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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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見事な鐘楼門~能満寺
今回は「浄妙寺」に続いて、多古町の「能満寺(のうまんじ)」です。

能満寺ー1

通りから長く急な石段が伸びています。
この辺りは急坂が続き、その坂のさらに上に「能満寺」はあります。


能満寺ー2

石段下に立つ正徳五年(1715年)の「題目塔」。
風化・摩耗もなく、300年も前のものとは思えません。
「南無妙法蓮華経 奉唱玄号 三万部成就」と刻まれています。

能満寺ー3

石段の途中から山門が見えてきます。
この石段は91段ありました。


能満寺ー4

石段を登ったところにある2基の題目塔。
いずれも風化が進んでいますが、左は文化十二年(1815年)のもので、「南無妙法蓮華経」
と読めます。
右は「寛永」の年号以外はほとんど読めませんが、かろうじて「部」という文字が読めますので、
奉唱供養塔なのではないでしょうか。

能満寺ー5
能満寺ー6

山門と見えたのは、堂々たる鐘楼門でした。
天保九年(1838年)の建立で、山門の上部は鐘楼となっています。
説明板には構造について詳しく書かれています。

「入母屋造り、銅板瓦棒葺の四脚門で扇棰の二軒、妻飾りは虹梁蟇股式である。
平面プランは桁行三・四八m、梁間三・四九mとし、主柱、控柱は円柱で、腰貫、
虹梁、台輪で結架し、柱上は和様の三手先斗栱をつけ、上層の回縁を支え、象鼻
を飾る。表側左右の柱を結ぶ虹梁の上部に頭貫、台輪、中央に三手先斗栱、梁蟇
を具える。上層は円柱に長押、台輪で結架し、周囲に回縁、和様の高欄がつく。
柱間には中央に双開扉、左右は格子窓とする。」(以下略)


能満寺ー20

四脚門とありますが、実際には六脚あります。
私の数え方に問題があるのでしょうか?

※この件についてメールをいただきました。
門柱が二本で、控柱が左右に二本ずつ、計四本あるものを四脚門と言うことが分かりました。
すっきりしました。ありがとうございました。(4/2記)


鐘楼部分の方が大きい造りになっていますが、吊り下げられた梵鐘の重みで安定を保つ
ように設計されています。
戦争中に梵鐘が供出された後は、梵鐘と同じ重量の石が吊るされているそうです。

一見とても不安定な建造物に見えますが、関東大震災にも、東日本大震災にも耐えた
ということは、よほど綿密な設計と丁寧な施工が行われたのでしょう。
「天保九年(一八三八)九月二十六世日温の時代に建てられたもので、棟梁は村内の
及川半兵衛であると伝えられ、同家の墓石に、次のように刻まれている。『当山鐘楼門者
師龍牙院日温聖人之再建而 棟梁者父円珠院誠貞日敬也 依修復料嘉永四年三月
金子拾両納之』」
 (「多古町史 上巻 P900)

墓石に刻まれている嘉永四年は1851年、鐘楼門が建立されたのは天保九年(1839年)
ですから、半兵衛には建築後も修復の依頼があったのでしょう。
残念ながら及川半兵衛の記録は他に見当たりませんが、知られざる名工と言えるでしょう。
180年後の今も堂々と立つ鐘楼門を見たら、彼はどう思うのでしょうか。


能満寺ー7

境内左手の「稲荷神社」。

能満寺ー8
能満寺ー9

「能満寺」は山号は「勝栄山」。
日蓮宗のお寺で、天文五年(1536年)の開創とする説と、天正三年(1575年)とする
二説があります。

「多古町史 上巻」に記載されている開創に関する二説資料を紹介しておきましょう。
一つは明治初期の「寺院明細帳」で、
   
   千葉県館下下総国香取郡東松崎村字戸ノ内
      千葉県下安房国長狭郡小湊村誕生寺末
                             日蓮宗  能満寺
一、 本尊 釈迦牟尼仏 
一、 由緒 当寺開山日運聖人コトハ安房国長狭郡小湊村平民正木左近太夫舎兄、
    同国同郡同村誕生寺住職日境聖人ノ徒弟ニシテ日運ト云フ、天文五丙申年
   (一五三六)四月当地方ニ来テ旧故妙正庵ト云フ之ニ付、天文五丙申年八月
    九日一箇寺創立スト、只古老ノ口碑ヲ記載スルノミ  以上
一、 堂宇間数  本堂縦七間半横五間半、庫裡縦九間横五間
一、 境内坪数  千三百五坪持主能満寺
一、 境内仏堂  無之 建物鐘楼門縦二間横二間
一、 境内庵室  無之
一、 境外所有地  耕地段別壱町壱畝四歩
             山林段別三反三畝廿八歩
  (P899)

そしてもう一説は「過去帳」にある記述で、

「天正三年(一五七五)十一月当山開基勝栄院日運聖人、房州加茂日運寺ト当寺両寺一寺
也日運トハ房州正木大膳太夫也、正木左近太夫ノ舎兄也、御知行所松平左門殿領分加茂
日運寺ヨリ引キテ山ヲ開キシ寺号也、両山一寺ノ証文廿二世本山日明師御本尊ニ有也、同
廿四世映師ノ御証文別ニ有之、並ニ永聖ノ証文有之宝凾ニ収ム(両寺一寺ハ十代心常院
日行聖人迄続ク十一世要善院日円聖人当能満寺中興サル)」
  (P899)

これらの資料では、開創年代の違い以外に、開創してしばらくの間は、房州加茂の日運寺と
「両山一寺」の関係であったという興味ある記述が見えます。


能満寺ー10

開放的な本堂のガラス越しに、ご本尊(?)が見えます。
失礼して一枚撮らせていただきました。

能満寺ー14

この手水盤は昭和12年に奉納されたものです。

能満寺ー13
能満寺ー12

境内の左手奥に昭和63年に建てられた「水子観音」があります。


能満寺ー16

墓地には、元禄、宝永、享保、寛保、寛政、文政などと記された古い墓石に交じって、
明治以降の新しい墓石も見えます。


能満寺ー19

墓地の奥、突き当たりの場所に、「南無妙法蓮華経」と刻んだ題目塔を見つけました。
題目の左右に、「當寺 日運聖人 中興■■」「開山 日明聖人 當寺■■」とあります。
注目すべきは側面に記された「天正三亥十一月九日」の文字です。 
天正三年(1575年)は、前述した二説ある能満寺開創の年代の一つです。
どうやら「過去帳」にあった天正三年説が有力となってきました。


能満寺ー11
能満寺ー21
能満寺ー17

「日運寺」については、里見家の重臣、正木時道が出家して加茂にあった荒廃した小堂を
再興して「日運寺」とし、自らも「日運」と名乗ったと伝えられています。
そして、ここ「能満寺」は「日運」の隠居所として開かれたとも伝えられています。

立派な鐘楼門に梵鐘が無いのはいかにも残念ですが、鍾銘が「多古町史」に残っています。

「奉造立椎鐘一器勝栄山能満精舎常住
奉慎唱満一切経之惣要一千部成就所
奉自書写超八醍醐妙経十部成弁所
右白福初修志者慈父常徳院妙正日行
悲母清光院妙泉日相擬報恩謝徳者也
為妻女真如院晴月妙林日泉証右菩提
先祖一門法界有無二縁平等抜苦而己」
  (P900~901)

宝永三年(1706年)、「江戸神田住粉川丹後守作」と記されていたそうです。
鐘楼門の建立より130年も前に鋳造されたことになります。
勝栄山の文字がありますから、このお寺のために造られたことは間違いないでしょう。
鐘楼門が建立される前にあった鐘楼に吊るされていたものなのでしょうか?
とすると、棟梁の及川半兵衛は、この梵鐘の重量を計算した上で、鐘楼門を安定させる
設計をしたことになりますね。

こう考えると、この鐘が吊るされた鐘楼門を一度見てみたかったな、と思いました。


能満寺ー18


             ※ 「勝栄山能満寺」 多古町東松崎1957
                多古循環バス 常盤・中ルート 塙坂上 下車 徒歩3分
                駐車場なし(裏参道に回って急坂を登れば、かろうじて1~2台分の
                スペースがありますが、境内に直接乗り入れる形になります。) 



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多古町の寺社 | 10:43:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
多古町最古のお寺~浄妙寺
今回は多古町最古のお寺、「浄妙寺(じょうみょうじ)」を訪ねます。

浄妙寺ー1

浄妙寺の前身は「法性山東耀寺」で、「土橋山東漸寺」(現「東禅寺」)とともに鑑真を開基
として天平宝字(757~765)のころの開創と伝えられています。
「天平法字二年、下野の薬師寺と筑紫の観世音寺に戒壇が設けられ、東大寺と合わせて
三戒壇といわれているが、東耀・東漸二寺もそれにならい東大寺と合わせて三壇三東を
称していた。なお、東耀寺は聖武天皇の祈願所であったともいうが、伝えられる開創年代
には天皇はすでに亡くなっている。」
 (多古町史上巻P45)

「浄妙寺」は1250年余の歴史を有する、この地方有数の古刹です。
鑑真を開基としていますから、当初は律宗のお寺でしたが、永仁年間(1293~1299)に
真言宗に改宗し、その後正平元年(1346年)に日蓮宗に改宗しています。
「多古町史」には
「往昔七堂伽藍完備し、総国屈指の大霊場たりしも、南北朝時代に入りて荒廃に傾き、
遂に正平元年に至りて本宗に改め、山称寺号を改むと伝ふ」

と「大日本寺院総覧」(大正5年)からの引用が見えます。(P45)


浄妙寺ー30

樹齢数百年にはなろうかという、銀杏の大木が迎えてくれます。


浄妙寺ー2

門柱と並んで「南無妙法蓮華経 法性山浄妙寺」と彫られた石柱が立っています。
昭和55年の建立で、側面には「宗祖第七百遠忌報恩奉行塔」と記されています。


浄妙寺ー3
浄妙寺ー4

仁王門の右手前に朱塗りのお堂があります。
何のお堂か分かりませんが、鞘堂の内壁に沢山の十二支の絵馬が掛っています。

浄妙寺ー5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浄妙寺ー6

仁王門の前、左右に2基の題目塔があります。
左は明治11年の「宗祖(日蓮)六百遠忌」の題目塔で、右の題目塔には天明元年(1781年)
に営まれた五百年忌法要について記されています。


浄妙寺ー7

この立派な仁王門は寛保年間(1741~43)頃に建てられたもののようです。
掲げられている扁額は、京都の宝鏡寺の本覚院宮法親王が書いたものと伝えられています。

浄妙寺ー9
浄妙寺ー28
浄妙寺ー8
浄妙寺ー27

左右に見事な仁王様が立っています。
2メートル近い堂々たるお姿で、250年以上も立ち続けています。
江戸の大仏師・法橋高山がこの二体の仁王様を納めた時の代金領収書が残っています。

     覚
一、 仁王  御長六尺三寸  弐躰
    代金弐拾六両三分相定
    右之通不残慥請取相済申候所実証也  為念如此候 
    宝暦十二年午九月十五日
    江戸下谷池之端仲町
       御大仏師 法橋高山 ㊞
    浄妙寺  日透聖人様    
         (「多古町史下巻」 P212)


浄妙寺ー10

「南無妙法蓮華経 有無両縁萬霊供養塔」と刻まれた石塔の周りには、沢山の古い板碑や
墓碑が積み上げられています。


浄妙寺ー11

「慈母観音」ならぬ「悲母観音」。
「悲母観音」は狩野芳崖の画が有名ですが、観音像としては私は初めて目にしました。


浄妙寺ー13
浄妙寺ー12

手水盤の脇に観音様を置いた手水舎。
手水盤には明和七年(1770年)の紀年銘が記され、江戸堺町(現人形町)の文字も見えます。


浄妙寺ー14

ご本尊は「釈迦牟尼仏」です。
このお寺は当初、現在より北方の高台である法性台にありましたが、応永二十年(1413年)
に大風によって倒壊し、現在地に移転しました。

天正十八年(1590年)には徳川家康によって十二石の朱印地が寄進されましたが、その時
の記録が残っています。

寄進  浄妙寺
     下総国匝瑳郡
     中村郷之内
  拾弐石事
右令寄附証
殊寺中可為不
入者也扔如件
  天正十九年辛卯十一月日 (御朱印) 
 (多古町史 下巻P198)


浄妙寺ー16
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・浄妙寺ー17
境内脇の墓地には、古い墓石が並んでいます。
寛文、正徳、元文、明和、天明、文化、天保などの年号が読めます。


本堂の屋根を見上げると、何やら不思議なものが見えます。
金網で覆われているため良くは見えませんが、成田山の「釈迦堂」の「火伏の鬼」のように
棟木を支えている力士像のようです。
東西に一体ずつあり、境内から少し離れるとはっきり分かります。
釈迦堂の火伏の鬼 ⇒

浄妙寺ー20
浄妙寺ー19   東の力士
浄妙寺ー21
浄妙寺ー22
浄妙寺ー23   西の力士

多くの記録が残る「浄妙寺」ですが、この力士像に関する資料は「多古町史」にも収録
されていません。
応永二十年の移転の時に造られたものなのでしょうか?
良く見るとあちこちが大分傷んでいるようです。
長い間この大屋根を支えているのは大変でしょうと、思わず同情してしまいます。


浄妙寺ー24

このお寺は山の裏側を回り込むように下る坂の下にあります。
お寺の前には谷津が広がっています。

浄妙寺ー25
浄妙寺ー29

1250年という歴史を有する「浄妙寺」は、多古町最古のお寺です。
享保六年(1721年)の文書には、
「惣境内  長六町 横四町半
        此内ニ松杉等林御座候」
 (「多古町史 下巻 P206)
とあります。
かつては広大な境内を有していた「浄妙寺」。
今ではその十分の一にも満たない広さですが、しっかりと記録が残され、歴史的に大きな
価値を持つ存在になっています。


浄妙寺ー31

              ※ 「法性山浄妙寺」 多古町北中2214
                 多古新町・道の駅多古等から循環バス 常盤・中ルート
                 六所神社下車 徒歩約10分    駐車場あり


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多古町の寺社 | 08:24:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
1180年の歴史~六所大神
今回は多古町の北中にある「六所大神(ろくしょおおかみ)」を訪ねます。

六所大神ー1

昭和10年建立の大きな台輪鳥居が参拝者を迎えます。

ご祭神は、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「天照皇大神
(あまてらすすめおおかみ)」「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「月読尊(つくよみのみこと)」
「蛭子尊(ひるこのみこと)」の六神です。
「蛭子命」はあまり聞かない名前なのですが、「えびす様」と言えばお分かりになるでしょう。
(蛭子=戎、恵比寿とする説には異論も多くあります)

ちょっと脱線しますが、「蛭子命」とは、「伊弉諾」と「伊弉冉」の間に生まれた最初の子で
ありながら、3歳になっても立てなかったために葦の舟に乗せられて「オノゴロ島」に流されて、
二神の子にも数えられていないという、可哀そうな生い立ちが伝えられている神です。
神話の世界とは言え、ここでは二神と一緒に祀られているのは何かホッとしますね。

流された「オノゴロ島」には単に神話の世界だとする説と、実在するとする説があります。
実在すると言う説にも、沼島、絵島、友ヶ島などの諸説がありますが、いずれも淡路島の
近辺であることは一致しています。

六所大神ー2

鳥居の脇に「延喜式内」と記された大正2年の石柱がありますが、この神社が延喜式内の
社格であるという記録は残念ながら見当たりません。

延喜式とは、平安時代に編纂された律令の細則(格式)で、延喜五年(905年)に醍醐天皇
の命により編纂が始められ、延長五年(927年)に一旦完成を見た後、改定を重ねて康保
四年(967年)に施行されたものです。
その中の延喜式神名帳に記載されている神社は2800社余りがあり、それらは「式内社」と
呼ばれて格式が高いとされています。
下総地方では式内社の中でも最も格の高い「香取神宮」が有名ですが、成田市内では台方
と船形の麻賀多神社が式内社です。
台方の痲賀多神社 ⇒
船形の痲賀多神社 ⇒


平日なのに日章旗を掲揚 六所大神ー3
六所大神ー4  祭礼用の大幟立て
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六所大神ー6
六所大神ー39
鳥居をくぐった左右には大きな石碑が・・・。
元陸軍大将の荒木貞夫の筆になる「大東亜戰記念碑」と大正13年の「表忠碑」。

六所大神ー7六所大神ー8
これは何が載っていたものでしょうか?
年代不詳ですが、見事な麒麟(?)が彫られています。

六所大神ー11

式内社ではなくても、この杉の大木が並ぶ参道は、「格」を感じさせるに十分な貫禄です。

六所大神ー12

「南無妙法蓮華経」と彫られたこの板碑には紀年銘が見当たりませんが、裏面には、
「天下泰平五穀成就」「一天四海皆逼妙法」の他に「御領主御武運長久」とも記されている
ので、それなりに古いものだと思われます。

六所大神ー15

少し奥に入った場所にある、同じく「南無妙法蓮華経」と彫られたこちらの板碑には、左右に
「大教流行神威倍 雨賜和適百穀豐」「風化美郷穩 葘消福臻萬家隆」との題目が記され、
安政四年(1857年)の紀年銘があります。


六所大神ー16

「多古町史 下巻」(昭和60年 多古町史編さん委員会)には、「昭和になってからではあるが
故波木栄之助宮司がまとめ記された『村社六所大神御記』があり・・・」として、この神社の
由来についてその一部を転載しています。(P181~182)

「仁賢・武烈の昔、物部の小事大連・節刀を錫(ママ)はり東征して功有り、邑を下総に賜はられ
因て改め匝瑳連と称し、其の裔中村の郷に居り、世々陸奥鎮守将軍に補せらる。
人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)紀に陸奥鎮守副将軍物部の匝瑳連足継
なるものあり。又人皇第五十四代仁明天皇承和二年(八三五)紀に下総の人鎮守将軍物部
匝瑳連熊猪、姓宿禰を賜はられ改め左京を貫す。其子匝瑳連末守之を継で鎮守将軍たり。
当六所大神は、実に仁明天皇の御宇承和中(八三四~八四七)鎮守将軍物部匝瑳連中村
の郷の郷社として創祀せし所の祠なりしなり。
因に又総社伝記に曰く、「人皇十二代景行天皇の朝(七四~一二七)に当り、国府毎に必ず
六大神を祀る。故に常武二毛諸国府の址に皆其の祠あり」と。蓋し中村の郷は匝瑳の中央
に位し、匝瑳連の居所にして郡要衙の所在地たりしを以て、国府に倣ふて之れを祀れるもの
なりといふ。」


これによれば、5世紀末に東征に功を挙げて匝瑳地方を賜った物部小事(もののべのおごと)
の子孫で、陸奥鎮守将軍に任ぜられていた物部匝瑳連熊猪(もののべのそうさのくまい)が、
仁明承和年代にこの神社を創建した、としています。
実に1180年もの昔になります。
また、六所神社とは、六つの神社を合祀しているので「六所神社」と呼ばれることもあるよう
ですが、ここは六大神を祀ることからくる名前であることが分かります。

六所大神ー17

手水舎と手水盤。
手水盤には文久元年(1861年)と記されています。

嘉永六年(1853)の石灯籠 六所大神ー18六所大神ー19
昭和32年に寄進された狛犬六所大神ー20
六所大神ー21

六所大神ー22
六所大神ー23 拝殿正面の龍の彫刻
六所大神ー24  「六所宮」の神額

六所大神ー26
六所大神ー27

本殿も拝殿と同様に、余計な装飾を排した重厚な造りです。

元亀三年(1572年)に兵火によって以前の社殿や文書はことごとく焼失してしまいました。
後に再建された現在の本殿には、嘉永六年(1853年)及び文久元年(1861年)に改築
したとの棟札が残っています。

六所大神ー28

本殿右手にある末社の「宇賀神社」。
手前の石灯籠は寛政九年(1797年)のものです。

六所大神ー29
六所大神ー31

同じく右手にある摂社の「雄健神社(おたけびじんじゃ)」。
この神社は軍事に関わる神社で、戦前から軍の駐屯地などに祀られているものです。
手前の鳥居は「軍人会一同」の奉納で、灯篭にも「遺族会」とあります。

六所大神ー32

「雄健神社」を囲む石柵の下に積まれた石に何やら文字が刻まれています。
「東 八日市場 銚子 飯高」「西 多古 佐倉 江戸」「南 中村壇林」「北 松崎 佐原」と
読めますので、道標だったものでしょう。
江戸とはありますが、ひらがなが無いところを見ると、比較的新しいもののようです。

六所大神ー37

御神木の杉の木は、樹周りが7~8メートルはあろうかという大木です。

六所大神ー35
六所大神ー38

「多古町史下巻」には、地元出身の硯学者「村岡良弼」の著書「日本地理志料」から、以下の
ような伝承が紹介されています。

「古老の口碑に依れば『此地喬樹蓊欝にして鴻の鳥常に巣籠り棲ひ、或時何処よりか
珍石を銜ひ来り、此れの所に落せり』と。以て瑞地となし六大神を祠ると。 現今社宝として
其の珍石を存せり。」
 (P183)

こうした伝承があるだけでも、この「六所大神」が遠い昔よりこの地に在って、人々の信仰を
集めていたことが分かります。


六所大神ー40


         ※ 「六所大神」 多古町北中4
           多古新町または道の駅多古から循環バス「常盤・中ルート」六社神社下車
           多古新町まではJR成田駅からJRバス「多古行き」または「八日市場行き」



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多古町の寺社 | 08:04:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
多古の大宮大神
今回は多古町の中心部の高台にある「大宮大神(おおみやだいじん)」を訪ねます。

大宮大神ー44

「大宮大神縁起」とある説明板には以下のように書かれています。
「鎮守の縁起に不詳が多いが、日本開闢は天照大神である。 或る夜不思議の御託宣が
あり、当所の一つの芝原が一夜の中に千本の小松原となった(大同二巳亥年)住民は
村内繁栄の神慮を感じ農業の神とも仰がれている天照大神を伊勢の国より、この地に
勧請し鎮守として本祀する。 今も千本松と言い現在の、社地である。(多古由来記注)
其後新寺御法度に寺号無きは立ちがたき由御触れ相成り俄かに天照山法性寺と書き
改める。 創建は、中世以前と思われる。 明治初年神仏分離により、祭神天照大神は
寺院より分離し通称天照山社名大宮大神となる。」



大宮大神ー41

最近造られた石段の先にちらりと鳥居が見えています。


大宮大神ー43
大宮大神ー2

一の鳥居の先にはまっすぐに参道が伸び、二の鳥居から拝殿までが見渡せます。


大宮大神ー4

手水盤には嘉永元年(1848年)と記されています。
側面には多古藩士を始め、名主や代表者の名前がびっしりと刻まれています。


大宮大神ー45

ここは地元では「てんしょうざん」と呼ばれています。
「多古町名所百選」(平成18年多古町教育委員会発行)では次のように紹介されています。
「多古2572番地に祀られている旧多古村の鎮守である。由緒について「社寺明細帳」には、
祀神天照大神由緒不詳と記されている。城下町らしく、奉納物には藩士の名前が刻まれた
ものが多い。御神体ともいうべき天照皇太神御影軸には、大要次の様に書かれている。
この掛物は文政6年(1823)に再表具したもので、正月祭日と4月のお田植神事の両祭礼日
にだけ別当所に渡すが、その他は御陣屋御宝庫に入置くものである。」
 (P51)

さらに詳しく記すと、
「下総香取郡千田庄多古村鎮守、天照皇太神宮御影、去文政六癸未歳六月中別当
亮貞日遂代再表具。郡奉行堀口孫左衛門定長、桑尾岡右衛門邦貞、小川五郎治敬義。
代官鈴木助左衛門重政、與風文之亟邦和、五十嵐平左衛門利貞、奉納之。毎年正月
祭日、四月御田植之神事節於別当令拝礼。及年数殊大破付改新画表相於江府
出来、当役之面々各寄付奉納之。在勤中、郡奉行吉野要八方哲、寺井仁兵衛邦英、鈴木
忠兵衛正懿。御目附山口平蔵篤直。代官與風半之允邦知、五十嵐平左衛門惟忠、浅野
平作崇道、渋谷定治郎好長。割元柴田長太夫輝邦。御影懸物一幅、両祭礼御神事之
節、別当所相渡、常御陣屋御宝蔵入置申候事。 
于時弘化三丙午載秋八月」
 (「多古町史」中にある明治の「社寺明細帳」より P367)
御神体の天照皇太神御影軸にはこう書かれてるそうです。


大宮大神ー7   平成21年建立
    平成15年建立   大宮大神ー8

思わず「バタ臭い顔だね」と呟いてしまいました。


大宮大神ー9

鮮やかな朱色の本殿は拝殿とはやゝ離れて建っていて、つながっていません。


大宮大神ー16
大宮大神ー11
大宮大神ー12

本殿は四面に色鮮やかな彫刻がはめ込まれています。
何かの物語なのでしょうか?


大宮神社ー14大宮大神ー15
大宮大神ー18
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
延享三年(1746年)の灯篭
大宮大神ー19
大宮大神ー20

拝殿と本殿の間が中庭のように空いていて、木柵にも開口部があり、直接本殿に
お参りすることができました。


大宮大神ー21

深い森の中で本殿の色彩の鮮やかさが一層引き立ちます。


周りにいくつかの祠が散在していますが、風化のためいずれも何の神様かは分かりません。

大宮大神ー23 延享元年の紀年銘
大宮大神ー22


大宮大神ー25

本殿の裏には一段と高くなった塚のような場所がありますが、ここには何もありません。


大宮大神ー27

塚の下、本殿の真裏に風化した祠があります。
「奥の院」でしょうか、場所から考えて何かしら意味のありそうな祠です。


大宮大神ー28

拝殿に貼られていたこの文章には、怒りを抑えながら書いた心情がうかがえます。
「  告 おさい銭どろの君へ
1.おさい銭は皆々様の浄財です
2.皆々様の「心」を折ることはいけません
3.本殿を汚さないで
4.手口は分かっています 警察への届出(済)」



大宮大神ー29
大宮大神ー30

境内にある「聖徳皇太子」の碑(天明三年-1783年)と「山神」の碑(天保九年-1838年)


大宮大神ー39
大宮大神ー40

「大宮大神」のすぐ下には「多古第一小学校」があり、その先には最近開設された保育園と
幼稚園を兼ねた立派な施設の「多古こども園」が見えています。
数年前まではこの道はただの狭い坂道でしたが、宅地の造成に伴って道路が整備され、
国道296号線から町の中心部に抜ける近道となっています。

周りの開発が進む中で、静かな森に囲まれた「大宮大神」はゆったりと歴史を抱えて
多古の町を見下ろしています。


大宮大神ー42

            ※ 「大宮大神」 多古町多古2572
               JR成田駅からJRバス八日市場行き 多古仲町下車徒歩10分





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多古町の寺社 | 07:41:43 | トラックバック(0) | コメント(1)
鏡山お初が眠る峯の寺~「妙興寺」
「妙興寺」は日蓮上人の直弟子の日辨によって正安二年(1300年)に創建されました。
山号は「正峰山」で、地元では「峯の寺(みねのてら)」と呼ばれています。
多古町の山中、日本寺の近くにあります。


妙興寺ー1

狭い路地の奥に小振りな山門があります。


妙興寺ー44

この「八坂神社」と記された額束のある鳥居とお堂が無ければ、路地には気付かないでしょう。


妙興寺ー2

「南無妙法蓮華経」と刻まれた山門前の石柱は、文化十三年(1816年)の建立です。


妙興寺ー4

杉木立の参道は長く延び、その向こうに立派な山門が見えています。


妙興寺ー5

堂々とした構えの山門です。
多古町の有形文化財に指定されています。
説明板には、
「入母屋造り、トタン葺、繁棰の二軒、三間三戸の八脚楼門で、妻飾りは紅梁大瓶式で
蕪懸魚を懸けてある。・・・・・この門は、県下で残存例の少ない三間三戸の八脚門で、
両側面に仏像を納めた装置も珍しい。当寺の記録と施工の手法からみて、江戸末期
(文政年間)の建立と推定される。」

とあります。
なお、文政年間とは1818年から1830年の間を指しますが、千葉県公式観光物産サイト
や多古町のホームページには、明和二年(1765年)の建立と書かれています。


妙興寺ー7
妙興寺ー35

重厚な骨組みの中に多古藩主の定紋が見えます。
光琳梅鉢でしょうか、久松一族の家紋は梅鉢です。

この山門の両側面には多聞天像と増長天像が向き合って納められています。

妙興寺ー8
妙興寺ー9  多聞天=毘沙門天

妙興寺ー10
妙興寺ー11  増長天=毘楼勒叉

多聞天像は宝暦九年(1759年)、増長天は宝暦八年(1758年)の制作です。
多聞天は北方を、増長天は南方を守護する神将です。

驚くほどの鮮やかな彩色ですが、多分最近修復が行われたのだと思います。


妙興寺ー12
妙興寺ー14

山門をくぐり境内に入ると、左手に鐘楼が見えます。
寺伝によれば第38世の月廷が建立し、18世紀中ごろに改築されたものです。
基壇部分だけで7~8メートルある背の高い建物で、下からは鐘はほとんど見えません。


妙興寺ー37

山門左手奥の墓地で「鏡山をはつ之墓」と書かれた木柱を見つけました。
「鏡山をはつ」とはどんな人物なのでしょう?

後に調べたところ、大変興味深い人物でした。
歌舞伎の「鏡山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)や、「加賀見山再岩藤」(かがみやま
ごにちのいわふじ)の登場人物が「鏡山お初」です。
この「鏡山お初」は、浜田藩江戸屋敷の中老、「尾上」に仕えていた「松田さつ」がモデルです。

物語のあらすじは、「浜田藩の江戸屋敷内では、中老の「尾上」と局の「岩藤」との間に
確執があり、ある時、尾上は岩藤の策略にかかって自害に追い込まれてしまいます。
「さつ」は主人の無念を晴らすべく、岩藤を追い詰め、これを討ち取って、見事主人の仇をと
りました。後に剃髪して妙真尼となった「さつ」は、縁のある多古の妙興寺に庵を結んで尾上
や岩藤の菩提を弔った」という話です。

歌舞伎では「女忠臣蔵」と呼ばれる人気の演目になっています。
ウィキペディア「鏡山旧錦絵」 ⇒

「さつ」の墓はこの妙興寺の他に、出生地の長府の本覚寺と妙真寺にもあるようです。


妙興寺ー15

妙見大菩薩。


妙興寺ー16

この手水盤には文化四年(1807年)と刻まれています。


妙興寺ー38
妙興寺ー39

多古藩主の久松家代々の墓は境内の右手にあります。

多古藩は秀吉の小田原の役の後に関東に入った徳川家康が、保科正光に与えた
一万石が起源です。
その後、土方雄久を始めとする他の大名や幕府の直轄領になるなどの変遷を重ね、
寛永十二年(1635年)、駿河国に八千石を有していた旗本の松平勝義が移封されて
から明治4年の廃藩置県まで、松平家が治めていました。

藩主は代々松平姓を名乗っていましたが、戊辰戦争の際に旧幕府から離れることを
示すため、もともとの姓であった「久松」に戻したと伝えられています。

なお、当時の地名は多ではなく、多であったようです。


妙興寺ー18
妙興寺ー25

本堂の前にはさらに門があります。


妙興寺ー19
妙興寺ー20

3つの門をくぐってきたわりには、本堂は質素な構えでした。


妙興寺ー21

本堂脇のお堂。
壁板が剥がれ、中はがらんどうでした。


妙興寺ー22

これも荒れ果てた「正一位稲荷大明神」。


妙興寺ー23

本堂裏の宝物殿。


妙興寺ー24

「忠碑妙真法尼」と記された石板。
「通称鏡山をはつ 本名さつ女」と記され、大正3年に建てられたもので、
「さつ」(元禄十四年(1701年)~明和五年(1768年))の忠義を称えるものです。
なお、「鏡山」とは本来「加賀騒動」を指す言葉です。
 ウィキペディア「鏡山物」 ⇒
 

妙興寺ー42  西参道の階段
こちらから登る人はほとんどいません妙興寺ー43


妙興寺ー26
妙興寺ー32

山門から右に細い道があり、その先に大きな木造の建物が見えます。
中村小学校の旧校舎で、今は使われていません。


妙興寺ー33
  すぐ隣にある新校舎  妙興寺ー34

妙興寺ー40
妙興寺ー41

「妙興寺」は、すぐ近くにある「日本寺」ほどの知名度はありませんが、「鏡山おはつ」に
まつわる話や多古藩の歴史など、掘り出し物を見つけた気分になれます。


妙興寺ー50


              ※ 「正峰山妙興寺」 多古町南中344-2
                JR成田駅よりJRバス 八日市場行き 南中下車 徒歩10分
                (駐車場はありません)



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多古町の寺社 | 08:31:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
関東三大檀林~日本寺(2)
日本寺ー27

前回に続いて日本寺を紹介します。
関東三大檀林~日本寺(1) ⇒


日本寺ー30
日本寺ー33日本寺ー34
・・・                 ・・・
本堂の奥を左に進むと多くの鳥居とともに三つのお社が見えます。
中央にあるのが「妙見七面宮」で、この地方の豪族・千葉家の守護神です。
檀林に学ぶ学僧にとっての学業成就の神様でもあったようです。
仏教を学ぶ僧侶の卵が、学問を修められるよう神様にお願いする・・・
日本人の宗教観のおおらかさが表れているようです。

明治42年の「境内全景図」によれば、妙見宮は「當山鎮守」と書かれています。


日本寺ー31 享保九年(1724年)の常夜燈
  寛文十年(1670年)の常夜燈 日本寺ー32


日本寺ー35

妙見宮の鳥居の脇にある小さなお社。
鰐口も小さいものですがとても良い音がしました。
手前の常夜燈に七面大明神と刻まれています。


日本寺ー36

右手にも新しいお社がありました。


日本寺ー37
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本寺ー44

妙見宮を挟んで左右に二つの神社が並んでいます。
豊田稲荷と岡田稲荷で、夫婦稲荷と呼ばれ、家内安全・五穀豊穣・商売繁盛、
除災得幸の神様です。

右側にある豊田稲荷の石の鳥居は手前から平成23年、昭和7年、大正10年に
寄進されたと記されています。
左側の岡田稲荷の石の鳥居は平成13年、昭和7年、大正10年と記されています。


日本寺ー39
日本寺ー40

豊田稲荷の前のキツネの足元には子キツネがいました。


日本寺ー45
日本寺ー46

岡田稲荷のキツネは毬にじゃれているようなポーズです。
大正5年と刻まれています。


日本寺ー47

空の祠には寛政元年(1789年)と刻まれています。


日本寺ー41

豊田稲荷と岡田稲荷の間(妙見宮の裏手)には、数えきれないほどの
小さなキツネの置物が納められています。


日本寺ー49
日本寺ー52
日本寺ー53

境内に隣接して公園が整備されています。
けっこうな広さがあり、格好の散策場所です。


日本寺ー50

この一帯は「フクロウの森」と名付けられていて、フクロウをはじめ、キジ、ヒヨドリ、
コジュケイ、ホオジロ、など、たくさんの野鳥を観察することができます。


後日、日本寺の入り口に大きな顕彰碑があった渋谷嘉助の旧宅を探してみました。
国の指定文化財だということを知ったからです。

日本寺ー56
日本寺ー57
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本寺ー58

日本寺からは少し離れた場所に旧宅はありました。
重厚な煉瓦造りで、個人の住まいとしては異色の建物でした。
説明板などはなく、保存状態も良くないようで心配です。
渋谷嘉助旧宅(千葉県教育委員会ホームページ) ⇒

渋谷嘉助については「多古町まちづくりテラスの会」のブログに書かれているものを
見つけましたので引用します。
『大正14年、渋谷財団法人を設立。基金10万円の利子は疲弊している村財政予算に
組み入れられ、村民税の軽減に役立ったし、村出身の青少年育英資金としても多額の
寄付をする。嘉助は実業家であったが、社会公共に事業も忘れなかった。
岩手県の石灰石採石事業をすすめたころのことで、大船渡湾に珊琥島(さんごじま)
という風光明媚な島があり、この島を嘉助は早くから手に入れていたが、水産物の宝庫で
ある水域が島の周囲にあるところから、この島を挟む両岸の大船渡と赤崎両村の漁民は
長い間島を挟んでの争いが絶えなかった。かねてよりこれを心痛していた嘉助は珊琥島を
両村の共有物として活用するように寄付しようと村民の代表者に提案した。狂喜感激した
両村民。こうして長い間の争いは解消され、明るい漁業の場が生まれたのである。』


珊琥島は無人島ですが、国指定の名勝となっています。


日本寺ー62

もしやと思って日本寺に向かい、気になっていた参道入り口の閉ざされたお墓を
覗いてみました。
渋谷嘉助のお墓が日本寺のどこかにあるはずだからです。


日本寺ー63
日本寺ー64

何とか中を確認したくて、顕彰碑側から裏に回ると生垣の切れ目があり、
そこからは中が良く見えます。
立派な墓石に「従六位 渋谷嘉助」とありました。
地元に尽くした嘉助は特別な場所に葬られていたのですね。


日本寺ー15
日本寺ー54

学問の場、研鑽の場として栄えた日本寺。
境内に佇んで目を閉じると、森の奥から学僧達の読経や議論する声が
かすかに聞こえてくるような気がします。


日本寺ー61



            ※ 正東山日本寺  香取郡多古町南中1820-1
               JR成田駅より JRバス八日市場行き 南中下車 徒歩10分
               東関東自動車道成田インターより30分 駐車場有

            ※ 渋谷嘉助旧宅  香取郡多古町北中91
               JR成田駅より JRバス八日市場行き 南中下車 徒歩約30分
                                      日本寺より徒歩約20分


               
  

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多古町の寺社 | 07:10:16 | トラックバック(0) | コメント(2)
関東三大檀林~日本寺(1)
「日本寺(にちほんじ)」は多古町にある名刹です。

日本寺ー51

元応元年(1319年)に中山法華経寺(現・市川市)の日祐上人によって開山され、
「高祐山東福寺」と称していましたが、約270年後の天正十九年(1591年)に
「正東山日本寺」に改められました。

慶長四年(1599年)には僧侶の養成機関である中村檀林が開かれ、
最盛期には36の学坊に千人近くの学僧が学ぶという全国有数の学問所となり、
小西檀林(現・大網白里市正法寺)、飯高檀林(現・匝瑳市飯高寺)と並んで
関東三大壇林と称されました。
学坊を東西に分け、勉学を競い合い、毎年春と秋には宗教論議を戦わせて
多くの聴衆を集めたそうです。
檀林は明治5年の学制発布によって廃檀となるまで、270年以上続きました。


日本寺ー1

日本寺の入り口には、曲がりくねった県道に面して「南無妙法蓮華経と刻まれた
大きな石柱が建っています。


日本寺ー2

石柱に並んで大きな石板があり、「徳育風振」と大きく刻まれた下にびっしりと
文字が記されています。
雑木や篠竹に覆われて近づけず良く読めませんが、地元出身の実業家で
地域振興に尽くした渋谷嘉助(1849~1930)の顕彰碑のようです。
昭和3年9月の建立です。


日本寺ー3

顕彰碑の後方の林の中は墓地になっていて、木々の間に点々と墓石が連なっています。


日本寺ー5
日本寺ー4

整然と墓石が並んでいる一角は、歴代の住職のお墓のようです。
それぞれ第○代と記され、慶長、万治、延宝、元禄、享保、元文、寛保、延享、宝暦、明和、
安永、天明、寛政、享和、文化、天保、慶応、・・・と、ずいぶんと昔の年代が刻まれています。
その歴史の流れ、重みに圧倒される思いです。


日本寺ー6
日本寺ー7

入り口の石柱まで戻って、参道に入ると、何やら山門のような建物が見えます。
塀に囲まれて近づくことができません。
ぐるりと回って裏側から覗くと、木々の間から立派な墓石や宝塔のようなものが見えます。
偉いお坊さんのお墓なのでしょうか?


日本寺ー8

参道の途中に数基の古い墓石が建っていました。
左はこの寺を中興した第13世「賢聖院日俒聖人」のもので、説明札には
日俒は中山法華経寺より宗宝の三尊像を奉持して入山したと書かれています。
右は中村檀林の廃檀後に現在の本堂等を再建した第331世「龍妙院日慶聖人」のもので、
中村檀林の廃檀後に現在の本堂等を再建しました。
特に物理的に功績のあった聖人と言うことなのでしょうか。
他に234世日紀上人、332世日壽上人、335世日専上人の墓石が並んでいます。


日本寺ー9

参道の両脇にはアジサイが植えられています。
その数、8千本と紹介されていますから、シーズンには素晴らしい眺めでしょうね。
あじさい寺と言われていることも納得できます。


日本寺ー10
日本寺ー13
日本寺ー14
日本寺ー67

参道を大きく左に曲がると山門が見えてきました。
この山門は多古町の指定文化財になっています。

説明板にはこう書かれています。
『切妻造り、トタン葺(もと茅葺)の四脚門。軒は二軒の疎棰で妻飾りに三ッ花懸魚を
つけている。』
『木割が雄大で角柱の面取りも大きく、構架も簡潔で、装飾も少なく、柱上につけた
頭貫鼻の角度、その曲線、礎盤と柱経との比率関係や、藁座の施工等に桃山時代から
江戸初期の手法がみられ、注目すべき建造物の一棟といえよう。』


山門から本堂まではまっすぐな道が150メートル位続いていて、両側は杉並木です。


日本寺ー12

山門の扁額は本阿弥光悦の筆になるもので、日本三額の一つと言われています。
本阿弥光悦(1558~1637)は、近衛信尹、松花堂昭乗と並んで「寛永の三筆」と
言われた名筆家です。
本阿弥光悦 ウィキペディア ⇒

実は、この扁額はレプリカで、本物は本堂に納められています。


日本寺ー16

手水盤は明治38年に寄進されたもので、中央に身代わり観音が置かれています。


日本寺ー19
日本寺ー18
日本寺ー55

鐘楼は享和三年(1803年)の建立で、町の指定文化財になっています。
『入母屋造り、銅板瓦棒葺、扇棰の二軒で妻構架は紅梁蚕股式に組み、蕪懸魚をつけ、
下層に袴腰をつけた鐘楼』
 (説明板より)


日本寺ー20

この多層宝塔の建立年代は不明ですが、土台部分は昭和59年に改修した
記録が記されています。


日本寺ー23

一切経堂は説明板によれば𣴎応三年(承応のことと思われます・1654年)に建立され、
最近大幅な改修が加えられました。
約6千巻の経書がおさめられていましたが、今はわずかしか残っていないと書かれています。


日本寺ー24
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本寺ー25  
本堂の昇り口左右に置かれている木製の狛犬。
檀林時代の講堂の壁面に掛けられていたものだそうです。


日本寺ー26

「正東学庠」と書かれたこの扁額は本堂の正面に掲げられています。
庠はまなびやという意味です。


日本寺ー28

この石柱には「奮 中村檀林正東山日本寺」と刻まれています。
奮は羽ばたくという意で使われているのでしょうか。
中村壇林には「観月庵」「寂光庵」「鳳林庵」「浄心庵」「真如庵」「精進庵」「摂心庵」等、
東西36の学坊のほか多くの付属施設が点在し、境内は学究の僧であふれていた
様子が想像できます。


日本寺ー27

廃檀とともに消えた多くの学坊の跡は、いまは深い森となり、学僧達の声は消えて
本堂の周りには静かな時間が漂っています。


          ※ 日本寺には紹介したいものがまだまだあります。
             次回はこの続きを書きます。






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多古町の寺社 | 07:30:32 | トラックバック(1) | コメント(2)