
「千葉県神社名鑑」には、
「祭神 鹽土翁之命(しおづちのおきなのみこと) 本殿・瓦葺三坪 幣殿・亜鉛板葺三坪
拜殿・瓦葺八坪 境内坪数四〇六坪 氏子 六〇戸」
と記載されています。
六所神社は全国に分布していますが、六柱の神様を祭神とすることからこの神社名になった
とされ、近隣では多古町にある「六所大神」が、伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・素戔嗚尊・
月読尊・蛭子尊の六神を祭り、匝瑳市にある「六所神社」は、伊邪那岐大神・伊邪那美大神・
天照大神・素盞鳴男大神・月讀大神・蛭子大神と、多古と同じ神様をご祭神としています。
この竜台の六所神社のご祭神がなぜ一柱だけなのかは分かりません。
「鹽土翁之命」は、古事記では「塩椎神」、日本書紀では「塩土老翁」または「塩筒老翁」と
表され、伊邪那岐(伊弉諾)の子で、海路の神とされています。


「六所神社」へは急な山道を200メートルほど登らなければなりません。
途中に「疣神」(いぼがみ)と記した石碑があり、周りには多くの柄杓がぶら下げられています。
その中には柄の部分に「治りました ありがとうございました」と書かれたものもあります。
神水をかけると疣が取れるとされ、取れたらお礼に柄杓を奉納する風習がある「疣神」のこと
は良く聞きますが、ここには湧水も何もありません。(涸れてしまったのでしょうか?)

明神鳥居から真っ直ぐに社殿に向かう参道が伸びています。
鳥居は昭和12年の寄進です。

鳥居の脇に「指定社六所神社」と刻まれた、昭和12年建立の石碑が立っています。
指定社とは「神饌幣帛料供進神社」のことを指していると思われます。
大東亜戦争の終戦時まであった神社の社格の内、官幣社は皇室から、国弊社は国庫から
幣帛が供進され、諸社の府県社・郷社・村社に対しては地方公共団体から幣帛が供進され
ていました(無格社は対象外)。
ただ、村社の中でも供進を受けられない神社もあって、由緒などが考慮されていたようです。


篠田惣兵衛建立鳥居跡址の碑

拝殿までの間には、手水盤と「篠田惣兵衛建立鳥居跡址」と記された石碑があります。
「大正十二年十月吉日」と併記され、裏面に「2013年竜台自治会」とあります。
私の頭の中に勝手にストーリーが組み上がります。
大正十二年(1923)十月に建てられたことには事情があったはずです。
一か月前の九月一日には未曾有の被害をもたらした関東大震災がありました。
古い鳥居は倒壊したか破損したに違いありません。
そんな時に篠田惣兵衛という人がこの場所に鳥居を寄進したことで、神社の佇まいが少し
でも取り戻せたとしたら、村民は大いに喜び感謝したことでしょう。
鳥居は「惣兵衛鳥居」などと呼ばれたかもしれません。
平成20年に現在の新たな鳥居を建てた際に、地元の自治会が惣兵衛への感謝を込めて、
顕彰碑の意味でこの碑をここに置いたのではないでしょうか。
何気ない一つの石碑や石仏を見ながら、勝手に隠れたストーリーを空想するのも、寺社巡り
の楽しみの一つです。

「千葉縣印旛郡誌」中の「豊住村誌」に、この「六所神社」についての記載があります。
「龍臺村字箸木山にあり鹽筒翁父命を祭る創立不詳に候得共内陣棒幣の串に文明八丙辰
年九月十一日と記有之或傳云奥州鹽釜神社を奉遷座葉敷神社とも稱し奉りきと神殿間口二間奥行一間
四尺境内六百坪官有地第一種あり神官は鈴木熊之助にして氏子八十戸戸を有し管轄廰まで
十一里四町八間なり境内三社を祭る即
一、 天神社 菅原道真公を祭る由緒不詳建物間口五尺奥行四尺なり
二、 金刀比羅神社 大物主命を祭る文政三寅年八月の創建にして建物間口一尺五寸
奥行一尺五寸奥行一尺五寸あり
三、 三峰神社 日本武尊を祭る元治二乙丑年二月の創建にして建物間口三尺奥行一尺
五寸あり 神社明細帳」
文明八年は西暦1476年ですから、実に540年前のことです。
なお、この年の干支は丙申で、棒幣の串に書かれていた丙辰は書き間違いです。(郡誌の
記述違いかもしれません。)

また、「成田市の文化財 第41集 神社編」(平成22年)には、
「祭神 塩土翁之命(しおづちのおきなのみこと) 由緒沿革 一説に奥州塩釜神社を遷座し
て葉敷神社とも称したとあります。またこの神社の森へ筑波山よりこうのとりが来て、ここに
巣をかけたことにより筑波の六所の名を取って竜台六所大権現と改めたと、地元の小倉家
所蔵文書に記されています。」
と書かれています。
塩釜神社のご祭神は「塩土老翁神」、神紋は葉敷桜の塩釜桜です。
「コウノトリ」も昔はこの地方にごく普通に生息していたのですね。
この「六所神社」のご祭神が、他の六所神社と違って一柱である理由が、何となく分かった
気がしてきました。
塩釜神社から「塩土翁之命」を勧請して「葉敷神社」とし、後に「こうのとりの伝承」によって、
社名を筑波南麓の聖地・六所に因んで「六所神社」に改めた・・・とすれば、辻褄が合います。
「こうのとり」が「六所神社」の名付け親というわけです。

この「御神燈」は風化も進んでいなく、それほど古いものとは思えませんが、紀年銘等は文字
の彫が浅くて読めません。
うっすらと昭和6年と読めるような気がしますが・・・。

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さほど大きくはない狛犬ですが、なかなか重量感があります。
台座には昭和50年と記されていますが、狛犬はずっと古いもののように見えます。

狛犬の後ろに一基だけ古い「御神燈」が立っています。
「天保四巳七■吉日」と記されています。
天保四年は西暦1833年になります。

拝殿に掲げられた神額には明治三十年(1897)と記されています。

拝殿の格子の間から本殿が見えています。


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流造の本殿は凝った彫刻で飾られています。
一つ一つが異なる形の木鼻は赤に、欄間や脇障子は白に塗られています。


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「千葉県神社名鑑」では本殿は瓦葺となっていますが、現在は亜鉛板葺となっています。
この「神社名鑑」は昭和62年に発行されていますから、瓦葺を亜鉛板葺に替えてから30年
にもならないはずなのに、ずいぶんと荒れた様子です。
山中深く、木々に囲まれた環境のせいでしょうか?

本殿裏に三基の祠が並んでいます。
社名は分かりませんが、右の祠には「享保十■巳」、真ん中の祠には「明治十二年」、左の
祠には「■永八■亥八月」と刻まれています。
享保十年は西暦1725年、明治十二年は西暦1879年、そして左の祠については、後ろに
「永」の付く元号としては、(南北朝合一以降に絞って)応永・大永・寛永・宝永・安永・嘉永が
考えられますが、嘉永は7年で終っていて、その他の元号の八年の干支に亥が付くものは
安永のみですから、1779年のものということになります。

拝殿の向かって左側にある「御嶽大神」(左・昭和13年)と「淺間神社」(右・年代不明)。


同じく左側にあるお社。


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本殿の裏には「八坂神社」と表示された大きな建物があります。
ガラスが曇っていて良く見えませんが、中には古そうな神輿のように見えるお社があります。

「八坂神社」よりさらに奥にあるこの祠には、「文政十三寅」と記されています。
文政十三年は西暦1830年になります。


このお社の脇には「力石」らしき丸い石が置かれています。

裏側から見た「八坂神社」と「六所神社」。



参道の両側は鬱蒼とした森ですが、手入れが行き届いています。
ひときわ目立つ大木の根元には「夫婦杉 樹齢三百八十年」と書かれています。


登ってきた坂道とは反対側に30メートルほど行った三叉路に二基の庚申塔と一基の祠が
ひっそりと立っています。
祠には「享保七壬寅九月吉日」と記されています。
享保七年は西暦1722年です。


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青面金剛が刻まれた庚申塔は道標を兼ねていたようで、「東ハなりた」「西ハ矢口村」などの
文字がと読め、「安永六丁酉」の年号が記されています。
安永六年は西暦1777年になります。



森の中に隠れるように建つ「六所神社」。
ここに再びコウノトリが飛来する日はあるのでしょうか?

※ 竜台「六所神社」 成田市竜台118

幡谷の「薬師堂」は何度訪ねても飽きません。
大分傷んでいますが、大きく立派なお堂で、境内には珍しい石仏や石造物がたくさんあります。

「千葉県印旛郡誌」に「薬師堂」が紹介されています。
「藥師堂 幡谷村字宮前にあり東光寺境外佛堂にして眞言宗たり藥師如来を本尊とす由緒
不詳堂宇間口三間奥行三間境内七百四十八坪官有地第四種あり住職は成毛照享にして信徒
三十三人を有し管轄廰まで九里三十一町十一間一尺佛堂明細帳」


境内の入口に大きな手水盤がありました。
ついさっき、鳥が水浴びでもしたのでしょうか、縁に水が飛び散った跡があります。
広い境内には石仏を始めとする石造物が数多く見られます。

まず、境内の右手奥にある三基が目に入ります。

側面に「寛政十二庚申霜月」と記された「庚申塔」。
「青面金剛王」と大きな文字が刻まれています。
寛政十二年は西暦1800年になります。


「奉建立庚申待成就 正徳元辛卯年十月吉亦 幡谷村善男子結衆廿七人」と刻まれたこの
青面金剛像は六臂で、正面で合掌し、法輪・矢・鉾・ショケラを持ち、左右に鶏と童子を配し、
足許には邪鬼を、台座には三猿を置く様式です。
左右に鶏だけでなく、童子を配するものは珍しいものです。
正徳元年は西暦1711年ですから、300年以上も風雨に晒されて立っているわけです。

十九夜待ちの「月待塔」。
「奉造立十九夜講中 善女等 安永二癸巳正月吉日」と記され、十九夜の守り本尊である
如意輪観音が刻まれています。
ちょっと怒ったようなお顔の観音様が建立された安永二年は、西暦1773年になります。

三基の石仏の後ろにポツンと卵塔(無縫塔)が一つ。
「宝暦四戌■ 権大僧都法印■■」とあり、位の高いお坊さんのお墓のようです。
宝暦四年は西暦1754年になります。


「奉建立拾七夜待成就之攸 正徳三癸巳年四月十七日 幡谷村善女」とある月待塔。
正徳三年は西暦1713年で、300年以上前の十七夜月待塔ですが、聖観音と思いきや、
頭上にある三つの化仏(?)、そしてうっすらと背後に見える手のようなもの・・・正面にも
宝珠のようなものを持つ手があるようにも見えて・・・。
偶然見つけた成田市教育委員会編の「成田市石造物調査報告書(Ⅰ)」(昭和57年度)に、
この月待塔の写真があり、「十一面観音」と書かれていました。
「十一面観音」は二十夜待ちの守り本尊ですが、例外もあるのでしょうか?
「十一面観音」の多くは二臂像ですが、六臂の十一面観音像も国の指定文化財になっている
三重県伊賀市の「観菩提寺」のものを始めとして、いくつかあります。
特に、群馬県沼田市の三光院にある六臂の十一面観音像の写真を見ると、手の置き方が
この月待塔の観音像と酷似しています。
さらに、芝山町の仁王尊(観音経寺)のホームページに、
「十七夜講は芝山仁王尊・観音教寺のご本尊十一面観世音大菩薩様の御縁日です。」
とあるのを見つけました。
「十七夜月待塔」に「十一面観音」が刻まれていてもおかしくないわけです。

なるほどこれは、頭頂に菩薩面の三面のみを刻んだ六臂の「十一面観音像」のようです。


薬師堂の右手に「市川團十郎先祖居住之地」と記した昭和39年建立の石碑が立っています。
「成田山中興第十八世貫首荒木照定書」、「十一世市川團十郎補之」とあります。
初代市川團十郎の祖先である堀越十郎は、北条家の家臣として小田原落城に遭い、落人と
なって幡谷村に隠れ、そのまま帰農して定着しましたが、孫の重蔵は農作業を嫌って江戸に
出て遊侠の徒となります。
この重蔵の子、海老蔵が後の初代團十郎となります。
海老蔵は十二歳で歌舞伎界に入り、市川段十郎(のち團十郎)として人気役者となりましたが、
子供には恵まれませんでした。
先祖の地の成田の不動明王に祈願したところ、ようやく子を授かることができたため、成田山
の霊験をテーマとする演目を上演し、「成田屋」の屋号が生まれました。
成田山と市川家とのつながりはここから始まります。

石碑の右のお地蔵さまの紀年銘は「寛永三■■」と読めるような気がします。
寛永三年であれば西暦1626年のものということになります。
初代団十郎は万治元年(1660)の生まれですから、幡谷に住みついた頃の堀越家の誰か
に関係があるのかかも知れません。
小さいお地蔵さまは昭和43年に建立されたものです。
ここに初代団十郎の墓があると書かれているものがありますが、どこにも見当たりません。
すぐ近くにある墓地もくまなく探しましたが、それらしき墓石はありませんでした。
どこかに移されてしまったのでしょうか?
因みに、現在は初代を含めた市川宗家の墓地は東京の青山霊園にあります。
(このあたりの事情については、「成田史談 35号」(成田史文化財保護協会 平成23年)に
掲載の兵藤俊郎氏の論文「市川團十郎墓石考」に詳しく書かれています。)


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この石碑を囲むように数十基の石仏や墓石が並んでいます。
墓石に記されている年号は、元禄、宝永、正徳、享保、延享、宝暦、寛政などです。

右は「奉造立十九夜待成就攸」と記された享保二年(1717)の十九夜月待塔。
左は「奉建立廿三夜待成就攸」と記された元禄十五年(1702)の二十三夜月待塔。
刻まれている守り本尊は、十九夜塔が「如意輪観音」、二十三夜塔は「勢至菩薩」です。

薬師堂の右手前の日陰の一角には四基の「如意輪観音」が並んでいます。
右から二番目の観音像は文政十一年(1828)のもので、上部に「十九夜」と刻まれています。



境内の三か所に、数本の幹や蘖が一体となったスダジイの巨木が立っていますが、その
存在感は圧倒的です。


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傷みが激しい薬師堂の堂内には、螺鈿のような装飾が施された立派な厨子が見えています。
この厨子には天正十八年(1590)の墨書銘があるそうです。
420年以上もの昔になります。


本堂の向拝の部分にある木鼻は正体不明です。
木鼻に彫られるのは、獅子、象、莫、龍などが一般的ですが、これは何だか分かりません。
獅子や龍ではないことは確かですが、象や莫なら牙がついているはずです。
鳥の嘴のような部分と蹄がある足が特徴のこの動物は何なのでしょうか?
回り廊下に欠落した片方の木鼻部分が放置されています。
お堂の左奥にも数基の石造物があります。

右は慶応三年(1867)八月の「読誦塔」。
この塔の造立の二か月後には大政奉還の上奏があり、さらにその二か月後には王政復古
の大号令と、徳川幕府から明治政府へ向けての歴史の大きな転換がありました。
左端の「讀誦塔」は昭和2年の造立です。

真ん中の六臂の「如意輪観音」は造立年代は不詳ですが、像形がしっかり見えます。
右の第二・三手には宝珠と数珠、左の第二・三手には蓮の蕾と法輪、そして右の第一手は
頬にあてて思惟相をとっています。
ちょっと変わっているのは左の第一手で、蓮台に掌を着けているのが一般的なのですが、
この像は左膝に着けています。

二臂像の場合は左手は膝の上




小さな大師堂をはさんで二基の「巡拝塔」が立っています。
右は「四國第六番阿卅安樂寺」と刻まれた文化十四年(1817)のもの。(卅は州の略字)
「安楽寺」は徳島県にある第六番札所で、ご本尊は「薬師如来」です。
左は文久二年(1862)のもので、「奉巡拜四国西国秩父坂東供養塔」。

さて、この薬師堂は「東光寺の境外仏堂」だとされていますが、その「東光寺」は一体どこに
あるのでしょうか?
文禄三年(1594)の「幡谷郷御縄打水帳」に飯岡村永福寺末として「東光寺」の名があると
言われていますので、420年以上の歴史があるお寺です。
「印旛郡誌」には「東光寺」について次のように書かれています。
「幡谷村字宮前にあり、眞言宗にして永福寺末なり阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳堂宇
間口六間奥行五間境内六百三十八坪官有地第四種あり住職は小澤照典にして檀徒三十三人
を有し管轄廰まで九里三十一町十一間一尺とす寺院明細帳」
「東光寺」と「薬師堂」とは、所在地の字(あざ)と管轄廰までの距離が同じですが、「薬師堂」
は境外仏堂ですし、住職もそれぞれに居たようです。
「成田市の文化財 第42集 仏閣編」(平成23年)には、「東光寺」の住所は幡谷1045と
なっていますが、載っている写真は「薬師堂」です。
千葉県のホームページにある「成田市宗教法人一覧」でも、「東光寺」の住所は幡谷1045
となっています。
「全国寺院大鑑」(平成3年)にも同じ住所で載っています。


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少しあたりを探し回ると、「薬師堂」の裏手の森の中に一軒の建物を見つけました。
木々に視界を遮られていますが、距離はそんなに離れていません。
これが「東光寺」なのでしょうか?
中には和室が二つ、何も置かれていません。
地図で探しても周りには何もありませんし、どうやらこれが「東光寺」のようです。
軒下にわずかに見える彫刻も、一般の家屋のものではありません。
敷地内には「大師堂」がありましたが、中にはお大師様の履物だけがありました。

「成田市史 中世・近世編」の中に、
「東光寺は阿弥陀如来を本尊とし、二二二間・二二四間の広大な境内に三間四面の薬師堂
が建つ。この薬師堂の厨子には天正十八年の墨書銘がある。」(P786)
と二行の記述を見つけました。
境外仏堂とされる「薬師堂」は、じつは東光寺境内にあったわけです。
この「成田市史」の編さんは昭和61年ですが、昭和60年の地図には「東光寺」の名前は無く、
「薬師寺」の名前が載っています。
いろいろ混乱があるようですが、どうやら「東光寺」と「薬師堂」の位置は解決したようです。


堂内の厨子の墨書銘から推測すれば、少なくとも420年以上の歴史を有する市川団十郎
ゆかりの「薬師堂」。
お堂は荒れていますが、境内には珍しい石仏や石造物などの文化財も多くあります。
大木に覆われて苔むす境内には、これからも静かに時間が流れて行くのでしょうが、このまま
朽ち果てさせてしまうには、いかにも惜しい景色です。

※ 幡谷の「薬師堂」 成田市幡谷1009付近