした。
たくさんあった石碑・石仏もいつの間にか無くなったそうです。
さて、後日お堂の中の仏像がどうしても気にかかって、手持ちの資料や図書館の仏像図鑑類
を片っ端からめくってみました。
新たな候補に「金剛愛菩薩」と「愛楽金剛女」が加わりました。
「愛染明王」と同体とされ、朱色の像形と柔和相は不自然ではありません。
ただ、ほとんど知られていない菩薩なので、ここにあることがあまりに不自然に思えます。
そして、孔雀に乗らずに蓮の華と孔雀の羽根を持つ二臂の孔雀明王像を見つけました。
「白蓮または青蓮に座し、やや斜めに結跏趺坐する」とあり、「諸願成就・厄除・息災延命・
雨乞いの神として信仰されている」とありました。
これなら間違いないような気がします。
もう一度「勝光寺」を訪ねて確認することにしました。
前回より扉の開きが少し大きいようです。


やや斜めを向いて青蓮上に座っています。
両手に補修の痕がありますので、元の形は蓮と孔雀の羽根を持っていたかも知れません。

宝冠の上に孔雀が乗っているように見えるような気もしてきました。
素人判断は危険なので結論は出せませんが、自分の中では「孔雀明王」と推測しました。
全く的外れかも知れませんが、もし「孔雀明王像」だとしたら、ちょっとした発見です。

何度来ても寂しい景色です。
前述の「下総町石造物目録」によれば、この境内には享保九年の「宝篋印塔」や安永三年
の月待塔などがあったはずなのですが・・・。
このまま370年の歴史が消えてしまうのでしょうか?

※ 「興隆山勝光寺」(跡) 成田市高741