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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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気になる石仏~お神楽を踊る三猿
青面金剛-14
青面金剛-13

さて、この景色は何でしょう?

竜台にある「百庚申」です。
竜台は成田市の西北、栄町と利根川に接する地域で、昭和29年の昭和の大合併で成田市に
編入となるまでは豊住村竜台でした。
昭和43年に茨城県の河内とを結ぶ長豊橋が完成するまでは「竜台の渡し」がありました。


竜台稲荷ー1
                     (おはつ稲荷 2016年4月撮影)

百庚申へは、国道408号線が長豊橋に向かって大きくカーブするあたりを左に入るのですが、
入り口は道なのか民家の庭なのか、分かりにくい所です。
でも、ちょっと奥をのぞくと、「おはつ稲荷」が見えます。

青面金剛-12

「おはつ稲荷」の先を進むと、畑の一角のようなところに、「百庚申」が現われます。

庚申塔には大きく分けて「文字塔」と「青面金剛像塔」があり、「文字塔」には「庚申塔」と刻まれた
ものと「青面金剛」と刻まれたものがあります。
青面金剛像は六臂三眼の忿怒相が標準形ですが、二臂や四臂像もあり、持物にもいろいろな
バリエーションがあります。


青面金剛-53

ここでは文字塔が大部分で、像塔は15基だけです。
成田市内には百庚申と呼ばれている場所が4ヶ所ありますが(宝田・後、宝田・秋谷津、西和泉、
竜台)、いずれも文字塔のほうが多く見られます(※)。

(※)2016年4月の「成田の百庚申」の記事 クリック ☞ 成田の百庚申


青面金剛-55

奥の方に非常に珍しい庚申塔があります。


青面金剛-51

嘉永七年(1854)十月の文字塔ですが、台座部分に「三猿」が彫られています。
しかも、その三猿は、一般的に見られる「見ざる・聞かざる・言わざる」の形ではなく、なんと、
お神楽を踊っているのです。


青面金剛-60

   分かりますか?

青面金剛-59

いずれも烏帽子をかぶり、右の猿は扇を持ち、真ん中の猿は御幣を担いで舞い、左の猿は太鼓
をたたいて囃しています。

この庚申塔が建立された嘉永七年(1854)は、ペリーが再来して江戸湾に入ったり(2月)、日米
和親条約が結ばれ(3月)、下田・箱館の開港(5月)など、幕府の外交上大きな変革がありました。
4月には京都大火により御所が焼失、また、前年の小田原地震に続き、伊賀・上野地震(6月)が
発生するなど、世の中は暗澹とした雰囲気に包まれていました。 (※)

そんな時に、この庚申塔が建立されたことにはとても興味を惹かれます。

 (※) さらに11月には安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震と大地震が連続したため、
     11月末に「嘉永」は「安政」へと改元されました。
 (当時は改元は1月まで遡って行われていたため、東海・南海地震は安政の地震と呼ばれます)


青面金剛-2

【三尸の虫を酒肴でもてなし、踊るほど酔わせて天帝に報告させないようにすると、洒落をきか
したものであろうか。この像を眺めていると、当時の農民の心の豊かさを感じることであろう。】

(「成田の史跡散歩」 P148)
不安を吹き飛ばそうとして、このような三猿を彫ったのか、それとも世情とは関係なく、庚申講が
今や宗教行事ではなく、仲間内の単なる「飲み会」になっていることを皮肉たっぷりに表したのか、
あるいは、実は真剣に三尸虫が天帝に告げ口することを封じるために(※)、猿を楽しげに舞い
踊らせることで気をそらそうというのか、・・・ 今になっては知る由もありません。
いずれにしろ、江戸時代の庶民のユーモアのセンスはなかなかのものです。

(※)三尸虫については以前にも何回か記していますので、「追記」に簡単に説明しておきます。


青面金剛-3

       烏帽子をかぶり扇を持って踊る猿

青面金剛-4

      烏帽子をかぶり御幣を担いで踊る猿

青面金剛-5

      烏帽子をかぶり太鼓をたたいて囃す猿


青面金剛-56

この文字塔の左右には二基の像塔が並んでいます。


青面金剛-57

向かって右の塔には、「安政六○未十二月」と刻まれています。
安政六年は西暦1859年、中央の庚申塔の5年後に建立されました。
前年(安政五年)には「安政の大獄」翌年の安政七年には「桜田門外の変」と、政治の混迷が
加速し、後に幕末と言われる時代の入口に差しかかっていました。


青面金剛-58

向かって左の塔には、「大木徳兵衛」「○政六年○未十二月」と刻まれています。
元号の後ろが「政」で六年が未年なのは安政六年(己未)と文政六年(癸未・1823)ですが、
右側の青面金剛像との照合や、ここの百庚申の庚申塔の大部分が安政年間のものである
ことから、安政六年の建立と考えてよいと思われます。


青面金剛-52

整然と並んだ庚申塔は大小の文字塔と像塔が混在し、文字塔85基、像塔15基の構成です。
(一基だけ、如意輪観音像が紛れ込んでいます)


竜台稲荷ー17

「青面金剛尊」の文字が深く刻まれたこの庚申塔は寛政十二年(1800)のもので、百基の
中で一番古い、220年前のものです。



青面金剛-62
青面金剛-7


この庚申塔が完成したとき、庚申講の人達はどんな顔をしてお神楽を踊る猿を見たのでしょうか。
ニヤリと笑っていたに違いありません。

お神楽を踊る猿の構図を考えた庶民と、それを咎めなかったであろう村役人(?)の、おおらかで
伸びやかな精神は、騒然とした時代の大波を横目に、しぶとく、たくましく生きていたのでしょう。




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庚申塔(文字塔) | 19:00:28 | トラックバック(0) | コメント(6)
気になる石仏・青面金剛(2)~押畑の山中に佇む三基の金剛像

今回は気になる”石仏シリーズ”青面金剛編の2回目です。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛
像」が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」 (瓜生 中 著 平成16年
幻冬舎)では次のように解説しています。
『 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病
神として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を
身につけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られ
るのは六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになった
のは、中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。』 (P224)



押畑の山中、「押畑稲荷神社」を越えた先の三叉路に、三基の「青面金剛像」が建っています。
普段は人の通らないような道ですが、昔はそれなりに主要な道だったようです。


青面金剛-36

真っ直ぐに進む道は昔は先まで続いていたようですが、今はすぐに竹林に阻まれてしまいます。
左に折れる道(子安神社が見えています)は、延々と山中に伸びています。


青面金剛-15

直進する道端に建つ「青面金剛」像。
延宝八年(1680)の建立です。
この年は、四代将軍家綱が亡くなり、綱吉が五代将軍になりました。
延宝五年から六年にかけて、三陸や房総沖などで立て続けに大地震があり、世相は落ち着が
ない空気に包まれていました。

「下総國香取郡埴生庄押畑村惣結願造立迄敬白」と刻まれたこの像は、340年も前のものとは
思えないほど造形がしっかり残っています。


青面金剛-16

太い眉の迫力ある忿怒相です。


青面金剛-18
*****押畑稲荷ー24

三眼六臂の像は、右(向かって左)上腕は戟を、中腕は剣を、下腕は弓を持ち、左(向かって右)
上腕は法輪、中腕はショケラ、下腕は弓を持っています。


青面金剛-19

シンプルは彫りですが、三猿もしっかり見えます。



押畑稲荷ー18

三叉路の角はちょっとした崖になっていて、その上に二基目の青面金剛像が建っています。
目線よりだいぶ上の位置にあり、竹林にも邪魔されて、見過ごしてしまいそうです。


青面金剛-20

正面には文字らしきものが見当たらないので、子安神社の裏に回ってみました。
足場が悪く、近づくのは危険ですが、側面の「天明■■巳十一月吉日」の文字が読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。

この像が建立された天明五年は、天明の大飢饉の真っ只中でした。
「天明の大飢饉」とは、天明二年から続く天候不順に、同三年の岩木山噴火及び浅間山噴火に
よる大被害が加わり、東北地方を中心に同八年まで続いた近世最大の飢饉です。


青面金剛-23

何となく優しげで、忿怒相と言うより菩薩相のような顔に見えなくもありません。


青面金剛-27

三眼六臂で、右(向かって左)上腕には剣を、下腕には弓を、左(向かって右)上腕は法輪、
下腕は金剛杵を持ち、中腕は合掌しています。


押畑稲荷ー19

足許には踏みつけられた邪鬼が、台座には三猿が刻まれています。



青面金剛-32
青面金剛-28

三叉路の入り口左上に三基目の青面金剛が建っています。
「正徳甲午正月吉日」
「奉造立庚申待下総國香取郡埴生庄」

と刻まれています。
正徳年間で干支が甲午となるのは四年ですので、西暦1714年の建立です。

正徳四年は七代将軍家継の治世で、貨幣の改鋳やあらたな発行などが行われました。


青面金剛-31

頬を膨らませた忿怒相で、ちょっと愛嬌がある顔つきです。


押畑稲荷ー20

三眼六臂の像で、右(向かって左)上腕には戟を持ち、下腕には剣を持ち、左(向かって右)
上腕には法輪、下腕には弓を持って、中腕は合掌しています。


青面金剛-35

三猿は他の二基より大きく彫られています。




青面金剛-37

三基の青面金剛像が見守るこの三叉路は、かつては重要な道だったのでしょう。
今では人通りのない寂しい山道ですが、(地形的にやや無理があるかもしれませんが)旧佐原
街道のような気もしますし、あるいはその支道なのかもしれません。
ここから左にしばらく進んだ先には小さな祠の「白幡神社」があります。


押畑稲荷ー73
押畑稲荷ー74   (平成15年7月撮影)

「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。

大正三年の八生村誌には次のような記述があります。
〔押畑元押旗ニ作ル源頼義奥州征討ノ際、此地ニ次シ、旗ヲ押シ立シヨリ因ミテ押畑ト云フ由。
同地廣臺ニ白幡神社アリ、其跡ナリト云ヒ傳フ。〕
 


また、「千葉縣印旛郡誌」にも、
〔・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・〕
との記述があることから、「白幡神社」は現在の姿はともかく、押畑地区のランドマーク的な存在
であったことでしょう。
その「白幡神社」へと続くこの道もまた、重要な道であったはずです。


三基とも六臂像なのですが、持物は少しずつ異なり、同じ物でも持つ手が異なっています。

押畑稲荷ー23  
***押畑稲荷ー19  
******押畑稲荷ー20  

今から340年前の延宝八年の青面金剛、その34年後(306年前)の正徳四年の青面金剛、
そして105年後(235年前)の天明五年の青面金剛。

三基の金剛像は、その昔交通の要所であった三叉路を、今も見守っています。


****押畑稲荷ー61




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青面金剛(庚申塔) | 17:33:26 | トラックバック(0) | コメント(2)
千葉県内に3例しかない(?)石造金剛力士像
今回は、気になる石仏シリーズの金剛力士(仁王さま)です。

【「仁王さま」として親しまれている金剛力士像は、釈迦如来の「倶生神」(守るべき相手と同時に
生まれ、生涯を捧げ守護する使命を持つ者)である。梵名の「ヴァジュラダラ(阿形)」と「ヴァジュ
ラバニ(吽形)」は金剛杵を手にする者という意味で、「常に釈迦如来の周囲で金剛杵をとる」
仏法守護神とされる。】 
   (「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・
望月真澄/監修 2016年 宝島社 P147)

【金剛は「金剛杵」の意。あらゆるものを破壊する強力な武器で、金剛力士はこの武器を手に、
仏や信者を敵から護る、忿怒相の夜叉神です。日本では、上半身裸で筋骨隆々とし、血管が
誇張され、忿怒相の躍動感あふれる姿に表すのが主流となっています。敵を退散させる意味で
山門などに二一組で造像される金剛力士は、二つの王の意で仁王とよばれ・・・】

(「仏像の事典」 熊田由美子/監修 2014年 成美堂出版 P73)


石造仁王-1

旧本大須賀村の一坪田(ひとつぼた)に、廃寺となった田中山宝蔵院があります。
現在観音堂として残るお堂への登り口に、二基の丸彫りの仁王像が立っています。


石造仁王-2  (阿 形)
石造仁王-6  (吽 形)

めずらしい石造の仁王像です。


田中山ー26
田中山ー34田中山ー33
                                          (2014年10月撮影)
この仁王像に出会ったのはいまから5年前、偶然通りかかった道端でした。
これまでは、仁王門の格子や金網の中に立つ仁王像ばかり見てきたので、最初はずんぐり
した地蔵菩薩像かと思いました。
近づいてみると、それは初めて見る石造の仁王像でした。


石造仁王-10
田中山ー14田中山ー4

【一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。】

                                     (「成田の地名と歴史」 P365)

寛保三年は徳川吉宗の治世で、歴史上六番目の明るさと言われる「クリンケンベルグ彗星」
が現われた年です。
この彗星は、香取神宮の旧社家である、大禰宜家に伝わる「香取大禰宜家日記」にも記述が
あり、流言飛語が飛び交う不穏な空気の漂う中、二体の仁王像はこの地に建立されたのです。


石造仁王-12
石造仁王-5

左手に金剛杵を持って、口を開いている「阿形」は、諸法や物事の始りを示しています。


石造仁王-11
石造仁王-9

左手は拳を握り右手を開いて、口を閉じている「吽形」は、諸法や物事の終わりを示します。


石造仁王-10

石造仁王-2石造仁王-4
石造仁王-8石造仁王-6

.阿形の仁王像の背面には、次のような文字が刻まれています。

當村施主北崎氏甚右衛門
戒名即翁須達沙弥
奉建立田中山阿吽両躰
法師智元
寛保三癸亥正月廿三日

また、吽形の背面には多くの戒名が刻まれています。
(一部の文字については自信がなかったので、「大栄町の歴史散歩」(久保木良 著 1994年
崙書房 P58~59)に助けを借りました。)


田中山ー35

宝蔵院に関する記録は少なく、「大栄町史」の中でも旧昭栄村域の寺院として、簡単な記述が
あるだけです。

【 宝蔵院 新義真言宗。 一坪田村に所在。 山号は田中山(史話)。 「新義十五」に稲荷山村
大聖寺の門徒寺として載せられている。 元文二年の香奠帳(史料編Ⅲ)に名が見えている。】


元文二年(1737)の香奠帳とは、「元文二年閏十一月 津富浦村実岩良相香奠帳」のことで、
その中に「弐百文 一坪田宝蔵院」と出ています。


石造仁王-13

丸彫りのずんぐりした体型と、忿怒相でありながらことなく表情に愛嬌のあるこの仁王さまは、
約280年もの間「田中山」を護ってきました。
もう寺は廃寺となってしまいましたが、わずかに残った「観音堂」をこれからも守り続けるでしょう。



さて、「成田の地名と歴史」に”石造の二王さまは県内では3例しかない”と書かれていました
ので、他の2例についても見てみましょう。

九十九里町粟生の善福寺にも石造仁王像があります。
若尾山善福寺は寛永二年(1625)の創建と伝えられる顕本法華宗のお寺。
「山武郡郷土誌」(大正五年 千葉縣山武郡教育會)に、豊海村にある善福寺についての記述が
一行だけありました。

【若尾山善福寺 粟生區にあり、顕本法華宗に屬せり。】

本堂の前に二体の立派な石造仁王像が立っています。

石造仁王-42

説明板には次のように書かれています。

【 石造金剛力士像阿吽一対
この金剛力士像は、宝暦一〇年(一七六〇)江戸松屋町の石工上総屋二兵衛の作である。
古文書によれば、宝暦六年、粟生の表飯高十兵衛が蓮沼宮免の収益金を資とし、不足金
八両を助力して造立したが、十兵衛とのみ刻して第六天社に奉納したため、村内から苦情
が出、台座の文字を「惣氏子 助力願主飯高氏」と刻みなおして決着したという。金剛力士像
は寺門の左右を警護することから、後に別当の善福寺に移され、近年の寺堂改修際、現在
の位置に安置されたものである。】



石造仁王-38
石造仁王-39
                                                  (阿 形)

石造仁王-36
石造仁王-37
                                                  (吽 形)

阿吽両像の台座には、次のような文字が刻まれています。
前面に、「宝暦十歳庚辰改」「惣氏子」
側面に、「助力願主飯高氏」


石造仁王-27石造仁王-29
石造仁王-26石造仁王-24
石造仁王-43

一坪田の仁王さまと比べると、筋骨隆々の忿怒形という標準型の仁王さまです。



そしてもう一つの石造仁王像が旭市にあります。
( ※ 私はこの旭市の石造仁王像が一坪田・九十九里に続く3例目だと思っていましたが、
3例目は上総勝浦の長秀寺にあるとの記述を目にしました。 いつか機会があれば訪ねて
みたいと思います。)


石造仁王-46

旭市の「成田山真福寺」にある石造仁王像は、不動明王を護るように立っています。


石造仁王-19
石造仁王-22
                                                (阿 形)

石造仁王-18
石造仁王-21
                                                (吽 形)


石造仁王-55  
石造仁王-54

「旭町史 第2巻」(旭市史編さん委員会 1973年)に収録されている成田村の項に、真福寺に
ついての記述があります。

【 真福寺 字田町にある。摩尼山と号し、新義真言宗智山派。銚子市本銚子町(旧飯沼村)
円福寺末。寺伝によると、千葉氏一族の海上理慶が檀越である。理慶は成田に城塁を築き、
軍中の守本尊として聖観音を尊び、応永二年(一三九五)堂宇を造立して、理慶が日頃帰依
していた貞範を開基としたのが寺の草創であるという。文明年間(一四六九ー八七)兵火に
罹ったともいわれている。慶安二年(一六四九)十月朱印地一〇石を賜った。もと境内の東南
小塚の上に、海上公胤(理慶)の墓があったが、のち滅失したという。】
  (P118)


石造仁王-47
石造仁王-49石造仁王-51
石造仁王-52石造仁王-48

建立の日付らしき文字がうっすらと見えますが、風化で読み取ることはできません。
宝蔵院や善福寺の仁王像のような丸彫りではない分、やや迫力に欠けますが、忿怒の表情や
力一杯開いた手の形は、仏法を守護する神としての姿を十分に現しています。


石造仁王-4石造仁王-8
石造仁王-29石造仁王-26
石造仁王-49石造仁王-48

ふつう、木造の仁王さまは仁王門の中に立っています。
屋根があるとはいえ、風雨に晒される環境ですから、どうしても傷みが進みますが、その点、
石造りの仁王さまは長持ちがします。
細かい細工や彩色には向きませんが、大分県の国東半島のように、もっとたくさん造立例が
あってもよさそうな気がします。

「仁王」は、もとはインドの執金剛神(しつこんごうしん)という一体の神でしたが、インドから
中国を経て日本に伝えられる中で、二体となって「仁王」と呼ばれるようになりました。
日本語の五十音はサンスクリット語のアルファベットから生まれたと言われています。
仁王の「阿」は、サンスクリット語でも「ア」で、、「吽」は「ン」です。
「仁王さま」は恐い顔で立っているだけではありません。
私たちの日常に深く関わる存在なのですね。

  

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金剛力士(仁王さま) | 20:56:11 | トラックバック(0) | コメント(2)
奈土と松虫の愛染明王(石像)

今回は「気になる石仏・石神・石造物シリーズ」から、造立例が非常に少ない「愛染明王」の
石像を紹介します。

【愛染明王は、もともとは煩悩(愛欲や欲望、執着)を悟りに変えて、菩提心(悟りの境地)
にまで導いてくれる力を持つ仏尊。すなわち、愛欲と、その裏返しの怨憎の両方を整え、
人々の心を安らかにしてくれる仏尊である。】 

(「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・望月真澄 監修 P137)

【 忿怒形で、体の色は真紅、一面三目六臂が一般的である。 頭上に獅子頭のついた獅子冠を
載いているのが特徴で、獅子の頭からは天帯という長い紐が左右の耳の後ろを通って、膝の
あたりまで垂れている。 左手には金剛鈴、弓を持ち、いちばん後ろの手は拳を握って上に挙げ
ている。 右手には五鈷杵、矢、蓮華を持っている。 拳を握った左手には、われわれが求める
ものは何でも掴んでいるという意味が込められている。宝甁という大きな壺の上の蓮華座に
座る坐像のみで、立像は見られない。 赤い日輪を光背とする。】

(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P146)


昌福寺愛染明王-9

愛染明王像は作例が少なく、特に石像はほとんど見かけることがありません。
私の知る限りでは、成田市・奈土と印西市・松虫の二基があるのみです。


紫雲山-58
昌福寺愛染明王-6

この愛染明王像は、奈土にある「紫雲山昌福寺」の墓地の一角に佇んでいます。
「昌福寺」は天台宗のお寺で、開山は不詳ですが、いろいろな史料から、少なくとも450年以上
の歴史を有すると推定される名刹です。

「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
【奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。】
  (P276~277)     
(昌福寺について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)


紫雲山-16

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。

「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
【なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。】
 
とありますので、この像は、明和七年(1770)の造立、250年前のものであると思われます。

【愛欲の存在をそのまま認めて、悟りまで導く功徳を持つ明王である。特に男女の愛の悩みを
救うと信じられた。また、愛染という言葉から染色業の守り本尊になったりもする。町内では
一基のみが確認された。奈土の東光寺跡にあったもので、造立年代は不明であるが、三眼
六臂で日輪を表わす円光背を背負い、獅子冠を戴き、宝瓶の蓮華に結跏趺坐をしている。】

(「大永町史 民俗編」 P196)

廃寺となった東光寺については、「大栄町史 通史編中巻」に、次のような記述を見つけました。
【 東光寺 天台宗。奈土村字仲台に所在。本尊は阿弥陀如来(『県寺明細』)。天明六年前後
の天台宗寺院名前帳には、東叡山末(寛永寺末)として「一律院天幢山東光寺」等と載せられて
いる。 『県寺明細』には浄名院(台東区)末と記されているが、同院は寛永寺の子院である。
当寺の成立については明確な史料があり、元文五年(一七四〇)に山門(比叡山)の安楽律院
の末として、正式に寺院として認められた(『史料編Ⅳ』〔九七〕。同史料によれば当寺は廃寺で
あったのを、金岡氏で善楽沙弥と称した人物が再興したものという。 (中略) なお、その少し前
の文政九年(一八二六)に当寺は類焼で焼失したとある(『史料編Ⅲ』〔二五八〕。さらに『郡誌』
によれば、明治二年にも火災で諸堂のことごとくを焼失したという。その後昭和二十七年に至り、
栃木県日光市の日光山興雲律院に合併し、寺院としての役目を終えた。】 
(P561)

また、「千葉縣香取郡誌」には、
【 同所字仲臺に在り域内五百三十一坪天台宗にして阿彌陀佛を本尊とす寺傳に曰く享保
十一年亦亦金岡貞愛の創建する所にして仝空開基たり天保元年火災〇罹り八年之を再建す
往時は其構造頗る宏麗なりしが明治二年再び祝融の變に遭ひ本堂庫裏舎利堂悉く燒失せり
・・・ 】
 (P432 祝融とは、中国の神話に出てくる火の神)
記録にあるだけでも、文政九年(1826)、天保元年(1831)、明治二年(1869)と、たびたび
火災に見舞われた(43年間に3度も!)不運なお寺です。

なお、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史民俗編」の196ページに掲載されています。


紫雲山-17

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。


紫雲山-18

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。

成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけのようです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一印西市松虫の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。(今回、「印旛村史」に、平賀にもう一体あるこという
記述を見つけました。折を見て探したいと思います。)


もう一体の「愛染明王」像は、印西市の松虫寺に隣接する「松虫姫神社」境内にあります。

松虫愛染明王-1
                                        (松虫姫神社の愛染明王像)

宝甁の上に座ってはいませんが、台座には「女人講中八(?)人」と刻まれ、石仏の側面には
「嘉永元申年八月吉日」と記されています。
嘉永元年は西暦1848年ですから、170年前のものです。

松虫寺ー25
松虫寺ー28
松虫寺ー65
                                 (2014年11月 撮影)
「松虫姫神社」については、「印旛村史 通史1」(印旛村史編纂委員会編 1984年)に次の
ように記されています。

【松虫の松虫寺境内にある神社で、同寺の開基にかかわる聖武天皇の皇女松虫姫を祭神と
している。松虫姫が都で蚕を飼っていたという伝承から、同神社は蚕の神様として信仰を集め、
四月と八月の十五日の祭礼には、印旛郡内はもとより茨城県などから養蚕を行う人々が講社
を結成にて参拝に訪れ、境内にも露店が出るほど賑わった。しかし、養蚕業の衰退とともに
次第に参詣人も減少した。】
 (P823)

松虫愛染明王-2
********松虫愛染明王-3

左上の手は拳を握って突き上げ、中の手には弓を持ち、前の手には金剛令を持っています。
右上の手には蓮華を、中の手には矢を、そして前の手には五鈷杵を持っています。
頭上に獅子頭の付いた獅子冠を戴き、額には第三の眼があります。
(松虫神社について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)


昌福寺愛染明王-1
********昌福寺愛染明王-4
紫雲山-66

170年前の松虫姫神社の石像に比べて、250年前の奈土の石像は、長い風雪に耐えてきたに
しては驚くほど風化がなく、忿怒の形相はもとより、獅子頭やそれぞれの手に持つ金剛鈴や
金剛杵、弓矢などもはっきり見分けることができます。


昌福寺愛染明王-5
昌福寺愛染明王-7

多くの墓石に囲まれてひっそりと佇むこの石仏は、注意して見ないと見落としてしまいそうです。


「愛染明王像」といえば、成田山外周路の「馬頭観音像」が「愛染明王像」だとされていることに
も触れなければなりません。
ご覧の通り、よく見ればこの石仏の頭上にあるのは「馬頭」であって「獅子頭」には見えません。
獅子か馬の頭を戴き、三目で六臂であることなど、像容が似ているため、間違えられることが
多いのかも知れません。

成田山石仏-136
成田山の馬頭観音 成田山石仏-140
(この石像の詳細は http://narita-kaze.jp/blog-entry-275.html ☜ こちらをクリック)
 

昌福寺愛染明王-2

昌福寺愛染明王-3

愛染明王が祀られている成田山の光明堂などは、縁結びの祈願に訪れる人が大勢いますが、
意外とこの明王の像容を知る人は少ないように思います。

馬頭観音と間違えられている愛染明王があるかも知れません。
まだ、人知れず佇んでいる愛染明王がどこかにいるかも知れません。



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愛染明王 | 16:46:27 | トラックバック(0) | コメント(2)
江戸時代の幼児の墓標~時を超えて親の想いが沁みる
今回は「気になる石仏・石神・石碑」シリーズで、少々趣を変えた墓石についての観察です。

古い墓地の多くには、その片隅に無縁仏となった墓石が集められている一角があります。
お墓を守る人がいなくなると、無縁仏となってひとまとめにされ、墓石は廃棄されたり、一ヶ所
に積み上げられたりします。
人の移動が激しく、核家族化が進む現代では、実質的に無縁化するお墓が増加しますが、
江戸時代にも飢饉などの災害によって一家が離散し、無縁墓が発生することはありました。
跡取りがいなくなってしまうこともあったでしょう。
そして、明治・大正・昭和・・・と、長い時間の経過が無縁墓を増やし続けてきました。
限られた墓地では、こうした無縁墓は整理される運命にあり、うち捨てられることは免れても、
無縁塚として墓石を積み上げられることになります。
花を手向ける人もいない無縁塚では、物言わぬ墓石がただただ風雨に晒されています。


一ノ宮-6                           (栄町矢口の一ノ宮参道脇・矢口区共同墓地)

真城院ー41
                                    (高岡の真城院)
*****幼児の墓石-28
                                          (下金山の竜金寺)
善勝院ー15
                                           (八代の善勝院)


無縁塚の中に紛れて、あるいは代々続いている旧家の墓地の中に見え隠れする幼子の
墓石には、特に心惹かれるものがあります。


名古屋の「常願寺」裏の墓地では、多くの子どもの墓石を見ることができます。

幼児の墓石-12

「跬行童女」「幻泡善孩子」と彫られたこの小さな墓石からは、可愛かった我が子の面影を追う
親の哀しい心情が伝わってきます。
「跬」(き)とは片足を一歩前に出すさまを表わす言葉で、「跬行」とは多分、ヨチヨチ歩きのように、
まさに歩き始めようとしている様子を思い出して付けたのでしょう。
「幻泡」とは、<まぼろしとあわ>すなわち<はかないもの>を表わしてます(「泡幻」(ほうげん)
という言葉があります)。
「孩」(がい)とは、幼児の笑い声を表わす言葉で、「孩子」は2~3才ごろの幼児を愛おしむ
感情のこもった呼びかけです。
風化で年代は不明ですが、補修の跡が見られます。


幼児の墓石-13

「○○阿童子」 「安永○戌年二月」と読めます。
安永の干支に戌があるのは七年(1778)ですから、約240年前に亡くなった子供の墓石です。
菩薩像の顔は風化というより削られたような感じです。

童子(童女)とは子どものことですが、仏教用語としては、仏の王子すなわち菩薩を指す言葉で
あったり、菩薩や明王などの眷属につける名前であったりりします。
そして、15才ごろまでに亡くなった子どもの戒名としても使われることがあります。


幼児の墓石-15
幼児の墓石-17

向かって右に「妙空童女」、左に「雪然童女」と刻まれた墓石。
元号は見当たりませんが、「妙空童女」は四月、「雪然童女」には十二月と記されています。
「雪然」とは、<雪が降るように、白鷺が飛びおりるさま>(「旺文社・漢和辞典第五版)のことで、
「せつぜん」と読みます。
初夏と冬に亡くなった二人の娘を偲ぶ、親の哀しみが伝わってきます。


幼児の墓石-18
幼児の墓石-19

この墓石の戒名はどうしても読めません(二文字目は覚の異体字だと思うのですが・・・)。
「天保十己亥五月三日」と記されています。
天保十年は西暦1839年、十二代将軍家慶の時代で、この年の五月には高野長英・渡辺崋山
などが、幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた「蛮社の獄」事件がありました。
「○○童女」とありますから、女の子の墓石です。


薬師寺如意輪-18

幡谷の薬師寺境内の一角で見つけた幼子の墓石です。
「夢幻童子」と刻まれています。
享年は(はっきりとはしませんが)「十一月廿七日 灵位」とのみで、元号が見当たりません。
(「灵」は「れい」と読み、”霊・みたま”のことです)

「夢幻」を辞書で引くと、「夢とまぼろし・はかないこと」とあります。


幼児の墓石-22

如意輪観音像が彫られたこの墓石には、母親と思われる戒名も刻まれています。
左に「妙忍信女」と刻まれ、「享保十一丙午年」の文字が見えます。
享保十一年は西暦1726年、八代将軍吉宗の時代です。

「自分の墓には、幼くして亡くなった我が子を一緒に」とでも言い残したのでしょうか、子を想い
続けた、290年以上昔の母親の気持ちが伝わってくるような墓石です。



幼児の墓石-24

西大須賀の「昌福寺」の墓地で見つけたこの墓石には、「性譽浄心信女(?)」「禅譽了恵㳒子
(㳒は法の異体字)」「香○童女」と三つの戒名が刻まれた墓石があります(○は顔か韻のよう
な気がします)。  

幼児の墓石-29

側面には、それぞれの享年と思われる日付が記されています。
「性 寛政十三酉年四月○○」「禅 文化十三子○○」「香 文化十二亥年十月○○」と読めます。
寛政十三年は西暦1801年、文化十二年・十三年は1815・1816年になります。
寛政十三年から文化十三年の15年間に、この家族にどんなことがあったのでしょうか?。
寛政十三年に母親が女の子のお産の際に亡くなり(当時はお産で亡くなる母親は多かった)、
文化十二年には十四歳になった娘も亡くなって、その翌年には父親も亡くなってしまった・・・。
この墓石を見ながら、こんな想像をしてしまいます。


幼児の墓石-26
幼児の墓石-30

「夢幻童子」「幻泡童子」と刻まれた墓石は、外柵に囲われた立派なお墓の外に、ひっそりと
隠れるように立っていました。
両方の戒名の下には「享保八卯○○」と記されています。
二人が相次いで亡くなったとしたら、親の嘆きはいかばかりであったでしょうか。


幼児の墓石-31

「妙本浄定尼」「元文元丙辰九月〇〇」と刻まれた墓石の左側には、「穐月童女」という戒名も
併記されています。
「穐」は秋を指す言葉で、この幼子は秋に亡くなったのでしょう。



松崎の「善導大師堂」の奥にある無縁塚でも、いくつもの幼子の墓石を見つけることができます。

幼児の墓石-1

幼児の墓石-2

「妙霜童女」と刻まれた横に、「天保十亥年十一月十二日」とあります。
180年前の、霜の降りた初冬の寒い日に亡くなったのでしょうか。


幼児の墓石-3

この墓石には「慈雲童子」と刻まれています。
風化と苔で年号が読めませんが、「延享」と読めるような気がします。
延享だとすると、270年以上も前の墓石ということになります。


幼児の墓石-4

「幻紅童女」「享保六丑年」と読めます。
享保六年は西暦1721年、八代将軍吉宗の時代で、約300年も前の墓石です。


幼児の墓石-5

「秋月妙蓮信女」と刻まれた脇に、「夢幻童子」の戒名が並んでいます。
薬師寺の夢幻童子の墓石と同様に、母が幼くして逝った我が子と一緒に葬ってくれと言い残し
たのでしょうか。
はっきりとしませんが「天保」の元号が見えるような気がします。


幼児の墓石-6

他にも「恵光童子」「幻心童女」「幻性童子」「春覺童女」などの戒名が無縁塚の中に見えます。



幼児の墓石-23

奈土の「昌福寺」の墓地には、「梅薫善童女」「妙菖善童女」と刻まれた地蔵菩薩像の墓石が
ありました。
梅の薫りが漂う早春と、菖蒲が咲く初夏に、相次いで幼い娘を亡くしたのでしょうか。
美しい二つの戒名に、親の切ない哀しみが込められているような気がします。


飯岡の永福寺の無煙塚でも子供の墓石が多く見られます。

幼児の墓石-35


幼児の墓石-33

「幻覺童子」「宝永四亥年五月十五日」と刻まれたこの墓石の上部は欠けていますが、
わずかに「禅定尼」の文字が見えます。
この幼児の母親なのでしょうか。
宝永四年は西暦1707年、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)を起こしました。


幼児の墓石-34

ウメノキゴケに覆われたこの墓石には、「幻信童子」「泡〇童子」「〇〇童女」の三人の戒名。
いずれも享和の元号が記されているように見えます。
「享和」の時代は四年あまりしかないので、わずか四年の間に二人の男児と一人の女児を
失った哀しい親がいたわけです。


幼児の墓石-32

「一向孩女」と刻まれたこの墓石は、無煙塚の脇に無造作に放置されているようでした。
側面に「〇和十二年八月」と記されています。
〇に該当しそうな元号は明和くらいですが、明和に十二年はありません。
墓石も風化があまりみられませんので、どうやらこれは「昭和」ということのようです。
わずか80年余りのあいだに無縁仏となった「一向孩女」が哀れです。



しきたりや宗派の決まり事などで、縛られる成人の戒名に比べて、幼児の戒名には制約が
少ないようで、早逝した我が子への深い想いを表わした、美しくも哀しい文字が並びます。

そして、墓石の多くには地蔵菩薩が刻まれています。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を巡りながら、人々の苦難を身代り
となって受ける(代受苦)の菩薩ですが、子供の守護尊ともされています。

賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世のころより仏教歌謡
「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知れ渡り、子供の供養における地蔵信仰を作り上げました。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないと言い伝えられていました。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なので、親たちは幼子の墓石にすがるような
想いで地蔵菩薩像を彫ったのでしょう。
(「西院河原地蔵和讃」にはいくつものバージョンが伝えられていますが、代表的な和讃を
追記に載せておきます。)


庶民がお墓を持てるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在のような「○○家の墓」
というような形になったのは江戸時代も終わりに近づいたころからです。
それまでのお墓は個人単位で、墓石も死者の数だけ建てられました。
多産・多死であった江戸時代は、子どもが成人になるまで生きられる確立は50パーセント
程度であったと言われています。

【 「七つまでは神のうち」という言葉に示されているとおり、死産児や生後間もなくなくなる
乳幼児が多かった江戸時代には、数え年七歳になるまでは人間とは見なされず、葬儀が
行われないこともあった。】
【 大名家など特殊な事例を除き、庶民が子どもの墓石を建てるようになるのは、成人より
遅れ、江戸中期以降である。】
 (「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 P134) 

幼くしてこの世を去り、やがて無縁仏となって墓石を無縁塚に積み上げられ、弔う人も無く、
長い年月を雨風に打たれている・・・。
哀れで、愛おしくもある、幼子の墓石。

それでも、墓石すらなく土に還った大多数の幼子たちに比べれば、まだ幸せなのでしょうか。



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気になる石仏・如意輪観音(1)~廃寺跡で何を想う如意輪観音
如意輪観音は禍を福に転じて、あらゆる人々の願いを叶える観音様です。
如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意
宝珠と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意
宝珠を持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、
第二手には蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県
那珂市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置
いていて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。




一ノ宮-34
                    廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像


印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。

一ノ宮-51

【一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。


長見寺如意輪-1

「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。

寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。


長見寺如意輪-19
長見寺如意輪-20

廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】



長見寺如意輪-2
長見寺如意輪-6
長見寺如意輪-7

穏やかな優しい表情です。


長見寺如意輪-3
長見寺如意輪-15
*******長見寺如意輪-4
長見寺如意輪-13


「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。


長見寺如意輪-14
長見寺如意輪-5

右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。


長見寺如意輪-8
長見寺如意輪-9

この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。


二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡


長見寺地図

                             「長見寺跡」  印旛郡栄町矢口1 




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如意輪観音 | 15:40:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・青面金剛(1)~消えた寺に取り残された二基の青面金剛

青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。



青面金剛・東陽寺-10

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


青面金剛・東陽寺-24
東陽寺ー2
*******東陽寺ー3

左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。

右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


青面金剛・東陽寺-19

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


青面金剛・東陽寺-27
青面金剛・東陽寺-4

さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。


青面金剛・東陽寺-20

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。


青面金剛・東陽寺-16

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。


青面金剛・東陽寺-28

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。


二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

青面金剛・東陽寺-14


初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

東陽寺ー9
                                          (2015年5月 撮影)

「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年) 

永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。

その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。


東陽寺ー10
******東陽寺ー11
***********東陽寺ー12

青面金剛・東陽寺-12

そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。


青面金剛・東陽寺-13

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。


青面金剛・東陽寺-1


成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


東陽寺ー25 (2015年5月 撮影)

青面金剛・東陽寺-11

人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。



AAA野毛平地図

                          「妙照山東陽寺」   成田市野毛平614-2




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青面金剛(庚申塔) | 19:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・地蔵菩薩(1)~神光寺の首無し地蔵

釈迦の入滅後、弥勒菩薩が悟りを開くまでの間(五十六億七千万年)、この世には仏が
いない無仏時代が続きます。
この無仏時代に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生の教化・救済を
行うとされているのが地蔵菩薩です。
袈裟を纏い、剃髪で、左手に宝珠を捧げ右手には錫杖を持つ像容が一般的です。
この世で徳を積むことなく幼くして亡くなったため、賽の河原で鬼にいじめられている子供達
を救うとも言われます。



今回は、野毛平の神光寺にポツンと立っている、首を落とされたお地蔵様です。                         

地蔵・神光寺-13
地蔵・神光寺-16
地蔵・神光寺-2
地蔵・神光寺-4
***********地蔵・神光寺-23

全く人の気配がない野毛平の山道に、荒れ果てた神光寺を見つけたのは四年前のことでした。
境内への入り口に、ポツンと地蔵菩薩の石像が立っていました。

その姿は、私の胸に小さな衝撃を与えるものでした。
明治初めの廃仏毀釈の嵐の中で首を落とされたことは、疑う余地が無いでしょう。
首だけでなく、宝珠を持つ左手と錫杖を持つ右手をも落とされた無残な姿は、受けた仕打ちに
150年経った今も呆然として立ち尽くしているかのようでした。

誰が乗せたのか、セメントで作られた間に合わせの頭部には、線描のような目鼻が付けられて、
その表情がまた、納得できない哀しみを表しているように見えました。

神光寺ー3
                                           (平成27年5月撮影)


地蔵・神光寺-14

四年ぶりに見た地蔵菩薩には、セメントの頭部がありません。

地蔵・神光寺-25
******地蔵・神光寺-27
***********地蔵・神光寺-28

誰かがいたずらで持ち去ったのでしょうか。
気のせいか、砕かれた宝珠と錫杖の痕も少し風化が進んだように思えます。


地蔵・神光寺-37
地蔵・神光寺-38


「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
江戸時代にはすぐ隣にある「鎮守皇神社」の別当でした。

『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。

また、「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記されています。
『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』
 (P781)

神光寺は、少なくとも350年以上の歴史があるお寺ですが、残念ながら本堂も境内も荒れ放題。
野毛平地区は、成田空港の騒音指定地域となって、住民の大半がこの地を離れたのですが、
檀家・住民が離れていった寺が、わずか数十年でこれほどまでに荒廃するとは・・・・


地蔵・神光寺-15

台座には、「元文三年戊午」「十五夜念佛開眼」「八月吉日 施主二十一人」と刻まれています。
十五夜念佛講による月待塔の刻像塔で、元文三年は西暦1738年、約280年前のものです。
月待塔には文字塔が多いのですが、これはめずらしい刻像塔です。

月待とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まり、
飲食をしたりお経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
月待行事は室町時代から確認されていて、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行しました。
ここ野毛平では、全国的な流行よりだいぶ早い時期から月待行事が行われていたようです。


地蔵・神光寺-17

台座の脇に石ころが・・・
笹や枯葉を払い、付いた泥を拭うと、それは地蔵菩薩の頭部、あのセメントの頭部でした。
いたずらではなく、風か地震によって落ちてしまったのでしょう。


地蔵・神光寺-18

そっと乗せてみました。
四年前のあの顔です。
人間の行いの理不尽さを哀しむような、そんな表情です。


地蔵・神光寺-19
地蔵・神光寺-20

泥はやがて雨が洗い落としてくれるでしょう。


地蔵・神光寺-34
地蔵・神光寺-29
地蔵・神光寺ー41

この境内に再び人々が戻ってくることはないでしょうが、本堂が朽ち果て、境内が竹や雑木に
覆われるまで、地蔵菩薩像はここに立ち続け、時の流れを見つめているのでしょう。



AAA野毛平地図

                            「天照山神光寺」   成田市野毛平497



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地蔵菩薩 | 22:00:00 | トラックバック(0) | コメント(10)
気になる石仏~成田山外周路の続き~愛染明王か、馬頭観音か?

成田山石仏-62

前々回の「ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏」を取材している時、とても気になる石像
が近くにありました。
取材終了以降も何度か立寄ったのですが、この石仏が「愛染明王」なのか、「馬頭観音」なのか
の判断ができずにいました。


成田山石仏-72
*************成田山石仏-71

初めてこの石像を見たときは、「馬頭観音」だと直感しました。
三面八臂の坐像で、所々に朱色の塗料がわずかに残っています。

頭上には馬頭冠を戴き、根本馬口印を結んでいるように見えます。
馬頭観音は立像が多く、坐像は珍しいのですが、いくつかの特徴がこの石像は「馬頭観音」
であると示しているように思えました。

数枚の写真を撮り、十メートルほど離れた場所にある「亀乗り薬師如来」や「十一面観音」、
「勢至菩薩」や「青面金剛」と共に紹介しようとしましたが、「成田山新勝寺史料集 別巻」
にこの石像が「愛染明王」であるとの記述を見つけ、前々回の紹介記事からはこの石像を
外すことにしました。

文政元年(一八一八)十一月に成田村の藤藏らが建てた愛染明王像で、石工は庄吉である。
彫られた像は三面三目八臂の姿で円相を光背にして結跏趺坐し、頭部には獅子冠をいただく
姿となっている。像の前に建つ光明堂は大日如来を本尊としているが、本尊の脇に愛染明王
もお祭りしているので、この場所が適しているのである。】 
(P54)

こうはっきり記されている以上、馬頭観音とは書けませんが、愛染明王にもいまひとつ納得が
できませんでした。


額堂-97
                                  (外周路を隔てた境内にある光明堂)
成田山石仏-68

光明堂が現在の場所に移設されたのは安政二年(1856)のことですから、その四十年も前
の文政元年に、すでにこの場所に愛染明王像を置くとは少々出来過ぎな話に思えます。
もっとも、移設された光明堂に愛染明王が安置されていることから、他所にあった愛染明王像
をこの場所に持ってきた、とも考えられます。


成田山石仏-69
*************成田山石仏-66
成田山石仏-67

何回も通ってあれこれ眺めましたが、自信が持てないままに記事を見送っていました。

周りに建つ石碑は、いずれも明治時代の護摩木山の碑や永代御膳料の碑ばかりで、この
石像が移設されたものであることを強く示しているように思えます。


紫雲山-18
                                  (奈土・昌福寺境内の愛染明王像)
松虫寺ー28
                               (印西・松虫姫神社境内の愛染金剛像)

 髪を逆立て、獅子冠を戴き、三目六臂(三つの目と六つの宛を備えた形)で、冠上に五鈷
(インドから伝った仏具)を飾り、三眼で牙をむき出し、蓮華、弓矢、宝鈴、五鈷杵をそれぞれ
の手に握って、赤い火焔の円相を背にして、宝瓶に活けられた赤蓮華台に結跏趺坐している】

(「日本仏像大全書 四季社 2006年」 P29~30 愛染明王)

成田山石仏-65

細かいところはともかく、この石像の特徴は、愛染明王像にほぼ一致しているように見えます。


成田山石仏-70

しかし、何度見ても頭上にあるのは獅子冠ではなく、馬頭に見えてしまいます。


これまでに多くの馬頭観音像を紹介してきましたが、そのいくつかを並べてみても、いずれも
頭上には面長の馬頭を戴いています。

観音寺-4
                                           (南羽鳥・観音寺)
昌福寺ー17
                                            (富里・昌福寺)
観音堂ー25
                                         (富里・新橋観音堂)
自性院ー14
                                            (小泉・自性院)
田中山ー41
                                           (一坪田・宝蔵院)


さて、三ヶ月もの間悩んできたことが、実に簡単なことから一気に解消することになりました。


成田山石仏-137

先日、思い立って早朝の成田山を訪ねた時、いつも見ていた日中とは違う角度の日当りが、
石像の凹凸を浮き上がらせてくれたのです。
斜めから、上から、下から、と何度も目を凝らして眺めていた石像が、これまでとは全く違う
表情を見せてくれたのです。


成田山石仏-143

頭上にあるのは紛れもなく「馬頭」でした。


成田山石仏-142
成田山石仏-138

今までどうしてこのようにはっきりと見えなかったのか?
ピンと張った耳、ふさふさとしたたてがみ、見開いた両目、大きく開いた鼻・・・、立派な馬頭です。

この石像は「愛染明王」ではなく、「馬頭観音」でした。


成田山石仏-139
成田山石仏-64

体の正面で結んでいる印は、愛染明王の「根本愛染印」ではなく、「根本馬口印」です。


成田山石仏-144

「馬頭観音」は、他の観音像が女性的で穏やかな表情であるのに対して、一般に憤怒相で
あることが特徴です。
このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて明王部に分類されることもあります。
近世以降は国内の流通の活発化に伴い、荷運びの手段として馬が頻繁に使われるように
なり、事故や病気などで死んだ馬の供養のために建てられることが多くなりました。

「馬頭観音」または「馬頭観世音菩薩」などと文字のみを刻むことがほとんどで、石像が刻まれ
ているものは少ないようです。


成田山石仏-145

この馬頭観音像は、前々回の「ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏」で紹介した
四体の石仏群から、新しくできた醫王堂へ向かって十メートルほど進んだところにあります。
(薬王寺に下る坂の降り口、左側になります。)



「亀乗り薬師如来」などの石仏群からは、石像の上部がわずかに見えます。(矢印)


裏門からの外周路は、実は「平和大塔」への近道で、注意しながらゆっくり歩くと、いろいろと
おもしろいものが見つかります。

額堂-3
                                              (のぞき小僧)
額堂-8
                                                 (包丁塚)
額堂-100
                                             (珍しい石仏群)
医王殿-5
                                         (新しくできた醫王殿)


成田山石仏-136

成田山石仏-140

表参道から総門をくぐり、仁王門から石段を大本堂へと上る王道コースを外れて、裏門から
外周路をのんびり散策すると、思わぬ発見があるかもしれません。
額堂と光明堂の裏側を見ながら、「醫王堂」と「平和大塔」にお参りするのはいかがでしょう。




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馬頭観音 | 16:31:10 | トラックバック(0) | コメント(2)