

表札をかけたような寺号標。
天台宗のお寺であることと、山号が「光照山」であることが記されています。
脇に書かれている「愛宕大権現」には後ほど立寄ります。


「医王寺ハ北方字邊田郭ニアリ。光照山ト号ス。同郡山ノ作村圓融寺末流ナリ。
開基創建詳カナラツ。」 (「成田市史 近代編史料集一」P224)
「下総國下埴生郡。寶田村誌」には、「醫王寺」についての記述はこれだけしかありません。
また、後に合併した八生村誌には、
「寶田字邊田ニアリ、天台宗ニシテ中本寺円融寺末ナリ。阿弥陀如来ヲ本尊トス。
慶長二年再建立ス。檀徒百四十人ヲ有ス。」 (同P248)
とあります。
慶長二年は西暦1597年で、豊臣秀吉の命により小西行長、黒田長政らが朝鮮に侵攻した
慶長の役があった年です。

本堂の手前に小さな手水鉢があります。
天保十一年(1840)と刻まれています。
この年は英国と清国との間でアヘン戦争が起こった年です。


境内に登る階段脇に、木々に隠れるようにお地蔵さまが立っています。
首は取れてしまい、後から着け直したようです。
台座に小さなアマガエルがいました。
暑さを避けて木陰の石の上でジッとしています。


何の掲額も無いこのお堂は、多分地蔵堂だと思います。
中を覗かせていただくと、正面に大きな厨子があり、左右に小さなお社のようなものが見え
ますが、いずれも中には仏様がおられません。
このお寺には白馬に乗った「勝軍地蔵」が安置されていて、2月24日の御祭礼の時のみに
御開帳となるそうですが、一時期近隣の無住の寺を荒らす不心得者が横行したため、普段
は某金融機関から譲り受けた金庫に収められているという話を聞いたことがあります。
そう言えば、本堂の厨子はどう見ても金庫でしたね。
「勝軍地蔵」は本来このお堂の厨子の中におられるはずなのでは・・・と推測しました。
したがって、このお堂は「地蔵堂」だと・・・。
通りかかった人に訪ねてみましたが、押畑の方だそうで分かりませんでした。
「勝軍地蔵」は「将軍地蔵」とも書き、甲冑を着けて右手には錫杖を持ち、左手に如意宝珠
を載せ、軍馬にまたがっています。
戦勝を祈願する武家の間で鎌倉時代以降に信仰された地蔵です。


お堂の前に建つこの石仏は「聖観音」と見ましたが、「馬頭観音」のようにも思えます。
憤怒の表情は無く穏やかな表情ですが、頭上にあるのは馬の顔のようです。
小泉の自性院にも穏やかなお顔の馬頭観音がありましたので、ここは「馬頭観音」としますが、
間違っていましたら後ほど訂正を入れます。
正徳四年(1714)と記されています。
小泉の自性院と十三仏 ☜ ここをクリック




境内の左側の大師堂は昭和51年の建立で、大師像が三体並んでいます。
真ん中が木像で両端は石像です。
石像は風化でお顔が平たく見えますが、木像は眼光鋭く迫力のあるお顔です。

大正十五年(1926)の「奉讀誦普門品一萬巻供養塔」。
余談ですが、大正十五年は大正時代最後の年ですが、12月25日まででした。
従って、昭和元年は同じ12月25日からとなり、わずか1週間しか無かったため、昭和元年の
紀年銘はまず見ることがないはずです。


地蔵堂の後ろの台地にある墓地は、最近整備されたようで、古い墓石の間に比較的新しい
墓石も建っています。



一方、整備された墓地の上の山腹には、古い墓石が散在しています。
もうお参りする人はいないため、階段も道も無いに等しく、近づくのは大変です。




ところどころに平らな場所があり、こうしたところでは墓石もきれいに並んでいます。
元禄、宝永、享保、宝暦、明和、天明、安永、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


大師堂の脇には明治十一年(1878)と読める「奉讀誦普門品一萬巻供養塔」と、お地蔵様
が並んでいます。
小さなお地蔵様の足下には、さらに小さな子供の像がすがりついています。
地蔵菩薩は六道を行脚して、救われない衆生や、親より先にこの世を去った幼子の魂を救う
旅を続けているとされています。
特に幼子は、徳を積む間もなくこの世を去ったために、三途の川を渡ることができず、手前の
賽の河原で親や兄弟を懐かしみ、回向のための石の塔婆を積むものの、鬼がやって来ては
それを崩してしまうため、永遠に石を積み続けなければなりません。
地蔵菩薩は鬼から幼子達を守り、仏法や経文を聞かせて徳を与えることで、成仏への道を
開いてあげるのだと言われています。
この地蔵像はまさにこの伝承を形に現したものですね。


本堂の屋根には天台宗の宗紋である三諦章(さんたいしょう)が光っています。
三つの星は天台宗の教理で実相の真理を明かす三要諦(空諦・仮諦・中諦)を表しています。
十六菊については諸説あるようですが、確証はありません。

「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院」表に、「医王寺」の開山は「覚伝」で、
開基は「山田三郎兵衛」とあるのを見つけました。
開基に僧侶ではない名前があるのは珍しいことです。
「医王寺はもと天台宗修験山田三郎兵衛が開基した行屋で般若院と称していたが、寛永
三年延命寺にいた覚伝が住職となったときに寺に取り立てられ、光照山般若院医王寺と
号し、円融寺の末寺に加わった。」 (「成田市史 中世・近世編」P782)
修験(しゅげん)とは、修験道または修験者の略で、山伏と呼ばれることもあります。
山田三郎兵衛は修験道の聖護院流の行者で、「行」のために建てられた行屋を般若院と
呼んだようです。
寛永三年は西暦1626年ですから、「医王寺」となってから390年、般若院と称した行屋
時代からは少なくとも400年以上の歴史を有していることになります。

「醫王寺」の前にはのどかな田園風景が広がっています。
ちょっと足を延ばして「醫王寺」が別当をしていた「愛宕神社」を訪ねてみましょう。

「愛宕神社」は長い階段の上にあります。
下の通りからは木々の間からチラリと鳥居の頭が見えるだけです。

階段の踊り場に、元帥陸軍大将上原勇作の書による「戰役記念碑」がありました。
裏面には「明治參拾七八年戦役従軍者」として29名の氏名と階級が記されています。
「明治三十七八年戦役」とは、日露戦争の別称です。
なお、29名中数名は「日獨戦役従軍者」と書かれていました。
「日獨戦役」とは、第一次世界大戦中の中国青島での対ドイツ戦のことで、この記念碑が
大正十三年(1924)に建立されたことから、書き入れられたのでしょう。
宝田村からも多くの人が従軍したのですね。
上原勇作は薩摩出身の軍人で、「日本工兵の父」と呼ばれた人物です。

鳥居は昭和5年に建立された神明系の靖国鳥居です。

鳥居の脇にある手水盤には文政五年(1822)と記されています。

ここまでの階段は24段でしたが、社殿まではまだまだ階段は続き、合計111段になります。
鳥居の場所からは僅かに拝殿の屋根が見えています。

「愛宕神社」のご祭神は「火結神(ホムスビノカミ)」です。
「元亀元年戊午正月二四日、山城国愛宕神社を奉還、文禄三年社殿建立すという。」
(「神社名鑑」 千葉県神社庁 昭和62年)
元亀元年は西暦1570年で、織田信長・徳川家康連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で
「姉川の戦い」が繰り広げられた年です。
この神社の歴史は440年を超えるわけです。
社殿が建立されたという文禄三年は、西暦1594年です。


神額にはなぜが寺院のような「愛宕山」と書かれています。
一枚だけ見つけた掲額には、何が描かれていたのか分かりませんが、提灯に「医王寺」と
書かれているような気がします。



周りの地形は切り立った崖のようになっています。
ところどころに野生のユリが咲いています。


「本殿・一坪、拝殿・七.五坪、境内坪数一四四坪」
「氏子一一〇戸」
(「神社名鑑)
社殿の周りを見渡しましたが、社殿は一つの建物で、本殿は見当たりません。
おそらく拝殿の建物の中に隠されているのだと思います。
火伏せの神様として昔から信仰を集めていましたが、先の大戦中に空襲による火災が
この神社のお札が貼ってある家の前で鎮火したとの言い伝えがあり、2月24日の祭礼
には遠くからも参詣客が訪れるほどです。
また、この地区では祭礼の日は一日中“お酒を飲まない出さない”風習があります。
「江戸時代初期、隣村押畑村と土地をめぐって争論のあったとき、愛宕神社に酒断ちを
して祈願したことからこの風習が生まれたという。」
(「成田 寺と町まちの歴史」小倉 博 著 昭和63年 聚海書林 P219)

眼下に広がる田園風景の向こうを、旅客機が飛んで行きます。
7月の強い日差しに焼かれる境内には、なぜか蝉の声も無く、かすかに遠くを滑る旅客機の
ジェット音だけが聞こえます。


※ 「光照山醫王寺」 成田市宝田1933
「愛宕神社」 成田市宝田1997