
「伝承では創建は奈良時代の神護景雲年間といい、また当社では助崎郷の大鎮守で、
千葉一族の助崎信濃守胤信の信仰厚く社殿を改築したという。」
「香取郡誌では『助崎城主大須賀胤信の信仰殊に厚かりしと曰ふ』とある。」
(下総町史 近世編 P414)
神護景雲年間とは西暦767年~770年の間ですから、1250年近くの昔です。

鳥居の手前に風化が進んだ石仏がありました。
杉の大木の根元に寄りかかるように立っています。
かすかに読める文字は、「西 なめか○(わ?) 東 おゝす○(が?)」のみですが、道標を
兼ねていたようです。

滌水と刻まれた手水磐。
「滌(じょう)」とはあらう、すすぐという意味です。

拝殿と本殿は参道とは直角の方向を向いて建っています。
ご祭神は「息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)」「品陀和気命(ほんだわけのみこと)」
「大鷦鷯命(おおさざきのみこと)」です。
この組み合わせ、どこかで見たことがありませんか?
そう、西大須賀の八幡神社と同じなのです。
(「品陀和気命」は古事記での表記ですが、日本書記では「誉田別命」と記されています。)


「江戸時代は宝積寺が別当寺であった。 また社地は文禄三年(一五九四)の検地で
縄除地とされた。 また社殿は三間四方で、名古屋の神社中最大であった。」
(下総町史 近世編 P414)
縄除地とは年貢を免除された土地のことです。
現在の姿からは、名古屋地区で一番大きな神社であったことは想像できません。
「名古屋字塔之前にあった。若宮山と号する天台宗の寺で等覚院の末。 天明
六年の村差出明細帳によれば、境内は除地で村内の八幡宮の別当寺であった。」
(下総町史 近世編 P408)
この宝積寺は今は廃寺となっています。

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質素ですが重厚な感じがする本殿には、沢山の「前垂れ締め」が掛けられ、何かの神事で
使われたのでしょうか、藁で造られた動物やいろいろな造り物が供えられています。


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参道の右手にある稲荷神社。
真裏には「稲荷神 菅原神」と彫られた、傾いた石板が。

稲荷神社の傍には「青面金剛」像があり、並んで立つ石碑には寛政十二年(1800年)の
紀年銘が刻まれています。
力強く彫られているので、200年以上も経っているのに遠くからでも読めます。


青面金剛は三匹の猿が支えていますが、足元には鶏のようなものが見えます。

「稲荷神社」、「石板」、「青面金剛」の位置関係は写真のようになります。

本殿の横にある「天満宮」。
小さいながらもしっかりとした造りの鳥居があり、頭を下げないとくぐれません。


このスダジイの古木は満身創痍です。
大きな穴がいくつも開いて、何かが棲み付いていそうです。
江弁須の正蔵院やJR成田駅前、西参道の埴生神社や船形の薬師寺にも、シイの古木が
ありましたが、本当に生命力の強い木です。
江弁須の虚空蔵様~正蔵院 ⇒
歌舞伎役者が舞うJR成田駅東口 ⇒
新緑の三ノ宮埴生神社 ⇒
昔の光いまいずこ-薬師寺 ⇒



良く知られた「西大須賀の八幡神社」から、忘れられたようなここ「名古屋の八幡神社」まで、
「八幡神社」は各地に存在します。
身近な場所にある「八幡神社」を訪ねれば、この「名古屋の八幡神社」で見つけたような
発見があるかも知れませんよ。

※ 「八幡神社」 成田市名古屋678
JR滑河駅から徒歩約50分
駅から循環バスがありますが本数は少ないので注意が必要