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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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三基の青面金剛と忘れられた旧街道~押畑の「稲荷神社」
今月はじめに「新福寺」を訪ねましたが、そのとき気になった旧佐原街道を辿ってみます。

押畑稲荷ー79

旧佐原街道は国道408号線によって分断されています。
街道は「新福寺」からの山道が、地図で見る成田病院の方向へ続いていたはずです。
408号線はこの間を切通しで横切る形になっています。

道がつながっていたとすると、その先にある神社にヒントが隠されているはずです。

地図上では「子安神社」と「金刀比羅神宮」が途切れた道の先にありますが、神社リストでは
ここにあるのは「稲荷神社」になっています。


押畑稲荷ー77
押畑稲荷ー78

ここが408号線の切通し。
左手前の道が「新福寺」から続く道で、急角度で下って408号線に合流しています。
地図では中央の赤の+マークの下、バス停マークがある所に下りてきます。
切通しができる前の旧道はここまで下らずに、写真右側の山中に続いていたと思われます。

「新福寺」から下ってくる坂から、408号線を渡って反対側の山を登る道はありません。
少し土屋方面(画面の先)を進んでから右に入ると(地図の信号マーク)道は二又に分かれ、
そこを右に坂を登って行くと昔は続いていたであろうと思われる道に出会います。

この坂を登り切ったところに「稲荷神社」がありますが、なぜか地図には書かれていません。
地図には載っていない神社が神社リストにあったり、地図には載っている神社がリストには
無かったり・・・、今回はここを探ります。


押畑稲荷ー25
押畑稲荷ー66

「稲荷神社」の前を通り過ぎて、まずは昔の街道のつながりを探してみました。

神社の先は三叉路になっていて、「新福寺」の方向への道は右に行く道です。
50メートルほど進むと道は突然行き止まりとなり、その先は雑木林が続いています。
以前には道があったとは思えない景色です。
左に下る細い坂がありますが、方角が逆になります。


押畑稲荷ー23
押畑稲荷ー24

行き止まりの道を「稲荷神社」に戻る途中の斜面に青面金剛像の「庚申塔」がありました。
ここは間違いなく人が通う道だったのです。

庚申塔には延宝八年(1680)と刻まれています。
現存する青面金剛像では、福井県にある正保四年(1647)のものが最古とされています
ので(ウィキペディア)、この像は結構古いものですね。

三叉路を右に折れ、地図に載っている「子安神社」と「金刀比羅神宮」を探します。


押畑稲荷ー17
押畑稲荷ー14
押畑稲荷ー16

「子安神社」は曲がって直ぐ、目線のずっと上にあります。
石段がありますが狭く急なうえ苔が生えているので、その先のスロープから神社に上ります。
最近建てられた鞘堂の中に、飾り気の無い「子安神社」がありました。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年 千葉縣印旛郡役所編)中にある押畑村稲荷神社の項には、
明治四十二年(1909)に合祀した神社として、
「大字仝字西ノ内にありし無格社子安神社」
とあります。
安産・子育ての神様ですが、この立地は女性がお参りするには少々難がある感じです。


押畑稲荷ー15

「子安神社」の隣には明治十五年(1882)と刻まれた「足尾神社」があります。
茨城県の筑波連峰の一角にある足尾山に「足尾神社」があり、そこからの分祀ではないか
と思われますが、「千葉縣印旛郡誌」には分祀や合祀の記録はありません。


押畑稲荷ー18
押畑稲荷ー19

「子安神社」のお堂の後ろに青面金剛を刻んだ「庚申塔」が立っています。
お堂の陰に隠れ、下の道からは目線より上の竹薮の中にあるので、見過ごしてしまいそうです。

足場が悪く、近づくのは危険ですが、何とか「天明■■巳十一月吉日」と読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。


押畑稲荷ー13

「子安神社」からさらに先に進むと、右側に石段があり、わずかに開けた場所があります。


押畑稲荷ー12

一番上の石段の両側に小さな石柱があり、右側には「文政十丁亥年 六月吉祥日」とあり、
左側には「當邑中」とあります。
文政十年は西暦1827年になります。


押畑稲荷ー7

一番奥にある「金刀比羅神社」。
祠には文化九年(1812)と記されています。
地図には「金刀比羅神宮」となっていますが、側の木札には「金刀比羅神社」となっています。


押畑稲荷ー9   「愛宕神社」の木札  
   「白幡神社」の木札  押畑稲荷ー11

同じ敷地内に「愛宕神社」と「白幡神社」の木札が立っていますが、祠はありません。

「千葉縣印旛郡誌」の押畑村稲荷神社の項に、明治四十二年(1909)に合祀した神社として、
「大字仝字廣台にありし無格社白幡神社大字仝字西ノ内にありし無格社愛宕神社大字仝字
西ノ内にありし無格社金刀比羅神社」

とありますので、ここにある「白幡神社」、「愛宕神社」、「金刀比羅神社」は、そのときの三社だ
と思われますが、「白幡神社」と「愛宕神社」の祠はどうなってしまったのでしょうか?
木札が立っているということは、かつてはそこに祠があったということなのでしょう。

道の先にはもう何も無さそうなので、「稲荷神社」に戻ります。

押畑稲荷ー20
押畑稲荷ー22

三叉路にもう一つ「庚申塔」が立っていることに気付きました。
憤怒の表情というより、頬を膨らませて少しすねているような表情に見えます。
正徳四年(1714)と記されています。

延宝八年、正徳四年、天明五年と百年余りの間に、この三叉路に三基の青面金剛が刻まれ
た「庚申塔」が立てられたということは、ここが人々が往来した旧佐原街道であることを示して
いると考えて間違いなさそうです。

押畑稲荷ー19  天明五年(1785)の青面金剛
押畑稲荷ー20  正徳四年(1714)の青面金剛
押畑稲荷ー23  延宝八年(1680)の青面金剛


押畑稲荷ー25

三叉路の手前の「稲荷神社」に戻りました。
鳥居は台輪鳥居です。

押畑稲荷ー26

石段の下に「小御岳石尊大権現」と記された石碑が立っています。
左右に「大天狗」「小天狗」と記されています。
「石尊大権現」とは神奈川県伊勢原市にある「大山阿夫利神社」を指します。
「大山阿夫利神社」への参拝記念に建立される石碑には、「石尊大権現・大天狗・小天狗」
と書かれます。
この石碑には「小御嶽」とありますので、富士山五合目にある「富士天狗宮」とも呼ばれる
「小御岳神社」への参拝記念ですね。
萬延元年(1860)と刻まれています。

そういえば、昨年6月に訪れた取香の「側高神社(そばたかじんじゃ)」にも同じような石碑
がありましたが、そのときは勉強不足で何の石碑か分からずじまいでした。
今読み返してみると「大山阿夫利神社」の参拝記念碑ですね。

謎の多い側高神社 ☜ ここをクリック


押畑稲荷ー27

本殿と拝殿は平成24年に改修されました。

「千葉縣印旛郡誌」には、「稲荷神社」について以下のように詳述しています。
(句読点が全く無い文章です)
「村社稲荷神社 押畑村字台にあり宇迦之魂神木花咲耶姫之命大物主之神應仁天皇
豊玉姫之命加具津知之命菅原天神市杵島姫之命天之御中主之神久奈門之神岡象女之命
住吉之神を祭る創立年代記録亡失の爲詳ならざるも古老の口碑に存する處に依れば治暦
二年後冷泉天皇の御宇源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時凶荒連年にして
百姓困憊に陥りたるを憐み郷土安全五穀豊穣を祈願するが爲本社を勸請して當地の産土神
となし崇敬怠らず孜々耕転に勤めたる爲漸次土地拓け村内殷富となりたるより爾來益々崇敬
して措かさるに至りたるものなりと而して中世の事實は詳かならざるも慶安四年十月本殿改造
の際領主堀田加賀守殿より銀三枚を賜はり元文元年正一位を授けられ文化壬申年拜殿一棟
氏子中にて改造し天保十三壬寅年氏子中にて本殿を再建す即今の本殿是なり明治五年村社
に列せらる仝四十二年十月廿八日許可を得て押畑字台にありし無格社天満神社大字仝字
淺間にありし無格社淺間神社大字仝字廣台にありし無格社白幡神社大字仝字西ノ内にありし
無格社愛宕神社大字仝字西ノ内にありし無格社金刀比羅神社大字仝字西ノ内にありし無格社
子安神社大字西ノ内にありし無格社辧天社大字仝字台にありし無格社千葉神社大字仝字
邊田前にありし無格社水神社大字仝字台にありし無格社道祖神社大字仝字西ノ内にありし
無格社瘡守稲荷神社を本社に合祀す社殿間口五尺六寸奥行六尺二寸拜殿間口三間奥行
三間神庫間口二間二尺奥行二間境内四百坪・・・」
 (P828~830) 

「宇迦之魂神(ウカノミタマノカミ)」「木花咲耶姫之命(コノハナノサクヤヒメノミコト)」、「大物主
之神(オオモノヌシノカミ)」、「應仁天皇(オウジンテンノウ)※1」、「豊玉姫之命(トヨタマヒメノ
ミコト)」、「加具津知之命(カグツチノミコト)※2」、「菅原天神(スガワラテンジン)」、「市杵島姫
之命(イチキシマヒメノミコト)」、「天之御中主之神(アメノミナカヌシノカミ)」、「久奈門之神(クナ
ドノカミ)※3」、「岡象女之命(ミツハノメノカミ)※4」、「住吉之神(スミノエノカミ)」と、12柱もの
神様を祀っているとは何とも欲張りな神社ですが、「宇迦之魂神」がこの「稲荷神社」のご祭神で、
「木花咲耶姫之命」以降は合祀された神社のご祭神ということでしょう。
( ※1 應神天皇か? ※2 加具土命か? ※3 久奈斗神か? ※4 罔象女神か? )

なお、治暦二年は西暦1066年になります。
古老による言い伝えを信じるなら、この神社は実に950年もの歴史を有していることになります。


押畑稲荷ー28

文化六年(1809)の灯篭。

押畑稲荷ー29

手水盤には天明四年(1784)と記されています。
この年は、国宝になっている「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」が、筑前国
志賀島で発見された年です。


押畑稲荷ー30
押畑稲荷ー31

文政八年(1825)の狛犬(キツネ)。

押畑稲荷ー32   拝殿に架る神額
押畑稲荷ー54  本殿に架る神額

押畑稲荷ー33
押畑稲荷ー34
押畑稲荷ー35
押畑稲荷ー49

本殿は質素な装飾ですが、しっかりとした木組みが見えます。

境内に並ぶ祠の中に、祠も無くただ木札が立っている場所が多くあります。
木札は社号標の代わりなのでしょうが、何か不思議な空間です。

押畑稲荷ー38  押畑稲荷ー39  押畑稲荷ー40
    明治天皇           神武天皇           宗吾様
押畑稲荷ー43  押畑稲荷ー46  押畑稲荷ー47
  天保十年の祠           最上神社           日吉神社
押畑稲荷ー57  押畑稲荷ー41  押畑稲荷ー42
    不動様              追想の碑          戰役記念碑
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天保十年(1839)の祠は、境内の外れに一つだけ離れて、背を向けています。
何の神様なのかは分かりませんが、気になる祠です。
「最上神社」と「日吉神社」の祠には大正七年(1918)と記されています。
「追想の碑」は昭和58年の建立で、この地区から戦地に向かった93名の内15名が戦死
しましたが、帰還した78名によって建立された慰霊と感謝の碑文が記されています。
「戰役記念碑」は昭和4年の建立で、明治二十七年(1894)から大正七・八年(1918・9)
戦役までに出征した26名の名前が刻まれています。


押畑稲荷ー53

本殿の裏に朽ちた木札があります。
半分以上が欠けていますが、「大山阿夫利神社」と書かれていたはずです。


押畑稲荷ー55

旧道から境内に上る階段に小さな石柱があり、寛延二年(1749)と記されています。


押畑稲荷ー59

境内の隅にあちこちが欠けて傷ついた狛犬(キツネ)がポツンと置かれていました。
向き合っていますが、まだお互いが見えているのでしょうか?
拝殿前にある現在の狛犬の先代でしょうか?


さて、「稲荷神社」のある三叉路が佐原街道の旧道であることは間違いないと思われますが、
この道をもう少し進んで、いくつか確信が持てるものを探したいと思います。

「金刀比羅神社」「愛宕神社」「白幡神社」の前を通り過ぎて、さらに先に進んでみます。

押畑稲荷ー1
押畑稲荷ー2
押畑稲荷ー6

ほんのちょっと視界が開ける場所がありました。
眼下には押畑地区の田園風景が広がり、斜面にはヤマユリが咲き誇っています。


押畑稲荷ー5
押畑稲荷ー4

何やら気になるものがあり、カメラをズームして見ると、「お稲荷さん」のようです。
一旦下に降りて回り道をしないと辿りつけないようです。


押畑稲荷ー3

この先に何があるのか?
曲がりくねった山道がずっと先まで続いています。


押畑稲荷ー70

山道を7~800メートルも進んだでしょうか、三叉路の左手に墓地が現われました。
今はお参りする人も無さそうな墓地ですが、入口には六地蔵が並んでいます。


押畑稲荷ー67   嘉永四年(1851)
押畑稲荷ー68  寛政十二年(1800)
押畑稲荷ー69  宝暦十二年(1762)

墓石には、正徳、宝暦、安永、天保、萬延等の年号が刻まれています。

三叉路を左に進んでみます。

押畑稲荷ー71

数百メートル進むと、またもや道は二手に分かれます。
分かれ道には享和三年(1803)の「馬頭観音」が立っています。
像は無く、「馬頭観世音菩薩」の文字が刻まれています。


押畑稲荷ー72

分かれ道を左に入って行くと、年代不詳の「庚申塔」が立っています。
青面金剛像を刻んでいますが、小さい石像なので見過ごしてしまいそうです。


押畑稲荷ー73
押畑稲荷ー74

庚申塔の先に笹薮を分け入るような小道があり、突き当たりに「白旗神社」がありました。
誰も来ないような場所ですが、なぜか新しい木札が立っています。
「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。
源氏の旗である白旗を社名にした神社です。

この神社については、「千葉縣印旛郡誌」にある源頼義が、ここを通ったと言われている
ことと関連がありそうです。(・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・

さて、ここまで「稲荷神社からは軽く1キロ以上は歩いてきました。
所々に庚申塔や馬頭観音が立ち、ここがかつては人々が往来した道であることを証明して
いますが、分かれ道が多く、どこが旧佐原街道であったのかは自信がありません。


押畑稲荷ー75
押畑稲荷ー76

今では誰も通らない、落葉に埋もれた脇道がたくさんあり、これ以上進むと遭難しそうな
不安を感じます。

陽が傾き始めて、ヒグラシの声が森の奥から聞こえてきます。
急いで「稲荷神社」まで戻りることにします。


押畑稲荷ー50
押畑稲荷ー64

「創立年代詳カナラズ。慶安四年十月本殿改造ス。文化年中拜殿ヲ改造ス。天保十三年
本殿ヲ改造シテ今日ニ至ル。」

大正三年の「八生村誌」は、「稲荷神社」についてこのように書いています。
天保十三年は西暦1842年ですから、平成24年の改修は170年ぶりのことでした。

千葉県神社庁の「神社名鑑」(昭和62年)には、
稲荷神社  押畑一  祭神  宇迦魂神
本殿・一坪、拜殿・六坪  境内坪数  四四三坪
氏子  一三〇戸

と記載されています。
押畑には他に神社の記載はありません。

「稲荷神社」には地元の方たちによって大切に守られてきた雰囲気がありますが、今では人が
通わなくなった旧道にひっそりと佇む石仏は、やがては森に埋もれて行くのでしょうか・・・。

押畑稲荷ー69
※※※※※※※※押畑稲荷ー71
※※※※※※※※※※※※※※※※押畑稲荷ー72

押畑稲荷」-60
押畑稲荷ー61

                    ※ 「稲荷神社」 成田市押畑 1



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八生村の寺社 | 07:59:19 | トラックバック(0) | コメント(2)
火災除けに絶大なご利益~宝田の醫王寺と愛宕神社
宝田の「醫王寺」と「愛宕神社」を訪ねます。

医王寺ー1
医王寺ー2

表札をかけたような寺号標。
天台宗のお寺であることと、山号が「光照山」であることが記されています。
脇に書かれている「愛宕大権現」には後ほど立寄ります。


医王寺ー3
医王寺-53

「医王寺ハ北方字邊田郭ニアリ。光照山ト号ス。同郡山ノ作村圓融寺末流ナリ。
開基創建詳カナラツ。」
 (「成田市史 近代編史料集一」P224)
「下総國下埴生郡。寶田村誌」には、「醫王寺」についての記述はこれだけしかありません。

また、後に合併した八生村誌には、
「寶田字邊田ニアリ、天台宗ニシテ中本寺円融寺末ナリ。阿弥陀如来ヲ本尊トス。
慶長二年再建立ス。檀徒百四十人ヲ有ス。」
 (同P248)
とあります。
慶長二年は西暦1597年で、豊臣秀吉の命により小西行長、黒田長政らが朝鮮に侵攻した
慶長の役があった年です。


医王寺ー4

本堂の手前に小さな手水鉢があります。
天保十一年(1840)と刻まれています。
この年は英国と清国との間でアヘン戦争が起こった年です。


医王寺ー6
医王寺ー7

境内に登る階段脇に、木々に隠れるようにお地蔵さまが立っています。
首は取れてしまい、後から着け直したようです。
台座に小さなアマガエルがいました。
暑さを避けて木陰の石の上でジッとしています。


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何の掲額も無いこのお堂は、多分地蔵堂だと思います。

中を覗かせていただくと、正面に大きな厨子があり、左右に小さなお社のようなものが見え
ますが、いずれも中には仏様がおられません。
このお寺には白馬に乗った「勝軍地蔵」が安置されていて、2月24日の御祭礼の時のみに
御開帳となるそうですが、一時期近隣の無住の寺を荒らす不心得者が横行したため、普段
は某金融機関から譲り受けた金庫に収められているという話を聞いたことがあります。
そう言えば、本堂の厨子はどう見ても金庫でしたね。

「勝軍地蔵」は本来このお堂の厨子の中におられるはずなのでは・・・と推測しました。
したがって、このお堂は「地蔵堂」だと・・・。
通りかかった人に訪ねてみましたが、押畑の方だそうで分かりませんでした。

「勝軍地蔵」は「将軍地蔵」とも書き、甲冑を着けて右手には錫杖を持ち、左手に如意宝珠
を載せ、軍馬にまたがっています。
戦勝を祈願する武家の間で鎌倉時代以降に信仰された地蔵です。


医王寺ー9
医王寺-52

お堂の前に建つこの石仏は「聖観音」と見ましたが、「馬頭観音」のようにも思えます。
憤怒の表情は無く穏やかな表情ですが、頭上にあるのは馬の顔のようです。
小泉の自性院にも穏やかなお顔の馬頭観音がありましたので、ここは「馬頭観音」としますが、
間違っていましたら後ほど訂正を入れます。
正徳四年(1714)と記されています。

小泉の自性院と十三仏 ☜ ここをクリック


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境内の左側の大師堂は昭和51年の建立で、大師像が三体並んでいます。
真ん中が木像で両端は石像です。
石像は風化でお顔が平たく見えますが、木像は眼光鋭く迫力のあるお顔です。


医王寺ー14

大正十五年(1926)の「奉讀誦普門品一萬巻供養塔」。

余談ですが、大正十五年は大正時代最後の年ですが、12月25日まででした。
従って、昭和元年は同じ12月25日からとなり、わずか1週間しか無かったため、昭和元年の
紀年銘はまず見ることがないはずです。


医王寺ー19
医王寺ー20

地蔵堂の後ろの台地にある墓地は、最近整備されたようで、古い墓石の間に比較的新しい
墓石も建っています。


医王寺ー17
医王寺ー18
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一方、整備された墓地の上の山腹には、古い墓石が散在しています。
もうお参りする人はいないため、階段も道も無いに等しく、近づくのは大変です。


医王寺ー22
医王寺ー24
医王寺ー21
医王寺ー25

ところどころに平らな場所があり、こうしたところでは墓石もきれいに並んでいます。
元禄、宝永、享保、宝暦、明和、天明、安永、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


医王寺ー27
医王寺ー28

大師堂の脇には明治十一年(1878)と読める「奉讀誦普門品一萬巻供養塔」と、お地蔵様
が並んでいます。
小さなお地蔵様の足下には、さらに小さな子供の像がすがりついています。

地蔵菩薩は六道を行脚して、救われない衆生や、親より先にこの世を去った幼子の魂を救う
旅を続けているとされています。
特に幼子は、徳を積む間もなくこの世を去ったために、三途の川を渡ることができず、手前の
賽の河原で親や兄弟を懐かしみ、回向のための石の塔婆を積むものの、鬼がやって来ては
それを崩してしまうため、永遠に石を積み続けなければなりません。
地蔵菩薩は鬼から幼子達を守り、仏法や経文を聞かせて徳を与えることで、成仏への道を
開いてあげるのだと言われています。

この地蔵像はまさにこの伝承を形に現したものですね。


医王寺ー30
医王寺ー32

本堂の屋根には天台宗の宗紋である三諦章(さんたいしょう)が光っています。

三つの星は天台宗の教理で実相の真理を明かす三要諦(空諦・仮諦・中諦)を表しています。
十六菊については諸説あるようですが、確証はありません。


医王寺ー31

「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院」表に、「医王寺」の開山は「覚伝」で、
開基は「山田三郎兵衛」とあるのを見つけました。
開基に僧侶ではない名前があるのは珍しいことです。

「医王寺はもと天台宗修験山田三郎兵衛が開基した行屋で般若院と称していたが、寛永
三年延命寺にいた覚伝が住職となったときに寺に取り立てられ、光照山般若院医王寺と
号し、円融寺の末寺に加わった。」
 (「成田市史 中世・近世編」P782)

修験(しゅげん)とは、修験道または修験者の略で、山伏と呼ばれることもあります。
山田三郎兵衛は修験道の聖護院流の行者で、「行」のために建てられた行屋を般若院と
呼んだようです。
寛永三年は西暦1626年ですから、「医王寺」となってから390年、般若院と称した行屋
時代からは少なくとも400年以上の歴史を有していることになります。


医王寺ー34

「醫王寺」の前にはのどかな田園風景が広がっています。

ちょっと足を延ばして「醫王寺」が別当をしていた「愛宕神社」を訪ねてみましょう。

医王寺ー35

「愛宕神社」は長い階段の上にあります。
下の通りからは木々の間からチラリと鳥居の頭が見えるだけです。


医王寺ー36

階段の踊り場に、元帥陸軍大将上原勇作の書による「戰役記念碑」がありました。
裏面には「明治參拾七八年戦役従軍者」として29名の氏名と階級が記されています。
「明治三十七八年戦役」とは、日露戦争の別称です。
なお、29名中数名は「日獨戦役従軍者」と書かれていました。
「日獨戦役」とは、第一次世界大戦中の中国青島での対ドイツ戦のことで、この記念碑が
大正十三年(1924)に建立されたことから、書き入れられたのでしょう。
宝田村からも多くの人が従軍したのですね。
上原勇作は薩摩出身の軍人で、「日本工兵の父」と呼ばれた人物です。


医王寺ー38

鳥居は昭和5年に建立された神明系の靖国鳥居です。


医王寺ー37

鳥居の脇にある手水盤には文政五年(1822)と記されています。


医王寺ー39

ここまでの階段は24段でしたが、社殿まではまだまだ階段は続き、合計111段になります。
鳥居の場所からは僅かに拝殿の屋根が見えています。


医王寺ー40

「愛宕神社」のご祭神は「火結神(ホムスビノカミ)」です。

「元亀元年戊午正月二四日、山城国愛宕神社を奉還、文禄三年社殿建立すという。」
(「神社名鑑」 千葉県神社庁 昭和62年)

元亀元年は西暦1570年で、織田信長・徳川家康連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で
「姉川の戦い」が繰り広げられた年です。

この神社の歴史は440年を超えるわけです。
社殿が建立されたという文禄三年は、西暦1594年です。


医王寺ー41
医王寺ー45

神額にはなぜが寺院のような「愛宕山」と書かれています。

一枚だけ見つけた掲額には、何が描かれていたのか分かりませんが、提灯に「医王寺」と
書かれているような気がします。


医王寺ー42
医王寺ー49
医王寺ー50

周りの地形は切り立った崖のようになっています。
ところどころに野生のユリが咲いています。


医王寺ー46
医王寺ー47

「本殿・一坪、拝殿・七.五坪、境内坪数一四四坪」
「氏子一一〇戸」

(「神社名鑑)

社殿の周りを見渡しましたが、社殿は一つの建物で、本殿は見当たりません。
おそらく拝殿の建物の中に隠されているのだと思います。

火伏せの神様として昔から信仰を集めていましたが、先の大戦中に空襲による火災が
この神社のお札が貼ってある家の前で鎮火したとの言い伝えがあり、2月24日の祭礼
には遠くからも参詣客が訪れるほどです。

また、この地区では祭礼の日は一日中“お酒を飲まない出さない”風習があります。
「江戸時代初期、隣村押畑村と土地をめぐって争論のあったとき、愛宕神社に酒断ちを
して祈願したことからこの風習が生まれたという。」

(「成田 寺と町まちの歴史」小倉 博 著 昭和63年 聚海書林 P219)


医王寺ー48

眼下に広がる田園風景の向こうを、旅客機が飛んで行きます。
7月の強い日差しに焼かれる境内には、なぜか蝉の声も無く、かすかに遠くを滑る旅客機の
ジェット音だけが聞こえます。


医王寺-57
医王寺ー57


                    ※ 「光照山醫王寺」 成田市宝田1933
                       「愛宕神社」    成田市宝田1997 



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八生村の寺社 | 22:23:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
大きな仁王石像が迎える~富里の「観照院」
観照院ー1

「観照院」は富里市立沢にある真言宗智山派のお寺で、山号は「徳羅山」。
ご本尊は「大日如来」です。

「立沢字天神前ニアリ、真言宗ニシテ霊通寺末ナリ、大日如来ヲ本尊トス、堂宇間口五間
奥行七間半、境内八百十九坪アリ、住職ハ兼田宥海ニシテ檀徒百二十五人ヲ有ス」


大正十年(1921)の「富里村誌」には、「観照院」についてこれだけの記述しかありません。


観照院ー4
観照院ー2

寺号標の手前に「六地蔵」が並んでいます。
六地蔵は宗派やお寺によっていろいろな呼び名があるようで、ここでは、
破勝地蔵、不休息地蔵、延命地蔵、讃竜地蔵、弁尼地蔵、護讃地蔵となっています。


観照院ー3

六地蔵の隣には地蔵堂があります。
台座には「念佛講中」とあり、紀年銘は宝暦だけが読み取れます。


観照院ー5
観照院ー7
観照院ー6
観照院ー8

境内の入口には、左右に大きな仁王像が立っています。
曲がりくねった急坂を登ってくるので、目の前に突然現われる大きな石像に驚かされます。
階段の上にあることもあって、見上げると強い威圧を感じます。


観照院ー9

賽銭箱の上に、「大日如来」と記された金属板が置かれています。
周りに七本の蝋燭を立てて、光背を意味しているのでしょうか。


観照院ー10

「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族の
建立に架かるものではないかと思われる。」
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘をもつ五輪塔
が出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」

(「富里村史 通史編」 昭和56年 富里村史編さん委員会 P618)

「観照院」は、少なくとも六百数十年の歴史を有するお寺のようです。 


観照院ー11

本堂左手に立つ「引導地蔵尊」、「水子地蔵尊」、「輪法地蔵尊」。


観照院ー29

本堂右手には平成11年に建立の「修行大師」像。
弘法大師・空海の 修行時代の姿です。


観照院ー30

「修業大師」の隣には、昭和51年に建立の「慈母観音」。


観照院ー12
観照院ー13

草むらに埋もれた十九夜待塔とお地蔵様。
月待塔には天保四年(1833)と記されています。
お地蔵さまの台座は土中に埋まっていますが、わずかに“乃”と“至”の文字が読めます。
道標を兼ねていたものをここに移したのでしょうか?


観照院ー37

「永代護摩木山」と刻まれたこの石塔は、昭和13年と記されています。
脇には「七畝十八歩」とありますので、約230坪の山林です。


観照院ー14

境内の奥にある「大師堂」への道の両脇には、たくさんの崩れた石塔が並べられています。


観照院ー15
観照院ー16

「大師堂」には「南無大師遍照金剛 南無興教大師」の貼り紙が・・・。
「遍照金剛」とは、「大日如来」のことで、光明があまねく照らし、金剛のように不滅である
ところからこう言われます。
お遍路さんの白衣の背中には、この「南無大師遍照金剛」の文字が書かれていますね。
「興教大師」とは、真言宗中興の祖である「覚鑁上人(かくばんしょうにん)」のことです。


観照院ー17
観照院-18

墓地は広い奥行きがあり、奥の方には比較的新しい墓石もあります。
墓地の手前側に並ぶ古い墓石には、元禄、宝永、享保、元文、天明、寛政、天保等の
年号が刻まれています。


観照院-21
観照院-22 梵鐘には昭和33年の銘
観照院-19

「富里村史」には、鐘楼は江戸時代に建てられたものとの記述があります。


観照院-20

鐘楼に登る階段下には「不動明王」像があります。
平成2年の建立です。


本堂に対面する側には多くの石像が並んでいます。

観照院-23
観照院-24
観照院ー25
観照院ー26
観照院ー27
観照院ー28

いちだんと大きいこの観音像は平成元年に建立されました。


観照院-31
観照院-32

「洗心」と刻まれた手水鉢は昭和34年に寄進されました。


観照院ー36

本堂裏の目立たない場所にひっそりと建つお堂には、「青龍大権現」と「.粟嶋大明神」が
並んで祀られています。


観照院ー34
観照院ー33
観照院ー1
観照院ー35

大きな石像が目立つ境内ですが、そのほとんどが近年のものだということは、大正十年
(1921)に「檀徒百二十五人を有ス」と村誌に記されていた檀徒と子孫の方々が、現在
まで厚い信仰心を持ってこのお寺を守っていることの表れでしょうか。


観照院ー39


                 ※ 「徳羅山観照院」 富里市立沢851



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富里市の寺社 | 07:24:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
十六羅漢と三谷胤政供養塔~富里の「昌福寺」
今回は富里市の中沢にある「昌福寺」を訪ねます。
春先から何度か訪ねていますので、写真の多くには満開の桜が写っています。

昌福寺ー1

「昌福寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「稲荷山」。
ご本尊は「聖観世音菩薩」です。
聖観音菩薩は多くの菩薩像が多面多臂である中で、一面二臂の形をとり、六観音の中では
地獄道を化益するとされています。


昌福寺ー3
昌福寺ー4

参道を進み、階段を登って山門をくぐります。
山門の掲額には「安處林」とあります。
かつてこの寺に「退歩」という雅号を持つ文人・住職がおられて、この場所を心から安らげる
所として、「安處林」と名付けたようです。

大正十年(1921)に編さんされた「富里村誌」の、「昌福寺」に関する数行の記述の中に、
「三代前ノ住職ハ我国印度哲学ノ泰斗ト称セラレタル京璨和尚ニシテ原坦山師ノ師ナリ、・・・」
(「富里村史 資料集Ⅱ 近・現代編 P69)
との文章を見つけました。
退歩という雅号を持つ住職とは、この京璘和尚のことですね。

中国の文人・陸機(261~303)の擬古詩にある「去去遺情累,安處撫清琴」から連想した
のではないか、と思いますが、自信はありません。



昌福寺ー49
昌福寺ー50
 
山門の手前左右にお地蔵様を刻んだ石塔が立っています。
それぞれに3体のお地蔵さまがおられますので、これは六地蔵ですね。
右側は合掌する除蓋障地蔵(人道)を中心に、宝印地蔵(向かって右・畜生道)、持地地蔵
(左・修羅道)が刻まれ、左側には錫杖を持つ日光地蔵(天道)と、檀陀地蔵(右・地獄道)、
宝珠地蔵(左・餓鬼道)が刻まれています。

明和元年(1764)と記されていますので、250年前のものです。


昌福寺ー7
昌福寺ー8
昌福寺ー9

「富里村史」(昭和56年 富里村史編さん委員会)は、「昌福寺」の建立について次のように
記しています。

「曹洞宗にして寺台村(現成田市)永興寺の末寺。本尊は観世音菩薩である。寺伝によると
慶長年間の創立にして、初代住職の三谷右衛門尉平朝臣胤政は慶長十年(一六〇五)に
亡くなったといわれる。」
 (P612)

これにより、「昌福寺」の建立は慶長年間であるとされていますが、「富里村誌」には、この寺
の歴史は実はもっと古い時代に遡るのではないか?、との推論が述べられています。
千葉一族の三谷氏が、鎌倉時代の西暦1200年頃にはこの地を支配していたので、その頃
にこの寺を建立したのではないか、というわけです。

「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族
の建立にかかるものではないかと思われる。」 
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘を持つ五輪塔が
出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」 
(P618)

「その後三百年近くを経た天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原攻めで千葉氏滅亡と
ともに三谷氏、立沢氏、中沢氏など千葉一族も滅び、彼らは農民の中へと埋没していった。
そして戦国時代最後の武将三谷胤政は出家し、従来の氏寺である昌福寺を中沢村の
百姓寺とし、自ら住職となったと考える。」
 (P612)

「昌福寺が慶長年間の創立というのは、氏寺から百姓寺へと変身した年代を指している
ものと推定する。」 
(P613)

この説によれば、実に建立して800年以上の古刹ということになり、三谷胤政建立説を採って
も400年以上の歴史を有していることになります。


昌福寺ー10

山門の内側にある小僧さんは、熊手を持っています。


昌福寺ー55
昌福寺ー51

三谷胤政の供養塔。
聖観音像を中心に数基の石仏が並んでいます。
説明板には次のように書かれています。

『三谷胤政の一族は千葉四郎胤広を始祖とする一族であり、千田荘内中村郷三谷村(現多古
町)を出自地とし、富里に移り住んで勢力を拡大させていったと考えられています。
また応永十三年(1406)に記された「香取造営料足納帳」には、中沢に居住した三谷一族の
知行地が記されており、中沢地区にかなりの勢力を有していたことが明確です。
この史料の後、三谷氏に関する史料は確認されおらず、その動向については定かではあり
ません。しかし昌福寺の寺伝では、江戸初期の慶長年間に三谷胤政の開基によるものと伝え
ており、これを参考とすれば、三谷氏が15世紀初頭から16世紀末までの間、連綿と富里の
在地土豪の地位を保っていたと考えることができます。
このような歴史背景がうかがえる本供養塔については、様式的に見て慶長年間の造立とは
考えにくく、おそらくは17世紀から18世紀初頭の作と考えられます。
丁寧な彫りによって均整のとれた像容を示す石造物であること、また、中沢地区に所在する
千葉氏関連遺構(中沢城址)などとの関係を考慮すれば、富里と三谷氏、ひいては千葉氏と
富里の関係をうかがい知る上で貴重な文化財といえます。』



昌福寺ー14
昌福寺ー15

左側には十九夜の月待塔が並んでいます。
二基の如意輪観音は、明和七年(1770)と享保二十年(1735)のものです。


昌福寺ー17

一番右は天保七年(1836)の「馬頭観音」です。


昌福寺ー21

応永三十三年(1426)の小さな「宝篋印塔」です。

傍らに立つ説明板には次のように書かれています。

「宝篋印塔とは、中国の唐が滅亡した後の時代である五代十国時代の呉越王、銭弘俶が
延命を願って諸国に建てた八万四千塔の形を簡略化して作られたものといわれており、
日本には平安時代中期に伝えられ、鎌倉中期以降には盛んに造立されました。 塔の名
にある「宝篋印」とは、宝篋印陀羅尼経(これを書写して読誦するか、あるいはこの経巻を
納めた宝篋印塔を礼拝すれば罪障は消滅し、三途の苦は免れ、寿命長遠であるなど無量
の功徳を説いた経)を指しており、この経を内部に納めた塔であることから名付けられたも
のです。 この宝篋印塔は、新橋字東長作の畑から耕作中に偶然出土したものであり、
基礎部に応永三十三年(1426年)の銘が刻まれていたことから、富里市では唯一、室町
時代の年号か確認できる資料となっています。 しかし、この宝篋印塔は、内部に経を納め
るような構造になっておらず、おそらくは墓標として造立されたものと考えられます。 塔の
高さは80cmと小型で、反花の一部も欠いていますが、全体的に均整のとれた美しい形を
した優品であり、室町時代の富里市の仏教思想を物語る貴重な石造物です。


宝篋印塔の周りには、象形文字を思わせるような碑文を刻んだ石碑が並んでいます。

昌福寺ー52歴代住職名(?)文化四年
昌福寺ー20  祖先御霊報恩供羪塔
昌福寺ー22  常夜塔(?)


昌福寺ー24
昌福寺ー53

本堂の右奥に溶岩の固まった富士ぼく石を積んだ小山があり、その上にお釈迦様が座って
いるのが見えます。
小山のあちこちには「十六羅漢」が配置されています。


「羅漢」は「阿羅漢」の略で、修行を完成して悟りを得た人を指しますが、「十六羅漢」とは、
お釈迦様の弟子の内で特に優れた代表的な16人のことです。
良く見聞きする五百羅漢は、初めての経典編集に集まった弟子達を指す言葉になります。

昌福寺ー25
昌福寺ー26
昌福寺ー27
昌福寺ー28
昌福寺ー29
昌福寺ー30

昌福寺ー31
昌福寺ー32

頂上にお釈迦様が座り、山腹に十六羅漢が座る小山は、永代供養塔になっています。
この小山の脇には、七体の大師像が並んでいます。
左端の一体だけが木像です。


昌福寺ー34
昌福寺ー35

境内の奥にあるお堂は「天神様」と呼ばれています。
道真公の木像には、大師像と同様の色鮮やかな襷が何本も掛っています。


昌福寺ー36

裏山からきれいな清水が流れ出しています。
境内の一角にかすかに流れ落ちる水音が響いています。


昌福寺ー37

隣接する墓地には、元禄、享保、文化、天保、嘉永などの墓石が並んでいます。


昌福寺ー38延宝三年(1675)と読める
昌福寺ー39天保六年(1835)と読める
昌福寺ー46墓地上の草むらに猫が・・・
昌福寺ー47

昌福寺ー42
昌福寺ー48

三谷胤政の供養塔は「開基様」とも呼ばれているようです。
三谷一族は、長い間上総国埴生郡三谷(現・茂原市)が発祥の地とされていましたが、
昭和50年に「横芝町史」が千田荘内の中村郷三谷村(現・多古町)説を提起し、現在は
こちらの説の方が有力とされています。
供養塔の説明板も、「横芝町史」の説を支持しているようです。

400年か、800年か・・・、きれいに整備された境内は、あまり古さを感じさせません。

初めて訪れた時には桜が満開でしたが、「昌福寺」の今はすっかり夏の風情です。


昌福寺ー56


                          ※ 「稲荷山昌福寺」 富里市中沢593-1




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富里市の寺社 | 08:19:28 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっと寄り道~郷部の「妻恋稲荷神社」
ちょっとしたスポット~郷部の「妻恋稲荷神社」

妻恋稲荷ー1

「妻恋稲荷神社」は郷部大橋から成田市体育館に向かう道筋にあります。


妻恋稲荷ー4
妻恋稲荷ー3

鳥居と社号標は昭和59年に奉納されたものです。
鳥居は柱、笠木、貫の全てが円柱形のシンプルな神明鳥居です。


妻恋稲荷ー2
妻恋稲荷ー5

この「妻恋稲荷神社」については、「成田市宗教法人名簿」にも記載がなく、ネット上の
神社リストにも名前が見つかりません。
試しに「妻恋」を外して「稲荷神社」で調べても、郷部にある神社としては、「埴生神社」と
「土師神社」の二社のみで、「稲荷神社」はありません。

後述のように、この神社の鳥居、社号標、手水盤等に昭和59年の銘が入っています。
この年は道路を挟んで建つ「成田市体育館」が完成し、周辺の運動公園が整備されました。

妻恋稲荷ー13
妻恋稲荷ー16

裏手は小橋川の河川敷とJRの線路で、相当な高低差があり、周りに人家はありません。
この場所にわざわざ新しく神社を造るのは、何となく不自然に思えます。

妻恋稲荷ー12


創建、由来等、何も分からないので、手掛かりを探してみました。
わずかに以下の2ヶ所で郷部の「稲荷神社」についての記述を見つかりました。

「稲荷神社 中央ヨリ未ノ方字加良部ニ有リ、境内百十坪、祭神倉稲魂命。」
 (「成田市史 近代編史料集一」中の明治十七年編「下埴生郡郷部村誌」 P43)

「五穀の神といわれる稲荷神社を祀る村は数多く、八代・飯仲・山口・押畑・下福田・長沼・
成毛・赤荻・西吉倉の九か村が鎮守とし、それ以外に取香・長田・郷部・成田・荒海・成木
新田・寺台など十数か村にも祀られている。」
 (「成田市史 中世・近世編」 P804)

このことから、「郷部村」には「妻恋稲荷神社」は無いが、「稲荷神社」は存在していたことが
分かります。

次に、図書館で閲覧することができる成田市の地図で、一番古い「千葉県成田市動態図鑑」
(昭和42年)を調べてみましたが、郷部地区に稲荷神社は記載されていませでした。
一方、「ゼンリン地図・成田」の一番古い昭和59年版には、「妻恋稲荷」として現在地に記載
がありました。

妻恋稲荷ー10

気になるのは、明治十七年の「郷部村誌」にあった、 「中央ヨリ未ノ方字加良部ニ有リ」
の部分です。
加良部は郷部からは中台を挟んだ西方にあります。
ニュータウンの開発に伴い、この地区一帯が整備された時期に加良部から現在地へ移されて
きたのではないか、と想像しました。
しかし、「郷部村誌」には、村内の「加良部」に神社があると書いています。

成田の字(あざ)を詳しく調べると、次のようなことが分かりました。
現在の「加良部」は昭和46年に、郷部、米野、台方、江弁須、成田、飯田、江弁須のそれぞれ
の一部を統合して作られた字で、地名は郷部の字であった加良部から採用したようです。
明治十七年の時点では、現在の加良部のどこかに「稲荷神社」があり、そこは当時の郷部村
の小字だったということなのではないでしょうか。

そして、こんなことも見つけました。
「成田市の文化財 第34集(平成14年版)」に「消えた小字」の項があり、そこに郷部の消えた
小字として「加良部」の名前が載っていました。
昭和46年に、ニュータウンの区域・字名の変更を行った時のことでした。

五穀豊穣を祈願する稲荷神社は地域に密着した存在ですから、神社があった場所が他の字に
編入されるとなれば、もともとの残った字に移すのが自然です。
昭和46年頃に、郷部の小字・加良部にあった「稲荷神社」が、現在地に移設されたというのが、
私の勝手な推測です。

妻恋稲荷ー11

それでも、“なぜ「妻恋稲荷神社」となったのか”については分かりません。
(推測が的外れで、全く違う事実が見つかるかもしれませんが、その時はお知らせします。)


妻恋稲荷ー7
妻恋稲荷ー6

手水鉢も昭和59年のものです。


妻恋稲荷ー8
妻恋稲荷ー9
妻恋稲荷ー17

キツネの台座にも昭和59年と記されていますが、上に坐るキツネの像はちょっと古そうです。
補修の跡も目立ちますので、このキツネは元の稲荷神社から持ってきたものでしょう。


妻恋稲荷ー14
妻恋稲荷ー19

昭和62年の「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)に、
「稲荷神社 成田市郷部七九〇 祭神・倉稲魂之命 境内坪数二〇〇坪」
とあるのを見つけました。
地図で調べてもこの地番は出てきませんが、周りの地番からほぼ現在地だと思われます。

さらにネット上の情報に、中台5の3に稲荷神社があるとするリストも見つけました。
中台には神社はありませんが、該当する地番は郷部790との境界線あたりになります。
郷部790も中台5-3も地図上には表示がなく、だいたいこの辺りと推測するだけです。

図書館のレファレンス・サービスでも、この神社に関する疑問は解けませんでした。

とりあえず、「稲荷神社」としては消化不良ながらも推論を立てることができましたが、「妻恋」
については不明のままです。
東京・湯島にある「妻恋稲荷神社」のご祭神は、「弟橘姫命」と「日本武尊」で、「倉稲魂之命」
が合祀されています。
もし、この「妻恋稲荷神社」からの分祀であるとすれば、境内に何か説明があっても良いので
は、と思うのですが・・・。

「妻恋」などとロマンチックな名前が付いている由来を何とか知りたいものです。
何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報いただきたいと思います。


妻恋稲荷-17

                        ※ 「妻恋稲荷神社」  成田市郷部790



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ちょっと寄り道 | 07:50:25 | トラックバック(0) | コメント(2)
旧佐原街道に佇む~押畑の「新福寺」
押畑の「新福寺(しんぷくじ)」は真言宗智山派のお寺です。

新福寺ー9
新福寺-1

飯岡の「永福寺」の末寺で、山号は「陀基処山(だきしょさん)。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
「永福寺」には、押畑村に「新福寺」・「万行寺」・「山之坊」・「福寿院」の四つの末寺が
ありましたが、この「新福寺」の他は明治の始めに廃寺となっています。

門柱は大正十二年(1923)のものです。


新福寺-2

境内に入ると左右に古い墓石が並ぶ墓地があります。


新福寺-3
新福寺ー5

元禄、享保、明和、天保、安政、文久などの年号が見えます。


新福寺ー7

明治二十二年(1889)に建立された「後藤蒼齊翁寿蔵碑」。
寿蔵碑は生前に功績を讃えて建立されるものですが、この後藤蒼齊は和算学者で、近郷の
人々に和算を教えていました。
成田山に明治二年(1869)に奉納された算額は、極めて高度な数学の問題と解答であり、
千葉県の有形民俗文化財に指定され、現在成田山霊光館に収蔵されています。


新福寺ー8

この立派な宝塔には、「大阿闍梨法印澄傳」と刻まれています(澄傳は読み違いの可能性が
あります)。


新福寺ー28
新福寺ー10

本堂は平成6年に新築されたもので、寺額には山号の「陀基処山」と書かれています。

昭和61年編さんの「成田市史」には、山号が「吒岐尼山(だきにさん)」と記載されています。
また、「成田市史近代編史料集一」に収録の「押畑村誌」にも、
「新福寺 村ノ中央字西ノ内ニアリ。地坪六百七拾二坪、新義眞言宗吒岐尼山ト号ス。
本郡飯岡村永福寺ノ末派ナリ。」 
 (P254)
と記されています。

「吒岐尼」とは聞き慣れない言葉ですが、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)または、
吒枳尼天(だきにてん)に関連するのでしょうか?
荼枳尼天は白狐に乗る天女の姿で、稲荷信仰と合体して真言宗とともに全国に広まり、
多くの稲荷社が建立されました。
明治になって神仏分離が行われた際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神を祀る神社と
なりましたが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になりました。
こうしたことと、この山号は関係があるのかもしれません。
ただ、境内には稲荷社らしき痕跡は見えませんので、この推理は当てになりません。

創建年代は不詳ですが、文禄三年以前とされています。
その根拠は、文禄三年(1594)の押幡郷御縄打之水帳」の名前が見えることによります。
少なくとも420年以上の歴史を持ったお寺です。


新福寺ー12
新福寺ー13  安政二年(1855)
新福寺ー14  天保四年(1833)

数体の石仏が置かれたお堂があります。
首の無い石仏には天保四年と文政五年(1822)の二人の子供の戒名が記されています。


新福寺ー15

本堂の裏手に回ると、この寺の場所が相当高い位置にあることが分かります。


新福寺ー17 大きなキノコが生えていました
新福寺ー18


新福寺ー16

本堂の屋根に珍しい瓦を見つけました。
鬼がわらの変形でしょうか、何か宗教的な意味がありそうです。
成田山新勝寺と同じ牡丹のように見えますが・・・


新福寺ー38
新福寺ー40
新福寺ー56

日をあらためて撮影して見ると、椿のような気がしてきました(迷っています)。


新福寺ー20
新福寺ー21

本堂の左手にたくさんの板碑が並んでいます。
並んでいるといっても、倒して重ねているだけなので、どんな謂れがあるのかは分かりません。

「成田の史跡散歩」には、この板碑について次のように書かれています。
『新福寺の開基などについては不詳であるが、本堂の左側に三〇枚近くの板碑が積み重ね
られており、その中に延慶三年(一三一〇)の銘をもつものがある。また、大正二年(一九一三)
の「千葉県印旛郡誌」には、康元元年(一二五六)銘の板碑があったと記されているので、鎌倉
時代中期には新福寺が存在していたことになる。』
 (P197~198)

康元元年の板碑がこの寺の境内に建っていたものならば、「新福寺」の歴史は420年以上では
なく、760年以上ということになります。

石の色と形から、全て下総板碑ですが、立っている形で見たかったと、残念な気がします。


新福寺ー22
新福寺ー23
新福寺ー24

「新福寺」には裏参道があります。
長い石段が続く参道ですが、こちらを利用する人はほとんどいないようで、石段下は草が
石段を隠すほどに生えていました。


新福寺ー25
新福寺ー27

裏参道の石段を登り切ったところにある古木の幹は、恐ろしげな表情です。


新福寺ー29

境内の右手にも墓地があり、左手の墓地と同様に古い墓石が並んでいます。


新福寺ー30
新福寺ー31
新福寺ー43

文化、文政、天保、弘化、安政、文久などの年号が読めますが、左手の墓地よりは比較的
年代が新しいように思えます。
一部に明治や大正の墓石も見えています。


新福寺ー55

この石碑は上部が剥がれ落ちていますが、境内の反対側にあった寿蔵碑の「後藤蒼齊」
と同じ和算の学者、「幡谷信勝」の追悼碑のようです。
「・・・立得寚居士」と読めます。

(後藤蒼齊は) 「幡谷信勝の弟子になる山口村の山田宗勝に学んでいるので、信勝から
見れば孫弟子にあたる。」
 (「成田の史跡散歩」P199)


新福寺ー36
新福寺ー35

小さなお堂の中には石仏が一つ。
風化で刻まれた文字は消えていますが、わずかに「三月」とだけ読めました。


新福寺ー45

通りかかった方から、「新福寺」の前の道は、旧佐原街道だと教わりました。
写真の手前は曲がりくねった下り坂で、前方は国道408号線に出ます。


新福寺ー47
新福寺ー49

「新福寺」の前を右に下ったところに「道祖神」がありました。
小さな祠がたくさん並んでいます。
この道が旧佐原街道だと教えてくれた方が、これを「ドウロクジン」と呼んでいました。
「松崎街道・なりたみち」の(1)で、「三竹山の道祖神」を地元の人たちが「ドウロクジン」と
呼んでいると書きましたが、どうやらこの一帯では「道祖神」を「ドウロクジン」と呼ぶようです。

「ドウロクジン」を調べると、「道陸神」と書き、「道祖神」と同じものであることが分かりました。
「三竹山ドウロクジン」は道祖神が訛ったものではなく、始から「ドウロクジン」だったのですね。


新福寺ー50
新福寺ー51

上り坂になる手前左側に、文政六年(1823)の如意輪観音が立っています。
この石塔は道標を兼ねていたようで、正面には「此方なりたミち」「此方なめ川みち」と記され、
左の側面には「右左さくミち」と記されています。

「さくミちとは作業道、農業用の道である。この変則の十字路は、左右が成田と滑川に向かう
旧道で、バス停から直線に進む道は農道であったことがわかる。」

(「成田の史跡散歩 P197)


新福寺ー34
新福寺ー37

もともとは飯岡の「永福寺」の末寺であった「新福寺」ですが、現在は成田山から時々お坊さん
が来て、管理をされているようです。

「押幡郷御縄打之水帳」には、「新福寺」は九反一畝一四歩半の面積で、廃寺となった押畑村
の他の永福寺・末寺よりは相当広い敷地を持っていました。
(万行寺は五反九畝三歩、山之坊は四反六畝二四歩半、福寿院は二畝二五歩とあります)
廃寺の三寺の本尊は、現在ここ「新福寺」に収められています。

押畑村を含む近隣八村が合併してできた八生村の村誌には、
「新福寺 押畑字西ノ内ニアリ、真言宗ニシテ久住村飯岡永福寺ノ末寺ナリ。開基ノ年号
詳カナラザレトモ莫然タル古碑アリ。表面梵字ヲ記ス。一ハ康元元年十一月一日、一ハ
延慶三年ニシテ何レモ六百年前ノ建立ナレバ開山モ此当時ナランカ。」

(「成田市史 近代編史料集一 P248)

教えられなければそれと分からぬ旧佐原街道に、ひっそりと佇む「新福寺」です。


新福寺ー53


                  ※ 「新福寺」  成田市押畑2214



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八生村の寺社 | 08:34:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
古代に創建の二宮神社~三宮埴生神社との関連は?
今回は松崎の「二宮神社(にのみやじんじゃ)」を訪ねます。

二宮神社ー1

千葉県神社庁の「千葉県神社名鑑」には「二宮神社」について、
『経津主之命 本殿・流造一坪、幣殿・三坪、拝殿・七坪、 境内九〇〇坪、氏子一五〇戸』 
と記載されています。

ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として有名で、剣神、
または武神・軍神とされています。
この神は日本書紀に登場しますが、古事記には登場しません。


二宮神社ー2

立派な鳥居の傍に「二宮神社鳥居の再建」と記された石碑があります。
その碑文には次のように書かれています。
『当神社の鳥居は、安永五年(西暦一七七六年)佐倉藩主堀田氏から寄進を受け控柱の
付いている両部鳥居として作られた。直近では昭和四十七年七月に木造で再建されたが、
経年劣化に加え平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災により損傷した為、
新たに御影石で建替える。 二宮神社氏子中 平成二十四年七月吉日建立』


多くの寺社を訪ねていますが、東日本大震災による被害が、神社の鳥居や神殿、お寺の
山門や本堂、そして墓石や石仏の倒壊等、想像以上に下総でも広がっていることを実感
させられます。


二宮神社ー4

社号標は平成20年の建立です。


二宮神社ー5

鳥居の左右に立つ常夜燈は昭和9年に奉納されました。


二宮神社ー8
二宮神社ー7

小さな手水舎と手水盤。
大きな文字で「水盤」と刻まれています。
宝暦四年(1754)の紀年銘が読めます。


二宮神社ー9

「成田市史 中世・近世編」にある「成田市域の主な神社表」には、「二宮神社」ではなく、
「埴生神社」の名前で記載され、古社名を「二宮大明神」としています。
「三ノ宮埴生神社」との関連については諸説ありますが、この表示によれば両社の関連
は明らかのように思えます。
両社については次のように記述されています。

『埴生神社 成田村と松崎村および成木新田にあり、成田村のを三宮埴生神社・三宮
大明神といい、松崎村のを二宮埴生神社・二宮大明神といっている。成木新田の埴生
神社は享保十六年に創建された三宮埴生神社の分社である。』
『三宮・二宮というには当然一宮もあり、埴生郡矢口村(印旛郡栄町)に一宮埴生神社
が祀られている。』
 (P801)


二宮神社ー10

意外にあっさりした神額です。



二宮神社ー31

流造りの本殿は、どっしりとした感じのお社です。

「下埴生郡松崎村誌」には、

『二ノ宮埴生神社 村ノ北方字遠原ニアリ。社地九百坪ヲ有ス。軽津主ノ命ヲ祀ル。祭日
陰暦六月廿七日及ビ九月二十日トス。其鎮座詳ナラズ。古ハ二ノ宮埴生大明神ト唱ヒシ
處、元文三年中正一位ノ號ヲ賜ハリ、明治元年ニ至リ二ノ宮埴生神社ト改ム。』
『往時ハ五ケ村松崎村、寶田村、大竹村、下福田村、上福田村ノ郷社タリシモ、明治戊辰年特ニ
松崎村ノ鎮守トナレリ。其境内ニ存スル末社ハ金比羅神社、春日神社及ビ住吉神社
トス。』
 (成田市史 近代編史料集一 P218)

と記されています。


二宮神社ー26
二宮神社ー29
二宮神社ー30
二宮神社ー37

細かい彫刻が施されています。


二宮神社ー11

拝殿の神額の横に神社の由緒について書かれた掲額があります。

『創建年月日は不詳であるが、神職由緒禄に斉衝三年(八五六)神職外記相続するとあり
これにより千年以上の歴史があることがわかる。古くに二ノ宮埴生大明神と称せられ元文
三年(一七三八)正一位二ノ宮埴生大明神となり明治元年(一八六八)埴生神社と改め
さらに二宮神社と称し、現在松崎地区約二百三十戸の鎮守様として崇敬を受けている。
また二宮神社という名称から近隣の成田市郷部の三ノ宮埴生神社、栄町矢口の一ノ宮
神社との何らかの関連が諸説考えられるが、事実は不明である。』


三宮・一宮との関連については、前述の「成田市史」の記述に比べて、ややトーンが低い
感じがする文章です。

この由緒によれば、二宮神社は実に1160年以上の歴史を有していることになります。
なお、「成田市史 中世・近世編」の「成田市域の主な神社表」には、この神社の創建
年次欄に「古代」とだけ記しています。


境内には合祀された多くの神社があります。
主だったものには社号標のようにひらがなの名札が立てられています。

二宮神社ー12

「おいせさま」。
伊勢神社です。
鳥居をくぐってすぐ左手にあります。

二宮神社ー15

「こやすさま」。
子安神社です。
境内の左手奥にあります。

二宮神社ー33

「こんぴらさま」。
金比羅宮です。
鳥居をくぐった右手奥にあります。

以上の三社は比較的大きなお社です。

この他に小さな祠の合祀された神社が多く見られます。
拝殿に向かって時計回りに見て行きます。

二宮神社ー16 「かとりさま」香取神社
二宮神社ー17 「いなりさま」稲荷神社
二宮神社ー18  社号標がありません
二宮神社ー19  社号標がありません
二宮神社ー20 「せんげんさま」浅間神社
二宮神社ー22 「かすがさま」春日神社
二宮神社ー23 「うけもちさま」
二宮神社ー24 「すみよしさま」住吉神社

「すみよしさま」だけが「住吉大明神」の文字が読めますが、他は風化で読めません。

「うけもちさま」だけは正式の神社名が分かりませんが、多分「保食神社」だと思います。
保食神(ウケモチノカミ)をご祭神とする「保食神社」は、数は少ないのですが全国に散ら
ばってあるようです。
多くの稲荷神社は「宇迦之御食神(ウカノミタマノカミ)」または「倉稲魂命(ウカノミタマノ
ミコト)」をご祭神としていますが、一部の稲荷神社では「保食神」または「保食命」がご祭神
となっています。
成田市内では下福田、長沼、成毛の稲荷神社のご祭神が「保食命」をご祭神にしています。

「保食命」については「長沼城址と稲荷神社、そして福沢諭吉」の項に説明があります。
長沼城址と稲荷神社、そして福沢諭吉 ☜ ここをクリック

合祀されている神社の中には「いなりさま(稲荷神社)」がありますので、「うけもちさま」は
「稲荷神社」ではなく、「保食神社」と推測しました。
以上、合祀されている神社は合計11社、内2社は社名が不明です。


二宮神社ー25
二宮神社ー27
二宮神社ー28

本殿を見上げていて、おもしろいものを見つけました。

本殿の屋根を支える「力士像」です。
東西に一体ずつありますが、何故か東側の力士の顔がザックリと削られています。
何があったのでしょうか?
イスラム圏にある仏像や神像の顔が削られているのを見ることがありますが、そんな風な
何か恐ろしいことがあったような雰囲気があります。

屋根を支える力士像は、多古町の「浄妙寺」で見たことがあります。

浄妙寺ー19
浄妙寺ー23

多古町の浄妙寺 ☜ ここをクリック

また、成田山の「釈迦堂」には、力士ならぬ「火伏せの鬼」がいます。

釈迦堂ー21
釈迦堂ー28

正体見たり釈迦堂の鬼 ☜ ここをクリック




二宮神社ー13

ひときわ目立つ石碑は、「征清従軍紀念碑」と書かれた明治二十九年(1896)のもので、
裏面には13名の日清戦争従軍者の氏名が刻まれています。

二宮神社ー32

山車倉です。


二宮神社ー40
二宮神社ー41

神社の周りには「成田西陵高校」の実習農場が広がっています。
この高校は明治三十九年(1906)に「八生村立八生実業補習学校」として始まり、大正三年
(1914)には「八生農学校」と改称されたころからの農学の伝統を持っています。


二宮神社ー35
二宮神社ー36
二宮神社ー43

屋根のところどころに千葉氏の「七曜紋」が見えます。
資料には千葉氏との関わりについて書かれているものはありませんが、下総の多くの寺社と
同様に、この「二宮神社」も千葉氏の影響を多く受けていたものと思われます。


二宮神社ー38
二宮神社ー39
二宮神社ー3

念のため、松崎村が合併で八生村となった後、大正三年頃に書かれた「八生村誌」を調べ
たところ、「二宮神社」についての記述を見つけました。

『二宮神社 松崎字遠原ニアリ、経津主命、木花咲邪姫命、宇賀䰟命、 (天之日鷲命大日鷹神)
大雷神ヲ祭ル。鎮座ノ年号詳カナラズト虽モ、同社神職由緒録ニ齊衡三年神職外記相続スト。
之レニヨリテ観レバ本社ノ勧請セラレシハ、千五十三年前ノコトト知ラル。』
『保食二宮埴生大明神ト唱ヘ来リシガ、元文二年正一位二宮大明神と稱シ、明治元年ヨリ
二宮埴生神社ト改メ、今ハ更ニ二宮神社と称ス。』
 (「成田市史 近代編史料集一 P245)

ご祭神が増えました。
木花咲邪姫命(コノハナノサクヤヒメニミコト)は、このブログでも何度か登場しています。
邇邇芸命(ニニギノミコト)の妻で、大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘です。
宇賀䰟命(ウカノミタマノミコト)は、古事記では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)、日本書紀
では倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)と表記される穀物の神様です。
ここに、元文二年(1732)以前には「保食二宮埴生大明神」と称していたとありますので、
先ほどの「うけもちさま」は「保食神社」で間違いなさそうですね。

「三宮埴生神社」、「二宮神社」と訪ねてきましたので、いずれ栄町にあるという「一宮神社」
も訪ねる必要がありそうです。


二宮神社ー44

                  ※ 「二宮神社」 成田市松崎 1



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八生村の寺社 | 09:49:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
「松崎街道・なりたみち」を歩く(4)善導大師堂から成田街道踏切まで
「松崎街道・なりたみち」の最終回は、「来迎寺」、「善導大師堂」から出発です。

松崎街道ー178


まずは、前回に「千把ヶ池跡」の「奉讀普門品一萬巻供養塔」にあった ☜ の“ぜんどうだいし・
ぬけみち”を探してみましょう。

松崎街道ー231

松崎街道ー177

方向的には「善導大師堂」の墓地の先にある「松崎郵便局」の前を行くと、「成田湯川駅」に
近付けるような気がします。

「八生小学校」の前を抜け、相当な距離を進みましたが、この道は県道18号線のバイパスに
出ることが分かり、途中で引き返しました。

この道の途中で、参道が道路に分断された神社を見つけました。
今のところこの神社については、千葉県神社庁の「神社名鑑」にも記載が無く、詳細が分かって
いませんが、後日、機会があれば紹介したいと思います。

松崎街道ー54
松崎街道ー50道路に分断された富宮神社


さて、そうすると残る道は、「善導大師堂」前の「六地蔵」の横を行く小道しかありません。

松崎街道ー181
松崎街道ー180

「六地蔵」はお堂への階段の途中に立っています。
人は生前の行いの善悪によって、その死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道を
輪廻・転生すると言われていますが、その六道のそれぞれに、衆生救済のために檀陀・宝印・
宝珠・持地・除蓋障・日光の六地蔵が配されていると信じられ、お寺や墓地の入口などにこの
六体のお地蔵様を並べ建てることが行われています。

この「六地蔵」の前を横切って、やや下り坂になっている小道を進みます。
(六地蔵に向かって右になります。)

松崎街道ー182
松崎街道ー186

道は曲がりくねっていて、先が見えません。


松崎街道ー183

突然、道が広くなりましたが、工事中の道路のようです。
ここまで歩いてきた道は、車がすれ違えない細い道でしたが、ここは広く立派な道路です。


松崎街道ー184

向こうに何か見えています。
よく見ると、どうやら「成田湯川駅」のようです。


松崎街道ー185
松崎街道ー162

前方にある通行止めの景色は、前回「第二大鷲踏切」の先で見た景色と同じです。

“ぬけみち”は間違いなくここです!
かつての「松崎街道」は、「千把ヶ池跡」の 「普門品一萬巻供養塔」にあった ☜ が指して
いたとおり、大鷲を抜けて「善導大師堂」に向かっていました。

工事が終わると“ぬけみち”にしては立派な道になります。
便利になることは良いことですが、“よそもの”の勝手な感覚としては、いつまでも狭い
“ぬけみち”であり続けて欲しい気がします。

さて、“ぬけみち”を見つけたので、「松崎街道」に戻りましょう。

松崎街道ー187

来た道を戻ります。
のんびりした山村の風景が広がっているのを見ると、地元の皆さんには申し訳ありませんが、
やはり、この景色を残してほしい気がします。


松崎街道ー201

「八生村道路元標」に戻って、現在の「松崎街道」を下ります。


松崎街道ー105
松崎街道ー192

「八生村道路元標」を左に折れると、街道は長い下り坂になります。
傾斜がきつい上に曲りくねった長い坂で、昔は“街道最大の難所”と言われていたようです。


松崎街道ー220
松崎街道ー221

長い坂を下りきると、一面田んぼの田園風景へと一変します。

勝手に決めた「松崎街道」の終点まではもう一息ですが、先ほど見つけた旧街道(ぬけみち)
の「善導大師堂」からここへ抜けてくる道がどこかにないか、気になります。

昔の「松崎街道」は、今下りてきた坂の手前を大きく迂回して、「来迎寺」や「善導大師堂」へと
続いていたはずです。


松崎街道ー206

正面が現在の「松崎街道」の下り坂ですが、手前の寿司屋の看板と松崎保育園の看板の
手前を右に入ってみましょう。


松崎街道ー230
松崎街道ー102
松崎街道ー103

保育園の前を過ぎると道は急坂となり、“この先行き止まり”の看板がいくつも立っています。

『新道は山裾の長い距離を徐々に登って行くが、旧道はその高さをわずかな距離で登る
ため、ここが安食方面から成田に向かう街道の最大の難所であった。歩くだけでも困難ならば、
人を乗せた駕籠や馬はそれ以上に大変だった。』
『文化十四年(一八一七)八月に、安食方面から来た国文学者の小山田与清も、その様子を
「相馬日記」に「松崎村といふ所よりつづらをりをのぼるに、駒も行なづみ、鞍のうへ平ならず
していとむつかし」と記している。』
 (「成田の史跡散歩」P214)

これまでも坂道の連続でしたが、確かに、登り始めてすぐに後悔するほどのきつい坂道です。
“街道最大の難所”とは、こちらのことですね。


松崎街道ー106
松崎街道ー107

途中で振り返ると、遠く印旛沼が見えています。
これは相当な高低差がある、難所中の難所ですね。


松崎街道ー104
松崎街道ー193

最後は階段になって、現在の「松崎街道」(県道18号線の旧道)に出ました。
さきほど見た景色です。


松崎街道ー189

道を横断した先に、左へ上って行く小さな坂が見えます。
もしかすると、ここが「善導大師堂」へとつながる道なのかも知れません。
少し上ってみました。


松崎街道ー190

すぐ下に、今登って来た難所の急坂が見えます。


松崎街道ー194

T字路になっています。
画面の左側から上ってきました。
画面の手前方向に進みます。


松崎街道ー188

印旛沼が大きく見える高さです。

ちょっと歩くと、前回「八生村道路元標」を右に入って、突き当たった場所に出ました。

松崎街道ー199
松崎街道ー197

ここからは前回歩いた道を行けば、「来迎寺」、「善導大師堂」に着きます。
これで、「松崎街道・なりたみち」の旧道がつながりました。

今きた道を戻り、再び現在の「松崎街道」を下ります。

行ったり来たりで、旧道のつながりが分かりにくいと思いますので、おさらいしておきましょう。
【 千把ヶ池跡を右折し ⇒ 成田湯川駅の左側を抜け ⇒ 第二大鷲踏切を渡って ⇒
工事中の広い道から ⇒ 山間の小道を進み ⇒ 善導大師堂の六地蔵前を抜けて ⇒ 
左折して道祖神のT字路へ ⇒ 直進してT字路を左に下り ⇒ 現在の松崎街道を横断
⇒ 階段と急坂を下り ⇒ 松崎保育園を右に見て進む ⇒ 現在の松崎街道の坂下へ】
この間、休憩なしで私の足で約1時間と少々の行程です。(スポットの見学時間を除く)

松崎街道ー231松崎街道ー158松崎街道ー161松崎街道ー162
松崎街道ー182松崎街道ー180松崎街道ー196松崎街道ー194
松崎街道ー190松崎街道ー104松崎街道ー206


因みに、現在の「松崎街道」を「千把ヶ池跡」からこの坂の下まで歩くと、やはり1時間と少々
の行程になると思います。
【 千把ヶ池跡の前を直進 ⇒ 最初の信号を右折 ⇒ 蕎麦屋さんの前を通り ⇒ 無縁塚
⇒ 八生村道路元標の二又路を左へ ⇒ 長い下り坂 】


松崎街道ー222

街道はすっかり平坦になり、両側には田んぼや畑が広がっています。


松崎街道ー74
松崎街道ー75

道端に「青面金剛」と刻んだ石塔が立っていました。

何とか□保四□巳と読めましたが、□の部分は判別できません。
年号の後ろが(保)の四年で、干支の後ろが巳である年は、天保四年(1833)です。
この年の干支は癸巳で、もう一つの候補の享保四年(1719)の干支は己亥ですから、
該当するのは天保四年ということになります。(100%の自信はありません)
側面には「東 なりた しば山」「西 あじき りうヶ崎」と記されています。


松崎街道ー205
松崎街道ー73
松崎街道ー228
松崎街道ー229

のどかな街道風景が続き、ようやく「下総松崎駅」に着きました。
明治三十四年(1901)開業の駅は、街道から少し入ったところにあります。


松崎街道ー213
松崎街道ー214

「下総松崎駅」を過ぎて少し進むと、「成田街道踏切」になります。

今回の「松崎街道・なりたみち」の(私が勝手に決めた)ゴールです。

踏切を渡り、50メートルほど行くとT字路になり、街道は右方向の安食方向に向かって平坦な
道を行くことになります。
やがて成田市を出て栄町に入り、県道18号線のバイパスと合流して「安食駅」へと向かいます。
ここから先は「安食街道」のほうがピッタリしますので、私は「成田街道踏切」を両街道の境界と
考えました。


松崎街道ー215
松崎街道ー216
松崎街道ー217

成田行きの電車が踏切を通過して行きます。
「下総松崎駅」が近いので、スピードを落としながら走っています。


松崎街道ー219
松崎街道ー218

ここで「松崎街道・なりたみち)」は終り、安食(あじき)、木下(きおろし)、布佐(ふさ)、そして
我孫子(あびこ)へと道をつないで行きます。

街道を歩くと、新たな発見があります。
街道を歩くと、先人の“想い”に向き合うことができます。
街道を歩くと、自分の生き方を見つめ直せます。

成田山から成田街道踏切まで、歩くだけなら4時間程度の行程です。
いくつかのスポットをゆっくり見て回れば5時間半くらいでしょうか。
一気に踏破する必要はありません。
何回かに分けて、少しずつ、自分のペースで歩いてみてください。


松崎街道ー227

松崎街道ー226




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