
昭和10年建立の大きな台輪鳥居が参拝者を迎えます。
ご祭神は、「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」「伊弉冉尊(いざなみのみこと)」「天照皇大神
(あまてらすすめおおかみ)」「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「月読尊(つくよみのみこと)」
「蛭子尊(ひるこのみこと)」の六神です。
「蛭子命」はあまり聞かない名前なのですが、「えびす様」と言えばお分かりになるでしょう。
(蛭子=戎、恵比寿とする説には異論も多くあります)
ちょっと脱線しますが、「蛭子命」とは、「伊弉諾」と「伊弉冉」の間に生まれた最初の子で
ありながら、3歳になっても立てなかったために葦の舟に乗せられて「オノゴロ島」に流されて、
二神の子にも数えられていないという、可哀そうな生い立ちが伝えられている神です。
神話の世界とは言え、ここでは二神と一緒に祀られているのは何かホッとしますね。
流された「オノゴロ島」には単に神話の世界だとする説と、実在するとする説があります。
実在すると言う説にも、沼島、絵島、友ヶ島などの諸説がありますが、いずれも淡路島の
近辺であることは一致しています。

鳥居の脇に「延喜式内」と記された大正2年の石柱がありますが、この神社が延喜式内の
社格であるという記録は残念ながら見当たりません。
延喜式とは、平安時代に編纂された律令の細則(格式)で、延喜五年(905年)に醍醐天皇
の命により編纂が始められ、延長五年(927年)に一旦完成を見た後、改定を重ねて康保
四年(967年)に施行されたものです。
その中の延喜式神名帳に記載されている神社は2800社余りがあり、それらは「式内社」と
呼ばれて格式が高いとされています。
下総地方では式内社の中でも最も格の高い「香取神宮」が有名ですが、成田市内では台方
と船形の麻賀多神社が式内社です。
台方の痲賀多神社 ⇒
船形の痲賀多神社 ⇒
平日なのに日章旗を掲揚


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鳥居をくぐった左右には大きな石碑が・・・。
元陸軍大将の荒木貞夫の筆になる「大東亜戰記念碑」と大正13年の「表忠碑」。


これは何が載っていたものでしょうか?
年代不詳ですが、見事な麒麟(?)が彫られています。

式内社ではなくても、この杉の大木が並ぶ参道は、「格」を感じさせるに十分な貫禄です。

「南無妙法蓮華経」と彫られたこの板碑には紀年銘が見当たりませんが、裏面には、
「天下泰平五穀成就」「一天四海皆逼妙法」の他に「御領主御武運長久」とも記されている
ので、それなりに古いものだと思われます。

少し奥に入った場所にある、同じく「南無妙法蓮華経」と彫られたこちらの板碑には、左右に
「大教流行神威倍 雨賜和適百穀豐」「風化美郷穩 葘消福臻萬家隆」との題目が記され、
安政四年(1857年)の紀年銘があります。

「多古町史 下巻」(昭和60年 多古町史編さん委員会)には、「昭和になってからではあるが
故波木栄之助宮司がまとめ記された『村社六所大神御記』があり・・・」として、この神社の
由来についてその一部を転載しています。(P181~182)
「仁賢・武烈の昔、物部の小事大連・節刀を錫(ママ)はり東征して功有り、邑を下総に賜はられ
因て改め匝瑳連と称し、其の裔中村の郷に居り、世々陸奥鎮守将軍に補せらる。
人皇第五十二代嵯峨天皇の弘仁二年(八一一)紀に陸奥鎮守副将軍物部の匝瑳連足継
なるものあり。又人皇第五十四代仁明天皇承和二年(八三五)紀に下総の人鎮守将軍物部
匝瑳連熊猪、姓宿禰を賜はられ改め左京を貫す。其子匝瑳連末守之を継で鎮守将軍たり。
当六所大神は、実に仁明天皇の御宇承和中(八三四~八四七)鎮守将軍物部匝瑳連中村
の郷の郷社として創祀せし所の祠なりしなり。
因に又総社伝記に曰く、「人皇十二代景行天皇の朝(七四~一二七)に当り、国府毎に必ず
六大神を祀る。故に常武二毛諸国府の址に皆其の祠あり」と。蓋し中村の郷は匝瑳の中央
に位し、匝瑳連の居所にして郡要衙の所在地たりしを以て、国府に倣ふて之れを祀れるもの
なりといふ。」
これによれば、5世紀末に東征に功を挙げて匝瑳地方を賜った物部小事(もののべのおごと)
の子孫で、陸奥鎮守将軍に任ぜられていた物部匝瑳連熊猪(もののべのそうさのくまい)が、
仁明承和年代にこの神社を創建した、としています。
実に1180年もの昔になります。
また、六所神社とは、六つの神社を合祀しているので「六所神社」と呼ばれることもあるよう
ですが、ここは六大神を祀ることからくる名前であることが分かります。

手水舎と手水盤。
手水盤には文久元年(1861年)と記されています。
嘉永六年(1853)の石灯籠


昭和32年に寄進された狛犬







本殿も拝殿と同様に、余計な装飾を排した重厚な造りです。
元亀三年(1572年)に兵火によって以前の社殿や文書はことごとく焼失してしまいました。
後に再建された現在の本殿には、嘉永六年(1853年)及び文久元年(1861年)に改築
したとの棟札が残っています。

本殿右手にある末社の「宇賀神社」。
手前の石灯籠は寛政九年(1797年)のものです。


同じく右手にある摂社の「雄健神社(おたけびじんじゃ)」。
この神社は軍事に関わる神社で、戦前から軍の駐屯地などに祀られているものです。
手前の鳥居は「軍人会一同」の奉納で、灯篭にも「遺族会」とあります。

「雄健神社」を囲む石柵の下に積まれた石に何やら文字が刻まれています。
「東 八日市場 銚子 飯高」「西 多古 佐倉 江戸」「南 中村壇林」「北 松崎 佐原」と
読めますので、道標だったものでしょう。
江戸とはありますが、ひらがなが無いところを見ると、比較的新しいもののようです。

御神木の杉の木は、樹周りが7~8メートルはあろうかという大木です。


「多古町史下巻」には、地元出身の硯学者「村岡良弼」の著書「日本地理志料」から、以下の
ような伝承が紹介されています。
「古老の口碑に依れば『此地喬樹蓊欝にして鴻の鳥常に巣籠り棲ひ、或時何処よりか
珍石を銜ひ来り、此れの所に落せり』と。以て瑞地となし六大神を祠ると。 現今社宝として
其の珍石を存せり。」 (P183)
こうした伝承があるだけでも、この「六所大神」が遠い昔よりこの地に在って、人々の信仰を
集めていたことが分かります。

※ 「六所大神」 多古町北中4
多古新町または道の駅多古から循環バス「常盤・中ルート」六社神社下車
多古新町まではJR成田駅からJRバス「多古行き」または「八日市場行き」