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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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江戸時代の幼児の墓標~時を超えて親の想いが沁みる
今回は「気になる石仏・石神・石碑」シリーズで、少々趣を変えた墓石についての観察です。

古い墓地の多くには、その片隅に無縁仏となった墓石が集められている一角があります。
お墓を守る人がいなくなると、無縁仏となってひとまとめにされ、墓石は廃棄されたり、一ヶ所
に積み上げられたりします。
人の移動が激しく、核家族化が進む現代では、実質的に無縁化するお墓が増加しますが、
江戸時代にも飢饉などの災害によって一家が離散し、無縁墓が発生することはありました。
跡取りがいなくなってしまうこともあったでしょう。
そして、明治・大正・昭和・・・と、長い時間の経過が無縁墓を増やし続けてきました。
限られた墓地では、こうした無縁墓は整理される運命にあり、うち捨てられることは免れても、
無縁塚として墓石を積み上げられることになります。
花を手向ける人もいない無縁塚では、物言わぬ墓石がただただ風雨に晒されています。


一ノ宮-6                           (栄町矢口の一ノ宮参道脇・矢口区共同墓地)

真城院ー41
                                    (高岡の真城院)
*****幼児の墓石-28
                                          (下金山の竜金寺)
善勝院ー15
                                           (八代の善勝院)


無縁塚の中に紛れて、あるいは代々続いている旧家の墓地の中に見え隠れする幼子の
墓石には、特に心惹かれるものがあります。


名古屋の「常願寺」裏の墓地では、多くの子どもの墓石を見ることができます。

幼児の墓石-12

「跬行童女」「幻泡善孩子」と彫られたこの小さな墓石からは、可愛かった我が子の面影を追う
親の哀しい心情が伝わってきます。
「跬」(き)とは片足を一歩前に出すさまを表わす言葉で、「跬行」とは多分、ヨチヨチ歩きのように、
まさに歩き始めようとしている様子を思い出して付けたのでしょう。
「幻泡」とは、<まぼろしとあわ>すなわち<はかないもの>を表わしてます(「泡幻」(ほうげん)
という言葉があります)。
「孩」(がい)とは、幼児の笑い声を表わす言葉で、「孩子」は2~3才ごろの幼児を愛おしむ
感情のこもった呼びかけです。
風化で年代は不明ですが、補修の跡が見られます。


幼児の墓石-13

「○○阿童子」 「安永○戌年二月」と読めます。
安永の干支に戌があるのは七年(1778)ですから、約240年前に亡くなった子供の墓石です。
菩薩像の顔は風化というより削られたような感じです。

童子(童女)とは子どものことですが、仏教用語としては、仏の王子すなわち菩薩を指す言葉で
あったり、菩薩や明王などの眷属につける名前であったりりします。
そして、15才ごろまでに亡くなった子どもの戒名としても使われることがあります。


幼児の墓石-15
幼児の墓石-17

向かって右に「妙空童女」、左に「雪然童女」と刻まれた墓石。
元号は見当たりませんが、「妙空童女」は四月、「雪然童女」には十二月と記されています。
「雪然」とは、<雪が降るように、白鷺が飛びおりるさま>(「旺文社・漢和辞典第五版)のことで、
「せつぜん」と読みます。
初夏と冬に亡くなった二人の娘を偲ぶ、親の哀しみが伝わってきます。


幼児の墓石-18
幼児の墓石-19

この墓石の戒名はどうしても読めません(二文字目は覚の異体字だと思うのですが・・・)。
「天保十己亥五月三日」と記されています。
天保十年は西暦1839年、十二代将軍家慶の時代で、この年の五月には高野長英・渡辺崋山
などが、幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた「蛮社の獄」事件がありました。
「○○童女」とありますから、女の子の墓石です。


薬師寺如意輪-18

幡谷の薬師寺境内の一角で見つけた幼子の墓石です。
「夢幻童子」と刻まれています。
享年は(はっきりとはしませんが)「十一月廿七日 灵位」とのみで、元号が見当たりません。
(「灵」は「れい」と読み、”霊・みたま”のことです)

「夢幻」を辞書で引くと、「夢とまぼろし・はかないこと」とあります。


幼児の墓石-22

如意輪観音像が彫られたこの墓石には、母親と思われる戒名も刻まれています。
左に「妙忍信女」と刻まれ、「享保十一丙午年」の文字が見えます。
享保十一年は西暦1726年、八代将軍吉宗の時代です。

「自分の墓には、幼くして亡くなった我が子を一緒に」とでも言い残したのでしょうか、子を想い
続けた、290年以上昔の母親の気持ちが伝わってくるような墓石です。



幼児の墓石-24

西大須賀の「昌福寺」の墓地で見つけたこの墓石には、「性譽浄心信女(?)」「禅譽了恵㳒子
(㳒は法の異体字)」「香○童女」と三つの戒名が刻まれた墓石があります(○は顔か韻のよう
な気がします)。  

幼児の墓石-29

側面には、それぞれの享年と思われる日付が記されています。
「性 寛政十三酉年四月○○」「禅 文化十三子○○」「香 文化十二亥年十月○○」と読めます。
寛政十三年は西暦1801年、文化十二年・十三年は1815・1816年になります。
寛政十三年から文化十三年の15年間に、この家族にどんなことがあったのでしょうか?。
寛政十三年に母親が女の子のお産の際に亡くなり(当時はお産で亡くなる母親は多かった)、
文化十二年には十四歳になった娘も亡くなって、その翌年には父親も亡くなってしまった・・・。
この墓石を見ながら、こんな想像をしてしまいます。


幼児の墓石-26
幼児の墓石-30

「夢幻童子」「幻泡童子」と刻まれた墓石は、外柵に囲われた立派なお墓の外に、ひっそりと
隠れるように立っていました。
両方の戒名の下には「享保八卯○○」と記されています。
二人が相次いで亡くなったとしたら、親の嘆きはいかばかりであったでしょうか。


幼児の墓石-31

「妙本浄定尼」「元文元丙辰九月〇〇」と刻まれた墓石の左側には、「穐月童女」という戒名も
併記されています。
「穐」は秋を指す言葉で、この幼子は秋に亡くなったのでしょう。



松崎の「善導大師堂」の奥にある無縁塚でも、いくつもの幼子の墓石を見つけることができます。

幼児の墓石-1

幼児の墓石-2

「妙霜童女」と刻まれた横に、「天保十亥年十一月十二日」とあります。
180年前の、霜の降りた初冬の寒い日に亡くなったのでしょうか。


幼児の墓石-3

この墓石には「慈雲童子」と刻まれています。
風化と苔で年号が読めませんが、「延享」と読めるような気がします。
延享だとすると、270年以上も前の墓石ということになります。


幼児の墓石-4

「幻紅童女」「享保六丑年」と読めます。
享保六年は西暦1721年、八代将軍吉宗の時代で、約300年も前の墓石です。


幼児の墓石-5

「秋月妙蓮信女」と刻まれた脇に、「夢幻童子」の戒名が並んでいます。
薬師寺の夢幻童子の墓石と同様に、母が幼くして逝った我が子と一緒に葬ってくれと言い残し
たのでしょうか。
はっきりとしませんが「天保」の元号が見えるような気がします。


幼児の墓石-6

他にも「恵光童子」「幻心童女」「幻性童子」「春覺童女」などの戒名が無縁塚の中に見えます。



幼児の墓石-23

奈土の「昌福寺」の墓地には、「梅薫善童女」「妙菖善童女」と刻まれた地蔵菩薩像の墓石が
ありました。
梅の薫りが漂う早春と、菖蒲が咲く初夏に、相次いで幼い娘を亡くしたのでしょうか。
美しい二つの戒名に、親の切ない哀しみが込められているような気がします。


飯岡の永福寺の無煙塚でも子供の墓石が多く見られます。

幼児の墓石-35


幼児の墓石-33

「幻覺童子」「宝永四亥年五月十五日」と刻まれたこの墓石の上部は欠けていますが、
わずかに「禅定尼」の文字が見えます。
この幼児の母親なのでしょうか。
宝永四年は西暦1707年、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)を起こしました。


幼児の墓石-34

ウメノキゴケに覆われたこの墓石には、「幻信童子」「泡〇童子」「〇〇童女」の三人の戒名。
いずれも享和の元号が記されているように見えます。
「享和」の時代は四年あまりしかないので、わずか四年の間に二人の男児と一人の女児を
失った哀しい親がいたわけです。


幼児の墓石-32

「一向孩女」と刻まれたこの墓石は、無煙塚の脇に無造作に放置されているようでした。
側面に「〇和十二年八月」と記されています。
〇に該当しそうな元号は明和くらいですが、明和に十二年はありません。
墓石も風化があまりみられませんので、どうやらこれは「昭和」ということのようです。
わずか80年余りのあいだに無縁仏となった「一向孩女」が哀れです。



しきたりや宗派の決まり事などで、縛られる成人の戒名に比べて、幼児の戒名には制約が
少ないようで、早逝した我が子への深い想いを表わした、美しくも哀しい文字が並びます。

そして、墓石の多くには地蔵菩薩が刻まれています。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を巡りながら、人々の苦難を身代り
となって受ける(代受苦)の菩薩ですが、子供の守護尊ともされています。

賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世のころより仏教歌謡
「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知れ渡り、子供の供養における地蔵信仰を作り上げました。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないと言い伝えられていました。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なので、親たちは幼子の墓石にすがるような
想いで地蔵菩薩像を彫ったのでしょう。
(「西院河原地蔵和讃」にはいくつものバージョンが伝えられていますが、代表的な和讃を
追記に載せておきます。)


庶民がお墓を持てるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在のような「○○家の墓」
というような形になったのは江戸時代も終わりに近づいたころからです。
それまでのお墓は個人単位で、墓石も死者の数だけ建てられました。
多産・多死であった江戸時代は、子どもが成人になるまで生きられる確立は50パーセント
程度であったと言われています。

【 「七つまでは神のうち」という言葉に示されているとおり、死産児や生後間もなくなくなる
乳幼児が多かった江戸時代には、数え年七歳になるまでは人間とは見なされず、葬儀が
行われないこともあった。】
【 大名家など特殊な事例を除き、庶民が子どもの墓石を建てるようになるのは、成人より
遅れ、江戸中期以降である。】
 (「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 P134) 

幼くしてこの世を去り、やがて無縁仏となって墓石を無縁塚に積み上げられ、弔う人も無く、
長い年月を雨風に打たれている・・・。
哀れで、愛おしくもある、幼子の墓石。

それでも、墓石すらなく土に還った大多数の幼子たちに比べれば、まだ幸せなのでしょうか。



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幼子の墓石 | 10:46:11 | トラックバック(0) | コメント(6)
気になる石仏・如意輪観音(1)~廃寺跡で何を想う如意輪観音
如意輪観音は禍を福に転じて、あらゆる人々の願いを叶える観音様です。
如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意宝珠
と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意宝珠を
持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、第二手に
は蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県那珂
市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置いて
いて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。




一ノ宮-34
                    廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像


印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。

一ノ宮-51

【一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。


長見寺如意輪-1

「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。

寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。


長見寺如意輪-19
長見寺如意輪-20

廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】



長見寺如意輪-2
長見寺如意輪-6
長見寺如意輪-7

穏やかな優しい表情です。


長見寺如意輪-3
長見寺如意輪-15
*******長見寺如意輪-4
長見寺如意輪-13


「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。


長見寺如意輪-14
長見寺如意輪-5

右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。


長見寺如意輪-8
長見寺如意輪-9

この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。


二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡


長見寺地図

                             「長見寺跡」  印旛郡栄町矢口1 




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如意輪観音 | 15:40:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・青面金剛(1)~消えた寺に取り残された二基の青面金剛

青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。



青面金剛・東陽寺-10

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


青面金剛・東陽寺-24
東陽寺ー2
*******東陽寺ー3

左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。

右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


青面金剛・東陽寺-19

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


青面金剛・東陽寺-27
青面金剛・東陽寺-4

さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。


青面金剛・東陽寺-20

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。


青面金剛・東陽寺-16

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。


青面金剛・東陽寺-28

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。


二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

青面金剛・東陽寺-14


初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

東陽寺ー9
                                          (2015年5月 撮影)

「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年) 

永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。

その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。


東陽寺ー10
******東陽寺ー11
***********東陽寺ー12

青面金剛・東陽寺-12

そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。


青面金剛・東陽寺-13

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。


青面金剛・東陽寺-1


成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


東陽寺ー25 (2015年5月 撮影)

青面金剛・東陽寺-11

人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。



AAA野毛平地図

                          「妙照山東陽寺」   成田市野毛平614-2




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青面金剛(庚申塔) | 19:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・地蔵菩薩(1)~神光寺の首無し地蔵

釈迦の入滅後、弥勒菩薩が悟りを開くまでの間(五十六億七千万年)、この世には仏が
いない無仏時代が続きます。
この無仏時代に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生の教化・救済を
行うとされているのが地蔵菩薩です。
袈裟を纏い、剃髪で、左手に宝珠を捧げ右手には錫杖を持つ像容が一般的です。
この世で徳を積むことなく幼くして亡くなったため、賽の河原で鬼にいじめられている子供達
を救うとも言われます。



今回は、野毛平の神光寺にポツンと立っている、首を落とされたお地蔵様です。                         

地蔵・神光寺-13
地蔵・神光寺-16
地蔵・神光寺-2
地蔵・神光寺-4
***********地蔵・神光寺-23

全く人の気配がない野毛平の山道に、荒れ果てた神光寺を見つけたのは四年前のことでした。
境内への入り口に、ポツンと地蔵菩薩の石像が立っていました。

その姿は、私の胸に小さな衝撃を与えるものでした。
明治初めの廃仏毀釈の嵐の中で首を落とされたことは、疑う余地が無いでしょう。
首だけでなく、宝珠を持つ左手と錫杖を持つ右手をも落とされた無残な姿は、受けた仕打ちに
150年経った今も呆然として立ち尽くしているかのようでした。

誰が乗せたのか、セメントで作られた間に合わせの頭部には、線描のような目鼻が付けられて、
その表情がまた、納得できない哀しみを表しているように見えました。

神光寺ー3
                                           (平成27年5月撮影)


地蔵・神光寺-14

四年ぶりに見た地蔵菩薩には、セメントの頭部がありません。

地蔵・神光寺-25
******地蔵・神光寺-27
***********地蔵・神光寺-28

誰かがいたずらで持ち去ったのでしょうか。
気のせいか、砕かれた宝珠と錫杖の痕も少し風化が進んだように思えます。


地蔵・神光寺-37
地蔵・神光寺-38


「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
江戸時代にはすぐ隣にある「鎮守皇神社」の別当でした。

『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。

また、「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記されています。
『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』
 (P781)

神光寺は、少なくとも350年以上の歴史があるお寺ですが、残念ながら本堂も境内も荒れ放題。
野毛平地区は、成田空港の騒音指定地域となって、住民の大半がこの地を離れたのですが、
檀家・住民が離れていった寺が、わずか数十年でこれほどまでに荒廃するとは・・・・


地蔵・神光寺-15

台座には、「元文三年戊午」「十五夜念佛開眼」「八月吉日 施主二十一人」と刻まれています。
十五夜念佛講による月待塔の刻像塔で、元文三年は西暦1738年、約280年前のものです。
月待塔には文字塔が多いのですが、これはめずらしい刻像塔です。

月待とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まり、
飲食をしたりお経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
月待行事は室町時代から確認されていて、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行しました。
ここ野毛平では、全国的な流行よりだいぶ早い時期から月待行事が行われていたようです。


地蔵・神光寺-17

台座の脇に石ころが・・・
笹や枯葉を払い、付いた泥を拭うと、それは地蔵菩薩の頭部、あのセメントの頭部でした。
いたずらではなく、風か地震によって落ちてしまったのでしょう。


地蔵・神光寺-18

そっと乗せてみました。
四年前のあの顔です。
人間の行いの理不尽さを哀しむような、そんな表情です。


地蔵・神光寺-19
地蔵・神光寺-20

泥はやがて雨が洗い落としてくれるでしょう。


地蔵・神光寺-34
地蔵・神光寺-29
地蔵・神光寺ー41

この境内に再び人々が戻ってくることはないでしょうが、本堂が朽ち果て、境内が竹や雑木に
覆われるまで、地蔵菩薩像はここに立ち続け、時の流れを見つめているのでしょう。



AAA野毛平地図

                            「天照山神光寺」   成田市野毛平497



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地蔵菩薩 | 22:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
気になる石仏~成田山外周路の続き~愛染明王か、馬頭観音か?

成田山石仏-62

前々回の「ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏」を取材している時、とても気になる石像
が近くにありました。
取材終了以降も何度か立寄ったのですが、この石仏が「愛染明王」なのか、「馬頭観音」なのか
の判断ができずにいました。


成田山石仏-72
*************成田山石仏-71

初めてこの石像を見たときは、「馬頭観音」だと直感しました。
三面八臂の坐像で、所々に朱色の塗料がわずかに残っています。

頭上には馬頭冠を戴き、根本馬口印を結んでいるように見えます。
馬頭観音は立像が多く、坐像は珍しいのですが、いくつかの特徴がこの石像は「馬頭観音」
であると示しているように思えました。

数枚の写真を撮り、十メートルほど離れた場所にある「亀乗り薬師如来」や「十一面観音」、
「勢至菩薩」や「青面金剛」と共に紹介しようとしましたが、「成田山新勝寺史料集 別巻」
にこの石像が「愛染明王」であるとの記述を見つけ、前々回の紹介記事からはこの石像を
外すことにしました。

文政元年(一八一八)十一月に成田村の藤藏らが建てた愛染明王像で、石工は庄吉である。
彫られた像は三面三目八臂の姿で円相を光背にして結跏趺坐し、頭部には獅子冠をいただく
姿となっている。像の前に建つ光明堂は大日如来を本尊としているが、本尊の脇に愛染明王
もお祭りしているので、この場所が適しているのである。】 
(P54)

こうはっきり記されている以上、馬頭観音とは書けませんが、愛染明王にもいまひとつ納得が
できませんでした。


額堂-97
                                  (外周路を隔てた境内にある光明堂)
成田山石仏-68

光明堂が現在の場所に移設されたのは安政二年(1856)のことですから、その四十年も前
の文政元年に、すでにこの場所に愛染明王像を置くとは少々出来過ぎな話に思えます。
もっとも、移設された光明堂に愛染明王が安置されていることから、他所にあった愛染明王像
をこの場所に持ってきた、とも考えられます。


成田山石仏-69
*************成田山石仏-66
成田山石仏-67

何回も通ってあれこれ眺めましたが、自信が持てないままに記事を見送っていました。

周りに建つ石碑は、いずれも明治時代の護摩木山の碑や永代御膳料の碑ばかりで、この
石像が移設されたものであることを強く示しているように思えます。


紫雲山-18
                                  (奈土・昌福寺境内の愛染明王像)
松虫寺ー28
                               (印西・松虫姫神社境内の愛染金剛像)

 髪を逆立て、獅子冠を戴き、三目六臂(三つの目と六つの宛を備えた形)で、冠上に五鈷
(インドから伝った仏具)を飾り、三眼で牙をむき出し、蓮華、弓矢、宝鈴、五鈷杵をそれぞれ
の手に握って、赤い火焔の円相を背にして、宝瓶に活けられた赤蓮華台に結跏趺坐している】

(「日本仏像大全書 四季社 2006年」 P29~30 愛染明王)

成田山石仏-65

細かいところはともかく、この石像の特徴は、愛染明王像にほぼ一致しているように見えます。


成田山石仏-70

しかし、何度見ても頭上にあるのは獅子冠ではなく、馬頭に見えてしまいます。


これまでに多くの馬頭観音像を紹介してきましたが、そのいくつかを並べてみても、いずれも
頭上には面長の馬頭を戴いています。

観音寺-4
                                           (南羽鳥・観音寺)
昌福寺ー17
                                            (富里・昌福寺)
観音堂ー25
                                         (富里・新橋観音堂)
自性院ー14
                                            (小泉・自性院)
田中山ー41
                                           (一坪田・宝蔵院)


さて、三ヶ月もの間悩んできたことが、実に簡単なことから一気に解消することになりました。


成田山石仏-137

先日、思い立って早朝の成田山を訪ねた時、いつも見ていた日中とは違う角度の日当りが、
石像の凹凸を浮き上がらせてくれたのです。
斜めから、上から、下から、と何度も目を凝らして眺めていた石像が、これまでとは全く違う
表情を見せてくれたのです。


成田山石仏-143

頭上にあるのは紛れもなく「馬頭」でした。


成田山石仏-142
成田山石仏-138

今までどうしてこのようにはっきりと見えなかったのか?
ピンと張った耳、ふさふさとしたたてがみ、見開いた両目、大きく開いた鼻・・・、立派な馬頭です。

この石像は「愛染明王」ではなく、「馬頭観音」でした。


成田山石仏-139
成田山石仏-64

体の正面で結んでいる印は、愛染明王の「根本愛染印」ではなく、「根本馬口印」です。


成田山石仏-144

「馬頭観音」は、他の観音像が女性的で穏やかな表情であるのに対して、一般に憤怒相で
あることが特徴です。
このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて明王部に分類されることもあります。
近世以降は国内の流通の活発化に伴い、荷運びの手段として馬が頻繁に使われるように
なり、事故や病気などで死んだ馬の供養のために建てられることが多くなりました。

「馬頭観音」または「馬頭観世音菩薩」などと文字のみを刻むことがほとんどで、石像が刻まれ
ているものは少ないようです。


成田山石仏-145

この馬頭観音像は、前々回の「ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏」で紹介した
四体の石仏群から、新しくできた醫王堂へ向かって十メートルほど進んだところにあります。
(薬王寺に下る坂の降り口、左側になります。)



「亀乗り薬師如来」などの石仏群からは、石像の上部がわずかに見えます。(矢印)


裏門からの外周路は、実は「平和大塔」への近道で、注意しながらゆっくり歩くと、いろいろと
おもしろいものが見つかります。

額堂-3
                                              (のぞき小僧)
額堂-8
                                                 (包丁塚)
額堂-100
                                             (珍しい石仏群)
医王殿-5
                                         (新しくできた醫王殿)


成田山石仏-136

成田山石仏-140

表参道から総門をくぐり、仁王門から石段を大本堂へと上る王道コースを外れて、裏門から
外周路をのんびり散策すると、思わぬ発見があるかもしれません。
額堂と光明堂の裏側を見ながら、「醫王堂」と「平和大塔」にお参りするのはいかがでしょう。




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馬頭観音 | 16:31:10 | トラックバック(0) | コメント(2)