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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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成田山公園-じっくり散歩(その壱)

今回は成田山公園を散策します。
この公園についてはネット上でもたくさん紹介されていますので、ちょっと趣向を変えて、園内
をゆっくり歩きながら、石造物や金石文を丹念に見て行こうと思います(長期の更新無しにつ
いての言い訳と逃げです-追記もお読みください)。
園内にはとても多くの石造物・金石文がありますので、何回かに分けて紹介することになります。

成田山公園-3

大本堂に向かって右側奥に成田山公園の入口があります。
光明堂の脇や、平和大塔の前など、入口は何カ所かありますが、まずは正面入口(?)から
散策を始めましょう。


成田山公園-51

【 成田山の境内には、東京ドーム約3.5個分 (16万5000㎡)にも及ぶ広大な公園が整備
されています。公園は仏教の生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという思想が組み入れ
られ、不殺生を表す尊い生命をはぐくむ場となっております。また、公園内各所には松尾芭蕉
や高浜虚子など著名な文人たちの句碑があり、先人の足跡を感じることができます。】 

(成田山新勝寺ホームページ)


成田山公園-2

緩やかな石段を上って行きます。

石造物のほとんどは、立ち入り禁止の柵内にあり、風化も進んでいて紀年銘や金石文が良く
読めなくなっています。
可能な限り読み取り、不明部分は「成田山新勝寺史料集 別巻」にある、金石に関する資料
(以下「別巻資料」)等をもとに補足して行きます。
ただ、別巻資料では場所の特定が難しく、類似する石造物の特徴等から推定したものも多く
あります(場所が移動したり、地震等による損壊で撤去されたりしたものもあるようです)。


成田山公園-4

公園に入って直ぐ右側には「永代御膳料」と竿の部分に刻まれた大きな石灯籠が立っています。
「久富■■」と読めるような気がします。
別巻資料に「久富~」とあるのは、大正十一年(1922)の灯籠のみです。


成田山公園-5

 大寺や 玄関飾る 菊懸崖

石灯籠の隣には、こう刻まれた句碑があります。
「中興第十九世 空如」とあるのは、中興十九世の松田照應師の俳号です。

松田照應師は明治三十六年(1903)成田に生まれ、明治四十五年(1912)に成田山に
入山、昭和3年総本山地積院主事、同9年横浜別院主監、13年権少僧正、16年少僧正、
20年大阪別院主監、21年権中僧正、24年中僧正、28年権大僧正、40年大僧正となって、
大本山成田山貫主となりました。 昭和61年(1986)没。


成田山公園-6
*****成田山公園-7
成田山公園-8
*****成田山公園-140

この辺りは「梅園」と呼ばれ、多くの梅の木が植えられています。
早春の頃の成田山公園は、梅のほのかな香りにつつまれます。


成田山公園-9

変わった形のこの灯籠には、「 獻燈 」「東京明治座 大正十年五月建立」と刻まれています。
この献灯の二年後、当時久松町にあった劇場が関東大震災で焼失し、麻布十番の末広座を
明治座と改称して興業するなど、苦難の時代が続きました。


成田山公園-10
成田山公園-11

公園入口の門をくぐって直ぐに左に入る小径があります。
スダジイの大木の根元に立つ灯籠には、「永代御膳料」と刻まれています。
東京の大久保久七氏が、大正十年(1921)に寄進したものです。
大久保久七氏は日本橋富沢町で呉服商として成功を収めた人のようです。(三田商学研究・
第46巻第2号、同第48巻第3号の織物問屋群生化に関する白石 学氏の論文に、何度か
名前が出ています。)


成田山公園-12
成田山公園-105
成田山公園-106

小径の左側は崖で、右側にはたくさんの紫陽花が植えられています。
崖の下は雄飛の滝(いずれ散策に行きます)になるようです。
目を凝らすと、滝の上にある「洗心堂」の屋根が見えます。


成田山公園-13

紫陽花の小径を進むと、藤棚が見えてきます。


成田山公園-14
***成田山公園-59
成田山公園-60

四月下旬から五月初旬にかけて、見事な花を咲かせます。
花の盛りには、ベンチは人々でいっぱいになります。


成田山公園-15

藤棚からメインストリート(?)へ出る場所に立つ灯籠。
竿下部にかすかに「大正十年十二月建之」と読める文字があります。
別巻資料には年代等の記載が無い灯籠が一基載っていますが、記載されている高さから、
「東京旭一心講」の奉納ではないかと思われます。


成田山公園-16

藤棚の横の柵内にある、明治十一年(1878)の照輪上人らの句碑。
「花園」(現成田山公園)の完成祝に、三橋梅隣が主催した句会で詠まれたもののようで、
「如是我聞   園の日に 経よみ鳥や 法の花   黙堂」 (黙堂は照輪上人の俳号)
をはじめ約二十首が刻まれています。
「経よみ鳥」とはウグイスのことで、その鳴き声が「法華経(ホケキョウ)」と聞えることから
こう呼ばれることがあります。


成田山公園-17

照輪上人らの句碑の隣にある小さな石碑には、「大護摩修行」「明治十二年」と刻まれています。


成田山公園ー21

藤棚の脇にある、天明八年(1788)建立の松尾芭蕉の句碑。

「丈六に 陽炎高し 石の上」

この句は、貞享五年(1688)故郷の伊賀の新大仏寺を訪ねた時に、土砂崩れによって
堂塔が破壊され、仏頭のみが石座に残されたさまを詠んだものです。

丈六(じょうろく)とは、仏像の背丈を現す言葉で、仏は一丈六尺(約4.85m)の身長が
あるとされているので、仏像もこれに合わせて作られます。
半丈六像は約八尺(2.43m)、坐像はこの高さが多いようです。


成田山公園ー40
成田山公園-18

藤棚に入らず、そのまま小径を進むと、「獻燈」と刻まれた古い灯籠があります。
台座に「斎木」「平岡」の名前が読めますが、寄進年等は不明で、別巻資料にもこの灯籠は
見当たりません。


成田山公園-108
成田山公園ー19

灯篭の先には、明治四十二年(1909)の東京府消防組木遣会の「木遣塚」が見えてきます。
江戸火消し時代の「ほ組」「と組」「ち組」「ぬ組」「わ組」「か組」が再編された「第五区」(現在の
台東区全域、荒川区の大部分、千代田区の一部を担当)が奉納したもので、不動明王を現す
剣を中心に置き、左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた
三尊の形式になっています。

成田山公園-113
***********成田山公園-114
成田山公園-115

**額堂-99

三尊像は境内の何カ所かで見られますが、光明堂脇にある三尊像の構図とほぼ同じようです。


成田山公園-109
成田山公園-110

木遣塚からメインストリートに出る角にある灯籠。
笠の部分に特徴のある、ずんぐりした灯籠です。
「永代御膳料」「大正九年九月」の文字が見えます。


ほとんどの石碑や石造物への接近が、立ち入り禁止の柵またはロープに阻まれている中、
小さな階段に導かれる石碑があります。

成田山公園ー25

照輪上人の碑。
中興第十三世照輪上人は、文化十二年(1815)上総富津の生まれで、字は貫瑞、黙堂と
号しました。

抑〻成田山公園は、当山光明堂右側丘陵地の一部に始まり、漸次に拡張せられて現公園
となったのであるが、もとこの場所は平坦な芝地で、当山開帳等の場合には、此処に各種の
興業場が設けられ、就中曲馬の興業は最も盛んに行われていた関係から古くは此処を「曲
馬場」と称し、又一方屢〻佐倉藩郷兵の調練場となったところから、一名「調練場」ともいわれ
ていた。然るに其の後照輪上人は、一般參詣者並びに信徒の慰安を図る為め、明治九年(一
八七六)此の地に花園を造る計画を立て、同一〇年此の芝地を開拓して梅樹を植えて梅園と
し、藤棚を設け、池を掘って花菖蒲を植え、更に桜樹・花卉等を裁えて、「花園」又は「花屋敷」
と称し、其の南側には四阿を建て、上人自ら筆を執って「華胥」と題し、屢〻歌人・俳士・文人・
墨客を集めて、清遊を試みた処である。蓋し当時この園は、艶美恰も華胥の境に遊ぶが如き
感があったからであろう。】 
 (「新修成田山史」 P166~167)


成田山公園ー38
成田山公園ー23

公園内の「金蘭不朽」の碑の右方、一段高き丘上にある銅碑で、三段の墓石の上に立ち、
高さ三メートル、巾一・一〇メートルの雲竜の縁付の鋳造物である。明治二一年(一八八八)
一一月二九日昭輪上人の七回忌に際し、三池大僧正の建立せるものであって、照輪上人の
伝記を詳細に誌してある。「照輪和尚之碑」の六字の題額は、北白川宮能久親王殿下の御染筆
にして、撰文は上人と蘭交ありし宗伯浅田惟常氏。書は高橋泥舟氏、鋳造人は川口住の永瀬
正吉である。】 
 (「新修成田山史」 P659  赤字の「昭」は「照」の誤植と思われます)

碑文にはこう記されています。

照輪和尚之碑 二品大勲位能久篆額 泥舟隱士高橋精一書
師諱照輪字貫瑞號黙堂姓原口氏下總國周准郡富津村人父半藏母某氏師生而頴異文政甲申
中從下總國新勝寺主照胤薙染爲僧時年甫十歳天保中就照恵和尚受戒後入京師智積院顕密
二教凡二十余季學就住于江都浅草正福院慶應丁卯衆推襲其師新勝寺職明治中擢七級教導
試補暦階級至権中教正兼眞言學頭当此時寺務倥怱冗費極多師入寺後慈忍化行百廃倶擧称
爲中興繼之築明王支院於東京及横浜高崎等修行徳詣成田道路改架佐倉鹿島橋時供學校警
署育児訓児等費官屢賜銀杯以賞之明治十四年 皇上臨三里塚種畜場以本寺爲行在所特許
拝謁賜紅白縐各一匹金百錠越十五年又臨幸賜菊章銀杯三脚絳錦二巻金百錠他寺之所罕世
以爲栄焉師賦性慈緩端重寡言夙夙起奉事不動明王日佛有盛衰道不虛行在其人勉勵耳終身
持行不倦誨人則務以身卒惓惓唯恐其力之不逮故其道風雅量爲世所欽如此師以文化乙亥二
月廿一日生以明治壬午十一月廿九日示寂世壽六十八僧臘五十八檀越慕之如哀妣師會在都
下十八年與貴紳名流驩又與異邦名士爲詩文之友傍通諸子百家書頗有文字禅之名蓋逃于墨
而仍不失爲儒者也記距今六年余與門生林静斎訪師盧一見如旧識齢亦相若因訂兄弟之盟詩
文贈答殆無虚月師乃爲余撰壽蔵文而今弟子来徴師墓銘潜然不堪存没之感余曷得辞乎為之
銘曰
      仁風披拂成田雨   炎威薫騰聖尊煙
      非斯師誰能爲之   非斯道孰得其縁
      神朗気清仙耶佛   宜矣其徳蚤達天
                  明治十九年九月     明宮尚薬  従六位  浅田惟常謹撰 】  
   
(「新修成田山史」 P659~660)


この「照輪和尚の碑」は、一段と高い場所にありますが、向かって左側に少し下りると、「金蘭
不朽の碑」があります。


成田山公園ー39
成田山公園-22

この碑は、生前の漢方医学の大家である浅田宗伯と、原口照輪との親しい交わりを記したもので、
題額は勝海舟、撰文は石川大僧正、書は浅田惟恭によるものです。

【 際洋医跋扈之時凛然持長沙之正脈者非栗園浅田先生乎當佛教衰頽之日毅然掲不動之法幢
者非我師黙堂上人乎其精神気魄俱足壓當代而動後世矣明治十二年己卯先生拉其門人林静斎
訪上人於我成田山新勝寺先生與上人意気相投年歯相若握手驩甚因直訂兄弟之盟爾來交情日
厚山河雖隔雁魚頻通夢寐之間不能相忘於懐也是實希世之佳遇而雖由先生之與我師有道心相
印者安知非不動明王之冥助陰誘哉十三年庚辰先生自建壽碑題曰寂然不動上人爲之銘十五年
壬午上人示寂先生撰其墓碑銘二十七年甲午先生亦逝矣今玆丁酉静斎與院代峰川照和等相謀
募浄財建一大碑将傳金襴之交於不朽其志可嘉也庶幾千歳之下聞二老之風者使薄夫敦懦夫立
志焉銘曰
       成田之山  蒼翠聳天  両賢相遇  笑指白雲
       宿縁甚深  交誼至重  妙諦仁術  萬古不動
                                        明治三十五年五月
                               成田山新勝寺現住權少僧正照勤謹撰
                               從二位勲一等伯爵勝安芳題額
                                            東京  淺田惟恭謹書 】
(「新修成田山史」 P661)


成田山公園ー26
成田山公園ー28
成田山公園-112

照輪和尚の碑からメインストリートをはさんだ反対側に、木々に埋もれた五重塔があります。
繁みの中には小さな奉納碑が立っています。
別巻資料で該当すると思われるのは、大正十一年(1922)の東京穀物商組合の寄進です。


成田山公園-101
成田山公園-102

五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い茂り、残念ながら
見晴らしは良くありません。
目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるようです。


成田山公園ー30

五重塔の反対側に立つ大きな灯籠。
別巻資料の中に該当すると思われるものは見つけられませんでした。


成田山公園ー33
成田山公園ー34
成田山公園-100
                                               ( 裏 側 )
木(?)のように見える不思議な形状の碑ですが、公園の管理をしていた方の話ですと、木の
化石のようだとのことです。
灯籠奉納碑のようで、かすかに「■田久保」と読めます。


成田山公園-37

左は明治三十九年(1906)の「日露戦争戦勝紀念碑」。
東京・日本橋の太物商(綿や麻の和服商)の小島勇次郎夫妻による建立ですが、上部の
碑銘には「紀念 東郷書」とあります。
「東郷」とは、日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎のことです。
碑文は風化で読みにくくなっているので、「新修成田山史」から引用します。

 【我が国露国との戦争は明治三十七年二月八日に始り、海陸連戦連勝九月四日遼陽を
占領、三十八年一月一日旅順を陥れ三月十日奉天を占領、十六日は鉄嶺も占領せり、
五月二十七日より二十八日までの日本海海戦に敵の船隊をして殆ど全滅に至らしむ後
米国大統領の講和勧告によりてこゝに平和の秋とはなりぬ
           御代なれや凱旋門に菊の花    愛宕
                            香鴻  山岡 昇 書   田鶴年刻 】

裏面には建立のいきさつが次のように刻まれています。

【 此表面は愛宕千葉先生の亀戸に建られし紀年碑を老父勇翁が報国のため先生に乞て
覆刻し成田山に建むといふ時に年七十七其志に感し老父に代りて之を建
嘗て老父の句に
              開戦の二月八日や大勝利
                           明治三十九年冬日
                             東京日本橋区元大坂町太物商
                                  大坂屋二代 小島勇次郎
                                        妻    なか  】


句にある二月八日とは、日露戦争における最初の戦闘に、勝利した日のことです(二月六日・
国交断絶、二月十日・宣戦布告)。

この紀念碑の右側、成田小学校方向へ下る石段の脇にあるのは、は明治四十一年(1908)の
奉納碑で、「永代御膳料 金五百圓」と刻まれています(寄進・横浜 原田久吉・寿以)。」
 
現代の貨幣価値に換算すると4~500万円くらいでしょうか。
原田久吉は天保八年(1837)、静岡の佐久間出身で、横浜を拠点に活躍した名士です。


成田山公園-56

「紀念碑」から少し奥に進むと、明治三十六年の「竜王講内田竜左右頌徳碑」があります。

内田竜左右(文化十三年~明治三十年)は武州葛飾郡桜田村の生まれで、東京・日本橋の
ほか上州、武州に多くの講社を主宰し、安政の本堂再建に大きな貢献をした人物です。
安政の本堂とは、安政五年(1858)に建立された現在の釈迦堂のことです。
現在の大本堂の建立にあたって昭和39年に現在の場所に移されました。


成田山公園ー35

大師像。
ビッシリと張紙があって、刻まれているはずの文字が全く見えません。
寄進者と思われる「立嵜貞助」の名前が読めました。


成田山公園-41

成田山公園-54

成田小学校脇へ下る石段の右側に建つ灯籠。
木々に覆われて刻まれている文字が良く見えませんが、辛うじて「獻燈」「石橋利仁」「大正十■」
などが読めます。


「木遣塚」の先にはズラリと石碑が並んでいます。

成田山公園-116

大東講の護摩木山奉納碑。


成田山公園-117

護摩木山奉納碑。
奉納者は新栄講の石森安兵衛。


成田山公園-119

明治九年(1876)、新栄講の「永代護摩木山奉納碑」。
「山坪数四千八百三十五坪」と刻まれています。

護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。
「酒々井町篠山新田字大山」と読めますが、現在の国道51号線の「公津の杜入口」の信号の
ちょっと先、酒々井町に入って直ぐの右側、ゴルフ練習場やガソリンスタンドがあるあたりです。

手前は奉納者名簿。


成田山公園-120

大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」。
山梨・上野原の弘敬講中の寄進です。


成田山公園-121

これは句碑のようです。
明治三十四年(1901)の建立で、「吉田・太田・和田」等の名前があり、6首の俳句が刻まれて
います。


成田山公園-122

「永代護摩料奉納碑」。
木に隠れて見にくいのですが、「新明講」「君津郡金田村」と読めます。
君津郡金田村は、現在の木更津市の西部にあたります。


成田山公園-123

明治三十三年(1900)の「敷石紀念碑」。
「神力講・古谷野」の名前があります。
手前は「鉄柵奉納連名碑」で、明治三十九年(1906)のものです。


成田山公園-124

明治三十六年(1903)の永代御膳料奉納碑。
弘明講社と記されています。

横にある永代御膳料奉納碑は,大正二年(1913)のもので、「中村平右衛門」の名があります。


成田山公園-125

左は大正三年の(1914)「玉垣建設補助人名碑」。
真ん中は大正六年(1917)の「百度大願成就」記念碑。
右は明治四十四年(1911)の神生講の「永代護摩料奉納碑」。


成田山公園-126

明治四十年(1907)の「永代御膳料奉納碑」。


成田山公園-127

「永代資堂金奉納碑」。
明治四十年(1907)に深谷町と記されています。
「金五百圓」を何かの時の資金として新勝寺に奉納したものです。


成田山公園-129

「永代御膳料奉納碑」。
「不動講」とありますが、別巻資料には該当しそうなものが見つかりません。
柵の奥にあるため、良く見えませんが、裏面に「嶋野念」の名前が読めます。


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大正十一年(1922)の五重塔。
「栃木縣日光町」と刻まれています。


成田山公園-130
成田山公園-141

五重塔の奥には明治二十四年(1891)の「永代大護摩修行碑」があります。
成田町の丸成元講社が建立しました。
横にある石碑には講の由来が記されています。

【 丸成講社起因碑
  夫天者生々発育之気而不能無不時晦明風雨人者万物之霊長而不免有不虞疾病災害是故人
  皆欲去禍害就福利仰神明仏陀之冥護亦古今之常情也抑丸成元講先師原口教正之所金圏而
  現住三池僧正之継其志信者長谷川社長及副長諸氏協同組織之実以明治七年起社員三十毎
  歳三回必修大護摩以祈講社安全所謂畏彼天命以真実之心行善良之事者社運日趨隆盛不宜
  哉雖是因明王之冥護然亦諸氏積善之余慶在新勝寺多年能知其事実故不敢辞也 】
 

天候不順による災害・疫病から、仏陀に救いを求めて講を組織したようです。


今回はこのへんで。
この先はまたいずれ次回に。


成田山公園-133
成田山公園-134

取材を始めた夏の盛りから5ヶ月以上経ち、公園は紅葉の時期を終わろうとしています。

梅がほころぶ早春の日まで、石造物は落ち葉が舞う木枯らしの中で立ち続けます。




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テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公園・施設 | 11:38:10 | トラックバック(0) | コメント(4)