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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」と「長見寺」跡

栄町の利根川河畔に鎮座する「一ノ宮神社」を訪ねます。

一ノ宮-51

「一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎」
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

延長二年は西暦924年、ほぼ1100年前になります。

ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として知られ、剣神、
または武神・軍神とされています。


さて、境内を見渡しても鳥居が見当たりません。

一ノ宮-1

境内の周りを歩き回ると、風に落とされた木の枝が散乱し、枯れ葉に覆われた、人の通る
気配のない細道の奥に、鳥居がチラリと見えていました。
これがかつての参道なのでしょう。


一ノ宮-2
一ノ宮-4
一ノ宮-7

境内からは300メートルほど離れた場所に建つ鳥居は、平成4年の建立。
「一宮大明神」と刻まれた石の扁額の周りには腐った注連縄が残っていて、少なくとも1年
以上は放置されていたような感じです。
この鳥居や参道の荒れ具合から考えると、今では参道としての役割は失っているようです。


一ノ宮-5
一ノ宮-6

鳥居の先に「矢口区共同墓地」があり、参道の先を 遮る感じになっています。
脇の無縁塚には、宝永・享保・元文・宝暦・寛政などの元号が刻まれた墓石が並んでいます。

ここは以前「花輪堂」と呼ばれるお堂があったところで、毎年4月に神社に奉納される獅子舞
(オコト)が、この共同墓地の前から出発します。
この獅子舞が鳥居をくぐり、社殿へと進む日だけが、参道として蘇る唯一の時なのでしょう。


一ノ宮-8
一ノ宮-9

鳥居をくぐって、参道を神社の境内へと戻ります。


一ノ宮-10

大正二年(1913)編纂の「千葉縣印旛郡誌」は、一宮神社について次のように記述しています。

「村社一ノ宮神社 矢口村字花輪にあり由緒不詳社殿間口一間三尺奥行一間三尺拜殿間口
四間三尺奥行二間境内九百二十坪官有地第一種あり神官は大野橘磨にして氏子八十五戸を
有し管轄廳まで十一里二十町なり五月初旬御田植の式ありて賽客多し」



一ノ宮-11

境内に入った右手に、円筒と手水盤が並んでいます。
円筒形の石造物には、「一宮本地堂」と刻まれ、「文化六己巳年十一月吉日」「當山現住舜海」
と記されています。
ちょっと不思議な形ですが、「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成」(平成4年)には、

「中間が膨んだ円筒形に造られた上端は、丁寧な仕上げが施されていないため、この上に
笠石状のものが乗っていたとも考えられ、或いは石灯籠の竿石であった可能性もある。
翌七年の棟札には、この年の八月に大風により大破したため、組物から上方を組直したこと
が記されていて、文化二年(一八〇五)に修造が行われた本殿の再建祈念といえよう。」

と書かれています。(P168)

そして、翌七年の棟札には、次のように記されています。

「文化六己巳年八月廿三日大風裏大杉木 本社江折懸大破舛ヨリ組直修復造営成就
翌文化七年六月朔日吉辰」


手水盤には「明和九辰」の文字が見えます。
明和九年は西暦1772年、「明暦の大火(振袖火事)」、「文化の大火(車町火事)」とともに
江戸三大大火の一つと言われる「明和の大火(目黒行人坂大火)」のあった年です。


一ノ宮-12
**********一ノ宮-13

常夜燈には、「天保八丁酉秋九月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1837年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」が起こりました。


一ノ宮-14
**********一ノ宮-15

ご神木の杉。
「栄町の自然シリーズ 第一集」(平成2年)には、樹高約28メートル、根回り6.8メートル、
樹齢は推定300年と記されています。


一ノ宮-33

ご神木の他にも、境内には見上げるような大木がたくさんあります。


一宮神社-75   
*******一宮神社-72
一宮神社-103
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一ノ宮-20
*******一ノ宮-21

本殿には見事な彫刻が施されています。

「本殿は、一間社流れ造りで、屋根は銅板葺、向拝の虹梁上の柱間に見える竜、その柱上
には獅子鼻、その左右に象鼻そして海老虹梁、前廻り縁の左右にある脇障子の彫刻など、
実に見事である。」
  (「栄町觀光ガイドブック」 P16)


一ノ宮-22
***********一宮神社-77

瑞垣の隙間から見える脇障子も、確かに見事な彫りです。


一ノ宮-24

拝殿にも凝った彫刻が施されています。
拝殿は明治四十五年(1912)に建造されました。


一ノ宮-54

「現在の社殿は、安和元年に建造され、安和8年には宮様が訪れていることが石碑などから
うかがわれる。 なお、現在の拝殿は明治45年3月に作られたもので、祭日には獅子舞が
奉納されていた。」
 (「栄町觀光ガイドブック」 P16)

安和元年は西暦968年で、約1050年もの昔になります。
ここで、疑問が湧きます。
千年もの歴史を持つ建造物が、国や県の文化財指定を受けず、さらに地元自治体からも
指定を受けていないのはなぜなのでしょう?
棟札等で見る限り、度々修造が行われているようで、さすがに安和元年の社殿が現存して
いるとは考えにくいのですが・・・。
・ 天明五年(1785)    本殿の建立(再建?) (※1)
・ 文化二年(1805)    修造工事
・ 文化七年(1810)    修造工事
・ 慶應二年(1866)    修造工事
・ 明治三十八年(1905) 修造工事
・ 昭和二十六年(1951) 修築工事
火災による焼失の記録はありませんが、何度かの修繕・修造を繰り返し、昭和26年に大幅
な改築を行ったため、安和元年の社殿はもとより、天明五年の社殿の部分すらほとんど残さ
れていない状態となり、文化財の指定には至らないと判定された、と推測したのですが・・・。
栄町に照会したところ、ニュアンス的には”伝承による神社の歴史の古さはあるものの、建造
物としての社殿には文化財に指定するほどの価値はそれほど見い出せない”とのことでした。
栄町には、古刹の「龍角寺」に関連する国や県の指定文化財がありますが、町の指定文化財
としては一宮神社本殿より新しいものもあり、それぞれ建築技法の珍しさや歴史的価値、美術
的価値などを評価しての指定となっています(※2)。
残念ながら一宮神社本殿には、建造物としての古さ以外に、際立った特徴がないのでしょう。

(※1)天明五年の棟札(これにより天明五年に社殿が建立されたことが分かります)
                    旹天明五乙巳年   遷宮大導師天竺山
    聖衆天中天迦陵頻伽聲                    龍角寺竪者法印春捍
                    天下泰平四海静謐                                    
   奉      建立一宮大明神社頭一宇棟札所
                    國郡安全万民快樂       
    哀愍衆生者我等今敬禮                    別當 長見寺法印智道
                    十一月吉祥日
                                 下総國埴生郡矢口村七箇村氏子中


(※2)日枝神社本殿(寛文十二年・1672)、布鎌神社水神社本殿(宝暦七年・1757)、駒形
神社本殿・文化四年(1807)、大鷲神社本殿・天保二年(1831)、雙林寺大師堂(明治九年・
1876)

なお、「安和8年」は存在しない年号で、「安永八年(1779)」の間違いだと思われます。
「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成補遺」(平成9年)に収録されている一宮神社の墨書中に、
小さく  「安永八年亥年宮様御下リ良宮奉称候」 と書かれている部分があります。


一ノ宮-26

拝殿の左側に二基の祠が立っています。
左側の祠は大正十五年(1926)の「出世稲荷神社」。
右は風化で社号、年号ともに不明です。


一ノ宮-27
一ノ宮-28

本殿の裏には小高い塚があり、その上に祠が一つ立っています。
社号は見えませんが、側面には「天下泰平五穀成就」と「安政五午二月」と刻まれています。
状況から、「浅間神社」であろうと思われます。
安政五年は西暦1858年、大老井伊直弼による「安政の大獄」が始まった年です。


一宮神社-80
一宮神社-81

塚の下に並ぶ数基の石造物。
左端の一番大きな石柱には、「奉納 御寶前 文化元年甲子九月吉日 當山現住舜海」
刻まれています。
文化元年は西暦1804年になります。
左から二番目の祠には「天保八酉年」、三番目の祠には「明治十四年」、四番目は二つに
割れて判別不能、そして右端の祠には「万延元申」の文字が読めますが、いずれも社号は
分かりません。
天保八年は西暦1837年、明治十四年は1881年、万延元年は1860年になります。


一ノ宮-30
一宮神社-82

塚の裏には、100段以上もある裏参道の急勾配な石段があります。


一ノ宮-32

境内の一角にある、明治三十九年(1906)の「戦捷紀年碑」。


一宮神社-110
一宮神社-112
一宮神社-111

葉の裏に文字を書いて文通したと伝えられる「タラヨウの木」。
タラヨウは多羅葉と書き、昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したり、
文字を書いたりしたことから、神社やお寺に植えられるようになりました。

タラヨウとは「もちのき」のことで、樹皮から鳥や昆虫などを捕まえるために使う「鳥もち」を作る
ことができることから、この名前が付きましたが、今では鳥もちなど忘れられた存在です。


一ノ宮-47

一ノ宮神社の隣には「矢口青年館」と駐車場がありますが、神社の境内との境界を示すように、
たくさんの石仏・石造物が並んでいます。


一ノ宮-34

この如意輪観音には「寛文九己酉年」の紀年銘が刻まれています。
寛文九年は西暦1669年になりますので、一宮神社が再建された天明五年(1785)より
110年以上前のものです。
ここは、一宮神社の別当寺の「長見寺」があった場所です。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
「矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)に、次のような記述があります。
「長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。」



一ノ宮-35     右の大師堂
      左の大師堂    一ノ宮-36

寺の境内入口だったであろう場所の左右に「大師堂」があります。
向かって右の大師像には、「文化■■甲戌■」と読める紀年銘が刻まれています。
文化年代で干支が甲戌となるのは十一年(1814)です。
左の大師像の台座には、「万人講」と読める文字が見えます。


一宮神社-100

右の大師堂の隣には、「新 四國八十三番 一ノ宮山■■寺」と刻まれた石柱があります。
■の部分は「長」の異体字と「見」のように思えます。
四国八十八か所霊場の八十三番は「神毫山(しんごうざん)一宮寺」ですが、一ノ宮にかけて
「一ノ宮山長見寺」としたのでしょうか?(■の部分に疑問が残りますが・・・)
右側面には「讃刕一ノ宮 写」とあります(刕は州の異体字なので「讃刕」とは讃岐地方のこと)。
左側面には「南無大師遍照金剛」、裏面には「文政四辛巳年三月造立」と刻まれています。
文政四年は西暦1821年です。


一ノ宮-38
一ノ宮-39

石柱の隣には「子安堂」があります。
赤子を抱いた子安観音は文化三年(1806)のもので、「十九夜講」と刻まれています。
これは「月待講」と呼ばれるもので、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの
月齢の夜に、村の仲間(講)が集まって飲食を共にし、お経をあげたり、月を拝んだりして
悪霊を払うという宗教行事ですが、「庚申講」と同様に娯楽的色彩を強くもった行事です。


一ノ宮-40

子安堂の向いには風化で年号が読めない地蔵菩薩像と、「權大僧都竪者法印舜海大和尚位」
と刻まれた文政七年(1824)の石碑が並んでいます。
この「舜海」という名前は、境内の多くの石造物に刻まれていて、寺の維持管理に大いに貢献
した方のようです。


一ノ宮-41

右端は天保七年(1836)の読誦塔、その隣は文政二年(1819)の読誦塔です。


一ノ宮-42

安永、寛政年間の供養塔。
「竪者法印秀榮」「竪者法印智觀」などの高僧の名前が読み取れます。


一宮神社-102   如意輪観音の十九夜塔
      子 安 観 音     一宮神社-101

一ノ宮-46

左は「法眼宮本豐水之墓」と刻まれた明治十七年(1884)の碑ですが、台座に「文雅堂塾中」
とあるので、墓石ではなく筆子塚だと思われます。
右は三人の戒名が刻まれた慰霊碑のようです。


一宮神社-105
一宮神社-85  

神社境内と小道を挟んで金属柵に囲まれた、「金比羅大権現」があります。
中央の鞘堂の扉が半開きになっていて、中の祠がみえています。


一ノ宮-50

手前の祠は安政四年(1857)のもので、後ろの細長い石碑は「江川延命所 多賀大明神」
と刻まれた文久二年(1862)のものです。
「多賀大明神」とは滋賀県にある式内社の「多賀大社」のことです。


一宮神社-84

「栄町観光ガイドブック」には、
「矢口の一ノ宮神社は、延長2年(今から1023年前)に創建したと伝えられているが、一説
では、現成田市松崎に鎮座する二ノ宮神社は一ノ宮神社よりも110年前に創建されている。
しかし、一ノ宮神社の神官外記という人が二ノ宮神社を相続していることから、一ノ宮神社は、
二ノ宮神社よりも前の創建と考えるのが自然である。 伊藤義一氏説」
 (P16)
と紹介されています。

「神社由緒禄」に神職外記が二ノ宮神社を相続したとあるのは、斎衝三年(856)のことです
ので、二ノ宮神社を相続した外記と一ノ宮神社の外記が同一人物だとすると、少なくとも神職
としては68年以上現役でいたことになり、(神職になるまでの年齢なども考慮すると)平均寿命
が30歳程度であった時代であることから、この説には少々無理があるように思えます。
いずれにしろ、一ノ宮神社が1100年近い歴史を持つ古社であることは間違いありません。


一宮神社-107

さて、一ノ宮神社の解説には必ずと言って良いほど、成田市松崎の「二ノ宮神社」、同郷部の
「三ノ宮神社(埴生神社)」との関連が出てきます。
「二ノ宮神社」の解説にも、そして「三ノ宮神社」の解説にも、(確証はないものの)三社には
何らかのつながりがあるかのように書かれています。

「成田市史中世・近世編」に、安政年間に書かれた「利根川図志」にある、一ノ宮・二ノ宮・
三ノ宮の三社についての記述が紹介されています。
「一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記伝、伝延長二年九月十九日祭ルト
二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と伝
三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮といふ額をかく、こ神明帳に見えぬ神なり」
  
(P801 なお、郷部村は成田村の間違い)

「三ノ宮・埴生神社」のホームページには、
当神社は通称三ノ宮といわれ、その昔物資が利根川流域より運び込まれ、栄町矢口の一ノ宮、
成田市松崎の二ノ宮、そして終点の三ノ宮と順になったとされています。その名残か現在当神社
の向きは真西にむいており、一ノ宮・二ノ宮の方を向いております。」

と書かれています。

旧埴生郡内にある三社は、もともと一ノ宮埴生神社・二ノ宮埴生神社・三ノ宮埴生神社と呼ばれ
ていたのかも知れません。(二ノ宮神社は近年まで「二ノ宮埴生神社」と呼ばれていました)

「二ノ宮神社」 ☜ ここをクリック
三ノ宮神社」 ☜ ここをクリック


一宮神社-109
一宮神社-108
一ノ宮-31

千年の時を刻む境内には、ほのかに梅の香りがただよい、微かな春の足音が聞こえています。


一宮神社-0

                        ※ 「一ノ宮神社」  印旛郡栄町矢口1




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

栄町の寺社 | 16:51:16 | トラックバック(0) | コメント(2)
三百年にわたって多くの学僧が巣立っていった「飯高檀林」

今回は匝瑳市の飯高寺の「飯高檀林跡」を訪ねます。

飯高檀林-94

飯高寺(はんこうじ)には、天正八年(1580)から明治七年(1874)までの約300年にわたり、
「飯高檀林」と呼ばれる法華宗(日蓮宗)の学問所が置かれていました。
総門、鼓楼、鐘楼、講堂等は国の重要文化財に指定され、鬱蒼とした森に覆われた境内は
県の指定史跡となっています。

檀林(だんりん)とは、僧侶の集りを栴檀(せんだん)の林に例えた「栴檀林」の略で、仏教の
学問修行所のことを指します。

「飯高寺(ハンコウジ) (一)日蓮宗。 (二)妙雲山と號す。初め日祐、法輪寺なる一寺を
松崎村に建立す。これ本寺の草創なり。永禄年中、もと小田原北條氏の臣平山某の城址
なる現在の地に移る。天正十九年、徳川家康、寺領三十石の朱印を附與せしがこの朱印狀
に飯高寺とありしかば爾後寺號を今の如く改むと云ふ。尚ほ此際、檀林設置を許可せられ、
大講堂以下の諸堂造營せられる。教藏院日生これが開講の祖たり。宗門最初の根本檀林
と稍せらるゝ。飯高檀林即ちこれにして、學僧常に千人を越えたりと云う。 (三)寺域、丘陵
の地を占めて眺望に富み、大講堂・書院・庫裏・學問所・對面所・鐘楼・鼓堂・一切経藏・
文句論談所・玄義論談所等の諸堂宇を具備す。寺寶に、徳川光圀書簡其他あり。」

(「日本社寺大觀 寺院編」 昭和45年 名著刊行会)

飯高檀林は、明治五年(1872)の「学制」発布により、明治七年(1874)に廃檀となりました。


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***********飯高檀林-62
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急坂に続いて、これまた急な石段を登ったところに、国の重要文化財の「総門」があります。
間口は約4.7m、脇門が約1.9m、左袖約2.7m、右袖約3.6mの腕木門です。


飯高檀林-4
飯高檀林-3
飯高檀林-6

「総門」は初め延宝八年(1673)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
所々に補修の跡がありますが、主要部分には335年前の堂々たる木組みが残っています。
天明二年は、その後7年間続いた「天明の大飢饉」の始まりの年でした。


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飯高檀林-5
************飯高檀林-69
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総門をくぐり、樹齢2~300年の杉の大木が並ぶ参道を進みます。
これらの杉は、紀州家から寄進された熊野杉です。

千葉県教育委員会の説明板は、次のように「飯高檀林(跡)」を解説しています。
天正八年(一五八〇)土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺をつくり学問所
(檀林)としたのが始まり伝えられています。 天正十九年に徳川家より日蓮宗の宗門根本檀林
として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。特に、家康の側室養珠院「おまんの方」
の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宣の寄進等により規模が整えられました。以後、寺は
日蓮宗の根本檀林として遠近各地から参集する修行僧たちでにぎわい、名僧を輩出しました。
慶安三年(一六五〇)に火災にあい、 衆寮・楼門・大講堂を焼失し、 現在の建物はその翌年
(慶安四年)に再建されたものといわれています。」



参道を右に折れて、しばらく進むと歴代の化主(けしゅ)の供養塔が並ぶ「廟所」があります。
「化主」とは、檀林の最上位である檀林長のことです。

飯高檀林-13
飯高檀林-64
**************飯高檀林-65

正面には檀林初期の化主の供養塔が並んでいます。
中央に「開山蓮成院日尊聖人 慶長八癸卯年」と刻んだ塔があり、その左右の塔には、
二世・法雲院日道、三世・心性院日遠、十三世・寿量院日祐などの名が読み取れます。
手前の灯籠は正保四年(1647)のものです。

「蓮成院日尊」は、天正元年(1573)に「要行院日統」が飯塚村の光福寺に開いた
「飯塚檀林」を、「教藏院日生」と共に飯高村の妙福寺に、さらに法輪寺(後に飯高寺)
へと移して「飯高檀林」の基礎を築いた名僧です。
日尊は後に池上本門寺の十三世貫首となっています。
「法雲院日道」は、約1年の在位の後、久遠寺の十九世となっています。
「心性院日遠」は、約5年間にわたって檀林の組織や教育制度の充実などに尽力し、
その後身延山西谷檀林の檀林長となっています。

ここに、墓石ではなく慰霊塔が並んでいるのは、歴代の化主はそれぞれに池上本門寺や
身延山久遠寺をはじめとする全国の寺へと招聘されていったため、その墓所は招聘先に
存在するからです。


飯高檀林-66

風化が進んで読みにくくなっているものもありますが、いずれも「○○世○○聖人(または上人)」
と刻まれ、宝永、正徳、享保、元文、寛延、宝暦、天保などの元号が読めます。


飯高檀林-67

この「飯高檀林(飯高寺)」は、その学問所としての成り立ちから、檀家を持たないと聞いて
いましたが、この廟所の一段高くなった場所に比較的新しく見える、「○○家」と刻まれた
墓石群があります。
たまたまここを清掃中であった方に尋ねると、「もともと崖下にあった墓地が崖崩れに遭い、
仕方なくこの場所に移設させてもらったのだが、偉いお坊さんより高い場所となってしまい、
申し訳ない気持ちです。」と話してくれました。


飯高檀林-15

参道に戻ると、ここが元々は平山常時の居城であった痕跡の空堀があります。
過日の面影はありませんが、相当深く掘られています。


飯高檀林-72
飯高檀林-73

経文や諸文書を収める「一切経藏」。
寛文十二年(1672)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
傷みが激しいため、外壁はモルタル塗装で補強されています。


飯高檀林-21

飯高檀林は現在の「立正大学」発祥の地とされています。
立正大学のホームページにも、平成2年に建立されたこの石碑が紹介されています。


飯高檀林-76
飯高檀林-25
飯高檀林-26

木造寄棟造の「題目堂」。
18世紀ごろの建立とされています。
学僧達が上級試験に合格できるよう祈願したと伝えられています。

手前の手水鉢は明治八年(1875)の寄進ですが、その時には檀林は既に廃檀となって
いましたので、どんな気持ちでこの小さな手水鉢を寄進したのでしょうか?


飯高檀林-79

題目堂の先、参道の左手に鳥居が見えます。
「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」です。

この神社にまつわる話が、匝瑳市のホームページにありました。
少々長くなりますが、面白い話なので、ふりがなを省略して紹介します。
「その昔、檀林の僧が、朝早く、掃除をしようとして、大講堂の前庭に出てみると、総門の方か
ら、大講堂の昇り段のところまで、狐の足跡がはっきりとついていた。 庭を歩き回った足跡
からみて、大講堂の中へ入った様子なのだ。 僧は狐がどうして大講堂の中に入ったのか、
不思議に思えてならなかった。翌日も、足跡は大講堂のところで切れていた。 僧は、仲間に
このことを話した。 「それはおもしろいぞ。みんなで探してみるか」ということになり、鶯谷一帯
を探し回ってみた。 狐は見つからない。 夜中も見張っていたが、狐らしいものは一向に見当
らないのだ。 何日かたって、今度は、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いた木の葉が、庭に
落ちていた。 このことは、飯高村ばかりではなく、このあたり一帯の評判となった。 足跡を
残した狐の仕業とも思われず、かと言って、そんなことは誰もしていない。 当時は、憶測に
憶測が重なって、いろいろなうわさ話が生まれたようだ。 ところが、何年か過ぎて、その正体
がはっきりした。 能化上人の檀林入山式の日のことである。 その日は、上人の入山式と
あって、大酒盛があった。 普段、酒など飲めない学僧なので、その日だけは、無礼講とばかり、
みんな酔いつぶれるほど飲んだ。 酒宴も終わり、僧たちはみんな引き上げてしまった。 ところ
が、一人の僧が酔いつぶれて動こうとしない。 上人は、不思議に思っていろいろと尋ねてみた。
僧は、上人の前にひざまづき、ついに、正体を現わしてしまった。狐だったのだ。 この狐は、
表参道の橋げた近くの穴に住んでいた。 毎日、毎日学僧の唱える法華経の教えに感動して、
勉強がしたくなり、能化の授業に出席していた。 何年も何年もの間。しかも、一生懸命だったの
で、いろいろな教えの奥義を身につけ、時々、学寮の僧たちに、法門を指南するほどであった。
上人は、この話を聞き、法華経の奥義をきわめ、学僧の師となった努力に対して、僧に化けて
いたことを許してやることにした。 狐は、これから後、法華経の教えを守る一族として、仕える
ことを誓ったのである。 上人は、狐のために、大講堂の前庭の一角に、祠をつくり、ここに住ま
わせた。 後に、この祠は、古能葉稲荷大明神と呼ばれ久遠寺本仏(くおんじほんぶつ)の代
わり身として、信心する者が多いという。 今でも、五穀の守護神として、願をかけ、成就のお礼
に赤い幟を立てる者が大勢いる。」



飯高檀林-80  宝珠を刻む手水盤
絵馬掛けには多くの絵馬が 飯高檀林-78
飯高檀林-30  延享三年(1746)
 寛政十二年(1800)  飯高檀林-31

飯高檀林-32
飯高檀林-81
************飯高檀林-82

明治三十九年(1906)に奉納の狐の表情は、何か笑っているような・・・。


飯高檀林-38

「古能葉稲荷大明神」と参道を挟んだ場所に三基の石造物があります。
右は明治四十九年(1909)の題目塔です。


飯高檀林-87

左の石塔は「享保廿乙卯年」の紀年銘がある、道標です。
正面には「飯高檀林道」と刻み、側面には「いいたか」や「てうしみち」と刻まれています。
(「てうしみち」とは九十九里浜を銚子へと向かう「銚子道」のことと思われます。)
享保二十年は西暦1735年ですから、約280年前のものです。


飯高檀林-37

真ん中にあるこの石造物に刻まれた文字は「崇石」と読めますが、「崇」はもともと高い山という
意味で、「たっとぶ」とか「あがめる」という意味をもっています。
”それにしては何ともこじんまりしているなァ”と思ったら、「これは『崇』ではなく、『祟』ですよ。」
と、観光ガイドの方(※追記を参照してください)に教えられました。
確かによく見ると、「山に宗」ではなく、「出に示」の祟(すい=たたる・たたりの意)でした。

匝瑳市のホームページにこの「祟石(たたりいし)」にまつわる話が載っています。
正保四年(1640)、飯高檀林で総門前に石段をつくることになり、江戸から石を買い、小見川
まで船で運んで来た。そのあと、陸路を檀林まで運ぶのであるが、途中の神生村(旧山田町)
の藤右衛門という者が、そのうちの一つを盗んでしまった。 ところが、藤右衛門の家に不幸が
続き、「石を盗んだ祟りだ」ということになった。 そこで、親類の勘衛門という人に頼み、飯高寺
名主与右衛門を通して詫を入れ、ざんげの意を「祟石」と刻し、檀林へ戻したと言われている。」



飯高檀林-88

「講堂」の前に来ました。
珍しい栩葺(とちぶき)の堂々たる姿で、重要文化財としては県内最大級の建築物です。
「八日市場市史」の記述から、この「講堂」の変遷を要約すると、次のようになります。

檀林の初期の頃、講堂は総門の左側にあったと考えられていますが、慶長元年(1596)
に初代檀林長の日尊によって現在地に再建されました。
この講堂は、学僧の増加によって手狭となったため、慶安元年(1648)に家康の側室
「おまんの方」の寄進によって再築されました。
しかし、慶安三年(1650)の火災により焼失してしまったため、慶安四年(1651)に水戸藩
によって再建されたのが現在の講堂です。
約370年前の慶安四年は、軍学者・由井正雪の乱、いわゆる慶安事件が起こった年です。


飯高檀林-95
飯高檀林-96
飯高檀林-44

千葉県教育委員会のホームページには、この講堂について次のように解説されています。

その後、何度かの修理を経て桁行26.7m、梁間16.2mで寄棟造、鉄板葺となって
いたが、平成9年(1997)から平成14年(2002)の半解体修理の際の調査で、かつては
屋根が入母屋造の栩葺き(とちぶき)であったことが判明し、旧に復した。」



飯高檀林-98
飯高檀林-45
***********飯高檀林-46

講堂の前面には、3.82mの奥行を持つ広縁がまっすぐ伸びています。
この広縁を、大勢の学僧が行き来している風景が浮かびます。


飯高檀林-90

境内の右手には、入母屋造り茅葺き、袴腰の付いた、重要文化財の「鼓楼」があります。
享保五年(1720)に建立されました。


飯高檀林-53
飯高檀林-89

ここで、学僧を講堂に呼集するために太鼓を鳴らしました。
太鼓の音が遠くまで響くように、袴腰の地面に大きな瓶を口縁部分を残して埋めてあります。


飯高檀林-99

「鼓楼」の脇に、集落へ下る石段があります。
「水門坂」と呼ばれ、集落には学僧相手の様々な店が並んでいたようです。
ある程度裕福な家の子弟でないと、全てが自己負担である檀林での長期間の生活は難し
かったようで、それだけに、近隣の集落は学僧達の落とす金でそこそこ潤っていたようです。


飯高檀林-91

境内の左側には、これも国の重要文化財の鐘楼があります。
慶安三年(1650)の火災で焼失した後、承応年代(1652~1654)に再建されました。

「梵鐘には寛永十六年(一六三九)秋の銘があり、現存の鐘楼が再建される以前、やはり
鐘楼があって慶安三年の火災で講堂などとともに焼失したと考えられる。」 

(「八日市場市史 下巻」 P198)


飯高檀林-42
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飯高檀林-92

屋根は鉄板葺きでしたが、平成4年の補修の際に講堂と同様に以前の栩葺きに戻されました。


飯高檀林-47

講堂の裏手には化主の住居であった「庫裏」があります。
現在の庫裏は、明治の廃檀後に移築され、その後も改修を加えられていますが、元々の
庫裏は何度か改築や焼失を繰り返して、寛文十年(1670)ごろに再建されました。


飯高檀林-109 講堂へ向かう渡り廊下
***********飯高檀林-103 
飯高檀林-102 渡り廊下の奥の牡丹園


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庫裏の横を下る道は裏参道です。


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裏参道を登ってくると、講堂の裏側と鼓楼が見えてきます。


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『「学徒帳」によると、元禄期(一七〇〇年)ごろはおよそ四五〇から六五〇名の生徒が学んで
おり、文政十三年の「檀林明細書」には「千人以上」と見られる。それらのほとんどは寄宿生活
で、 (中略) 享和三年(一八〇三)四月の「御由緒明細書」によると、城下谷一七軒、中台谷
二〇軒、松和田谷二二軒、合わせて五九軒あった。』
 (八日市場市史 下巻 P202)


飯高檀林-112

「その飯高檀林の修学課程は、天台学研究を踏まえて、最後に日蓮聖人の御書を研鑽すると
いう初等教育課程から専門研究過程に至る八階級が設置されている。すなわち、(1)名目部
(2)四教儀部 (3)集解部 (4)観心部 (5)玄義部 (6)文句部 (7)止観部 (8)御書科の
八課程である。名目部に入学して全課程修了まで、早い者で十三~十五年、普通は二十年
の修学期間を必要とした。」
 (同 P190)

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飯高檀林-114

厳しく長い修行を終えた学僧達は、ここから全国の寺へと旅立って行きました。

かつては、大勢の学僧の研鑽する熱気が充満していたであろう境内には、今はただ冷峻な
空気が静かに流れています。


飯高檀林-0

                         ※ 「飯高檀林(跡)」  匝瑳市飯高1789


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匝瑳市の寺社 | 08:20:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
伝承によれば2100年の歴史~式内社の「老尾神社」
今回は匝瑳市にある式内社の「老尾神社」です。

老尾神社-58

老尾神社-43

老尾神社-1

「式内社(しきないしゃ)」とは、延長五年(927)にまとめられた「延喜式(えんぎしき)」の巻九と
巻十の「延喜式神明帳」に記載されている全国2861社の神社のことで、平安時代からの由緒
ある神社です。
「延喜式」は、延喜五年(905)に醍醐天皇によって当時の律、令、格についての施行細則を
記したもので、その完成には22年を要しました。

旧下総国内では、「香取神宮」、「麻賀多神社」、「蘇賀比咩神社」、「寒川神社」と、今回訪問の
「老尾神社」の五座しかありません。
「麻賀多神社」は論社として成田市台方と船形の二社に分かれ、「寒川神社」は千葉市中央区
の「寒川神社」と船橋市の「二宮神社」の二社に分かれます。
(「論社」とは、「比定社」とも呼ばれ、延喜式に記載されている神社と同一か、あるいはその
後裔と推定される神社のことです。)

なお、匝瑳市に隣接する多古町の「六所大神(ろくしょおおかみ)」は、「延喜式」には記載が
ありませんが、「式内社」であると主張しています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック


老尾神社-2

参道の入口は県道16号線沿いの、県立匝瑳高校の向い側にあります。
入口の説明板には、江戸時代の「下総名勝図絵」にある、当時の「老尾神社」の様子が紹介
されています。


老尾神社-3

社号標は昭和60年に建立されたものです。


老尾神社-4

県道から細い山道を登ると、昭和55年に建立された鳥居が見えてきます。


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鳥居をくぐった100メートルほど先に拝殿が見えます。
式内社にしては、拍子抜けするほど質素な感じです。


老尾神社-52

参道の左右には、いくつかの祠が間隔を置いて並んでいます。
それぞれの祠は、参道が枝分かれするように数メートルの小道を持っています。


老尾神社-6

参道に入って15メートルほど進んだ右手への小道にある二基の祠。
向かって左は年代不詳の「道祖神」、右は社名は不詳ですが、「安永■子九月」と読めます。
安永年間で干支に子があるのは、安永九年(1780)ですから、230年以上前のものです。
「八日市場市史 下巻」(昭和62年)には、「老尾神社」の石造物の一つとして安永九子九月の
「阿夫利神」との記述があります。
他に安永年間の石造物はありませんので、この祠は「阿夫利神」ということになります。


老尾神社-8

さらに参道を15メートルほど進んだ右側の小道の先には、「石尊宮」があります。
「大天狗 小天狗」「嘉永元戊申」と読めます。
嘉永元年は西暦1848年になります。


老尾神社-9

「石尊宮」の向いの小道に先には「疱瘡神」があります。
「八日市場市史」には、文政十三年(1830)のものと記されています。


老尾神社-10

「疱瘡神」の少し先の左へ伸びる小道にある、「■永■子」と読める祠。
「八日市場市史」の記述から、該当するのは嘉永五年(1852)の「道祖神」のようです。


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「享和三癸亥」と読める祠。
享和三年は西暦1803年で、「八日市場市史」によれば「浅間社」のようです。


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「浅間社」の向いの小道にある「天神宮」。
「弘化四未」(1847)と読めます。


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式内社「老尾神社」は、香取神宮の御祭神である「経津主命(ふつぬしのみこと)」の御子神・
「阿佐比古命(あさひこのみこと)」を主祭神として、「磐筒男命(いわづつおのみこと)」・「磐筒
女命(いわづつめのみこと)」・「国常立命(くにのとこたちのみこと)」を配祀しています。

「老尾神社は初め匝瑳之大神と称したが、延喜式には里名をもって老尾神社と記載されている。
崇神天皇の七年、神田を授かり祭祀の則これより定まるという。 正平二四年五月回禄之災に
あい、千葉介平朝臣満胤が再建し現在に至る。 明治六年郷社に列した。」 

(「全国神社名鍳 昭和52年)
崇神天皇の七年とは紀元前91年と推定されますので、実に2100年もの昔になります。
正平二四年は西暦1369年になります。
(「回禄之災」とは、火事にあうこと。 回禄は中国の火の神のこと。)

「祭神は、阿佐比古命・磐筒男命・磐筒女命・國常立命を祀っています。敷地1,200坪の境内には、
本殿(亜鉛板葺)、拝殿(亜鉛板葺)が建ち並んでいます。物部匝瑳連熊猪が、祖先の物部小事
を祖神として祭ったとの、いわれがあります。平安時代の書物「延喜式」に登載された、由緒ある
神社の式内社です。延喜帝のときに香取神宮とともに式内に列せられました。古くから匝瑳市
(旧匝瑳郡)の一座で旧海上郡・旧匝瑳郡の総社であるとの御状を拝したと伝えられています。」
 (千葉県公式觀光物産ガイド「まるごとeちば」より)


老尾神社-14

小さな手水舎があります。
手水盤は大正九年(1920)に寄進されたものです。


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神額の文字はほとんど消えて読めませんが、拝殿内部に掲げられている額にははっきりと
「延喜式内 老尾神社」と書かれています。


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拝殿の内部には神輿のような小さなお社と、匝瑳市からの文化財指定書が見えます。


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本殿の鰹木は三本、千木はありません。


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長い年月の風雪に削られて、彫りが浅くなっていますが、細かい彫刻が施されています。


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本殿の左奥に、木造の鳥居(平成21年建立)と「子安宮」があります。
右が昔からある祠で、「子安大明神」と刻まれ、「享和元酉年」と記されています。
享和元年は西暦1801年ですから、約220年前のものです。


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「子安宮」の後方、少し離れた場所に、巨大な木の幹が見えました。
近づいてみると、ご神木の大杉で、匝瑳市の天然記念物に指定されています。


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「御神木大杉は周囲二丈余亭々天を摩し、漁船出入の際目標となり、記念物として指定
されている。」
 (「全国神社名鍳 昭和52年)

地図で見ると、神社から海岸線までは直線距離で約8キロほどあります。
「全国神社名鍳」の刊行は昭和52年(1977)ですから、わずか40年ほど前まで、この大杉が
九十九里の海から見えていたわけです。
昔の漁師達にとっては、この大杉の存在感は絶大なものであったことでしょう。


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大杉から道を挟んだ路地の先に大きな石碑のようなものが見えています。


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近づいて見ると、それは板碑でした。


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匝瑳市の有形文化財に指定されていて、「胎蔵界大日如来」の種子が刻まれています。
資料によれば、文和二年(1353)のものだそうです。

周りは小さな墓地ですが、お寺は見当たりません。
「八日市場市史」には、「老尾神社の造営」の項に、
「同神社の別当は八日市場・見徳寺と生尾・光福寺の二か寺で、「見徳寺文書」に造営の記録
がある。」
 (P361)
と書かれています。
同書の362ページにある「生尾の耕地と集落」と題する地図には、「老尾神社」と道を挟んだ場所
に「光福寺」が記されています。
と、すると、ここは「老尾神社」の別当であった「光福寺」跡なのでしょうか?
ただ、WEBで検索すると「光福寺」は匝瑳市内の別の場所にあります。
その「光福寺」は、市内の飯塚にある歴史あるお寺で、生尾にあったという記録はありません。
現存の「光福寺」とは別の「光福寺」が「老尾神社」の側にあって、この板碑のある場所は、その
「生尾・光福寺」だったのではないでしょうか。


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正平二四年(1369)に社殿が焼失し、その後千葉氏によって再建されたものの、千葉氏の
衰退とともにこの「老尾神社」も衰退していったようです。
式内社としては何とも寂しい社殿と境内の風景ですが、掃き清められた参道と境内を見ると、
地元の人々の崇敬の念に護られて、長い、長い歴史を紡いできたことが感じられます。


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                          式内社・「老尾神社」  匝瑳市生尾75


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匝瑳市の寺社 | 08:13:02 | トラックバック(0) | コメント(2)
再訪~改修なった「成田山・額堂」
しばらくお休みしていましたが、久しぶりに更新します。
まずは、あまり歩き回らずにすむ成田山の「額堂」の再訪から始めます。
更新は、以前のようなペースにはなかなか戻れませんが、これからもお付き合いください。


改修なった成田山の「額堂」を訪ねます。

額堂-96

今回は、大本堂の後ろの階段を登る通常のコースではなく、裏門側から外周路を登ります。


額堂-1

外周路の急坂をあえぎながら登っていると、何となく視線のようなものを感じ、ふと上を見ると、
こんなものが目に入りました。


額堂-3額堂-5

「のぞき小僧」と呼ばれているようですが、由来は全くわかりません。
ニヤリとしたずらっぽい表情で、「のぞき小僧」とは言い得て妙ですね。

石塀に描かれているのは中国の何かの故事のようで、寄進名には左端に大きく「横■■■町
八幡屋彦兵■」、右端には「深川大工町講中」とあります。
下に並んでいる寄進名には全て昭和29年と記されています。


額堂-61

後ろ側が気になって、そばの駐車場の隙間から覗いてみました。
台の上に乗って伸び上がるようにしています。
初めからここにあったのか、後から付けたのか・・・遊び心が感じられる風景です。


額堂-62
額堂-63


額堂-4

周りにはたくさんの石碑、石版が林立しています。
「永代御膳料」「永代護摩料」と記されたものが多く、「壹千圓」「参百圓」「百圓」など、寄進当時
では非常に高額であったであろう金額が書かれています。


額堂-7
額堂-6

人通りはほとんどありませんから、猫ものんびり日向ぼっこです。


額堂-8

「包丁塚」がありました。
「この塚は、長年愛用し使い古した包丁を納めてその功徳に感謝すると共に、調理した
鳥獣魚菜の霊を慰め供養するため建立したものである」

説明板にはこう書かれていました。
何年も何年も使い込み、切れ味が鈍れば砥石で研いでまた何年も使う・・・。
最近はセラミックやプラスチックの包丁がほとんどで、包丁を研ぐ風景ははついぞ見かけなく
なりましたが、こうした供養塚には日本人の感性がとても良く反映されているように思います。


額堂-10

「額堂」は包丁塚の前を右に曲がったところにあります。
長い間耐震補強工事が行われていましたが、工事が終わり、工事囲いは取り払われています。
工事は、東日本大震災で全体が少し右側に傾いたために行われました。

「額堂」は奉納額や絵馬などを掲げるお堂で、文久元年(1861)に建立されました。
「建物は桁行正面が3間(約5.5 メートル)背面は6間(約 11 メートル) で、屋根は入母屋
桟瓦葺です。現在は四方が開放されていますが当初は背面が板壁でした。組物 は平三斗、
中備蟇股、二軒の半繁垂木です。額堂としては虹梁や木鼻など細部まで本格的な建物で、
近世における庶民信仰をあらわす代表建築の一つであります。」
 (成田山ホームページ)

この「額堂」は、正式には「第二額堂」と呼ばれます。
文政五年(1822)に七代目市川團十郎の寄進によって建立された「第一額堂」は、残念なが
ら昭和40年に焼失してしまいました。

「第一額堂」は、寄進した団十郎の定紋の三枡(みます)から「三枡の額堂」と呼ばれました。
「一切経堂の左隣にあった、間口一六・五メートル、奥行九・六メートル瓦葺き入母屋造りの
堅牢な建物で文政四年五月、当山の篤信で梨園の大御所であった七代目市川団十郎が、
当時の金で壱千両を寄進して建立したもので、翌五年一二月一九日に上棟した。 其の折
七代目は門弟一同を引具して登山し盛大なる上棟式を行ったという。 大工棟梁は大塚新八・
道明作兵衛、周囲の牡丹・唐獅子・歌舞伎十八番の「解脱」の景清等の彫刻は長坂猪之助
の刀にして精巧を極めている。」
「中央の柱には、「せったい所七代目団十郎」と書した自筆の招牌を掲げた。 当時は七代目
自ら參詣者に、茶の接待をしたという。 又堂内には七代目の袴姿の石像がある。」

(「新修成田山史」 昭和43年 P126~127)

大正元年(1912)八月の「成田町史」は、二つの額堂について次のように記述しています。
額堂 一切経藏の隣に建てり。間口九間一尺・奥行五間の堅固なる建築にして、文政四年
五月の建設にかかる。 俳優七代目市川団十郎の寄附進せるものなりといふ。 無数の額面
處狭き迠に掲げられ、中央に團十郎の石像を据えつく。」
第二額堂 光明堂の左側に立てり。 間口十間半、奥行五間半あり。 文久元年の建立にして、
多くの額面を掲ぐること前記のものに同じ。」 
(「成田市史 近代編史料集一」 P117)


額堂-11

瓦が新しく葺き直され、懸魚や虹梁も化粧直しされています。


額堂-23

四隅を新たに鉄パイプが支え、これまでの木柱には金属ベルトがはめられています。


「額堂」は二回目の訪問ですが、今回は奉納額を少し詳しく見てみましょう。

額堂-70

南側の全面です。

額堂-72

長い間風雨にさらされて、文字はほとんど読めない状態です。


額堂-64  昭和15年の奉納額

額堂-67
額堂-65 古銭を貼り付けています

額堂-68*額堂-69 

不動明王を現す剣の奉納額が目立ちます。


額堂-86

東側の全景です。


額堂-76

大きな「清元講」の額は大正六年(1917)、「成田山不動明王」と書かれている額は大正九年
(1920)の奉納です。


額堂-77
額堂-78

真ん中の大きな額は大正七年(1918)。
右上の消えかかっている絵馬には、不動明王と明王を拝む女性が描かれているようです。


額堂-79
額堂-80
***********額堂ー31

左下にはお不動様の剣に龍と富士が彫られています。
右下の額に描かれていた絵はほとんど消えていますが、中央にうっすらとお不動様の姿が
浮かんでいるように見えます。


額堂-81

「明治四拾参年」(1910)と読めます。


額堂-82

上の「敬神講」と書かれた額には昭和拾年と記されています。
左上には「心」の文字が浮き彫りされています。
その下の額は昭和6年、右上の「必願成就」と書かれた額は大正十年(1921)のものです。


額堂-83

北側に回ってみます。

額堂-84

「武蔵國北足立郡草加町」と読める明治25年(1892)の奉納額。


額堂-85

凱旋祝と書かれたこの額は「明治廿八年」(1895)と記されています。


額堂-87

西側にもびっしりと奉納額が並んでいます。

中央の大きな奉納額は、大正十三年(1924)のもので、「東京市外入新井町 諸職聯合」と
書かれています。
上に並んでいる二つの奉納額は、左が昭和15年、右が昭和26年のものです。
左にある奉納額には「上毛安中宿永代護摩講」と書かれています。


額堂-88

ひときわ目を引く大正十年(1921)の大きな奉納額には、「永代大般若経 睦會 三十六童子」
と記されています。
三十六童子は不動明王が従える童子で、大本堂裏の斜面にその像が並んでいます。


額堂-89

上に並ぶ三つの額は、「成田山」とある左が明治三十三年(1900)、「御手長」とある真ん中
が明治三年(1870)、右端は読めません。
左下は明治四十三年(1910)のものです。
奉納年は見つかりませんが、右下の奉納額には「不動明王横浜復興講社」とあります。


額堂-91

「額堂」の内部にもたくさんの奉納額・絵馬が掲げられていますが、残念ながら内部に入れない
ため、その一部が覗けるだけです。

額堂-90

昭和42年に東京理器株式会社が奉納した、バリカンとカミソリの奉納額。
この会社は昭和21年の設立(創業は大正十四年)で、現在はハサミに特化したメーカーとして、
東京・板橋で事業を展開しています。


額堂-73
額堂-74

大正七年(1918)に横須賀の料亭「小松楼」が奉納したこの額には、当時の横須賀の様子が
いきいきと描かれています。
「料亭小松」は、明治十八年(1885)創業の老舗料亭で、帝国海軍時代から海軍軍人に利用
され、戦後は米海軍、海上自衛隊にも利用されてきたことから「海軍料亭」と呼ばれています。
額を奉納した当時は海岸沿いの田戸にありましたが、海岸の埋め立てなどのため大正十二年
(1923)に米が浜に移転しています。
残念ながら今年の5月に原因不明の火事により焼失してしまい、、東郷平八郎、山本五十六、
米内光政らの書をはじめ、日本海軍に関する多くの資料も失われてしまいました。


奉納額の他に堂内には、梵鐘、将軍地蔵像、方位盤、七代目市川團十郎像、青銅製大地球儀
が展示されています。
内部に入れないため、柵の外から眺めるだけなのが残念です。

額堂-25

慶應三年(18967)に鋳造された梵鐘で、昭和43年まで門前の町々に時を告げていました。
供出を免れたこの梵鐘は、神田鍋町の藤原国信の作で、912.5キロの重量があります。


額堂-26
額堂-75

勝軍地蔵尊です。
昭和15年にここに設置されたということ以外、この像に関する記述は見つかりません。
「勝軍(または将軍)地蔵」は、甲冑を着け、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持って軍馬に跨がる
地蔵菩薩で、この地蔵に祈れば戦に勝つと言われ、鎌倉時代以後,武家の間で信仰されました。
ヨーロッパに戦火が広がり、日本の周辺にも戦雲が漂う時勢を反映した寄進だったのでしょう。


額堂-27

この公園の水飲み場のようなものは「方位盤」といいます。
「この方位盤は群馬県伊勢崎町の佐藤藤三郎氏が奉納したものです。 八角形の図形の内側
には東西南北の文字が、その外側には壬・子・癸 丑・艮・寅 甲・卯・乙 辰・巽・巳・午・丁 未・
坤・申庚・酉・辛 戌・乾・亥の方位を現す十干と十二支の文字が また欄外には放射状にその
方向の地名が、南の方向には東金・勝浦また、辰の方向には八日市場、 卯の方向には銚子
等の地名が記入されています。」
 (新勝寺ホームページ)


額堂-28
額堂-29

第一額堂を寄進した七代目市川團十郎の石像です。
鼻が欠けているのは火災時の出来事だったのでしょうか?
「團十郎の石像は、自身が奉納した第一額堂内にありましたが第一額堂は昭和40年に焼失
した為、石像を第二額堂内の現在位置に移設しました。」
 (新勝寺ホームページ)


額堂-30

青銅製の大地球儀。
「作製は、神田岩井町の紀伊国屋伝七が請負、技師は村田鉄之助、鋳工は大島金太郎。
明治40 年(1907)11月に東京上野の牛肉店の奥平洋三、梅子夫妻が店名の「世界」に
ちなんで、日露戦争の戦勝記念に奉納したものです。 直径 約110cmの青銅製で、子午
環儀の上に23.5度の傾斜をもって設置されていて、大日本帝国の範囲に銀の象嵌を
施していました。 日本帝国を銀色にしたるは目立ちて見せんが為なり、これを看る人能く
注意して此国を思ひ、彌々将来の発展を図り、益々此色を輝かすことに心掛けられたし」
と説明があったようです。」
 (新勝寺ホームページ)

以前は中に入って触ることができましたから、表面がツルツルになってしまい、良く判別でき
なくなっています。
カメラを望遠にして覗いてみました。

額堂-92 
タヒチなどがあるフランス領ポリネシアのソシエテ諸島です。

額堂ー28
アフリカ東海岸のタンザニア沿岸のようです。

額堂ー29
亜米利加(アメリカ)です。


額堂ー33
額堂ー34

見事な龍や獅 子などの彫刻は後藤勇次郎経慶の作です。


額堂-31
***********額堂-32

龍の目には銅製の目がはめ込まれていましたが、今でははこの写真の龍の左目に残っている
だけです。(機会があったら探してみてください)


「額堂」の周りを見渡してみましょう。

額堂-00
額堂-35

裏手には明治二十年(1887)に建立された天満宮と、慶応三年(1867)に建立された
「朝日観音堂」が並んでいます。


額堂-97

「光明堂」です。
元禄十四年(1701)に当時の本堂として建立され、別名「元禄の本堂」と呼ばれます。

新勝寺の本堂は何度も建て直されていますが、現存する最古のものは明暦元年(1655)
に建立された現在の「薬師堂」です。
江戸・深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって建て替え
られた本堂が、この「光明堂」です。
その後、参詣客が増えて手狭になった本堂は、安政五年(1858)に建て替えることとなり、
現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年の間、本堂
としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と呼ばれ
ていますが、それぞれに当時の新勝寺の賑わいぶりがしのばれます。


額堂-98

「額堂」と「光明堂」との間には「三社」があります。
中央に「金毘羅大権現」、左に「白山明神」、右は「今宮神社」です。


額堂-99

三社の隣には「不動三尊像」があります。
真ん中の剣が「不動明王」を表し、向かって左には「制多迦(せいたか)童子」、右には「矜羯羅
(こんから)童子」の像が立っています。
制多迦童子は強さを、矜羯羅童子は優しさを表しています。
真ん中の剣が不動明王を表していますが、二人の童子は不動明王の持つ二つの面、“強さと
優しさ”を表現しています。


額堂-49

「額堂」の向い側には「開山堂」が建っています。
昭和13年に建立のお堂で、新勝寺の開山上人・寛朝大僧正のお姿が安置されています。
寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の乱平定祈願のため、高雄山護摩堂の不動明王を
捧持して下総に下り、天慶三年(940)に公津ヶ原に成田山を開山しました。


額堂ー40
**額堂ー41

天保四年(1833)に寄進された「成田山絵図」の石碑。
風化が進み良く見えませんが、細かく彫られた精緻な絵図です。


額堂-51

「成田山絵図」の隣にも「不動三尊像」があります。


額堂-33
額堂-20

天満宮の側に昭和58年に建立された二つの句碑があります。
中興一四世貫主・三池照鳳の「節分や 本堂ゆるる 人なみや」と、中興一七世貫主・池田照誓
の「人馬絡繹万戸の村やことし米」です。
以前は、中興十五世貫首・石川照勤の「風凪ぎし雲の切日や皈る雁」と、中興十六世貫首・服部
照和の「霧や深し 天地にあるは 我ばかり」の句碑もあったのですが、大本堂裏から「額堂」や
「光明堂」へ登る石段脇にエレベーターを設置する工事のため撤去されてしまいました。(工事
完了後に戻されるのかも知れませんが・・・)         

額堂-59 工事中のエレベーター
***********額堂-60


額堂-95
額堂-41

「額堂」の前からは「光明堂」の屋根越しに「平和大塔」が見えます。
改修なった「額堂」の内部が解放される日は来るのでしょうか?
隠れている奉納額や青銅地球儀上の日本を是非見てみたいものです。



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成田山 | 07:56:31 | トラックバック(0) | コメント(4)
再訪~七百年以上の歴史ある古刹、船形の「薬師寺」

今回は二年以上前(平成26年8月)に一度ご紹介した、船形の「薬師寺」を再び訪れます。

薬師寺-164

薬師寺-100

「薬師寺」は真言宗のお寺で、山号は「船形山」、本尊は「阿弥陀如来」とされています。

「千葉縣印旛郡誌」には、「薬師寺」が次のように紹介されています。
「船形村字船形にあり眞言宗にして東勝寺末なり本尊を阿彌陀如來とす元は麻賀多神社の
別當にして今も船形北須賀二ヶ村の祈願にて二百年前船形の文書にも別當とありしと云ふ
堂宇間口六間奥行四間庫裏間口六間奥行三間半門間口三間奥行二間境内六百四十九坪
官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒四十三人を有し管轄廳まで八里七町なり境内
佛堂一宇あり即
一、藥師堂 藥師如來を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行三間」


今は本堂は無く、仁王門と薬師堂だけが残っています。


薬師寺-121
薬師寺-168  阿形の仁王像
吽形の仁王像  薬師寺-166

仁王門の左右に、県の有形文化財に指定されている迫力ある二体の仁王像があります。


薬師寺-170
薬師寺-169

阿形像は像高1.7メートルで、右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。

薬師寺-165
薬師寺-167

吽形像は像高1.71メートルで、左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。

この仁王像は、応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
近年、この仁王像の解体修理を行った際、腕と胴体の部材に大永二年(1522)と天正
二十年(1592)の修理墨書銘が見つかりました。


薬師寺ー42

仁王門の脇の手水盤には、延享三年(1746)と刻まれています。


薬師寺-122

仁王門下に立つ風化した石碑には、「奉 光明■眞言億万■■」「元禄十■■」と刻まれて
いるように見えます。
これは「光明真言百万遍塔」の一種だと思います。
「光明真言」はとても短いお経で( オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン )、これを一心に唱えれば、全ての災いを除くことができると
されています。
元禄十年は西暦1697年ですから、320年前のものです。


薬師寺-123

仁王門をくぐらずに左に行くと、小さな墓地があります。
元禄、明和、天明、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


薬師寺-126

台座に「筆子中」とある文久二年(1862)の墓石には、「法印照山不生位」と刻まれています。
照山という僧侶に学問を学んだ生徒が、師匠の菩提を弔うために建立したものである。
右側面には「松に日は暮てあかるきさくらかな 方円舎器水」の句が刻まれている。方円舎
器水は照山の俳号で、辞世の句であろうか。」
 (成田の史跡散歩 小倉 博 P106)


薬師寺-125

墓地の外れ、と言うよりは近くの原っぱにポツンと小さな石仏が置かれています。
何か文字らしきものが見えますが、読むことはできません。


薬師寺-127
薬師寺-128

薬師堂へ登る石段の左右に、数基の板碑や石塔があります。
石塔には「大僧都法印照盛」「天明七丁未」と刻まれています。(天明七年は西暦1787年)


薬師寺-154
薬師寺-129

『船形村には薬師寺と明王寺という末寺がある。 薬師寺は船形山と号し、阿弥陀如来を本尊
としている。創建年代など不詳。天保八年(一八三七)の「寺柄書上」によると、薬師寺は東西
二〇間・南北二八間の除地に認可された境内に六間・四間半の客殿(本堂)をはじめ、庫裏・
薬師堂・仁王門が建ち、檀家は一一軒であった。』
 (P787~8)
「成田市史 中世・近世編」は、「薬師寺」を「東勝寺」の末寺として、こう解説しています。

また、「成田の史跡散歩」(小倉 博 著)にも、
「明王寺跡から少し行った左側が船形の薬師寺である。薬師寺は山号を船形山と号する
真言宗豊山派の持院で、阿弥陀如来をご本尊としている」
 (P104)
とあり、その他のほとんどの資料が本尊を「阿弥陀如来」としています。

しかし、全国寺院名鑑(昭和44年)には、
「薬師寺 真言宗(豊山派) 本尊薬師如来境内八五六坪建物薬師堂一一坪仁王門寺宝
旗曼荼羅版木梵鐘(応永元年作) 由緒 船形山と号し、創建年代不詳。麻賀多神社の
別当寺であったといわれる。」

とあり、また安政五年(1858)の「成田名所圖會」には、
「舟形山薬師寺 船形村にあり。本尊薬師如来行基菩薩の開眼なりと云開基詳ならす。
此寺旗曼荼羅と云古き板木を蔵す。古色掬すべし。」

とあります。
さらに、「成田の地名と歴史」では、「薬師寺の木造薬師如来坐像」を本尊としています。

さて、ご本尊は「阿弥陀如来」か、「薬師如来」か?


薬師寺-104

薬師堂の中には三尊像があります。

「成田の史跡散歩」ではこの三尊像について次のように解説しています。
「仁王門をくぐると正面に石段があり、その上に本堂(薬師堂)が建つ。本堂にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と観音菩薩立像・勢至菩薩立像の、いわゆる阿弥陀三尊が祀られ、その
後方の厨子に平安時代から鎌倉時代の作品とされる、やはり千葉県指定文化財の木造
薬師如来坐像が納められている」
 (P105)

ずっと疑問に思っていたことがあります。
それは、「薬師寺」なのになぜご本尊が「阿弥陀如来」なのか?
さらに、薬師堂になぜ「薬師三尊」ではなく「阿弥陀三尊」なのか?
ということでした。

これまで多くのお寺を訪ねてきましたが、この船形の「薬師寺」は特に好きなお寺の一つ
なのですが、訪ねる度にこの疑問が湧いてきます。


薬師寺-103
薬師寺-205

「阿弥陀如来」であれば九品来迎印や弥陀の定印を結び、衣は偏袒右肩が一般的ですが、
この像は定印で通肩、しかも薬壺らしきものを抱えています。
もしこの像が薬師如来だとすれば、この像容は珍しく、ネット上で画像を探しましたが、東京都
中野区の新井薬師、山口県山口市の瑠璃光寺、京都府井出町の西福寺で見つかりました。
そして中尊が薬師如来ならば、脇侍は日光菩薩と月光菩薩ということになります。
背後に十二神将が並んでいることも整合します。


薬師寺-106
薬師寺-207 左脇侍(漢音菩薩か日光菩薩)

薬師寺-105
薬師寺209 右脇侍(勢至菩薩か月光菩薩)

「阿弥陀三尊」だとすると、左脇侍の「観音菩薩」、右脇侍の「勢至菩薩」、ともにその像容に
やや違和感があります。


薬師寺-156

「薬師三尊」である確信は持てませんが、「阿弥陀三尊」にも疑問が残ります。

へそ曲がりの素人の妄言かもしれませんが、専門家の方のご意見が欲しいところです。


三尊像の両脇後方には十二神将が並んでいます。

薬師寺-213
薬師寺-217
薬師寺210
***********薬師寺-211

十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来や
薬師経を信仰する人を守護するとされています。
十二神将とその本地物を列挙すると、
                         
宮毘羅大将(くびら)   弥勒菩薩   ・  伐折羅大将(ばさら)   勢至菩薩 
迷企羅大将(めきら)  阿弥陀如来 ・  安底羅大将(あんちら) 観音菩薩
頞儞羅大将(あにら)  如意輪観音 ・  珊底羅大将(さんちら) 虚空蔵菩薩
因達羅大将(いんだら) 地蔵菩薩   ・  波夷羅大将(はいら)   文殊菩薩
摩虎羅大将(まこら)  大威徳明王  ・  真達羅大将(しんだら) 普賢菩薩
招杜羅大将(しょうとら) 大日如来   ・  毘羯羅大将(びから)  釈迦如来

薬師三尊像の眷属として十二神将像をともに安置することが多く見られます。


後ろの厨子に安置されている、「木造薬師如来坐像」の画像を、千葉県教育庁教育振興部
文化財課の許可をいただいて、掲載します。

薬師寺ー36
(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ 

「この像は同寺の本尊として本堂に安置されている。 ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼が
はめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、現状では素地となっているが、
薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」

この画像の解説にはこう書かれています。

ここでもこの「薬師如来」を本尊としています。

ご本尊は「阿弥陀如来」なのか、「薬師如来」なのか、そして、三尊像は「阿弥陀三尊」なのか
「薬師三尊」なのか・・・。
素人なりに追いかけるには、おもしろいテーマだと思っています。


薬師寺-130

薬師堂の前に、宝珠と火袋部分が無くなって、中台の上に笠だけが乗っている石灯籠が二基
並んでいます。
「享保十一午」の文字が読めますので、1726年のものです。


薬師寺ー6

本堂左手に立つ一対の灯籠と宝篋印塔。


薬師寺-134
***********薬師寺-135

灯籠の竿の部分には地蔵菩薩が刻まれています。


薬師寺-136

この宝篋印塔は、明和二年(1765年)に建立されました。


薬師寺-137
薬師寺-138

宝篋印塔の後方に裏山へ登る石段があり、小さな祠が見えています。
登ってみましたが、何の祠かは分かりませんでした。


薬師寺-139
薬師寺-141

祠の先の急な山道を登ると、子安観音を祀った祠がひっそりと建っています。
こんな足許の悪い狭い急坂を登って、熱心にお詣りする方がおられるようで、新しい御札が
置かれています。
二年前にここに登ったときにも、新しい御札が置かれていました。

薬師寺ー8  二年前の子安観音

子安観音には宝暦四年(1754年)と記されています。


薬師寺-142

子安観音から坂を下る途中から薬師堂を見ると、軒下に何やら彫刻が並んでいます。


薬師寺-143
薬師寺-144
薬師寺-145
薬師寺-146
薬師寺-147
薬師寺-148

長い年月で木が痩せ、どれがどれだか分かりませんが、十二支であることは確かです。


薬師寺-153

境内の右手には大きな宝篋印塔と大師堂があります。


薬師寺-149

宝篋印塔は宝暦とだけ読めますので、約260年前のものです。


薬師寺-152

大師像の後ろにある石版には、「量海法師皆得体怡信士」と記されています。
文化十年(1813)の文字も見えます。


薬師寺-154

この薬師寺にはもう一つ、県の有形文化財に指定されているものがあります。
応長元年(1311年)に造られた梵鐘で、現在は宗吾霊堂(東勝寺)の宝物殿内に置かれて
いるものですが、「木造薬師如来坐像」と同様に、千葉県教育庁教育振興部文化財課の許可
をいただき、画像を掲載します。

薬師寺ー37
(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )

「宗霊宝殿に保管されている梵鐘で、総高79.6㎝、口径51.4㎝、3段組で鋳造されていて、
乳は4段4列、上帯下帯とも文様のない素文である。蓮の花をかたどった蓮華文を陰刻した
撞座が一つというめずらしい例で、県内で撞座が一つというのは他に印西市龍腹寺の梵鐘
があるのみである。竜頭も簡略化されたものとなっている。
4区画された池の間の1区画目の銘文には「下州印東庄八代郷船方薬師寺」とあり、成田市
船形の薬師寺に奉納されたものであることがわかる。さらに、梵鐘の由来として、僧良円が
願主となって応長元年(1311)に、娑弥善性という茨城県新治郡出身の鋳物師によって鋳造
されたことが記されている。」

この画像の解説にはこう書かれています。

梵鐘の銘文からすると、この「薬師寺」は、700年以上の歴史があることがわかります。


薬師寺ー33
薬師寺-160
薬師寺-161

境内の外れにシイの大木があります。
「船形の大シイ」と呼ばれているこの大木は、市の天然記念物で、幹周りは6メートル、高さは
15メートルもあります。
一部に傷みも見えますが、樹勢はまだまだ盛んです。


薬師寺-155
薬師寺-159
薬師寺-121
薬師寺-101

『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷船方
薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に豆留しながら
印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」には仁王門・
薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代にはこの地方屈指の大寺
であった。』
 (成田の地名と歴史)

「成田名所圖會」には、薬師寺から北須賀村越しに、帆掛け舟が浮かぶ印旛沼を望み、その
遥か先には富士山が描かれています。
実に風光明媚なお寺であったことが分かります。

境内は狭くなり、干拓によって印旛沼は遠くなって、見晴らしも悪くなってしまいましたが、長い
歴史を有する古刹の雰囲気は十分に残っています。


薬師寺-220

                          ※ 「船形山薬師寺」 成田市船形219-1


追記: 二年間で少しは進歩したでしょうか? 
二年前の「薬師寺」の記事 ☜ ここをクリック



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公津村の寺社 | 07:54:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
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