
「正蔵院」は山号を「妙見山」とする真言宗豊山派のお寺です。
日本で最初に大僧正となった行基(669~749)によって天平十一年(739年)に
開山されたと伝えられています。
「成田市史」中に収載されている「公津村史」には正蔵院について次のような記述があります。
「本院ハ真言宗ニシテ東勝寺ノ末寺ナリ。創立紀年詳カナラズ。本尊ハ虚空蔵菩薩ニシテ
其尊像ハ行基菩薩ノ作ナリト言ヒ傳フ。」
他の資料でも成田市の指定文化財となっている「虚空蔵菩薩坐像」を本尊としていますが、
小倉 博氏は本尊は「大日如来」であると記しています。(「成田の史跡散歩」P91)

「公津村史」には次のような記述もあります。
「本院ハモト千葉家ノ祈願寺ニシテ檀家ト云フモノナカリシカバ、當區全戸数ハ
三十二戸ナルモ其多クハ法華宗ニシテ、東勝寺(真言宗)ニ属スルモノ僅カニ
五、六戸ニ過ギズ。」
「明治維新ノ際初メテ檀家ヲ募リ、追々増戸、現今ハ成木新田及飯田新田ニ於テ約
二十戸ノ檀家ヲ有ス。」
「正蔵院」は現在は宗吾霊堂として知られる東勝寺(真言宗)の末寺ですが、千葉氏の
祈願寺であったため、檀家を持っていませんでした。
もともと区内の32戸の多くが法華宗徒で真言宗徒は5、6戸でしかなかったようです。
明治時代になってから檀家を募り、以降その数を増やしてきました。

本堂脇に建つ石板には次のようにあります。
「当院境内に勧請し奉る智恵福徳の広大無辺な虚空蔵菩薩は日本最初の大僧正に
なった人、行基(西暦670-749)の彫刻で福智授与の誓願安産・育児の霊験、殊に
あらたかにして現に数万の信徒を有する当山は天平十一年(738)行基の開山にて
境内幽遂老杉天を摩し、堂閣荘重、古色蒼然、実に森厳なる霊地なりしが、惜哉、元禄
年間火災に被り全焼烏有に帰せり、今の本堂は大正十五年に再建されたものである。」
(原文のまま)
境内には本堂より立派に見える「虚空蔵堂」があります。



このお寺は「江弁須の虚空蔵様」として知られています。
福徳と知恵が授かり、安産・育児の神様として、多くの信者が「虚空蔵堂」を訪れます。
「効験甚ダ顕著ニシテ主ニ福徳知恵ヲ得セシメ、就中婦人ノ安産小児ノ健全ヲ守護シ給フ、
現ニ千人ノ信徒ヲ有シ縁日ハ毎月十三日ナルモ𦾔暦正月十三日ノ如キハ信徒群衆區内
挙テ饗應ニ奔走ス。」 (公津村史)

享和四年(1804年)と刻まれている手水盤。

常夜燈には文化十三年(1816年)と記されています。



本堂の前にスダジイの古木があります。
根元は空洞化し、わずかに根元が残っているだけですが、上部には葉が茂り、
根元からは若い芽を伸ばしています。
すばらしい生命力です。


「虚空蔵堂」の右手にあるお堂には風化でお顔が平たくなった仏様がおられます。
台座にある紀年銘は、文政十一年(1828年)と読めるような気がします。
仏様はお遍路さんが装束の背中に書く「南無大師遍照金剛」の襷を掛けています。
消えかけた木札には「四国霊場第十二番焼山寺移す」とありました。
「焼山寺(しょうざんじ)」は難所で知られる徳島県神山町にある四国霊場十二番の真言宗の
お寺で、ここも「虚空蔵菩薩」が御本尊です。
「のちの世を 思えば苦行焼山寺 死出や三途の 難所ありとせ」との歌も添えられています。


お堂の奥にある小さな墓地。
彫られた文字はほとんど読めませんが、お坊さんのお墓のようです。

「不生位」と読めます。
「不生位(ふしょうい)」とは、真言宗の僧侶の位牌に書かれる「悟りの世界」を表す位号で、
「死は永遠の悟りの世界に入ることである」という意味です。


境内の藤棚を軽快に飛び跳ねているシジュウカラを見つけました。
回りは開発が進んだ住宅街ですから、近くの「皇産霊神社」(前回掲載)とこの「正蔵院」の
森が、僅かに残った羽根を休められる場所なのかも知れません。


「虚空蔵様」と言えば「鰻」ですね。
磐裂神社の項で紹介しましたが、「虚空蔵様」の地域の人々は「虚空蔵様の使い」とされて
いる鰻を決して口にしません。
「虚空蔵堂」の中を覗かせていただくと、鰻が描かれた奉納額がたくさん掲げられています。
「故ニ当區内ノ者は宗旨ノ如何ニ關ラズ、又男女老少ノ別ナク決シテ鰻ヲ食スル者ナク、
他郷ニ転籍スルモ亦同ジ、サレバニヤ彼ノ円滑ニシテ且ツ力アル鰻スラ当區内ノ者ニハ
何處テモ二本指ニテ挾ミ得ル由。」 (公津村史)
近くの池に棲む鰻は、捕まえられても殺されることがないので、二本指で挟むことができる
と書かれています。
今も池に棲んでいるとすれば、近くの成田山の門前では毎日大量の鰻が消費されている
のですから、何とも幸せな鰻たちですね。
奈土のオビシャとウナギ ⇒

※ 「正蔵院」 成田市江弁須295
京成公津の杜駅から徒歩約15分