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■プロフィール

sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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トンネルと車両基地~宗吾参道駅
宗吾参道ー1

この景色、どこだか分かりますか?


宗吾参道ー2

宗吾参道駅は酒々井町と成田市の境目近くにあります。(駅は酒々井町です)
昭和3年に「宗吾駅」として開業しましたが、当時の駅はトンネルの直前にありました。
昭和26年に「宗吾参道駅」に改称され、昭和57年に現在地に移転しました。
昔の駅は無人駅で、発車して直ぐにトンネルに入る景色は子供たちに人気でした。
地下に潜る上野駅を除けば、京成本線では唯一のトンネルです。


宗吾参道ー3

東口です。
とは言っても表示があるわけではなく、東西に2つある出入り口を私が勝手に呼んでいます。


宗吾参道ー4

東口にはまばらに人家があるだけです。


宗吾参道ー5

回送中のスカイライナーが停車しています。
こんな近くで、しかもこんな角度で見ることができるのは、多分ここだけでしょう。
鉄道ファンなら是非訪れてみたい場所のはずです。


宗吾参道ー6

階段を上って橋上のコンコースに出ました。
改札口は右側にあります。


宗吾参道ー7

2・3番線のホームです。
「日暮里・上野・日本橋・東銀座・京急線方面」と表示されています。
相互乗り入れで、都営地下鉄・京浜急行とつないで、三崎口まで直通で行くことができます。


宗吾参道ー8

昔の駅は踏切の向こう側、トンネルの入り口にくっつきそうな場所でした。


宗吾参道ー9
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宗吾参道ー10
宗吾参道ー15

トンネルの反対方向(上野方向)には、京成電鉄最大の車両基地が広がっています。
広さは103,947㎡で、240両の車両を留置することができます。
車両の検査、修理、塗装、洗浄などが行われ、運転手の養成を行う「京成電鉄研修所」も
この中にあります。


宗吾参道ー11

1番線に来ました。
2番線には上野行きの電車が入ってきます。
こちらのホームには「成田空港・東成田方面」と表示されています。


宗吾参道ー13
宗吾参道ー14

ホームから見える景色はのどかな田園風景です。


宗吾参道ー16

電車が発車した後の2つのホームには人影がありません。


宗吾参道ー17

駅から徒歩約5分で「酒々井ちびっこ天国」があります。
大きなプールがあり、開園期間は7月中旬から8月いっぱいです。
古い施設ですが複数のプールがあり、比較的すいていますから、電車で来ることができます
から子供連れには穴場だと思います。


宗吾参道ー19

日中の改札口は物音ひとつしない静かさです。
平成14年度の1日の乗降客数は平均2536人でした。
京成全駅69駅中の63位でしたが、それでも近年は宅地開発が進み、徐々に利用客が
増えているようです。


宗吾参道ー21

トンネルの脇を登って行く細い道がありますので、登ってみることにします。
このトンネルの上は成田市です。


宗吾参道ー22

すぐ脇をスカイライナーが走って行きます。
この時間帯はスカイライナーはスカイアクセス線を走っているはずですから、これは車両基地
から成田空港に向かう回送電車です。
成田空港駅からは乗客を乗せてスカイアクセス線を走って行くことになります。


宗吾参道ー24
宗吾参道ー23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宗吾参道ー25
急な坂道を登ったところには京成電鉄の変電所がありました。


宗吾参道ー20
宗吾参道ー26
宗吾参道ー27宗吾参道ー28
東口を出ると大きな鳥居が見えます。
駅を出てすぐのところには石灯籠があり、いかにも参道のような景色なのですが・・・。


宗吾参道ー29

昔の参道の名残でしょうか、道端に桜の古木が数本立っています。
この桜の反対側は成田市です。


宗吾参道ー30

宗吾霊堂へはひたすら坂道を登って約20分です。
宗吾参道とはいうものの、成田山のような参道風景があるわけでもなく、参拝客の多くは
隣の公津の杜や成田からバスで宗吾霊堂に向かいます。

「宗吾参道駅」はのどかな田舎の駅の風情です。
     

            ※ 「宗吾参道駅」 印旛郡酒々井町下岩橋432-1



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鉄道・駅 | 18:32:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
ぼけ封じ観音とぽっくり地蔵~「常蓮寺」
常蓮寺ー2

「常蓮寺」は天台宗のお寺で山号は「北方山」。
御本尊は「阿弥陀如来」です。
「創建年代は不詳だが、元和元年(一六一五)三月に秀覚上人が中興開山となっている。」
「御本尊の銅造阿弥陀如来立像は室町時代の作で、「山越えの阿弥陀如来」と呼ばれている。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉博著 P168)
少なくとも400年以上の歴史があるわけです。


常蓮寺ー3

天台宗のお寺では良く目にする最澄の「照于一隅」の碑。
この言葉については「薬王寺」の項で触れました。
「薬王寺(照于一隅)」 ⇒


常蓮寺ー4

平成11年に建立された「ぼけ封じ観音」。


常蓮寺ー5
常蓮寺ー7

境内左手の銀杏の大木の幹を一部をえぐって、その中に「ぽっくり地蔵」が祀られています。
「ぼけ封じ観音」を拝んで、ぼけずに老後を過ごし、「ぽっくり地蔵」に「周りに迷惑をかけずに
ぽっくりと逝かせてほしい」とお願いするわけです。


常蓮寺ー6

銀杏の根元に建つ「贈㳒眼肇安墓」と記された筆子塔。
常蓮寺の肇安上人に学問を教わった弟子たちが建てたもので、文久元年(1861年)の
紀年銘があります。
筆子塔は筆のように上部を細くしたものが多く見られますが、これは四角い墓石です。


常蓮寺ー8
常蓮寺ー9

苔むした墓石には、寛文、宝永、天明、天保、文化、安政等の年号が読めます。


常蓮寺ー10
常蓮寺ー11

「成田市史 中世・近世編」(成田市史編さん委員会編)には、
「近世初期に南羽鳥にあった秀覚寺を辻の台に移し、寺号を改めて常蓮寺とした。」
(P255)とあります。
現在の本堂は平成4年に再建されました。


常蓮寺ー13

明治33年の「奉読誦普門品六萬巻供養塔」。
普門品(ふもんぼん)とは法華経のうちの「観世音菩薩普門品(観音経)のことです。
19世紀以降に、村落共同体の安泰を願って造立されるようになりました。


常蓮寺ー14

こちらは文久三年(1863年)のもの。
この年は幕末の世情騒乱の渦中にあって、京都壬生村で浪士隊(後の新撰組)が発足し、
薩英戦を始め諸外国との争いも頻発していました。
やれ勤皇だ佐幕だとか、あるいは開国だ攘夷だとか、詳しいことは分からないまでも、
不安な世情の中で、村の安泰が保たれるよう、ただ祈るような気持ちでこの供養塔は
建立されたのでしょう。


常蓮寺ー16

「二十三夜塔」と刻まれた月待塔。
慶應の文字が読めますので、150年ほど前のものです。
一般に、十三夜塔は虚空蔵菩薩、十五夜塔は大日如来、十七夜塔から二十二夜塔までは
観音様をお祀りしますが、二十三夜塔は勢至菩薩をお祀りするようです。


常蓮寺ー17

門柱にも最澄の言葉が記されています。


常蓮寺ー18
常蓮寺ー19

門前の交差点に4基の庚申塔が立っています。
1基だけが「青面金剛」像を刻み、他は文字のみのものです。
この庚申塔の前で、4月に「北羽鳥の獅子舞」の「花かがりの舞」が行われます。
「北羽鳥の香取神社」 ⇒


常蓮寺ー15

御本尊の「阿弥陀如来」について、成田市発行の「成田の地名と歴史」では、 
「像高32.2cm、髪際で29.4cmを測る立像である。内衣・衲衣・覆肩衣・裙を着け、
左手を垂らし、右手をやや内に向けて、胸前に屈臂し、両足を揃えて立つ。現在、
両手首先を失っているので、当初の名称は判明し得ない。」
 (P278)
として、単に「銅造如来形立像」としています。
火災に遭ったためでしょうか、表面が爛れて、全身が右に傾いているそうです。

再建された本堂の中で、波乱の歴史をくぐって来た仏様が、静かに時を編んでおられます。


常蓮寺ー20


           ※ 「北方山常蓮寺」 成田市北羽鳥1803-1
              京成成田駅よりコミュニティバス豊住ルート 北羽鳥入口徒歩約5分



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豊住村の寺社 | 08:12:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
元寇の役と北羽鳥の「香取神社」
北羽鳥の「香取神社」を訪ねました。

香取神社ー5

ご祭神は「経津主命(みつぬしのみこと)」で、弘安五年(1282年)に香取神宮から分祀
して創建されたという歴史をもっています。


香取神社ー1

昭和56年に建てられた明神鳥居。

境内への階段の下、鳥居の脚元に2体の庚申塔(青面金剛)が立っています。

香取神社ー2

右側に立つ制作年代不詳の青面金剛像。

香取神社ー3

左側に立つ青面金剛像は天保八年(1875年)の作です。

鳥居の脇には、成田市教育委員会によるこの神社に伝わる伝統芸能についての説明板
が立っています。

「北羽鳥香取神社の獅子舞(成田市指定無形民俗文化財)
毎年4月の第一日曜日、ここ香取神社の祭礼において五穀豊穣を祈って奉納される
伝統芸能です。この獅子舞は風流系の獅子舞といわれる一人立ちの獅子舞で、竜の
頭をいただき、腹に太鼓をつけた大獅子、中獅子、雌獅子の3匹で舞われます。
江戸時代から伝承されてきました。舞は14曲からなる「ほんしば」と、10曲からなる
「花がかり」の2種類で構成され、社殿前の地面に幣束を立て、そこを舞台にします。
「ほんしば」は50分ほど続く舞ですが、獅子舞の見どころの一つになっている雌獅子
を奪い合う踊りも入っています。そして、「花がかり」は、幣束の前で3匹の獅子が1匹
ずつ順番に踊り、最後に大獅子の幣束奉納で終る、25分の舞です。なお、この貴重な
獅子舞を守っていくために、昭和47年に北羽鳥香取神社獅子舞保存会が結成され、
後世に伝える努力が続けられています。」



香取神社ー6

二の鳥居は稚児柱が付いた台輪鳥居。
平成23年12月の建立ですが、以前ここに建っていた木造の鳥居が、平成23年3月の
東日本大震災の時に損壊したため建て直されたものです。
平成16年に出版された「成田の史跡散歩」(崙書房 小倉 博著)には以前の鳥居について
次のように紹介されています。
「石段を登って行くと今度は朱塗りの鳥居がある。この鳥居は、柱頭上に台輪がのせられ
ており、また柱の支えとして四脚の控柱(稚児柱という)がついていることから、これを両部
鳥居と呼んでいる。」
 (P166)


香取神社ー7

手水盤には文政十年(1827年)と刻まれています。


香取神社ー8

「袚戸大神」。
裏面は苔むしていて年代は分かりません。


香取神社ー9

「指定村社 香取神社」の碑は昭和9年の建立です。


 大正9年奉納の御神燈 香取神社ー10
香取神社ー11

香取神社ー12

御神燈の左手に名前が消えてしまった木札が立っている神社があります。


香取神社ー14
香取神社ー15

拝殿も本殿も装飾のないすっきりした造りです。


香取神社ー17
香取神社ー18

弘安五年(1282年)に「香取神宮」より「香取神社」として遷座した際に植えられたと
伝えられる杉の「御神木」。
樹齢は700年以上、幹の周囲は5メートルもあります。
幹には無数の釘痕のようなものがありますが、これは日清・日露・大東亜戦争の際、武運長久
を祈願して絵馬を打ちつけた痕なのだそうです。


香取神社ー19

「奉待十五夜」と刻まれたこの「月待塔」には、「子安神」と書かれた木札が立っています。
年号の部分が○和三癸亥と欠けていますが、癸亥とありますので享和三年(1803年)
でしょう。(もう一つの可能性がある明和三年(1766年)は丙戌でした。)
子どもを抱いているように見えますが、よく分かりません。
特にお顔が崩れているのが残念です。


香取神社ー20

御神木の根元にはたくさんの祠が並んでいます。
宝永、享保、文久等の年号がかろうじて読み取れます。


香取神社ー23

境内の右奥にある「青面金剛尊」の碑には文政八年(1825年)と記されています。


香取神社ー24  稲荷大明神
香取神社ー26  愛宕神社

香取神社ー28
香取神社ー29

カヤの木でしょうか?
上部はこの通りの状態ですが、下からは新たな枝が伸びています。
何か潜望鏡のようですね。


香取神社ー30 神輿蔵には古い神輿が
香取神社ー31

香取神社ー27
香取神社ー32

「香取神社史」には次のような記述があるそうです。
「爰ニ栴檀椿ノ枝ヲ交ヒ、花ノ盛リニハ天紅ヒニ花ノ散ル時ハ地其亦紅ナリ。 依テ豊直三十四
歳直幸十五歳里人ヲ率ヒ花見ノ宴会ス。 時ニ栴檀ノ本ニ異人ノ彷徨ヲ見、衆驚キ怪シム、
豊直進ミ敬礼以テ其ノ来ル由ヲ尋ス。 異人答テ曰ク、吾西国ニ蒙古ノ軍船ヲ破リ香取ノ本宮
ヘノ帰リナルニ、花ノ艶シサニ暫ク立寄リシノミナリ、恐レ怪シムアラント言ヒテ、徐歩シテ
立去ルト見ル間ニ、姿ハ不見成リタリ。 因テ影向在ラセラレタル栴檀ヲ諸人拝礼セシニ年ヲ
経テ枯木相成ツタリ。 因テ爰ニ宮殿ヲ営ミ其ノ栴檀ヲ桶ニ入レ御神体ト崇メ、御内陳ヘ納メ、
年々伊美敷祭祀ヲ営ミ奉仕スル今尚然リ。」
 (原文のまま)
(「成田市史 中世・近世編」 P243)

この北羽鳥の「香取神社」が創建された弘安五年の前年には、「元寇の役」という未曾有の
大事件がありました。
ここに出てくる蒙古の軍船とは元寇の役のことであり、この見知らぬ男とは香取神宮の神で
あったというわけです。
元寇の役に吹いた「神風」について、香取地方にはこんな伝承があります。
「蒙古が攻めてきたとき、香取神宮と鹿島神宮の神馬が忽然と消えてしまった。 そして暫く
するとまた帰って来た。 このとき両軍神は神馬に乗って戦いに向かったのだ。」と。

遠い九州での大事件と、この香取神社がつながっている・・・。
単に伝承とだけで片付けたくない、歴史のロマンを感じます。


香取神社ー32


           ※ 北羽鳥の「香取神社」 成田市北羽鳥2022
              京成成田駅よりコミュニティバス「豊住ルート」
              「豊住郵便局前」下車 徒歩約10分



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豊住村の寺社 | 08:14:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
目で見る昔の成田~成田観光館
今回は、これまでにも何回かチラリと紹介した「成田観光館」です。

観光館ー1
仲の町ー7
観光館ー2

「成田観光館」は表参道の台の坂の真ん中、鰻の「川豊」の向かいにあります。
昭和63年の開館で、蔵造り風のデザインが参道でも目を引く建物の一つです。


観光館ー4

1階のエントランスでは大型スクリーンに成田の観光案内が映し出され、インターネット端末も
数台設置されているので、外人観光客が操作する姿をよく見かけます。
受付では成田に関する種々の案内や相談を受け付けていて、パンフレットも揃っています。
(受付に断れば館内の撮影はOKです。)


観光館ー6
観光館ー7

見学はエレベーターで3階または2階に上がって、1階に下りてくる順路になっています。
3階はイベント室と展示室になっていて、数々の催しが行われます。

2階に下りると2枚の錦絵が目に入ります。

観光館ー8
観光館ー9
初春の成田詣図(2代目国貞)

観光館ー11
観光館ー10
御礼参り贔屓船之図(3代目豊国)

これを見ると、昔から成田詣は庶民にとっての一大イベントだったことが分かります。


仲の町ー8

2階のフロアの真ん中には、昔の成田詣での道中風景がジオラマになって展示されています。


  川越し客の奪い合い 仲の町ー9
観光館ー16
  大絵馬奉納の船旅  仲の町ー10
観光館ー15
   人馬の交換風景  仲の町ー11
観光館ー12
観光館ー13
観光館ー14

馬で行くも良し、駕籠に揺られて行くも良し。


古い写真や絵も沢山展示されています。

仲の町ー12
昭和13年の薬師堂前

仲の町ー13
昭和13年の成田停車場

仲の町ー14
成宗電車(成田と宗吾霊堂間を走りました)

仲の町ー15
甚兵衛渡しの風景

仲の町ー16
大正初期の宗吾霊堂前停車場

観光館ー18
軽便鉄道の機関車(三里塚~八街間を走りました。成田~多古間も走っていました。)

観光館ー20
昭和20年ごろの木炭バス(成田幼稚園の遠足)

仲の町ー17
明治36年の成田線喫茶列車(我孫子~成田間)

    広重の道中風景  仲の町ー18
仲の町ー20
観光館ー17

似たような風景がジオラマの中にありました。


観光館ー21
観光館ー22

江戸時代の成田山です。
台の坂は滑り止めの木材が敷かれていました。
神明山は「アタゴ社」と書き入れられています。
この絵の本堂は現在の「釈迦堂」でしょう。


観光館ー25

2階はこんな感じです。


仲の町ー21 日本武尊(成田山交道会) 
    神武天皇(仲之町) 仲の町ー22

祇園祭で曳き回される山車が展示されています。
展示場所が吹き抜けになっていて、2階から見ても見上げる角度になります。


観光館ー28

1階へ下りる階段の壁面には、成田山のポスターが貼られています。


観光館ー29  
仲の町ー23

千葉県指定の伝統的工芸品の「下総鬼瓦」と、江戸時代の獅子頭(長谷川権頭藤原政義作)


観光館ー36

山車は傍で見るとさすがに迫力十分です。
これを曳いて台の坂を上るのは大変でしょう。

大きなショウケースの中には、山車に載せられていた人形が飾られています。

観光館ー32   鎮西八郎源為朝
将門調伏を命じた朱雀帝 観光館ー33
観光館ー35    素戔嗚尊


仲の町ー26
観光館ー3

外に出ると表参道台の坂は、参拝客の足音、店の呼び込み、鰻を焼く香ばしい煙で、いつもの
賑やかな日常がありました。

参拝の途中で、休憩がてらにちょっと立ち寄ってみてはいかがですか?


             ※ 「成田観光館」 成田市仲町383-1
                JR・京成成田駅から徒歩約15分
                入館無料 休館日月曜日(祭日の場合は翌日)、12月20~31日
                10月~5月  9:00~17;00
                 6月~9月 10:00~18:00



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公園・施設 | 08:04:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
多古の大宮大神
今回は多古町の中心部の高台にある「大宮大神(おおみやだいじん)」を訪ねます。

大宮大神ー44

「大宮大神縁起」とある説明板には以下のように書かれています。
「鎮守の縁起に不詳が多いが、日本開闢は天照大神である。 或る夜不思議の御託宣が
あり、当所の一つの芝原が一夜の中に千本の小松原となった(大同二巳亥年)住民は
村内繁栄の神慮を感じ農業の神とも仰がれている天照大神を伊勢の国より、この地に
勧請し鎮守として本祀する。 今も千本松と言い現在の、社地である。(多古由来記注)
其後新寺御法度に寺号無きは立ちがたき由御触れ相成り俄かに天照山法性寺と書き
改める。 創建は、中世以前と思われる。 明治初年神仏分離により、祭神天照大神は
寺院より分離し通称天照山社名大宮大神となる。」



大宮大神ー41

最近造られた石段の先にちらりと鳥居が見えています。


大宮大神ー43
大宮大神ー2

一の鳥居の先にはまっすぐに参道が伸び、二の鳥居から拝殿までが見渡せます。


大宮大神ー4

手水盤には嘉永元年(1848年)と記されています。
側面には多古藩士を始め、名主や代表者の名前がびっしりと刻まれています。


大宮大神ー45

ここは地元では「てんしょうざん」と呼ばれています。
「多古町名所百選」(平成18年多古町教育委員会発行)では次のように紹介されています。
「多古2572番地に祀られている旧多古村の鎮守である。由緒について「社寺明細帳」には、
祀神天照大神由緒不詳と記されている。城下町らしく、奉納物には藩士の名前が刻まれた
ものが多い。御神体ともいうべき天照皇太神御影軸には、大要次の様に書かれている。
この掛物は文政6年(1823)に再表具したもので、正月祭日と4月のお田植神事の両祭礼日
にだけ別当所に渡すが、その他は御陣屋御宝庫に入置くものである。」
 (P51)

さらに詳しく記すと、
「下総香取郡千田庄多古村鎮守、天照皇太神宮御影、去文政六癸未歳六月中別当
亮貞日遂代再表具。郡奉行堀口孫左衛門定長、桑尾岡右衛門邦貞、小川五郎治敬義。
代官鈴木助左衛門重政、與風文之亟邦和、五十嵐平左衛門利貞、奉納之。毎年正月
祭日、四月御田植之神事節於別当令拝礼。及年数殊大破付改新画表相於江府
出来、当役之面々各寄付奉納之。在勤中、郡奉行吉野要八方哲、寺井仁兵衛邦英、鈴木
忠兵衛正懿。御目附山口平蔵篤直。代官與風半之允邦知、五十嵐平左衛門惟忠、浅野
平作崇道、渋谷定治郎好長。割元柴田長太夫輝邦。御影懸物一幅、両祭礼御神事之
節、別当所相渡、常御陣屋御宝蔵入置申候事。 
于時弘化三丙午載秋八月」
 (「多古町史」中にある明治の「社寺明細帳」より P367)
御神体の天照皇太神御影軸にはこう書かれてるそうです。


大宮大神ー7   平成21年建立
    平成15年建立   大宮大神ー8

思わず「バタ臭い顔だね」と呟いてしまいました。


大宮大神ー9

鮮やかな朱色の本殿は拝殿とはやゝ離れて建っていて、つながっていません。


大宮大神ー16
大宮大神ー11
大宮大神ー12

本殿は四面に色鮮やかな彫刻がはめ込まれています。
何かの物語なのでしょうか?


大宮神社ー14大宮大神ー15
大宮大神ー18
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
延享三年(1746年)の灯篭
大宮大神ー19
大宮大神ー20

拝殿と本殿の間が中庭のように空いていて、木柵にも開口部があり、直接本殿に
お参りすることができました。


大宮大神ー21

深い森の中で本殿の色彩の鮮やかさが一層引き立ちます。


周りにいくつかの祠が散在していますが、風化のためいずれも何の神様かは分かりません。

大宮大神ー23 延享元年の紀年銘
大宮大神ー22


大宮大神ー25

本殿の裏には一段と高くなった塚のような場所がありますが、ここには何もありません。


大宮大神ー27

塚の下、本殿の真裏に風化した祠があります。
「奥の院」でしょうか、場所から考えて何かしら意味のありそうな祠です。


大宮大神ー28

拝殿に貼られていたこの文章には、怒りを抑えながら書いた心情がうかがえます。
「  告 おさい銭どろの君へ
1.おさい銭は皆々様の浄財です
2.皆々様の「心」を折ることはいけません
3.本殿を汚さないで
4.手口は分かっています 警察への届出(済)」



大宮大神ー29
大宮大神ー30

境内にある「聖徳皇太子」の碑(天明三年-1783年)と「山神」の碑(天保九年-1838年)


大宮大神ー39
大宮大神ー40

「大宮大神」のすぐ下には「多古第一小学校」があり、その先には最近開設された保育園と
幼稚園を兼ねた立派な施設の「多古こども園」が見えています。
数年前まではこの道はただの狭い坂道でしたが、宅地の造成に伴って道路が整備され、
国道296号線から町の中心部に抜ける近道となっています。

周りの開発が進む中で、静かな森に囲まれた「大宮大神」はゆったりと歴史を抱えて
多古の町を見下ろしています。


大宮大神ー42

            ※ 「大宮大神」 多古町多古2572
               JR成田駅からJRバス八日市場行き 多古仲町下車徒歩10分





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多古町の寺社 | 07:41:43 | トラックバック(0) | コメント(1)
名古屋の八幡神社
名古屋にある「八幡神社」を訪ねました。

名古屋八幡ー27

「伝承では創建は奈良時代の神護景雲年間といい、また当社では助崎郷の大鎮守で、
千葉一族の助崎信濃守胤信の信仰厚く社殿を改築したという。」
「香取郡誌では『助崎城主大須賀胤信の信仰殊に厚かりしと曰ふ』とある。」

(下総町史 近世編 P414)

神護景雲年間とは西暦767年~770年の間ですから、1250年近くの昔です。


名古屋八幡ー3

鳥居の手前に風化が進んだ石仏がありました。
杉の大木の根元に寄りかかるように立っています。
かすかに読める文字は、「西 なめか○(わ?) 東 おゝす○(が?)」のみですが、道標を
兼ねていたようです。


名古屋八幡ー4

滌水と刻まれた手水磐。
「滌(じょう)」とはあらう、すすぐという意味です。


名古屋八幡ー5

拝殿と本殿は参道とは直角の方向を向いて建っています。

ご祭神は「息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)」「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」
「大鷦鷯命(おおさざきのみこと)」です。
この組み合わせ、どこかで見たことがありませんか?
そう、西大須賀の八幡神社と同じなのです。
(「品陀和気命」は古事記での表記ですが、日本書記では「誉田別命」と記されています。)


名古屋八幡ー6
名古屋八幡ー7

「江戸時代は宝積寺が別当寺であった。 また社地は文禄三年(一五九四)の検地で
縄除地とされた。 また社殿は三間四方で、名古屋の神社中最大であった。」

(下総町史 近世編 P414)
縄除地とは年貢を免除された土地のことです。
現在の姿からは、名古屋地区で一番大きな神社であったことは想像できません。
「名古屋字塔之前にあった。若宮山と号する天台宗の寺で等覚院の末。 天明
六年の村差出明細帳によれば、境内は除地で村内の八幡宮の別当寺であった。」

(下総町史 近世編 P408)
この宝積寺は今は廃寺となっています。


名古屋八幡ー8
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・名古屋八幡ー23
名古屋八幡ー10
名古屋八幡ー9

質素ですが重厚な感じがする本殿には、沢山の「前垂れ締め」が掛けられ、何かの神事で
使われたのでしょうか、藁で造られた動物やいろいろな造り物が供えられています。


名古屋八幡ー12
名古屋八幡ー13
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・名古屋八幡ー17

参道の右手にある稲荷神社。
真裏には「稲荷神 菅原神」と彫られた、傾いた石板が。


名古屋八幡ー14

稲荷神社の傍には「青面金剛」像があり、並んで立つ石碑には寛政十二年(1800年)の
紀年銘が刻まれています。
力強く彫られているので、200年以上も経っているのに遠くからでも読めます。


名古屋八幡ー15
名古屋八幡ー16

青面金剛は三匹の猿が支えていますが、足元には鶏のようなものが見えます。


名古屋八幡ー18

「稲荷神社」、「石板」、「青面金剛」の位置関係は写真のようになります。


名古屋八幡ー19

本殿の横にある「天満宮」。
小さいながらもしっかりとした造りの鳥居があり、頭を下げないとくぐれません。


名古屋八幡ー24
名古屋八幡ー25

このスダジイの古木は満身創痍です。
大きな穴がいくつも開いて、何かが棲み付いていそうです。
江弁須の正蔵院やJR成田駅前、西参道の埴生神社や船形の薬師寺にも、シイの古木が
ありましたが、本当に生命力の強い木です。
江弁須の虚空蔵様~正蔵院 ⇒
歌舞伎役者が舞うJR成田駅東口 ⇒
新緑の三ノ宮埴生神社 ⇒
昔の光いまいずこ-薬師寺 ⇒


名古屋八幡ー26
名古屋八幡ー22
名古屋八幡ー2


良く知られた「西大須賀の八幡神社」から、忘れられたようなここ「名古屋の八幡神社」まで、
「八幡神社」は各地に存在します。
身近な場所にある「八幡神社」を訪ねれば、この「名古屋の八幡神社」で見つけたような
発見があるかも知れませんよ。

名古屋八幡ー29

       
            ※ 「八幡神社」 成田市名古屋678
               JR滑河駅から徒歩約50分
               駅から循環バスがありますが本数は少ないので注意が必要



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小御門村の寺社 | 08:29:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
信仰と権力の狭間に揺れた「潮音寺」
「潮音寺」は富里市にある日蓮宗のお寺で、山号を観久山とする中山法華経寺の末寺です。

潮音寺ー1

「創建の由来は、大同年間(八〇六-八〇九)に駿河国(現静岡県)住の都筑刑部久能と
いう者が観音像を得て小堂に安置し祀っていた。その後祖先の地である本村久能(旧久能村)
に来りてここに小堂を作り遷座し、後久能山観音寺と号する真言宗寺院となったといわれる。」

「天正年間(一五七三-一五九一)覚正の代に中山法華経寺日俒に帰依して改宗、観久山
潮音寺と改めた。」
 (「富里村史 通史編 P628)

遡れば1200年の歴史を有する古刹です。
中山法華経寺日俒は、多古町にある「中村壇林」で有名な「日本寺」の中興の祖と言われて
いて、そのお墓も日本寺にあります。
日本寺 ⇒


潮音寺ー2
潮音寺ー3

本堂正面の柱には龍の彫刻が巻きついています。


潮音寺ー31

本堂の左手に建つ「南無日蓮大菩薩」と刻まれたこの石碑には、文政七年(1824年)
の紀年銘があります。


潮音寺ー5

墓石には、寶永、寶暦、享和、文政、嘉永、文久などの年号が記されています。


潮音寺ー6
潮音寺ー7

本堂と見紛うばかりの、立派な「観音堂」。
寺伝では天正年間(1573~93)の建立としていますが、裏付けとなる資料はありません。
「富里村史」には、工法や様式から17世紀なかば頃の建築で、江戸後期に増改築された
のでははないか、と書かれています。


潮音寺ー13

手水盤には文政元年(1818年)とあります。


潮音寺ー8

文化十四年(1817年)と記された常夜燈。 

潮音寺ー9

「如意輪観音」。
紀年銘の上部が欠けていてますが、「○保三戌」と読めます。
とすると、享和三年(1803年)が正解でしょう。


潮音寺ー10

天明四年(1784年)の紀年銘がある題目塔。
この年には筑前国の志賀島で「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」と刻まれた
国宝の王印が発見されました。
前年には浅間山が大噴火し、天明二年から続いていたいわゆる「天明の大飢饉」がさらに
深刻化した年でもあります。


潮音寺ー11
 「法寿之鐘奉献記」の碑 潮音寺ー34
潮音寺ー35

「法寿之鐘」と名付けられた鐘の由来は、概略こう記されています。
「宝暦五年(1755年)に鋳造された鐘は戦争中の昭和17年に供出されてしまいましたが、
昭和47年に新たにこの鐘が鋳造され、30年ぶりに除夜の鐘が鳴り響いた。」


潮音寺ー14
潮音寺ー15
潮音寺ー16

永代供養塔の前にある献香台は、二匹の鬼が支えています。
その重さに鬼の顔が歪んでいます。


潮音寺ー36

休憩所脇にある明治22年の「馬頭観世音」の板碑。


潮音寺ー17
潮音寺ー18

境内の真ん中にある休憩所には、「ぼけ封じ 関東三十三観音霊場 第一番札所」の看板。
千葉、東京、埼玉、茨城、群馬、栃木の33の「観音菩薩」を祀るお寺からなる札所です。
結願寺は茨城県稲敷市の「慈雲山無量寿院逢善寺」になります。


潮音寺ー19

「ぼけ封じ観音大菩薩」です。
二人の老人が観音様の足にすがりついている、何とも生々しい構図です。


潮音寺ー22

慈母観音像の足元にも大勢の子どもが纏わりついています。
背後には水子地蔵が見えます。


潮音寺ー28

この題目塔には天明元年(1781年)の紀年銘が刻まれています。


潮音寺ー24  境内の一角にあるペット霊園
潮音寺ー25

潮音寺ー26

「富里村史」に興味ある資料が紹介されています。
「『三宅島流人在命帳』という史料に次の記載がある。

明和六年十月二十二日
不受不施  三宅
天明三年十一月十五日御奉書到来 御免流人ノ内野州都賀郡東水代村源兵衛伜
千吉ト申者相頼、不受不施ニ罷成候御諌書指出、千吉儀ハ江戸入牢被仰付 
日照儀ハ右御吟呼之上不届ニ付、天明五年巳四月二十四日神宮丸ニテ御下知
被仰渡候御書付到来、神津島ヘ島替被仰付下候
  天明五年六月九日 神津島ヘ送ル
   下総国印旛郡久能村観久山 
                                  潮音寺隠居
                                        日  照  伊  谷
                                          丑五十二歳

これは当時キリスト教とともに江戸幕府の禁教である不受不施(日蓮宗の一派)を信仰
していた罪により、三宅島に島流しされていた潮音寺隠居日照が、反省することなく
ご赦免流人千吉を使って諌言書を箱訴したので、さらに小さな神津島に島替えを命ずると
いう内容である。 日照はその後も自分の気持ちを偽らずに不受不施を信仰し、また島民に
文字を教えたりして島民の崇敬を集めたという。 今日、神津島流人墓地には最大の墓が
建立されており、富里では傑出した人物の一人である。」


不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者からは不施を
受けず、また法施などを施さないという宗派のことです。
文禄五年(1595年)に豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養のために各宗派に出仕を
命じた際、日蓮宗内部の不受不施の教義を守って出仕を拒もうとする一派が、宗門を
守るために出仕を受け入れようとする教団に反旗を翻し、弾圧の対象となりました。
以後、明治9年に政府によって公認となるまで、邪宗派として隠れキリシタンと同様の境遇
に置かれていました。


潮音寺ー33

信仰と権力の狭間に翻弄された昔を思えば、今は穏やかな時が流れる境内です。


潮音寺ー27


          ※ 「観久山潮音寺」 富里市久能522-1
            京成成田駅から千葉交バス 久能・両国行き 久能下車徒歩2分




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富里市の寺社 | 07:41:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
「福は内」だけの成田山節分会
今回は去る2月3日に行われた「成田山せつぶんえ」の様子をお伝えします。

節分ー13

「節分」は雑節の一つで、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことです。
季節の終わりの日ということになります。
江戸時代頃から、立春の前日のみが「節分」と言われるようになりましたが、本来は年4回
の「節分」があったわけです。
季節の変わり目には邪気(邪鬼)が出ると考えられていて、これを追い払う儀式が行われます。


節分ー1

豆撒きが始まる1時間も前から、お坊さんが節分の由来や本日の手順などを説明しています。
今日の特別ゲストの名前を読み上げると、どよめきが広がりました。
大相撲の横綱白鵬、大関稀勢の里、前頭隠岐の海、前頭遠藤の四力士、NHK大河ドラマの
出演者の井上真央、東出昌大、伊勢谷友介、優香、長塚京三の計9名が地元有力者や
年男らとともに豆を撒きます。


節分ー12
節分ー4
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・節分ー40
大本堂の階段の上には祭壇が設けられ、震災で被災した陸前高田市の杉で作られた
大きな「勝御守」が置かれています。
下は御札売り場で500円で売られている御守り札です。
500円の内の100円が陸前高田市に寄付されます。


節分ー19
節分ー20
節分ー21
境内は人でいっぱいです。
大本堂の階段から香堂に向かって、芝居の花道のように舞台が造られています。
舞台に近い場所にいる人たちは豆を撒く力士や芸能人が良く見え、豆もキャッチできる
でしょうが、身動きできないくらい窮屈そうです。
舞台から遠い人は力士や芸能人は良く見えないでしょうし、豆も届かなそうです。


節分ー2

機動隊員も大勢出て警備にあたっています。


節分ー6
                                            横綱 白鵬
節分ー9
                                            大関 稀勢の里
節分ー7
                                             前頭 隠岐の海
節分ー8
                                             前頭 遠藤

大相撲の力士たちが階段の上に並びました。
さすがに大きな体です。


節分ー24
節分ー25

NHK大河ドラマの出演者たちも記念撮影のために並び始めました。
見物客からは時折黄色い声援が湧き起こります。


節分ー11
節分ー26

豆撒きに参加する年男(女)の皆さんも参加しての記念撮影が始まりました。
こうしてみても大相撲の力士たちは頭一つ二つ抜きん出ています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・節分ー22
節分ー23
節分ー10

お坊さんの吹く法螺貝の先導で大僧正が登場します。


節分ー28

記念撮影の後、本堂内での読経が始まります。
三重塔、一切経堂、鐘楼の前にも大勢の人が集まっていますが、ほんのひと時
スピーカーから流れる読経に聞き入って、動きが止まっています。


節分ー16

この豆撒きは「震災に勝つ!福は内!」と叫びながら行う、「特別追儺豆まき式」です。
この式の他に、年男(女)の皆さんが本堂内のお不動様の前で豆を撒く「開運豆まき」も
行われています。
成田山では「鬼は外!」とは唱えません。
御本尊の不動明王の前では、鬼も改心ししてひれ伏すからだそうです。

この日、撒かれる大豆は860キロ、殻付の落花生が400キロです。
その他にこの日のために用意された「節分會福御守」(剣守)が1095枚(1年の日数の365×
3回の豆まき式)撒かれます。

節分の行事は平安時代の追儺(ついな)が始まりだと言われています。
宮中で大晦日に行われていた「鬼やらい」が変化し、民間に伝わったのでしょう。
宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が都に下りてきて悪さをするので、豆で目を打って
追い払ったという伝説が残っていますが、このころから豆撒きが始まったようです。


節分ー32
節分ー29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・節分ー30
大きな手で豪快に撒く力士の枡の中はみるみる空になって行きますが、役者さんたちの
枡にはまだ沢山の豆や剣守が残っています。


  憮然とした表情の二人 節分ー15
節分ー17
突然警官の吹く笛で豆撒きが中断されたのです。
誰かが落ちた豆を拾おうとしゃがんだようです。
警備の警官からは倒れたように見えるのでしょう、繰り返し「途中でしゃがまないでください」と
注意がアナウンスされて再開です。


節分ー18
節分ー31
節分ー33

警官の制止もなんのその、湧きあがる歓声と押し合いへしあいの中、豆撒きは終わりました。

節分ー36
節分ー38

次の回に備えて早くも陣取りをする人、御参りを済ませて帰路につく人・・・。
ざわついた境内に豆撒きの余韻が残ります。


節分ー39
                                         撒かれた豆と剣守

ここ30年以上は2月4日が立春で、節分は2月3日でした。
難しいことは分かりませんが、立春は地球が天球上の黄経315°の点を通過する時
なのだそうです。
天体の動きによって決まっているのならば、多少の変動は当然あるわけです。
1980年や1984年は2月4日(立春は2月5日)でしたし、東京オリンピックの翌年の
2021年は2月2日になります。
立春をはじめとする二十四節気、そして節分や彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、
土用、二百十日、二百二十日の九雑節など、日本人は微妙な季節の移り変わりを敏感
に感じて暮らしてきました。
でも、最近の地球温暖化と異常気象のせいか、季節感がなくなってきたように思われます。
それぞれにささやかな祭事があったはずですが、その多くは忘れられてしまいました。
「節分」は生き残っている数少ない祭事ですが、なんとか後世に伝えて行きたいものです。




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成田山 | 07:55:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
資料が見つからない「耀窟神社」
前回紹介した八幡神社の「西大須賀の神楽」で、「湯立て神事」が行われる「耀窟神社
(ようくつじんじゃ)」を訪ねました。

耀窟神社ー1

県道からちょっと入ったところに鳥居があります。
民家の間の駐車場のようなスペースなので、気を付けていないと見過ごしそうです。


耀窟神社ー2

昭和42年に建てられた立派な社号標です。
「耀窟大明神」は読めましたが、もう一つが読めません。
裏に記された由来(?)を何とか読んでみて分かりました。
「若宮八幡宮」です。

長文ですが、その一部を抜き出すと、
「従五位上斯波毛野飛彈守尊親ハ皇紀九十九代後亀山天皇第三皇子小倉宮良泰親王ノ
曾孫ナリ ・・・・・ 文亀辛酉年同月日父尊親ト共ニ西大須賀ニ於テ誘殺 等覺照卋童男
神際 若宮八幡宮 右ハ王源斯波宗統譜ニ據リテ
昭和四十二年八月下野国晃陽郷長野城址住南朝皇胤第廿六代昇謹誌崇祖王源會建立
栃柿泉町 福原弘念刻」

と書かれています(誤読があるかも知れません)。

何やら良く分かりませんが、南北朝時代の後亀山天皇の第三皇子であった小倉宮良泰親王
(南朝第百代天皇・招慶院天皇)の曾孫にあたる「毛野飛騨守尊親」が、文亀元年(1501年)
にこの地で謀殺されたようです。
南北朝時代は、1392年(南朝・元中九年、北朝・明徳三年)に足利義満により南北朝が統一
されて両統迭立となり、一応の決着をみましたが、その後も火種が尽きずに、100年後には
遠く下総の地でもこのような事件が起きていたのですね。


耀窟神社ー3
耀窟神社ー4

長い石段が続きます。


耀窟神社ー5
耀窟神社ー7 - コピー

128段登ったところに「金毘羅社」がありました。
荒れ果てています。


耀窟神社ー6

脇にあるこの祠には㊎とあります。
明治20年の紀年銘がありました。


耀窟神社ー8 - コピー

さらに78段。
大木に寄りかかるように小さな祠が見えます。
風化が進んで何のお宮かは分かりません。


耀窟神社ー9

やっと登り切った先に参道が続きます。


耀窟神社ー10

明治33年に建てられた「阿夫利神社」。

耀窟神社ー11

「耀窟神社」の創建は不詳です。
ご祭神は「稜威尾羽張神(いつおわりばりのかみ)」であることと、「湯立て神事」が行われる
こと以外に、この神社に関する資料は見つかりません。
(前回の八幡神社の項でも紹介しました「ぜんまいねずみ」さんのブログ「ぐるり房総」の中に
「湯立て神事」の写真があります。)
西大須賀の神楽(ぐるり房総)⇒ 

「下総町史」にもこの神社に関する資料は無く、千葉県や成田市の神社リストにもありません。
成田市の無形民俗文化財に指定されている「西大須賀の神楽」の説明にも、神社名が出て
くるだけで、神社の説明はありません。

ウィキペディアで、江戸時代の下総地方の名士「赤松宗旦」(1806~62)に関する記事の
中に、耀窟神社の名前を見つけましたが、旅の途中に立ち寄ったと言うだけの記述でした。


耀窟神社ー13
耀窟神社ー17

小振りな本殿は装飾も無く、素っ気ない感じです。


耀窟神社ー14
耀窟神社ー15

本殿の裏には崩れかけた祠が散在しています。
その中の一つに、「寛延」(1748~50)の年号が読めました。


耀窟神社ー16

明治43年と記された「耀窟神社之跡」の碑。
「耀窟神社」は何らかの理由で消失し、この碑が建てられた後、大正に入ってから拝殿と本殿
が再建されたのでしょうか?


耀窟神社ー22
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・耀窟神社ー23
耀窟神社ー24

神社の真上を着陸態勢に入った旅客機が横切ります。
静かな境内の空気がビリビリと振動します。


耀窟神社ー28

ここには昔城があったとも言われていますが、それらしき気配は感じられません。
ただ鬱蒼とした森が覆う台地です。


耀窟神社ー25
耀窟神社ー26

神社の裏手の森を進むと、利根川から茨城方向が見渡せます。
こうしてみると、確かに城があってもおかしくない立地です。


耀窟神社ー27
耀窟神社ー19

この神社には、「湯立て神事」が行われるとき以外は、お参りする人もほとんどいないように
思えます。
この辺りには横穴式の墳墓があり、神社との関連や城の存在、さらに、社号標の記述などを
調べて行けば意外な歴史が掘り起こせるかもしれません。


耀窟神社ー29


        ※ 「耀窟神社」 成田市西大須賀1892
           JR成田線滑河駅より徒歩約30分
           しもふさ循環バス西大須賀下車 徒歩約10分 駐車場なし


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滑河町の寺社 | 07:50:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
西大須賀の八幡神社と神楽
今回は、西大須賀の八幡神社を訪ねました。

八幡神社ー2

ご祭神は「大鷦鷯命(おほさざきのみこと)」「息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)」、
誉田別命(ほんだわけのみこと)の三神です。
「息長帯比賣命」は「三韓征伐」で知られる「神功皇后」のこと。
「誉田別命」は応神天皇のこと。
神功皇后の子で、その実在が信じられる最初の天皇だと言われています。
「大鷦鷯命」は応神天皇の子で、「仁徳天皇」のこと。
民の家のカマドから炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間にわたって租税を
免除し、その間は宮殿の屋根の葺き替えを行わないなど自らも倹約に努めたという
逸話で有名な天皇です。
親子三代が祀られているわけです。


八幡神社ー4
八幡神社ー3

何とも可愛らしい狛犬です。
狛犬と言うより子犬ですね。


八幡神社ー6

手水盤には元文四年(1739年)の紀年銘があります。

八幡神社ー5
八幡神社ー7
 まるで散歩中の子犬です 八幡神社ー41
八幡神社ー40


手水舎の隣には先代の(?)狛犬が並んでいます。
風化で表情は分かりませんが、現在の狛犬同様に可愛らしい感じです。
台座には明治2年と彫られています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八幡神社ー8
八幡神社ー9
天保九年(1838年)の御神燈。


八幡神社ー10
八幡神社ー11
八幡神社ー12

「社伝によれば天元五年(982)の創建といい、中世には千葉支族大須賀氏の尊崇を
受けて栄えたと伝える。また、明治時代の社寺明細帳等によれば、永長元年(1096)
の古文書を有する旨記されているが、現在は所在不明である。いずれにせよ、当社は
江戸時代以前から続く古社である。」
(下総町史 通史近世編 P411)

千年以上の歴史を有する「八幡神社」には、成田市の無形民俗文化財に指定されている
「西大須賀の神楽」と言われる民俗芸能が伝わっています。
「江戸時代より受け継がれてきた獅子舞で、西大須賀のここ八幡神社と耀窟神社
の春の例祭(4月15、16日前の土曜日、日曜日)に西大須賀神楽保存会によって
奉納されます。現在下総地区で唯一伝承されている獅子舞であり、『剣の舞・悪魔払い・
怒(病気・怪我などの患部を噛んで治す治療の舞)』の3部で構成されています。
耀窟神社の湯立て神事と古くから同一行事であったと考えられており、伊勢系の神楽
として古式様式を残す貴重な民俗芸能です。」
(境内の説明板)

八幡神社ー35
                                                  (布舞)
八幡神社ー36
                                                 (剣の舞)
(「ぐるり房総」の「ゼンマイねずみ」さんから許可をいただいて転載しました。)
西大須賀の神楽(ぐるり房総)⇒ 

初日は村々を神楽櫃(かぐらびつ)を曳き回して八幡神社に向かい舞を奉納します。
二日目は神楽櫃を曳き回した後に耀窟神社(ようくつじんじゃ)で湯立て神事が行われ、
舞が奉納されます。
(「耀窟神社」へは次回訪ねる予定です)


八幡神社ー17

本殿もなかなか大きな造りで、見事な木組みが見えます。


八幡神社ー18

鰹木は3本で男神(「誉田別命」「大鷦鷯命」)を表していますが、千木は水平切りで
女神(「息長帯比賣命」)を表しています。


八幡神社ー21
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・八幡神社ー29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
拝殿と本殿を囲むように多くの祠や崩れた板碑・石碑が並んでいます。


八幡神社ー13     「久志社」
八幡神社ー14     「子安社」


八幡神社ー15

割れて倒れた板碑にはびっしりと漢文が彫られています。
読めるところだけを拾い出すと、(写し間違いがあるかもしれません)
「宗祗者紀伊産姓中臣氏・・・・・充母藤氏也祈乎玉津島神・・・・・祗也自童而・・詩歌全是
・・・・・東常緑而・・和歌衆集・・・・・比曳杖乎東国而既過乎駐乎詩歌而・・後人感焉・・・・・
春也余旅遊乎此也・・・・・右飯塚・・・・・」
 と読めます。
裏面に和歌のような文字が見えますので、誰かが詠んだ和歌についての板碑なのでしょう。
(掘り起こして読んでみたい誘惑に駆られますが、それはルール違反ですね。)


   崩れた祠や板碑  八幡神社ー16
八幡神社ー20

八幡神社ー19

「猿田彦大神」。
猿田彦は天孫降臨の際に道案内をした神で、道祖神と同一視されます。
鼻の長さが七咫(咫は親指と中指を広げた長さ)もあったと伝えられることから、天狗の
原型であるとも言われています。


八幡神社ー22

昭和13年に建立された、当時の農林大臣・島田俊雄題掲とある「櫻井直蔵翁頌徳碑」。
この地域の治水事業に功績のあった人物のようです。


八幡神社ー25離れた場所にある「石上社」


八幡神社ー37

裏参道の鳥居。
こちらが県道に面していて、表参道のように見えますが、この奥の道から入るのが
表参道になります。


八幡神社ー33
八幡神社ー32

神社の前には田んぼが広がり、その先に根木名川の堤防が見えています。
ほんの少し右手に行けば、利根川との合流点になります。


八幡神社ー24
八幡神社ー31

「天正十九年(1590)には、徳川家康から一〇石の土地を与えられ、以後幕末に至るまで
朱印地として継続した。」
 (「下総町史 通史近世編 P411)

平地に鎮座している「八幡神社」の境内には、根木名川からか、それとも利根川からか、
さわやかな川風が吹き抜けて行きます。


八幡神社ー34


            ※ 「八幡神社」 成田市西大須賀1426
              JR成田線滑川駅から徒歩約40分
              コミュニティバス(水掛ルート)がありますが、本数がありません。
              県道161号線の裏側の道が正面です。 駐車場あり(5台)。



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滑河町の寺社 | 09:40:54 | トラックバック(0) | コメント(4)