(ようくつじんじゃ)」を訪ねました。

県道からちょっと入ったところに鳥居があります。
民家の間の駐車場のようなスペースなので、気を付けていないと見過ごしそうです。

昭和42年に建てられた立派な社号標です。
「耀窟大明神」は読めましたが、もう一つが読めません。
裏に記された由来(?)を何とか読んでみて分かりました。
「若宮八幡宮」です。
長文ですが、その一部を抜き出すと、
「従五位上斯波毛野飛彈守尊親ハ皇紀九十九代後亀山天皇第三皇子小倉宮良泰親王ノ
曾孫ナリ ・・・・・ 文亀辛酉年同月日父尊親ト共ニ西大須賀ニ於テ誘殺 等覺照卋童男
神際 若宮八幡宮 右ハ王源斯波宗統譜ニ據リテ
昭和四十二年八月下野国晃陽郷長野城址住南朝皇胤第廿六代昇謹誌崇祖王源會建立
栃柿泉町 福原弘念刻」
と書かれています(誤読があるかも知れません)。
何やら良く分かりませんが、南北朝時代の後亀山天皇の第三皇子であった小倉宮良泰親王
(南朝第百代天皇・招慶院天皇)の曾孫にあたる「毛野飛騨守尊親」が、文亀元年(1501年)
にこの地で謀殺されたようです。
南北朝時代は、1392年(南朝・元中九年、北朝・明徳三年)に足利義満により南北朝が統一
されて両統迭立となり、一応の決着をみましたが、その後も火種が尽きずに、100年後には
遠く下総の地でもこのような事件が起きていたのですね。


長い石段が続きます。


128段登ったところに「金毘羅社」がありました。
荒れ果てています。

脇にあるこの祠には㊎とあります。
明治20年の紀年銘がありました。

さらに78段。
大木に寄りかかるように小さな祠が見えます。
風化が進んで何のお宮かは分かりません。

やっと登り切った先に参道が続きます。

明治33年に建てられた「阿夫利神社」。

「耀窟神社」の創建は不詳です。
ご祭神は「稜威尾羽張神(いつおわりばりのかみ)」であることと、「湯立て神事」が行われる
こと以外に、この神社に関する資料は見つかりません。
(前回の八幡神社の項でも紹介しました「ぜんまいねずみ」さんのブログ「ぐるり房総」の中に
「湯立て神事」の写真があります。)
西大須賀の神楽(ぐるり房総)⇒
「下総町史」にもこの神社に関する資料は無く、千葉県や成田市の神社リストにもありません。
成田市の無形民俗文化財に指定されている「西大須賀の神楽」の説明にも、神社名が出て
くるだけで、神社の説明はありません。
ウィキペディアで、江戸時代の下総地方の名士「赤松宗旦」(1806~62)に関する記事の
中に、耀窟神社の名前を見つけましたが、旅の途中に立ち寄ったと言うだけの記述でした。


小振りな本殿は装飾も無く、素っ気ない感じです。


本殿の裏には崩れかけた祠が散在しています。
その中の一つに、「寛延」(1748~50)の年号が読めました。

明治43年と記された「耀窟神社之跡」の碑。
「耀窟神社」は何らかの理由で消失し、この碑が建てられた後、大正に入ってから拝殿と本殿
が再建されたのでしょうか?

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神社の真上を着陸態勢に入った旅客機が横切ります。
静かな境内の空気がビリビリと振動します。

ここには昔城があったとも言われていますが、それらしき気配は感じられません。
ただ鬱蒼とした森が覆う台地です。


神社の裏手の森を進むと、利根川から茨城方向が見渡せます。
こうしてみると、確かに城があってもおかしくない立地です。


この神社には、「湯立て神事」が行われるとき以外は、お参りする人もほとんどいないように
思えます。
この辺りには横穴式の墳墓があり、神社との関連や城の存在、さらに、社号標の記述などを
調べて行けば意外な歴史が掘り起こせるかもしれません。

※ 「耀窟神社」 成田市西大須賀1892
JR成田線滑河駅より徒歩約30分
しもふさ循環バス西大須賀下車 徒歩約10分 駐車場なし