

飯岡の「永福寺」の末寺で、山号は「陀基処山(だきしょさん)。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
「永福寺」には、押畑村に「新福寺」・「万行寺」・「山之坊」・「福寿院」の四つの末寺が
ありましたが、この「新福寺」の他は明治の始めに廃寺となっています。
門柱は大正十二年(1923)のものです。

境内に入ると左右に古い墓石が並ぶ墓地があります。


元禄、享保、明和、天保、安政、文久などの年号が見えます。

明治二十二年(1889)に建立された「後藤蒼齊翁寿蔵碑」。
寿蔵碑は生前に功績を讃えて建立されるものですが、この後藤蒼齊は和算学者で、近郷の
人々に和算を教えていました。
成田山に明治二年(1869)に奉納された算額は、極めて高度な数学の問題と解答であり、
千葉県の有形民俗文化財に指定され、現在成田山霊光館に収蔵されています。

この立派な宝塔には、「大阿闍梨法印澄傳」と刻まれています(澄傳は読み違いの可能性が
あります)。


本堂は平成6年に新築されたもので、寺額には山号の「陀基処山」と書かれています。
昭和61年編さんの「成田市史」には、山号が「吒岐尼山(だきにさん)」と記載されています。
また、「成田市史近代編史料集一」に収録の「押畑村誌」にも、
「新福寺 村ノ中央字西ノ内ニアリ。地坪六百七拾二坪、新義眞言宗吒岐尼山ト号ス。
本郡飯岡村永福寺ノ末派ナリ。」 (P254)
と記されています。
「吒岐尼」とは聞き慣れない言葉ですが、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)または、
吒枳尼天(だきにてん)に関連するのでしょうか?
荼枳尼天は白狐に乗る天女の姿で、稲荷信仰と合体して真言宗とともに全国に広まり、
多くの稲荷社が建立されました。
明治になって神仏分離が行われた際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神を祀る神社と
なりましたが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になりました。
こうしたことと、この山号は関係があるのかもしれません。
ただ、境内には稲荷社らしき痕跡は見えませんので、この推理は当てになりません。
創建年代は不詳ですが、文禄三年以前とされています。
その根拠は、文禄三年(1594)の押幡郷御縄打之水帳」の名前が見えることによります。
少なくとも420年以上の歴史を持ったお寺です。



数体の石仏が置かれたお堂があります。
首の無い石仏には天保四年と文政五年(1822)の二人の子供の戒名が記されています。

本堂の裏手に回ると、この寺の場所が相当高い位置にあることが分かります。



本堂の屋根に珍しい瓦を見つけました。
鬼がわらの変形でしょうか、何か宗教的な意味がありそうです。
成田山新勝寺と同じ牡丹のように見えますが・・・



日をあらためて撮影して見ると、椿のような気がしてきました(迷っています)。


本堂の左手にたくさんの板碑が並んでいます。
並んでいるといっても、倒して重ねているだけなので、どんな謂れがあるのかは分かりません。
「成田の史跡散歩」には、この板碑について次のように書かれています。
『新福寺の開基などについては不詳であるが、本堂の左側に三〇枚近くの板碑が積み重ね
られており、その中に延慶三年(一三一〇)の銘をもつものがある。また、大正二年(一九一三)
の「千葉県印旛郡誌」には、康元元年(一二五六)銘の板碑があったと記されているので、鎌倉
時代中期には新福寺が存在していたことになる。』 (P197~198)
康元元年の板碑がこの寺の境内に建っていたものならば、「新福寺」の歴史は420年以上では
なく、760年以上ということになります。
石の色と形から、全て下総板碑ですが、立っている形で見たかったと、残念な気がします。



「新福寺」には裏参道があります。
長い石段が続く参道ですが、こちらを利用する人はほとんどいないようで、石段下は草が
石段を隠すほどに生えていました。


裏参道の石段を登り切ったところにある古木の幹は、恐ろしげな表情です。

境内の右手にも墓地があり、左手の墓地と同様に古い墓石が並んでいます。



文化、文政、天保、弘化、安政、文久などの年号が読めますが、左手の墓地よりは比較的
年代が新しいように思えます。
一部に明治や大正の墓石も見えています。

この石碑は上部が剥がれ落ちていますが、境内の反対側にあった寿蔵碑の「後藤蒼齊」
と同じ和算の学者、「幡谷信勝」の追悼碑のようです。
「・・・立得寚居士」と読めます。
(後藤蒼齊は) 「幡谷信勝の弟子になる山口村の山田宗勝に学んでいるので、信勝から
見れば孫弟子にあたる。」 (「成田の史跡散歩」P199)


小さなお堂の中には石仏が一つ。
風化で刻まれた文字は消えていますが、わずかに「三月」とだけ読めました。

通りかかった方から、「新福寺」の前の道は、旧佐原街道だと教わりました。
写真の手前は曲がりくねった下り坂で、前方は国道408号線に出ます。


「新福寺」の前を右に下ったところに「道祖神」がありました。
小さな祠がたくさん並んでいます。
この道が旧佐原街道だと教えてくれた方が、これを「ドウロクジン」と呼んでいました。
「松崎街道・なりたみち」の(1)で、「三竹山の道祖神」を地元の人たちが「ドウロクジン」と
呼んでいると書きましたが、どうやらこの一帯では「道祖神」を「ドウロクジン」と呼ぶようです。
「ドウロクジン」を調べると、「道陸神」と書き、「道祖神」と同じものであることが分かりました。
「三竹山ドウロクジン」は道祖神が訛ったものではなく、始から「ドウロクジン」だったのですね。


上り坂になる手前左側に、文政六年(1823)の如意輪観音が立っています。
この石塔は道標を兼ねていたようで、正面には「此方なりたミち」「此方なめ川みち」と記され、
左の側面には「右左さくミち」と記されています。
「さくミちとは作業道、農業用の道である。この変則の十字路は、左右が成田と滑川に向かう
旧道で、バス停から直線に進む道は農道であったことがわかる。」
(「成田の史跡散歩 P197)


もともとは飯岡の「永福寺」の末寺であった「新福寺」ですが、現在は成田山から時々お坊さん
が来て、管理をされているようです。
「押幡郷御縄打之水帳」には、「新福寺」は九反一畝一四歩半の面積で、廃寺となった押畑村
の他の永福寺・末寺よりは相当広い敷地を持っていました。
(万行寺は五反九畝三歩、山之坊は四反六畝二四歩半、福寿院は二畝二五歩とあります)
廃寺の三寺の本尊は、現在ここ「新福寺」に収められています。
押畑村を含む近隣八村が合併してできた八生村の村誌には、
「新福寺 押畑字西ノ内ニアリ、真言宗ニシテ久住村飯岡永福寺ノ末寺ナリ。開基ノ年号
詳カナラザレトモ莫然タル古碑アリ。表面梵字ヲ記ス。一ハ康元元年十一月一日、一ハ
延慶三年ニシテ何レモ六百年前ノ建立ナレバ開山モ此当時ナランカ。」
(「成田市史 近代編史料集一 P248)
教えられなければそれと分からぬ旧佐原街道に、ひっそりと佇む「新福寺」です。

※ 「新福寺」 成田市押畑2214