
「公津の杜駅」は平成6年の開業。
平成9年に「関東の駅百選」の第一次の選定駅となっています。
(選定理由=「ホームに透明な幕を使用した美術館を思わせるモダンなデザインの駅」)
この「関東の駅百選」には、「成田空港駅(JR・京成)」も選定されています。
近隣では印西市の北総鉄道の2駅(印西牧の原駅・印旛日本医大駅)が選定されています。
「このニュータウンの玄関駅、公津の杜駅は、ベージュ色の砂岩の外壁と、アーチ状の
ガラス製カーテンウォールを用いた、近代的デザインの鉄骨造3階建て駅舎を持って
います。2階はテナント、1階部分がコンコース、半地下部分が相対式ホームという、
電車通過音を抑えたつくりになっています。」
(「京成電鉄のひみつ」 2013年 PHP研究所 P68)


広々とした駅前広場。
車は手前のロータリーで回転させられますので、駅に横付けすることはできません。
駅前広場を囲むのは、ユアエルムとイトーヨーカ堂、しゃれた駅前交番、マンション群と建築中
の「国際医療福祉大学成田キャンパス」。

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駅のコンコースに置かれている「陽琴」と題されたモニュメント。


コンコースは吹き抜けになっていて、2階・3階はオフィスになっています。
LCCの春秋航空日本をはじめ数社の事務所が入居しています。


春秋航空のオフィスの内部がチラリと見えています。
大きな旅客機の模型が置かれています。


1番線は上野方面、2番線は成田空港方面です。
上野方向は都営地下鉄と京浜急行に乗り入れ、三崎口まで一気に行くこともできます。
空港方面は成田から空港第2ビル・成田空港へ向かう空港線と東成田を経て芝山千代田へ
向かう芝山鉄道線に分かれます。
最近は特急も止まるようになりました。
忘れられた駅、「成田空港駅」(東成田) ☜ ここをクリック
日本一短い私鉄、芝山鉄道(芝山千代田) ☜ ここをクリック

2番線ホームから1番線ホームを見ています。


2番線に成田空港行きの特急電車が入ってきました。
平日の日中、空港方面に向かう人は少ないようです。


続いて1番線に上野行きの特急電車が入ってきました。
浅草や銀座、京浜急行方面へは、青砥で乗り換えです。



ホームは半地下になっています。
駅を出るとしばらくはマンション群に見下ろされる形で走ります。



成田駅方面は駅舎の下をくぐって行きます。
ちょっと走ると成田日赤病院のすぐ下を通過します。

ホームを見下ろすマンション。


上下線が出た後は、ホームに人影がほとんど見えなくなります。
ホームと改札口・コンコースの間はエレベーターも使えます。

駅の周りを逆時計回りで少し歩いてみましょう。
駅前にはまだ空き地が…




線路沿いの道からはホームがけっこう下に見えます。

跨線橋の上から、「宗吾参道駅」方面を見ています。
トンネルと車両基地~宗吾参道駅 ☜ ここをクリック

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公津公園は良く整備された公園で、市民の憩いの場となっています。
水辺の散策路やアスレチック、パークゴルフ、野球やサッカーができるグランドなどがあります。
私の記憶では、ここは昔、遊水池のような窪地だったと思います。



大型マンションが何棟も続き、大作台街区公園を挟んだ反対側には戸建ての住宅が並びます。

「公津の杜小学校」。
平成18年に急激な宅地化の進行で児童数が増加し、手狭になった平成小学校から分離
して開校されました。
平成26年4月時点で26学級、児童数769名となっています。


公津の杜小学校に向かいあって建つ「もりんぴあこうづ」。
平成25年7月の開所です。
公民館機能を持つコミュニティセンター、子育て支援センター、図書館分館等があります。
多目的ホールや市民ギャラリー、工芸スタジオ等では頻繁にイベントが開催されています。

こちらは平成2年開校の「平成小学校」。
公津の杜駅からの距離は「公津の杜小学校」とほぼ同じで、現在の児童数は523名、
20学級となっています。

「平成小学校」の校庭の先に見えるのは、「成田市場」です。
正式名称は「成田市公設地方卸売市場」。
昭和49年に青果市場として開場し、現在は水産、食肉、業務用食材も扱っていて、北総の
食料品流通の拠点としての役割を担っています。

駅前に戻ってきました。
この通りは成田ニュータウンの中心部に向かっています。


駅前に建築中の「国際医療福祉大学成田キャンパス」は竣工に向けて急ピッチで工事が
進んでいます。
平成7年の設立で、栃木県大田原市に本部を置き、全国6ヶ所にキャンパスを展開する
日本初の医療福祉を専門とする総合大学です。
2016年4月の開校予定で、看護学部と保険医療学部が設けられます。



1日平均の乗降人数は平成26年に1万人を超えました。
駅前からは宗吾霊堂行きのバスをはじめとする路線バス・コミュニティバスが発着します。
東京への深夜バスやディズニーランドへの路線も通り、今も続く宅地造成や大学の開校など、
駅の周辺はまだまだめまぐるしく変化して行きそうです。

※ 「公津の杜駅」 成田市公津の杜4-11-2

東和泉の山あいにある「養泉寺」は、曹洞宗のお寺。
山号は「松厳山」で、ご本尊は「十一面観音菩薩」です。
「十一面観音菩薩」は、仏教の尊像の中でも最初に現れた多面像です。
十一の顔を四方に向けているので、人々の苦しみをくまなく見つめて救いの手を差しのべる
とされることから、多くの信仰を集めています。

小さいながら、しっかりとした木組みの山門です。

山門横に「不許葷酒入山門」と刻まれた石柱が立っています。
これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は
入山することを許さないという意味です。
寺台の「永興寺」や伊能の「長興院」など、曹洞宗のお寺の山門前には必ずと言って良い
ほど立っているもので、戒壇石とも呼ばれます。



結界石に並んで立つこの石碑は、大正五年(1916)に建立したものですが、文字の彫りが
浅かったのか、碑文は読めなくなっています。

「普門品供羪塔」とだけ刻まれたこの石碑は、読誦の巻数も記されていません。
白カビに覆われて、建立年代は分かりません。
供羪の文字は時々見かけますが、かなり古いものであると思われます。

大正三年に編さんされた「千葉縣印旛郡史」には、「養泉寺」の創建について、
「養泉寺は村の西方字細目にあり地坪千八百八十九坪曹洞宗厳山と號す上総國望陀郡
九谷村眞如寺の末派なり文祿元年二月大須賀英胤創立す村史による仝書には尚當寺の古
き靈牌に英胤以下の法名及年月を左の通り記されあることを載せたり」
(以下3名の法名等の記述)
※ アンダーライン部分は曹洞宗松厳山の間違いだと思われます。
と記載されています。
創建された文禄元年は西暦1592年で、420年以上前になります。
さらに、「成田市史近代編史料集一」中の「下總國下埴生郡東和泉村地誌記」には、
「養泉寺ハ村ノ西方字細田ニアリ、地坪千百八拾九坪、曹洞宗、松厳山ト号ス。上総國望陀
郡丸谷村真如寺ノ末派ナリ。文禄元年二月大須賀英胤ノ創立ナリ。」 (P258)
と記載されています。
※「印旛郡史」と「東和泉村地誌記」間の地坪の違いは、実感として「地誌記」の1,189坪が近いと思われます。
※「九谷村」「丸谷村」は共に確認できません。「真如寺」は望陀郡真里谷村(現・木更津市真里谷)にあります。

境内の左手にあるお堂には、六体のお地蔵様と11体の大師像が並んでいます。
お地蔵さまは「六地蔵」だと思われますが、何れも首に補修跡が見られます。
これも南羽鳥の「観音寺」の項で書いた「廃仏毀釈」の爪跡でしょうか?
廃仏毀釈の爪跡(?)~南羽鳥の「観音寺」 ☜ ここをクリック

境内の一角に立つ2体の石仏。
こちらのお地蔵さまの首も着け直した跡があります。

文政四年(1821)のお地蔵様を載せた「法華経千部供養塔」。
普通見かける念仏供養塔の「奉読誦普門品○巻供養塔」という表現とは異なり、「法華経」
と刻まれています。
これは、膨大な法華経を読誦したということではなく、法華経の中の「観音経=普門品」を
読誦したという意味だと思います。

本堂に向かって左側に、名前が分からないお堂があります。

外の景色が反射して、お堂の中はとても見にくくなっていますが、何とか正面に架かって
いる額を写すことができました。
「神通力」と書かれています。
「神通力」とはもともと仏教用語で、菩薩が衆生を救済するための、自由で妨げるものの
ないはたらきを指します。

小さな木札が架かっています。
このお堂の名前が書かれているのかも知れませんが、墨が消えて文字は読めません。
ガラス戸に「鎭防火燭」と書かれた護符が貼ってありました。
木札にも何となく同じ文字が書かれているような気がします。
曹洞宗のお寺ではこの「鎭防火燭」と「立春大吉」の護符を見かけることを思い出しました。

「境内佛堂一宇あり即
一、観音堂 本尊観世音にして由緒不詳建物間口二間三尺奥行一間三尺あり寺院明細帳」
このように、「千葉縣印旛郡史」には「養泉寺」内に「観音堂」があると書かれています。
現地では分かりませんでしたが、大きさもほぼ一致しますので、これは「観音堂」であろうと
推測しました。
本項を出稿する直前に、次のような文章があることに気付きました。
「本堂に向かって左側に子安堂がある。中に五〇枚ほどの小絵馬があるが、いずれも女性
が子安観音に祈っている図であり、子授けの観音様として周辺の女性に信仰されていること
がわかる。」 (「成田の史跡散歩」P237)
確かに女性の絵がたくさん架かっているのが見えましたので、このお堂は今では「子安堂」と
呼ばれている、「印旛郡史」にある「観音堂」だと納得できました。

本堂と「観音堂」との間に「大師堂」があり、28体の石像と1体の木像が並んでいます。
ここも多くの大師像の首に補修の跡があります。
着け直されたお顔は、どれも現代風の顔つきに見えます。

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「寺院明細帳には文禄元年二月創立とあり堂宇間口九間三尺奥行七間三尺境内一千百
八十九坪官有地第四種あり住職は森田眞海にして檀徒百五十九人を有す庫裡間口九間
奥行四間三尺小屋間口二間奥行三間東司間口六尺奥行一間三尺總門間口二間奥行
四間三尺大門間口一間三尺奥行一間にして管轄廰まで十里五町とす」
「千葉縣印旛郡史」にはこのような記述も見えます。
この本堂には記されている本堂の大きさはありません。
何回か建て直されているはずですが、壁の一部が土壁になっています。


この部分は他の部分より古いのでしょうか?


本堂の裏にはかつての礎石だったような石の並びがあります。
この石を辿ると、「印旛郡史」に収録されている「寺院明細帳」の本堂の大きさになりそうです。

寺額の「養泉寺」の文字も消えかかっています。

裏山には墓地に続く急坂があります。




所々に平らな場所があり、そこは何とか墓地の体裁が残っていますが、その他は山腹の
斜面にへばりつくように墓石が並び、竹林の浸食によって傾いたり倒されたりしています。
辿りつける場所の墓石には、寛文、享保、宝暦、寛政、文化等の年号が記されています。

とても登れないような場所に「卵塔」が並んでいます。
「卵塔」は無縫塔(むほうとう)とも呼ばれ、主に僧侶の墓石として使われます。
歴代の住職のお墓なのでしょうか、もうお参りする人は無さそうです。

「天正九年に東和泉城が落城したとき、城主の成毛八郎教胤の娘は、家老の桜井庄兵衛家
に嫁いでいたため難を逃れたが、父や家臣らの菩提を弔うため、文禄元年(一五九二)二月
に養泉寺を建て、化国周鷹和尚をもって開山したという。」 (「成田の史跡散歩」P237)
この「養泉寺」の開山に関する説は、先に記した「印旛郡史」や「東和泉村地誌記」の記述と
異なりますが、「印旛郡史」には次のような記述もあります。
「東和泉村字細田にあり曹洞宗にして松厳山と號す眞如寺末なり十一面観音を本尊とす
由緒不詳なれども文禄元壬辰歳櫻井庄兵衛化國周鷹大和尚創建とも社寺公文書綴村役場蔵」
これは村役場に所蔵されていた「社寺公文書綴」にある記述で、文禄元年(1592)に創建
されたとしているところは同じですが、創建した人物名が「大須賀英胤」とは異なっています。
さらに、「成田市史 中世近世編」の「近世成田市域の寺院」表には、「養泉寺」の開山の項に
「化国周鷹」、開基の項に「大須賀英胤」と記しています。
また、創建年次を文禄元年としつつ、備考欄に「一説に天正9年」とも記しています。
当時滑川城主であった織田左京太夫が助崎城を攻めた時、その先兵により東和泉城が強襲
され、抵抗むなしく天正九年(1581)十二月の大晦日に城主自ら城に火を放って落城したこと
は史実として知られています。
大晦日の落城であれば、同年に寺を建立することは不可能ですから、文禄元年の創建時に、
姫の色々な想いから落城の年に創建したということにしたのかも知れません。
創建時の史料に混乱がありますが、単に大須賀英胤の創建とするより、物語としては討死
した城主や家臣の菩提を城主の娘が弔うという方が、個人的には好みです。
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420年の時を経て東和泉に佇む「養泉寺」は、物音一つしない山あいのお寺です。


※ 「松厳山養泉寺」 成田市東和泉719

「大鷲神社」の鳥居は、ちょっと変形ですが、木製でシンプルな八幡鳥居です。

急な石段の途中に踊り場があり、手水盤や庚申塔があります。

慶応元年(1865)と記された手水盤。



右側に立つ青面金剛像が刻まれた庚申塔。
天保二年(1831)のもので、踏みつけられている鬼や、下部に並ぶ見ザル・聞かザル・
言ワザルの3匹のサルもはっきりと分かる、保存状態の良い庚申塔です。


左側に立つ庚申塔も保存状態が大変良いものですが、台座の大部分が埋まっていて、
建立年代を正確には読み取れません。
何とか寛政五年(1793)と読むことができました。
こちらは金剛の足許の鶏もしっかり残っています。
これは庚申講が、ニワトリの声が聞こえる朝まで、徹夜で念仏等を唱えることからきた、
と言われています。

この踊り場に新しい祠が置かれていますが、台座にも何も書かれていません。
鰹木は3本、千木は垂直に切られていますので、男神が祀られているようです。

小さなお社は荒れ果てています。

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「成田市史」にはこの神社についての記述は見られません。
千葉県神社庁の「神社名鑑」中には、ご祭神が「天日鷲之命(アメノヒワシノミコト)」であること、
本殿は亜鉛板葺で0.5坪、境内は30坪であること、氏子は20戸であると記載されています。
天岩戸に入られてしまった天照大神を呼び出すため、岩戸の前で神々が踊っていると、奏でた
弦楽器の弦の先に鷲が止まったので、これを吉祥とした神々が楽器を奏でた神を「天日鷲命」
としたとされています。
「天日鷲命」は、一般に紡績や製紙の神様として知られていますが、「お酉様」としても知られ、
開運、殖産、商売繁盛の神様として信仰されています。


4基の祠が並んでいます。
右端の祠には「保食命(ウケモチノミコト)」と刻まれています。
「保食命」は食物の神とされ、同じ食物の神である。宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ=
古事記 )や倉稲魂命(ウカノミタマノミコト=日本書紀)と同一視されることがあります。
「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」(ウィキペディア「保食神」)
「月夜見尊」に殺された「保食神」の頭からは牛や馬が生まれ、体からは稲や麦、大豆、小豆、
粟などの穀物が生まれたことから、食物の神とされました。
さらに「頭から馬」が生まれたことから、「馬頭観音」とも同一視されることがあります。

境内の奥には荒れた雑木林が続いています。

眼下に広がる北羽鳥の田園風景。

狭く急な石段は、枯葉で覆われていて慎重に足を運ばないと滑り落ちそうです。


石段の下から見上げる「大鷲神社」の森。
最近の土砂崩れの痕が残っていて、何らかの手当てが必要な状況です。

大正三年の「千葉縣印旛郡史」に「大鷲神社」について一行だけ記載があるのを見つけました。
無格社であること、「天日鷲之命」が祭神であるとの記述の次に、
「延■元癸丑三月勧請」 (P754) とありました。(■は印字潰れ)
先に「延」のある年号は、平安時代初期の延暦から始まって、延喜・延長・延久・延応・延慶・
延文・延徳・延宝、江戸時代中期の延享と10回ありますが、それぞれの元年の干支が癸丑
(ミズノトウシ)であるのは延宝元年(1673)だけですので、「大鷲神社」は延宝元年に勧請
された、340年あまりの歴史を有している神社ということになります。
(※ はじめの文章で420年と書きました。計算ミスですので訂正します。)
小さなお社と、祠が4基並ぶだけの境内ですが、酷暑が続く中、ここだけは涼しい風が吹き
抜けていました。


※ 「大鷲神社」 成田市北羽鳥1721


「観音寺」の境内に向かう細道は切通しのように両側が土手になっています。
その道の途中に「一隅を照らそう」と記された石碑が建っています。
この言葉は最澄の「照于一隅此則国宝」という言葉から採った言葉ですが、私は昨年10月に
土屋の「薬王寺」を紹介した時に、この言葉について以下のように書いています。
伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」(さんげ
がくしょうしき)にある言葉で、「照于一隅此則国宝」(一隅を照らす、これすなわち国宝なり)が
一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照千一隅此則国宝」(一隅を守
り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。
最澄の時代の背景を考えると「照千一隅~」なのでしょうが、「照于一隅~」が長年人々の心
に響いてきた言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑には
于と彫られています。 (平成26年10月11日)
「照于か照千か・・・土屋の薬王寺」 ☜ ここをクリック
「于」と「千」。
字は良く似ていますが、意味は微妙に異なります。
この碑も「照于」説を採用しています。


境内の入口に並ぶ7基の石仏群。
一番左の石仏には元禄の文字が読めます。
隣は宝永、次は享保十七年(1732)、元禄■■寅年(元禄年間で干支に寅があるのは十一
年のみ=1698)、享保、延宝、右端は元禄十三年(1700)年と読めました。

萬延元年(1860)と記された「馬頭観音」。
「馬頭観音」は六観音の内の一尊で、八代明王の内の一尊にも数えられます。
観音としては珍しい忿怒の姿で、人々の無智や煩悩を排除し、諸悪を打ち破る菩薩です。
また「馬頭」という名前から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られ、さらにあらゆる畜生類
を救う観音ともされています。
この「馬頭観音」は一面六臂の形で、下部が損傷して補修されています。


「南羽鳥村字鍛冶内にあり天台宗にして安食町龍角寺末寺格四等なり本尊大日如来
木像一身は座像丈九寸厨子入惣金箔なり由緒伝得知山勸音寺は元龜元年二月の創立
にして亮盈法師の開基なり然るに天明三年に至り本堂其の他㤁皆焼失し再建の際
年月不詳大日如来を以て本尊とす明治元年四月十八世亮融與津智性院より當山に轉住
仝二十八年六月十六日遷化すこれより暫時は本寺兼務なりしが仝卅三年四月十二日
亮融徒弟十九世亮朝住職たりしが仝四十二年四月三日香取郡奈土正福寺に轉住に
つき廿世堯潤與津智住院より轉住せり」
「千葉縣印旛郡誌」(大正二年編さん)は「観音寺」に関してこのように記述しています。
これにより、
○ 天台宗のお寺で、山号は「得知山」であること
○ 亮盈(りょうえい)法師により元亀元年(1570)に創立されたこと
○ 天明三年(1783)に火災により堂宇が焼失したこと
○ 年代は不詳だが、堂宇の再建の時に「大日如来」を本尊としたこと
が分かります。
約450年の歴史があるお寺です。
なお、引用文の最終行に智住院(アンダーライン部分)とあるのは、智性院の間違いだと
思われます。
「智性院」は安食町の興津にある天台宗のお寺です。

本堂右側にある小さな大師堂。
大小2体の大師像が並んでいます。


大師堂の後ろ、境内の一角にある墓地。
元禄、延享、宝暦、天明などの年号が刻まれています。
この墓地の墓石には上部が四角錐になっている神道式の奥津城(おくつき)形のものが多い
ように感じます。
良く見かける如意輪観音や地蔵菩薩を刻んだ墓石は、ここには数基のみです。


境内の一角に大きな石碑が2基並んでいます。
風化と白カビで碑文の判読が難しいのですが、顕彰碑のようなものであることは分かります。
どちらか1基は「成田の史跡散歩」にある「鳥居先生頌徳之碑」ではないかと思います。
『本堂に向かって右側に、題額に「鳥居先生頌徳之碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。
高岡藩侍講福田錦斎らに学び、千葉師範学校卒業後、各地で教員をした鳥居忠亮の記念碑
である。大正八年(一九一九)の建立になる。』 (P169)

境内の外れに古い墓石が並んでいる一角がありました。
こちらは全て石仏が刻まれたものです。


さて、これまで各地で多くの墓石や石仏を紹介してきましたが、よく見かける頭部が欠損した
石仏については単に“頭部が欠けている”とだけ表現してきました。
「観音寺」の石仏にも頭部が欠損したものが多く見られますので、ここでこれまで避けてきた
「廃仏毀釈」について書いておこうと思います。
「廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは「仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、
僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、
「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を
廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。」
(ウィキペディア 廃仏毀損)
徳川幕府はその施政の柱の一つに仏教を置き、「寺請制度」によって人々を地域に縛り
つけ、支配してきました。
一方で神道も人々の中に生き続け、いわゆる「神仏習合」が信仰の形として受け入れられ、
お寺の境内に神社が祀られていたり、神社に石仏が置かれていたりしました。
“神様、仏様”と何もかもごちゃまぜにして、お祈り・お願いする、いわば“おおらかな信仰”
が我が国には根付いていました。
『しかし、幕末になると諸外国からの開国要求が激しさを増し、尊皇攘夷論が生まれる。
そうした中、天皇を中心とした中央集権国家の樹立を理想とした江戸末期の国学者・
平田篤胤の思想が盛り上がりを見せる。日本は「神の国」であるという国学思想が武士
らに浸透し、神道と仏教を切り分ける思想へと発展していく。』
「一八六八年(慶応四年)、新政府によって出された神仏判然令(神仏分離令)が決定的
となり、いよいよ寺院や仏像、寺宝に対する破壊行為が全国に広がった。僧侶は還俗
させられ、中には兵士になる者も多かった。廃仏毀釈の強弱は、藩主ら権力者の一存で
決まることも多く、破壊行為が実施されなかった地域もある。」
(「寺院消滅」 鵜飼秀徳 著 日経BP社 2015年 P183)
明治政府は「神仏分離令」は発しましたが、廃仏毀釈については明確な指示があって
行われたものではありません。
江戸時代のお寺が、幕府によって様々な特権を与えられ、寺請制度下で人々を縛り、
管理してきたことへの反発が、過激な仏教攻撃に向かったと考えられます。
明治新政府は、それまで徳川家によって長い間続いてきた統治体制を崩壊させ、天皇
を中心とした中央集権を確立するために、この過激な運動を利用し、黙認したのです。
この廃仏毀釈に関わる一連の大事件は歴史の闇に隠され、正面からこれを検証したり
評価することは憚られてきました。
その評価をここですることは差し控えますが、各地のお寺の石仏が、首をはねられたり、
あるいは打ち壊されているのは、この廃仏毀釈運動によってもたらされたことで、(中に
は自然にそうなったものもあるかも知れませんが)その傷跡が各地に残っているのです。

大竹の「勧行院」 首の無い石仏と間に合わせの首を付けた石仏

野毛平の「神光寺」 とりあえず首を付け直してポツンと立つ・・・

「新橋観音堂」 打ち落とされたまま、今日まで・・・

芦田の証明寺跡 セメントで作られた頭が重そうなお地蔵様

「観音寺」にはイスラム圏で良く見る、顔を削られた石仏も・・・
痛ましくて掲載するに堪えない写真も多くあります。
多くの貴重な文化財が失われ、多くのお寺が廃寺となり、首の無い石仏やセメントで間に
合わせの頭を乗せた石仏が虚しく立ちつくしている姿を見るのは悲しいことです。
「廃仏毀釈」は長い間タブー視されてきましたが、これを正面から見つめて、(誰がやったか
を追求するのではなく)人々の信仰心が壊れて行く過程をきちんと検証しておく必要はある
と私は思います。
本来日本人が持っていたおおらかな信仰心が戻ってくることはあるのでしょうか?


本堂のガラス戸には、天台宗の宗紋である三諦章(さんたいしょう)が描かれています。
ペンキの剥げかかった屋根にも同じ三諦章が光っていました。



「観音寺」入口の斜面には青面金剛像を刻んだ「庚申塔」があります。
「観音寺の入口左側にも庚申塔がある。邪鬼を踏まえ、髑髏つきの宝冠をかぶった一面六臂
の青面金剛像で、六臂では鉾や剣・輪宝のほかに左下の手でショケラ(裸婦)をつかんでいる。
造立は安永六年(一七七七)九月である。」 (「成田の史跡散歩」 P169)
「ショケラ」とは三尸虫(さんしちゅう)のことです(異説あり)。
三尸(さんし)とは、人の体内にいていろいろな悪さをする考えられていた虫で、60日に一度
巡ってくる干支の庚申(こうしん)の日に、眠っている人間の体から抜け出して天帝にその人の
日常の罪状を告げ口するため、その人の寿命が縮められてしまうと言い伝えられてきました。
そのために庚申の夜は眠らずに過ごそうと大勢で集まり、飲み食いしながら夜明かしをする
風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と言うようになりました。
全国各地で庚申講が作られ、3年間に18回の庚申講が続いた記念に庚申塔や庚申塚を建て
ることが多くなりました。
「青面金剛」は、庚申講の本尊として知られ、この像を庚申塔に刻むことが多く見られます。

「庚申塔」の反対側に立つ「普門品一萬巻」と書かれた供養塔。


なお、「印旛郡誌」には「観音寺」に関して次のような記述もあります。
「寺帳並村誌伝區の北隅字谷田舊鍛冶内に勸音寺あり天台宗得山勸音寺と稱す安食町大字
龍角寺なる天竺山龍角寺の末派にして文禄三年申午釋了尊の開基創建する所明暦年間盗
あり僧を殺し寺に火す嘉永元年戌申權大僧都律者法印海應之を再建す現在に至るまで三十
余世なり」
これは寺伝や村の言い伝えとでも言うのでしょうか、大変物騒な話も書かれていますが、これに
よると「観音寺」の創建は文禄三年(1594)ということになり、「千葉縣印旛郡誌」の記述より
約30年遅いことになります。
「成田市史 中世・近世編」には、創建は元亀元年、開基は亮盈として、「千葉縣印旛郡誌」と
同一の記述がなされています。(火災についても天明三年としています。)
一方、「成田市史近代編史料集一」に収録されている「南羽鳥村誌」(明治十八年)には、文禄
三年に釋了尊により創建され、明暦年間に強盗殺人があり火災により焼失したことなど、寺伝
と同様の記述が見えます。
どちらが正しいのかは分かりませんが、創建や開基、事件などに諸説あるのは、それなりの
歴史があるということなのでしょう。


※ 「得知山観音寺」 成田市南羽鳥1614

「普門寺」は真言宗豊山派のお寺です。
「 寺 貮ヶ所
真言宗 東勝寺 村中字堀尻
同 普門寺 村中字堂谷ツ 」
明治七年(1874)に作成された「下総國印旛郡下方村一村限調帳」(成田市史近代編
史料集一に収録)には、村内のお寺についての記述はこの二行しかありません。

寺への小道は田んぼの畦道のようです。
路肩に小さなお地蔵様。
年代は分かりません。

真っ直ぐに伸びた石段の先に、朱色の屋根の本堂が見えています。

手水盤には良く読めませんが宝暦十■■未年と記されています。
宝暦年間の二桁の年で干支の後ろが未の年は宝暦十三年(1763)になります。



寺額は色褪せて読みにくい状態ですが、「鷺田山」と読めるような気がします。
このお寺に関する資料はほとんど見つかりません。
「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院表」にも、「東勝寺(宗吾霊堂)」の末寺
であることの他は、山号、創建年代、開山、本尊のいずれも空欄になっています。
わずかに、所有する土地に関して
「屋敷五畝一八歩・中田一反三畝八歩・下田七反三畝三歩」 (P787)
との記述があるだけです。
真言豊山派のホームページで検索しても名前が出てきません。
同じ真言宗豊山派で、「普門寺」の寺号を持つお寺をネットで調べると、近県では埼玉県の
八潮市にある「普門寺」(本尊・不動明王)や、茨城県つくば市の「普門寺」(本尊・阿弥陀如来)
の他、いくつかのお寺が見つかりましたが、成田市の「普門寺」はヒットしません。
このお寺の「普門」という名前は、「普門品(ふもんぼん)=観音経」に因んでいると思われます
ので、宗派に関係なく「普門寺」という寺名のお寺のご本尊は観音菩薩が多いようです。
やっと見つけたのが、大正二年(1913)年の「千葉縣印旛郡誌」にある以下の文章です。
「下方村字冲畑にあり眞言宗にして東勝寺末なり十一面勸世音を本尊とする由緒不詳堂宇
間口三間奥行三間境内百七十三坪官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒二十九人
を有し管轄廰まで六里二十町なり寺院明細帳」
これによりご本尊は「十一面観音」であることが分かりました。



境内左手のお堂には祠と如意輪観音が祀られています。
向かって右の如意輪観音はコケに覆われて表情も良く分かりません。
左の祠には嘉永七年(1854)と記されています。
嘉永七年は「日米和親条約」が締結された年です。
前年にはペリーの黒船が浦賀沖に来航し、当年5月には京都の大火で御所が全焼し、7月
には伊賀上野大地震、12月には東海大地震・南海大地震。豊予海峡大地震が立て続けに
発生するなど、世の中が騒然としていた頃です。

「普門品千部供養塔」。
台座の文字が「享保」と読めるような気がしますが・・・。




本堂の脇に並ぶ古い墓石群は草に覆われています。
約20基の墓石には、元禄、享保、延享、宝暦などの年号が見えます。



本堂にはまだ「賀正」と書かれたポスターが貼られたままです。
普段は訪れる人も無いのか、さほど広くない境内ですが、何かがらんとした雰囲気です。


境内右手にある大師堂。
大師像には「南無大師遍照金剛」と書かれた襷が掛けられています。
右手にあるお堂と同様に、堂内にはたくさんの人形が奉納されていますが、これにはなにか
謂れがあるのでしょうか。



裏にはたくさんの墓石が並んでいます。
その多くにお地蔵さまや如来像が彫られていて、延宝、元禄、正徳、享保、宝暦などの
年号を読むことができます。



石段の下から見上げる「普門寺」は、いかにもお寺らしい風情です。
鮮やかな朱色の屋根が、木々の間から見え隠れしています。
創立の年代は不詳ですが、境内にある年代の判読できる墓石で一番古い延宝年間
(1673~81)にはこのお寺はあったと考えて良いと思います。
少なくとも350年程度の歴史はあるということになりますね。


※ 「普門寺」 成田市下方1043

「勧行院」は天台宗のお寺で、山号は「天王山」。
天文年間に祐海により創建されました。
栄町の龍角寺の末寺でした。

坂田ヶ池公園の駐車場脇の急坂を登った先に「勧行院」はあります。

境内の真ん中に建つこの宝塔には宝暦七年(1757)と読める文字があります。

境内は閑散とした雰囲気です。
写真で見るよりずっと荒れた感じのお寺で、これは本堂ではなく、使われなくなった集会所
といった感じです。
建物の中も荒れています。


「勧行院は本尊が「薬師如来」で山号を天王山と号する。天文年間(一五三二~一五五五)
祐海によって創建されたが、当時は草庵程度のもので、宝暦五年(一七五五)覚栄のときに
六間・五間の本堂ができた。」 (「成田市史 中世近世編 P784)
今はすっかり寂れていますが、480年近い歴史あるお寺です。
このお堂は比較的新しいもののようです。
大きさも上記の「成田市史」にある本堂より小さいので、本堂が何らかの理由で消失した後、
ここにご本尊の「薬師如来像」を納めた「薬師堂」だと推測しました。
なお、成田市の指定文化財のリストには、このお寺の懸仏が載っています。
これもこのお堂の中に収められているのでしょうか。

なぜか境内に一つだけある墓石。
明治11年と記されています。


大師堂の中に風化でお顔が平面的になった大師像が座っています。
背後の壁だけ新しく合板で補修されています。

大師堂の裏、境内の外れに小さな祠が二つ。
実は、この場所には昨年8月に訪れていますが、ここが「勧行院」だとは気付きませんでした。
近くにある「円光寺」を訪ねる途中で道を間違えてしまい、この場所に出てしまったのです。
↓ その時の記事です。 (平成26年8月24日)
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ここだと思って登った坂の上にはポツンとお堂が建っていました。
「天王山」と掲額があるだけで、何の手掛かりもありません。

境内に一つだけ建っている宝塔には宝暦七年(1757年)と刻まれています。


細い山道の反対側に小さな墓地がありました。
墓石を見ると、寛文二年(1662年)、貞享四年(1687年)、正徳三年(1713年)、
明和六年(1769年)等の文字が読めました。
荒れ果てていますが、さぞかし歴史のある場所なのでしょう。
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前回私が訪ねて以来、誰かがここに来たことはあったのでしょうか?
目に入る景色は何一つ変わっていないような気がします。

この先は人が通ることは無いようです。
枯葉が積もり、歩くと靴が沈みます。
道の反対側に小さな墓地が点在しています。

墓地は5~6メートル置きに3ヶ所に分かれています(もともとはつながっていたものが竹やぶ
に浸食されて離れてしまったのかもしれません)。
一番奥の墓地には5基の墓石が並んでいます。
手前の墓石には、宝暦十一年(1761)、宝暦十三年(1763)、明和六年(1769)、安永四年
(1775)に亡くなった方の戒名が並んで刻まれています。

隣の2体のお地蔵さまは、頭が欠けています。
「歸空」と刻まれている左のお地蔵様は元文三年(1738)のものです。
右のお地蔵さまは元文五年(1740)のもので、こちらは頭を付け直されています。




真ん中の墓地の奥には寛政十二年(1800)と宝暦九年(1759)の墓石が並んでいます。
寛政十二年の墓石は倒れてしまっています。

手前の墓地の入口には3基の小さな石仏。
左側の石仏は寛文八年(1668)のもので、真ん中の石仏は正徳年間(1711~15)のもの、
右端の石仏は風化で崩れていて分かりません。


「大師子吼林釋清潭塔」と刻まれたこの石塔の側面には、「昭和四十八年七月当山兼住
大乘寺髙融建立」と記されています。
近隣の天台宗のお寺で「大乘寺」を探すと、栄町にありました。
「現住職ハ小見尠馨ニシテ最モ宗教哲学ニ通ジ、又詩文ヲ以テ其名江湖ニ知ラル。」
「成田市史近代編史料集」に収録の「八生村誌」にはこうありました。
「八生村誌」は大正三年の編さんですので、その頃は尠馨という住職がいたわけです。
この石碑によれば、昭和48年時点での住職(髙融)は兼任となっていることが分かるので、
大正三年からの60年間の間にこの寺は無住となってしまったわけです。
ここにはたくさんの石仏がありますが、多くは竹やぶにのみ込まれてしまいました。







「村ノ北方字竹内ニ在リ、地坪百弐拾七坪。天台宗天王山ト号ス。本郡龍角寺村天竺山
龍角寺ノ末派ニシテ、開基ノ年号干支及開祖ノ名詳ナラス。境内ニ大師堂アリ。」
(「成田市史近代編史料集」に収録の「下総國下埴生郡大竹村誌」より)
「大竹字竹ノ内ニアリ、薬王寺ト稱ス。天台宗ニシテ中本寺龍角寺門徒タリ。本尊ヲ薬師
如来トス。開山ハ天文二十五年四月法名權律師祐海和尚ナリ。」
(「成田市史近代編史料集」に収録の「八生村誌」より)
「勧行院」の項に「薬王寺」の名前が出てきました。
寺名が変わったという記録は見当たりませんので、記載ミスでしょうか?
天台宗の「薬王寺」は土屋にあり、他に成田地区で同名のお寺はありません。
照于か照千か・・・土屋の薬王寺 ☜ ここをクリック
※ 追 加 (8月5日21:00) ※
「千葉縣印旛郡誌 後編」(大正二年 千葉縣印旛郡役所編)に次の文章を見つけました。
(句読点が一切無い文章で、読みにくいのですが原文のまま引用します。)
「大竹村字竹ノ内にあり藥王寺と稱す天台宗にして中本寺龍角寺の門徒たり本尊を藥師如来
とす開山は天文廿五年四月法名權律師祐海和尚なり二世道香禪定門勸行房は祐海和尚の
父なり院號は即ち勸行房の名より出でたりと云ふ六三部都法大阿闍梨法印覺榮勸行院の
草庵に來り寺院築造に志し遂に間口六間奥行五間の道場を創立せしめたり時に寶暦五年
二月二十八日より寛政二年再建立堂宇間口六間奥行四間半境内百二十七坪民有地第一種
あり住職は小見妙馨にして檀徒十八人管轄廰まで九里三十二町とす八坂神社の神霊と稱
する鏡あり天台宗にて最貴き一字金輸佛長如來にして本宗の秘佛と稱へられ唯一のものな
るに今勸行院に数百年蔵せらるとは大に疑ふ所なりとて本山に照會研究中に屬すと云ふ
寺院明細帳村誌」 (P834~5)
(※ アンダーライン部分は「一字金輪仏頂」の間違いと思われます。)
これで八生村誌の記述にある「薬王寺」は間違いではなく、「勧行院」は院号で、「薬王寺」が
寺号だったことが判明しました。
「一字金輪仏頂」如来の件はその後どうなったのでしょうか?
どこにもこの件についての記述が見つかりませんので、残念ながら伝承通りのものでは
なかったようですね。

荒れているとは言え、廃寺になることも無く今日まで480年の時を紡いで来た「勧行院」。
ガランとした境内には、他のお寺の境内に並んでいるような石塔や石仏、板碑などは(1基を
除いて)見当たりません。
お堂が残っているとは言え、墓地も荒れ果て、新しい墓石も無いことから、檀家も離れて
しまったことが分かります。
これはこれまで見てきた多くのお寺に共通する状況です。
一部のお寺を除いて多くのお寺は無住となり、荒れ果てて地域とのつながりを失っています。
過疎化や少子高齢化、公園墓地や葬祭場の普及などが、地域の文化的中心であったお寺
から人々を遠ざけてしまいました。
また1年後にここに来ても、景色は変わらずにあるでしょうか?
これも時の流れで仕方無いことなのかも知れませんが、とても寂しい気がします。

※ 「天王山勧行院」 成田市大竹759