春先から何度か訪ねていますので、写真の多くには満開の桜が写っています。

「昌福寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「稲荷山」。
ご本尊は「聖観世音菩薩」です。
聖観音菩薩は多くの菩薩像が多面多臂である中で、一面二臂の形をとり、六観音の中では
地獄道を化益するとされています。


参道を進み、階段を登って山門をくぐります。
山門の掲額には「安處林」とあります。
かつてこの寺に「退歩」という雅号を持つ文人・住職がおられて、この場所を心から安らげる
所として、「安處林」と名付けたようです。
大正十年(1921)に編さんされた「富里村誌」の、「昌福寺」に関する数行の記述の中に、
「三代前ノ住職ハ我国印度哲学ノ泰斗ト称セラレタル京璨和尚ニシテ原坦山師ノ師ナリ、・・・」
(「富里村史 資料集Ⅱ 近・現代編 P69)
との文章を見つけました。
退歩という雅号を持つ住職とは、この京璘和尚のことですね。
中国の文人・陸機(261~303)の擬古詩にある「去去遺情累,安處撫清琴」から連想した
のではないか、と思いますが、自信はありません。


山門の手前左右にお地蔵様を刻んだ石塔が立っています。
それぞれに3体のお地蔵さまがおられますので、これは六地蔵ですね。
右側は合掌する除蓋障地蔵(人道)を中心に、宝印地蔵(向かって右・畜生道)、持地地蔵
(左・修羅道)が刻まれ、左側には錫杖を持つ日光地蔵(天道)と、檀陀地蔵(右・地獄道)、
宝珠地蔵(左・餓鬼道)が刻まれています。
明和元年(1764)と記されていますので、250年前のものです。



「富里村史」(昭和56年 富里村史編さん委員会)は、「昌福寺」の建立について次のように
記しています。
「曹洞宗にして寺台村(現成田市)永興寺の末寺。本尊は観世音菩薩である。寺伝によると
慶長年間の創立にして、初代住職の三谷右衛門尉平朝臣胤政は慶長十年(一六〇五)に
亡くなったといわれる。」 (P612)
これにより、「昌福寺」の建立は慶長年間であるとされていますが、「富里村誌」には、この寺
の歴史は実はもっと古い時代に遡るのではないか?、との推論が述べられています。
千葉一族の三谷氏が、鎌倉時代の西暦1200年頃にはこの地を支配していたので、その頃
にこの寺を建立したのではないか、というわけです。
「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族
の建立にかかるものではないかと思われる。」
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘を持つ五輪塔が
出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」 (P618)
「その後三百年近くを経た天正十八年(一五九〇)、秀吉の小田原攻めで千葉氏滅亡と
ともに三谷氏、立沢氏、中沢氏など千葉一族も滅び、彼らは農民の中へと埋没していった。
そして戦国時代最後の武将三谷胤政は出家し、従来の氏寺である昌福寺を中沢村の
百姓寺とし、自ら住職となったと考える。」 (P612)
「昌福寺が慶長年間の創立というのは、氏寺から百姓寺へと変身した年代を指している
ものと推定する。」 (P613)
この説によれば、実に建立して800年以上の古刹ということになり、三谷胤政建立説を採って
も400年以上の歴史を有していることになります。

山門の内側にある小僧さんは、熊手を持っています。


三谷胤政の供養塔。
聖観音像を中心に数基の石仏が並んでいます。
説明板には次のように書かれています。
『三谷胤政の一族は千葉四郎胤広を始祖とする一族であり、千田荘内中村郷三谷村(現多古
町)を出自地とし、富里に移り住んで勢力を拡大させていったと考えられています。
また応永十三年(1406)に記された「香取造営料足納帳」には、中沢に居住した三谷一族の
知行地が記されており、中沢地区にかなりの勢力を有していたことが明確です。
この史料の後、三谷氏に関する史料は確認されおらず、その動向については定かではあり
ません。しかし昌福寺の寺伝では、江戸初期の慶長年間に三谷胤政の開基によるものと伝え
ており、これを参考とすれば、三谷氏が15世紀初頭から16世紀末までの間、連綿と富里の
在地土豪の地位を保っていたと考えることができます。
このような歴史背景がうかがえる本供養塔については、様式的に見て慶長年間の造立とは
考えにくく、おそらくは17世紀から18世紀初頭の作と考えられます。
丁寧な彫りによって均整のとれた像容を示す石造物であること、また、中沢地区に所在する
千葉氏関連遺構(中沢城址)などとの関係を考慮すれば、富里と三谷氏、ひいては千葉氏と
富里の関係をうかがい知る上で貴重な文化財といえます。』


左側には十九夜の月待塔が並んでいます。
二基の如意輪観音は、明和七年(1770)と享保二十年(1735)のものです。

一番右は天保七年(1836)の「馬頭観音」です。

応永三十三年(1426)の小さな「宝篋印塔」です。
傍らに立つ説明板には次のように書かれています。
「宝篋印塔とは、中国の唐が滅亡した後の時代である五代十国時代の呉越王、銭弘俶が
延命を願って諸国に建てた八万四千塔の形を簡略化して作られたものといわれており、
日本には平安時代中期に伝えられ、鎌倉中期以降には盛んに造立されました。 塔の名
にある「宝篋印」とは、宝篋印陀羅尼経(これを書写して読誦するか、あるいはこの経巻を
納めた宝篋印塔を礼拝すれば罪障は消滅し、三途の苦は免れ、寿命長遠であるなど無量
の功徳を説いた経)を指しており、この経を内部に納めた塔であることから名付けられたも
のです。 この宝篋印塔は、新橋字東長作の畑から耕作中に偶然出土したものであり、
基礎部に応永三十三年(1426年)の銘が刻まれていたことから、富里市では唯一、室町
時代の年号か確認できる資料となっています。 しかし、この宝篋印塔は、内部に経を納め
るような構造になっておらず、おそらくは墓標として造立されたものと考えられます。 塔の
高さは80cmと小型で、反花の一部も欠いていますが、全体的に均整のとれた美しい形を
した優品であり、室町時代の富里市の仏教思想を物語る貴重な石造物です。
宝篋印塔の周りには、象形文字を思わせるような碑文を刻んだ石碑が並んでいます。





本堂の右奥に溶岩の固まった富士ぼく石を積んだ小山があり、その上にお釈迦様が座って
いるのが見えます。
小山のあちこちには「十六羅漢」が配置されています。
「羅漢」は「阿羅漢」の略で、修行を完成して悟りを得た人を指しますが、「十六羅漢」とは、
お釈迦様の弟子の内で特に優れた代表的な16人のことです。
良く見聞きする五百羅漢は、初めての経典編集に集まった弟子達を指す言葉になります。








頂上にお釈迦様が座り、山腹に十六羅漢が座る小山は、永代供養塔になっています。
この小山の脇には、七体の大師像が並んでいます。
左端の一体だけが木像です。


境内の奥にあるお堂は「天神様」と呼ばれています。
道真公の木像には、大師像と同様の色鮮やかな襷が何本も掛っています。

裏山からきれいな清水が流れ出しています。
境内の一角にかすかに流れ落ちる水音が響いています。

隣接する墓地には、元禄、享保、文化、天保、嘉永などの墓石が並んでいます。






三谷胤政の供養塔は「開基様」とも呼ばれているようです。
三谷一族は、長い間上総国埴生郡三谷(現・茂原市)が発祥の地とされていましたが、
昭和50年に「横芝町史」が千田荘内の中村郷三谷村(現・多古町)説を提起し、現在は
こちらの説の方が有力とされています。
供養塔の説明板も、「横芝町史」の説を支持しているようです。
400年か、800年か・・・、きれいに整備された境内は、あまり古さを感じさせません。
初めて訪れた時には桜が満開でしたが、「昌福寺」の今はすっかり夏の風情です。

※ 「稲荷山昌福寺」 富里市中沢593-1