
小高い丘の上にある長沼城址の斜面に、貼りつくように稲荷神社が建っています。
階段は相当に急な勾配で、この場所からお社は見えません。(81段あります)

階段の登り口にある手水盤には天明二年(1782年)とありました。

手水盤のある場所は小さな台地になっていて、「長沼下戻記念碑」(大正7年)、「福沢諭吉
功績記念碑」(大正15年)、「干拓頌功之碑」(昭和54年)の3基の記念碑が並んでいます。
なぜ、この地に「福沢諭吉」の名前が出てくるのでしょう?
通称「長沼事件」または「長沼訴訟」と言われることの経緯を「成田市史」(成田市編纂)の
記述などを参考に要約すると、次の通りです。
長沼村に隣接する地に長沼という約70万坪の瓢箪形の沼があり、村は江戸時代の昔から
この沼から得られる恵みに頼っていました。
いろいろな経緯を辿って、延宝五年(1677年)からは年貢を納めることと引き換えに、長沼
の漁猟採藻権は実質的に村の専有権となりました。
「運上高は一ヵ年に米八石四斗、すなわち一俵に三斗五升入りで二四俵であった。
同年、荒海磯部両村は長沼村に下猟銭を支払うことによって入猟できるようになった。
次いで正徳三年(1713)長沼村は年貢割付状に沼高を記入させることに成功し、ここに
長沼村は長期安定的に沼に関する権利を手中に収めた。」
(「成田市史 近世編資料集三 産業・文化」 P9~10)
近隣の村にとっては、長沼は地域の排水が流れ込む遊水池として重要な役割を持っており、
長沼村の独占状態に不満を持っていましたが、明治5年に維新以後の混乱に乗じて沼の
国有化を当時の印旛県に申請し、県はこれを受理したため、長沼村は独占権を失いました。
沼に頼ってきた長沼村は困窮し、県へ利権の回復を請願しましたが認められません。
村の代表の小川武平は、かねてより心酔している福澤諭吉を訪ね、事の解決を依頼します。
面識もない諭吉を訪ねる武平も、そんな武平に気軽に会う諭吉も大したものです。
当時はそうした時代だったのでしょうか・・・。
武平の話を聞いて長沼村の利権回復運動に共鳴した諭吉は、請願書の作成や、当時の
政府高官に働きかけて支援しました。
明治30年1月に小川武平ほか3名が福沢邸に年始あいさつに訪れた際に、諭吉と交わした
会話記録が残されています。
長沼村の現状についての諭吉の質問に対する武平の答えの要旨はこうです。
「300年前の長沼村は僅か14戸の寒村でした。明治の初めには114戸になっていますが、
これは長沼の恵みがあったからです。田畑は300年間にほとんど増えておらず、もっぱら
漁業で生計を立ててきました。最近では養蚕にも力を入れていますが、沼から採れる藻など
が良い肥料となって桑が良く育つからです。」
諭吉の働きかけもあって、明治30年6月に県知事の阿部 浩によって「沼地下戻命令書」
が発せられ、ようやく長沼村の利権が回復しました。
この争いに関しては、近隣の村々にももっともな言い分がありますが、各地で養蚕を奨励して
いた諭吉が、養蚕に力を入れていた長沼村に協力したとも言われています。
現在長沼は全てが干拓されて、一面の水田地帯となっています。

城跡に向かう中腹に「稲荷神社」があります。
ご祭神は「保食之命」(うけもちのみこと)で、文久三年(1863年)に京都の伏見稲荷より
分神勧請されました。
「保食之命」は食物の神様で、神話に次のように出てきます。
「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」(ウィキペディア「保食神」)
なるほど!と思わず頷いてしまいそうな神話ですね。

拝殿の中には小さな石の祠が隅に置かれているだけです。
向こう側に本殿が透けて見えています。

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150年を経て、さすがに傷みが目立ちますが、しっかりとした骨組みのお社です。

神社の脇を城跡に向かう急坂の途中にある祠には、文久元年(1861年)とありました。
稲荷神社が建立される前からここにあったのでしょうか。

なかなか険しい地形です。


登ってみると、この城跡は意外に広い台地です。

(本年5月に撮影)
城があった頃は、長沼に突き出た島のような地形であったのでしょう。
この城は長沼氏の居城で、最後の城主の長沼五郎武俊が天正九年(1582年)の
竜台合戦で討死して廃城となりました。
竜台合戦とは、天正九年に滑川城主の小田左京太夫政治が、長沼城の長沼五郎武俊らと
助崎城の内田信濃守を攻めたことが発端です。
一進一退の戦いは内田氏と同盟を結んでいた常陸の足高城主岡見宗治の差し向けた援軍
により、小田方が劣勢となり、利根川近くの竜台城において小田方の諸将がことごとく討死
して終わった合戦です。
その戦いは4カ月にも及びました。

(本年9月に撮影)
祥鳳院から見る助崎城址です。

木々の間から見える下の景色はのどかな田園風景です。

堀の跡のような人工的な地形が見えます


「縄張構造としては、長軸120m、短軸60mほどの土塁で囲まれた平坦面を
居住空間とし、斜面部に横堀と腰曲輪を配して防御性を高めている。角部の
腰曲輪には仕切りの土塁を設け、容易に回り込めないよう工夫が凝らされている。」
(「成田の地名と歴史」成田市発行 P323)


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展望台があったので登ってみました。
この眺望ならば、確かに城を構えるには絶好の場所です。


台地の北西側に一段高くなっている場所があり、その上に祠があります。
大きな方の祠は金比羅大権現です。
文化元年(1804年)と記されていて、側面には鰐が彫られていました。
(実ははじめは「象」だと思って「象」と書いたのですが、Romanさんからのコメントで気付
かされて、改めて調べた結果「鰐」だということが分かりました。ありがとうございます。)

この長沼城址は現在は「長沼市民の森」となっています。
何もない場所ですが、つわもの共の夢の跡をのんびりと散策するには
良いかもしれません。

※ 長沼城址(稲荷神社) 成田市長沼2189
JR久住駅より徒歩約45分
京成成田駅東口よりコミュニティバス豊住ルート
長沼保育園下車 徒歩5分(1日に5本)
長沼城址いいですね。
景色もそうですが象の彫り物がある祠ですか。
それも海の守り神の金比羅とは。
この福沢諭吉の話は前に私も調べたことがあります。
長豊街道を「諭吉通り」と看板が出ていたためです。
面白い話ですね。
コメント、ありがとうございます。
コメントをいただいて金比羅についてもう一度調べてみました。
結果、あれは象ではなく、鰐だったようです。
インドの女神グンビーラが訛って金比羅となったのですが、
グンビーラが鰐にのっている絵を見つけてしまいました。
その鰐は象のように上あごと言うか鼻が長く描かれていました。
金比羅宮が象頭山の山岳信仰から出ているという話を聞いていたので、
単純にも象頭山を連想する「象」だと思ってしまいました。
お恥ずかしいかぎりです。すぐに本文も訂正します。
コメントをいただいて助かりました。
ありがとうございました。
いつも素晴らしい記事をありがとうございます。申し上げましたように私もこのようなものに訳もなく惹かれ、お稲荷様は見かけるとつい足がフラフラとそちらを向いてしまう始末。/亡父のように学者ではないので詳しくはわかりませんが”文化元年(1804年)・・・鰐が彫られている・・。”は時代的にも珍しいのではないでしょうか?伝え聞いている限りでは鰐もこの時代では実物を見た人はそう多いとは思えず「想像上の神格化された生物、偶像」であったという説もあり、はたまた数少ない洋行帰りまたは外国人からの伝聞にて描かれた、とも。いずれにしても祠に彫られるケースはあまり多くはないのではありませんか?金毘羅(金比羅)の語源もいくつかの言語と当て字を経てきていると聞いております。私の田舎、四国にも金比羅山(金刀比羅宮)がありそこに伝わる話もかなりあやふやな部分もありますが、大筋で一致するところが多いようです。何故、鰐や象、麒麟などの伝承、絵画ができたのか、これも学者ならずとも興味深いところです。/興味惹かれるままに次々に記事、写真を拝見しておりますが調査の細かさに畏れ入りますとともにたいへん面白く、時間のたつのも忘れるほどです。私の実家も家系図からは鎌倉時代から諸々の変遷を経てきており、その中にも神仏混交に纏わる話も多くあったようで、祖父、父からたくさん聞いておりました。その時は大方は信じておりませんでしたが、このような記事、写真を拝見するにあれらは何らかの明確な根拠があってのことかと、今さらながらに考えさせられます。引き続き、全ての記事を何度となく自分なりの理解となるまで読まさせて頂きたく存じます。/生野@今夜は都内
コメントをありがとうございます。
おっしゃる通り、神話や伝説には僅かでも何らかの真実が隠されていると私は信じています。
調べればまだまだ詳しいことが分かるのでしょうが、私は自分の目に見えるもの、素人なりに調べられる範囲でこのブログを書こうと思っています。
同じものを見て誰もが感じ、理解できることで十分だと考えています。
いずれネタが尽きたら、学者のように掘り下げてみるかも知れませんが…。