
熊野神社は延喜二十年(920年)に仮宮を建て、延長元年(923年)に創建されました。
ご祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の夫婦神です。

階段を上ると拝殿までのまっすぐな石畳が続きます。
降るように蝉の声が響いています。
蝉時雨という言葉をふと思い出しました。

鳥居の前に立派な石碑が立っています。
「指定村社 熊野神社」と記されたこの石碑は昭和15年に建立されました。
この神社は、南羽鳥、北羽鳥、長沼、竜台、田川(茨城県河内町)の
旧五か村の総鎮守です。



参道の左側、「祓戸大神」の先に「庚申猿田彦大神」の石碑と
少し離れて「青面金剛像」が立っています。
寛政十二年(1800年)と記されているこの石碑は、
庚申の申の字が申(さる)に通じることから、庚申信仰と猿田彦神とが結びついたものです。
庚申塔には青面金剛像が彫られることが多いのですが、ここでは二つに分かれています。


天正九年(1581年)の豊臣軍と北条軍との竜台合戦で社殿を焼失し、
寛文七年(1667年)に再建されたもののこれもまた焼失することとなり、
天保十年(1839年)に再建されたのが現在の社殿です。



本殿は切妻造りで鰹木は5本、千木は垂直に切られています。

木々の茂る薄暗い中に、灯りがともる拝殿の景色は厳かで、何やら幻想的でもあります。

境内の右奥にある「天神様」。

拝殿に向って左手の小高い丘の上に浅間神社があります。
享和四年(1804年)に建立され、昭和52年に再建されました。
新しい石造りの小さな祠ですが、昔からここにあって、戦前までは
子供の健やかな成長を願って、親子が裸足でお参りする習わしがあったそうです。


裏山にたくさんの祠が打ち捨てられていました。
新しい祠が建って、用済みとなったのでしょうが、何か虚しく寂しい景色です。


神社のパンフレットには、ご祭神は夫婦神で、配神として「速玉男命(はやたまおのみこと)」、
「事解男命(ことわけおのみこと)」をお祀りするとありますが、
多くの文献には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と速玉男命、事解男命の三神を合祀している
ことから、「三熊野神社」とも呼ばれていると書かれています。
私見ですが、夫婦神は二柱で一代とするので、この場合は夫婦神を伊弉諾尊として
三神としたのではないでしょうか。
陽が傾き、いつの間にかヒグラシのもの哀しい声だけが響く境内でした。

※ 成田豊住 「熊野神社」 成田市南羽鳥76
京成成田駅よりコミュニティバス豊住ルート 宮下下車 徒歩3分
JR成田線下総松崎駅より徒歩約30分
もくもくと青空を昇り
刻々と姿を変える入道雲
なぜか不吉な予感がした

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



夏の空はにわかにかき曇り
屋根を叩く激しい雨音とともに
湿った風が吹き抜ける
雨に叩かれ舞い上がる
乾いた土のにおいがする
蚊取り線香が匂う夜
蚊帳の中で 遠くの音を聞く
あれは花火かカミナリか・・・


印旛沼の花火


ざわつく心を抑えかね
寝巻のままで縁側に
昨日の残りの線香花火

ちょっぴり涼しい夕暮れの風が
軒先の風鈴を鳴らす
音で感じる八月の風だ




蝉が短い命を燃やし
トンボの尻尾は赤くなる

多古の稲田
さわさわと稲穂をゆらし
畦を流れる八月の風は
むせかえるような草の匂い
トリモチ塗った竹の棒
収穫なしの帰り道
暑くて重い八月の風
思い出のかけらを運ぶ八月の風
市内では名古屋の乗願寺とこの円光寺の二つだけが時宗のお寺です。
藤沢にある遊行寺(藤澤山無量光院清浄光寺)の末寺になります。

成田市内には多くのお寺がありますが、一番多いのは「天台宗」のお寺で、
(正確ではないかもしれませんが)24山もあります。
次いで多いのは成田山新勝寺に代表される「真言宗」で、智山派・豊山派合わせると
20山以上、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗、浄土宗等をみても、
時宗の2山はいかにも少ない数です。
「円光寺」は坂田ヶ池総合公園の近くの、曲がりくねった細い道に面していて、
少々分かりにくい場所にあります。

ここだと思って登った坂の上にはポツンとお堂が建っていました。
「天王山」と掲額があるだけで、何の手掛かりもありません。

境内に一つだけ建っている宝塔には宝暦七年(1757年)と刻まれています。


細い山道の反対側に小さな墓地がありました。
墓石を見ると、寛文二年(1662年)、貞享四年(1687年)、正徳三年(1713年)、
明和六年(1769年)等の文字が読めました。
荒れ果てていますが、さぞかし歴史のある場所なのでしょう。

山道を戻って直ぐ近くの細道を辿ると円光寺の山門が見えました。

時宗は宗祖を証誠大師(一遍上人)とし、文永十一年(1274年)に開宗されました。
円光寺は正和三年(1314年)の開山で、「阿弥陀如来」を中尊仏とし、
「観音菩薩」「勢至菩薩」を脇侍とする善光寺式の「阿弥陀三尊像」がご本尊です。
この阿弥陀三尊像は千葉県の有形文化財に指定されています。
なお、阿弥陀如来の背面には延慶二年(1309年)の陰刻があり、
この寺の開山より古いものです。


質素な造りですが、立派な本堂です。
度々火災に遭い、現本堂は昭和47年に再建されました。(小倉 博著 「成田の史跡散歩」)

境内の右手に「愛宕山大権現」「熊野本宮大社」「正一位稲荷大神」の三社が並んでいます。

池のほとりに弁財天像がありました。

池と木陰に隠れるように座る弁財天が奏でる琵琶の音が聞こえるようです。

時宗宗祖の一遍上人像です。

(遊行寺ホームページより)
本山の遊行寺にある像と同じ構図です。

こじんまりした境内ですが、良く手入れされています。

県の重要文化財「石造多層塔」です。
応永十年(1403年)に建立されたもので、七層からなります。
正面に胎蔵界大日如来像、左右の側面には光明真言の梵字が刻まれ、
上部の笠には阿弥陀の文字が陰刻されています。


ガラス張りの中にあり、光線の加減で良く見えないのが残念です。



多層塔の脇にある石仏には元文五年(1740年)と刻まれています。

入り口近くの道端に、風化して文字が読めなくなった石仏が並んでいました。

宗派としての時宗は幾度もの盛衰を繰り返してきました。
一遍上人が亡くなった後には一時的に消滅したり、時の権力に近づきすぎて
庶民から遊離したり・・・
そうした歴史が寺院数の少なさに影響しているのでしょうか?
この寺を正和二年に開山したのは、筑前出身で全国を行脚していた教勧上人ですが、
「教勧上人の兄弟子呑海上人を祖とする清浄光寺が正中二年(1325)の開山であるから、
円光寺の方が本寺より十年ほど古いことになる。」(小倉 博著「成田 寺と町まちの歴史」)
本山よりも歴史ある「円光寺」。
目立たないお寺ですが、とても心が休まる静かな空間です。

※ 「埴生山円光寺」 成田市大竹765
JR成田線下総松崎駅から徒歩15分
近くには「坂田ヶ池総合公園」、「房総のむら」があります
創建・開基は不詳です。
『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷
船方薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に
豆留しながら印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」
には仁王門・薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代には
この地方屈指の大寺であった。』(成田の地名と歴史)

山の中腹を切り開いた僅かな平地に本堂があります。
このお寺は、もと麻賀多神社惣社の神宮寺(神仏習合思想によって、神社に付随して
建てられたお寺)で、現在より北方にあったと伝えられています。

仁王門は近年補修が行われたようで、本堂に比べて立派に見えます。

手前の階段横に梵字が刻まれた石板が立っています。


阿形像の表情

吽形像の表情
近年、解体修理を行った際に、腕と体の部材に大永二年(1522年)と
天正二十年(1592年)の修理墨書銘が見つかりました。
右側の阿形像は1.7メートル。
右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。
左側の吽形像は1.71メートル。
左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。
この木造金剛力士立像は県の指定文化財になっていて、
応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
小ぶりの像ですが、力感があり、表情も豊かです。

仁王門の脇に置き忘れられたように手水盤がありました。
水も引かれていません。
延享三年(1746年)と刻まれています。

(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ )
ご本尊は千葉県指定文化財の木造薬師如来坐像です。
像高は54.3センチで、引き締まった表情に見えます。
「ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼がはめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、
現状では素地となっているが、薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」(成田市教育委員会ホームページ)



本堂の正面がガラス張りになっていて、中に安置されている仏様が良く見えます。
阿弥陀如来座像と観音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊です。
穏やかなお顔の仏様です。
ご本尊の薬師如来は後方の厨子の中に居られるようです。

本堂左手に立つ3つの塔には梵字が刻まれ、明和二年(1765年)に建立されました。

3つの石塔の後ろの階段を登ると、祠がありました。
中には何も無く、何の祠かは分かりません。


さらに急な山道を登ると子安観音を祀った祠がひっそりと建っていました。
滑る足元を気にしながら、急な山道をここまで登ってお参りする方がいたようで、
真新しいお札が置かれています。
観音様には宝暦四年(1754年)と記されていました。
境内に戻ってきました。
あらためて本堂を眺めると、軒に何やら動物らしき彫刻が見えます。
辰(タツ・龍)

卯(ウ・兎)

午(ウマ・馬)

申(サル・猿)

酉(トリ・鶏)

亥(イ・猪)

十二支でした。判別できるものだけ載せてみました。



境内の右側に目をやると、立派な宝塔と地蔵堂があります。
宝塔には宝暦5年(1755年)、お地蔵様には文化十年(1813年)と記されています。
境内に鐘楼はありません。
県の有形文化財に指定されている、応長元年(1311年)に造られた梵鐘は、
現在宗吾霊堂宝物殿に置かれています。

(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )

「成田参詣記」に記された風光明美な景色はもうここにはありません。
描かれた当時はこの場所より北方にあったのでしょうか?
それにしても、沼は干拓され、人が住み、木々が植えられて、景色は一変しています。


境内の端にある「船形の大シイ」と呼ばれる大木が、遠くからも見えます。
幹周りは6メートル、高さは15メートルもあり、市の天然記念物に指定されています。
薬師寺は細い曲がりくねった道の途中にあり、分かりにくい場所に建っています。
かつての面影はなく、無住のため寂れてはいますが、蝉しぐれの中に佇むこのお寺では
時間が止まったような感じがします。
※ 船形山薬師寺 成田市船形219-1
京成・公津の杜駅からコミュニティバス 北須賀ルート
印東体育館下車 すぐ (本数が少ないので要注意)
北総線成田湯川駅から徒歩約40分

こちらのご祭神は天照大神の妹神、「稚日孁命(わかるひめのみこと)」です。
前回の台方の麻賀多神社でも紹介しましたが、平安時代に記された「延喜式」に記載
されている「式内社」で、非常に格式の高い神社です。
創祀年代は不詳ですが、3世紀後半から4世紀初頭にかけての期間であると考えられます。


石造りの一ノ鳥居の右側に大きな塚があります。
塚の上には「印波国造伊都許利命(いつこりのみこと)墓」と刻まれた石碑が建っています。
伊都許利命は応神天皇の命を受けて印波国の国造としてこの地に赴き、
産業の振興などに尽くしました。
この麻賀多神社を創建した人物でもあります。
この古墳については後ほど触れるとして、まずは木造の二ノ鳥居をくぐって、
本殿へと進みます。



拝殿手前の手水盤は安永四年(1775年)のもの。
石灯籠にも同じ年が刻まれています。
この年にはアメリカの独立戦争が起こっています。



拝殿、本殿ともに立派な造りですが、残念ながら建造の年代が分かりません。
(目につく資料は全部当たってみましたが、なぜか建造に関する記述がどこにもありません。
時間をかけてじっくり調べようと思います。)
唯一、二ノ鳥居左にある「社殿葺替記念碑」の石板に、
本殿が昭和62年10月、拝殿が平成元年11月に葺替工事が行われ、
総工費が4,228,196円であったとの記述を見つけました。
鰹木(堅魚木)は6本、千木は水平に切られています。


本殿の屋根には銀色に輝く三つ巴の紋の両脇を鳳凰が固める図柄が見えます。

御神木の大杉は樹齢約600年、周囲6メートル、高さは40メートルもあり、
本社の「公津の大杉」ほどではありませんが、堂々たる大木です。

拝殿の左手にある「八代稲荷神社」と「加志波比売神社(かしはひめじんじゃ)」。
神社の奥に広く見通しの良い場所があり、3つのお社が点在しています。



拝殿の左手には祓戸神社、香取神社があり、右手奥には栗生日神社があります。

香取神社



拝殿の軒下に古い蜂の巣を見つけました。
蜂はもういないようです。
先ほどの古墳に戻ってきました。
墳墓の入り口にある「伊都許利命由緒」とある説明板が「伊都許利神社社務所」の名前で
掲げられていたり、ところどころに伊都許利神社の名前が出てくるのに、それらしき建造物が
見当たらず、鳥居を持った金比羅神社のみが墳墓の脇にあることから、“伊都許利神社は
存在するのか?伊都許利神社=金比羅神社ではないのか?”という疑問が湧き、
ネット上でもいろいろな意見が交わされています。
さて、ここで伊都許利神社と金比羅神社に関する疑問について、私見を述べてみます。
私はこの二つの神社は同じではなく、古墳にある伊都許利神社の脇に金比羅神社が
あると考えています。
まずは、神社が二つあると考える根拠について見てみます。

墳墓の下の小さな手水盤には寛文十二年(1672年)と刻まれていました。
『「伊都許利神社」「金比羅大権現」廣前』の文字が彫られています。
稲葉丹後守臣 大田○右衛門が寄進したもののようで、少なくともこの時代から
伊都許利神社と金比羅神社はこの場所に並んであったと考えられます。
(ちなみに、稲葉丹後守は佐倉藩主で老中。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、
浪士の即刻処分を避けるために諸方に働きかけた人物で、隠居後も八代将軍吉宗に
重用されました。)


頂上の石碑の隣りの碑誌は元文二年(1737年)のもの。
傍らの要約文によれば、
「稷山の東北 瀛宮の東南のこの地は 当に龍の岡(神域) 怪物や悪者は逃げ失せ
惟みるに(思えば)神のおかげで安らぎを得ている ささやかな祭りを時に行い 鎮の
守らせるために 徳の輝きひかえめに 五凝(伊都許利)の神を敬い 長い年月にわたり
執り行いつつしめば もろもろの邦(地域)共に栄える」
「山海を廻り(銘文を)撰 元文二年冬十一月 山州淀府行軍使 磯部昌言 謹んで撰ぶ」
とあります。

脇から登る階段下の石灯篭は寛政十年(1798年)と同十二年のものです。

出土した石棺

石棺は文久四年(1863年)に発掘され、2メートル四方、深さ1メートルで
石の厚さは約15センチあります。
石棺の上には小さな祠があります。


祠の中を覗かせていただきましたが、何もありませんでした。
側面には龍が刻まれていました。

木柱には「伊都許利神社」と書かれています。
立派なお社はありませんが、私はここが「伊都許利神社」であると思います。
伊都許利命の墳墓そのものがお社なのではないでしょうか。
もう一つ、私の考えを裏付けるものがあります。
それは二ノ鳥居の右に建つ昭和24年に建立された「境内無償譲與許可記念碑」の
次のような記述です。
「麻賀多神社 印旛郡公津村大字船形八三四番地
神社境内地 七七四坪 立木共 昭和二四年五月三一日
伊都許利神社 仝郡仝村仝区八二七番地
神社境内地 三七六坪 立木共 昭和二四年七月二九日」
伊都許利神社としての376坪は、およそ古墳全体の広さに一致すると思われ、
金比羅神社はその境内に合祀された神社であると考えられるのです。

手水盤の先の石棺上に小さな祠があり、古墳の上には伊都許利命の墓石柱のある、
ここが「伊都許利神社」であると、(素人考えですが)個人的には納得しています。


伊都許利命の墳墓とされる古墳には、「公津原古墳群第39号墳」と名付けられ、
横に回ると石室の入り口が見えました。
横穴式石室で、今は塞がれています。
東西35メートル、南北36メートル、高さ5メートルという大きな方形墳です。

古墳の裏斜面に回ってみると、いろいろ議論のある「金比羅神社」があります。
比較的新しい小さな石のお社です


狭く急な石段


手水盤には「伊都許利神社」と刻まれています。
これがまた混乱を招く一因ですが、奉納された年代が100年以上後であることと、
比較的小ぶりであるを考えると、わざわざ寛文二年の手水盤をどかしてまで
置くことはないとしてこの場に置いたと、素人なりに都合良く推測したいところです。


道路を挟んだ向い側の斜面は栗畑です。
あと1ヶ月もすれば毬が割れて茶色い実が姿を見せることでしょう。

推古天皇十六年(608年)、伊都許利命の子孫である広鋤手黒彦がこの地より少し離れた
台方に社殿を造営し、こちらの社殿は奥宮となりました。
伊都許利命の墳墓に関しては諸説があり、まだ謎が解明されていません。
本社・奥宮に関する種々の記述にも混乱があり、今後の研究を期待したいところです。
(このブログの記述にも間違いがあるかもしれません。判明する都度訂正したいと思います。)

※ 麻賀多神社(奥宮) 成田市船形834
京成・公津の杜駅よりコミュニティ・バス北須賀ルートで
麻賀多神社前下車

麻賀多神社は「稚産霊命(わかむすびのみこと)」をご祭神とする神社で、
応神天皇の時代に初代印波国造・伊都許利命(いつこりのみこと)が、
この地より少し離れた船形に創建したと伝えられています。
台方には推古天皇16年(608年)に移設され、それまでの船形の神社は奥宮となりました。
平安時代に記された「延喜式」に記載されている「式内社」で、
香取神宮と並ぶほどの格式の高い神社です。

印旛沼の周辺には麻賀多神社は多く存在しますが、ここ台方の麻賀多神社が本社、
船形にある麻賀多神社が奥宮になります。
麻賀多神社とは大変珍しい名前で、全国的にも印旛地区に集中しています。

本殿に上る石段の手前にある石灯籠には文政十一年(1828年)とありました。

手洗舎には宝暦九年(1759年)と刻まれた御手洗盤が置かれています。

祓戸です。
ご祭神は「瀬織津姫(せおりつひめ)」、「気吹戸主(いぶきどぬし)」、
「速秋津姫(はやあきつひめ)」、「速佐須良姫(はやさすらひめ)」と書かれています。


流造りの本殿は、寛文十三年(1673年)に当時の佐倉藩主松平和泉守が再建したもので、
市の指定文化財になっています。
拝殿前に並ぶ狛犬には迫力を感じます。




御神木の大杉は樹齢1300年と推定され、樹回り8メートル、高さ40メートルの
大木で、「公津の大杉」と呼ばれ、パワースポットとしても人気があるようです。


大杉の前には古峰神社、三峰神社、印旛国造神社、馬来田郎女神社が、
本殿横には幸霊神社、青麻神、猿田彦神社が並んでいます。



朱塗りの本殿軒下には兎や馬(?)の彫刻が見えました。

本殿の奥にある「天日津久神社」(あめのひつくじんじゃ)。
画家の岡本天明がここで啓示を受け、「日月神示」を書いたことで知られています。
石造りの新しいお社ですが、細かい装飾が施されています。

境内の一角にある神楽殿。
ここで毎年7月31日の大祭に獅子舞が奉納されます。


(麻賀多神社 ホームページより 獅子舞 ⇒ )
この舞は4~500年前から伝わっているもので、台方地区と下方地区が年番で、
その地区の直近2年間の内に結婚した新郎から舞手が選ばれます。
市の無形民俗文化財です。

神社の周りの森は県の指定天然記念物として環境の保全がなされていて、
アカガシ、スギ、ケヤキ、アカマツ、ヒノキ等がこの森を形成しています。


この神社の珍しい名前の由来は、古来よりこの地方が麻の産地であったこと、
そしてこの神社を創建した国造・伊都許利命が多氏一族の出であることから、
「麻の国で多氏が賀す神の社」という意味の「麻賀多神社」となったと言われています。
(麻賀多神社 ホームページ)
次回は船形の奥宮を訪ねます。

※ 麻賀多神社(台方) 成田市台方1
京成・公津の杜駅よりコミュニティバス「北須賀」ルート
麻賀多神社前下車すぐ
二つに分断されています。
南北二つの地区を結ぶのは、取香橋と浅間橋という二つの橋しかありません。
取香橋には歩道がありますが、浅間橋には無く、人の往き来には取香橋しか使えません。
地区の総戸数は80戸余り、北側にはほとんど人家は無く、
大きなホテルや旅行客相手の広い駐車場が多くの面積を占めています。
今回は北側をひと回りしてから南側に回ります。

取香橋は空港の入り口近くにあり、ここからは管制塔やレーダーが見えます。
この道の先を左に入ると成田空港で一番大きなゲートがあります。
直進すると東成田、芝山千代田駅前を通って、芝山町、多古町へと抜けて行きます。
交差点の付近を少し歩いてみましょう。

空港ゲートの入り口の脇にあるのは、以前紹介したことのある「側高神社」です。
空港建設の影響で、住民からは切り離された場所に建っています。

交差点に面して、「成田東武ホテル」があります。
このホテルは開業時は「ホリデイ・イン」でした。
空港近辺のホテルの中では「ファーストシティ・ホテル(現成田ビュー・ホテル)」に次ぐ
早いオープンで、外から見えるエレベーターは当時はめずらしく、見物人が集まったほどです。

東武ホテルを背に左に3分ほど行くと、「東横イン・成田」があります。
成田地区のシティホテルの変遷は激しく、ほとんどのホテルが開業時の名前から
変わっていますが、中でもこのホテルは一番名前が変わった(経営母体が代った)ホテルです。
スタートは「トラべロッジ」でした。
直ぐに「成田プリンスホテル」にそして日本航空系の「ウィングホテル」に、
数年前に東横インへと看板が掛け替えられました。



遠くに建築中の建物が見えました。
近づいてみると、相当大きな建築物です。
空港の敷地内ですからこれ以上は近づけず、何の建物かは分かりませんが、
多分LCC専用ターミナルではないかと思います。
「空港第2ターミナル」の項で紹介しましたが、LCCの急速な伸びが、
専用ターミナルの建設を必要としています。


県道44号線沿いには旅行客向けの駐車場が目立ちます。
通りから見えない所にも驚くほどの台数の車が駐車しています。

ホテル日航成田です。
このホテルも日本航空の経営再建のため、現在はホテルオークラの傘下に入っています。
最近屋上に鶴丸のマークが復活しました。
44号線に沿って植えられた桜は見事な大木で、
開花の季節にはこの一帯がピンクに染まります。

道を挟んでホテルの反対側の崖下にチラリとトンネルのようなものが見えます。



空港に向かうJRと京成の線路がここでちょっと顔を出しています。
線路が見えている距離は50メートルほどしかありませんから、
ここで電車を見る機会はめったにありません。


浅間橋の手前に小さな丘があり、その上に浅間神社があります。
開発で削られた丘は4~5坪ほどしかなく、この神社に気付く人はほとんどいません。
石造りの祠は昭和48年に建てられたものです。

神社から見える新空港線と国道295号線です。
この2つの道で取香地区は南北に分断されています。
取香橋に戻って、取香の南の地区に入ります。
こちらの地区は北とは全く違う顔を見せてくれます。


取香橋を渡って直ぐに右の坂を登ると取香稲荷社が見えてきます。
小さなお社ですが、手入れが行き届いています。
入り口に金剛夜叉像が立っていました。
寛政三年(1791年)と刻まれていますから、
この地域に昔から人々の営みがあったことを示しています。

取香稲荷社の前を左に進むと「円勝寺」が見えてきます。
四月に行われる民俗芸能の「取香の三番叟」はこのお寺から出発し、
取香橋を渡って北側にある側高神社へと向います。

質素なお堂です。
右側に見えているのは「成田市取香共同利用施設」です。


墓地の石仏群
寺の左手は「取香墓地」で、空港関連工事への協力のため、
分散していた墓地をここにまとめたそうです。
入り口近くの仏石には、正徳三年(1713年)と刻まれています。


この山道を歩いている間、誰にも会うことがありませんでした。
風向きの関係もあるでしょうが、空港の騒音も聞こえません。
静かな、のんびりした山村がここにはありました。


坂を下る途中に「大師堂」がありました。
小さいながらも立派な構えです。

坂を下り切る少し手前には「熊野神社」があります。


熊野神社
狭くて急な石段を登ると、僅かに拓かれた平地にへばりつくようにお社がありました。
わざわざここまで登ってくる人は少ないようです。

杉の大木がお社を抱えるように立っています。


さらに坂を下ると、以前紹介した取香川の源流部に辿りつきます。


見上げると聖マリア記念病院が見えます。
心療内科、精神科、神経科等、特色のある診療科目を持つ大きな病院です。
前庭にはマリア像をはじめたくさんのメルヘンチックな像が置かれています。
新空港道と国道295号線によって分断された取香地区は、
平成22年時点で戸数88戸、人口162人の寂しい地区になってしまいました。
南北に分かれた地区を一つにまとめているものは、
円勝寺から出発して取香橋を渡り、側高神社で行われる
「三番叟」のご祭礼だけなのでしょうか。

千葉県教育委員会ホームページより 取香の三番叟 ⇒


「龍正院」(りゅうしょういん)は天台宗のお寺で、山号は「滑河山」。
坂東札所第28番で、「滑河観音」(なめかわかんのん)の名前で親しまれています。
承和五年(838年)に滑河城主・小田政治が創建し、
開基は慈覚大師円仁と伝えられています。
ご本尊は「十一面観音菩薩」で、大観音像の胎内に納められています。
山門脇の寺伝によれば、『城主小田将治が凶害に苦しむ民百姓を救うため七日間の
法華経読誦の満願の日に小田川の朝日ヶ淵(ケサガフチ)より御出現され、当地に
おまつりしたところ人々は蘇生の思いをしたと云う。』とあり、
「音にきく 滑河寺の 朝日ヶ淵
あみ衣にて すくふなりけり」
という花山天皇御製の歌が添えられています。

花山天皇 (ウィキペディア「花山天皇」より 原典は月岡芳年画「月百姿花山寺の月」)


お寺の入り口、県道161号線に沿って十基の宝篋印塔が並んでいます。
風雨に削られて、彫られた文字はほとんど読めませんが、
辛うじて寛永八年(1631年)、十四年(1637年)の文字が読めました。
1637年とは、「島原の乱」の年です。

手水舎の先に八脚門茅葺寄棟造りのがっちりした佇まいを見せる仁王門があります。
建保四年(1216年)の暴風雨により倒壊したものを、文亀年間(1501~04)に
再建したもので、国の重要文化財に指定されています。


仁王様はやや彫が平面的に見えますが、表情が穏やかに見えるような気がします。
ユーモラスな「ぼけ封じ道祖神」

しもふさ七福神の「毘沙門天」


地蔵堂の中に置かれている2頭の馬の像は、本堂の軒下に置かれていたという
左甚五郎作と伝えられるものなのでしょうか。
中央に船越地蔵、右が閻魔大王、左が脱衣婆です。


銅造宝篋印塔(どうぞうほうきょういんとう)です。
享保三年(1718年)に建てられ、中に陀羅尼経が納められています。
良く見ると精緻で本格的な建造物ですが、
6メートル近い高さがあり、色彩が無いので見過ごされるかもしれません。
県の指定文化財になっています。

本堂は元禄九年(1696年)、5代将軍徳川綱吉の寄進によって再建されました。
建保四年の暴風雨から実に480年もの間、ご本尊を仮住まいさせていたことになります。


正面の彫刻は見事な天女の舞ですが、天女の表情が妙に艶めかしいのが印象的です。

天井にも色彩豊かな天女の絵が描かれています。

境内の中央に松尾芭蕉の句碑と夫婦松があります。
句碑には寛政五年(1793年)の銘があり、
「観音の いらか見やりつ 華の空」の句が刻まれています。

本堂の右裏には古い石仏群があり、宝暦、文化、等の年号が読めます。

本堂の左奥には、天満神社、金比羅神社、熊野神社、白山神社、
稲荷神社の五社が鎮座しています。

延命、安産、子育ての守り本尊として信仰を集めている
坂東観音札所28番の滑河観音。
一つ前の27番は銚子の「飯沼山円福寺」、次の29番は千葉の「海上山千葉寺」です。

※ 滑河山龍正寺(滑河観音) 成田市滑川1196
JR滑川駅より徒歩約15分

「小御門神社」は明治15年に創建された、比較的新しい神社です。
そして、ご祭神を実在の人物である藤原師賢(ふじわらのもろかた)とする珍しい神社です。
師賢は正安三年(1301年)生れで、大納言として後醍醐天皇に仕えていましたが、
元弘元年(1331年)に天皇と時の執権・北条高時とが対立して起った「元弘の乱」で敗れ、
元弘二年五月に遠くこの地に配流されて、十月に亡くなることになります。
元弘三年、楠木正成らの挙兵により鎌倉幕府が滅びると、天皇は師賢に太政大臣の官位と
「文貞公」の謚号(しごう-贈り名)を贈り、その忠義を称えました。
後に明治天皇がこの忠臣を称えて、国の守り神として「小御門神社」を創建し、
「別格官弊社」に列しました。

鳥居の手前に建つ大きな石柱には公爵・近衛文麿の筆で、
「別格官弊社 小御門神社」と刻まれています。
昭和15年の建立です。

境内とその周辺の鬱蒼とした森は、県指定の天然記念物「小御門神社の森」です。
タブノキを中心にクスノキ、トチノキ、シラカシ、ヒガンザクラ、スギなどが生い茂っています。
もともとのタブの自然林に神社造営時の人工林が一体化して森を形成しています。

拝殿は明治17年の建立です。

手水舎は明治17年に設置され、山岡鉄舟の筆による揮毫で「清素」と刻まれています。

手水舎の奥に石碑が3つ並んでいます。
手前が「小御門神社敷石寄附人名」と記された明治24年のもの、
真ん中の細い石碑は昭和36年の「生垣補修工事」、
奥が「杉苗百十五本」と記された明治16年のものです。


大柄な立派な狛犬です。

菊の紋章の付いた水桶は明治33年に造られたものです。


明治15年に建立された本殿は、拝殿から少し奥まった場所にあります。
いろいろ場所を代え、裏側にも回ってみましたが、中を窺うことはできません。

裏手に回る途中の草むらの中に、小さな石碑がありました。
「文貞公御庿道」とあり、明治4年と記されています。
文貞公とはご祭神の藤原師賢のことですから、この先にお墓があるようです。

小御門神社ホームページより 文貞公 像 ⇒

大木の生い茂る大きな塚があります。
柵に囲まれていて、頂上に何やら石碑が建っています。
説明板にあった「公家塚」です。
これが文貞公のお墓ですが、“畏れ多い”と昔から誰も立ち入らなかったと言われて
いますから、荒れた感じがするのも仕方ないのでしょう。

公家塚の周りは深い森です。


まだ新しい祈祷殿の脇には「館内眞名井社」と木札が付けられた井戸があります。


4月29日に行われる「ブンテコさん」と呼ばれる祭例での舞
(小御門神社ホームページより 祭例の舞 ⇒ )
配流されてわずか数カ月後に亡くなってしまった師賢ですが、地元の人々には尊敬され、
大事に祀られてきたことが分かります。


神社としては130年ほどの歴史しかない「小御門神社」ですが、
その由来を知ると、680年余りの歴史が流れるロマン溢れる神社です。

※ 「小御門神社」 成田市名古屋898
JR滑川駅より徒歩約30分 または、しもふさ循環バス小御門神社前下車

「芝山仁王尊」として知られる「天応山観音経寺」は天台宗の寺院で、
ご本尊は「十一面観世音菩薩」。
上総国薬師如来霊場の28番、結願寺です。
仁王門の仁王様は、火盗除けのご利益があることで知られ、
江戸時代には“江戸の商家で芝山のお札を貼らない店(たな)はない”と言われ、
成田山にも負けないほどの参拝客を集めていました。


本堂正面の見事な彫刻と大屋根
天応元年(781年)光仁天皇の命により、東征大使としてこの地に来た
藤原継縄が、十一面観音菩薩を安置したのが寺の始まりです。
中世には豪族千葉氏の庇護を受けて大寺となりましたが、
後に徳川幕府から十万石の格式を持つ「伴頭拝領寺院」として、
関八州及び出羽。陸奥を加えた管内十州の天台寺院を統括するまでになりました。


参道からの長い石段です。
石段の途中に開けた場所があり、大師堂や客殿が建っています。




仁王門は圧倒されるような堂々とした建物です。
明治2年に起工し、明治15年に完成するという長い年月をかけて再建されました。
総檜造りで、仁王様は畳の間の奥に祀られるめずらしい仁王門です。


吽形像

お顔は隠れていて見えませんが、筋骨隆々のお姿です。

江戸の錦絵に描かれた芝山の仁王様です。
“泥棒がまさに大切な家財を持ち出そうとした時、壁に張った仁王様が動き出して
泥棒を睨みつけたので、驚いた泥棒が腰を抜かして捕まってしまった”という図です。
火盗除けのご利益が広く信じられていたことの証拠ですね。

( 観音経寺ホームページ ⇒ )
平成19年から2年間かけて行われた解体修理で、躰内に書かれた墨書から
次のようなことが分かりました。
至徳二年(1385年) 鐘楼門建立
嘉慶二年(1388年) 仁王像建立
応仁二年(1466年) 大風により鐘楼門、仁王像が損傷
文明二年(1470年) 仁王像の修理(阿形像のみ)
永正十七年(1520年) 阿吽両像を解体修理


さらに階段を登ると手水舎と香閣の向こうに本堂が見えてきます。
享保六年(1721年)の建立です。
空港を離陸した旅客機が轟音を立てて本堂の上を飛んで行きます。

( 観音経寺ホームページより)
本堂の天井には狩野常光による天井画が描かれています。


境内の右手には三重塔が建っています。
寛政九年(1797年)に再建が始まり、天保七年(1836年)に完成しました。
高さは24.98メートル、派手な装飾こそありませんが、重厚な安定感のある造りです。

三重塔の奥には山王社と芝山天神があります。
山王社の建立は寛政八年(1796年)とも元禄十三年(1700年)とも言われています。
華やかな装飾が施され、子授けの神様として信仰を集めています。


さらに奥まった所には墓地があり、その入口に2体の石仏が立っています。
台座には「秩父一番四萬部寺」と「阪東一番杉本寺」と札所の一番寺の名前がありました。
秩父札所の一番、四萬部寺(しまぶでら)には何度も訪ねたことがあり、
ここでその名前を見ると、懐かしいような不思議な気持ちがします。
境内には小さなお社が点在しています。


黒龍大王神は、昔境内の見せ物小屋の大蛇が死んだ時、興行師の夢枕に
龍神が立ち、ここに安置せよとのお告げを得て建てられたと言い伝えられてます。
芝山稲荷は享保四年(1719年)の建立です。

不動堂は昭和29年、岐阜市の安田賢三氏が、子息の菩提を弔うために再建されたお堂で、
安田家の守り本尊であった不動明王が祀られています。
お寺のホームページに興味深い話しが書かれています。 要約すると、
『安田氏のご子息が病に倒れ、「自分はもうこの世を離れねばならないが、不動明王の
行かれる場所が決まる迄は離れられない」と言うので、行者に大神に伺を立てさせたところ
「吾、上総国芝山より出しもの。疾く疾く行きて元の座に安置せよ」とお告げがあったので、
不動明王を奉納した。』
その後ご子息は他界されましたが、遠く離れた地を結ぶ不思議な縁が感じられるお堂です。



本堂の脇には「はにわ博物館があり、近隣から出土した埴輪をはじめ、
貴重な資料が展示されています。(有料・600円)


鐘楼は傷みが激しく、補修工事が必要です。
浄財を求める張り紙をしていますが、しばらくの間は仮住まいです。

両山講の石碑です。
両山講とは、成田山新勝寺と天応山観音経寺の両方を参詣する講中で、
江戸の火消し「新門辰五郎」に遡ると言われています。


飛行機の轟音が絶え間なく響き、境内の静寂を破ります。
仏様も仁王様も、これではお休みになれませんね。
伝統ある名刹も、時代の流れには逆らえません。
※ 観音経寺(仁王尊) 山武郡芝山町芝山298
芝山鉄道芝山千代田駅またはJR総武線松尾駅からバス20分