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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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気になる石仏・青面金剛(1)~消えた寺に取り残された二基の青面金剛

青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。



青面金剛・東陽寺-10

前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。


青面金剛・東陽寺-24
東陽寺ー2
*******東陽寺ー3

左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。

右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


青面金剛・東陽寺-19

こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。


青面金剛・東陽寺-27
青面金剛・東陽寺-4

さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。


青面金剛・東陽寺-20

こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。


青面金剛・東陽寺-16

四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。


青面金剛・東陽寺-28

第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。


二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。

青面金剛・東陽寺-14


初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。

東陽寺ー9
                                          (2015年5月 撮影)

「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年) 

永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。

その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。


東陽寺ー10
******東陽寺ー11
***********東陽寺ー12

青面金剛・東陽寺-12

そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。


青面金剛・東陽寺-13

境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。


青面金剛・東陽寺-1


成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。


東陽寺ー25 (2015年5月 撮影)

青面金剛・東陽寺-11

人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。



AAA野毛平地図

                          「妙照山東陽寺」   成田市野毛平614-2




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

青面金剛(庚申塔) | 19:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
気になる石仏・地蔵菩薩(1)~神光寺の首無し地蔵

釈迦の入滅後、弥勒菩薩が悟りを開くまでの間(五十六億七千万年)、この世には仏が
いない無仏時代が続きます。
この無仏時代に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生の教化・救済を
行うとされているのが地蔵菩薩です。
袈裟を纏い、剃髪で、左手に宝珠を捧げ右手には錫杖を持つ像容が一般的です。
この世で徳を積むことなく幼くして亡くなったため、賽の河原で鬼にいじめられている子供達
を救うとも言われます。



今回は、野毛平の神光寺にポツンと立っている、首を落とされたお地蔵様です。                         

地蔵・神光寺-13
地蔵・神光寺-16
地蔵・神光寺-2
地蔵・神光寺-4
***********地蔵・神光寺-23

全く人の気配がない野毛平の山道に、荒れ果てた神光寺を見つけたのは四年前のことでした。
境内への入り口に、ポツンと地蔵菩薩の石像が立っていました。

その姿は、私の胸に小さな衝撃を与えるものでした。
明治初めの廃仏毀釈の嵐の中で首を落とされたことは、疑う余地が無いでしょう。
首だけでなく、宝珠を持つ左手と錫杖を持つ右手をも落とされた無残な姿は、受けた仕打ちに
150年経った今も呆然として立ち尽くしているかのようでした。

誰が乗せたのか、セメントで作られた間に合わせの頭部には、線描のような目鼻が付けられて、
その表情がまた、納得できない哀しみを表しているように見えました。

神光寺ー3
                                           (平成27年5月撮影)


地蔵・神光寺-14

四年ぶりに見た地蔵菩薩には、セメントの頭部がありません。

地蔵・神光寺-25
******地蔵・神光寺-27
***********地蔵・神光寺-28

誰かがいたずらで持ち去ったのでしょうか。
気のせいか、砕かれた宝珠と錫杖の痕も少し風化が進んだように思えます。


地蔵・神光寺-37
地蔵・神光寺-38


「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
江戸時代にはすぐ隣にある「鎮守皇神社」の別当でした。

『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。

また、「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記されています。
『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』
 (P781)

神光寺は、少なくとも350年以上の歴史があるお寺ですが、残念ながら本堂も境内も荒れ放題。
野毛平地区は、成田空港の騒音指定地域となって、住民の大半がこの地を離れたのですが、
檀家・住民が離れていった寺が、わずか数十年でこれほどまでに荒廃するとは・・・・


地蔵・神光寺-15

台座には、「元文三年戊午」「十五夜念佛開眼」「八月吉日 施主二十一人」と刻まれています。
十五夜念佛講による月待塔の刻像塔で、元文三年は西暦1738年、約280年前のものです。
月待塔には文字塔が多いのですが、これはめずらしい刻像塔です。

月待とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まり、
飲食をしたりお経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
月待行事は室町時代から確認されていて、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行しました。
ここ野毛平では、全国的な流行よりだいぶ早い時期から月待行事が行われていたようです。


地蔵・神光寺-17

台座の脇に石ころが・・・
笹や枯葉を払い、付いた泥を拭うと、それは地蔵菩薩の頭部、あのセメントの頭部でした。
いたずらではなく、風か地震によって落ちてしまったのでしょう。


地蔵・神光寺-18

そっと乗せてみました。
四年前のあの顔です。
人間の行いの理不尽さを哀しむような、そんな表情です。


地蔵・神光寺-19
地蔵・神光寺-20

泥はやがて雨が洗い落としてくれるでしょう。


地蔵・神光寺-34
地蔵・神光寺-29
地蔵・神光寺ー41

この境内に再び人々が戻ってくることはないでしょうが、本堂が朽ち果て、境内が竹や雑木に
覆われるまで、地蔵菩薩像はここに立ち続け、時の流れを見つめているのでしょう。



AAA野毛平地図

                            「天照山神光寺」   成田市野毛平497



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

地蔵菩薩 | 22:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~栗源の「かくれ卵塔」

県道44号線の沢のバイパス沿い、「道の駅くりもと」の隣に、気になる看板があります。

卵塔-27

「かくれ卵塔」とは何でしょう?
「卵塔」(らんとう)とは、主に僧侶の墓塔として使われる石塔のことで、無縫塔(むほうとう)
とも呼ばれます。

浄土寺-13  香取市大戸・浄土寺の卵塔 
長泉寺ー33   成田市所・長泉寺の卵塔

「日講聖人遭難之墓」と書かれた小さな手書きの案内板が道路に向かって立っています。

卵塔-1

「安國院字恵雄後六聖人一人啓蒙逑著京都於賀氏日習中村壇林等
野呂壇林学徒養成幕府土水供養寛文六年五月廿七日日向国佐土原
配流仝所七十三歳」
(赤字部分は判読が難しく、一応、逑著と読みました。)

「遭難之墓」とは奇妙な表現です。
歴史上の著名な人物の墓が何カ所にもあることは珍しいことではありませんが、ここは「墓」
ではなく、「遭難之碑」といった意味でしょう。
ちなみに日講の墓は、配流の地である宮崎市佐土原町大字上田島字新山にあります。

後ノ六聖人」とは、寛文五年(1665)から翌年にかけての法難(寛文の惣滅)で配流となった
次の六人の僧侶を言います。
平賀本土寺の日述(伊予吉田に配流)、興津妙覚寺の日堯(讃岐丸亀に配流)、雑司ケ谷
法明寺の日了(讃岐丸亀に配流)、野呂檀林の日講(日向佐土原に配流)、玉造檀林の日浣
(肥後人吉に配流)、自証寺開山の日庭(寛文の惣滅では寺を出るだけで済んだが、貞享四年
(1687)に佐渡への流罪となる。)
ちなみに、寛永七年(1630)の「寛永法難」で配流となった次の六人の僧侶を「前の六聖人」
と言います。
池上本門寺十六世・飯高檀林化主の日樹(信濃伊那に配流)、中山法華経寺・飯高檀林の
日賢(遠江横須賀に配流)、平賀本土寺の日弘(伊豆戸田に配流)、小湊誕生寺十六世・
小西檀林能化の日領(陸奥中村に配流)、中村檀林の日充(陸奥磐城平に配流)、碑文谷
法華寺の日進(信濃上田に配流)。


卵塔-4

同じ文面の石碑が階段の上にあります。
「安國院ト号ス恵雄後ノ六聖人ノ一人啓蒙逑者京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ
後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年(西暦一六六六年)五月廿七日
日向ノ國佐土原ニ配流仝所ニ寂ス七十三歳」

入口にある説明板からの引き写しでしょうが、「守」は「字」の間違いでしょう。
ここでの「字」は、「あざな」と読み、日講のあざなが恵雄であったことを示しています。
また、「逑者」となっている部分は、「逑著」よりは何となく意味が通じるような気がしますが、
日講が「啓蒙録内」「説黙日課」を著わしたことを考えると「逑著」もあり得ると思います。
「逑」と「著」で、多くの著作という意味を表しているのではないか、と勝手に解釈しました。
この石碑は、平成12年に「正覚寺沢講社」が建立したものです。

日講(にっこう)は、寛永十三年(1636)京都・妙覚寺の日習に師事し、正保二年(1645)
飯高檀林(現・匝瑳市)や中村檀林(現・多古町)で学んだ後、寛文元年(1661)野呂檀林
(現・千葉市)の講師となった日蓮宗の僧です。
寛文五年(1665)幕府は日蓮宗の寺院に対して、「幕府からの朱印地は国主が寺院に対し
供養したものと認める旨の手形」の提出を命じましたが、不受不施派はこれを拒否しました。
日講はこの政策を非難する「守正護国章」を呈上し、さらに寛文六年(1666)の幕府からの
広範囲な国主の供養についての手形の提出命令をも拒否しました。
これにより、日講は日向の佐土原藩に流罪となりましたが、藩主の島津忠高の帰依を受け、
73歳で亡くなるまでこの地で布教を続けました。

飯高檀林-112
飯高檀林(飯高寺・匝瑳市)  ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。
*******日本寺ー51
          中村檀林(日本寺・多古町)   ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。


卵塔-2

数段の階段を上ると、檻のような金属の柵に覆われた石碑(?)を中心とした、数基の石碑が
見えます。


卵塔-3

左手の説明板には次のように書かれています。

「法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)また施しもしない(不施)という
主義主張の不受不施は京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですがその主張活動は幕府
より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗門となった。寛文五年(一六六五)同派の日講は
佐土原へ流罪となったが一萬部誌経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後弟子の
日念等がその意志をつぎ宝永二年(一七〇五)に建てたものです。しかし寛政六年(一七九四)
当時の支配者への内通により石塔は三日三晩焼かれ そして打ちくだかれ土中に埋められま
した。その後明治九年(一八七六)その宗教活動が許され沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し
組み合わされました。」

「不受不施」とはどういった教義なのでしょうか。
分かりやすい説明がなかなか見つかりませんが、日講にゆかりのある多古町の町史に、簡潔
な説明を見つけました。

 この派は日蓮直弟子の六老僧の一人、日朗の流れから派生したもので、宗祖日蓮の、世界
の主は釈迦一人であり、時の為政者であっても釈迦の導きを受けるべき人間であるという思想
を純粋に伝える手段として、他の宗旨を信じている者の供養を受けず、また他の宗旨の僧へは
供養を施さないという教義を強固に守り続けた宗旨であり、その純粋性は既成宗派に対しても
新風を吹き込んだのであった。】 (
「多古町史 上巻」 昭和60年 P335) 

慶長四年(1595)豊臣秀吉の「方広寺大仏殿千僧供養会への出仕」命令をめぐる日蓮宗内の
論争に端を発し、徳川家康によって日奥が対馬に流されて以来、幾度かの変遷を経て、明治
九年(1876)明治政府による再興許可が下りるまでの間、不受不施派への弾圧は続きました。


卵塔-5

「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの石碑には、微かに「元禄●●癸●」と読める文字が・・・。
無理して読めば「元禄十六」かもしれません。
元禄十六年(1703)の干支は癸未(みずのとひつじ)ですから、多分そうでしょう。


卵塔-6

「南無妙法蓮華経」と大きく刻まれた下に、「日浣聖人」と記されています。
側面には、「延寶第四丙辰七月九日」とあり、裏面には「奉開眼勤唱●●四萬部」とあります。
延宝四年は西暦1676年、四代将軍徳川家綱の治世です。

日浣については、京都・妙覚寺に「日述・日講・日浣」の肖像画があること、江戸時代に多古町
の蓮華寺に開かれた「玉造檀林」(寛文六年廃檀)で講師を務めていましたが、不受不施派の
弾圧により、寛文五年(1665)に肥後の人吉へ流罪となったこと、程度しか資料が見つかりま
せんでした。


卵塔-7

この石碑は上部が欠けており、風化もあって文字は全く読めません。


卵塔-8

中心にある日講聖人の碑。
短冊のように切り刻まれていますが、かろうじて「南無妙法蓮華経」と刻まれた一片と、「積而
至于●萬千百餘部惣●」の文字が読めます。
その他には「●萬三千八百卅」「●月十日七十三歳●寂」等の文字がが見えます。
これが、日念らによって建立された日講の「万部塔」のようです。


卵塔-17
卵塔-19
*****卵塔-18
***********卵塔-25

金属の檻は最近作られたもので、以前は太い針金で束ねられていました。
きれいに整理された現在の姿より、以前の針金で縛られた姿のほうが、弾圧の状況を生々しく
伝えていたような気がします。
 
くりもとー2
くりもとー6
*******くりもとー7

「栗源町文化財資料目録」(平成5年)に、「日講墓石 元禄十一年(1698)」として次のよう
な記述を見つけました。

 沢 西部山林内
寛文六年(一六六六)日蓮宗不受不施派の法難で日講上人九州佐土原へ流罪。 宝永二年
(一七〇五)日念は同上人のために佐土原の石(栗山川は信者の村送りで運んだ)で万部
成就の塔を建て供養した。 これも寛政六年(一七九四)三日三晩鯨油をかけて焼き砕かれ
現在は鉄線で束ねてある。】

「千葉県の歴史 通史編 近世2」(平成20年)には

【 また、日向国佐土原(宮崎県佐土原町)に流されていた日講の死後一七〇五(宝永二)年、
沢村(栗源町<香取市>)に、日講の万部石塔(経典一万部の読誦を記念した石塔)が建立
されていた。 一七九四年の弾圧事件では、沢村の石塔が破壊された。】
 (P803)

との記述があります。

古い地図を見ると、細い農道のような道端に「かくれ卵塔」が記入されています。
この場所は、現在は県道44号線のバイパスが走り、「道の駅くりもと」が建っていますが、
卵塔の位置は変わっていないようです。


卵塔-9

「南無妙法蓮華経」の下に、「寛永八●未五月十九日 日樹聖人」「寛永七庚午三月十日 日奥
聖人」「延宝九辛酉九月朔日示寂 日述聖人」と刻まれています。
寛永七・八年(1630・1631)は三代将軍家光の時代、延宝九年(1681)は五代将軍綱吉の
時代です。(朔日(さくじつ)は一日のこと、示寂(じじゃく)とは菩薩や高僧が死ぬこと。)

日樹(にちじゅ)は、池上本門寺十六世。
飯高檀林・中村檀林で修行を積み、飯高檀林七世の化主(管長)となりました。
元和五年(1619)に池上本門寺に入り、妙覚寺の日奥に同調して受布施派と対立し、寛永七
年(1630)信濃国伊那郡飯田(現長野県飯田市)へ流罪となりました。

日奥(にちおう)は妙覚寺一九世、号は仏性院・安国院。
不受不施派の祖とされています。
文禄四年(1595)の豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕命令にただ一人不受
不施の教義に反するとして反対し、丹波(京都府)小泉に隠棲しました。
慶長四年(1599)徳川家康が主宰する供養会も拒否して、元和九年(1623)まで13年間の
流罪となました。
慶長十七年(1612)許されて京都に戻ったものの、寛永七年(1630)受・不受の論争が再燃し、
幕府は日樹・日賢・日弘・日領・日進・日充の六上人を流罪とし、その直前に没した日奥も死後
にもかかわらず再度の対馬流罪となりました。

日述(にちじゅつ)は平賀生知院二十一世。
日浣と同様に資料が少なく、平賀生知院二十一世であったとき、寛文六年(1666)の法難で
伊予の吉田に追放されたこと、追放先の吉田藩では厚遇されたこと、寛政十三年(1801)に
完成した「租書綱要刪略」の編纂に初期段階で携わったこと、程度しか分かりませんでした。


卵塔-10

この仏塔は、風化で文字は全く読めません。


卵塔-11

「南無妙法蓮華経」「安住●日念聖人」「享保十七壬子」と読めます。
享保十七年(1732)は八代将軍吉宗の治世で、西日本を中心に長期にわたる悪天候による
凶作(享保の大飢饉)が発生しました。

日念(にちねん)の号は成就院。
市原の四天王山法光寺の開基とされています。


卵塔-12

昭和49年に編纂された「栗源町史」にも、大正十年編纂の「千葉縣香取郡誌」にも、全くと
言って良いほどこの卵等に関する記述が見つかりません。
風雨に晒されてほとんど文字が消えているこの説明板で、「日念」、「日浣」の名前のほかに、
「日東聖人」の名前が読めますが、石塔のどれが日東聖人のものかは分かりません。
日東聖人は池上本門寺の十七世で、蓮乗院と号し、慶安元年(1648)に没しました。


卵塔-26
卵塔-16
*******卵塔-14

すぐ隣には「道の駅くりもと」がありますが、この「かくれ卵塔」に気付く人は少ないようです。


卵塔-13

「香取民衆史 7」(香取歴史教育者協議会 1994年)に、「信仰を守るたたかい-不受不施
派の法難」(野口政和氏)の論文が掲載されています。

【 法難遺跡
地下活動のため、あまり史料や遺跡が残ってはいないが、今わかっているものを紹介して
みたい。 多古法難のときに砕かれた日講の石塔が栗源町沢に現存している。 日講は、
寛文の法難により一六六六(寛文六)年、九州の日向佐土原へ流された野呂檀林(千葉市
野呂)出身の僧。 石塔は。日講の一万部読経完成を記念して、流された日向佐土原・大坂
高津衆妙庵・沢村(栗源沢)と三基たてられた。 沢村では一七〇五(宝永二)年にたてられ
ている。 高さは約一、五メートル、台石の高さは約三〇センチ。 多古法難では鯨油をかけ
て三日三晩焼き水をかけて砕いたと伝えられている。 また、焼いた三人の人夫は、一人は
火傷、一人は杵にあたり、一人は風呂釜で腹を焼いて、それぞれ死んだと伝えられている。
信者の弾圧に対する憎悪、なお信仰を守ろうという強固な意志がよみとれる。 石塔は砕い
て埋められたが、沢の信者である堀越義昌氏が生涯をかけてさがし、掘りだされ現存してい
る。】 
(P49~50)


卵塔-0

                   「かくれ卵塔」(道の駅くりもと)  香取市沢1372-1




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史跡・その他 | 23:10:45 | トラックバック(0) | コメント(4)
成田山公園ーじっくり散歩(その弐)
散歩を再開する前にちょっと道草(というより、脱線ですが・・・)。

明治十九年(1886)六月に作成された「下總國下埴生郡成田村誌」に「名勝」として次の
ような記述があります。

【新勝寺境内ノ東端ニアリ、東和田、日吉倉ノ田畝ヲ東南ニ望ミ本村ヲ直下トス。風光壮快
ナリ。本地ハ新勝寺住職故原口照輪是茲ニ見ルアリテ、好樹木数株ヲ漸次ニ他ヨリ移シ
蕃植シ求メタレハ、樹林蒼々トシテ名勝ノ区画ヲ存スル。】


前回に「(日光の)五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い
茂り、残念ながら見晴らしは良くありません。目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるよう
です。」
と触れた場所が、その「名勝」と言われた所だったのかも・・・と思いつきました。

成田山公園-278

これがその場所。 柵で先には進めませんが、ちょっとした台地のようなスペースがあります。

Map成田山公園周辺

成田山公園-101 前回掲載の写真
  東南の方向 →  成田山公園-267

残念ながら東南の方向は鬱蒼と樹木が生い茂り、遠くを見渡すことができませんが、地図で
見るかぎり、ここから東南方向には東和田・日吉倉があります。
当時のここからの景色は、遙か先まで見渡せるのどかなものであったことでしょう。

成田山公園-276成田山公園-277

東和田方向から成田山を望遠で望むと、ビルの先に大本堂の大屋根が見えます。
明治十九年当時なら、視界を遮る高い建物などは無く、正面に当時の本堂(現在の釈迦堂)が
しっかり見えたでしょうね。

さて、前回からの続きです。

成田山公園-128 前回見た日光町の五重塔から小径を挟んだ、多くの石碑で囲まれた
小さなサークルのような場所から始めます。

成田山公園-201

大正十二年(1922)の「永代御膳料奉納碑」。
「磐城平町 大新榮講 鈴木得鑁」と刻まれ、世話人として井上貞治郎の他十二名の名が
刻まれています。
平町は現在のいわき市で、この奉納碑が建立された当時は石城郡平町。


成田山公園-232

(左奥) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
      「幕張村 市原任三郎」と刻まれています。
      幕張村は現・千葉市花見川区と現・習志野市にまたがる地域にあった村です。
      明治二十八年(1896)には町制施行で「幕張町」になっていますが、この時代は
      住民にとって新たな行政区域の浸透が薄かったのでしょうか?
(手前) 大正二年(1913)六月の「永代御膳料奉納碑」。
      「栃木縣下都賀郡中村 石川政之助 石川福次 石川寅之進」と読めます。
      「下都賀郡中村」は現・小山市。
 (左)  大正三年(1914)三月の「永代御膳料奉納碑」。
      「石川縣能美郡小松町 佐野とよ」と刻まれています。
      能美郡小松町は、現在の小松市です。
 (右)  大正三年(1914)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
      「武藏國埼玉郡新方村 金岡祐元」と読めます。
      新方村は現・越谷市。


成田山公園-234

(左)  大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
     「陸奥國八戸町 高橋常太郎 妻ふく」と刻まれています。
     八戸町は当時は三戸郡に属していて、現在の八戸市の中心部あたりです。
(中)  明治四十一年(1908)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     香取郡香西村岩澤新兵衛と刻まれています。
     香西村(かさいむら)は現・香取市の西部にあたります。
(右)  大正五年(1916)八月の「永代御膳料奉納碑」。
     「石川縣能美郡小松町 渡邊そと」と読めます。
     

成田山公園-235

(左)  大正十五年(1926)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     「猿島郡新郷村 長澤茂一郎 長澤善三郎」と記されています。
     猿島郡新郷村は、現・古河市になります。
(中)  大正六年(1917)の「明大講記念碑」。
     「水戸市上市」と刻まれています。
(右)  大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
     「府下大井町 白米商 鈴木保五郎 仝未次郎 仝タツ」と記されています。


成田山公園-236

(中央左) 明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「茨城縣結城郡石下町 山田清三郎」と刻まれています。
       結城郡石下町(いしげまち)は、現・常総市になります。
  (中)  大正六年(1917)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
       福島縣石城郡平町 小林サツ」と読めます。
       石城郡平町は、現在のいわき市。
  (右)  明治四十五年(1912)二月の「永代御膳料奉納碑」。
       福島縣邑樂郡六郷村 鑓田三四郎 仝利平」と刻まれています。
       邑樂郡六郷村は、現・館林市になります。
     

成田山公園-205

今さらですが、「講」とはどんなものなのでしょうか?
「新修成田山史」(昭和43年)に次のような解説があります。

【 講について
 講とは本来講演の意味で集会の席上で経論等を講演論議することを云うのである。「法華
 八軸」を講議するのを「法華八講」と云い「最勝王経」・「仁王経」等を講議するのを「最勝講」
 ・「仁王講」と云うが如きである。かくの如く講の歴史は頗る古く、推古天皇一一年に聖徳太
 子が諸法師を小墾田宮に招いて「安宅経」を講ぜしめたこともあり又太子自身も「勝鬘経」・
 「法華経」を講ぜられたことは歴史上有名なことである。尚其の後も各時代、宮中及び諸寺
 で行われたことは非常に多く特に「仁王経」・「金光明最勝王経」の読誦は宮中の恒例となっ
 ていたのである。こうした上堂方の行事が民間に移動し、一定の日を決めて庶民が仏寺に
 集会して僧侶を請じて法談を聴聞することが行なわれるようになった。そこで「観音講」・「地
 蔵講」等と称せられるようになった。 (中略) 江戸時代の随筆「翁草」の一九一の雑話の中
 に「昔より仏家に観音講等あり、近世伊勢講と称し、結衆銭を集め貸之・・・・・・」とある。この
 風習は参詣の為めに積立てをした金を講員に貸すまでに発展したもので先述の「たのもし
 講」の起源とも云うべきであろう。偖て、古代に於いては上述の如き意味であったが、其の後
 語義が変じて遂に仏事參詣等宗教的行事の為めに集会する意になり、その集団を講又は
 講社と称し其の加入者を講中と云うようになって登山参詣と云う宗教的行事に発展したので
 ある。」 
(P349~350)

多くの奉納碑に刻まれている「講」や「講社」とは、簡単に言えば、 神社・仏閣への参詣や寄進
等を行なう信者の集まりです。


成田山公園-237

 (左)   大正六年(1917)九月の「永代御膳料奉納碑」。
       「葛飾郡大島町 大須賀菊次郎」と記されています。
       葛飾郡大島町は、現在の東京都江東区の東北部にありました。
(中左)  大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
       「東京芝區新錢座町 藤本恭助」と刻まれています。
       新錢座町は、現在の港区浜松町1丁目あたりで、寛永十三年(1636)に江戸で
       最初の銭貨鋳造所が設けられたことから付けられた地名です。      
(中右)  大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
       群馬縣邑楽郡三●谷村 三田庄作」と読めます。
       この時代の邑楽郡の村名の中には該当しそうなものはありませんでした(あえて選
       べば、四ッ谷村・入ヶ谷村の二村、または田谷村・中谷村・細谷村・鍋谷村・仙石村
       ・籾谷村の六村)。
 (右)   大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「茨城縣那珂郡芳野村 水戸藩士族 鈴木昂之介」と刻まれています。
       那珂郡芳野村は現在の那珂市の西部にあたります。
       「士族」とは、明治維新後に旧武士階級をはじめとする禄を得ていた者のうち、華族
       に取り立てられなかった者に与えられた身分で、戸籍には「士族」と身分表示が記さ
       れていました。
       この制度は昭和22年の民法改正時まで続きました。
       あえてここに「士族」と刻んだ鈴木昂之介氏の心情とは、武士階級の崩壊から50年
       経っても捨てきれぬ「誇り」なのか、単なる過去への郷愁なのか、それとも時代への
       怨嗟なのか?
       できれば聞いてみたい気がします。


成田山公園-206

明治四十五年(1912)一月の「永代資堂講奉納碑」。
「新榮講 行者 野村英海」と刻まれています。
台座には「武蔵 川越」と彫られています。
さらに「比企郡松山 行者 中村海運 同郡南吉見村 行者 岡野海寶」の文字も読めます。
比企郡松山は現在の東松山市、南吉見村は現在の比企郡吉見町です。
左の小さな碑は、大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
川越と武州松山の新榮講の奉納です。


成田山公園-239

(左) 大正七年(1918)三月の「永代御膳料奉納碑」。
    「平沼福次郎」と刻まれています。
    崩し字で読みにくいのですが、「請負業」と刻まれているようです。
(右) 大正八年(1919)二月の「永代御膳料奉納碑」。
    「文京 日本橋區元濱町 合名會社 中村商店」と刻まれています。
    隣の灯籠は、竿の部分に「御半」と刻まれていますが、その他の文字は読めません。
    「御半」の意味は分かりません。
    「御半下」なら、召使い・下女という意味ですが、灯籠に刻む文字とは思えません。


成田山公園-240

(手前) 明治四十三年(1910)三月建立の「永代御膳料奉納碑」。
     「横濱市伊勢佐木町 足袋卸商 岡田佐金次」と刻まれています。
(中央) 大正八年(1919)九月建立の「永代 護摩料」奉納碑」。
     「東京浅草千束町 鳥料理 みまき(「ま」は崩し字)」と刻まれています。
(右)  大正五年(1916)九月建立の「永代御膳料奉納碑」。
     「北海道網走港 福米講」と読めます。
(右奥) 大正八年(1919)五月建立の「永代御膳料奉納碑」 
     「東京府下日暮里元金杉 東京硝子管製作所」と記されています。


成田山公園-209

大正七年(1918)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「弘運講」「埼玉縣大里郡大寄村」「講元 森田周藏」と刻まれています。
大里郡大寄村は現在の深谷市になります。


成田山公園-242

大正元年(1912)の「成田山 報徳會松戸支部記念碑」。
会長の渋谷保太郎と支部長の澁谷保太郎の名前があります。


成田山公園-243

大きい方は、大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡植水村 蓜島辨作」と刻まれています。
北足立郡植水村は現在のさいたま市西区。
もう一基は大正七年(1918)五月の「永代御膳料奉納碑」。
「内陣五講」「講元 五十嵐寅七 高橋忠治」と刻まれています。
「内陣五講」は、「内陣十六講」・「浅草十講」とともに成田山との強いつながりを持った講でした。
「新修成田山史」には、最も古い講として東京の「丸下講」を挙げた後に、

【この講に次いで古いものは「御内陣五講」・「御内陣十六講」・「浅草十講」等があり当山に最も
縁故が深い講社とせられている。】
 (P351)

と記述しています。


成田山公園-244

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「山梨縣谷村町 奥孫三郎」と刻まれています。
谷村町は現在の都留市になります。


成田山公園-245

(手前) 「久保たか先生之碑」。 「一心講」と刻まれています。
      「久保たか先生」については手掛かりが見つかりませんでした。 
(奥)   明治三十二年(1899)十二月の「一心日護摩講記念碑」。
     「東京府南千住」「先達 塚本施心」と刻まれています。


成田山公園-246

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
東京市日本橋兜町 行木松五郎」と刻まれています。


成田山公園-247
成田山公園-286

大正七年(1918)の「永代護摩修行料奉納碑」。
「大新榮講」「社長 鈴木得鑁」の文字が読めます。
台座の両脇には不動明王の脇侍である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子( せいたか
どうじ)像が置かれています。

成田山公園-218
成田山公園-215   制吒迦童子
成田山公園-219
成田山公園-216   矜羯羅童子 

ここに矜羯羅童子と制吒迦童子像が置かれていることは謎です。
三尊像であれば、中央に不動明王を象徴する剣が置かれているはずですが、見当たりません。
欠けたり、失われたような痕跡もありません。

成田山公園-284成田山公園-285

さらに、両童子像はまるで両腕を切り取られたように失っています。
これを見たときに一瞬、廃仏毀釈が頭に浮かびましたが、奉納碑が建立された大正中期には
とうに廃仏毀釈の嵐は過ぎ去っていました。

もしかしたら、この童子像は奉納碑の建立後にどこからか移設されたのではないか?
それは、童子像が置かれた火山岩にはめ込まれた名板にある「田方郡伊東町」(現・伊東市)
や「相州中郡」(現・神奈川県中郡)から運び込まれたのかもしれない。
廃仏毀釈の被害に遭って、修復不能な破損を受けた不動明王の剣を除き、かろうじて残った
童子像を講中の人達がここへ安置した・・・。
両童子像のどこか物憂げで寂しそうな表情を見ていると、こんな想像をしてしまいます。

成田山公園-280成田山公園-281
        前回紹介した木遣会の童子の表情
成田山公園-283成田山公園-282
         今回の奉納碑の童子像の表情


成田山公園-250

大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「大新榮講」「鈴木得鑁」「伊豆伊東町 山田屋 井原平助」の文字が読めます。
「鈴木得鑁」の名前はあちこちで見かけますが、その人物像は不明です。


成田山公園-221

(左) 大正八年(1919)十月の「永代御膳料奉納碑」。
    「岩根政太郎事 家元 港家大夢」と刻まれています。
    「港家」は浪曲界の一門です。
(中) 明治四十五年(1912)四月の「永代御膳料奉納碑」。
    「埼玉縣北足立郡白子村 常燈元講社 社長 榎本英喜」と記されています。
    「北足立郡白子村」は現在の和光市の一部です。
(右) 大正七年(1918)十月の「永代御膳料奉納碑」。
    「香取郡大須賀村 高木重左衛門 高木伊助」と刻まれています。
    「香取郡大須賀村」は旧大栄町・現成田市の一部です。


成田山公園-222

明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京兜町 川口關之助 川口佐一郎」と記されています。


成田山公園-224

「永代護摩料奉納碑」(建立年不明)。
「開永講」「初代先達 平井觀全」と刻まれています。
手前は「永代護摩講連名碑」。


成田山公園-225

大正六年(1917)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「大成講社 先達 大竹良蔵 一鋤田與右衛門」他三名の名が記されています。


成田山公園-226

大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京古屋同志會」「古屋良作」他11名の名前が刻まれています。


成田山公園-227

(右手前) 大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」(柱状)。
       「穀肥料商 永沼嘉右衛門 永沼運造」の名前があります。
(中右)   「拾周年記念碑」(建立年不明)。
       「横濱市 寛盛講」と刻まれています。
       講の創立十周年なのでしょうか。
(中左)   明治三十九年(1906)九月の「大護摩料奉納碑」。
       隣と同じく「寛盛講」とあり、「福重助」の名前が読めます。
(奥)    明治三十九年(1906)一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「志木町 坂間久次郎」と刻まれています。
       「志木町」は現在の埼玉県志木市になります。


成田山公園-228

大正九年(1920)一月の「永代護摩料奉納碑」。
「新潟縣長岡講中」と刻まれ、台座には昭和15年にはめ込まれた「皇紀二千六百年記念」
と記されたプレートがあります。
「皇紀」とは、日本書紀の記述による神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年とする
紀元のことで、大東亜戦争の敗戦まではよく使われていました。
ちなみに、今年は皇紀(紀元)2679年になります。


成田山公園-258

(左)  「奉納 永代大護摩料」の他は石材の酸化(?)で碑文が読めません。
(中)  明治三十九年(1906)の「永代護摩修行碑」。
     「武藏国青梅町 永盛講」と刻まれています。
     題額は中興第十五世石川照勤上人によるものです。
(右)  大正二年(1913)四月の碑。(汚れで碑文が読めません) 


成田山公園-259

「成田山 不動尊」の碑。(建立年不明)
「新榮講 水峯清泉」と読めます。


成田山公園-260

(左)  明治三十九年(1906)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     「東京日本橋區濱町 永井京子」と刻まれています。
     題額は石川照勤上人(中興第十五世)のものです。
(中)  「碑石建設寄附 幕張組」「荻田得門」と読めます。
(右)  「碑石建設寄附名簿」「田邊虎松」と刻まれています。


成田山公園-269

 (左)  建立年不明の「永代御膳料奉納碑」。
      「新榮講社中 永峰濟衆」と読めます。   
(左奥)  明治三十年の「永峰濟衆頌徳碑」。
      碑面にビッシリ文字が彫られていますが、柵から遠いため読めません。
      「新修成田山史 別巻」に碑面についての記述がありましたので引用します。
      【 成田山新勝寺住職権少僧正石川照勤篆額 田中 参撰
       成田山信者新栄講社長永峰君卒既葬其徒追慕不措相謀為一大斉出財建碑表之
       請文於予予乃表之白人之慶世信而己矣信則人自信之初君有娣帰依成田山来拝
       布施歳時靡懈近隣人相従而為伴必来拝以為常其衆日益盛此其功君興有力馬遂
       請名於富時之住持照輪照輪命以新栄講邦人結社拝神仏称講娣以明治六年十一
       月十三日没享年五十九扵是講衆推君爲長嗚呼死生亦大矣君継娣之遺志捨身成
       田山絶食至二十一日貧民病者投財興之自至其家而祷祷禳自是嚮慕帰依者極多
       近自千葉遠至北海道入講衆者至二万余人講衆之盛無出於其右者明治十八年六
       月受道路修繕之賞状於時之知県十一月受木盃九十二月又受木盃一十九年一月
       又受木盃一皆以輔公事也其尽力於公益如此矣其所施捨供田数十頃及供米数百
       俵可以供斉有山林数十町可以供護摩其他自珎宝竒竒品及器物之異常者不可枚
       擧新勝寺住持三池照鳳其帰仏篤信賜袈裟一領及賞状嗚呼信之及人至於此乎君
       東京青山善光寺門前坊長峰喜太郎長子後嗣家又称喜太郎諱済衆幼字和三郎娶
       東京柏木成子坊川村喜兵衛長女有子一人名亀太郎為嗣以明治二十四年一月二
       十四日病没葬下
       印旛郡伊篠村浄泉寺中享年七十三   明治三十年十二月 】
 (P651) 
      
       【銘文によると永峰は新栄講を組織して新勝寺の参詣を続け、明治六年に没した。
        しかし、彼を慕う者は千葉県から北海道に至るまで二万人を越え、そこで彼の恩
       に報いるため新栄講から分派した各講などが協力してこの碑を建てるとある。(中
       略)碑の題額は新勝寺の中興第一五世石川照勤上人が書き、東勝寺(宗吾霊堂)
       の住職田中照心上人が揮毫している。】
 (P58~59)
     
(中央)  「碑石建設寄附内譯」。
       「内譯」は内訳のことですから、この碑は寄附者名簿ということになります。
       「東京日本橋濱町壹町目壹番地 柳澤久太郎」と刻まれています。
       ここからは見えませんが、裏面に寄附者の名前が記されているのでしょう。
(中奥)  明治三十四年(1901)五月の「永代供養料奉納碑」。
       「京橋新榮講」と刻まれています。
(右奥)  「碑石建設寄附」。
       「東京京橋 新榮講」「行者 清水法善」と刻まれています。
 

成田山公園-263

(左)  「碑石建設寄附内譯」。
     「東京日本橋區蠣壳町壹丁目四番地 木村猛三郎」と刻まれています。
     「蠣壳」は「蛎殻」の異体字です。
(右)  「碑石建設寄附」。
     「京橋區 新榮講 八王子部 斎●●吉」
     京橋と八王子との関連に疑問が残ります。
     もしかすると、お釈迦様よりはるか以前に、法華経を説いた二万の日月灯明仏の最後
     の一人が出家以前にもうけた八人の王子に因んだグループなのでしょうか?


成田山公園-272

大正三年(1914)の「永世大護摩」奉納碑。
崩し字で読みにくいのですが、「成田山御貫主権大僧正石川照勤」「小阪●●」等が読めます。


成田山公園-273

隣にある灯籠は風化で竿に刻まれた文字が読めません。


成田山公園-275

大正四年(1915)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京市京橋區新榮町四丁目 渡村榮左ェ門 妻せき」と刻まれています。


今回はここまでにしましょう。
距離にして僅か4、50メートルの距離しかありませんが、林立する石碑に圧倒される思いです。

一月下旬の梅林では、蕾が少しずつふくらんできたように思えます。
日当りの良い場所の枝には、気の早い白梅・紅梅が寒風に晒されながらも、小さな花を開いて
います。
春はもうすぐです。

成田山公園-264
******成田山公園-265
成田山公園-266

さて、石碑群はまだまだ続いています。
次回は少し気分を変えて、公園の別の場所を歩いてみようと思います。
その後、この場所にまた戻って、碑面とにらめっこするつもりです。



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成田山公園-じっくり散歩(その壱)

今回は成田山公園を散策します。
この公園についてはネット上でもたくさん紹介されていますので、ちょっと趣向を変えて、園内
をゆっくり歩きながら、石造物や金石文を丹念に見て行こうと思います(長期の更新無しにつ
いての言い訳と逃げです-追記もお読みください)。
園内にはとても多くの石造物・金石文がありますので、何回かに分けて紹介することになります。

成田山公園-3

大本堂に向かって右側奥に成田山公園の入口があります。
光明堂の脇や、平和大塔の前など、入口は何カ所かありますが、まずは正面入口(?)から
散策を始めましょう。


成田山公園-51

【 成田山の境内には、東京ドーム約3.5個分 (16万5000㎡)にも及ぶ広大な公園が整備
されています。公園は仏教の生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという思想が組み入れ
られ、不殺生を表す尊い生命をはぐくむ場となっております。また、公園内各所には松尾芭蕉
や高浜虚子など著名な文人たちの句碑があり、先人の足跡を感じることができます。】 

(成田山新勝寺ホームページ)


成田山公園-2

緩やかな石段を上って行きます。

石造物のほとんどは、立ち入り禁止の柵内にあり、風化も進んでいて紀年銘や金石文が良く
読めなくなっています。
可能な限り読み取り、不明部分は「成田山新勝寺史料集 別巻」にある、金石に関する資料
(以下「別巻資料」)等をもとに補足して行きます。
ただ、別巻資料では場所の特定が難しく、類似する石造物の特徴等から推定したものも多く
あります(場所が移動したり、地震等による損壊で撤去されたりしたものもあるようです)。


成田山公園-4

公園に入って直ぐ右側には「永代御膳料」と竿の部分に刻まれた大きな石灯籠が立っています。
「久富■■」と読めるような気がします。
別巻資料に「久富~」とあるのは、大正十一年(1922)の灯籠のみです。


成田山公園-5

 大寺や 玄関飾る 菊懸崖

石灯籠の隣には、こう刻まれた句碑があります。
「中興第十九世 空如」とあるのは、中興十九世の松田照應師の俳号です。

松田照應師は明治三十六年(1903)成田に生まれ、明治四十五年(1912)に成田山に
入山、昭和3年総本山地積院主事、同9年横浜別院主監、13年権少僧正、16年少僧正、
20年大阪別院主監、21年権中僧正、24年中僧正、28年権大僧正、40年大僧正となって、
大本山成田山貫主となりました。 昭和61年(1986)没。


成田山公園-6
*****成田山公園-7
成田山公園-8
*****成田山公園-140

この辺りは「梅園」と呼ばれ、多くの梅の木が植えられています。
早春の頃の成田山公園は、梅のほのかな香りにつつまれます。


成田山公園-9

変わった形のこの灯籠には、「 獻燈 」「東京明治座 大正十年五月建立」と刻まれています。
この献灯の二年後、当時久松町にあった劇場が関東大震災で焼失し、麻布十番の末広座を
明治座と改称して興業するなど、苦難の時代が続きました。


成田山公園-10
成田山公園-11

公園入口の門をくぐって直ぐに左に入る小径があります。
スダジイの大木の根元に立つ灯籠には、「永代御膳料」と刻まれています。
東京の大久保久七氏が、大正十年(1921)に寄進したものです。
大久保久七氏は日本橋富沢町で呉服商として成功を収めた人のようです。(三田商学研究・
第46巻第2号、同第48巻第3号の織物問屋群生化に関する白石 学氏の論文に、何度か
名前が出ています。)


成田山公園-12
成田山公園-105
成田山公園-106

小径の左側は崖で、右側にはたくさんの紫陽花が植えられています。
崖の下は雄飛の滝(いずれ散策に行きます)になるようです。
目を凝らすと、滝の上にある「洗心堂」の屋根が見えます。


成田山公園-13

紫陽花の小径を進むと、藤棚が見えてきます。


成田山公園-14
***成田山公園-59
成田山公園-60

四月下旬から五月初旬にかけて、見事な花を咲かせます。
花の盛りには、ベンチは人々でいっぱいになります。


成田山公園-15

藤棚からメインストリート(?)へ出る場所に立つ灯籠。
竿下部にかすかに「大正十年十二月建之」と読める文字があります。
別巻資料には年代等の記載が無い灯籠が一基載っていますが、記載されている高さから、
「東京旭一心講」の奉納ではないかと思われます。


成田山公園-16

藤棚の横の柵内にある、明治十一年(1878)の照輪上人らの句碑。
「花園」(現成田山公園)の完成祝に、三橋梅隣が主催した句会で詠まれたもののようで、
「如是我聞   園の日に 経よみ鳥や 法の花   黙堂」 (黙堂は照輪上人の俳号)
をはじめ約二十首が刻まれています。
「経よみ鳥」とはウグイスのことで、その鳴き声が「法華経(ホケキョウ)」と聞えることから
こう呼ばれることがあります。


成田山公園-17

照輪上人らの句碑の隣にある小さな石碑には、「大護摩修行」「明治十二年」と刻まれています。


成田山公園ー21

藤棚の脇にある、天明八年(1788)建立の松尾芭蕉の句碑。

「丈六に 陽炎高し 石の上」

この句は、貞享五年(1688)故郷の伊賀の新大仏寺を訪ねた時に、土砂崩れによって
堂塔が破壊され、仏頭のみが石座に残されたさまを詠んだものです。

丈六(じょうろく)とは、仏像の背丈を現す言葉で、仏は一丈六尺(約4.85m)の身長が
あるとされているので、仏像もこれに合わせて作られます。
半丈六像は約八尺(2.43m)、坐像はこの高さが多いようです。


成田山公園ー40
成田山公園-18

藤棚に入らず、そのまま小径を進むと、「獻燈」と刻まれた古い灯籠があります。
台座に「斎木」「平岡」の名前が読めますが、寄進年等は不明で、別巻資料にもこの灯籠は
見当たりません。


成田山公園-108
成田山公園ー19

灯篭の先には、明治四十二年(1909)の東京府消防組木遣会の「木遣塚」が見えてきます。
江戸火消し時代の「ほ組」「と組」「ち組」「ぬ組」「わ組」「か組」が再編された「第五区」(現在の
台東区全域、荒川区の大部分、千代田区の一部を担当)が奉納したもので、不動明王を現す
剣を中心に置き、左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた
三尊の形式になっています。

成田山公園-113
***********成田山公園-114
成田山公園-115

**額堂-99

三尊像は境内の何カ所かで見られますが、光明堂脇にある三尊像の構図とほぼ同じようです。


成田山公園-109
成田山公園-110

木遣塚からメインストリートに出る角にある灯籠。
笠の部分に特徴のある、ずんぐりした灯籠です。
「永代御膳料」「大正九年九月」の文字が見えます。


ほとんどの石碑や石造物への接近が、立ち入り禁止の柵またはロープに阻まれている中、
小さな階段に導かれる石碑があります。

成田山公園ー25

照輪上人の碑。
中興第十三世照輪上人は、文化十二年(1815)上総富津の生まれで、字は貫瑞、黙堂と
号しました。

抑〻成田山公園は、当山光明堂右側丘陵地の一部に始まり、漸次に拡張せられて現公園
となったのであるが、もとこの場所は平坦な芝地で、当山開帳等の場合には、此処に各種の
興業場が設けられ、就中曲馬の興業は最も盛んに行われていた関係から古くは此処を「曲
馬場」と称し、又一方屢〻佐倉藩郷兵の調練場となったところから、一名「調練場」ともいわれ
ていた。然るに其の後照輪上人は、一般參詣者並びに信徒の慰安を図る為め、明治九年(一
八七六)此の地に花園を造る計画を立て、同一〇年此の芝地を開拓して梅樹を植えて梅園と
し、藤棚を設け、池を掘って花菖蒲を植え、更に桜樹・花卉等を裁えて、「花園」又は「花屋敷」
と称し、其の南側には四阿を建て、上人自ら筆を執って「華胥」と題し、屢〻歌人・俳士・文人・
墨客を集めて、清遊を試みた処である。蓋し当時この園は、艶美恰も華胥の境に遊ぶが如き
感があったからであろう。】 
 (「新修成田山史」 P166~167)


成田山公園ー38
成田山公園ー23

公園内の「金蘭不朽」の碑の右方、一段高き丘上にある銅碑で、三段の墓石の上に立ち、
高さ三メートル、巾一・一〇メートルの雲竜の縁付の鋳造物である。明治二一年(一八八八)
一一月二九日昭輪上人の七回忌に際し、三池大僧正の建立せるものであって、照輪上人の
伝記を詳細に誌してある。「照輪和尚之碑」の六字の題額は、北白川宮能久親王殿下の御染筆
にして、撰文は上人と蘭交ありし宗伯浅田惟常氏。書は高橋泥舟氏、鋳造人は川口住の永瀬
正吉である。】 
 (「新修成田山史」 P659  赤字の「昭」は「照」の誤植と思われます)

碑文にはこう記されています。

照輪和尚之碑 二品大勲位能久篆額 泥舟隱士高橋精一書
師諱照輪字貫瑞號黙堂姓原口氏下總國周准郡富津村人父半藏母某氏師生而頴異文政甲申
中從下總國新勝寺主照胤薙染爲僧時年甫十歳天保中就照恵和尚受戒後入京師智積院顕密
二教凡二十余季學就住于江都浅草正福院慶應丁卯衆推襲其師新勝寺職明治中擢七級教導
試補暦階級至権中教正兼眞言學頭当此時寺務倥怱冗費極多師入寺後慈忍化行百廃倶擧称
爲中興繼之築明王支院於東京及横浜高崎等修行徳詣成田道路改架佐倉鹿島橋時供學校警
署育児訓児等費官屢賜銀杯以賞之明治十四年 皇上臨三里塚種畜場以本寺爲行在所特許
拝謁賜紅白縐各一匹金百錠越十五年又臨幸賜菊章銀杯三脚絳錦二巻金百錠他寺之所罕世
以爲栄焉師賦性慈緩端重寡言夙夙起奉事不動明王日佛有盛衰道不虛行在其人勉勵耳終身
持行不倦誨人則務以身卒惓惓唯恐其力之不逮故其道風雅量爲世所欽如此師以文化乙亥二
月廿一日生以明治壬午十一月廿九日示寂世壽六十八僧臘五十八檀越慕之如哀妣師會在都
下十八年與貴紳名流驩又與異邦名士爲詩文之友傍通諸子百家書頗有文字禅之名蓋逃于墨
而仍不失爲儒者也記距今六年余與門生林静斎訪師盧一見如旧識齢亦相若因訂兄弟之盟詩
文贈答殆無虚月師乃爲余撰壽蔵文而今弟子来徴師墓銘潜然不堪存没之感余曷得辞乎為之
銘曰
      仁風披拂成田雨   炎威薫騰聖尊煙
      非斯師誰能爲之   非斯道孰得其縁
      神朗気清仙耶佛   宜矣其徳蚤達天
                  明治十九年九月     明宮尚薬  従六位  浅田惟常謹撰 】  
   
(「新修成田山史」 P659~660)


この「照輪和尚の碑」は、一段と高い場所にありますが、向かって左側に少し下りると、「金蘭
不朽の碑」があります。


成田山公園ー39
成田山公園-22

この碑は、生前の漢方医学の大家である浅田宗伯と、原口照輪との親しい交わりを記したもので、
題額は勝海舟、撰文は石川大僧正、書は浅田惟恭によるものです。

【 際洋医跋扈之時凛然持長沙之正脈者非栗園浅田先生乎當佛教衰頽之日毅然掲不動之法幢
者非我師黙堂上人乎其精神気魄俱足壓當代而動後世矣明治十二年己卯先生拉其門人林静斎
訪上人於我成田山新勝寺先生與上人意気相投年歯相若握手驩甚因直訂兄弟之盟爾來交情日
厚山河雖隔雁魚頻通夢寐之間不能相忘於懐也是實希世之佳遇而雖由先生之與我師有道心相
印者安知非不動明王之冥助陰誘哉十三年庚辰先生自建壽碑題曰寂然不動上人爲之銘十五年
壬午上人示寂先生撰其墓碑銘二十七年甲午先生亦逝矣今玆丁酉静斎與院代峰川照和等相謀
募浄財建一大碑将傳金襴之交於不朽其志可嘉也庶幾千歳之下聞二老之風者使薄夫敦懦夫立
志焉銘曰
       成田之山  蒼翠聳天  両賢相遇  笑指白雲
       宿縁甚深  交誼至重  妙諦仁術  萬古不動
                                        明治三十五年五月
                               成田山新勝寺現住權少僧正照勤謹撰
                               從二位勲一等伯爵勝安芳題額
                                            東京  淺田惟恭謹書 】
(「新修成田山史」 P661)


成田山公園ー26
成田山公園ー28
成田山公園-112

照輪和尚の碑からメインストリートをはさんだ反対側に、木々に埋もれた五重塔があります。
繁みの中には小さな奉納碑が立っています。
別巻資料で該当すると思われるのは、大正十一年(1922)の東京穀物商組合の寄進です。


成田山公園-101
成田山公園-102

五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い茂り、残念ながら
見晴らしは良くありません。
目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるようです。


成田山公園ー30

五重塔の反対側に立つ大きな灯籠。
別巻資料の中に該当すると思われるものは見つけられませんでした。


成田山公園ー33
成田山公園ー34
成田山公園-100
                                               ( 裏 側 )
木(?)のように見える不思議な形状の碑ですが、公園の管理をしていた方の話ですと、木の
化石のようだとのことです。
灯籠奉納碑のようで、かすかに「■田久保」と読めます。


成田山公園-37

左は明治三十九年(1906)の「日露戦争戦勝紀念碑」。
東京・日本橋の太物商(綿や麻の和服商)の小島勇次郎夫妻による建立ですが、上部の
碑銘には「紀念 東郷書」とあります。
「東郷」とは、日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎のことです。
碑文は風化で読みにくくなっているので、「新修成田山史」から引用します。

 【我が国露国との戦争は明治三十七年二月八日に始り、海陸連戦連勝九月四日遼陽を
占領、三十八年一月一日旅順を陥れ三月十日奉天を占領、十六日は鉄嶺も占領せり、
五月二十七日より二十八日までの日本海海戦に敵の船隊をして殆ど全滅に至らしむ後
米国大統領の講和勧告によりてこゝに平和の秋とはなりぬ
           御代なれや凱旋門に菊の花    愛宕
                            香鴻  山岡 昇 書   田鶴年刻 】

裏面には建立のいきさつが次のように刻まれています。

【 此表面は愛宕千葉先生の亀戸に建られし紀年碑を老父勇翁が報国のため先生に乞て
覆刻し成田山に建むといふ時に年七十七其志に感し老父に代りて之を建
嘗て老父の句に
              開戦の二月八日や大勝利
                           明治三十九年冬日
                             東京日本橋区元大坂町太物商
                                  大坂屋二代 小島勇次郎
                                        妻    なか  】


句にある二月八日とは、日露戦争における最初の戦闘に、勝利した日のことです(二月六日・
国交断絶、二月十日・宣戦布告)。

この紀念碑の右側、成田小学校方向へ下る石段の脇にあるのは、は明治四十一年(1908)の
奉納碑で、「永代御膳料 金五百圓」と刻まれています(寄進・横浜 原田久吉・寿以)。」
 
現代の貨幣価値に換算すると4~500万円くらいでしょうか。
原田久吉は天保八年(1837)、静岡の佐久間出身で、横浜を拠点に活躍した名士です。


成田山公園-56

「紀念碑」から少し奥に進むと、明治三十六年の「竜王講内田竜左右頌徳碑」があります。

内田竜左右(文化十三年~明治三十年)は武州葛飾郡桜田村の生まれで、東京・日本橋の
ほか上州、武州に多くの講社を主宰し、安政の本堂再建に大きな貢献をした人物です。
安政の本堂とは、安政五年(1858)に建立された現在の釈迦堂のことです。
現在の大本堂の建立にあたって昭和39年に現在の場所に移されました。


成田山公園ー35

大師像。
ビッシリと張紙があって、刻まれているはずの文字が全く見えません。
寄進者と思われる「立嵜貞助」の名前が読めました。


成田山公園-41

成田山公園-54

成田小学校脇へ下る石段の右側に建つ灯籠。
木々に覆われて刻まれている文字が良く見えませんが、辛うじて「獻燈」「石橋利仁」「大正十■」
などが読めます。


「木遣塚」の先にはズラリと石碑が並んでいます。

成田山公園-116

大東講の護摩木山奉納碑。


成田山公園-117

護摩木山奉納碑。
奉納者は新栄講の石森安兵衛。


成田山公園-119

明治九年(1876)、新栄講の「永代護摩木山奉納碑」。
「山坪数四千八百三十五坪」と刻まれています。

護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。
「酒々井町篠山新田字大山」と読めますが、現在の国道51号線の「公津の杜入口」の信号の
ちょっと先、酒々井町に入って直ぐの右側、ゴルフ練習場やガソリンスタンドがあるあたりです。

手前は奉納者名簿。


成田山公園-120

大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」。
山梨・上野原の弘敬講中の寄進です。


成田山公園-121

これは句碑のようです。
明治三十四年(1901)の建立で、「吉田・太田・和田」等の名前があり、6首の俳句が刻まれて
います。


成田山公園-122

「永代護摩料奉納碑」。
木に隠れて見にくいのですが、「新明講」「君津郡金田村」と読めます。
君津郡金田村は、現在の木更津市の西部にあたります。


成田山公園-123

明治三十三年(1900)の「敷石紀念碑」。
「神力講・古谷野」の名前があります。
手前は「鉄柵奉納連名碑」で、明治三十九年(1906)のものです。


成田山公園-124

明治三十六年(1903)の永代御膳料奉納碑。
弘明講社と記されています。

横にある永代御膳料奉納碑は,大正二年(1913)のもので、「中村平右衛門」の名があります。


成田山公園-125

左は大正三年の(1914)「玉垣建設補助人名碑」。
真ん中は大正六年(1917)の「百度大願成就」記念碑。
右は明治四十四年(1911)の神生講の「永代護摩料奉納碑」。


成田山公園-126

明治四十年(1907)の「永代御膳料奉納碑」。


成田山公園-127

「永代資堂金奉納碑」。
明治四十年(1907)に深谷町と記されています。
「金五百圓」を何かの時の資金として新勝寺に奉納したものです。


成田山公園-129

「永代御膳料奉納碑」。
「不動講」とありますが、別巻資料には該当しそうなものが見つかりません。
柵の奥にあるため、良く見えませんが、裏面に「嶋野念」の名前が読めます。


成田山公園-70
成田山公園-128

大正十一年(1922)の五重塔。
「栃木縣日光町」と刻まれています。


成田山公園-130
成田山公園-141

五重塔の奥には明治二十四年(1891)の「永代大護摩修行碑」があります。
成田町の丸成元講社が建立しました。
横にある石碑には講の由来が記されています。

【 丸成講社起因碑
  夫天者生々発育之気而不能無不時晦明風雨人者万物之霊長而不免有不虞疾病災害是故人
  皆欲去禍害就福利仰神明仏陀之冥護亦古今之常情也抑丸成元講先師原口教正之所金圏而
  現住三池僧正之継其志信者長谷川社長及副長諸氏協同組織之実以明治七年起社員三十毎
  歳三回必修大護摩以祈講社安全所謂畏彼天命以真実之心行善良之事者社運日趨隆盛不宜
  哉雖是因明王之冥護然亦諸氏積善之余慶在新勝寺多年能知其事実故不敢辞也 】
 

天候不順による災害・疫病から、仏陀に救いを求めて講を組織したようです。


今回はこのへんで。
この先はまたいずれ次回に。


成田山公園-133
成田山公園-134

取材を始めた夏の盛りから5ヶ月以上経ち、公園は紅葉の時期を終わろうとしています。

梅がほころぶ早春の日まで、石造物は落ち葉が舞う木枯らしの中で立ち続けます。




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