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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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梵鐘が歴史を語る~大須賀川べりの「浄土寺」

前回の「大戸駅」の近くにある「浄土寺」を訪ねます。

浄土寺-11
浄土寺-12

浄土寺-1浄土寺-2

「浄土寺」は浄土宗のお寺で、ご本尊は「阿弥陀如来」、山号は「遍照山」です。

山門の掲額には「徧照山」となっていますが、各種の史料には「遍照山」となっています。
(徧は遍の異体字です。)

浄土宗千葉教区ホームページには、「浄土寺」について次のように書かれています。
「寺伝によれば、天正7年(1579)矢作城主・国分大膳胤政を開基に、奥州磐城の生れ、
存把上人の弟子であった南蓮社人譽上人が開山となり創建された。その後、新城主と
なった鳥居彦右衛門尉の菩提所となり、寺領を加附されたと伝えられるが、再三の火災
により、その後の事は不明である。」


また、境内にある板碑に刻まれた年号や梵鐘の銘文から、開基は鎌倉時代中期以前で
ある可能性もあることが紹介されています。

天正七年の開山とすれば約440年、鎌倉時代中期以前となれば約800年の歴史です。


浄土寺-3

参道の途中に、六基の石仏が並ぶ細長いお堂があります。


浄土寺-4
浄土寺ー46

左端にあるのは智拳印を結ぶ「大日如来」です。
湯殿山大権現」「貞享二」の文字だけが読め、他は剥落や風化で読めません。
貞享二年は西暦1685年になりますから、330年前のものです。


浄土寺-5
*********** 浄土寺-48

安政六年(1859)の「慈母観音」。
「観音經百万巻供養塔」と刻まれています。
一瞬、“マリア像か?”と思わせる像容です。


浄土寺-6
浄土寺-49

元禄十五年(1702)のこの石仏には、「奉造立大勢至為■■■」と記されています。
合掌する「勢至菩薩」です。


浄土寺-7
*********** 浄土寺-50

「如意輪観音」。
「元禄八■九月 奉造立如意輪觀世音■■」と読める気がします。


浄土寺-8
浄土寺-51

この「慈母観音」には、「享和二戌年三月吉日」と記されています。
享和二年は西暦1802年になります。


浄土寺-9
********** 浄土寺-52

二臂に見えますが、よく見ると六臂の「青面金剛」。
「寛延二己巳九月吉日」と刻まれています。
寛延二年は、西暦1749年です。


浄土寺-13

山門を入った右側に卵塔が並んでいます。
歴代住職のお墓のようですが、いずれも風化が進んで、文字はほとんど読めませんが、
かろうじて元禄、正徳、明治の元号を見つけました。


浄土寺-35

山門の先には鐘楼があります。

案内板には次のように書かれています。
梵鐘(貞和五年在銘)梵鐘は、もとは仏事に使われていたが、のちに人を集めたり、時刻の
合図に用いられるようになった。 この鐘は、銘文から以前あった鐘を貞和五年(一三四九)
に改鋳、慶長年間(一六〇〇年前後)この寺に持ってこられたと考えられています。鐘をつく
ところを「撞座」と呼ぶが、この撞座の文様は、千葉市郷土館保管(康永二年在銘)のものと
一致し、同じ型で造られたことがわかる。』


667年前に鋳造された鐘が、まだ現役でここにあることは驚きです。

浄土宗千葉教区ホームページにも、この梵鐘についての記述があります。
「現存する梵鐘は、城主鳥居彦右衛門尉が 磐城へ処替えの際に寄進された鎌倉時代の
古鐘で、慶長7年(1602)6月12日に磐城より当寺にもたらされたものである。銘文には、
建長6年(1254)・貞和5年(1349)の年号等のほか、当寺への寄進の旨、人譽上人のこと
などが刻まれている。」
「この鐘は大平洋戦争の時にも、貴重な文化財として供出をまぬがれている。」



浄土寺-53
浄土寺-15
浄土寺-17

「佐原市史」には、この梵鐘について次のように書かれています。
「本寺の梵鐘は、鐘身の高さ約七四糎、総高約一米、径約五七糎でどちらかといえば、やや
小さい部類に属するものとみられる。『下總國奮事考』巻一一の金石篇に記されている著者
の注記には 「土人伝、此鐘自陸奥岩城齎来、浄土寺、天正中有鳥井家臣高須氏之
縁故、及鳥井家自岩埼岩城、於岩城別創國慶寺供華院、此時
新鋳彼地鐘、以其古鐘附此寺、即是也、果然則建長貞和題名、皆奥州人也。」
とある。 これによってもこの梵鐘は慶長七年(一六〇二)六月一二日に岩城(磐城)から
もたらされたものであることがわかる。』

(文中の朱色の小文字は、一・二点、上・中・下点です。)


浄土寺-18

鐘楼の脇の常夜燈には、「慶應元年」と刻まれているように見えます。
慶応元年は西暦1865年です。


浄土寺-20
********** 浄土寺-21

常夜燈の側にある手水鉢と「大乘妙典供養塔」。
残念ながら年代は分かりません。


浄土寺-22

「千葉縣香取郡誌」に、「浄土寺」についての記述があります。

「遍照山浄土寺 東大戸村大字大戸川字新宿に在り域内三百八十九坪浄土宗にして阿彌陀
如来を本尊とす創建詳かならす天正九年辛巳矢作城主國分胤政之を再建すと七八十年前
舞馬の變に際せしが古文書古鐘等は依然として存せり其建長の古鐘銘に因り之を察すれば
其開創の殊に古代に在りしを知るに足る可し慶長七年六月十二日徳川家康亦梵鐘を寄附し
後世佐原の人伊能景晴茂左衛門亦阿彌陀を寄附せり本寺古鐘銘は下總國奮事考に詳記し
あるを以てこれを略す」


矢作城主の伊能景晴によって再建されたのが天正九年(1581)とすれば、創建はそれ以前
ということになり、鎌倉時代中期以前の創建とする説が有力となってきます。
なお、この記述のように、梵鐘が徳川家康によって寄附されたとすれば、梵鐘の銘文にその
記述があってもおかしくないと思われますが、史実はどうだったのでしょうか?


浄土寺-23
浄土寺-24
浄土寺-25

本堂の裏には割れた板碑が散乱しています。
いろいろ事情があって仕方が無いことかも知れませんが、それぞれに歴史や制作者の想いが
あるはずなので、少々残念な気がします。


浄土寺-37
浄土寺-42

倒れた板碑の向こうは大須賀川です。


浄土寺-27
浄土寺-28

日中戦争や大東亜戦争での地元出身の戦死者慰霊碑。


浄土寺-29

境内の一角に板碑が並んでいます。

「佐原市史」(昭和41年)には、この寺の開基年代を知る根拠として、これらの板碑の紀年銘を
あげています。
大戸川新宿にある。山院号遍照山光明院。浄土宗鎮西派知恩院の末である。本尊阿弥陀
三尊。創建の年代は明らかでないが、墓域内には文永八年(一二七一)・永仁六年(一二九八)・
至徳三年(一三八六)などの年号を刻んだ板碑があるところから、本寺の開基は鎌倉時代中期
以前にさかのぼることができる。」


浄土寺-30
浄土寺-31
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浄土寺-59
浄土寺-60
浄土寺-33

浄土寺-61

欠損した板碑も並んでいます。


浄土寺-34
浄土寺-36
***********浄土寺-40

隣接する墓地には古い墓石が並んでいます。
寛文、延宝、宝永、享保、元文、延享、明和、安永、天明などの元号が読めます。


浄土寺-38
浄土寺-39
***********浄土寺-41
浄土寺-62

『香取郡誌』には、天正九年(一五八一)矢作城主国分胤政が本寺を再建したとあるが、国分
胤政なる者がはたして矢作城主として居城したかどうか不明である。」
(P981)
「佐原市史」にはこんな一節もあります。

梵鐘や板碑など、歴史を語るものが多く残っているものの、謎も残る「浄土寺」です。


浄土寺-70

                          ※ 「遍照山 浄土寺」 香取市大戸川35


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香取市の寺社 | 08:26:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
年代確認できる最古の下総型板碑~香取市の「地福寺」
今回は、香取市の「地福寺」を訪ねます。
前回の「大戸神社」の近くにあります。

地福寺-1
地福寺-35

「地福寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「大戸山」。
ご本尊は「地蔵菩薩」です。
深くえぐれた谷のような場所にあるので、道路からは何も見えません。


地福寺-2
地福寺-4 中央は享保八年(1723)
********** 地福寺-5

曲がりくねった急さかを下りた、境内の入り口に並ぶ石仏群。
13基の内4基が月待塔で、他は戒名のようなものが刻まれていますので、もともとは墓石
だったもののようです。


地福寺-6

石仏群の傍らには「六地蔵」が並んでいます。
左端は安永年間(1772~78)、その隣は年代不明、次は天明元年(1781)、安永年間、
年代不明と続き、右端は安永六年(1777)のものです。

仏教では、あらゆる命は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道の間を生まれ
変わりながらさまよい続ける、という「六道輪廻」の考え方があります。
そしてそれぞれの道に衆生救済のために檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の六地蔵が
配されています。
こうしたことから、墓地の入り口などに「六地蔵」が置かれることが多いようです。

真城院ー8   高岡・真城院の墓地
吉倉・てらだい道の墓地 多門院ー20
押畑稲荷ー67   押畑山中の墓地


地福寺-42
地福寺-7

全ての地蔵の頭部が落とされています。
ここにも廃仏毀釈の傷跡が・・・。
落とされた頭を付け直したもの、間に合わせの頭を載せたもの・・・。
壊した人たちも、直した人たちも同じ村人だったはずです。


地福寺-9

地蔵堂の中には、子供を抱き、足下にも子供がすがりつく、地蔵菩薩像があります。
「地蔵菩薩」は、釈迦が入滅した後、五十六億七千万年後に「弥勒菩薩」が現れるまでの間、
現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされ
ますが、特に子供の守護尊とされています。

幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないとされています。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なのです。
これは、賽の河原で鬼にいじめられる子供達を守る「地蔵菩薩」の姿で、「子安地蔵」とも
呼ばれています。

円通寺ー23 大室・円通寺の子安地蔵
高徳寺ー12 堀籠・高徳寺の慈母地蔵


地福寺-20

「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には、「地福寺」について次のように書かれています。

「大戸山地福寺 東大戸村大字大戸字寺作に在り域内九百二十坪臨濟宗にして地蔵菩薩を
本尊とす寺傳に曰く僧方外宏遠なるもの開山たり天正中兵亂の為め燒失せるを以て由緒詳
らかならず寺寶には佛畫幅二十餘幀佛像十三體あり就中觀音藥師空海の三像は尤も信者
の歸依する所なりと」



地福寺-36
********** 地福寺-22
地福寺-25
********** 地福寺-60

本堂の横に回ってガラス窓越しに中を覗くと、欄間に不思議な文様が並んでいます。
菊紋や源氏車紋のような感じですが、何か宗教的な意味があるものなのでしょう。


地福寺-10
地福寺-11

「六地蔵」と背中合わせに観音堂があり、「戸ノ峰観世音」と掲額に書かれています。
由緒等については全く分かりません。


地福寺-12
地福寺-47
地福寺-46

お堂の中には全体が黒い「聖観音菩薩立像」が安置されています。
宝冠の阿弥陀如来の化仏や白毫、瓔珞、臂釧、腕釧の金色がアクセントになっています。


地福寺-45

大勢の女性が観音様を拝んでいる絵馬が架かっています。
この図はどこかで見たことがあります。

思い出しました。
2年前に訪ねた、中里の「楽満寺」の本堂に架かっていた「女人観音拝み絵馬」です。

楽満寺ー34 

静けさが寺の始まり~楽満寺 ☜ ここをクリック 


地福寺-14

観音堂の前には欠けた板碑が散乱しています。


地福寺-16

鞘堂の中にたくさんの板碑が並べられています。
説明板には、
『千葉県指定有形文化財
板碑(正元元年九月在銘) 1基  板碑(正元元年十月廿五日在銘) 1基
2基とも佐原市、香取郡を中心に分布する黒雲母片岩の下総型板碑です。板状の石の頭部
を山形に整形し、上部に二条線、中央連座の上に金剛界大日如来をあらわす種子、その上
に天蓋を刻んでいます。銘文中に「正元元年(1259年)とあり、製作年代の明らかな下総型
板碑としては最も古いものです。』

と書かれています。

地福寺-17
***************地福寺-18

地福寺-58
地福寺-29
地福寺-28

750年以上も前の、しかも、下総型板碑としては製作年代がはっきりしている最古の板碑の
保管場所としては、少々寂しい気がします。



地福寺-23

裏山の中腹に三基の祠が見えています。
祠への道はありません。


地福寺-33

気にはなりますが、登るのをあきらめて本堂前に戻り、「沿革の碑」を読んだところ、
「幕末に天満宮を祭祀し学問所を開設す」 とありました。

もしかするとあの祠はここに記されている「天満宮」かもしれないと思い、もう一度引き返し
て、斜面を登ることにしました。

地福寺-24
地福寺-39
地福寺-48

風化が進んでいますが、左端の祠にかすかに「天満宮」の文字が見えました。
お決まりの梅鉢紋も刻まれています。
登った甲斐はありました。


地福寺-26

境内の片隅に二基の石碑がありました。
右は墓石のようで、宝永、享保、安永等の年号と、戒名がビッシリと刻まれています。
左の碑文は所々で 「・・藥師護摩供・・天下泰平国土安全・・・」 などと読めますので、
何かの祈願碑のようです。


地福寺-27
地福寺-37

薄暗い坂道が上の道路へと延びています。
今では反対側から下りる舗装された道を利用するのか、人が通っている形跡はありません。


地福寺-38
********** 地福寺-59

鬼瓦が徳川氏の「三つ葉葵紋」になっています。
本堂は江戸末期のものですが、前述の「沿革の碑」に、
「慶長年間に堂宇を再建」「爾来徳川氏代々の祈願所」 とあるように、徳川氏との
強いつながりがあったようです。


地福寺-43

境内から少し下がった場所に墓地があります。
墓石はどれも比較的新しいものです。


地福寺-52
********** 地福寺-53
地福寺-54

奥に進むと古い墓石がたくさん現れました。
寛永、明暦、寛文、元禄、享保などの古い元号が多く見られます。
一番奥には住職等の僧侶の卵塔が並んでいます。


地福寺-56
地福寺-34

「沿革の碑」には、ご本尊は「延命地蔵菩薩」であると記されています。

延命・利生を誓願する地蔵菩薩を「延命地蔵」と呼びますが、地蔵菩薩の多くの功徳・利益
から、「身代わり地蔵」、「とげ抜き地蔵」、「子安地蔵」、「水子地蔵」のように、民衆が信仰の
中で生み出してきた地蔵尊の一つです。

「佐原市史」(昭和41年)には、ただ一行ですが、この寺を「鎌倉中期の創建」と記しています。
境内には歴史を感じさせるような石造物が少ないような気がしますが、おおよそ780年から
740年の時の流れがここにはあるわけです。


地福寺-61

                            ※ 「地福寺」 香取市大戸594



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

香取市の寺社 | 08:44:17 | トラックバック(0) | コメント(4)
1900年前に勧請された「大戸神社」
香取神宮の攝社である香取市の「大戸神社(おおどじんじゃ)」を訪ねます。

攝社(せっしゃ)とは、
「本社と末社の間に位し、本社の祭神にかかわりをもつ神などを祭った神社。」 (歴史民俗
用語辞典 日外アソシエーツ)のことです。

大戸神社-2

「十二代 景行天皇40年(111年)日本武尊東征の時、蝦夷征討祈願のため勧請。現在
の香取市大戸の地に遷座し、幾度かの遷宮の後、三十六代 孝徳天皇白雉元年(650年)
現在地に宮柱造営されました。」

大戸神社のホームページにある「由緒」の項はこのように始まっています。
1900年以上前に勧請され、現在地に鎮座してから1370年近く経っているという、圧倒され
るような長い歴史を持った神社です。

また、「香取神宮志」(昭和13年)には、香取神宮の攝社の一つとして、
『大戸神社 香取郡東大戸村にあり、社家傳説に「天武天皇白鳳年中建此社、所
手力雄神也」とあり、或云磐筒男神磐筒女神即ち經津主命の御親神を祭ると。』

と「大戸神社」について記述されています。

天武天皇の在位は673~686年ですから、ホームページの記述よりだいたい570年ほど後
のことになりますが、それでも約1340年前です。

ご祭神の「手力男神 (タヂカラオノカミ)」は、「天手力男神(アメノタヂカラオノカミ)とも呼ばれ、
天の岩屋戸に隠れた天照大神を、岩戸を開いて手を取って引き出した怪力の神です。
「香取神宮志」にある 「或云磐筒男神磐筒女神即ち經津主命の御親神を祭ると」 の部分は、
本稿の冒頭にある香取神宮の攝社の定義からすれば納得できます。
ただ、「磐筒男神(イワツツノオノカミ)」と「磐筒女神(イワツツノメノカミ)」の二柱に関しては、
「大戸神社」のホームページや配布されている由緒書きにも現れません。


大戸神社-6

この御神燈の年代は不明ですが、基礎の地輪の部分に亀が彫られています。
各部の石質が異なりますので、何回も補修していることが分かります。


大戸神社-8

鳥居の手前にある手水舎の手水盤には、「元禄十四辛巳」と刻まれています。
元禄十四年は西暦1701年で、江戸城内の松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介
に切りかかる事件を起こしました。


大戸神社-9

手水舎横にある社号標は昭和62年のものです。


大戸神社-10

手前の大きな灯籠は平成15年、後ろの小さなものは平成7年の寄進です。


大戸神社-11
********** 大戸神社-12
                   千葉県指定有形文化財の説明板

(上) 大戸神社和鏡
松喰鶴鏡(鎌倉時代)、素円紐蓬莱鏡(鎌倉時代)、花亀甲亀蓬莱鏡(室町時代)の三面で、
この種の鏡としては大型で文様も鮮明な優れた作品です。
(下)
羅龍王面(らりょうおうめん)
舞楽に用いる面で、内側に嘉歴二年(1327)の紀年銘(この年の干支は丁卯ですが、翌年
の戊辰となっているそうです)があります。
このお面に水を注ぐと雨が降るという言い伝えがあり、雨乞いの面としても知られています。
納曽利面(なそりめん)
舞楽に用いられる面で、羅龍王面と同じ鎌倉時代末の作品とされています。
蒙古来襲の時、鎌倉幕府の武将が奉納したものと言われています。

「日本社寺大觀 神社編」(昭和45年)には、「大戸神社」の宝物についてこう書かれています。
「所藏の寶物は社記によれば、籠目太刀(北條時政奉納)・古面四枚(羅龍王面二、納曾利面
二、旱魃の際、請雨塚なる地にて此面に三度水を注げば雨降るといふ。)禁制狀(浅野彈正少
弼、木村常陸介花押)・折紙三葉(佐藤忠行、庄司信平、陸奥六郎連署)・太刀二口(佐藤忠信
奉納)等あり。」


これらの宝物は、境内の右奥にある「宝物殿」に納められているのでしょうか?

大戸神社-51

「宝物殿」は高床式建築で、瓦葺きのしっかりした建物です。


大戸神社ー13

「大戸神社改装記念之碑」(昭和36年)。
社殿は、白雉元年(650)に現在の地に遷座して以来、正応二年(1289)、明徳四年(1393)、
寛文四年(1664)と改築を重ね、宝永四年(1707)の改築が現在の社殿となっています。
その後、大正五年(1916)、昭和36年に改修が行われ、この記念碑はその時のものです。


大戸神社-14

境内の右手にあるスダジイの古木。

大戸神社-15
大戸神社-16
********** 大戸神社-17

「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。

「祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと) 本殿・銅板葺神明造六坪、弊殿・銅板葺
破風造六坪、拝殿・銅板葺入母屋造一六.五坪 新館・銅板葺方形造二六坪、旧館・同一五
坪 境内一、五七七坪 氏子三、〇〇〇戸」

「景行天皇の御宇、日本武尊が東夷御征討のとき勧請、宮柱造営。その後天武・伏見・霊元
各天皇のとき社殿の改築をし、伏見・後小松両帝より社領一万貫の御寄進があった。その後
源家・北条家・豊臣家・千葉家等の武将の崇敬が厚く、御宝物、寄進状その他がある。徳川
家よりは社領一〇〇石を寄せられ、明治六年県社に列せられた。 香取神宮の攝社で氏子は
佐原市・大栄・大栄・栗源各町、茨城県東村に及ぶ。」



大戸神社-104

氏子が3000戸と言われるだけあって、境内右手には立派な「氏子会館」が建っています。


大戸神社-20
大戸神社-19

拝殿正面に掲げられている神額には「大戸神宮」と書かれています。


大戸神社-113

拝殿の中には色鮮やかな掲額が見えます。
どうやら有名な「天岩戸(あまのいわと)」の物語のようです。
右端に描かれているのは「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、横に立って岩を掴んでいるのが
この神社のご祭神である「天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)」、そして中央で「天宇受賣命
(アメノウズメノミコト)」が踊っています。


大戸神社-115

こちらは大きく迫力のある鬼面の掲額です。


大戸神社-21
大戸神社-22

拝殿前の御神燈は昭和25年の寄進で、中台の部分には龍が彫られています。


境内左手に並ぶ二基の石碑は、風化もあって刻まれている文字が読めません。

大戸神社-23  元禄十五年(1702)
年代不明・神門改造之碑 大戸神社-24


大戸神社-25

本殿は見事な彫刻で飾られています。
「大戸神社」のホームページには、
「そして、平成15年(2003年)、神幸祭の記念事業として本殿・拝殿の彩色塗装および、一部
補修、神輿修復、玉垣屋根の総銅板葺等々が全て完了致しました。」

と書かれています。
鮮やかな彩色は十年ほど前に修復塗装が行われたためです。


大戸神社-26
大戸神社-27

本殿左壁面の装飾。


大戸神社-32
大戸神社-33

本殿右壁面の装飾。


********** 大戸神社-28
大戸神社-30
********** 大戸神社-34

大戸神社-35
******** 大戸神社-29

脇障子にも色鮮やかな彫刻が施されています。
何かの故事に題材を求めたのでしょうか、楽しげに語らう二組の人物が描かれています。


大戸神社-36

鰹木は七本、千木は垂直切りで男神を祭っていることを表しています。


大戸神社-37

境内の裏手からも出入りができるようになっていて、ここにも手水舎が置かれています。


大戸神社-38

通りを挟んで三基の記念碑が建っています。
左から、陸軍大臣・林銑十郎書の「従軍記念碑」、「忠魂碑」、乃木希典書の「明治卅七八年
戦役紀念碑」で、いずれも明治三十九年(1906)の建立です。


大戸神社-39

記念碑側からは本殿の裏側と手水舎が見えます。

境内の裏手にも多くのお社や祠などがあります。

大戸神社-40
大戸神社-108

二本の大杉の根元がつながっている「夫婦杉」。
根元にはお社と灯籠、そして「道しるべ」と刻まれた四角柱があります。
四角柱の左右の側面には、「一笑一若一怒一老」「日日是好(幸)日」と刻まれています。


大戸神社-42
大戸神社-43   弘化四年(1847)
  大正八年(1919)  大戸神社ー44
大戸神社-105

二基の子安観音を祀る「子安堂」。
左の子安観音像の陰に、破損して赤子と観音の足だけが残る子安像が転がっています。
壊れたのか、壊されたのか・・・無残な姿です。


大戸神社-45

手前の祠には「大六天王」と書かれています。(奥は「稲荷大明神)
これは「大六天神社」または「第六天神社」です。
「第六天魔王」を祀る神社が「第六天神社」ですが、神仏習合の神社であったため、明治政府
によって神仏分離令が出された際に、多くの神社が「第六」という社名の連想(?)から、神世
七代における第六代神である、面足命(オモダルノミコト)と惶根命(アヤカシコネニミコト)に
ご祭神を変更しました。

「第六天魔王」とはあまり聞き慣れない名前です。
仏教には六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)という世界観があります。
最上位の天上界も「欲天」「初禅天」「二禅天」「三禅天」「四禅天」「無色天」に分かれていて、
最下位の「欲天」は「人間界」に近いため、未だ欲望に縛られている状態にあります。
「欲天」の世界も「四大王衆天」「忉利天」「夜摩天」「兜率天」「楽変化天」「他化自在天」に
分かれているとされています。
「他化自在天」は「欲天」の最上位(第六天)で、“他者が仏によって教え導かれ、救済され、
悟ること(教化)”を奪い取ってしまう、つまり仏道修行を妨げる「天魔」である「第六天魔王」
の世界であると言われます。
このような「魔王」をなぜ祀ったのかは分かりませんが、災いをなすものを丁寧に祀ることで
災いを防ぐ、または「福」に変えようとすることは、よくあることです。
また、日蓮宗では修行者を法華経からあえて遠ざけることで、さらなる信心を重ねるきっかけ
となる、ありがたい仏の一人とされています。
織田信長が武田信玄との書状のやりとりの中で、信玄が「天台座主沙門」と自らを称したこと
に対抗して「第六天魔王」と名乗ったことは、歴史好きの方ならご存じでしょう。


大戸神社-46
大戸神社49

明治二十九年(1896)建立の「琴平大神」。
ちょっと離れて置かれている手水盤は大正十三年(1924)のものです。


大戸神社-48
大戸神社-47

雑草の中に建つ木製の靖国鳥居の先には、向き合う二社の「神明宮」があります。


大戸神社-50

この碑には、崩し字で「天満宮」と記されているような気がしますが、自信はありません。
「慶応乙丑年」と読めますので慶応元年(1865)の建立です。

大戸神社-52

境内の一番奥にはたくさんの祠が並んでいます。

大戸神社-53 
天保九年(1838)の「白山大権現」
大戸神社-54
宝暦七年(1757)の「道祖神」。
大戸神社ー55
宝暦十一年(1761)の「疱瘡神」。
大戸神社-106
昭和39年の「三峯神社」
大戸神社-107 
昭和32年の「伊勢大社」

この他にも社名不明、年代不明の祠がたくさん並んでいます。


大戸神社ー58

境内の左手にある「神輿奉安殿」。
中に納められている神輿は元禄十五年(1702)に造られたものです。


大戸神社-62

境内の真ん中に参道に食い込むように立っている杉の大木があります。

大戸神社-101
********** 大戸神社-102

注連縄や説明板はありませんが、その圧倒的な存在感から、ご神木ではないかと思います。


大戸神社-1
大戸神社-120

「東大戸村大戸區字宮本に在り域内千三百二十七坪手力雄命を祀り天照大神手栲幡姫命を
相殿とす祭日三月中午日雑祭一年の間四十五度社傳に曰ふ日本武尊東征の時之を大内臺
本社を距る三町餘に勧請し白鳳二年更に今の地に再榮す或は曰く大戸社は天鳥船命を祀れる
ものなりと其據を知らず中世武家紛爭の時に際し文書等兵亂に罹り散逸するもの多し」


「千葉縣香取郡誌」の「大戸神社」の項は、こう書き出しています。
ご祭神や由緒に関する諸説が出るのは歴史ある神社にはつきものですが、いずれも兵乱
や火災等によって記録が消失し、伝承に頼らざるを得なくなるためです。
「大戸神社」もその例外ではありませんが、伝承の真偽を諮るまでもなく、その長い歴史の
持つ重みのようなものが、全ての説を納得させてしまうような気がします。


大戸神社-99

                         ※ 『大戸神社」 香取市大戸520



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香取市の寺社 | 08:47:14 | トラックバック(0) | コメント(4)
馬乗り馬頭観音と虚空蔵菩薩(旧山田町)
前回の「正等院」の謎の石仏を調べる過程で訪問した、旧山田町(現・香取市)の「観音寺」
にあらためて取材に訪れました。

山田馬頭ー21

「観音寺」は珍しい「馬乗り馬頭観音」で知られています。


山田馬頭ー1

天台宗のお寺ですが、ほとんど資料がありません。
天台宗のホームページにも寺名と住所しか載っていません。


山田馬頭ー34

「香取郡誌」には、その他寺院の項にただ一行、「観音寺 天台宗 本尊・馬頭観音」とのみ
記載されています。
「山田町史」(昭和61年編さん)にも、簡単な説明があるだけです。
「観音寺 神生、向油田にある。本尊に馬頭観世音菩薩をまつる。下総七牧の一つ、油田牧
の内にあり、馬観音として信仰されてきた。」 
(P1345)

ゼンリン地図には「観音寺」ではなく、「馬頭観音」と表記されています。


山田馬頭ー3

平成21年に掲げられた寺額には「馬頭観世音」と書かれています。


山田馬頭ー5

本堂の扉に空いた小さな窓から、御前立ちの「木像馬乗り馬頭観音」が見えます。
馬上で趺坐する姿は、後ろの厨子内に安置されている本尊と同じ像容と言われています。


山田馬頭ー8
********** 山田馬頭ー7

石段を登り、境内に入る場所に享和二年(1802)の石灯籠が立っています。

石灯籠の脇にある記念碑(平成二十一年三月の「馬頭観世音本堂修繕事業落慶譜」)には
次のように刻まれています。

『当山馬頭観世音は千数百年前(奈良、平安)の行基菩薩の作である。脇の貝塚は、早稲田
大学の調査チームにより三千五百年前の人骨が発掘され、旧茅場には実際に狩をした塚十
数ケ所あり、古代人の生活の営みがあった証である。 「向油田の馬頭観音」は馬体安全、
商売繁盛、家内安全の観世音として篤く信仰されて来ました。本堂は嘉永二年一月二十三日
の油田村の大火災で全焼し運び出された本尊は十七年間仮殿に安置される。明治五年三月
七日より九日迄、入仏供養の式が執行される。今も本堂展示物、二点に当時の焼けあとが
ある。本堂は慶応三年十一月二十八日大工上棟 明治元年三月十二日茅ぶき屋根上棟され
た。百五十年の月日による本堂の傷みも激しくなりよってここに本堂屋根と、本堂内の修繕、
仏具修復工事を奉賛し、以って馬頭観世音の壮大なる御慈悲を末永く仰がんとする。』


行基菩薩(ぎょうきぼさつ)とは、奈良時代の僧で、我国最初の「大僧正」となった行基のこと。
死後に朝廷より菩薩の諡号を授けられたため、「行基菩薩」とも言われています。
本尊の馬頭観音像が行基の作とすれば、実に約1300年前のものということになり、大変
貴重な文化財ですが、千葉県や香取市の文化財の指定ありません。
いわゆる「寺伝」だということなのでしょうか。


山田馬頭ー9
山田馬頭ー10

手水盤には天明三年と刻まれています。
天明三年は西暦1783年になります。


山田馬頭ー12
山田馬頭ー11
山田馬頭ー33

虹梁、木鼻等、どれも細かい部分にまでこだわった見事な彫刻です。


山田馬頭ー13
山田馬頭ー30
山田馬頭ー31

本堂の側面に郡馬の掲額があります。
右端には「馬乗り馬頭観音」が描かれていますが、本尊や御前立ちのように馬上に趺坐する
観音像とは異なり、馬に跨っています。
はっきりとは分かりませんが、肌は青く、三面六臂の忿怒相のような気がします。

「仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、
いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。柔和相と憤怒相の二つの相をもち、日本では
柔和相の姿はあまり知られておらず作例も少ない。そのため、観音としては珍しい忿怒の姿
をとるとも言われ、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、
憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』に説かれる「八大明王」の一尊にも
数える。」
 (ウィキペディア 馬頭観音の項より)


山田馬頭ー15
山田馬頭ー17
山田馬頭ー16

馬の掲額は裏側の壁面上部にまで続いています。


山田馬頭ー32

境内の裏手斜面に四基の石造物が見えます。


山田馬頭ー22

左端の倒れかけた「馬乗り馬頭観音」。
風化が進み、紀年銘等は判読できませんが、馬に乗っていることは分かります。


山田馬頭ー20
山田馬頭ー25

隣に立つ「馬乗り馬頭観音」は右手に三叉、左手に未開の蓮を持ち、馬上に趺坐しています。
宝冠を被り、馬頭観音とは思えない柔和な顔つきです。
「安永六丁酉六月吉日」 と刻まれ、240年も風雨に晒されていたとは思えないほど風化が
少ない貴重な文化財です。(安永六年は西暦1777年)

 
山田馬頭ー23

右側の倒れた二基は「馬頭観世音」の文字のみが刻まれています。
地中に埋まっているため、紀年名は読めません。


山田馬頭ー24

この明治二十六年の読誦塔には側面に建立の経緯が記されています。
「維時明治廿五年八月於當山普門品読誦講ヲ創設シ二十六年九月ニ至満願成就ス依之
同十月廿七日是ノ大供養ヲ執行シ記名信徒ノ篤志ヲ■■■


山田馬頭ー29
山田馬頭ー28

屋根には千葉氏の紋章、月星紋が光っています。
斜め左の上向きの三日月に一つ星の紋は、江戸時代中期以降に用いられたもので、それ
以前には上向きの三日月に一つ星でした。

円通寺ー22 円通寺の月星紋

ただ、寺社にある千葉氏の紋は九曜紋が圧倒的に多く、月星紋はあまり見かけません。

和泉熊野ー13  西和泉の熊野神社
 旧栗源町の真淨寺  真浄寺ー11
宝応寺ー26   松子の寶應寺


山田馬頭ー38
山田馬頭ー39

「観音寺」からちょっと下った三叉路に小さなお堂が見えます。
近づいてみると「虚空蔵菩薩」と書かれています。

「虚空とは、どこまでも広がる空間の意味で、広大無辺な仏の智慧と慈悲を象徴し、それが
母胎の中にあるかように優しく包み込まれている。虚空が決して破壊されないように、この
菩薩の智慧と慈悲も永遠不滅である。」
 (「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P104)


山田馬頭ー40
山田馬頭ー46

堂内には右手に宝剣を持ち、左手に如意宝珠を持つ立像の虚空蔵菩薩が安置されています。

ここに虚空蔵菩薩が祀られている理由は分かりませんが、お堂の周りはきちんと整理されて
いて、地元の人々に大切に守られている様子がうかがえます。


山田馬頭ー41

お堂の傍らに数基の石仏が並んでいます。


山田馬頭ー44
山田馬頭ー42
山田馬頭ー43

一基を除いていずれも「慈母観音」のようですが、ちょっと変わっているのが赤子に乳を飲ませ
ているポーズです。
慈母観音にはいろいろな像容がありますが、このような慈母観音は初めて目にしました。


山田馬頭ー45

一基だけ場違いのように立っているお地蔵様。
「奉 供養諸願成就」「寛政九巳十月吉日」 と刻まれています。
寛政九年は西暦1797年です。


山田馬頭ー37
山田馬頭ー21

東総地区に集中してある「馬乗り馬頭観音」は、他には木更津地区にしか無く、全国的にも
房総地方にしか見られないとされている珍しい石仏です。
山田町(現・香取市)は初めての取材でしたが、まだまだおもしろい石仏が隠れていそうです。


山田馬頭ー01

                  ※ 「観音寺」(馬頭観音) 香取市神生1473-1



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香取市の寺社 | 08:12:54 | トラックバック(0) | コメント(2)
枝垂桜と山桜、珍しい造りの本堂が残る名刹~栗源の「真淨寺」
真浄寺ー4

栗源町(現香取市)「沢」にある「真淨寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「蓮寿山」です。
奈良時代に唐僧・鑑真によって開かれたと伝えられる古刹です。
伝承通りであれば1260年以上の歴史を有することになりますが、享徳三年(1454)に
日蓮宗に改宗したとの記録が残っていますので、少なくとも560年以上の歴史が刻まれ
ているお寺です。


真浄寺ー2

参道の入り口に建つ、日蓮宗のお寺では良く見かけるひげ文字の「題目塔」。


真浄寺ー1

立派な門柱は昭和51年に建てられました。


真浄寺ー42
真浄寺ー41

門柱の先に境内へ上る階段が見えています。
階段の両脇にはまるで巨大な仁王像のような杉の巨木がそびえています。


真浄寺ー5

境内に入るとすぐに「房総の魅力500選」と書かれた金属パネルが目に入ります。
「奈良時代に中国の鑑真和尚がひらいたと伝えられています。天正年間に至り、国分氏が
この寺を陣屋としたため、兵火にあって伽藍は焼失してしまいました。現在の本堂は、元文
5年(1740)に造営されたものです。」


「房総の魅力500選」とは、昭和58年に千葉県の人口が500万人を突破したことを記念して、ふるさとを再発見
しようと選定された名所や名物などです。



真浄寺ー6
真浄寺ー7

「蓮寿山真淨寺 日蓮宗 本尊、釈迦牟尼仏、日蓮大菩薩。 創建、奈良時代唐僧鑑真が
開いたといわれている。享徳三年二月一三日、真言宗より日蓮宗に改宗、寺号を改める。
天正一八年矢作城落城直後、国分氏当寺を陣屋としたため兵火で焼失、現本堂は元文
五年四月の造営。」
 (「栗源町史」 P154~5)

鑑真が開いたとするお寺は成田地区にも多くありますが、史実としては疑問が残ります。
ただ、それほど古いお寺だということなのでしょう。
改宗したとされる享徳三年(1454)から数えて560年、兵火で焼失した天正十八年(1590)
からは425年、現本堂が造営された元文五年(1740)からでも275年が経っています。


真浄寺ー10
真浄寺ー9
真浄寺ー11

本堂の軒下には見事な彫刻がありますが、その中に「七曜紋」が見えます。
一方、屋根の鬼瓦には「九曜紋」があります。
「九曜紋」は、かつてこの地域の領主であり、秀吉の小田原攻めの際に北条方に与して
真淨寺焼失の因をつくった「国分氏」の紋です。
「七曜紋」も、国分氏が属する千葉氏一族の紋章の一つですから、ここにあってもおかしく
はないのですが、江戸時代に法華経の守護神とされる「七面大明神」信仰と「七曜紋」が
結びついたことから、掲げられているのではないかと思います。

この本堂の「七曜紋」とは直接の関係は無いと思いますが、「七面大明神」と「七曜紋」との
関わりの一例としては、こんなことが挙げられます。
真淨寺の本堂が再建された元文五年は八代将軍吉宗の時代ですが、吉宗の側近である
田沼意行は長い間子に恵まれないため「七面大明神」に願掛けをしたところ、後に老中と
なる田沼意次が生まれたので、家紋を「七曜紋」に替えたと伝えられています。


真浄寺ー12

昭和61年に寄進された天水桶にも「九曜紋」が・・・。
裏側には「如蓮華在水」と刻まれています。


真浄寺ー13身延七十九世大僧正日慈
真浄寺ー14  身延山参拝記念碑
真浄寺ー15  一天四海皆歸妙㳒

境内の一角に並ぶ3基の題目塔。
「南無妙法蓮華経」の文字の他には、写真の右にあるような文字が・・・。


真浄寺ー17

明治41年の題目塔(左)と聖観音菩薩像(右)。
題目塔の側面には「奉唱御題目六萬部供養塔」「一天四海皆帰妙法」と刻まれています。


真浄寺ー18
真浄寺ー19

この慈母観音像の背後には、たくさんの水子供養の板塔婆が立っています。
観音様の表情と、抱かれている赤子の顔がリアルで、ちょっとドキッとします。


真浄寺ー20

ずんぐりした灯篭は平成3年に奉納されました。


真浄寺ー43

何の説明もありませんが、境内のほぼ中央に建つこの像は大黒様でしょうか?


真浄寺ー22
真浄寺ー30

「芲下大朙神碑(はなのしただいみょうじん)」と彫られた碑には、
「木のもとに 汁も膾も さくらかな」
の句が刻まれています。
これは松尾芭蕉が元禄三年(1690)に伊賀上野で詠んだ句です。
明治二年(1869)の建立ですが、傍にある枝垂れ桜にかけて建立したのでしょう。

「同村澤字寺谷眞淨寺域内に在り埀絲櫻にして圍一丈四五尺に埀んとす開花の候殊に奇觀
を極め澤櫻の名遠邇に聞ゑ騒人雅客の杖を曳くもの多かりしか近時幹枝の枯損するを以て
舊時の如くならず樹下碑石あり俳句等を刻す村の俳人髙橋如水の門人が建つるものなり如水
通稱を甚兵衛と曰ひ吉祥庵と號す往年其側に稚櫻を培植せしが今や漸く成長し往時の觀を
復せしむとす」
 (「千葉縣香取郡誌」 大正10年 P577~578)


真浄寺ー39
真浄寺ー25
*********** 真浄寺ー24
真浄寺ー29

元文五年に再建された現在の本堂は、香取市の指定文化財となっています。
説明板には次のように記されています。

「当山は蓮寿山真淨寺と称し、日蓮宗に属する。一説には唐僧鑑真大和上の開山とも
伝わるが、永徳元年(一三八一)平賀本土寺(松戸市)第九世妙高院日意上人を中興
開山とする。天正十八年(一五九〇)徳川氏が関東入府の際、矢作落城と共に、一山
ことごとく灰燼に帰し、その後再興された。本堂は、間口柱間三間・奥行同四間で、正面
に間口一間の向拝を付している。宝形造、銅板葺(元茅葺)の屋根で、建築年代は小屋
柱の墨書により、元文五年(一七四〇)とされる。正面寄り一間に「三方吹き放ち」とも
呼ばれる構造を設けていることが特徴的である。旧庫裡は宝暦八年(一七五八)の建立
であったが平成七年五月に解体され、平成九年に現在の庫裡が完成した。延享年間
(一七四四~四八)には末寺二四ヶ寺を有する名刹であった。古くから枝垂桜の名所と
して知られ、昭和六十三年には千葉県「房総名勝五百選」にも選ばれている。」



真浄寺ー26 斎藤翁碑(斎藤源吾・明治二年)
真浄寺ー27 澤地区戦没者慰霊碑(平成4年)
真浄寺ー28 題目塔(平成第九之春とある)


真浄寺ー31

裏山の中腹にある墓地から眺める本堂。


真浄寺ー33

墓地には明暦、寛文、宝暦などの古い墓石が並んでいます。


真浄寺ー35
真浄寺ー37
真浄寺ー38
真浄寺ー36

境内から少し下った場所に、たくさんの板碑が並んでいます。
いずれも境内の整備に伴ってここに集められたもののようです。
風化により板面の梵字や文様は見えませんが、お寺の歴史を語る貴重な文化財です。


さて、「真淨寺」から旧道を「道の駅くりもと」に向かってしばらく歩くと見えてくる「澤大櫻」
についてもちょっと触れましょう。

澤大櫻ー2
澤大櫻ー1

この大櫻は樹周りが5.4メートル、樹高は約10メートルあります。

記念碑には、元禄のころ真淨寺の日櫻聖人がここに山桜を植えて、真淨寺の境内にある
枝垂桜とこの山桜との間を信仰の浄土の地とした、と記されています。
この桜の木が「真淨寺」への参道入り口だったわけです。

澤大櫻ー5

正面に「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの小さな石塔の側面には「ひした(菱田?)江戸」
の文字が見えますので、道標を兼ねていたようです。

澤大櫻ー6

元禄のころにここに植えられたとすれば、この桜は樹齢320年以上ということになります。


真浄寺ー40

「蓮壽山眞淨寺 同村大字澤字寺谷に在り域内千百八十三坪日蓮宗にして釋迦如來を本尊
とし多寶佛を配す開創年月詳ならず寺傳に曰く矢作城の陥るや城主國分大膳太夫大膳世系不詳
走て本寺に入る敵兵窮追して火を放ち堂塔悉く灰燼と為り古記随て烏有に歸せり後ち國分氏
の室蓮壽院之を再興し以て父の冥福を祈り今の山號を付すと寺門に數株の巨杉樹相並べり」

(「千葉縣香取郡誌」 大正10年 P449)

“戦に敗れて死んだ城主の霊を、遺された姫が弔うために建てた寺”としては、東和泉の
「養泉寺」があります。
討死した父と家臣を弔う姫~東和泉の「養泉寺」 ☜ ここをクリック

県道44号線のバイパスができてから、旧道の交通量はめっきり減りました。
そのぶん、静かな山村の空気が「真淨寺」の歴史を包んでいるような気がします。


真浄寺ー44
真浄寺ー45


                     ※ 「蓮寿山真淨寺」 香取市沢1811



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香取市の寺社 | 07:39:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
大杉が見守る古刹、栗源の「東光山安興寺」
今回は香取市岩部(旧栗源町)の「安興寺」を訪ねます。

安興寺-48

「安興寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「東光山」。
正式には、山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と称しますが、「東光山安興寺」と
略されて呼ばれています。
ご本尊は「釈迦如来」です。


安興寺ー1

参道の入口に建つ「題目塔」。
正面には「南無妙法蓮華経」の題目が刻まれ、側面には「東光山安興寺」、「當山丗七世
嗣法」と読める文字が刻まれています。
紀年銘は「享和三癸■」とあります。
享和三年は西暦1803年になります。


安興寺ー2
安興寺ー3

すっきりした、それでいて風格のある山門です。
山門脇の説明板に「安興寺縁起」が書かれています。

『当山は、山号を「東方光明山」、寺号を「安圀長興寺」と命名。通称は「東光山」「安興寺」
を名称とする。淵源は、大同二年(八〇七年)、岩部城地に創建された戒律勅許の「律宗・
大円院」で、当地方の行政機関を兼ねた拠点として戒律相伝の律師(官許の僧侶)により、
鑑真和上(奈良・唐招提寺開祖)を開基に仰いで創建されたと伝えられる。
その後、貞応元年(一二二二年)、千葉氏の一族岩部五郎常基が岩部城築城にあたり、
現在地に移設し、名称も「千葉山」「釈尊勧請寺」として整備し創建した。
時は下って元徳二年(一三三〇年)、大円阿闍梨日伝上人(平賀・本土寺第三世)に
よって日蓮宗に改宗され、名称も現在のものとなった。
第二世日義上人の代には、千葉家から供養料として田畑、寺領地が寄進され「境内地
二千七百五十坪、供米二十石」とある。
第三世日憲上人の代には、時の将軍足利義満公との有縁の誼をもって奥方懐妊の際、
当山勧請の釈迦尊像に祈祷を修し男子誕生の慶事をもって二十石の御朱印地を受領。
そして「塔中三十七坊、末寺七ヶ寺を擁し、檀家岩部一円に及ぶ」とある。
第二十世中興日秀上人の代には、徳川三代将軍家光公からも十一石五斗の御朱印地
が下付された。寛文五年(一六六五年)以降、不受不施派に属した為、幕府の弾圧を受け、
二十余年間無住職状態が続き、末寺、支配寺坊の離脱、火災による堂宇焼失等が相次ぎ
本来の偉容から衰微した。
然るに、歴代上人の名跡によって、濫觴以来実に千二百年、現在地での法灯連綿七八〇
年余、有数の古刹にして、現在の第五十四世に継承されている。』


なんと、1200年余の歴史を有し、現在地に移転してからでも790年余、日蓮宗に改宗して
から680年余という古刹なのです。

現在地に寺を移した「岩部五郎常基(いわべごろうつねもと)とは、下総の豪族・千葉常房の
子で、後に戦国末期までの約500年間にわたって小見川一帯を支配した粟飯原(あいはら)
氏の祖となる人物です。


安興寺-40

「栗源村大字岩部字西崎に在り域内四百五十坪日蓮宗にして釋迦如来を本尊とす寺傳に
曰く貞應元年之を開基して千葉山勸淨寺と稱し眞言宗たりしが元徳二年三月之を再建し
今の宗に改め僧日義開山たり日義は日傳の弟子なり初め鎌倉妙本寺に在り之に師事し
後ち本寺を開く千葉氏爲めに寺地を寄附す亞て日憲なるもの之を中興し足利義満亦寺地
若干を寄す昔時は古記古寶等極めて多かりしが大永中寺主なく寺藏を助澤村長榮寺に
藏し火災に罹りしを以て之を失ひしと天正中鳥居氏此地を領せしとき悉く寺領を没し慶安
二年十一月徳川家光更に朱印地十一石五斗を給す境内巨杉數株あり大なるもの圍二丈
に埀んとせり」 


「千葉縣香取郡誌」には「安興寺」についてこのように記述されています。
岩部五郎常基によって移設された時を開基としている他は、山門脇の説明板とほぼ同じ
内容です。

なお、「安興寺」のご本尊を「一塔両尊四菩薩」としている資料がありますが、門前にある「安興寺縁起」には、
釈迦如来像を「千葉山以来の最古の勧請仏」と記されていますので、「香取郡誌」にあるとおり「釈迦如来」が
ご本尊で良いのではないでしょうか。
日蓮宗の「本尊」の考え方は難しいもので、自信はありませんが、「一塔両尊四菩薩」とは、中央の宝塔に
南無妙法蓮華経と書き、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が一つの蓮台の上に乗り、さらに左に
浄行菩薩、安立行菩薩を、右に上行菩薩と無辺行菩薩を置くもので、「釈迦三尊」や「薬師三尊」と同じような
安置の形式なのではないでしょうか。



安興寺ー8

この立派な題目塔は平成5年に建立され、「庫裡新築落慶記念 東光山五十四世日園」
と記されています。


安興寺ー10

こちらの題目塔には、裏面に「昭和貮年四月五日建立」の文字と身延山参拝団体人名が
記されています。


安興寺ー11

昭和3年の「畔蒜佐市君碑銘」。
畔蒜佐市(1858~1926)は、岩部村外六ヶ村連合役場の書記を務め、後には栗源村の
村議収入役や助役を務めた人物です。


安興寺ー13
安興寺ー12
安興寺-45

香取市指定天然記念物の大杉。
寺の縁起書には、樹高は約50メートル、周囲目通り約6メートルと書かれています。
中興二十世日秀上人の時代に植樹されたとありますので、樹齢は約400年になります。


安興寺ー14

山門をくぐった左手にある「慈母観音像」。
説明板には『子供を思う親ごさん達の喜捨によって建立されたので「かあさんかんのん」と
名乗られました』と書かれています。


安興寺-47
安興寺ー26
安興寺ー25

手水舎の中の手水盤には、「文化元甲子年三月吉祥日」と刻まれています。
文化元年は西暦1804年にあたります。


安興寺ー27
安興寺ー28

手水舎の後ろにある小さなお社は名前が分かりませんが、隣に古い井戸ポンプがあるので、
「水神様」ではないでしょうか。


安興寺ー30
安興寺ー31
安興寺ー32

「安興寺」が所蔵する、狩野派・勝運の筆になる「涅槃図」は、香取市の有形文化財に
指定されていて、毎年二月十五日の「涅槃会」に公開されます。
縦415cm、横287cmの大幅で、享保十六年(1731)の作です。

また、寺宝となっている「日蓮上人の真筆」は、法華経譬諭品の断簡で、「栗源町史」に
掲載されている写真を見ると、
「・・ 舎利弗 汝於未来世 過無量無辺 不可思議劫 供養若干 千万億仏 奉持正法
具足菩薩 所行能道 当得作仏 号日華光如来 ・・」

の部分が書かれています。


安興寺ー29

本堂脇に建つ大きな題目塔。
「南無妙法蓮華経」の脇に「一天太平 四海静謐」、反対側に「身延山参拝記念碑」、下に
「身延山七十九世 日慈」と記されています。


安興寺ー33

境内の一角にひっそりと建つお堂。
少々荒れていて、名前も分からないお堂ですが、このお寺が律宗であったころの名残りで、
「大師堂」ではないかと勝手に推測しました。


安興寺ー22
安興寺ー20
*********** 安興寺ー21

裏手には墓地があり、その先にはのどかな田園風景が広がっています。
古い墓石には、延宝、宝永、宝暦、安永、享和、文化、天保などの年号が見えます。


安興寺ー34
安興寺-35

本堂の裏にある柿の木には熟した実がたわわに実っています。
遠くの空を成田を飛び立った旅客機が横切って行きます。


安興寺-39
安興寺-41

本堂の鬼瓦には千葉氏一族に見られる多曜紋の一つ、「十曜紋」が見えます。
これが岩部氏の家紋だったのでしょうか。
大棟には日蓮宗の宗紋の「井筒に橘」が並んでいます。

昭和49年に編さんされた「栗山町史」には、「安興寺」の苦難の歴史には触れず、簡潔に
次のように記しています。

「寺宝に日蓮の真筆(断片)外古文書多し、大同二年九月唐僧鑑真和尚の創建、貞応元年
(一二二〇)岩部五郎常基の菩提寺となり、真言宗、千葉山勧請寺と称した。
元徳二年(一三三〇)日蓮宗に改宗、寺名改称、足利義満将軍の奥方の安産祈願寺となり
以来同氏より二〇石五斗、徳川家康より十石五斗の朱印地を寄進された。」 
(P152)


安興寺-50

大正七年(1918)の「玉姫明神記」。
「安興寺住持観了が村内外の養蚕家と謀り養蚕守護の霊神として玉姫明神を祀った記念碑」
(栗源町史 P115)


安興寺-43
安興寺-42
安興寺-46

どこから眺めても、大杉が目に入ります。
平成26年5月15日の「広報かとり」に、この大杉のことが書かれています。
「近年、樹木医による専門調査を行った結果、樹高は28m、胸高の周囲は5.65mを計測
しました。また、枝下の高さは6.7mで、枝張りは北へ12.8m、南へ13.9m、東へ10.2m、
西へ11.8mです。」

「まっすぐに伸びた幹と、そこから四方に張り出した湾曲した太い枝、縦に深く刻まれた樹皮
が、古木の力強さを感じさせます。遠望すると周囲の樹木よりも頭一つ抜き出ていることが
わかります。」


正確な計測も良いですが、この大杉の根元に立って見上げる時に感じる迫力は、案内板にある
公称の「樹高約50メートル」の方がしっくりします。

広い境内は手入れが行き届いています。
ちらりと見えた本堂の内部では、大勢の檀徒が集まって法話を聞き入っていました。
この古刹には長い年月にわたって続いてきた檀徒とのつながりが、大杉のように今もしっかりと
根付いているようです。


安興寺ー54


                       ※ 「東光山安興寺」 香取市岩部1306


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香取市の寺社 | 08:46:12 | トラックバック(0) | コメント(2)
神話の時代から現在・未来まで~下総一の宮「香取神宮」(5)
下総一の宮「香取神宮」の最終回です。

境内に戻ってきました。

香取神宮ー51

本殿の東側にある明治42年建造の「神庫」は、校倉造の本格的な木造建築です。
平成6年に市の文化財に指定されました。


香取神宮ー52

「香取文庫」は「神庫」の裏にあります。
平成6年に竣功したもので、1階は参拝者の休憩室と写真室で、2階に古文書が収納
されています。
この建物は昭和11年の大改修事業の一環として企画されながら、唯一取り残されて
いたもので、58年ぶりに完成を見たわけです。


香取神宮ー53

「宝庫」裏にひっそりと立つ板碑。
何やら種字のようなものや、文様が彫られていますが、風化もあり、私には読めません。

香取神宮ー54
香取神宮ー55
香取神宮ー165

「祈祷殿」の前にそびえ立つ「御神木」。
樹齢千年と伝えられる大木で、幹回りは7.4メートルもあるそうです。


香取神宮ー162
香取神宮ー161
香取神宮ー56

御神木の前、拝殿の東側には、神札授与所と祈祷参拝受付、そして「宝物館」があります。
この三つは一つの建物になっていて、昭和42年の竣功です。

「宝物館」には、国宝の「海獣葡萄鏡」、重要文化財の「古瀬戸黄釉狛犬」「双龍文鏡」を
始め、数々の貴重な宝物が陳列されています。

個人的には明治初年の「香取神宮境内繪圖」に興味を惹かれました。
現在の各社殿や摂社・末社などの位置と比べると、相当大きく変わっていることが分かります。
表参道は奥宮側にあり、二の鳥居をくぐって「花薗神社」を過ぎ、楼門前の一の鳥居へ。
鳥居の右にある手水舎で清めてから楼門をくぐり・・・と、なっています。
この絵図にある二の鳥居、一の鳥居は現在は無く、花薗神社はずっと奥の「六所神社」に
合祀されていて、絵図の位置には現在手水舎が建っています。

「香取郡史」にある大正10年の境内の写真には、楼門の前の鳥居が写っています。
また、現在は楼門の前にある「諏訪神社」は、東に大きく離れた場所に描かれています。


香取神宮ー57

「宝物館」の前には「さし石」が転がっています。
「さし石」とは、昔から若者たちの間で行われていた力比べに用いた石で、勝者が自分の
名前を刻んで奉納したものです。

香取神宮ー58

祈祷殿の裏にある「社務所」。
境内の外れにありますが、さすがに大きく立派な建物です。

香取神宮ー59
香取神宮ー60

祈祷殿。
元禄十三年に本殿、楼門などと同時に造営された拝殿です。
昭和11年から15年にかけて行われて大修築の際、新たに拝殿が造営されたことに
伴って、祈祷殿として改築のうえ、現在地に移設されました。
入母屋造りで銅板葺き屋根、壁や柱は丹塗です。


香取神宮ー61

「楼門」をくぐらずに「祈祷殿」の横から外に出ると、「御神井道」と刻まれた石柱がありました。
天保十四年(1843年)と記されています。

細い道が長く下っています。

香取神宮ー62
香取神宮ー63

「弓道場」がありました。
大神社らしい設備です。


香取神宮ー64
香取神宮ー65

道幅が狭くなり、急な石段(崩れかかっています)が続いています。
降りて行くには少々勇気が要ります。


香取神宮ー66

明治42年の「御手洗坂修路記」と書かれた記念碑がありました。
急斜面のため近づけないので、碑銘以外は読めません。
この急坂は「御手洗坂」ということだけは分かりました。


香取神宮ー67

「末社 狐座山神社(こざやまじんじゃ)」と書かれた木札が立っています。
木札の先は今度は急な登り坂です。
ここまで来たら行くしかありません。
どんなお社が待っているのか・・・、一部崩れた急坂を必死で上りました。

香取神宮ー68
香取神宮ー69

頂上には小さな鳥居とお社。
ご祭神は「命婦神(みょうぶのかみ)」です。
「命婦」とは、従五位下以上の位階を持つ女性、または稲荷狐の異名なので、
ここはお稲荷さんですね。

香取神宮ー70
香取神宮ー71  昭和15年の手水鉢


まだまだ訪ねたい場所が神殿の周りにありますが、またいずれ・・・にしましょう。

香取神宮ー139
香取神宮ー149
香取神宮ー163

「香取神宮小史」には、神宮の創立に関してこう記述しています。

「宮柱の御創立は、神武天皇の御代と傳へる。正和五年(一三一六)の香取古文書によって
明かである。謹みて案ずれば、輕津主・武甕槌二柱の大神は、先づ荒振神達を驅除して一旦
は皇祖天神に復命され、その子孫の神々が、東國を平定して海路より進み、今の銚子港口の
邊より軍船を乘り入れて、一は香取に、一は鹿島に根據地を定め、更に東夷を征討し、其の
根據地に祖神輕津主神を祭り香取神宮、祖神武甕槌神を祭って鹿島神宮と稱した。」


また、造営に関しては、次のように記述しています。

「當神宮の御造營の事が始めて書物に記されたのは、弘仁三年(八一二)六月に「住吉・香取・
鹿島三社は、二十年を隔てゝ皆改造れ」と云ひ(日本後紀)、又元慶六年(八八二)十二月九日
の勅に「下總國の神税五千八百五十五把を、正一位勳一等香取神宮雑舎を造る料に充てよ」
とある(文徳實録)。」


これを読むと、少なくとも弘仁年間より以前に本格的な社殿が造営されていたことが分かります。

神話の時代に現れ、千年、二千年と、この地にあって崇敬を集め続けてきた「香取神宮」。
これからの千年、二千年も変わらぬ崇敬が寄せられるのでしょうか・・・。

境内を含むその周辺は、まさに「神域」と呼べる雰囲気に満ちています。


香取神宮ー168

香取神宮ー169
  

              ※ 「香取神宮」 香取市香取1697
                 JR香取駅から徒歩約30分 佐原駅からタクシー10分
                 東京駅から高速バスが3社出ています
                 車の場合は佐原・香取インターから3分


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香取市の寺社 | 16:46:38 | トラックバック(0) | コメント(0)
森に響く神鹿の声~下総一の宮「香取神宮」(4)
本殿の裏手へ回ってきました。
こちらにもいくつかのお社が祀られています。

香取神宮ー118

境内の左手一番奥には、摂社の「匝瑳神社(そうさじんじゃ)」があります。
ご祭神は「磐筒男神(いわつつおのかみ)」と「磐筒女神(いわつつめのかみ)」。
香取大神の親神との説明板があります。

香取大神の親神とはどういうことでしょうか?
神話の世界では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)の
死因となった軻遇突智(かぐつち)を斬ったとき、十束剣から滴る血が天の川のほとりの岩を
染めたため、そこから岩裂神・根裂神(いわさくのかみ・ねさくのかみ)が生まれ、その御子の
磐筒男神・磐筒女神(いわつつおのかみ・いわつつめのかみ)の両神を親として経津主神が
生まれたとしているのです。


香取神宮ー119

お社の奥にあるこの石灯篭は寛政十二年(1800年)のものです。


香取神宮ー49

本殿裏の「桜馬場」へと抜ける場所にある、末社「桜大刀自神社(さくらおおとじじんじゃ)」。
ご祭神は「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」です。


香取神宮ー46

本殿の向かって右奥にある、摂社「鹿島新宮」。
ご祭神は「武甕槌大神」、「天隠山命(あまのかくやまのみこと)」。


半周しただけですが、拝殿から本殿に至るこの社殿は、本当に大きな建造物です。

香取神宮ー166

幾多の変遷を経て、慶長十二年(1607年)に大造営が行われ、さらに元禄十三年(1700年)
に再度造営が行われて今日に至っています。

慶長の大造営の前、永正十三年(1516年)の「香取神宮神幸祭絵巻」に描かれている境内の
様子を、「佐原市史」が次のように解説しています。

「白壁・朱柱の楼門の前には左右に褐色の仁王像が立つ。楼門を入ると御幣棚があって
御留守役の控える建物があり 中門があって正神殿へとつながっている。」
 (P274)

また、正神殿の注目点として以下の5点を挙げています。
①行五間に妻三間、檜皮葺切妻造り、前面に一間の階隠がある。
②珍しいのは正面中央の白壁で、その左右に丹塗りの扉がある。
③屋根には瓦木の上に山形の堅魚木四本を置いて、二羽の鳳凰を載せる。
④瓦木の端には鬼板を飾り、破風板には雲形が描かれている。
⑤目をひくのは丹塗りの柱ごとに龍頭が取り付けられていることである。  (P274)

現在とは大分異なるようですが、それでも堂々たる社殿であった様子がうかがえます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・香取神宮ー37

千葉県神社庁の「千葉県神社名鑑」には、「境内坪数4万坪、氏子2万戸」とあります。
香取郡という神郡を持つ「香取神宮」は、財政的にも恵まれた存在でしたが、中世以降は
地方豪族に度々神域を侵され、寛元年代(1243~1246)には神領が十余村にまで
狭められてしまいました。
徳川の時代になって天正十九年(1591年)に一千石の朱印地が与えられて、隆盛を
取り戻し、慶長、元禄の大造営とつながって行きます。

この間の状況を、大正10年刊行の「香取郡誌」からひろうと、
「然れども武門の權威益盛んなるに從ひ神領往々其の侵略を受け或は社田の租税を
抑留するに至る 朝廷より鎌倉府をして之を正さしもるも舊に復せざるものあり」
「天正十八年五月豐臣秀吉浅野長政木村重茲の二人をして香取十二ヶ村大戸六ヶ村
云云の制札を建て社地を犯すこと勿らしむ」
「十九年十一月徳川家康香取郷の地千石を寄附し神領と爲し後世違ふ勿らしむ」

(P344~345)
とあります。


「鹿島新宮」と「桜大刀自神社」の間を北に向かって抜けて行く道があります。

香取神宮ー156
香取神宮ー157


香取神宮ー124

「桜馬場」に出て行く所に置かれた手水盤。
元禄十三年(1700年)と刻まれていますから、本殿や拝殿、楼門が造営された時のもの
だと思われます。
あまり人の通らない道の片隅に置いておくのは、惜しいと思える歴史的な手水鉢です。


香取神宮ー130

「桜馬場」に出た所に茶店が一軒あり、その横に「下総国式内社の碑」があります。
「延喜式」記載の下総国の式内社十一社と「三代実録」の子松神社の所在地を、清宮秀堅
(1809~1879)が調査して碑としたもので、文久元年(1861年)の紀年銘があります。

「桜馬場」はかつて流鏑馬式が行われた所で、「香取神宮小史」には、
「神苑北側にある。櫻樹が多く、もと六月五日流鏑馬式を行った所。この地は眺望もよく、
香取ヶ浦を見下し、對岸に潮来、牛堀の町々連り、遥か浪逆の浦、鹿島山等を望み、
西方は筑波嶺、蘆穂、加波の連山を見渡すことも出来る。」

と書かれています。
今はいくつかの記念碑と、鹿園があるだけです。


香取神宮ー129
香取神宮ー125
香取神宮ー126

いずれも明治時代のもので、「武徳崇千古 威霊震萬年」とか、「祈征清 軍大勝 陸海軍
人健康」といった勇ましい文字が刻まれています。


香取神宮ー159
香取神宮ー127
香取神宮ー158

一番奥に「鹿園」があります。
鹿は神の使いとして神社では大切にされますが、この場所は見通しが悪く、参拝客が
訪れることはほとんど無さそうです。
私が近づくと一斉に駆け寄ってきました。
餌は餌箱にたっぷり入っていましたので、淋しいのか、退屈なのか・・・。


先ほどの手水盤の所まで戻って、今度は右手に進みます。

香取神宮ー131

木々の枝に覆われて薄暗い場所に「六所神社(ろくしょじんじゃ)」があります。
木札にはご祭神として「須佐之男命」「大国主命」「岐神(ふなどのかみ)」「雷神二座」と
書かれています。
岐神とは道の分岐点などに祀られる神で、悪霊の侵入を防ぎ、旅人を守ります。
「道祖神」とも言われます。
六所ならば、もうお一人神様が足りませんが、「香取神宮小史」には、上記のご祭神の後に、
「或伝、靇雷神六座」 と記しています。
ここには「花薗神社」が合祀されています。
こちらのご祭神は「靇神(おかみのかみ)」で、水神のようです。


香取神宮ー134

さらに進むと、広場の奥に木造二階建ての「香雲閣」が現れます。

「神苑東北隅の一樓を香雲閣と云ふ。明治二十九年(1896)、有志の醵出に依って
建設す。閣に登って眺瞰すれば、常總二州の勝景、一目の中に快然たる風致は羽化
登仙の感がある。大正天皇東宮殿下の御時、神宮御蔘拜の節、當閣に御休憩遊ばさ
れた。其の後、各宮殿下の當神宮御蔘拜の折の休憩所に充てられた。平成十二年
(2002)二月十五日登録有形文化財に指定。」
 (「香取神宮小史」 P55)

今は全く使われていないようで、障子が破れるなど内部は少々荒れています。


香取神宮ー135

東日本大震災で損傷した社号標がここにありました。
高さが半分ほどになっています。
昭和34年と記されています。


香取神宮ー137  明治37年建立
香取神宮ー136  昭和16年建立

社号標の近くに2基の「髪塚」が立っています。
戦地に赴いた兵士の武運長久を祈って、女性が髪を切ってここに埋めたのだそうです。
この前に立つと複雑な思いが交差します。


香取神宮ー48

辺りは深い森です。
静かな午後の陽ざしの中で、鹿の鳴く声が響いています。


【 番 外 編 】

香取神宮ー45

何回目かの取材中に、偶然テレビドラマの撮影にぶつかりました。
境内の拝殿前に大勢のスタッフや、エキストラ(出演希望の野次馬参拝客?)がいます。

香取神宮ー42
香取神宮ー43

香取神宮ー44

興味が無いわけではありませんが、元来へそ曲がりな性格で、ちょっと覗いただけで
取材を続けるためにその場を離れました。
後日放映された「香取神宮」のシーンは、さすが鮮明な画面でした。
(スタッフの呼びかけに応じて、(参拝客A)として大勢のエキストラに紛れ、そっとVサイン
でもしてみたかった~ などとは思いませんでしたョ、ハイ。)


(次回で一通りの紹介が終わります)



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香取市の寺社 | 21:33:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
朱の楼門に黒の神殿~下総一の宮「香取神宮」(3)
「香取神宮」の3回目です。
「総門」をくぐって、「楼門」の前に来ています。

香取神宮ー111

楼門の右側に立つ「黄門桜」。
「木母杉」と名付けた同じ貞享元年(1684年)に、水戸光圀公の手植えと伝えられる桜です。
ただし、この桜は成長したひこばえのようです。(3月3日撮影)

香取神宮ー145

3月25日の時点ではまだ蕾ですが、この記事のアップ時には満開になっているでしょう。


香取神宮ー138

黄門桜の斜め前の目立たぬ場所に末社の「諏訪神社」があります。
ご祭神は「建御名方神(たけみなかたのかみ)」で、軍神として知られています。
鹿島神宮のご祭神である「武甕槌大神 (たけみかつちのおおかみ)」と戦い、敗れて服従
した神で、香取神宮のご祭神である経津主大神とも因縁浅からぬ神です。
昔は境内東方の森の中で、前回に紹介した「天降神社」と並んで建っていました。


香取神宮ー112

「楼門」は壁や柱が丹塗りで、鮮やかな朱色が映える建造物です。
丹塗りは、原料が金属であることから腐食しにくく、虫害からも守れるという理由の他、
朱色が不変を表すという宗教的な意味もあり、宗教建築に多く用いられています。
元禄十三年(1700年)に本殿と同時に造営されました。

楼門内には「左大臣・右大臣」の随身像が外に向かって置かれ、内側には木彫りながら
重量感のある狛犬が置かれています。

香取神宮ー113
香取神宮ー114  (左像)  藤原鎌足 
香取神宮ー115  (右像)  武内宿禰
香取神宮ー73
香取神宮ー74
香取神宮ー75

元禄十三年(1700年)に造営され、昭和15年に大修築が行われたこの楼門は、国の
重要文化財に指定されています。
楼上の掲額は東郷平八郎の筆になるものです。


香取神宮ー146

「楼門」をくぐると、左手に回廊が続いています。
柱や壁は鮮やかな朱色です。


香取神宮ー149

ここで、あらためてご祭神の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)について調べておきましょう。

経津主神は日本の神話に登場する神です。
「日本書紀」にのみ現れ、「古事記」には現れない神で、 別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、
または伊波比主神(いわいぬしのかみ)とも呼ばれます。
少し長くなりますが、経津主神について香取神宮のホームページから引用します。

「はるか昔、天照大神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国を治めようとしましたが、
荒ぶる神々が争い、乱れていました。
大御神は八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神である
ということで遣わされましたが、出雲国の大国主神(おおくにぬ しのかみ)に従ってしまった
ので、次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされました。 天稚彦もまた忠誠の心なく、
顯國玉神(うつしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、自ずから国を
乗っ取ろうとしましたが、亡くなってしまいました。
このようなことが二度つづいたので、大御神が八百万神に慎重に相談させると、神々が
口を揃えて、経津主神こそふさわしいと申し上げました。そこへ武甕槌大神(たけみかづち
のかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出られたので、 共に出雲に派遣されることになりました。
経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつか
のつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く
異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本
の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。」


これで経津主神が武甕槌神と共に「武神」とされる理由が分かりましたが、では、香取、
鹿島というごく近い距離の内に、二社が祀られることになった理由は何なのでしょうか?

経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮とは、利根川を挟むようにして建って
いますが、これは両宮のあるこの地方が、大和朝廷の蝦夷地征伐の最前線であったことが
大きく影響していると考えられます。
私たちは蝦夷地というと北海道を思い浮かべますが、当時の蝦夷地とは、関東から東北に
かけての一帯を指していたようで、日本武尊の東征の物語などもそのことを裏付けています。

「『日本書紀』には、卷7景行天皇40年10月の条に、「爰に日本武尊、即ち上総より転じて
陸奥国に入りたまふ。時に大きなる鏡を王船に懸けて、海路をとって葦浦を廻り、玉浦を
横切って蝦夷の境に至る。」とあり、倭武の天皇とは日本武尊のこととされている。」

(ウィキペディア 日本武尊より)

古代のこの地域には、「香取海」という霞ヶ浦から手賀沼、印旛沼がつながった広大な内海
が広がっていて、大和朝廷の蝦夷地攻略のためには、戦略的に見ても現在の香取・鹿島
両宮の位置する場所が非常に重要な拠点でした。
その拠点に「軍神」を祀る香取・鹿島の両宮を配することによって、その神威を背景にして
大和朝廷の勢力の北上を狙ったと考えられます。


香取神宮ー36

藤原氏は、氏社として創建した奈良の春日大社に、鹿島神を第一殿、香取神を第二殿に
勧請して、第三殿に祀られた藤原氏の氏神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)
より上位に位置づけました。
また、源頼朝を始め足利、徳川将軍家からも強い崇敬を寄せられるなど、武神を祀る両宮
は武家からの崇敬を集めてきました。

「佐原市史」には、武家とのつながりを示す一例として、文永の役、弘安の役に関連する
次のような記述があります。
「公武一体の戦の成果とともに神仏への祈祷が強く作用したと信じられることから、全国の
寺社に於て異国降伏国土安泰の祈祷がとり行われた。香取神宮にあっては、現在牧野の
観福寺に所蔵されている四体の銅造仏像の中、釈迦・十一面観音の二像がこれに関係
している(観福寺の四体の仏像はもと香取神宮にあった)。すなわち、その光背の銘文に、
右志者為天長地久當社繁昌異國降伏心願成就造立如件 弘安五年午壬八月一日
とあることから、これは弘安の役の後、異国降伏祈願の報賽として、わが国屈指の大社で
あり、軍神の経津主命をまつる香取神宮に奉納されるものであることがわかるのである。」

(P 101)

時代劇の剣道場のシーンでは、決まって「鹿島大明神」「香取大明神」と書かれた二幅の
掛軸が出てきますが、武神としての崇敬が広く武家に浸透していたことを表しています。


現在の本殿、拝殿、楼門等の主な社殿は元禄十三年(1700年)に、五代将軍・徳川綱吉の
命により造営されました。
楼門をくぐって正面に見える拝殿は昭和11年から15年にかけて行われた大修築時に造営
されました(その前にあった拝殿は現在祈祷殿になっています)。
檜皮葺きで正面に千鳥破風が見えます。
旧拝殿(現祈祷殿)は楼門と同じ丹塗でしたが、新たな造営では柚部に黒漆塗を施し、組物・
蟇股は極彩色に仕上げられました。


香取神宮ー50
香取神宮ー123

本殿と幣殿、拝殿が一体となった造りで、昭和の大修築以前からこの「権現造」です。
「本殿は、元禄13年(1700年)の造営。三間社流造、檜皮葺で、南面している。この形式の
社殿としては最大級の規模である。前面の庇(ひさし)部分を室内に取り込んでおり、背面
にも短い庇を有している。」
「壁や柱は黒漆塗で、黒を基調とした特徴的な外観である。屋根は現在檜皮葺であるが、
かつては柿葺であったとされる。」
 (ウィキペディア 香取神宮)

確かに、この社殿を初めてみた人は、その黒さに少々驚くようです。
神社の社殿の色は朱色という先入観念があるためでしょう。
鰹木は9本、千木は垂直切りの本殿は、国の重要文化財に指定されています。


香取神宮ー163

金色や極彩色の装飾が、黒を基調とする社殿に良く映えています。
拝殿・本殿の見事な装飾を、時計回りに見て行きましょう。

      拝殿正面     香取神宮ー147
香取神宮ー148
      本殿西面     香取神宮ー150
香取神宮ー151
      本殿北面     香取神宮ー152
香取神宮ー121
      本殿東面     香取神宮ー153
香取神宮ー154


香取神宮ー38

本殿の向かって左手にある「神饌殿」。
神事の際に供える供物を納めておく所です。

香取神宮ー39

「神饌殿」の横には「練習艦かとり」の錨が置かれています。
「かとり」は昭和42年の建造され、平成10年に除籍となるまで、地球と月の間を2往復半
する距離を航海しました。
江田島で解体後、この錨が命名の由来となった「香取神宮」に奉献されることになったのです。


香取神宮ー120

「神饌殿」から奥に進むと「三本杉」があります。

「後冷泉天皇御宇源頼義公が参拝し「天下太平社頭繁栄子孫長久の三つの願成就せば
此の杉自ら三岐に別れん」と祈願したところ一株の杉が三岐に別れた 以来これを三本杉
と云う」
  説明板にはこう書かれています。
三つに別れてから千年も経っているのですから、樹齢は相当なものですね。
残念ながら三本の内真ん中の杉は枯れてしまっています。


まだ境内の半分も見ていませんが、ここから先は次回に譲ります。



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香取市の寺社 | 08:47:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
利根川に向かって建つ浜鳥居~下総一の宮「香取神宮」(2)
香取神宮の2回目です。

前回訪ねた「奥宮」や「祖霊社」がある道は旧表参道ですが、今回は旧参道を利根川方向に
寄り道してみましょう。

香取神宮ー82

さて、この大きな木製の大鳥居は何でしょう?
向こう側は利根川、手前は堤防です。
あたりに神社は見当たりません。

香取神宮ー80

この辺りは津宮河岸(つのみやかし)と呼ばれています。
この「常夜燈」は明和六年(1769年)の紀年銘があり、水運が盛んだった頃に一種の燈台
のような役目をはたしていたようです。

香取神宮ー81

「常夜燈」の隣にある与謝野晶子の句碑。
「かきつはた 香取の神の 津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋」
晶子が明治44年にこの地を訪れた時に詠んだ句で、平成2年にここに設置されました。

香取神宮ー83
香取神宮ー84

目の前には利根川下流のゆったりした流れが広がっています。

香取神宮ー87
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・香取神宮ー85
香取神宮ー86
利根川に向かって建つ「浜鳥居」。

この鳥居はご祭神がここから上陸したことに由来すると伝えられていて、朝廷からの奉幣使
が鹿島神宮から香取神宮に向かう時、海を渡ってここに上陸して香取神宮へと向かうのが
習わしであったそうです。
鳥居は高い土手の河原側に建っていて、土手の内陸側を走る利根水郷ライン(国道356号)
からは、その上部がチラリと見えるだけです。
平成14年に香取神宮のご用材を使って建て直されたものです。

ここでは12年に一度、式年神幸祭が行われます。
神幸祭を始め香取神宮は非常に祭事の多い神社としても知られています。
その祭事を追いかけていると、どんどん脇道にそれて行きそうなので、いずれ機会があったら
紹介したいと思います。


香取神宮ー117

「香取神宮」は延喜式の式内社で、下総の一の宮です。
旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社となっています。
また、全国に16社しかない「勅祭社」(祭礼に際して天皇より勅使が遣わされる神社)
でもあります。


ここからが前回の続きです。

大きな石灯籠の続く参道をしばらく進むと、左手に神池が見えてきます。
この池は昭和53年に式年大祭の記念事業として造られ、昭和55年10月に完成しました。

香取神宮ー17
香取神宮ー18

この日は雨あがりだったので水面は濁っていました。
小さな滝がこの池に水を流し込んでいます。


香取神宮ー19
香取神宮ー20

滝の上に登ってみると、壊れた石灯籠が無造作に積み上げられていました。
後方に見える道は、前回紹介した津宮の「浜鳥居」から「奥宮」や「祖霊社」を通ってくる
昔の表参道です。


香取神宮ー21
香取神宮ー106

三の鳥居の右手前には「神徳館」があります。
旧宮司邸跡に昭和36年に建てられましたが、その茅葺の門は天明元年(1781年)に
造営されたもので、勅使門でした。(現在補修中)

この「神徳館」の敷地内には、末社の「壐神社(おしでじんじゃ)」と、「大山衹神社(おおやま
づみじんじゃ)」があります。
二社とも急斜面にあって、側まで行くのは大変です。

「壐」とは、御印(みしるし)という意味で、国王の印のことを指す言葉です。
また、三種の神器の一つである八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を指す言葉でもあります。
ご祭神に関する記述が見当たりませんが、この神社の持つ意味は何となく分かります。
「大山衹神社」のご祭神は「大山衹命(おおやまづみのみこと)です。

       壐神社     香取神宮ー107
香取神宮ー108   大山衹神社
 壐神社から見た神徳館 香取神宮ー109


香取神宮ー23

目の前にコンクリート製の「三の鳥居」と「総門」が見えてきました。
鳥居は平成10年の建立で、「天皇陛下御即位拾年」と記されています。

手前には堂々たる狛犬が・・・。

香取神宮ー25台座には敬神・阿形の狛犬
香取神宮ー26台座には尊皇・吽形の狛犬

香取神宮ー24
香取神宮ー142
香取神宮ー110

大きく立派な「総門」をくぐると、いよいよ本宮の境内です。


香取神宮ー28

総門をくぐると左手に大きな手水舎があります。
参拝に際しては、まずここで手、口を清めて本殿へと向かいます。

香取神宮ー144

手水舎の脇にある「海抜百三十尺」の碑。
大正12年に「大阪探勝わらぢ會建立」と記されています。
130尺は約39メートルということになりますが、調べるとこの辺りの標高は38メートル
ですので、ほぼ正確な値ですね。


手水舎のさらに左側に木柵に囲まれた一角が見えます。

香取神宮ー29

末社の「市神社(いちがみしゃ)」と「天降神社(あまくだりじんじゃ)」。
ご祭神は「市神社」が「事代主神(ことしろぬしのかみ)」です。
合祀されている「天降神社」のご祭神は、「伊伎志爾保神(いきしにほのかみ)」と鑰守神
(かぎもりのかみ)」です。
「天降神社」は以前は境内の東側の外れで、「諏訪神社」と並んでいました。


香取神宮ー30

隣に並んで建っているのは、同じく末社の「馬場殿神社(ばばどのじんじゃ)」で、ご祭神は
「建速須佐之命(たけはやすさのおのみこと)」です。


香取神宮ー32

「木母杉」。
「貞享元年水戸光圀参宮の折四丈五尺余の老杉であるのを見て此の宮地の数多の杉の
母であろうと名付た 此の杉は今は枯れて寄生した椎樹のみが残る」

説明の木札にはこう書かれています。
さらに、「香取神宮小史」には、この木母杉の項で、黄門さまが参詣する以前の様子を、
「太古宮地は皆槻の木であったが、その後竹林となり、更に杉林となったと云ふ。」
と書いています。


なかなか拝殿・本殿まで進めません。
次回は香取神宮の象徴的な建造物である「楼門」をくぐり、拝殿・本殿へと進みます。



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香取市の寺社 | 18:24:41 | トラックバック(0) | コメント(0)
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