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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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気になる石仏・如意輪観音(1)~廃寺跡で何を想う如意輪観音
如意輪観音は禍を福に転じて、あらゆる人々の願いを叶える観音様です。
如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意宝珠
と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意宝珠を
持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、第二手に
は蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県那珂
市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置いて
いて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。




一ノ宮-34
                    廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像


印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。

一ノ宮-51

【一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。


長見寺如意輪-1

「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。

寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。


長見寺如意輪-19
長見寺如意輪-20

廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】



長見寺如意輪-2
長見寺如意輪-6
長見寺如意輪-7

穏やかな優しい表情です。


長見寺如意輪-3
長見寺如意輪-15
*******長見寺如意輪-4
長見寺如意輪-13


「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。


長見寺如意輪-14
長見寺如意輪-5

右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。


長見寺如意輪-8
長見寺如意輪-9

この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。


二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡


長見寺地図

                             「長見寺跡」  印旛郡栄町矢口1 




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テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

如意輪観音 | 15:40:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・青面金剛(1)~消えた寺に取り残された二基の青面金剛

青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。



青面金剛・東陽寺-10

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


青面金剛・東陽寺-24
東陽寺ー2
*******東陽寺ー3

左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。

右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


青面金剛・東陽寺-19

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


青面金剛・東陽寺-27
青面金剛・東陽寺-4

さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。


青面金剛・東陽寺-20

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。


青面金剛・東陽寺-16

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。


青面金剛・東陽寺-28

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。


二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

青面金剛・東陽寺-14


初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

東陽寺ー9
                                          (2015年5月 撮影)

「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年) 

永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。

その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。


東陽寺ー10
******東陽寺ー11
***********東陽寺ー12

青面金剛・東陽寺-12

そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。


青面金剛・東陽寺-13

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。


青面金剛・東陽寺-1


成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


東陽寺ー25 (2015年5月 撮影)

青面金剛・東陽寺-11

人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。



AAA野毛平地図

                          「妙照山東陽寺」   成田市野毛平614-2




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青面金剛(庚申塔) | 19:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・地蔵菩薩(1)~神光寺の首無し地蔵

釈迦の入滅後、弥勒菩薩が悟りを開くまでの間(五十六億七千万年)、この世には仏が
いない無仏時代が続きます。
この無仏時代に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生の教化・救済を
行うとされているのが地蔵菩薩です。
袈裟を纏い、剃髪で、左手に宝珠を捧げ右手には錫杖を持つ像容が一般的です。
この世で徳を積むことなく幼くして亡くなったため、賽の河原で鬼にいじめられている子供達
を救うとも言われます。



今回は、野毛平の神光寺にポツンと立っている、首を落とされたお地蔵様です。                         

地蔵・神光寺-13
地蔵・神光寺-16
地蔵・神光寺-2
地蔵・神光寺-4
***********地蔵・神光寺-23

全く人の気配がない野毛平の山道に、荒れ果てた神光寺を見つけたのは四年前のことでした。
境内への入り口に、ポツンと地蔵菩薩の石像が立っていました。

その姿は、私の胸に小さな衝撃を与えるものでした。
明治初めの廃仏毀釈の嵐の中で首を落とされたことは、疑う余地が無いでしょう。
首だけでなく、宝珠を持つ左手と錫杖を持つ右手をも落とされた無残な姿は、受けた仕打ちに
150年経った今も呆然として立ち尽くしているかのようでした。

誰が乗せたのか、セメントで作られた間に合わせの頭部には、線描のような目鼻が付けられて、
その表情がまた、納得できない哀しみを表しているように見えました。

神光寺ー3
                                           (平成27年5月撮影)


地蔵・神光寺-14

四年ぶりに見た地蔵菩薩には、セメントの頭部がありません。

地蔵・神光寺-25
******地蔵・神光寺-27
***********地蔵・神光寺-28

誰かがいたずらで持ち去ったのでしょうか。
気のせいか、砕かれた宝珠と錫杖の痕も少し風化が進んだように思えます。


地蔵・神光寺-37
地蔵・神光寺-38


「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
江戸時代にはすぐ隣にある「鎮守皇神社」の別当でした。

『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。

また、「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記されています。
『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』
 (P781)

神光寺は、少なくとも350年以上の歴史があるお寺ですが、残念ながら本堂も境内も荒れ放題。
野毛平地区は、成田空港の騒音指定地域となって、住民の大半がこの地を離れたのですが、
檀家・住民が離れていった寺が、わずか数十年でこれほどまでに荒廃するとは・・・・


地蔵・神光寺-15

台座には、「元文三年戊午」「十五夜念佛開眼」「八月吉日 施主二十一人」と刻まれています。
十五夜念佛講による月待塔の刻像塔で、元文三年は西暦1738年、約280年前のものです。
月待塔には文字塔が多いのですが、これはめずらしい刻像塔です。

月待とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まり、
飲食をしたりお経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
月待行事は室町時代から確認されていて、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行しました。
ここ野毛平では、全国的な流行よりだいぶ早い時期から月待行事が行われていたようです。


地蔵・神光寺-17

台座の脇に石ころが・・・
笹や枯葉を払い、付いた泥を拭うと、それは地蔵菩薩の頭部、あのセメントの頭部でした。
いたずらではなく、風か地震によって落ちてしまったのでしょう。


地蔵・神光寺-18

そっと乗せてみました。
四年前のあの顔です。
人間の行いの理不尽さを哀しむような、そんな表情です。


地蔵・神光寺-19
地蔵・神光寺-20

泥はやがて雨が洗い落としてくれるでしょう。


地蔵・神光寺-34
地蔵・神光寺-29
地蔵・神光寺ー41

この境内に再び人々が戻ってくることはないでしょうが、本堂が朽ち果て、境内が竹や雑木に
覆われるまで、地蔵菩薩像はここに立ち続け、時の流れを見つめているのでしょう。



AAA野毛平地図

                            「天照山神光寺」   成田市野毛平497



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地蔵菩薩 | 22:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~栗源の「かくれ卵塔」

県道44号線の沢のバイパス沿い、「道の駅くりもと」の隣に、気になる看板があります。

卵塔-27

「かくれ卵塔」とは何でしょう?
「卵塔」(らんとう)とは、主に僧侶の墓塔として使われる石塔のことで、無縫塔(むほうとう)
とも呼ばれます。

浄土寺-13  香取市大戸・浄土寺の卵塔 
長泉寺ー33   成田市所・長泉寺の卵塔

「日講聖人遭難之墓」と書かれた小さな手書きの案内板が道路に向かって立っています。

卵塔-1

「安國院字恵雄後六聖人一人啓蒙逑著京都於賀氏日習中村壇林等
野呂壇林学徒養成幕府土水供養寛文六年五月廿七日日向国佐土原
配流仝所七十三歳」
(赤字部分は判読が難しく、一応、逑著と読みました。)

「遭難之墓」とは奇妙な表現です。
歴史上の著名な人物の墓が何カ所にもあることは珍しいことではありませんが、ここは「墓」
ではなく、「遭難之碑」といった意味でしょう。
ちなみに日講の墓は、配流の地である宮崎市佐土原町大字上田島字新山にあります。

後ノ六聖人」とは、寛文五年(1665)から翌年にかけての法難(寛文の惣滅)で配流となった
次の六人の僧侶を言います。
平賀本土寺の日述(伊予吉田に配流)、興津妙覚寺の日堯(讃岐丸亀に配流)、雑司ケ谷
法明寺の日了(讃岐丸亀に配流)、野呂檀林の日講(日向佐土原に配流)、玉造檀林の日浣
(肥後人吉に配流)、自証寺開山の日庭(寛文の惣滅では寺を出るだけで済んだが、貞享四年
(1687)に佐渡への流罪となる。)
ちなみに、寛永七年(1630)の「寛永法難」で配流となった次の六人の僧侶を「前の六聖人」
と言います。
池上本門寺十六世・飯高檀林化主の日樹(信濃伊那に配流)、中山法華経寺・飯高檀林の
日賢(遠江横須賀に配流)、平賀本土寺の日弘(伊豆戸田に配流)、小湊誕生寺十六世・
小西檀林能化の日領(陸奥中村に配流)、中村檀林の日充(陸奥磐城平に配流)、碑文谷
法華寺の日進(信濃上田に配流)。


卵塔-4

同じ文面の石碑が階段の上にあります。
「安國院ト号ス恵雄後ノ六聖人ノ一人啓蒙逑者京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ
後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年(西暦一六六六年)五月廿七日
日向ノ國佐土原ニ配流仝所ニ寂ス七十三歳」

入口にある説明板からの引き写しでしょうが、「守」は「字」の間違いでしょう。
ここでの「字」は、「あざな」と読み、日講のあざなが恵雄であったことを示しています。
また、「逑者」となっている部分は、「逑著」よりは何となく意味が通じるような気がしますが、
日講が「啓蒙録内」「説黙日課」を著わしたことを考えると「逑著」もあり得ると思います。
「逑」と「著」で、多くの著作という意味を表しているのではないか、と勝手に解釈しました。
この石碑は、平成12年に「正覚寺沢講社」が建立したものです。

日講(にっこう)は、寛永十三年(1636)京都・妙覚寺の日習に師事し、正保二年(1645)
飯高檀林(現・匝瑳市)や中村檀林(現・多古町)で学んだ後、寛文元年(1661)野呂檀林
(現・千葉市)の講師となった日蓮宗の僧です。
寛文五年(1665)幕府は日蓮宗の寺院に対して、「幕府からの朱印地は国主が寺院に対し
供養したものと認める旨の手形」の提出を命じましたが、不受不施派はこれを拒否しました。
日講はこの政策を非難する「守正護国章」を呈上し、さらに寛文六年(1666)の幕府からの
広範囲な国主の供養についての手形の提出命令をも拒否しました。
これにより、日講は日向の佐土原藩に流罪となりましたが、藩主の島津忠高の帰依を受け、
73歳で亡くなるまでこの地で布教を続けました。

飯高檀林-112
飯高檀林(飯高寺・匝瑳市)  ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。
*******日本寺ー51
          中村檀林(日本寺・多古町)   ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。


卵塔-2

数段の階段を上ると、檻のような金属の柵に覆われた石碑(?)を中心とした、数基の石碑が
見えます。


卵塔-3

左手の説明板には次のように書かれています。

「法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)また施しもしない(不施)という
主義主張の不受不施は京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですがその主張活動は幕府
より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗門となった。寛文五年(一六六五)同派の日講は
佐土原へ流罪となったが一萬部誌経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後弟子の
日念等がその意志をつぎ宝永二年(一七〇五)に建てたものです。しかし寛政六年(一七九四)
当時の支配者への内通により石塔は三日三晩焼かれ そして打ちくだかれ土中に埋められま
した。その後明治九年(一八七六)その宗教活動が許され沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し
組み合わされました。」

「不受不施」とはどういった教義なのでしょうか。
分かりやすい説明がなかなか見つかりませんが、日講にゆかりのある多古町の町史に、簡潔
な説明を見つけました。

 この派は日蓮直弟子の六老僧の一人、日朗の流れから派生したもので、宗祖日蓮の、世界
の主は釈迦一人であり、時の為政者であっても釈迦の導きを受けるべき人間であるという思想
を純粋に伝える手段として、他の宗旨を信じている者の供養を受けず、また他の宗旨の僧へは
供養を施さないという教義を強固に守り続けた宗旨であり、その純粋性は既成宗派に対しても
新風を吹き込んだのであった。】 (
「多古町史 上巻」 昭和60年 P335) 

慶長四年(1595)豊臣秀吉の「方広寺大仏殿千僧供養会への出仕」命令をめぐる日蓮宗内の
論争に端を発し、徳川家康によって日奥が対馬に流されて以来、幾度かの変遷を経て、明治
九年(1876)明治政府による再興許可が下りるまでの間、不受不施派への弾圧は続きました。


卵塔-5

「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの石碑には、微かに「元禄●●癸●」と読める文字が・・・。
無理して読めば「元禄十六」かもしれません。
元禄十六年(1703)の干支は癸未(みずのとひつじ)ですから、多分そうでしょう。


卵塔-6

「南無妙法蓮華経」と大きく刻まれた下に、「日浣聖人」と記されています。
側面には、「延寶第四丙辰七月九日」とあり、裏面には「奉開眼勤唱●●四萬部」とあります。
延宝四年は西暦1676年、四代将軍徳川家綱の治世です。

日浣については、京都・妙覚寺に「日述・日講・日浣」の肖像画があること、江戸時代に多古町
の蓮華寺に開かれた「玉造檀林」(寛文六年廃檀)で講師を務めていましたが、不受不施派の
弾圧により、寛文五年(1665)に肥後の人吉へ流罪となったこと、程度しか資料が見つかりま
せんでした。


卵塔-7

この石碑は上部が欠けており、風化もあって文字は全く読めません。


卵塔-8

中心にある日講聖人の碑。
短冊のように切り刻まれていますが、かろうじて「南無妙法蓮華経」と刻まれた一片と、「積而
至于●萬千百餘部惣●」の文字が読めます。
その他には「●萬三千八百卅」「●月十日七十三歳●寂」等の文字がが見えます。
これが、日念らによって建立された日講の「万部塔」のようです。


卵塔-17
卵塔-19
*****卵塔-18
***********卵塔-25

金属の檻は最近作られたもので、以前は太い針金で束ねられていました。
きれいに整理された現在の姿より、以前の針金で縛られた姿のほうが、弾圧の状況を生々しく
伝えていたような気がします。
 
くりもとー2
くりもとー6
*******くりもとー7

「栗源町文化財資料目録」(平成5年)に、「日講墓石 元禄十一年(1698)」として次のよう
な記述を見つけました。

 沢 西部山林内
寛文六年(一六六六)日蓮宗不受不施派の法難で日講上人九州佐土原へ流罪。 宝永二年
(一七〇五)日念は同上人のために佐土原の石(栗山川は信者の村送りで運んだ)で万部
成就の塔を建て供養した。 これも寛政六年(一七九四)三日三晩鯨油をかけて焼き砕かれ
現在は鉄線で束ねてある。】

「千葉県の歴史 通史編 近世2」(平成20年)には

【 また、日向国佐土原(宮崎県佐土原町)に流されていた日講の死後一七〇五(宝永二)年、
沢村(栗源町<香取市>)に、日講の万部石塔(経典一万部の読誦を記念した石塔)が建立
されていた。 一七九四年の弾圧事件では、沢村の石塔が破壊された。】
 (P803)

との記述があります。

古い地図を見ると、細い農道のような道端に「かくれ卵塔」が記入されています。
この場所は、現在は県道44号線のバイパスが走り、「道の駅くりもと」が建っていますが、
卵塔の位置は変わっていないようです。


卵塔-9

「南無妙法蓮華経」の下に、「寛永八●未五月十九日 日樹聖人」「寛永七庚午三月十日 日奥
聖人」「延宝九辛酉九月朔日示寂 日述聖人」と刻まれています。
寛永七・八年(1630・1631)は三代将軍家光の時代、延宝九年(1681)は五代将軍綱吉の
時代です。(朔日(さくじつ)は一日のこと、示寂(じじゃく)とは菩薩や高僧が死ぬこと。)

日樹(にちじゅ)は、池上本門寺十六世。
飯高檀林・中村檀林で修行を積み、飯高檀林七世の化主(管長)となりました。
元和五年(1619)に池上本門寺に入り、妙覚寺の日奥に同調して受布施派と対立し、寛永七
年(1630)信濃国伊那郡飯田(現長野県飯田市)へ流罪となりました。

日奥(にちおう)は妙覚寺一九世、号は仏性院・安国院。
不受不施派の祖とされています。
文禄四年(1595)の豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕命令にただ一人不受
不施の教義に反するとして反対し、丹波(京都府)小泉に隠棲しました。
慶長四年(1599)徳川家康が主宰する供養会も拒否して、元和九年(1623)まで13年間の
流罪となました。
慶長十七年(1612)許されて京都に戻ったものの、寛永七年(1630)受・不受の論争が再燃し、
幕府は日樹・日賢・日弘・日領・日進・日充の六上人を流罪とし、その直前に没した日奥も死後
にもかかわらず再度の対馬流罪となりました。

日述(にちじゅつ)は平賀生知院二十一世。
日浣と同様に資料が少なく、平賀生知院二十一世であったとき、寛文六年(1666)の法難で
伊予の吉田に追放されたこと、追放先の吉田藩では厚遇されたこと、寛政十三年(1801)に
完成した「租書綱要刪略」の編纂に初期段階で携わったこと、程度しか分かりませんでした。


卵塔-10

この仏塔は、風化で文字は全く読めません。


卵塔-11

「南無妙法蓮華経」「安住●日念聖人」「享保十七壬子」と読めます。
享保十七年(1732)は八代将軍吉宗の治世で、西日本を中心に長期にわたる悪天候による
凶作(享保の大飢饉)が発生しました。

日念(にちねん)の号は成就院。
市原の四天王山法光寺の開基とされています。


卵塔-12

昭和49年に編纂された「栗源町史」にも、大正十年編纂の「千葉縣香取郡誌」にも、全くと
言って良いほどこの卵等に関する記述が見つかりません。
風雨に晒されてほとんど文字が消えているこの説明板で、「日念」、「日浣」の名前のほかに、
「日東聖人」の名前が読めますが、石塔のどれが日東聖人のものかは分かりません。
日東聖人は池上本門寺の十七世で、蓮乗院と号し、慶安元年(1648)に没しました。


卵塔-26
卵塔-16
*******卵塔-14

すぐ隣には「道の駅くりもと」がありますが、この「かくれ卵塔」に気付く人は少ないようです。


卵塔-13

「香取民衆史 7」(香取歴史教育者協議会 1994年)に、「信仰を守るたたかい-不受不施
派の法難」(野口政和氏)の論文が掲載されています。

【 法難遺跡
地下活動のため、あまり史料や遺跡が残ってはいないが、今わかっているものを紹介して
みたい。 多古法難のときに砕かれた日講の石塔が栗源町沢に現存している。 日講は、
寛文の法難により一六六六(寛文六)年、九州の日向佐土原へ流された野呂檀林(千葉市
野呂)出身の僧。 石塔は。日講の一万部読経完成を記念して、流された日向佐土原・大坂
高津衆妙庵・沢村(栗源沢)と三基たてられた。 沢村では一七〇五(宝永二)年にたてられ
ている。 高さは約一、五メートル、台石の高さは約三〇センチ。 多古法難では鯨油をかけ
て三日三晩焼き水をかけて砕いたと伝えられている。 また、焼いた三人の人夫は、一人は
火傷、一人は杵にあたり、一人は風呂釜で腹を焼いて、それぞれ死んだと伝えられている。
信者の弾圧に対する憎悪、なお信仰を守ろうという強固な意志がよみとれる。 石塔は砕い
て埋められたが、沢の信者である堀越義昌氏が生涯をかけてさがし、掘りだされ現存してい
る。】 
(P49~50)


卵塔-0

                   「かくれ卵塔」(道の駅くりもと)  香取市沢1372-1




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成田山公園ーじっくり散歩(その弐)
散歩を再開する前にちょっと道草(というより、脱線ですが・・・)。

明治十九年(1886)六月に作成された「下總國下埴生郡成田村誌」に「名勝」として次の
ような記述があります。

【新勝寺境内ノ東端ニアリ、東和田、日吉倉ノ田畝ヲ東南ニ望ミ本村ヲ直下トス。風光壮快
ナリ。本地ハ新勝寺住職故原口照輪是茲ニ見ルアリテ、好樹木数株ヲ漸次ニ他ヨリ移シ
蕃植シ求メタレハ、樹林蒼々トシテ名勝ノ区画ヲ存スル。】


前回に「(日光の)五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い
茂り、残念ながら見晴らしは良くありません。目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるよう
です。」
と触れた場所が、その「名勝」と言われた所だったのかも・・・と思いつきました。

成田山公園-278

これがその場所。 柵で先には進めませんが、ちょっとした台地のようなスペースがあります。

Map成田山公園周辺

成田山公園-101 前回掲載の写真
  東南の方向 →  成田山公園-267

残念ながら東南の方向は鬱蒼と樹木が生い茂り、遠くを見渡すことができませんが、地図で
見るかぎり、ここから東南方向には東和田・日吉倉があります。
当時のここからの景色は、遙か先まで見渡せるのどかなものであったことでしょう。

成田山公園-276成田山公園-277

東和田方向から成田山を望遠で望むと、ビルの先に大本堂の大屋根が見えます。
明治十九年当時なら、視界を遮る高い建物などは無く、正面に当時の本堂(現在の釈迦堂)が
しっかり見えたでしょうね。

さて、前回からの続きです。

成田山公園-128 前回見た日光町の五重塔から小径を挟んだ、多くの石碑で囲まれた
小さなサークルのような場所から始めます。

成田山公園-201

大正十二年(1922)の「永代御膳料奉納碑」。
「磐城平町 大新榮講 鈴木得鑁」と刻まれ、世話人として井上貞治郎の他十二名の名が
刻まれています。
平町は現在のいわき市で、この奉納碑が建立された当時は石城郡平町。


成田山公園-232

(左奥) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
      「幕張村 市原任三郎」と刻まれています。
      幕張村は現・千葉市花見川区と現・習志野市にまたがる地域にあった村です。
      明治二十八年(1896)には町制施行で「幕張町」になっていますが、この時代は
      住民にとって新たな行政区域の浸透が薄かったのでしょうか?
(手前) 大正二年(1913)六月の「永代御膳料奉納碑」。
      「栃木縣下都賀郡中村 石川政之助 石川福次 石川寅之進」と読めます。
      「下都賀郡中村」は現・小山市。
 (左)  大正三年(1914)三月の「永代御膳料奉納碑」。
      「石川縣能美郡小松町 佐野とよ」と刻まれています。
      能美郡小松町は、現在の小松市です。
 (右)  大正三年(1914)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
      「武藏國埼玉郡新方村 金岡祐元」と読めます。
      新方村は現・越谷市。


成田山公園-234

(左)  大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
     「陸奥國八戸町 高橋常太郎 妻ふく」と刻まれています。
     八戸町は当時は三戸郡に属していて、現在の八戸市の中心部あたりです。
(中)  明治四十一年(1908)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     香取郡香西村岩澤新兵衛と刻まれています。
     香西村(かさいむら)は現・香取市の西部にあたります。
(右)  大正五年(1916)八月の「永代御膳料奉納碑」。
     「石川縣能美郡小松町 渡邊そと」と読めます。
     

成田山公園-235

(左)  大正十五年(1926)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     「猿島郡新郷村 長澤茂一郎 長澤善三郎」と記されています。
     猿島郡新郷村は、現・古河市になります。
(中)  大正六年(1917)の「明大講記念碑」。
     「水戸市上市」と刻まれています。
(右)  大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
     「府下大井町 白米商 鈴木保五郎 仝未次郎 仝タツ」と記されています。


成田山公園-236

(中央左) 明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「茨城縣結城郡石下町 山田清三郎」と刻まれています。
       結城郡石下町(いしげまち)は、現・常総市になります。
  (中)  大正六年(1917)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
       福島縣石城郡平町 小林サツ」と読めます。
       石城郡平町は、現在のいわき市。
  (右)  明治四十五年(1912)二月の「永代御膳料奉納碑」。
       福島縣邑樂郡六郷村 鑓田三四郎 仝利平」と刻まれています。
       邑樂郡六郷村は、現・館林市になります。
     

成田山公園-205

今さらですが、「講」とはどんなものなのでしょうか?
「新修成田山史」(昭和43年)に次のような解説があります。

【 講について
 講とは本来講演の意味で集会の席上で経論等を講演論議することを云うのである。「法華
 八軸」を講議するのを「法華八講」と云い「最勝王経」・「仁王経」等を講議するのを「最勝講」
 ・「仁王講」と云うが如きである。かくの如く講の歴史は頗る古く、推古天皇一一年に聖徳太
 子が諸法師を小墾田宮に招いて「安宅経」を講ぜしめたこともあり又太子自身も「勝鬘経」・
 「法華経」を講ぜられたことは歴史上有名なことである。尚其の後も各時代、宮中及び諸寺
 で行われたことは非常に多く特に「仁王経」・「金光明最勝王経」の読誦は宮中の恒例となっ
 ていたのである。こうした上堂方の行事が民間に移動し、一定の日を決めて庶民が仏寺に
 集会して僧侶を請じて法談を聴聞することが行なわれるようになった。そこで「観音講」・「地
 蔵講」等と称せられるようになった。 (中略) 江戸時代の随筆「翁草」の一九一の雑話の中
 に「昔より仏家に観音講等あり、近世伊勢講と称し、結衆銭を集め貸之・・・・・・」とある。この
 風習は参詣の為めに積立てをした金を講員に貸すまでに発展したもので先述の「たのもし
 講」の起源とも云うべきであろう。偖て、古代に於いては上述の如き意味であったが、其の後
 語義が変じて遂に仏事參詣等宗教的行事の為めに集会する意になり、その集団を講又は
 講社と称し其の加入者を講中と云うようになって登山参詣と云う宗教的行事に発展したので
 ある。」 
(P349~350)

多くの奉納碑に刻まれている「講」や「講社」とは、簡単に言えば、 神社・仏閣への参詣や寄進
等を行なう信者の集まりです。


成田山公園-237

 (左)   大正六年(1917)九月の「永代御膳料奉納碑」。
       「葛飾郡大島町 大須賀菊次郎」と記されています。
       葛飾郡大島町は、現在の東京都江東区の東北部にありました。
(中左)  大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
       「東京芝區新錢座町 藤本恭助」と刻まれています。
       新錢座町は、現在の港区浜松町1丁目あたりで、寛永十三年(1636)に江戸で
       最初の銭貨鋳造所が設けられたことから付けられた地名です。      
(中右)  大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
       群馬縣邑楽郡三●谷村 三田庄作」と読めます。
       この時代の邑楽郡の村名の中には該当しそうなものはありませんでした(あえて選
       べば、四ッ谷村・入ヶ谷村の二村、または田谷村・中谷村・細谷村・鍋谷村・仙石村
       ・籾谷村の六村)。
 (右)   大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「茨城縣那珂郡芳野村 水戸藩士族 鈴木昂之介」と刻まれています。
       那珂郡芳野村は現在の那珂市の西部にあたります。
       「士族」とは、明治維新後に旧武士階級をはじめとする禄を得ていた者のうち、華族
       に取り立てられなかった者に与えられた身分で、戸籍には「士族」と身分表示が記さ
       れていました。
       この制度は昭和22年の民法改正時まで続きました。
       あえてここに「士族」と刻んだ鈴木昂之介氏の心情とは、武士階級の崩壊から50年
       経っても捨てきれぬ「誇り」なのか、単なる過去への郷愁なのか、それとも時代への
       怨嗟なのか?
       できれば聞いてみたい気がします。


成田山公園-206

明治四十五年(1912)一月の「永代資堂講奉納碑」。
「新榮講 行者 野村英海」と刻まれています。
台座には「武蔵 川越」と彫られています。
さらに「比企郡松山 行者 中村海運 同郡南吉見村 行者 岡野海寶」の文字も読めます。
比企郡松山は現在の東松山市、南吉見村は現在の比企郡吉見町です。
左の小さな碑は、大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
川越と武州松山の新榮講の奉納です。


成田山公園-239

(左) 大正七年(1918)三月の「永代御膳料奉納碑」。
    「平沼福次郎」と刻まれています。
    崩し字で読みにくいのですが、「請負業」と刻まれているようです。
(右) 大正八年(1919)二月の「永代御膳料奉納碑」。
    「文京 日本橋區元濱町 合名會社 中村商店」と刻まれています。
    隣の灯籠は、竿の部分に「御半」と刻まれていますが、その他の文字は読めません。
    「御半」の意味は分かりません。
    「御半下」なら、召使い・下女という意味ですが、灯籠に刻む文字とは思えません。


成田山公園-240

(手前) 明治四十三年(1910)三月建立の「永代御膳料奉納碑」。
     「横濱市伊勢佐木町 足袋卸商 岡田佐金次」と刻まれています。
(中央) 大正八年(1919)九月建立の「永代 護摩料」奉納碑」。
     「東京浅草千束町 鳥料理 みまき(「ま」は崩し字)」と刻まれています。
(右)  大正五年(1916)九月建立の「永代御膳料奉納碑」。
     「北海道網走港 福米講」と読めます。
(右奥) 大正八年(1919)五月建立の「永代御膳料奉納碑」 
     「東京府下日暮里元金杉 東京硝子管製作所」と記されています。


成田山公園-209

大正七年(1918)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「弘運講」「埼玉縣大里郡大寄村」「講元 森田周藏」と刻まれています。
大里郡大寄村は現在の深谷市になります。


成田山公園-242

大正元年(1912)の「成田山 報徳會松戸支部記念碑」。
会長の渋谷保太郎と支部長の澁谷保太郎の名前があります。


成田山公園-243

大きい方は、大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡植水村 蓜島辨作」と刻まれています。
北足立郡植水村は現在のさいたま市西区。
もう一基は大正七年(1918)五月の「永代御膳料奉納碑」。
「内陣五講」「講元 五十嵐寅七 高橋忠治」と刻まれています。
「内陣五講」は、「内陣十六講」・「浅草十講」とともに成田山との強いつながりを持った講でした。
「新修成田山史」には、最も古い講として東京の「丸下講」を挙げた後に、

【この講に次いで古いものは「御内陣五講」・「御内陣十六講」・「浅草十講」等があり当山に最も
縁故が深い講社とせられている。】
 (P351)

と記述しています。


成田山公園-244

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「山梨縣谷村町 奥孫三郎」と刻まれています。
谷村町は現在の都留市になります。


成田山公園-245

(手前) 「久保たか先生之碑」。 「一心講」と刻まれています。
      「久保たか先生」については手掛かりが見つかりませんでした。 
(奥)   明治三十二年(1899)十二月の「一心日護摩講記念碑」。
     「東京府南千住」「先達 塚本施心」と刻まれています。


成田山公園-246

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
東京市日本橋兜町 行木松五郎」と刻まれています。


成田山公園-247
成田山公園-286

大正七年(1918)の「永代護摩修行料奉納碑」。
「大新榮講」「社長 鈴木得鑁」の文字が読めます。
台座の両脇には不動明王の脇侍である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子( せいたか
どうじ)像が置かれています。

成田山公園-218
成田山公園-215   制吒迦童子
成田山公園-219
成田山公園-216   矜羯羅童子 

ここに矜羯羅童子と制吒迦童子像が置かれていることは謎です。
三尊像であれば、中央に不動明王を象徴する剣が置かれているはずですが、見当たりません。
欠けたり、失われたような痕跡もありません。

成田山公園-284成田山公園-285

さらに、両童子像はまるで両腕を切り取られたように失っています。
これを見たときに一瞬、廃仏毀釈が頭に浮かびましたが、奉納碑が建立された大正中期には
とうに廃仏毀釈の嵐は過ぎ去っていました。

もしかしたら、この童子像は奉納碑の建立後にどこからか移設されたのではないか?
それは、童子像が置かれた火山岩にはめ込まれた名板にある「田方郡伊東町」(現・伊東市)
や「相州中郡」(現・神奈川県中郡)から運び込まれたのかもしれない。
廃仏毀釈の被害に遭って、修復不能な破損を受けた不動明王の剣を除き、かろうじて残った
童子像を講中の人達がここへ安置した・・・。
両童子像のどこか物憂げで寂しそうな表情を見ていると、こんな想像をしてしまいます。

成田山公園-280成田山公園-281
        前回紹介した木遣会の童子の表情
成田山公園-283成田山公園-282
         今回の奉納碑の童子像の表情


成田山公園-250

大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「大新榮講」「鈴木得鑁」「伊豆伊東町 山田屋 井原平助」の文字が読めます。
「鈴木得鑁」の名前はあちこちで見かけますが、その人物像は不明です。


成田山公園-221

(左) 大正八年(1919)十月の「永代御膳料奉納碑」。
    「岩根政太郎事 家元 港家大夢」と刻まれています。
    「港家」は浪曲界の一門です。
(中) 明治四十五年(1912)四月の「永代御膳料奉納碑」。
    「埼玉縣北足立郡白子村 常燈元講社 社長 榎本英喜」と記されています。
    「北足立郡白子村」は現在の和光市の一部です。
(右) 大正七年(1918)十月の「永代御膳料奉納碑」。
    「香取郡大須賀村 高木重左衛門 高木伊助」と刻まれています。
    「香取郡大須賀村」は旧大栄町・現成田市の一部です。


成田山公園-222

明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京兜町 川口關之助 川口佐一郎」と記されています。


成田山公園-224

「永代護摩料奉納碑」(建立年不明)。
「開永講」「初代先達 平井觀全」と刻まれています。
手前は「永代護摩講連名碑」。


成田山公園-225

大正六年(1917)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「大成講社 先達 大竹良蔵 一鋤田與右衛門」他三名の名が記されています。


成田山公園-226

大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京古屋同志會」「古屋良作」他11名の名前が刻まれています。


成田山公園-227

(右手前) 大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」(柱状)。
       「穀肥料商 永沼嘉右衛門 永沼運造」の名前があります。
(中右)   「拾周年記念碑」(建立年不明)。
       「横濱市 寛盛講」と刻まれています。
       講の創立十周年なのでしょうか。
(中左)   明治三十九年(1906)九月の「大護摩料奉納碑」。
       隣と同じく「寛盛講」とあり、「福重助」の名前が読めます。
(奥)    明治三十九年(1906)一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「志木町 坂間久次郎」と刻まれています。
       「志木町」は現在の埼玉県志木市になります。


成田山公園-228

大正九年(1920)一月の「永代護摩料奉納碑」。
「新潟縣長岡講中」と刻まれ、台座には昭和15年にはめ込まれた「皇紀二千六百年記念」
と記されたプレートがあります。
「皇紀」とは、日本書紀の記述による神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年とする
紀元のことで、大東亜戦争の敗戦まではよく使われていました。
ちなみに、今年は皇紀(紀元)2679年になります。


成田山公園-258

(左)  「奉納 永代大護摩料」の他は石材の酸化(?)で碑文が読めません。
(中)  明治三十九年(1906)の「永代護摩修行碑」。
     「武藏国青梅町 永盛講」と刻まれています。
     題額は中興第十五世石川照勤上人によるものです。
(右)  大正二年(1913)四月の碑。(汚れで碑文が読めません) 


成田山公園-259

「成田山 不動尊」の碑。(建立年不明)
「新榮講 水峯清泉」と読めます。


成田山公園-260

(左)  明治三十九年(1906)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     「東京日本橋區濱町 永井京子」と刻まれています。
     題額は石川照勤上人(中興第十五世)のものです。
(中)  「碑石建設寄附 幕張組」「荻田得門」と読めます。
(右)  「碑石建設寄附名簿」「田邊虎松」と刻まれています。


成田山公園-269

 (左)  建立年不明の「永代御膳料奉納碑」。
      「新榮講社中 永峰濟衆」と読めます。   
(左奥)  明治三十年の「永峰濟衆頌徳碑」。
      碑面にビッシリ文字が彫られていますが、柵から遠いため読めません。
      「新修成田山史 別巻」に碑面についての記述がありましたので引用します。
      【 成田山新勝寺住職権少僧正石川照勤篆額 田中 参撰
       成田山信者新栄講社長永峰君卒既葬其徒追慕不措相謀為一大斉出財建碑表之
       請文於予予乃表之白人之慶世信而己矣信則人自信之初君有娣帰依成田山来拝
       布施歳時靡懈近隣人相従而為伴必来拝以為常其衆日益盛此其功君興有力馬遂
       請名於富時之住持照輪照輪命以新栄講邦人結社拝神仏称講娣以明治六年十一
       月十三日没享年五十九扵是講衆推君爲長嗚呼死生亦大矣君継娣之遺志捨身成
       田山絶食至二十一日貧民病者投財興之自至其家而祷祷禳自是嚮慕帰依者極多
       近自千葉遠至北海道入講衆者至二万余人講衆之盛無出於其右者明治十八年六
       月受道路修繕之賞状於時之知県十一月受木盃九十二月又受木盃一十九年一月
       又受木盃一皆以輔公事也其尽力於公益如此矣其所施捨供田数十頃及供米数百
       俵可以供斉有山林数十町可以供護摩其他自珎宝竒竒品及器物之異常者不可枚
       擧新勝寺住持三池照鳳其帰仏篤信賜袈裟一領及賞状嗚呼信之及人至於此乎君
       東京青山善光寺門前坊長峰喜太郎長子後嗣家又称喜太郎諱済衆幼字和三郎娶
       東京柏木成子坊川村喜兵衛長女有子一人名亀太郎為嗣以明治二十四年一月二
       十四日病没葬下
       印旛郡伊篠村浄泉寺中享年七十三   明治三十年十二月 】
 (P651) 
      
       【銘文によると永峰は新栄講を組織して新勝寺の参詣を続け、明治六年に没した。
        しかし、彼を慕う者は千葉県から北海道に至るまで二万人を越え、そこで彼の恩
       に報いるため新栄講から分派した各講などが協力してこの碑を建てるとある。(中
       略)碑の題額は新勝寺の中興第一五世石川照勤上人が書き、東勝寺(宗吾霊堂)
       の住職田中照心上人が揮毫している。】
 (P58~59)
     
(中央)  「碑石建設寄附内譯」。
       「内譯」は内訳のことですから、この碑は寄附者名簿ということになります。
       「東京日本橋濱町壹町目壹番地 柳澤久太郎」と刻まれています。
       ここからは見えませんが、裏面に寄附者の名前が記されているのでしょう。
(中奥)  明治三十四年(1901)五月の「永代供養料奉納碑」。
       「京橋新榮講」と刻まれています。
(右奥)  「碑石建設寄附」。
       「東京京橋 新榮講」「行者 清水法善」と刻まれています。
 

成田山公園-263

(左)  「碑石建設寄附内譯」。
     「東京日本橋區蠣壳町壹丁目四番地 木村猛三郎」と刻まれています。
     「蠣壳」は「蛎殻」の異体字です。
(右)  「碑石建設寄附」。
     「京橋區 新榮講 八王子部 斎●●吉」
     京橋と八王子との関連に疑問が残ります。
     もしかすると、お釈迦様よりはるか以前に、法華経を説いた二万の日月灯明仏の最後
     の一人が出家以前にもうけた八人の王子に因んだグループなのでしょうか?


成田山公園-272

大正三年(1914)の「永世大護摩」奉納碑。
崩し字で読みにくいのですが、「成田山御貫主権大僧正石川照勤」「小阪●●」等が読めます。


成田山公園-273

隣にある灯籠は風化で竿に刻まれた文字が読めません。


成田山公園-275

大正四年(1915)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京市京橋區新榮町四丁目 渡村榮左ェ門 妻せき」と刻まれています。


今回はここまでにしましょう。
距離にして僅か4、50メートルの距離しかありませんが、林立する石碑に圧倒される思いです。

一月下旬の梅林では、蕾が少しずつふくらんできたように思えます。
日当りの良い場所の枝には、気の早い白梅・紅梅が寒風に晒されながらも、小さな花を開いて
います。
春はもうすぐです。

成田山公園-264
******成田山公園-265
成田山公園-266

さて、石碑群はまだまだ続いています。
次回は少し気分を変えて、公園の別の場所を歩いてみようと思います。
その後、この場所にまた戻って、碑面とにらめっこするつもりです。



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