山号は「正峰山」で、地元では「峯の寺(みねのてら)」と呼ばれています。
多古町の山中、日本寺の近くにあります。

狭い路地の奥に小振りな山門があります。

この「八坂神社」と記された額束のある鳥居とお堂が無ければ、路地には気付かないでしょう。

「南無妙法蓮華経」と刻まれた山門前の石柱は、文化十三年(1816年)の建立です。

杉木立の参道は長く延び、その向こうに立派な山門が見えています。

堂々とした構えの山門です。
多古町の有形文化財に指定されています。
説明板には、
「入母屋造り、トタン葺、繁棰の二軒、三間三戸の八脚楼門で、妻飾りは紅梁大瓶式で
蕪懸魚を懸けてある。・・・・・この門は、県下で残存例の少ない三間三戸の八脚門で、
両側面に仏像を納めた装置も珍しい。当寺の記録と施工の手法からみて、江戸末期
(文政年間)の建立と推定される。」
とあります。
なお、文政年間とは1818年から1830年の間を指しますが、千葉県公式観光物産サイト
や多古町のホームページには、明和二年(1765年)の建立と書かれています。


重厚な骨組みの中に多古藩主の定紋が見えます。
光琳梅鉢でしょうか、久松一族の家紋は梅鉢です。
この山門の両側面には多聞天像と増長天像が向き合って納められています。




多聞天像は宝暦九年(1759年)、増長天は宝暦八年(1758年)の制作です。
多聞天は北方を、増長天は南方を守護する神将です。
驚くほどの鮮やかな彩色ですが、多分最近修復が行われたのだと思います。


山門をくぐり境内に入ると、左手に鐘楼が見えます。
寺伝によれば第38世の月廷が建立し、18世紀中ごろに改築されたものです。
基壇部分だけで7~8メートルある背の高い建物で、下からは鐘はほとんど見えません。

山門左手奥の墓地で「鏡山をはつ之墓」と書かれた木柱を見つけました。
「鏡山をはつ」とはどんな人物なのでしょう?
後に調べたところ、大変興味深い人物でした。
歌舞伎の「鏡山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)や、「加賀見山再岩藤」(かがみやま
ごにちのいわふじ)の登場人物が「鏡山お初」です。
この「鏡山お初」は、浜田藩江戸屋敷の中老、「尾上」に仕えていた「松田さつ」がモデルです。
物語のあらすじは、「浜田藩の江戸屋敷内では、中老の「尾上」と局の「岩藤」との間に
確執があり、ある時、尾上は岩藤の策略にかかって自害に追い込まれてしまいます。
「さつ」は主人の無念を晴らすべく、岩藤を追い詰め、これを討ち取って、見事主人の仇をと
りました。後に剃髪して妙真尼となった「さつ」は、縁のある多古の妙興寺に庵を結んで尾上
や岩藤の菩提を弔った」という話です。
歌舞伎では「女忠臣蔵」と呼ばれる人気の演目になっています。
ウィキペディア「鏡山旧錦絵」 ⇒
「さつ」の墓はこの妙興寺の他に、出生地の長府の本覚寺と妙真寺にもあるようです。

妙見大菩薩。

この手水盤には文化四年(1807年)と刻まれています。


多古藩主の久松家代々の墓は境内の右手にあります。
多古藩は秀吉の小田原の役の後に関東に入った徳川家康が、保科正光に与えた
一万石が起源です。
その後、土方雄久を始めとする他の大名や幕府の直轄領になるなどの変遷を重ね、
寛永十二年(1635年)、駿河国に八千石を有していた旗本の松平勝義が移封されて
から明治4年の廃藩置県まで、松平家が治めていました。
藩主は代々松平姓を名乗っていましたが、戊辰戦争の際に旧幕府から離れることを
示すため、もともとの姓であった「久松」に戻したと伝えられています。
なお、当時の地名は多古ではなく、多胡であったようです。


本堂の前にはさらに門があります。


3つの門をくぐってきたわりには、本堂は質素な構えでした。

本堂脇のお堂。
壁板が剥がれ、中はがらんどうでした。

これも荒れ果てた「正一位稲荷大明神」。

本堂裏の宝物殿。

「忠碑妙真法尼」と記された石板。
「通称鏡山をはつ 本名さつ女」と記され、大正3年に建てられたもので、
「さつ」(元禄十四年(1701年)~明和五年(1768年))の忠義を称えるものです。
なお、「鏡山」とは本来「加賀騒動」を指す言葉です。
ウィキペディア「鏡山物」 ⇒

こちらから登る人はほとんどいません



山門から右に細い道があり、その先に大きな木造の建物が見えます。
中村小学校の旧校舎で、今は使われていません。

すぐ隣にある新校舎



「妙興寺」は、すぐ近くにある「日本寺」ほどの知名度はありませんが、「鏡山おはつ」に
まつわる話や多古藩の歴史など、掘り出し物を見つけた気分になれます。

※ 「正峰山妙興寺」 多古町南中344-2
JR成田駅よりJRバス 八日市場行き 南中下車 徒歩10分
(駐車場はありません)