大清水の星神社は、延喜年間に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されましたが、空港事業の
関係で平成5年にこの地(成田市大清水209-11)に遷座されました。


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現在地への遷座前には、駒井野613番地に天御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)を御祭神
とし、本殿・石宮・拝殿六坪、境内一四三坪、氏子六〇戸を擁する神社として記録されています。
「天御中主之命」については、「日本古代神祇事典」(平成12年)に次のように紹介されています。
【 古事記では序文の末尾と本文冒頭に記された神。冒頭部分は「天地のはじめの時、高天原に
成りませる神の名は、天之御中主神、次に高音産栄日神、次に・・・」と書き出されている天地初現
の神である。】 (P69)
社殿の裏に大小18基の石造物が並んでいます。



この石造物群の中に、以前から気になっていた石仏(青面金剛)が3基ありますので紹介します。

天保十四年(1843)の青面金剛像

宝暦八年(1758)の青面金剛像

享保十九年(1734)の青面金剛像
① 天保十四年(1843)の青面金剛像

左側面に、「天保十四卯年 六月吉日」と刻まれています。
天保十四年は西暦1843年、約180年前の建立です。
第十二代将軍德川家慶が老中水野忠邦を重用して行ってきた「天保の改革」が、旗本領を幕府
直轄領へ編入する政策の失敗をきっかけに失速し、幕政の迷走が目立ちはじめたころです。

三眼六臂の立像で、左上腕には法輪、中腕には弓、下腕にはショケラ、右上腕には錫杖、中腕
には剣、下腕には三叉戟を持っています。

怒髪の中にドクロがありますが、風化のため何やらかわいらしい表情になっています。


この青面金剛像にはちょっと変った特徴が見られます。
何だか分かりますか?
そう、心なしか俯いているように見えるのです。
そして、本来憤怒相であるべきお顔が、微笑んでいるように見えるのです。

光線の加減にもよるのですが、俯き加減に微笑んでいるように見えませんか?
これまでたくさんの青面金剛像を見てきましたが、これほど柔らかい表情の像はありません。

ショケラは合掌しています

足下には踏みつけられた鬼

三猿は風化が進んでいます

② 宝暦八年(1758)の青面金剛像

天保十四年の金剛像の隣に立っているこの金剛像は二つに折られて、顔を削られています。
おそらく明治初期の廃仏毀釈によって受けた損傷でしょう。
宝暦八年は西暦1758年、約260年前の建立です。
この時の将軍は第八代德川家重です。
病気による言語不明瞭だったため評価の低い将軍でしたが、大岡忠光や田沼意次などを重用
し、彼らを通して堅実な政治を行ったとの評価もあります。


「宝暦八寅天 三月吉日」の文字が読めます。
260年以上前の建立にしては隣の天保十四年の金剛像に比べて風化は進んでいません。
材質の問題でしょうか?
体の正面で合掌し、左上腕に法輪、下腕に弓、右上腕に剣、下腕に矢と三叉を握っています。
台座には「駒井野村講中」と刻まれています。
この金剛像建立の時代の駒井野村は佐倉藩に属していました。
明治二十二年(1889)の町村制施行により下埴生郡遠山村駒井野となり、明治三十年(1897)
に印旛郡遠山村駒井野、昭和29年(1954)の昭和の大合併で成田市に編入されました。


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ノミでも使ったのでしょうか、顔の部分がザックリと削られています。
顎の下、まるで首をはねるように、二つに折られています。
成田近郊での廃仏毀釈運動はさほど激しいものではなかったようですが、この青面金剛像の
破壊者には仏教に対する強い憎悪があったのでしょうか。
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よく見ると、金剛の左右には向い合った鳥が描かれています。
一見、鳩のように見えますが、これは鶏(ニワトリ)で、徹夜で行われる講の終了を告げる鳴き声
を象徴して刻まれることがあります。
また、「申」が明けた翌日は「酉(トリ)」であることを表しているとも言われています。
③ 享保十九年(1734)の青面金剛像

この金剛像は珍しい四臂像です。
中央で合掌し、右上腕に戟を持っています。
左上腕が何を持っていたのかはわかりません。
掌を開いているように見えますが、風化のためか持ち物が見えません。

三猿はしっかり見えています。


憤怒相ですが、丸顔の愛嬌のあるお顔です。
口を少し開けて、歯が見えているようです。
牙が見える石仏は珍しくもありませんが、普通に歯並びが見える石仏は見た記憶がありません。

四臂の青面金剛像は珍しく、私の記憶では野毛平の東陽寺跡に立っている二基のうちの一基
のみです(まだ見つけていない像があるとは思いますが)。

(野毛平・東陽寺跡の四臂青面金剛像 2015年5月撮影)
この像は四臂像で、左手上腕に月輪、下腕に錫杖を持ち、右手上腕に金剛杵を、下腕に
羂索を持っています。

刻まれている文字は、向かって右側に「●庚申待信心本願三十三人」「●結衆二十人」、左側に
「●享保十九甲寅三月」と読めます。
「結衆」の部分は「繕衆」または「結兵」とも読めるような気がしますが、ここは仏教的な意味で「ある
ことを目的とした集まり」である「結衆」だと思います。
庚申講のメンバーが33名、そのまわりに20人の同調者がいたと想像してみました。

享保十九年は西暦1734年、約290年前の建立です。
将軍は第八代德川吉宗。 享保の改革と呼ばれる諸改革を行い、特に幕府の財政再建を実現
させた名君です。


約1100年前の延喜年間(901~923)に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されたこの神社の
本殿には、千葉氏の家紋である「九曜紋」が掲げられています。

空港事業のために移転する前の駒井野には二つの星神社がありました。
昭和62年に発行された「千葉県神社名鑑」には、
星神社 駒井野88 <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
本殿 1坪 境内 100坪 <氏子> 60戸
星神社 駒井野613 <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
本殿・石宮・拝殿 6坪 境内 143坪 <氏子) 60戸
と記載されています。
また、大正2年に発行された「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、
星神社 駒井野村字高芝 間口一尺五寸 奥行一尺二寸
境内 一二〇坪 氏子 五〇戸
星神社 駒井野村字舘曲輪 間口五尺五寸 奥行四尺
境内 一四〇坪 氏子 五〇戸
と記載されています。
両社とも、現在のさくらの山公園とビューホテル、空港通りに囲まれたあたりにありました。
駒井野613(舘曲輪)の移転とともに駒井野88(高芝)も現在地に合祀されたものと思われます。
本殿裏の石造物群は、その時に両社の境内や近隣の路端などから集めたのでしょう。
今回とりあげた3基の青面金剛像は、一見何の変哲も無いありふれた金剛像に見えますが、
よく見るとなかなか興味深い、個性的な金剛像でした。


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以前にも何回か解説をしてきましたが、あらためて庚申信仰についておさらいをします。
青面金剛は「庚申塔」に刻まれます。
青面金剛は、中国の道教思想と日本の民間信仰である庚申信仰の融合によって生まれた尊格
で、庚申講の本尊とされ、三尸(さんし)を押さえる存在とされています。
「足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ
(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に
巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。 彩色される時は、
その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。」
(ウィキペディア 青面金剛)
人間の体内には、三尸(さんし)という三匹の虫が棲すすみついていて、庚申(かのえさる)の日
に寝ている宿主の体内から抜け出して、天帝にその人の悪行を言いつけるとされています。
天帝は悪行を聞くと、罰として寿命を縮めてしまうので、庚申の夜は眠らずに酒食をとりながら
過ごして、三尸虫が体内から出ることができないようにするのがよい、とされています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願い、天帝にご注進をする機会を
狙っています。
台座に三猿を刻むのは、庚申の申(さる)からきたものといわれ、三尸虫の告げ口を封じる意味
で、もし悪行を見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって天帝に伝えないでもらいたいと
いう願いが込められています。
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(左から下尸、中尸、上尸) (ウィキペディア)
上尸(じょうし)は頭部に、中尸(ちゅうし)は腹部に、下尸(げし)は足に棲んでいます。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、「庚申講」を三年(十八回)続けると
「庚申塔」を建てることができます。
「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。
眠らないように酒を飲み、歌い踊る庚申講の集会は、徐々に宗教的行事から離れた娯楽の
側面を強くしてきました。
月待講にも共通した傾向がみられますが、日常生活の苦しみから解放されたい庶民の数少ない
楽しみだったのでしょう。
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( 星神社 成田市大清水209-11 )
県道44号線(成田小見川鹿島港線)の赤池入口バス停(多古循環バス)のある交差点に、
興味深い石塔が立っています。

(多古町十余三355)
この道標は多古町十余三と成田市前林との境界(多古町側)に立っています。
電柱やコンビニの看板に隠れて、注意して見ないとその存在に気付くことはありません。

車の往来の多い交差点に立っていますが、説明板もなく、注意を引くものが何もありません。
天保三年(1832)の造立で、何の保全もされていない野ざらし状態で黒ずんでいるものの、
約190年間の風雪に耐えてきたわりには風化は少なく、文字もその大半が読める状態です。

篆額に「花山院」、その下に「西國三十三所供羪」の文字が太く深く刻まれています。
これは、西国三十三ヵ所の霊場を巡拝した記念に建てられた巡拝供養塔です。
西国三十三所は、現在の京都府、大阪府、奈良県、和歌山県、兵庫県、滋賀県、岐阜県に点在
する33ヶ所の観音霊場の総称です。
観音菩薩が衆生を救うために33の姿に変化すると言われ、33ヶ所の観音菩薩に参拝すること
によって現世での罪が許され極楽に往生できるという信仰から生まれた巡礼の道です。
江戸時代にはこの観音巡礼が庶民にも広まり、「巡礼講」を組んでの巡礼が盛んに行われました。
右には「とつかう」、左には「なりた」と刻まれ、一番下には「前林村」と刻まれています。

前林村は明治二十二年に町村制施行で本大須賀村に、昭和17年に昭栄村、昭和30年には
昭和の大合併で大栄町となり、平成18年に平成の大合併によって成田市前林となりました。
でも、いまこの巡拝供養塔が立っているところは成田市と多古町の境界線ですが、多古町側です。

この巡拝塔は当初立っていた場所から移動されたのでしょうか?
まず、現在立っている多古町の町史を調べてみました。
【もう一つの道標(高さ一三九センチ)は、成田、小見川県道から国道五十一号線の桜田
へ向い、県道が交差する十字路に立っている。
その刻字は、「(表)花山院西国三十三所供□□とつ□なり□(伏字部分埋没)。(左)此方
すこしゆき右さくらかとり左いのふかうさき。(右)此方ひしたかもしばやまいゝささ。(裏)
みくら山くらまつさきたこ中むら八日市場。旹天保三龍集壬辰(一八三二)霜月詰旦。】
(「多古町史 上巻」昭和60年 P785から786)
と、「多古町の道標」として記述されています。
成田市側からこの巡拝塔の記述があるか、を調べました。
成田市史の編纂は平成の大合併前ですから当然記述はありませんが、「成田市史研究第33号」
(平成21年3月)の「大栄地区の石造物」(島田七夫氏の寄稿)にも見当たりません。
合併前の大栄町史に記述がないか見ましたが、「大栄町史 民俗編」(平成10年)の423ページ
から438ページにある大栄町内の石造物リスト(全595件)に当該石造物の名前はありません。
さらに「大栄町史」中の「大栄町の旧街道を往く」等の記述を追ってみましたが、それらしき記述に
出会うことはありませんでした。
唯一大栄町としての記述は、「大栄町の歴史散歩」(久保木良著 平成6年)にありました。
【県道、成田・小見川・鹿島港線を多古町にむかう。バス停の道祖神をすぎますと右手に
高さ一七五センチの立派な道標が建てられています。
この道標の左側面に「此方 すこしゆき 右 さはら かとり 左 いのふ かうさき」とあり
ます。「此方 すこしゆき右・左」ということばを刻んだ道標なんぞは聞いたことも見たことも
なかったものです。他に例があるだろうか、珍品中の珍品といえるでしょう。 (中略) この
三十三所供養と刻まれた文字の下、左右に「とっこう」「なりた」とあります。さらにその下
には「前林村」と刻んでありますから、村として建立したことがわかります。】 (P11~12)
ここでは前林村が造立したと明記されています。
「前林村」と刻まれていることからこう記述されたのでしょうが、立っている場所が記述当時の
旧大栄町前林なのか、多古町なのかについての考察はなく、大栄町の石造物であることに
疑問を持たずに記述されているようです。

調べた限りでは、少なくとも近年においては、この巡拝塔が多古町に立っていること、また立って
いたことに疑問はないようです。
ただ、昔の「村」の境界線がどうであったか、今の場所はかつては前林村だったのではないか?
あるいは、この巡拝塔が別の場所(前林村)に立っていたのではないか?
などの疑問は少なからず残っています。
篆額にある「花山院」とは何でしょう?

前述の「大栄町の歴史散歩」に次のような記述があります。
【 正面の上部に「花山院」と横に陽刻してあります。花山院は下総町に鎮座する
小御門神社の御祭神の称号ですが、小御門神社は明治の創建ですから、神社も建立
されていない祠の時代なのですが、悲しい歴史を秘めた藤原文貞公の徳をたたえたもの
なのでしょうか。】(P11~12)
小御門神社に祀られている藤原師賢は、和歌や管弦に長じていて、花山院師賢と号していた
ことを指しているようですが、この巡拝供養碑との関連は見つかりません。
造立当時の庶民が、藤原師賢のことや彼が花山院を号していたことなどを知っていたでしょうか?
「花山院」は現在の京都御苑内にあった邸宅のことですが、これもまた庶民の知るところではない
ような気がします。
元弘二年(1332)に流刑の地の名古屋(現成田市)で没した師賢は、翌元弘三年に後醍醐天皇
からその功績を称えられて「文貞公」の諡を賜りましたが、これらのことを五百年後の村民の中で
知っていた「文人」のような人がいたのでしょうか?
それとも西国三十三ヵ所巡りの途中で花山院を訪れ、感銘を受けたのでしょうか?
「小御門神社」は明治15年に創建された、比較的新しい神社です。
そして、ご祭神を実在の人物である藤原師賢(ふじわらのもろかた)とする珍しい神社です。
師賢は正安三年(1301年)生れで、大納言として後醍醐天皇に仕えていましたが、元弘元年
(1331年)に天皇と時の執権・北条高時とが対立して起った「元弘の乱」で敗れ、元弘二年五月
に遠くこの地に配流されて、十月に亡くなることになります。
元弘三年、楠木正成らの挙兵により鎌倉幕府が滅びると、天皇は師賢に太政大臣の官位と
「文貞公」の謚号(しごう-贈り名)を贈り、その忠義を称えました。
後に明治天皇がこの忠臣を称えて、国の守り神として「小御門神社」を創建し、「別格官弊社」に
列しました。


(小御門神社 平成26年8月 http://narita-kaze.jp/blog-entry-66.html ☜ ここをクリック
「西国三十三所」の由来には諸説ありますが、次のような説がもっとも知られているものです。
養老二年(718)に大和長谷寺の開基・徳道上人が病を得て亡くなった時、冥土の入口で閻魔
大王から「生前の罪業により地獄へ送られる者があまりにも多いが、三十三ヶ所の観音霊場を
巡ることによって罪滅ぼしが叶うので、巡礼によって人々を救うように」との託宣を受けて現世に
戻されました。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが世間の人々には受け
入れられずにやがて忘れ去られてしまいます。
それから約270年後、出家した花山天皇が紀州那智山での参籠中に、熊野権現が現われて
かつて徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するようにとの託宣を授けました。
その後徐々に三十三所霊場の巡礼は人々に広まっていきました。
花山天皇の追号は「花山院」で、徳道上人を三十三所巡礼の始祖とし、花山院を中興とする
説がもっとも知られた説となっています(これにも諸説あります)。
この篆額にある「花山院」とは、このような説に基づいて巡拝碑に刻まれたのでしょう。
藤原師賢(花山院)は花山天皇の生きた時代より330年以上後の人物であり、篆額に刻まれた
人物ではないようです。

「とつかう」は取香のことで、現在の成田空港周辺の地域です。
「なりた」は取香から右に下った方向です。
向って右の側面を見てみます。



「此方 ひした かも」と刻まれ、その下の右に「いゝさゝ」、左に「志ばやま」と刻まれています。
「ひした」は菱田(現・成田市)、「かも」は加茂(現・芝山町)、「いゝさゝ」は飯笹(現・多古町)、
「志ばやま」は芝山(現・芝山町)のことで、勿論、当時はそれぞれが村でした。
※ 菱田(現・成田市)とあるのは、菱田(現・芝山町)の誤りでした。 「ひょうたんぶらぶら日記」
というブログ( https://hy08.seesaa.net/ )の「瓢ろく」様からご指摘をいただきました。
4月20日 「瓢ろく」様、ありがとうございました。
次に背面を見てみます。


中央に「旹天保三龍集壬辰霜月詰日」、その右に「みくら 山くら まつさき」、左に「たこ 中むら
八日市場」と刻まれています。
旹(とき)と龍集(りゅうしゅう)は年号などを表すときによく使われる言葉です。
天保三年は西暦1832年、第十一代将軍德川家斉の治世です
「みくら」は三倉村(現在の多古町三倉地区)、「山くら」は現在の香取市山倉(旧山田町)、
「まつさき」は現在の多古町松崎のことです。

下部には造立に関わった人々の名前が刻まれています。.
右から、「 飯笹 武兵衛 同 茂右ェ門 同 長兵衛 同 利左ェ門 小堀 宗兵衛 取香 太兵衛
大木 太右ェ門 同 藤四郎 同 重兵衛 」とあり、その下段にも人名がありますが、こちらは風化
から読み取ることができません。



前林村の造立なのに前林村の名前が見えないのが不思議です。
風化で読めない下段に、前林村の面々の名前があるのでしょうか。
次に左側面を見てみます。

「此方 すこしゆき 右 さくら かとり 左 いのふ かうさき」 と刻まれています。
「此方 すこしゆき」とはおもしろい表現ですね。




二度目の確認のための訪問で、疑問が湧いてきました。
多古町史では「此方 すこしゆき 右 さくら かとり ・・・」と紹介されていて、私も何の疑問もなく
「さくら かとり」と読んでいたのですが、佐倉と香取では方角的に全く逆なのです。
仮に、「すこしゆき」分岐点があったとして、佐倉への道が続いていたなら、ここは「左 いのふ
かうさき さくら」でなければ不自然です。
もしかして、と目を凝らして見ると、「く」と読める字は「わ」の崩し字に見えてきました。
「さくら」ではなく、「さわら」なら矛盾はありません。
ここは「さわら(佐原)」が正解でしょう。 久保木良著の「大栄町の歴史散歩」が正解です。
「いのふ」は現在の成田市伊能、「かうさき」は成田市神崎のことです。

左側面から多古町方面を見ています」。

県道を香取市側から成田市取香方面を見ています。

多古方面から大栄方向を見ています。


電柱とコンビニの看板柱に囲まれ、くすんだ何の特徴もない石柱ですが、近づいて刻まれた文字
を読むと、そこには昔の人々の往来が見えてきます。
とっかう、いゝさゝ、ひした、かも、志ばやま、たこ、みくら、山くら、中むら、八日市場、かうさき、
いのふ、さわら、かとり・・・近隣の村々の名前がたくさん刻まれています。
今はなんの変哲も無い交差点ですが、昔は賑やかな交通の要衝だったようです。
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聖観音のように見えますが、実は「馬頭観音」です。
今回は、「気になる石仏シリーズ」の馬頭観音編で、馬に乗った観音様「馬乗り馬頭観音」です。
「馬乗り馬頭観音」は、千葉県の東総地区と上総の木更津周辺地域にのみ見られると言っても
過言ではない、とても珍しい石仏です。(他には、長野県、群馬県をはじめ、9都県に合計30基
ほどが確認されているだけのようです。)



今回は、以前に取材で何回か訪れたことがある、旧山田町(現香取市)の「観音寺」と「円満寺」、
旧小見川町(現香取市)の「血当寺」の3基を紹介します。
馬頭観音については「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 幻冬舎)に次のように解説されています。
【 サンスクリット語でハヤグリーヴァといい。文字どおり「馬の頭を持つもの」という意味。天馬
のように縦横無尽に駆け巡り、困難を乗り越えて衆生を救済する。】 (P119)
馬頭観音は、観音像に見られる穏やかな表情ではなく、怒りの表情をしているため、「馬頭明王」
と呼ばれることもあります。
また「馬頭」という名前から、民間の信仰では馬の守護仏として祀られることが多く、さらには馬
に限らずあらゆる畜生類を救うとされて、「六観音」では畜生道を化益する観音とされています。
近世になってから、牛に代って馬が人の移動や荷物運びの手段として使われることが多くなる
とともに、馬の事故死も増加してきました。
慣習として地域の役馬を供養するために建てられた馬頭観音塔もあれば、愛馬の死を悲しんで
建立された馬頭観音塔もあります。
急坂の途中にある石塔は、きっと後者のものでしょう。


旧成田街道酒々井町大崎の急坂途中にある馬頭観音


旧水戸街道押畑の山中に建つ馬頭觀音(享和三年)


旧松崎街道観音堂の急坂途中にある観音堂の馬頭観音
これらは、愛馬を失った悲しみと、後悔の気持ちがこもった供養塔なのでしょう。
まずは、2016年5月に紹介したことがある、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」です。

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【 神生、向油田にある。本尊に馬頭観世音菩薩をまつる。下総七牧の一つ、油田牧の内にあり、
馬観音として信仰されてきた。】 (「山田町史」昭和61年 P1345)

本堂に向かって左手に「馬乗り馬頭觀音」があります。


立っている二基は刻まれた文字が読めますが、倒れている二基は枯れ草や土に埋もれ、風化も
進んでいて、「馬頭観世音」の文字のみがかろうじて読めるのみです。

この石仏は風化が余り見られず、刻まれた文字も読むことができます。
観音像の左側には「安永六丁酉」、右側には「六月吉日」と刻まれ、左下に「小見川 弥兵衛
苗谷」、右下に「宮ノ内栄■ 新田」と刻まれています。
安永六年は西暦1777年、243年も前のものです。

右手に三叉、左手に未開の蓮を持ち、馬上に趺坐しています。
普通、頭上には馬の頭があるのですが、この像は宝冠を被っていて、顔つきはとても柔和です。
馬に乗っていなければ「観音菩薩」と見分けがつかないでしょう。



本堂の扉に空いた小さな窓から、御前立ちの「木像馬乗り馬頭観音」が見えますが、馬上で趺坐
する姿は、後ろの厨子内に安置されている本尊と同じ像容と言われています。
そして、この石造馬乗り馬頭観音像も、ほぼ同じ像容に見えます。


隣の倒れかけた小さな石仏には、「元治元甲子十二月」「内山村」と刻まれています。
馬頭観音が馬に跨がっている跨座型です。
元治元年は西暦1864年、徳川家茂の時代で、新撰組の池田屋事件や禁門の変など、幕末の
騒然とした世情でした。


馬頭観音に似合わぬ柔和な表情や、観音を支える馬の表情など、他の馬乗り馬頭観音に比して
丁寧な彫りに思えます(風化が進んでいないせいもあるでしょうが)。
次は鳩山の円満寺の馬乗り馬頭観音です。
「円満寺」については、「山田町史」の以下のように紹介されています。
【 鳩山字イリグチにあり、本尊は阿弥陀如来をまつる。浄土宗に属しているが、現在の堂舎を
解体し境内に青年館を建築して、本尊仏をここに安置している。】 (P1346)


小さな子安観音堂の脇に6基の石仏が無造作に並んでいます。

左奥の1基が「馬乗り馬頭観音」です。

「安永五申七月吉日」「鳩山村中」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」の1年前のものです。
馬に跨がる跨座型で、馬の足が長くスッキリとした印象です。

一面二臂で根本馬口印を結んでいます。
ややうつむき加減の表情は、眉がつり上げた忿怒相にも見え、柔和な表情にも見えます。

頭上には宝冠のようなものを被っていますが、もともとは馬頭が彫ってあったものが風化して
しまったのかもしれません。

馬の表情もしっかり彫ってある印象です。


風化とともにウメノキゴケがつき、劣化が進んでいます。
如意輪観音像や青面金剛像など、境内を整理したときに寄せ集めたのでしょうが、もう少し
保護が欲しいところです。
次は、血当寺の「馬乗り馬頭観音」です。
【 東光院血当寺 小見川町下小川に在り、境内七三二・六平方メートル、天台宗東叡山派で
薬師如来を本尊とする。永禄十年(一五六七)成毛宗正父宗親戦死の地に英霊を弔うために
東光院血当寺と称した。間口六間奥行四間半であったが腐朽し、現今これを改造した。】
(「小見川町史通史編」 平成3年 P1146~7)

参道の左側にずらりと石仏が並んでいます。
手前から二基目が「馬乗り馬頭観音」です。

残念ながら全体の3分の1程度がコンクリーで固められ、像容の全体を見ることができません。
跨座型の一面二臂で、頭上に宝冠を被っています。

「廿三□待」(□は夜の異体字)、「安永五丙申吉日」、「小川村」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、円満寺の馬乗り馬頭観音と同じ年、観音寺の1年前です。
旧山田町・旧小見川町近辺の馬乗り馬頭観音は、安永年間に集中的に建立されたようです。


4年の間にウメノキゴケの範囲は広がっています。
古い写真を見ると、この像の馬には四本の足が刻まれている、とても珍しい像容でした。
コンクリートを剥がしての復元は難しいでしょうが、せめて、円満寺の馬乗り馬頭観音同様、
ちょっとした保護活動が欲しいものです。


昨年、一昨年と続いた台風の影響でしょうか、堂宇は傾き、「崩壊危険」の立て札がありました。
東日本大震災以来、どこも文化財の復旧・保護が進んでいないようです。
「観音寺」 香取市神生1473-1
「円満寺」 香取市鳩山502-1
「血当寺」 香取市下小川1584
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さて、この景色は何でしょう?
竜台にある「百庚申」です。
竜台は成田市の西北、栄町と利根川に接する地域で、昭和29年の昭和の大合併で成田市に
編入となるまでは豊住村竜台でした。
昭和43年に茨城県の河内とを結ぶ長豊橋が完成するまでは「竜台の渡し」がありました。

(おはつ稲荷 2016年4月撮影)
百庚申へは、国道408号線が長豊橋に向かって大きくカーブするあたりを左に入るのですが、
入り口は道なのか民家の庭なのか、分かりにくい所です。
でも、ちょっと奥をのぞくと、「おはつ稲荷」が見えます。

「おはつ稲荷」の先を進むと、畑の一角のようなところに、「百庚申」が現われます。
庚申塔には大きく分けて「文字塔」と「青面金剛像塔」があり、「文字塔」には「庚申塔」と刻まれた
ものと「青面金剛」と刻まれたものがあります。
青面金剛像は六臂三眼の忿怒相が標準形ですが、二臂や四臂像もあり、持物にもいろいろな
バリエーションがあります。

ここでは文字塔が大部分で、像塔は15基だけです。
成田市内には百庚申と呼ばれている場所が4ヶ所ありますが(宝田・後、宝田・秋谷津、西和泉、
竜台)、いずれも文字塔のほうが多く見られます(※)。
(※)2016年4月の「成田の百庚申」の記事 クリック ☞ 成田の百庚申

奥の方に非常に珍しい庚申塔があります。

嘉永七年(1854)十月の文字塔ですが、台座部分に「三猿」が彫られています。
しかも、その三猿は、一般的に見られる「見ざる・聞かざる・言わざる」の形ではなく、なんと、
お神楽を踊っているのです。

分かりますか?

いずれも烏帽子をかぶり、右の猿は扇を持ち、真ん中の猿は御幣を担いで舞い、左の猿は太鼓
をたたいて囃しています。
この庚申塔が建立された嘉永七年(1854)は、ペリーが再来して江戸湾に入ったり(2月)、日米
和親条約が結ばれ(3月)、下田・箱館の開港(5月)など、幕府の外交上大きな変革がありました。
4月には京都大火により御所が焼失、また、前年の小田原地震に続き、伊賀・上野地震(6月)が
発生するなど、世の中は暗澹とした雰囲気に包まれていました。 (※)
そんな時に、この庚申塔が建立されたことにはとても興味を惹かれます。
(※) さらに11月には安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震と大地震が連続したため、
11月末に「嘉永」は「安政」へと改元されました。
(当時は改元は1月まで遡って行われていたため、東海・南海地震は安政の地震と呼ばれます)

【三尸の虫を酒肴でもてなし、踊るほど酔わせて天帝に報告させないようにすると、洒落をきか
したものであろうか。この像を眺めていると、当時の農民の心の豊かさを感じることであろう。】
(「成田の史跡散歩」 P148)
不安を吹き飛ばそうとして、このような三猿を彫ったのか、それとも世情とは関係なく、庚申講が
今や宗教行事ではなく、仲間内の単なる「飲み会」になっていることを皮肉たっぷりに表したのか、
あるいは、実は真剣に三尸虫が天帝に告げ口することを封じるために(※)、猿を楽しげに舞い
踊らせることで気をそらそうというのか、・・・ 今になっては知る由もありません。
いずれにしろ、江戸時代の庶民のユーモアのセンスはなかなかのものです。
(※)三尸虫については以前にも何回か記していますので、「追記」に簡単に説明しておきます。


烏帽子をかぶり扇を持って踊る猿


烏帽子をかぶり御幣を担いで踊る猿


烏帽子をかぶり太鼓をたたいて囃す猿

この文字塔の左右には二基の像塔が並んでいます。

向かって右の塔には、「安政六○未十二月」と刻まれています。
安政六年は西暦1859年、中央の庚申塔の5年後に建立されました。
前年(安政五年)には「安政の大獄」翌年の安政七年には「桜田門外の変」と、政治の混迷が
加速し、後に幕末と言われる時代の入口に差しかかっていました。

向かって左の塔には、「大木徳兵衛」「○政六年○未十二月」と刻まれています。
元号の後ろが「政」で六年が未年なのは安政六年(己未)と文政六年(癸未・1823)ですが、
右側の青面金剛像との照合や、ここの百庚申の庚申塔の大部分が安政年間のものである
ことから、安政六年の建立と考えてよいと思われます。

整然と並んだ庚申塔は大小の文字塔と像塔が混在し、文字塔85基、像塔15基の構成です。
(一基だけ、如意輪観音像が紛れ込んでいます)

「青面金剛尊」の文字が深く刻まれたこの庚申塔は寛政十二年(1800)のもので、百基の
中で一番古い、220年前のものです。


この庚申塔が完成したとき、庚申講の人達はどんな顔をしてお神楽を踊る猿を見たのでしょうか。
ニヤリと笑っていたに違いありません。
お神楽を踊る猿の構図を考えた庶民と、それを咎めなかったであろう村役人(?)の、おおらかで
伸びやかな精神は、騒然とした時代の大波を横目に、しぶとく、たくましく生きていたのでしょう。
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今回は気になる”石仏シリーズ”青面金剛編の2回目です。
庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛
像」が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」 (瓜生 中 著 平成16年
幻冬舎)では次のように解説しています。
『 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病
神として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を
身につけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られ
るのは六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになった
のは、中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。』 (P224)
押畑の山中、「押畑稲荷神社」を越えた先の三叉路に、三基の「青面金剛像」が建っています。
普段は人の通らないような道ですが、昔はそれなりに主要な道だったようです。

真っ直ぐに進む道は昔は先まで続いていたようですが、今はすぐに竹林に阻まれてしまいます。
左に折れる道(子安神社が見えています)は、延々と山中に伸びています。

直進する道端に建つ「青面金剛」像。
延宝八年(1680)の建立です。
この年は、四代将軍家綱が亡くなり、綱吉が五代将軍になりました。
延宝五年から六年にかけて、三陸や房総沖などで立て続けに大地震があり、世相は落ち着が
ない空気に包まれていました。
「下総國香取郡埴生庄押畑村惣結願造立迄敬白」と刻まれたこの像は、340年も前のものとは
思えないほど造形がしっかり残っています。

太い眉の迫力ある忿怒相です。

*****

三眼六臂の像は、右(向かって左)上腕は戟を、中腕は剣を、下腕は弓を持ち、左(向かって右)
上腕は法輪、中腕はショケラ、下腕は弓を持っています。

シンプルは彫りですが、三猿もしっかり見えます。

三叉路の角はちょっとした崖になっていて、その上に二基目の青面金剛像が建っています。
目線よりだいぶ上の位置にあり、竹林にも邪魔されて、見過ごしてしまいそうです。

正面には文字らしきものが見当たらないので、子安神社の裏に回ってみました。
足場が悪く、近づくのは危険ですが、側面の「天明■■巳十一月吉日」の文字が読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。
この像が建立された天明五年は、天明の大飢饉の真っ只中でした。
「天明の大飢饉」とは、天明二年から続く天候不順に、同三年の岩木山噴火及び浅間山噴火に
よる大被害が加わり、東北地方を中心に同八年まで続いた近世最大の飢饉です。

何となく優しげで、忿怒相と言うより菩薩相のような顔に見えなくもありません。

三眼六臂で、右(向かって左)上腕には剣を、下腕には弓を、左(向かって右)上腕は法輪、
下腕は金剛杵を持ち、中腕は合掌しています。

足許には踏みつけられた邪鬼が、台座には三猿が刻まれています。


三叉路の入り口左上に三基目の青面金剛が建っています。
「正徳甲午正月吉日」
「奉造立庚申待下総國香取郡埴生庄」
と刻まれています。
正徳年間で干支が甲午となるのは四年ですので、西暦1714年の建立です。
正徳四年は七代将軍家継の治世で、貨幣の改鋳やあらたな発行などが行われました。

頬を膨らませた忿怒相で、ちょっと愛嬌がある顔つきです。

三眼六臂の像で、右(向かって左)上腕には戟を持ち、下腕には剣を持ち、左(向かって右)
上腕には法輪、下腕には弓を持って、中腕は合掌しています。

三猿は他の二基より大きく彫られています。

三基の青面金剛像が見守るこの三叉路は、かつては重要な道だったのでしょう。
今では人通りのない寂しい山道ですが、(地形的にやや無理があるかもしれませんが)旧佐原
街道のような気もしますし、あるいはその支道なのかもしれません。
ここから左にしばらく進んだ先には小さな祠の「白幡神社」があります。


「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。
大正三年の八生村誌には次のような記述があります。
〔押畑元押旗ニ作ル源頼義奥州征討ノ際、此地ニ次シ、旗ヲ押シ立シヨリ因ミテ押畑ト云フ由。
同地廣臺ニ白幡神社アリ、其跡ナリト云ヒ傳フ。〕
また、「千葉縣印旛郡誌」にも、
〔・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・〕
との記述があることから、「白幡神社」は現在の姿はともかく、押畑地区のランドマーク的な存在
であったことでしょう。
その「白幡神社」へと続くこの道もまた、重要な道であったはずです。
三基とも六臂像なのですが、持物は少しずつ異なり、同じ物でも持つ手が異なっています。

***

******

今から340年前の延宝八年の青面金剛、その34年後(306年前)の正徳四年の青面金剛、
そして105年後(235年前)の天明五年の青面金剛。
三基の金剛像は、その昔交通の要所であった三叉路を、今も見守っています。
****

【「仁王さま」として親しまれている金剛力士像は、釈迦如来の「倶生神」(守るべき相手と同時に
生まれ、生涯を捧げ守護する使命を持つ者)である。梵名の「ヴァジュラダラ(阿形)」と「ヴァジュ
ラバニ(吽形)」は金剛杵を手にする者という意味で、「常に釈迦如来の周囲で金剛杵をとる」
仏法守護神とされる。】 (「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・
望月真澄/監修 2016年 宝島社 P147)
【金剛は「金剛杵」の意。あらゆるものを破壊する強力な武器で、金剛力士はこの武器を手に、
仏や信者を敵から護る、忿怒相の夜叉神です。日本では、上半身裸で筋骨隆々とし、血管が
誇張され、忿怒相の躍動感あふれる姿に表すのが主流となっています。敵を退散させる意味で
山門などに二一組で造像される金剛力士は、二つの王の意で仁王とよばれ・・・】
(「仏像の事典」 熊田由美子/監修 2014年 成美堂出版 P73)

旧本大須賀村の一坪田(ひとつぼた)に、廃寺となった田中山宝蔵院があります。
現在観音堂として残るお堂への登り口に、二基の丸彫りの仁王像が立っています。


めずらしい石造の仁王像です。



(2014年10月撮影)
この仁王像に出会ったのはいまから5年前、偶然通りかかった道端でした。
これまでは、仁王門の格子や金網の中に立つ仁王像ばかり見てきたので、最初はずんぐり
した地蔵菩薩像かと思いました。
近づいてみると、それは初めて見る石造の仁王像でした。



【一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。】
(「成田の地名と歴史」 P365)
寛保三年は徳川吉宗の治世で、歴史上六番目の明るさと言われる「クリンケンベルグ彗星」
が現われた年です。
この彗星は、香取神宮の旧社家である、大禰宜家に伝わる「香取大禰宜家日記」にも記述が
あり、流言飛語が飛び交う不穏な空気の漂う中、二体の仁王像はこの地に建立されたのです。


左手に金剛杵を持って、口を開いている「阿形」は、諸法や物事の始りを示しています。


左手は拳を握り右手を開いて、口を閉じている「吽形」は、諸法や物事の終わりを示します。





.阿形の仁王像の背面には、次のような文字が刻まれています。
當村施主北崎氏甚右衛門
戒名即翁須達沙弥
奉建立田中山阿吽両躰
法師智元
寛保三癸亥正月廿三日
また、吽形の背面には多くの戒名が刻まれています。
(一部の文字については自信がなかったので、「大栄町の歴史散歩」(久保木良 著 1994年
崙書房 P58~59)に助けを借りました。)

宝蔵院に関する記録は少なく、「大栄町史」の中でも旧昭栄村域の寺院として、簡単な記述が
あるだけです。
【 宝蔵院 新義真言宗。 一坪田村に所在。 山号は田中山(史話)。 「新義十五」に稲荷山村
大聖寺の門徒寺として載せられている。 元文二年の香奠帳(史料編Ⅲ)に名が見えている。】
元文二年(1737)の香奠帳とは、「元文二年閏十一月 津富浦村実岩良相香奠帳」のことで、
その中に「弐百文 一坪田宝蔵院」と出ています。

丸彫りのずんぐりした体型と、忿怒相でありながらことなく表情に愛嬌のあるこの仁王さまは、
約280年もの間「田中山」を護ってきました。
もう寺は廃寺となってしまいましたが、わずかに残った「観音堂」をこれからも守り続けるでしょう。
さて、「成田の地名と歴史」に”石造の二王さまは県内では3例しかない”と書かれていました
ので、他の2例についても見てみましょう。
九十九里町粟生の善福寺にも石造仁王像があります。
若尾山善福寺は寛永二年(1625)の創建と伝えられる顕本法華宗のお寺。
「山武郡郷土誌」(大正五年 千葉縣山武郡教育會)に、豊海村にある善福寺についての記述が
一行だけありました。
【若尾山善福寺 粟生區にあり、顕本法華宗に屬せり。】
本堂の前に二体の立派な石造仁王像が立っています。

説明板には次のように書かれています。
【 石造金剛力士像阿吽一対
この金剛力士像は、宝暦一〇年(一七六〇)江戸松屋町の石工上総屋二兵衛の作である。
古文書によれば、宝暦六年、粟生の表飯高十兵衛が蓮沼宮免の収益金を資とし、不足金
八両を助力して造立したが、十兵衛とのみ刻して第六天社に奉納したため、村内から苦情
が出、台座の文字を「惣氏子 助力願主飯高氏」と刻みなおして決着したという。金剛力士像
は寺門の左右を警護することから、後に別当の善福寺に移され、近年の寺堂改修際、現在
の位置に安置されたものである。】


(阿 形)


(吽 形)
阿吽両像の台座には、次のような文字が刻まれています。
前面に、「宝暦十歳庚辰改」「惣氏子」
側面に、「助力願主飯高氏」





一坪田の仁王さまと比べると、筋骨隆々の忿怒形という標準型の仁王さまです。
そしてもう一つの石造仁王像が旭市にあります。
( ※ 私はこの旭市の石造仁王像が一坪田・九十九里に続く3例目だと思っていましたが、
3例目は上総勝浦の長秀寺にあるとの記述を目にしました。 いつか機会があれば訪ねて
みたいと思います。)

旭市の「成田山真福寺」にある石造仁王像は、不動明王を護るように立っています。


(阿 形)


(吽 形)


「旭町史 第2巻」(旭市史編さん委員会 1973年)に収録されている成田村の項に、真福寺に
ついての記述があります。
【 真福寺 字田町にある。摩尼山と号し、新義真言宗智山派。銚子市本銚子町(旧飯沼村)
円福寺末。寺伝によると、千葉氏一族の海上理慶が檀越である。理慶は成田に城塁を築き、
軍中の守本尊として聖観音を尊び、応永二年(一三九五)堂宇を造立して、理慶が日頃帰依
していた貞範を開基としたのが寺の草創であるという。文明年間(一四六九ー八七)兵火に
罹ったともいわれている。慶安二年(一六四九)十月朱印地一〇石を賜った。もと境内の東南
小塚の上に、海上公胤(理慶)の墓があったが、のち滅失したという。】 (P118)





建立の日付らしき文字がうっすらと見えますが、風化で読み取ることはできません。
宝蔵院や善福寺の仁王像のような丸彫りではない分、やや迫力に欠けますが、忿怒の表情や
力一杯開いた手の形は、仏法を守護する神としての姿を十分に現しています。






ふつう、木造の仁王さまは仁王門の中に立っています。
屋根があるとはいえ、風雨に晒される環境ですから、どうしても傷みが進みますが、その点、
石造りの仁王さまは長持ちがします。
細かい細工や彩色には向きませんが、大分県の国東半島のように、もっとたくさん造立例が
あってもよさそうな気がします。
「仁王」は、もとはインドの執金剛神(しつこんごうしん)という一体の神でしたが、インドから
中国を経て日本に伝えられる中で、二体となって「仁王」と呼ばれるようになりました。
日本語の五十音はサンスクリット語のアルファベットから生まれたと言われています。
仁王の「阿」は、サンスクリット語でも「ア」で、、「吽」は「ン」です。
「仁王さま」は恐い顔で立っているだけではありません。
私たちの日常に深く関わる存在なのですね。
今回は「気になる石仏・石神・石造物シリーズ」から、造立例が非常に少ない「愛染明王」の
石像を紹介します。
【愛染明王は、もともとは煩悩(愛欲や欲望、執着)を悟りに変えて、菩提心(悟りの境地)
にまで導いてくれる力を持つ仏尊。すなわち、愛欲と、その裏返しの怨憎の両方を整え、
人々の心を安らかにしてくれる仏尊である。】
(「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・望月真澄 監修 P137)
【 忿怒形で、体の色は真紅、一面三目六臂が一般的である。 頭上に獅子頭のついた獅子冠を
載いているのが特徴で、獅子の頭からは天帯という長い紐が左右の耳の後ろを通って、膝の
あたりまで垂れている。 左手には金剛鈴、弓を持ち、いちばん後ろの手は拳を握って上に挙げ
ている。 右手には五鈷杵、矢、蓮華を持っている。 拳を握った左手には、われわれが求める
ものは何でも掴んでいるという意味が込められている。宝甁という大きな壺の上の蓮華座に
座る坐像のみで、立像は見られない。 赤い日輪を光背とする。】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P146)

愛染明王像は作例が少なく、特に石像はほとんど見かけることがありません。
私の知る限りでは、成田市・奈土と印西市・松虫の二基があるのみです。


この愛染明王像は、奈土にある「紫雲山昌福寺」の墓地の一角に佇んでいます。
「昌福寺」は天台宗のお寺で、開山は不詳ですが、いろいろな史料から、少なくとも450年以上
の歴史を有すると推定される名刹です。
「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
【奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。】 (P276~277)
(昌福寺について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
【なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。】
とありますので、この像は、明和七年(1770)の造立、250年前のものであると思われます。
【愛欲の存在をそのまま認めて、悟りまで導く功徳を持つ明王である。特に男女の愛の悩みを
救うと信じられた。また、愛染という言葉から染色業の守り本尊になったりもする。町内では
一基のみが確認された。奈土の東光寺跡にあったもので、造立年代は不明であるが、三眼
六臂で日輪を表わす円光背を背負い、獅子冠を戴き、宝瓶の蓮華に結跏趺坐をしている。】
(「大永町史 民俗編」 P196)
廃寺となった東光寺については、「大栄町史 通史編中巻」に、次のような記述を見つけました。
【 東光寺 天台宗。奈土村字仲台に所在。本尊は阿弥陀如来(『県寺明細』)。天明六年前後
の天台宗寺院名前帳には、東叡山末(寛永寺末)として「一律院天幢山東光寺」等と載せられて
いる。 『県寺明細』には浄名院(台東区)末と記されているが、同院は寛永寺の子院である。
当寺の成立については明確な史料があり、元文五年(一七四〇)に山門(比叡山)の安楽律院
の末として、正式に寺院として認められた(『史料編Ⅳ』〔九七〕。同史料によれば当寺は廃寺で
あったのを、金岡氏で善楽沙弥と称した人物が再興したものという。 (中略) なお、その少し前
の文政九年(一八二六)に当寺は類焼で焼失したとある(『史料編Ⅲ』〔二五八〕。さらに『郡誌』
によれば、明治二年にも火災で諸堂のことごとくを焼失したという。その後昭和二十七年に至り、
栃木県日光市の日光山興雲律院に合併し、寺院としての役目を終えた。】 (P561)
また、「千葉縣香取郡誌」には、
【 同所字仲臺に在り域内五百三十一坪天台宗にして阿彌陀佛を本尊とす寺傳に曰く享保
十一年亦亦金岡貞愛の創建する所にして仝空開基たり天保元年火災〇罹り八年之を再建す
往時は其構造頗る宏麗なりしが明治二年再び祝融の變に遭ひ本堂庫裏舎利堂悉く燒失せり
・・・ 】 (P432 祝融とは、中国の神話に出てくる火の神)
記録にあるだけでも、文政九年(1826)、天保元年(1831)、明治二年(1869)と、たびたび
火災に見舞われた(43年間に3度も!)不運なお寺です。
なお、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史民俗編」の196ページに掲載されています。

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。
成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけのようです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一印西市松虫の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。(今回、「印旛村史」に、平賀にもう一体あるこという
記述を見つけました。折を見て探したいと思います。)
もう一体の「愛染明王」像は、印西市の松虫寺に隣接する「松虫姫神社」境内にあります。

(松虫姫神社の愛染明王像)
宝甁の上に座ってはいませんが、台座には「女人講中八(?)人」と刻まれ、石仏の側面には
「嘉永元申年八月吉日」と記されています。
嘉永元年は西暦1848年ですから、170年前のものです。



(2014年11月 撮影)
「松虫姫神社」については、「印旛村史 通史1」(印旛村史編纂委員会編 1984年)に次の
ように記されています。
【松虫の松虫寺境内にある神社で、同寺の開基にかかわる聖武天皇の皇女松虫姫を祭神と
している。松虫姫が都で蚕を飼っていたという伝承から、同神社は蚕の神様として信仰を集め、
四月と八月の十五日の祭礼には、印旛郡内はもとより茨城県などから養蚕を行う人々が講社
を結成にて参拝に訪れ、境内にも露店が出るほど賑わった。しかし、養蚕業の衰退とともに
次第に参詣人も減少した。】 (P823)

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左上の手は拳を握って突き上げ、中の手には弓を持ち、前の手には金剛令を持っています。
右上の手には蓮華を、中の手には矢を、そして前の手には五鈷杵を持っています。
頭上に獅子頭の付いた獅子冠を戴き、額には第三の眼があります。
(松虫神社について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)

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170年前の松虫姫神社の石像に比べて、250年前の奈土の石像は、長い風雪に耐えてきたに
しては驚くほど風化がなく、忿怒の形相はもとより、獅子頭やそれぞれの手に持つ金剛鈴や
金剛杵、弓矢などもはっきり見分けることができます。


多くの墓石に囲まれてひっそりと佇むこの石仏は、注意して見ないと見落としてしまいそうです。
「愛染明王像」といえば、成田山外周路の「馬頭観音像」が「愛染明王像」だとされていることに
も触れなければなりません。
ご覧の通り、よく見ればこの石仏の頭上にあるのは「馬頭」であって「獅子頭」には見えません。
獅子か馬の頭を戴き、三目で六臂であることなど、像容が似ているため、間違えられることが
多いのかも知れません。

成田山の馬頭観音

(この石像の詳細は http://narita-kaze.jp/blog-entry-275.html ☜ こちらをクリック)


愛染明王が祀られている成田山の光明堂などは、縁結びの祈願に訪れる人が大勢いますが、
意外とこの明王の像容を知る人は少ないように思います。
馬頭観音と間違えられている愛染明王があるかも知れません。
まだ、人知れず佇んでいる愛染明王がどこかにいるかも知れません。
古い墓地の多くには、その片隅に無縁仏となった墓石が集められている一角があります。
お墓を守る人がいなくなると、無縁仏となってひとまとめにされ、墓石は廃棄されたり、一ヶ所
に積み上げられたりします。
人の移動が激しく、核家族化が進む現代では、実質的に無縁化するお墓が増加しますが、
江戸時代にも飢饉などの災害によって一家が離散し、無縁墓が発生することはありました。
跡取りがいなくなってしまうこともあったでしょう。
そして、明治・大正・昭和・・・と、長い時間の経過が無縁墓を増やし続けてきました。
限られた墓地では、こうした無縁墓は整理される運命にあり、うち捨てられることは免れても、
無縁塚として墓石を積み上げられることになります。
花を手向ける人もいない無縁塚では、物言わぬ墓石がただただ風雨に晒されています。


(高岡の真城院)
*****

(下金山の竜金寺)

(八代の善勝院)
無縁塚の中に紛れて、あるいは代々続いている旧家の墓地の中に見え隠れする幼子の
墓石には、特に心惹かれるものがあります。
名古屋の「常願寺」裏の墓地では、多くの子どもの墓石を見ることができます。

「跬行童女」「幻泡善孩子」と彫られたこの小さな墓石からは、可愛かった我が子の面影を追う
親の哀しい心情が伝わってきます。
「跬」(き)とは片足を一歩前に出すさまを表わす言葉で、「跬行」とは多分、ヨチヨチ歩きのように、
まさに歩き始めようとしている様子を思い出して付けたのでしょう。
「幻泡」とは、<まぼろしとあわ>すなわち<はかないもの>を表わしてます(「泡幻」(ほうげん)
という言葉があります)。
「孩」(がい)とは、幼児の笑い声を表わす言葉で、「孩子」は2~3才ごろの幼児を愛おしむ
感情のこもった呼びかけです。
風化で年代は不明ですが、補修の跡が見られます。

「○○阿童子」 「安永○戌年二月」と読めます。
安永の干支に戌があるのは七年(1778)ですから、約240年前に亡くなった子供の墓石です。
菩薩像の顔は風化というより削られたような感じです。
童子(童女)とは子どものことですが、仏教用語としては、仏の王子すなわち菩薩を指す言葉で
あったり、菩薩や明王などの眷属につける名前であったりりします。
そして、15才ごろまでに亡くなった子どもの戒名としても使われることがあります。


向かって右に「妙空童女」、左に「雪然童女」と刻まれた墓石。
元号は見当たりませんが、「妙空童女」は四月、「雪然童女」には十二月と記されています。
「雪然」とは、<雪が降るように、白鷺が飛びおりるさま>(「旺文社・漢和辞典第五版)のことで、
「せつぜん」と読みます。
初夏と冬に亡くなった二人の娘を偲ぶ、親の哀しみが伝わってきます。


この墓石の戒名はどうしても読めません(二文字目は覚の異体字だと思うのですが・・・)。
「天保十己亥五月三日」と記されています。
天保十年は西暦1839年、十二代将軍家慶の時代で、この年の五月には高野長英・渡辺崋山
などが、幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた「蛮社の獄」事件がありました。
「○○童女」とありますから、女の子の墓石です。

幡谷の薬師寺境内の一角で見つけた幼子の墓石です。
「夢幻童子」と刻まれています。
享年は(はっきりとはしませんが)「十一月廿七日 灵位」とのみで、元号が見当たりません。
(「灵」は「れい」と読み、”霊・みたま”のことです)
「夢幻」を辞書で引くと、「夢とまぼろし・はかないこと」とあります。

如意輪観音像が彫られたこの墓石には、母親と思われる戒名も刻まれています。
左に「妙忍信女」と刻まれ、「享保十一丙午年」の文字が見えます。
享保十一年は西暦1726年、八代将軍吉宗の時代です。
「自分の墓には、幼くして亡くなった我が子を一緒に」とでも言い残したのでしょうか、子を想い
続けた、290年以上昔の母親の気持ちが伝わってくるような墓石です。

西大須賀の「昌福寺」の墓地で見つけたこの墓石には、「性譽浄心信女(?)」「禅譽了恵㳒子
(㳒は法の異体字)」「香○童女」と三つの戒名が刻まれた墓石があります(○は顔か韻のよう
な気がします)。

側面には、それぞれの享年と思われる日付が記されています。
「性 寛政十三酉年四月○○」「禅 文化十三子○○」「香 文化十二亥年十月○○」と読めます。
寛政十三年は西暦1801年、文化十二年・十三年は1815・1816年になります。
寛政十三年から文化十三年の15年間に、この家族にどんなことがあったのでしょうか?。
寛政十三年に母親が女の子のお産の際に亡くなり(当時はお産で亡くなる母親は多かった)、
文化十二年には十四歳になった娘も亡くなって、その翌年には父親も亡くなってしまった・・・。
この墓石を見ながら、こんな想像をしてしまいます。


「夢幻童子」「幻泡童子」と刻まれた墓石は、外柵に囲われた立派なお墓の外に、ひっそりと
隠れるように立っていました。
両方の戒名の下には「享保八卯○○」と記されています。
二人が相次いで亡くなったとしたら、親の嘆きはいかばかりであったでしょうか。

「妙本浄定尼」「元文元丙辰九月〇〇」と刻まれた墓石の左側には、「穐月童女」という戒名も
併記されています。
「穐」は秋を指す言葉で、この幼子は秋に亡くなったのでしょう。
松崎の「善導大師堂」の奥にある無縁塚でも、いくつもの幼子の墓石を見つけることができます。


「妙霜童女」と刻まれた横に、「天保十亥年十一月十二日」とあります。
180年前の、霜の降りた初冬の寒い日に亡くなったのでしょうか。

この墓石には「慈雲童子」と刻まれています。
風化と苔で年号が読めませんが、「延享」と読めるような気がします。
延享だとすると、270年以上も前の墓石ということになります。

「幻紅童女」「享保六丑年」と読めます。
享保六年は西暦1721年、八代将軍吉宗の時代で、約300年も前の墓石です。

「秋月妙蓮信女」と刻まれた脇に、「夢幻童子」の戒名が並んでいます。
薬師寺の夢幻童子の墓石と同様に、母が幼くして逝った我が子と一緒に葬ってくれと言い残し
たのでしょうか。
はっきりとしませんが「天保」の元号が見えるような気がします。

他にも「恵光童子」「幻心童女」「幻性童子」「春覺童女」などの戒名が無縁塚の中に見えます。

奈土の「昌福寺」の墓地には、「梅薫善童女」「妙菖善童女」と刻まれた地蔵菩薩像の墓石が
ありました。
梅の薫りが漂う早春と、菖蒲が咲く初夏に、相次いで幼い娘を亡くしたのでしょうか。
美しい二つの戒名に、親の切ない哀しみが込められているような気がします。
飯岡の永福寺の無煙塚でも子供の墓石が多く見られます。


「幻覺童子」「宝永四亥年五月十五日」と刻まれたこの墓石の上部は欠けていますが、
わずかに「禅定尼」の文字が見えます。
この幼児の母親なのでしょうか。
宝永四年は西暦1707年、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)を起こしました。

ウメノキゴケに覆われたこの墓石には、「幻信童子」「泡〇童子」「〇〇童女」の三人の戒名。
いずれも享和の元号が記されているように見えます。
「享和」の時代は四年あまりしかないので、わずか四年の間に二人の男児と一人の女児を
失った哀しい親がいたわけです。

「一向孩女」と刻まれたこの墓石は、無煙塚の脇に無造作に放置されているようでした。
側面に「〇和十二年八月」と記されています。
〇に該当しそうな元号は明和くらいですが、明和に十二年はありません。
墓石も風化があまりみられませんので、どうやらこれは「昭和」ということのようです。
わずか80年余りのあいだに無縁仏となった「一向孩女」が哀れです。
しきたりや宗派の決まり事などで、縛られる成人の戒名に比べて、幼児の戒名には制約が
少ないようで、早逝した我が子への深い想いを表わした、美しくも哀しい文字が並びます。
そして、墓石の多くには地蔵菩薩が刻まれています。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を巡りながら、人々の苦難を身代り
となって受ける(代受苦)の菩薩ですが、子供の守護尊ともされています。
賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世のころより仏教歌謡
「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知れ渡り、子供の供養における地蔵信仰を作り上げました。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないと言い伝えられていました。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なので、親たちは幼子の墓石にすがるような
想いで地蔵菩薩像を彫ったのでしょう。
(「西院河原地蔵和讃」にはいくつものバージョンが伝えられていますが、代表的な和讃を
追記に載せておきます。)
庶民がお墓を持てるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在のような「○○家の墓」
というような形になったのは江戸時代も終わりに近づいたころからです。
それまでのお墓は個人単位で、墓石も死者の数だけ建てられました。
多産・多死であった江戸時代は、子どもが成人になるまで生きられる確立は50パーセント
程度であったと言われています。
【 「七つまでは神のうち」という言葉に示されているとおり、死産児や生後間もなくなくなる
乳幼児が多かった江戸時代には、数え年七歳になるまでは人間とは見なされず、葬儀が
行われないこともあった。】
【 大名家など特殊な事例を除き、庶民が子どもの墓石を建てるようになるのは、成人より
遅れ、江戸中期以降である。】 (「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 P134)
幼くしてこの世を去り、やがて無縁仏となって墓石を無縁塚に積み上げられ、弔う人も無く、
長い年月を雨風に打たれている・・・。
哀れで、愛おしくもある、幼子の墓石。
それでも、墓石すらなく土に還った大多数の幼子たちに比べれば、まだ幸せなのでしょうか。
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如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意
宝珠と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意
宝珠を持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、
第二手には蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県
那珂市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置
いていて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。

廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像
印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。

【一之宮神社 祭神 経津主命(ふつぬしのみこと)
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪
境内神社 浅間神社 境内坪数 九二〇坪 氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】 (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)
実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。

「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。
寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。


廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。
「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳】
「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】



穏やかな優しい表情です。


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「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。


右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。


この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。
二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡

「長見寺跡」 印旛郡栄町矢口1
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青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


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左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。
右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。
二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

(2015年5月 撮影)
「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。
【一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年)
永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。
その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。

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そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。

成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。

「妙照山東陽寺」 成田市野毛平614-2