FC2ブログ
 
■プロフィール

sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

■訪問していただいた数

■最近の記事

クリックした記事に飛びます。

■記事の分類とアップ数
■良く参考にする書籍リスト

記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年      ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年       ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

■月別アーカイブ
■リンク
■検索フォーム

■最新コメント
■最新トラックバック
■メールフォーム

メールをいただける場合はこちらから

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

最下行の「コメント」をクリックしていただいてもご連絡いただけます

■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

千葉県内に3例しかない(?)石造金剛力士像
今回は、気になる石仏シリーズの金剛力士(仁王さま)です。

【「仁王さま」として親しまれている金剛力士像は、釈迦如来の「倶生神」(守るべき相手と同時に
生まれ、生涯を捧げ守護する使命を持つ者)である。梵名の「ヴァジュラダラ(阿形)」と「ヴァジュ
ラバニ(吽形)」は金剛杵を手にする者という意味で、「常に釈迦如来の周囲で金剛杵をとる」
仏法守護神とされる。】 
   (「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・
望月真澄/監修 2016年 宝島社 P147)

【金剛は「金剛杵」の意。あらゆるものを破壊する強力な武器で、金剛力士はこの武器を手に、
仏や信者を敵から護る、忿怒相の夜叉神です。日本では、上半身裸で筋骨隆々とし、血管が
誇張され、忿怒相の躍動感あふれる姿に表すのが主流となっています。敵を退散させる意味で
山門などに二一組で造像される金剛力士は、二つの王の意で仁王とよばれ・・・】

(「仏像の事典」 熊田由美子/監修 2014年 成美堂出版 P73)


石造仁王-1

旧本大須賀村の一坪田(ひとつぼた)に、廃寺となった田中山宝蔵院があります。
現在観音堂として残るお堂への登り口に、二基の丸彫りの仁王像が立っています。


石造仁王-2  (阿 形)
石造仁王-6  (吽 形)

めずらしい石造の仁王像です。


田中山ー26
田中山ー34田中山ー33
                                          (2014年10月撮影)
この仁王像に出会ったのはいまから5年前、偶然通りかかった道端でした。
これまでは、仁王門の格子や金網の中に立つ仁王像ばかり見てきたので、最初はずんぐり
した地蔵菩薩像かと思いました。
近づいてみると、それは初めて見る石造の仁王像でした。


石造仁王-10
田中山ー14田中山ー4

【一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。】

                                     (「成田の地名と歴史」 P365)

寛保三年は徳川吉宗の治世で、歴史上六番目の明るさと言われる「クリンケンベルグ彗星」
が現われた年です。
この彗星は、香取神宮の旧社家である、大禰宜家に伝わる「香取大禰宜家日記」にも記述が
あり、流言飛語が飛び交う不穏な空気の漂う中、二体の仁王像はこの地に建立されたのです。


石造仁王-12
石造仁王-5

左手に金剛杵を持って、口を開いている「阿形」は、諸法や物事の始りを示しています。


石造仁王-11
石造仁王-9

左手は拳を握り右手を開いて、口を閉じている「吽形」は、諸法や物事の終わりを示します。


石造仁王-10

石造仁王-2石造仁王-4
石造仁王-8石造仁王-6

.阿形の仁王像の背面には、次のような文字が刻まれています。

當村施主北崎氏甚右衛門
戒名即翁須達沙弥
奉建立田中山阿吽両躰
法師智元
寛保三癸亥正月廿三日

また、吽形の背面には多くの戒名が刻まれています。
(一部の文字については自信がなかったので、「大栄町の歴史散歩」(久保木良 著 1994年
崙書房 P58~59)に助けを借りました。)


田中山ー35

宝蔵院に関する記録は少なく、「大栄町史」の中でも旧昭栄村域の寺院として、簡単な記述が
あるだけです。

【 宝蔵院 新義真言宗。 一坪田村に所在。 山号は田中山(史話)。 「新義十五」に稲荷山村
大聖寺の門徒寺として載せられている。 元文二年の香奠帳(史料編Ⅲ)に名が見えている。】


元文二年(1737)の香奠帳とは、「元文二年閏十一月 津富浦村実岩良相香奠帳」のことで、
その中に「弐百文 一坪田宝蔵院」と出ています。


石造仁王-13

丸彫りのずんぐりした体型と、忿怒相でありながらことなく表情に愛嬌のあるこの仁王さまは、
約280年もの間「田中山」を護ってきました。
もう寺は廃寺となってしまいましたが、わずかに残った「観音堂」をこれからも守り続けるでしょう。



さて、「成田の地名と歴史」に”石造の二王さまは県内では3例しかない”と書かれていました
ので、他の2例についても見てみましょう。

九十九里町粟生の善福寺にも石造仁王像があります。
若尾山善福寺は寛永二年(1625)の創建と伝えられる顕本法華宗のお寺。
「山武郡郷土誌」(大正五年 千葉縣山武郡教育會)に、豊海村にある善福寺についての記述が
一行だけありました。

【若尾山善福寺 粟生區にあり、顕本法華宗に屬せり。】

本堂の前に二体の立派な石造仁王像が立っています。

石造仁王-42

説明板には次のように書かれています。

【 石造金剛力士像阿吽一対
この金剛力士像は、宝暦一〇年(一七六〇)江戸松屋町の石工上総屋二兵衛の作である。
古文書によれば、宝暦六年、粟生の表飯高十兵衛が蓮沼宮免の収益金を資とし、不足金
八両を助力して造立したが、十兵衛とのみ刻して第六天社に奉納したため、村内から苦情
が出、台座の文字を「惣氏子 助力願主飯高氏」と刻みなおして決着したという。金剛力士像
は寺門の左右を警護することから、後に別当の善福寺に移され、近年の寺堂改修際、現在
の位置に安置されたものである。】



石造仁王-38
石造仁王-39
                                                  (阿 形)

石造仁王-36
石造仁王-37
                                                  (吽 形)

阿吽両像の台座には、次のような文字が刻まれています。
前面に、「宝暦十歳庚辰改」「惣氏子」
側面に、「助力願主飯高氏」


石造仁王-27石造仁王-29
石造仁王-26石造仁王-24
石造仁王-43

一坪田の仁王さまと比べると、筋骨隆々の忿怒形という標準型の仁王さまです。



そしてもう一つの石造仁王像が旭市にあります。
( ※ 私はこの旭市の石造仁王像が一坪田・九十九里に続く3例目だと思っていましたが、
3例目は上総勝浦の長秀寺にあるとの記述を目にしました。 いつか機会があれば訪ねて
みたいと思います。)


石造仁王-46

旭市の「成田山真福寺」にある石造仁王像は、不動明王を護るように立っています。


石造仁王-19
石造仁王-22
                                                (阿 形)

石造仁王-18
石造仁王-21
                                                (吽 形)


石造仁王-55  
石造仁王-54

「旭町史 第2巻」(旭市史編さん委員会 1973年)に収録されている成田村の項に、真福寺に
ついての記述があります。

【 真福寺 字田町にある。摩尼山と号し、新義真言宗智山派。銚子市本銚子町(旧飯沼村)
円福寺末。寺伝によると、千葉氏一族の海上理慶が檀越である。理慶は成田に城塁を築き、
軍中の守本尊として聖観音を尊び、応永二年(一三九五)堂宇を造立して、理慶が日頃帰依
していた貞範を開基としたのが寺の草創であるという。文明年間(一四六九ー八七)兵火に
罹ったともいわれている。慶安二年(一六四九)十月朱印地一〇石を賜った。もと境内の東南
小塚の上に、海上公胤(理慶)の墓があったが、のち滅失したという。】
  (P118)


石造仁王-47
石造仁王-49石造仁王-51
石造仁王-52石造仁王-48

建立の日付らしき文字がうっすらと見えますが、風化で読み取ることはできません。
宝蔵院や善福寺の仁王像のような丸彫りではない分、やや迫力に欠けますが、忿怒の表情や
力一杯開いた手の形は、仏法を守護する神としての姿を十分に現しています。


石造仁王-4石造仁王-8
石造仁王-29石造仁王-26
石造仁王-49石造仁王-48

ふつう、木造の仁王さまは仁王門の中に立っています。
屋根があるとはいえ、風雨に晒される環境ですから、どうしても傷みが進みますが、その点、
石造りの仁王さまは長持ちがします。
細かい細工や彩色には向きませんが、大分県の国東半島のように、もっとたくさん造立例が
あってもよさそうな気がします。

「仁王」は、もとはインドの執金剛神(しつこんごうしん)という一体の神でしたが、インドから
中国を経て日本に伝えられる中で、二体となって「仁王」と呼ばれるようになりました。
日本語の五十音はサンスクリット語のアルファベットから生まれたと言われています。
仁王の「阿」は、サンスクリット語でも「ア」で、、「吽」は「ン」です。
「仁王さま」は恐い顔で立っているだけではありません。
私たちの日常に深く関わる存在なのですね。

  

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

金剛力士(仁王さま) | 20:56:11 | トラックバック(0) | コメント(2)
奈土と松虫の愛染明王(石像)

今回は「気になる石仏・石神・石造物シリーズ」から、造立例が非常に少ない「愛染明王」の
石像を紹介します。

【愛染明王は、もともとは煩悩(愛欲や欲望、執着)を悟りに変えて、菩提心(悟りの境地)
にまで導いてくれる力を持つ仏尊。すなわち、愛欲と、その裏返しの怨憎の両方を整え、
人々の心を安らかにしてくれる仏尊である。】 

(「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・望月真澄 監修 P137)

【 忿怒形で、体の色は真紅、一面三目六臂が一般的である。 頭上に獅子頭のついた獅子冠を
載いているのが特徴で、獅子の頭からは天帯という長い紐が左右の耳の後ろを通って、膝の
あたりまで垂れている。 左手には金剛鈴、弓を持ち、いちばん後ろの手は拳を握って上に挙げ
ている。 右手には五鈷杵、矢、蓮華を持っている。 拳を握った左手には、われわれが求める
ものは何でも掴んでいるという意味が込められている。宝甁という大きな壺の上の蓮華座に
座る坐像のみで、立像は見られない。 赤い日輪を光背とする。】

(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P146)


昌福寺愛染明王-9

愛染明王像は作例が少なく、特に石像はほとんど見かけることがありません。
私の知る限りでは、成田市・奈土と印西市・松虫の二基があるのみです。


紫雲山-58
昌福寺愛染明王-6

この愛染明王像は、奈土にある「紫雲山昌福寺」の墓地の一角に佇んでいます。
「昌福寺」は天台宗のお寺で、開山は不詳ですが、いろいろな史料から、少なくとも450年以上
の歴史を有すると推定される名刹です。

「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
【奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。】
  (P276~277)     
(昌福寺について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)


紫雲山-16

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。

「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
【なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。】
 
とありますので、この像は、明和七年(1770)の造立、250年前のものであると思われます。

【愛欲の存在をそのまま認めて、悟りまで導く功徳を持つ明王である。特に男女の愛の悩みを
救うと信じられた。また、愛染という言葉から染色業の守り本尊になったりもする。町内では
一基のみが確認された。奈土の東光寺跡にあったもので、造立年代は不明であるが、三眼
六臂で日輪を表わす円光背を背負い、獅子冠を戴き、宝瓶の蓮華に結跏趺坐をしている。】

(「大永町史 民俗編」 P196)

廃寺となった東光寺については、「大栄町史 通史編中巻」に、次のような記述を見つけました。
【 東光寺 天台宗。奈土村字仲台に所在。本尊は阿弥陀如来(『県寺明細』)。天明六年前後
の天台宗寺院名前帳には、東叡山末(寛永寺末)として「一律院天幢山東光寺」等と載せられて
いる。 『県寺明細』には浄名院(台東区)末と記されているが、同院は寛永寺の子院である。
当寺の成立については明確な史料があり、元文五年(一七四〇)に山門(比叡山)の安楽律院
の末として、正式に寺院として認められた(『史料編Ⅳ』〔九七〕。同史料によれば当寺は廃寺で
あったのを、金岡氏で善楽沙弥と称した人物が再興したものという。 (中略) なお、その少し前
の文政九年(一八二六)に当寺は類焼で焼失したとある(『史料編Ⅲ』〔二五八〕。さらに『郡誌』
によれば、明治二年にも火災で諸堂のことごとくを焼失したという。その後昭和二十七年に至り、
栃木県日光市の日光山興雲律院に合併し、寺院としての役目を終えた。】 
(P561)

また、「千葉縣香取郡誌」には、
【 同所字仲臺に在り域内五百三十一坪天台宗にして阿彌陀佛を本尊とす寺傳に曰く享保
十一年亦亦金岡貞愛の創建する所にして仝空開基たり天保元年火災〇罹り八年之を再建す
往時は其構造頗る宏麗なりしが明治二年再び祝融の變に遭ひ本堂庫裏舎利堂悉く燒失せり
・・・ 】
 (P432 祝融とは、中国の神話に出てくる火の神)
記録にあるだけでも、文政九年(1826)、天保元年(1831)、明治二年(1869)と、たびたび
火災に見舞われた(43年間に3度も!)不運なお寺です。

なお、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史民俗編」の196ページに掲載されています。


紫雲山-17

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。


紫雲山-18

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。

成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけのようです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一印西市松虫の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。(今回、「印旛村史」に、平賀にもう一体あるこという
記述を見つけました。折を見て探したいと思います。)


もう一体の「愛染明王」像は、印西市の松虫寺に隣接する「松虫姫神社」境内にあります。

松虫愛染明王-1
                                        (松虫姫神社の愛染明王像)

宝甁の上に座ってはいませんが、台座には「女人講中八(?)人」と刻まれ、石仏の側面には
「嘉永元申年八月吉日」と記されています。
嘉永元年は西暦1848年ですから、170年前のものです。

松虫寺ー25
松虫寺ー28
松虫寺ー65
                                 (2014年11月 撮影)
「松虫姫神社」については、「印旛村史 通史1」(印旛村史編纂委員会編 1984年)に次の
ように記されています。

【松虫の松虫寺境内にある神社で、同寺の開基にかかわる聖武天皇の皇女松虫姫を祭神と
している。松虫姫が都で蚕を飼っていたという伝承から、同神社は蚕の神様として信仰を集め、
四月と八月の十五日の祭礼には、印旛郡内はもとより茨城県などから養蚕を行う人々が講社
を結成にて参拝に訪れ、境内にも露店が出るほど賑わった。しかし、養蚕業の衰退とともに
次第に参詣人も減少した。】
 (P823)

松虫愛染明王-2
********松虫愛染明王-3

左上の手は拳を握って突き上げ、中の手には弓を持ち、前の手には金剛令を持っています。
右上の手には蓮華を、中の手には矢を、そして前の手には五鈷杵を持っています。
頭上に獅子頭の付いた獅子冠を戴き、額には第三の眼があります。
(松虫神社について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)


昌福寺愛染明王-1
********昌福寺愛染明王-4
紫雲山-66

170年前の松虫姫神社の石像に比べて、250年前の奈土の石像は、長い風雪に耐えてきたに
しては驚くほど風化がなく、忿怒の形相はもとより、獅子頭やそれぞれの手に持つ金剛鈴や
金剛杵、弓矢などもはっきり見分けることができます。


昌福寺愛染明王-5
昌福寺愛染明王-7

多くの墓石に囲まれてひっそりと佇むこの石仏は、注意して見ないと見落としてしまいそうです。


「愛染明王像」といえば、成田山外周路の「馬頭観音像」が「愛染明王像」だとされていることに
も触れなければなりません。
ご覧の通り、よく見ればこの石仏の頭上にあるのは「馬頭」であって「獅子頭」には見えません。
獅子か馬の頭を戴き、三目で六臂であることなど、像容が似ているため、間違えられることが
多いのかも知れません。

成田山石仏-136
成田山の馬頭観音 成田山石仏-140
(この石像の詳細は http://narita-kaze.jp/blog-entry-275.html ☜ こちらをクリック)
 

昌福寺愛染明王-2

昌福寺愛染明王-3

愛染明王が祀られている成田山の光明堂などは、縁結びの祈願に訪れる人が大勢いますが、
意外とこの明王の像容を知る人は少ないように思います。

馬頭観音と間違えられている愛染明王があるかも知れません。
まだ、人知れず佇んでいる愛染明王がどこかにいるかも知れません。



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

愛染明王 | 16:46:27 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山醫王殿

「醫王殿」は成田山新勝寺の一番新しい堂宇です。

医王殿-27

2017(平成29)年に開基1080年祭記念事業として建立。木造総檜、一重宝形造の御堂
には薬師瑠璃光如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が奉安されています。健康長寿と病気
平癒の祈祷所です。】 
(成田山新勝寺ホームページ)


医王殿-39

派手さはありませんが、装飾もしっかりと施されています。

医王殿-14
***********医王殿-44
医王殿-19
***********医王殿-46
医王殿-36
***********医王殿-15


医王殿-45

唐破風棟鬼飾りには輪宝がはめ込まれています。


なかなか迫力のある鬼瓦です。

医王殿-20
***********医王殿-21
医王殿-22
***********医王殿-23

一つ一つに寺紋の「葉牡丹」が焼き込まれています。


医王殿-17

【平成二十九年(二〇一七)開基一〇八〇年祭記念事業として建立。御本尊薬師瑠璃光如来
は、大醫王如来とも称され、古来、病を癒やし苦痛を取り除き、寿命を延ばす功徳がある。
健康長寿、息災延命の仏様として信仰される。 脇侍の日光菩薩は太陽のような光明を放ち
心の闇を取り除き、月光菩薩は、月のような穏やかな慈悲の心で煩悩を鎮めて下さり、眷属
の十二神将は、十二の方位を守り干支の守護神として信仰される。】



台の坂上の「薬師堂」におられた「薬師如来」がこちらに移られ、「平和大塔」に置かれていた
十二神将像も眷属として移されて祀られています。


(台の坂上の「薬師堂」 2014年3月撮影)
上町ー35 (2015年6月)
成田街道ー282
                                             (2015年12月)
この「薬師堂」は明暦元年(1655)に建立された当時の本堂で、「明暦の本堂」ともよばれます。
元禄の本堂(現在の光明堂)、安政の本堂(現在の釈迦堂)と本堂が新しく造られる度に移転を
繰り返し、現在の場所へ。
現存する成田山新勝寺最古の本堂です。

医王殿-30
医王殿-31

「醫王殿」のすぐ隣にある「平和大塔」。
十二神将像は醫王殿に移される前はここに祀られていました。
成田市内の広い範囲から見えるこの塔は、昭和59年(1984)に建立され、境内では3番目に
新しい堂宇です(2番目は「聖徳太子堂・平成4年)。


医王殿-35
医王殿-7 (2018年2月)

醫王殿の裏には一本の白木蓮が植えられています。
樹齢100年、樹高7メートルで、東京・小石川植物園、明治神宮外苑の樹とともに、「白木蓮の
三銘木」と言われています。
毎年3月には美しい純白の花を開きます。


医王殿-32
医王殿-42

「醫王」とは、「薬師如来」の異称です。
「薬師如来」は東方の瑠璃光浄土の教主で、病苦に苦しむ人々を瑠璃光で照らして救います。
現世利益をもたらす「薬師如来」は、西方極楽浄土の来世利益を説く「阿弥陀如来」とともに
多くの人々の信仰を集めています。


医王殿-43

手水場はシンプルでガッシリした造りです。


医王殿-47

「光明堂」から「醫王殿」へ向かう途中にある弘法大師像。


医王殿-50

以前はうぐいす亭前の外周路から「醫王殿」の前に入れたのですが、最近になって外周路が
石塀で囲まれてしまい、額堂の前からしか入れなくなりました。
「額堂」から見ても、「光明堂」と「平和大塔」しか見えないため、私のような足の悪い者には
残念ながらとても遠い感じがしてしまいます。


医王殿-5
(2018年2月) 医王殿-4  

(2019年11月) 医王殿-38
医王殿-28

白く輝いていた総檜の真新しい堂宇は、2年が経って落ち着いた色になってきました。
境内で一番古い光明堂と鐘楼(元禄十四年)から、317年後に建立された「醫王殿」が、
柱や壁に時代の色を染み込ませて、お参りする人々に悠久の時の流れを感じさせるには、
あと300年も必要なのです。



続きを読む >>

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

成田山 | 15:15:55 | トラックバック(0) | コメント(2)
江戸時代の幼児の墓標~時を超えて親の想いが沁みる
今回は「気になる石仏・石神・石碑」シリーズで、少々趣を変えた墓石についての観察です。

古い墓地の多くには、その片隅に無縁仏となった墓石が集められている一角があります。
お墓を守る人がいなくなると、無縁仏となってひとまとめにされ、墓石は廃棄されたり、一ヶ所
に積み上げられたりします。
人の移動が激しく、核家族化が進む現代では、実質的に無縁化するお墓が増加しますが、
江戸時代にも飢饉などの災害によって一家が離散し、無縁墓が発生することはありました。
跡取りがいなくなってしまうこともあったでしょう。
そして、明治・大正・昭和・・・と、長い時間の経過が無縁墓を増やし続けてきました。
限られた墓地では、こうした無縁墓は整理される運命にあり、うち捨てられることは免れても、
無縁塚として墓石を積み上げられることになります。
花を手向ける人もいない無縁塚では、物言わぬ墓石がただただ風雨に晒されています。


一ノ宮-6                           (栄町矢口の一ノ宮参道脇・矢口区共同墓地)

真城院ー41
                                    (高岡の真城院)
*****幼児の墓石-28
                                          (下金山の竜金寺)
善勝院ー15
                                           (八代の善勝院)


無縁塚の中に紛れて、あるいは代々続いている旧家の墓地の中に見え隠れする幼子の
墓石には、特に心惹かれるものがあります。


名古屋の「常願寺」裏の墓地では、多くの子どもの墓石を見ることができます。

幼児の墓石-12

「跬行童女」「幻泡善孩子」と彫られたこの小さな墓石からは、可愛かった我が子の面影を追う
親の哀しい心情が伝わってきます。
「跬」(き)とは片足を一歩前に出すさまを表わす言葉で、「跬行」とは多分、ヨチヨチ歩きのように、
まさに歩き始めようとしている様子を思い出して付けたのでしょう。
「幻泡」とは、<まぼろしとあわ>すなわち<はかないもの>を表わしてます(「泡幻」(ほうげん)
という言葉があります)。
「孩」(がい)とは、幼児の笑い声を表わす言葉で、「孩子」は2~3才ごろの幼児を愛おしむ
感情のこもった呼びかけです。
風化で年代は不明ですが、補修の跡が見られます。


幼児の墓石-13

「○○阿童子」 「安永○戌年二月」と読めます。
安永の干支に戌があるのは七年(1778)ですから、約240年前に亡くなった子供の墓石です。
菩薩像の顔は風化というより削られたような感じです。

童子(童女)とは子どものことですが、仏教用語としては、仏の王子すなわち菩薩を指す言葉で
あったり、菩薩や明王などの眷属につける名前であったりりします。
そして、15才ごろまでに亡くなった子どもの戒名としても使われることがあります。


幼児の墓石-15
幼児の墓石-17

向かって右に「妙空童女」、左に「雪然童女」と刻まれた墓石。
元号は見当たりませんが、「妙空童女」は四月、「雪然童女」には十二月と記されています。
「雪然」とは、<雪が降るように、白鷺が飛びおりるさま>(「旺文社・漢和辞典第五版)のことで、
「せつぜん」と読みます。
初夏と冬に亡くなった二人の娘を偲ぶ、親の哀しみが伝わってきます。


幼児の墓石-18
幼児の墓石-19

この墓石の戒名はどうしても読めません(二文字目は覚の異体字だと思うのですが・・・)。
「天保十己亥五月三日」と記されています。
天保十年は西暦1839年、十二代将軍家慶の時代で、この年の五月には高野長英・渡辺崋山
などが、幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた「蛮社の獄」事件がありました。
「○○童女」とありますから、女の子の墓石です。


薬師寺如意輪-18

幡谷の薬師寺境内の一角で見つけた幼子の墓石です。
「夢幻童子」と刻まれています。
享年は(はっきりとはしませんが)「十一月廿七日 灵位」とのみで、元号が見当たりません。
(「灵」は「れい」と読み、”霊・みたま”のことです)

「夢幻」を辞書で引くと、「夢とまぼろし・はかないこと」とあります。


幼児の墓石-22

如意輪観音像が彫られたこの墓石には、母親と思われる戒名も刻まれています。
左に「妙忍信女」と刻まれ、「享保十一丙午年」の文字が見えます。
享保十一年は西暦1726年、八代将軍吉宗の時代です。

「自分の墓には、幼くして亡くなった我が子を一緒に」とでも言い残したのでしょうか、子を想い
続けた、290年以上昔の母親の気持ちが伝わってくるような墓石です。



幼児の墓石-24

西大須賀の「昌福寺」の墓地で見つけたこの墓石には、「性譽浄心信女(?)」「禅譽了恵㳒子
(㳒は法の異体字)」「香○童女」と三つの戒名が刻まれた墓石があります(○は顔か韻のよう
な気がします)。  

幼児の墓石-29

側面には、それぞれの享年と思われる日付が記されています。
「性 寛政十三酉年四月○○」「禅 文化十三子○○」「香 文化十二亥年十月○○」と読めます。
寛政十三年は西暦1801年、文化十二年・十三年は1815・1816年になります。
寛政十三年から文化十三年の15年間に、この家族にどんなことがあったのでしょうか?。
寛政十三年に母親が女の子のお産の際に亡くなり(当時はお産で亡くなる母親は多かった)、
文化十二年には十四歳になった娘も亡くなって、その翌年には父親も亡くなってしまった・・・。
この墓石を見ながら、こんな想像をしてしまいます。


幼児の墓石-26
幼児の墓石-30

「夢幻童子」「幻泡童子」と刻まれた墓石は、外柵に囲われた立派なお墓の外に、ひっそりと
隠れるように立っていました。
両方の戒名の下には「享保八卯○○」と記されています。
二人が相次いで亡くなったとしたら、親の嘆きはいかばかりであったでしょうか。


幼児の墓石-31

「妙本浄定尼」「元文元丙辰九月〇〇」と刻まれた墓石の左側には、「穐月童女」という戒名も
併記されています。
「穐」は秋を指す言葉で、この幼子は秋に亡くなったのでしょう。



松崎の「善導大師堂」の奥にある無縁塚でも、いくつもの幼子の墓石を見つけることができます。

幼児の墓石-1

幼児の墓石-2

「妙霜童女」と刻まれた横に、「天保十亥年十一月十二日」とあります。
180年前の、霜の降りた初冬の寒い日に亡くなったのでしょうか。


幼児の墓石-3

この墓石には「慈雲童子」と刻まれています。
風化と苔で年号が読めませんが、「延享」と読めるような気がします。
延享だとすると、270年以上も前の墓石ということになります。


幼児の墓石-4

「幻紅童女」「享保六丑年」と読めます。
享保六年は西暦1721年、八代将軍吉宗の時代で、約300年も前の墓石です。


幼児の墓石-5

「秋月妙蓮信女」と刻まれた脇に、「夢幻童子」の戒名が並んでいます。
薬師寺の夢幻童子の墓石と同様に、母が幼くして逝った我が子と一緒に葬ってくれと言い残し
たのでしょうか。
はっきりとしませんが「天保」の元号が見えるような気がします。


幼児の墓石-6

他にも「恵光童子」「幻心童女」「幻性童子」「春覺童女」などの戒名が無縁塚の中に見えます。



幼児の墓石-23

奈土の「昌福寺」の墓地には、「梅薫善童女」「妙菖善童女」と刻まれた地蔵菩薩像の墓石が
ありました。
梅の薫りが漂う早春と、菖蒲が咲く初夏に、相次いで幼い娘を亡くしたのでしょうか。
美しい二つの戒名に、親の切ない哀しみが込められているような気がします。


飯岡の永福寺の無煙塚でも子供の墓石が多く見られます。

幼児の墓石-35


幼児の墓石-33

「幻覺童子」「宝永四亥年五月十五日」と刻まれたこの墓石の上部は欠けていますが、
わずかに「禅定尼」の文字が見えます。
この幼児の母親なのでしょうか。
宝永四年は西暦1707年、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)を起こしました。


幼児の墓石-34

ウメノキゴケに覆われたこの墓石には、「幻信童子」「泡〇童子」「〇〇童女」の三人の戒名。
いずれも享和の元号が記されているように見えます。
「享和」の時代は四年あまりしかないので、わずか四年の間に二人の男児と一人の女児を
失った哀しい親がいたわけです。


幼児の墓石-32

「一向孩女」と刻まれたこの墓石は、無煙塚の脇に無造作に放置されているようでした。
側面に「〇和十二年八月」と記されています。
〇に該当しそうな元号は明和くらいですが、明和に十二年はありません。
墓石も風化があまりみられませんので、どうやらこれは「昭和」ということのようです。
わずか80年余りのあいだに無縁仏となった「一向孩女」が哀れです。



しきたりや宗派の決まり事などで、縛られる成人の戒名に比べて、幼児の戒名には制約が
少ないようで、早逝した我が子への深い想いを表わした、美しくも哀しい文字が並びます。

そして、墓石の多くには地蔵菩薩が刻まれています。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を巡りながら、人々の苦難を身代り
となって受ける(代受苦)の菩薩ですが、子供の守護尊ともされています。

賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世のころより仏教歌謡
「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知れ渡り、子供の供養における地蔵信仰を作り上げました。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないと言い伝えられていました。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なので、親たちは幼子の墓石にすがるような
想いで地蔵菩薩像を彫ったのでしょう。
(「西院河原地蔵和讃」にはいくつものバージョンが伝えられていますが、代表的な和讃を
追記に載せておきます。)


庶民がお墓を持てるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在のような「○○家の墓」
というような形になったのは江戸時代も終わりに近づいたころからです。
それまでのお墓は個人単位で、墓石も死者の数だけ建てられました。
多産・多死であった江戸時代は、子どもが成人になるまで生きられる確立は50パーセント
程度であったと言われています。

【 「七つまでは神のうち」という言葉に示されているとおり、死産児や生後間もなくなくなる
乳幼児が多かった江戸時代には、数え年七歳になるまでは人間とは見なされず、葬儀が
行われないこともあった。】
【 大名家など特殊な事例を除き、庶民が子どもの墓石を建てるようになるのは、成人より
遅れ、江戸中期以降である。】
 (「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 P134) 

幼くしてこの世を去り、やがて無縁仏となって墓石を無縁塚に積み上げられ、弔う人も無く、
長い年月を雨風に打たれている・・・。
哀れで、愛おしくもある、幼子の墓石。

それでも、墓石すらなく土に還った大多数の幼子たちに比べれば、まだ幸せなのでしょうか。



続きを読む >>

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

幼子の墓石 | 10:46:11 | トラックバック(0) | コメント(6)
気になる石仏・如意輪観音(1)~廃寺跡で何を想う如意輪観音
如意輪観音は禍を福に転じて、あらゆる人々の願いを叶える観音様です。
如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意宝珠
と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意宝珠を
持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、第二手に
は蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県那珂
市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置いて
いて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。




一ノ宮-34
                    廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像


印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。

一ノ宮-51

【一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。


長見寺如意輪-1

「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。

寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。


長見寺如意輪-19
長見寺如意輪-20

廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】



長見寺如意輪-2
長見寺如意輪-6
長見寺如意輪-7

穏やかな優しい表情です。


長見寺如意輪-3
長見寺如意輪-15
*******長見寺如意輪-4
長見寺如意輪-13


「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。


長見寺如意輪-14
長見寺如意輪-5

右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。


長見寺如意輪-8
長見寺如意輪-9

この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。


二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡


長見寺地図

                             「長見寺跡」  印旛郡栄町矢口1 




続きを読む >>

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

如意輪観音 | 15:40:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
次のページ