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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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奈土の名刹、「紫雲山 昌福寺」
奈土にある名刹、「昌福寺」を訪ねます。

紫雲山-58

「昌福寺」は天台宗のお寺で、「釈迦如来」をご本尊としています。
山号は「紫雲山」、院号は「来迎院」です。


紫雲山-2

参道に面して四基の石仏が並んでいます。


紫雲山-3

左端の石仏は如意輪觀音です。
台座には「十九夜講」と刻まれていますので、十九夜待の「月待塔」です。
補修のため紀年銘がほとんど読めませんが、「享」「四」「子」の三文字が辛うじて読めます。
この三文字から推理すると、享のつく元号で四年以上あり、その四年の干支に子がある年号は、
永享四年(壬子・1432)と享和四年(甲子・1804)しかなく、月待講が広まったのが江戸時代
に入ってからであることを考えると、「享和四甲子年」と刻まれていると思われます。


紫雲山-4紫雲山-5

真ん中の二基は「子安観音」です。
右側の観音像には「文化十三子」の紀年銘があります。
文化十三年は西暦1816年、200年前の石仏です。


紫雲山-6

右端の観音像には「普門品供羪塔」と刻まれています。
「普門品」とは、法華経の中の「観世音菩薩普門品(観音経)」という一章のことです。
観音経は、観世音菩薩の偉大な慈悲の力を信じその名前を唱えることで、あらゆる苦難から
救われる、と説いています。
「明治四未年」(1871)の紀年銘があります。


紫雲山-7

隣には昭和16年の「馬頭観音」の文字石版が建っています。


紫雲山-10

「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。

「奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。」
 (P276~277)

これにより「昌福寺」は、少なくとも16世紀前半には存在していたことが分かります。
450年以上の歴史あるお寺です。


紫雲山-12
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紫雲山-20

本堂の屋根には、天台宗の宗紋である「三諦星(さんたいせい)」が掲げられています。


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「天台宗。 奈土村字昌福寺に所在。 山号は紫雲山で院号は来迎院(大正十年『千葉県香取
郡誌』、以下『郡誌』)。 本尊は釈迦如来(明治十二年『千葉県寺院明細帳 下総国香取郡』、
以下『県寺明細』。 天明六年(一七八六)前後の「上総国下総国 天台宗寺院名前帳』に、上州
世良田長楽寺末の下総国小見村徳星寺の末寺として「紫雲山来迎院昌福寺」とある。 長楽寺
は群馬県新田郡尾島町、徳星寺は香取郡山田町に」所在する。 長楽寺ー徳星寺ー昌福寺と
いう上下関係であった。 同名前帳には「門徒九ヶ寺」とあり、昌福寺が配下の寺を九ヶ寺有して
いたと解釈されるが、同帳には個々の寺院の記載はない。」
 (「大栄町史 P556~557)


紫雲山-13

本堂の前に「十三仏」と刻まれた石柱があります。
「奉造立 寶暦八戌■」と記されています。
寶曆八年は西暦1758年になります。

十三仏(じゅうさんぶつ)とは、平安時代の末期ごろから仏教に由来する末法思想や冥界思想
と共に広く浸透した十王(地獄で死者の審判を行う裁判官のような存在)という考え方をもとに、
死者の生前の行いを審判する十王と、浄土へと導く本地仏を置く思想です。
江戸時代に入ってから急速に広まり、三王・三仏を加えて十三王・十三仏となりました。

秦広王・不動明王(初七日)、初江王・釈迦如来(二十七日)、宋帝王・文殊菩薩(三十七日)、
五官王・普賢菩薩(四十七日)、閻魔王・地蔵菩薩(五十七日)、変成王・弥勒菩薩(六十七日)、
泰山王・薬師如来(七十七日)、平等王・観音菩薩(百か日)、都市王・勢至菩薩(一周忌)、
五道転輪王・阿弥陀如来(三回忌)、蓮華王・阿閃如来(七回忌)、祇園王・大日如来(十三回忌)、
法界王・虚空蔵菩薩(三十三回忌)

法要は、その都度、十王(十三王)に対して死者への減罪の嘆願を行うために行われます。


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元禄、正徳、享保、延享、明和、寛政、文政などの元号が読める墓地の奥には、歴代の住職や
有力者の墓石が並んでいます。

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紫雲山-16

墓地の中でとても珍しい、貴重な石仏を見つけました。
「愛染明王」像です。

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
「なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。」
 
とありますので、明和七年(1770)の造立であると思われます。

愛染明王は一面三目六臂の忿怒相で、頭には獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上の
蓮華座上に結跏趺坐で座るという、特徴ある像容を持っています。
恋愛・縁結び・家庭円満などをつかさどる仏として信仰を集め、また「愛染」を「藍染」と解釈して、
染物や織物職人達の守護仏としても信仰されています。


紫雲山-17

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。
この明王像は廃寺となった「東光寺」にあったもので、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史
風俗編」に掲載されています。(P196)


紫雲山-18

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。

成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、私の知る限り、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一、印西市の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。

松虫寺ー28
(「松虫姫神社」境内の「愛染金剛」像 2014年11月撮影)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2) ☜ ここをクリックしてください。


紫雲山-22
***********紫雲山-23

境内には多くの本堂や庫裏の改修記念碑が建っています。


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境内の右手に建つ年代不詳の二基の宝塔。
右の宝塔には「法蕐塔」と刻まれ、側面には「十方佛土中 唯有一乘法」と記されています。
これは法華経中の「方便品」にある一節で、仏の真の教えは唯一であって、それによって全て
の衆生が成仏できると説いています。


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宝塔のそばにある年代不詳の「子安観音」像。


紫雲山-26

境内の一角には、千葉県指定の文化財である「山王社」があります。

「山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を
指したものである。」
「山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の
垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、
これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。」
 (ウィキペディア)

「享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等を建て柱材
其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり」
「域内山王社あり亦貞正の寄附建立する所にして其子孫奮族を以て稱せらる貞正通稱を
平兵衛と曰ふ」
 (千葉縣香取郡誌)

この記述から、「山王社」は享保年代に奈土村の里正(村長的な存在)であった金岡貞正と
いう人物が建立・寄進したことが分かります。
説明板には次のように書かれています。
「寛保二年(一、七四二年)第二十世俊亮法師の建立。天台宗特有の社で、滋賀県比叡山の
日吉神社を勧請したもので、祭神は山咋命に大巳貴命、小祠であり、総けやき作りである。」

金岡貞正(平兵衛)の名前は出てきませんが、約280年前に建立されたことが分かります。


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虹梁や側面、脇障子、台座部分に至るまで、細かい彫刻が施されています。


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さらに、「香取郡誌」には、
「明治の初大に荒敗に屬し銅像蓮臺の如きに至るまで之を失ふに至りしが後住長澤良心
杜澤亮朝等苦心經營し漸く保存の道を講せり」

と書かれた一節があります。
この一節の前半部分は、明治政府による「神仏分離令」に触発されて起こった「廃仏毀釈」の
嵐を指しているものと思われますが、「神仏習合」の一例である「山王社」は、「神道」の側に
あるものとして、難を逃れたのでしょうか。


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山門には釣鐘が下がっている珍しい造りです。
撞木もありますので、鐘楼も兼ねた山門です。


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鐘は昭和37年の鋳造で、撞座の脇にはうっすらと釈迦如来像が浮き上がっています。


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山門の手前左右に二基の六角柱があり、それぞれに六観音と六地蔵が刻まれています。


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「山門の前に六地蔵を刻んだ六角石幢と六観音を刻んだ六角石幢が建っている。 一対のように
見えるが六地蔵は1679(延宝7)年の造立、六観音は1765(明和2)年の造立である。」

(「成田の地名と歴史」 P276~277)


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「紫雲山來迎院昌福寺 
同村奈土字昌福寺に在り域内七百三十六坪天台宗にして釋迦牟尼佛を本尊とす創建
詳ならざるも慶覺法印の開基にして天正中古山城主秋山佐内本寺に歸依し金穀を寄附
せり往時は村の寺家山に在りしを元禄中今の地に移せしと改建の時奮構造に用ゐたる
欄間あり之を本堂全体壁間に保存しあるも其彫刻の古雅なるは確として奮刹なるを證す
るに足る享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等
を建て柱材其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり各高各四尺許」
 
(千葉縣香取郡誌 P431~432)

のどかな山道を登り切ったところに「昌福寺」はあります。
長い年月を刻んだ境内を、春の風が桜を散らしながら吹き抜けて行きます。


紫雲山-0


                          ※ 「紫雲山 昌福寺」 成田市奈土608




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 18:43:25 | トラックバック(0) | コメント(2)
堀之内の森に佇む「西福寺」の「不動堂」
今回は、堀之内の「西福寺」を訪ねます。

西福寺-10

「西福寺」は天台宗のお寺で、山号は「不動山」。
本尊は「阿弥陀如来」です。


西福寺-38
西福寺-32

本堂は民家風の建物で、周りには何もありません。
お寺の境内の雰囲気は、本堂の手前左側にある「不動堂」に残されています。


西福寺-36
西福寺-39
西福寺-40

参道の入口には小さな大師堂があります。


西福寺-1

門柱には「不動山西福寺」と刻まれ、裏面には「平成十三年」とあります。


西福寺-3
西福寺-2

門柱の左右に立つ、地蔵菩薩と観音菩薩。
地蔵菩薩には享保十一年(1726)の銘があります。
廃仏毀釈の痕でしょうか、地蔵菩薩の頭は仮のセメント造です。


西福寺-4
西福寺-5

「不動堂」の前にある小さな鐘楼。
鐘も小さく、橦木はありません。


西福寺-6

手水鉢の銘は読めませんが、それほど古いものではなさそうです。


西福寺-7
西福寺-8

大銀杏の樹齢は数百年はありそうです。


西福寺-9

宝珠と火袋が失われた灯籠には、「文化八辛未春」との銘が見えます。
文化八年は西暦1811年、11代将軍徳川家斉の時代です。


西福寺-11
西福寺-27

「不動堂」には掲額がなく、小さな木版が掛かっていますが、文字はすっかり消えています。
なんとか「不動」と読めるような気がしますが・・・。


西福寺-12

「不動堂」の脇にある小さな「大師堂」。
柱にはまだ謹賀新年のお札が・・・


西福寺-13

しっかりとした造りですが、飾り気はありません。


西福寺-14

失礼してお堂の中を覗かせていただきました。
正面の厨子は扉が閉まっていますが、右側に二体の仏像らしきものが見えます。
暗いうえに幕に遮られてよく見えませんが、二体の後にもう一体の仏像があるようです。


西福寺-37

目を凝らして見ると、仏像の背に火焔光が見えています。
腰のあたりまでしか見えませんが、これは「不動明王」像のようです。
足許の二体は八大童子の「制多迦(せいたか)童子」と「矜羯羅(こんから)童子」でしょうか。

「不動明王」は、『「動かない守護者」を意味する名の、明王の中で最も重要な存在。大日如来
の教令(命令)を受け、如来の教えに従わない者たちの前に忿怒の形相で現れ、教化します。』

(「仏像の事典」 熊田由美子 P56)

足跡ー7
(九十九里の尾垂ヶ浜に建つ不動明王像)
観照院-20
(富里の「観照院」境内の不動明王像)

不動明王は右手に剣、左手に羂索を持っています。
剣は、「魔を退け、人々の煩悩を断つため」、羂索は、「悪を縛り、煩悩から抜け出せない者を
救い出すため」のものです。


西福寺-16
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不動堂の周りには石仏や墓石が並んでいます。
寛文、貞享、元禄、正徳、享保、延享、宝暦、文化、文政などの元号が読めます。


西福寺-19
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西福寺-21

「不動堂」の裏に鳥居があり、小さなお社があります。
鳥居の扁額には「子安様」と刻まれています。
ここはお寺の境内ですが、鳥居とお社の組み合わせはまさに「神社」そのものです。

お寺の中に神社があることは、さほど珍しいことではありません。
神仏習合や本地垂迹の産物として、各地で見られる風景です。
たとえば成田山の「額堂」の周りには「天満宮」や「金毘羅大権現」、「白山明神」、「今宮神社」
がありますし、匝瑳市の「飯岡檀林」にも「古能葉稲荷大明神」があります。

額堂-00
(成田山にある「天満宮」)
額堂-98
(成田山にある「三社」(中央「金毘羅大権現」、左「白山明神」、右「今宮神社」))
飯高檀林-79
(飯高檀林 「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」)

ただ、気になる記述が「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)にあります。

「西福寺 堀内村字西之台にあり天台宗山門派にして圓融寺末あり阿彌陀如來を本尊とす
由緒不詳堂宇間口六間奥行五間境内四百八十三坪官有地第四種あり檀徒十八戸住職は鈴木
諄英にして管轄廳まで十里九町とす境内佛堂二宇あり即
一、不動堂  不動尊とす由緒不詳建物二間半四面なり
二、観音堂  本尊子安觀音にして由緒不詳建物二尺四面あり 寺院明細帳」


「観音堂」の大きさもほぼ一致していますので、これは「子安観音」を本尊とする「観音堂」で、
鳥居は神仏習合の名残だ、とも考えられます。


西福寺-22
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様々な石仏、墓石の中に、三基の月待塔が並んでいます。

西福寺-28

十九夜の月待塔。
「奉造立 十九夜待成就之所」「元禄七甲戌二月」の文字が読めます。
元禄七年は西暦1694年、忠臣蔵の逸話で有名な「高田馬場の決闘」があった年です。


西福寺-29

「享保十六辛亥」と記された「十九夜月待塔」。
享保十六年は西暦1731年、徳川吉宗の治世でした。


西福寺-30

「天明七丁未年」と記された「十七夜月待塔」。
天明七年は西暦1787年、この年には全国規模での打ち壊し(天明の打ち壊し)がありました。


西福寺-31

この石仏は頭部を砕かれています。
「十七」という文字だけが台座に残されています。
十七夜待の聖観音像かと思いましたが、像容は地蔵菩薩にも見えます。
可能性のある、十七年以上あった元号は、慶長・寛永・享保なので、慶長十七年(1612)か、
寛永十七年(1640)か、享保十七年(1732)のいずれかの地蔵菩薩かもしれません。


西福寺-33

裏の藪の中に山羊がいました。
怪訝そうにこちらを見ています。


西福寺-34
西福寺-35
西福寺-41

境内に人影はありません。
参道も分かりにくい場所にあり、周囲の人家もまばらです。

「成田の地名と歴史」に、堀之内村は、「元禄期(1688~1703)は南町奉行所与力給地で、
その後北町奉行所与力給地に移る。」
(P180)とあります。

「与力は加勢するという意味で、諸役職の奉行や頭に付属した役人の称である。将軍への
拝謁を許されない御家人であるが、中には俸禄として知行地を集団で与えられた与力がいた。
その知行地が与力給地で、市域には江戸の南北両町奉行与力の給地が存在した。」

(同 P338)

見かけた石仏の銘の一番古い元号は「寛文」(1661~1672)なので、このお寺の歴史は
少なくとも350年以上はあると思われます。
ここを給地とした江戸の奉行所与力が、このお寺に参詣したこともあったことでしょう。


西福寺-0

                           ※ 「西福寺」  成田市堀之内148



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遠山村の寺社 | 11:51:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
いろいろな顔を持つ、成田山西側の「幸町(さいわいちょう)」
安政五年(1858)に刊行された「成田參詣記」の中にある「成田山全圖」を見ると(「現代語訳
成田參詣記」 平成10年 成田山新勝寺 P488から489)、境界は明確ではありませんが、
今の幸町あたりは「上甼内横甼」と書き込まれています。
昔は「横町」と呼ばれていたようです。

成田街道ー283
成田街道ー282

幸町の散策は、薬師堂のロータリーから始めます。

幸町の東端は、表参道の台の坂の右側にある数軒の店舗です。

幸町-30
幸町-31
***********幸町-32

「表参道開運通り」と刻まれた石柱が上町との境界になり、画面の先数軒が幸町、画面右が
上町になります。
石柱を右に入ると、神明山へ向かう路地に続きます。
路地の右は上町、左は仲町になります。


幸町-33
幸町-34
***********幸町-35

台の坂の左側に面した幸町の店舗も数軒だけです。


幸町-37
*******幸町-38

店舗と店舗の間に町名の石柱が入り組んで置かれています。


幸町-41
幸町-42
***********幸町-43

薬師堂のロータリーから「西参道三の宮通り」を進みます。
右手に入る小道は「出世稲荷」に向かいます。
小道の右側は仲町です。


幸町-44
幸町-45
************幸町-46

しばらく進むと「七霊地蔵尊」があり、ここが町境になります。
「七霊地蔵」とは聞き慣れない名前です。
いろいろ調べても由来についての史料は見つかりません。
思い浮かぶのは、「八百屋お七」の慰霊のために建立されたと伝えられる、大森の密厳院に
ある「お七地蔵」くらいですが、無関係でしょう。


幸町-47

大師堂の二体の大師像には「明治卅一年」(1898)と記されています。


幸町-48

お堂の奥は小さな墓地です。
元禄、宝永、正徳、享保、宝暦、安永、寛政などの元号が読めます。

 
幸町-50

「奉供養 勢至菩薩」と刻まれています。
享保の元号は読めますが、年号と干支は読めません。
ただ、最後に「廿三日」の文字があり、珍しい勢至菩薩像であることから、これは二十三夜の
月待塔のようです。


幸町-52 片隅にはペットの墓も・・・
***********幸町-49

幸町-60

「三の宮通り」へ戻る途中の石段は、成田山裏門の駐車場へ下りる道です。


幸町-54
幸町-55
幸町-76 正門前の小林堂(文具店)

「三の宮通り」を横切ると、明治六年(1873)開校の「成田市立成田小学校」があります。
「千葉縣印旛郡誌」に収録の「成田町史」に、「成田尋常高等小學校」として次のように
記載されています。

「明治廿年以前には高等小學校の設置なく尋常小學校のみなりき尋常小學校は明治六年
三月埴生郡寺臺村永興寺内に借設し東谷小學校と稱す仝七年四月成田村字辻堂に校舎
を改築す仝八年三月聯區第百八十四番成田小學校と改稱仝廿五年五月教育令改正により
成田尋常小學校と改稱仝三十七年二月更に地を成田横町に卜し校舎を新築し茲に移轉す
仝四十一年四月高等科を併置す高等小學校は明治二十年五月之を創設し尋常小學校々舎
の二階を教塲に假用せしが爾來生徒も年々增し狹猛を告ぐるに至りしより仝二十九年更に
校舎を字辻堂に新築し茲に移轉す仝四十一年四月尋常小學校に併置し成田尋常高等小學
校と改稱し更らに校舎の大增築に着手し全竣功す今のものこれなり明治四十三年度末現在
尋常科十四學級男四百五十九人女四百二十八人高等科二學級男三十九人女十八人あり」


卒業生には、プロ野球の唐川侑己選手、リオオリンピックのマラソンに出場した田中智美さん、
プロサッカーの船山祐二・貴之兄弟などがいます。


幸町-75

小学校の正門前を左に入ります。
路地の一角に「白蛇神」があると地図には書かれていますが、どこを探しても見つかりません。
地図に示された場所は、何か建物が取り壊されたような跡があります。
多分、ここに「白蛇神」があったのでしょう。

白蛇は、弁財天の使いとして信仰の対象となっています。
事情があって取り壊されたのでしょうが、残念な気がします。


幸町-61
***********幸町-62

突き当たりに小さな墓地があります。
入口に大師堂、古い墓石には享保、明和、安永、文化などの元号が刻まれています。


幸町-63
***********幸町-64

墓地を左に行けば薬師堂の横にでます。
右に行くと下り坂となり、JRの線路に突き当たります。
途中の丁字路を左折すると大師堂があり、二体の大師像の後に明治三十三年(1900)の
「奉納 樒樹壹千本」と刻まれた石版が置かれています。
「樒樹」とは、常緑樹で、仏事に用いるため寺院に植栽されることが多く、その実は有毒です。
地図で見ると、この大師堂の位置は上町になるようです。
路地の右側は米屋の工場で上町、左側は幸町です。


幸町-65
幸町-66
幸町-67
幸町-68

ちょっと戻って坂を下り、JRの線路に向かいます。
線路脇にはお堂が二つ、石碑が一つ建っています。
手前の小さなお堂は名前が分かりません。
大きなお堂は大師堂で、二体の大師像の銘文は、たくさんの張り紙で見えません。
奥の昭和7年の石碑には「三界万霊 供養塔」の文字が刻まれています。


幸町-69
幸町-70
***********幸町-71

お堂の先には小さな踏切があります。
ひっきりなしに電車が通ります。


幸町-72
幸町-73

左に曲がって行く線路は成田線の我孫子行き、直進して行くのは佐原・銚子方面行きです。
振り返ると成田駅はすぐ近くです。


幸町-74

踏切を渡ると急坂になります。
「人と自転車以外は通れません」の注意書きがあります。

この踏切は「古葉師踏切」と言いますが、本来は「古薬師踏切」だったという説が、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著)の「薬師堂」の説明の中で紹介されています。

「日当りの良い場所にあるのに、通称日陰の薬師という。もと成田小学校裏側の日当りの
悪い窪地にあったからで、その名残が小学校裏のJR線踏切の名称「古薬師踏切」である。
しかし踏切の表示は「古葉師踏切」となっている。国鉄時代の担当者が「薬」と「葉」を間違
えてしまったのであろう。」
 (P21~22)


幸町-90
幸町-89
幸町-77

踏切を渡り、急坂を下ると、住宅街が広がっています。
線路に分断されていますが、ここも幸町です。
赤い屋根は昭和29年から31年にかけて建設された初期の市営住宅です。
懐かしいような、ゆったりとした空間が広がっています。


幸町-92
幸町-95

北の方角にはNTTの鉄塔や「埴生神社」の森が、南には成田駅周辺のビル群が見えます。


幸町-101
幸町-100

さて、ここはどこでしょう?
何の変哲もない用水路のようですが・・・、じつはここが1級河川の「小橋川」の水源なのです。
新町の方向からの暗渠が初めて顔を出すここが、町境にある水源になります。


幸町-102
***********幸町-103幸町-104

中台運動公園の第6駐車場の下から流れ出す水と、郷部との町境で合流します。
この合流地点が「小橋川」の起点となり、宝田で「根木名川」に合流するまでの4760メートル
を流れて行きます。
成田市ホームページ中に土木課の「準用河川整備事業」の資料があり、その中に幸町の水源
から合流地点までの145メートルは、準用河川の「上小橋川」であることが記載されています。


松崎街道ー108

成田小学校前に戻り、「西参道三の宮通り」を進みます。


幸町-56
幸町-57

幸町交差点に向かう左側に、小さな道標が立っています。
小さいうえに、道路からちょっと引っ込んだ場所にありますので、注意しないと見落とします。
「正面成田不動尊」と記され、側面には『「南へ上る 酒々井 佐倉」「東へ下る 成田門前を
へて三里塚 芝山」 道』、『北へ下る 滑川 佐原」「西へ上る 安食 木下」 道』
とあります。
明治十五年(1882)と刻まれていますが、見たところ新しいので、復元されたものでしょう。


幸町-59

幸町交差点は三叉路で、右に曲がると成田山裏門を経て土屋方面への裏参道、左へ進むと
西参道三の宮通りで、「三の宮埴生神社」を経て「松崎街道なりたみち」となります。


幸町-106
***********幸町-107
幸町-108
***********幸町-111

この通りは、畳屋、工務店、塗装店、建材店などがとても多いように感じます。
昔から成田山の門前町が形成されて行く過程で、必要とされる職人たちが、自然とこの一角
に集まり、今日に至っているようです。
天保九年(1838)の「諸商渡世向取調書上帳」と、同十四年(1843)の「諸商人軒数書上帳」
から集計した、門前町成田でのさまざまな職業について、「成田市史 中世・近世編」にはこう
書かれています。

『なお、これらの商売の他に成田には医師五人をはじめ畳屋・薪屋・石屋・附木屋・鍛冶屋・
持遊(花札など遊具)屋などの商いもあり、~』
『また天保二年の「諸職人名前取調書上帳」(石井しげ家文書・近世編史料集五上)によると、
大工職七人、桶職七人、木挽四人、下駄職・左官・塗物職各二人、それに屋根職・建具職
各一人の計二六人の職人がいたとある。』
 (P743)


西参道ー33

この通りの幸町の町境はJR線をまたぐ郷部橋の手前になります。
橋の向こうは郷部の「埴生神社」です。


幸町-1

郷部橋の手前を北へ入ります。


幸町-2

狭い道から見上げるNTTの鉄塔は威圧感があります。


幸町-3

道は直ぐに三叉路となり、「三竹山道祖神」が現れます。


幸町-10
幸町-7

榧の大木に覆われたこの道祖神は、「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
「ドウロクジン」とは「道陸神」と書きますが、「道祖神」と同義です。
その名の通り北向きのうえに、NTTのビルに陽を遮られて、いつも薄暗い感じです。


幸町-83

幸町-84

カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれた道祖神で、右端は「奉唱十五夜講中」「元文
四己未」と記された月待塔です。
元文四年は西暦1739年、約280年前のものです。
この十五夜塔の正面には、「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面
には「此方竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
指している方角が違うのは、以前の場所から移されたためでしょう。


幸町-82
幸町-9

道祖神の左手には、六体の大師像が並ぶ「大師堂」があります。
台座にはビッシリとお札が貼られ、刻まれているはずの文字は見えません。


幸町-11

道祖神に背を向ける形で進む小道は、滑川に向かう旧道です。
フェンスの左側は崖で、町名は郷部になります。


幸町-13

石段が崖を下っています。
この先はJRの線路をまたいで薬師堂へと向かう「松崎街道」の旧道です。
以前、「松崎街道」の取材中に、ここがかつての旧街道であった痕跡を見つけました。


松崎街道ー99   2015年6月に撮影
***********松崎街道ー100


幸町-14

滑川への旧道を進むと、「庚申堂」があります。


幸町-15

お堂の中に立つ「青面金剛像」は、六臂で邪鬼を踏みつけ、左右に鶏を配し、台座には三猿
を刻んでいます。
紀年銘は「■永■■申」とだけ読め、永の次は元か八に見えます。
元号と干支の組み合わせで考えると、「宝永元年甲申」が一番可能性が高いと思われます。
宝永元年は西暦1704年、310年以上も前になります。


幸町-16幸町-17

庚申堂だけに、狛犬ならぬ狛猿?
だいぶ傷んでいますが、昭和15年の寄進です。


幸町-18

右端は回国塔で、「寛■四壬子」と読めます。
該当する年代は寛政四年(1792)です。
隣は読誦塔で、「宝暦二壬■」と読めるような気がします。
宝暦二年は西暦1752年になりますが、宝暦十二年(1762)かもしれません。
中央は年代は分かりませんが、「三界萬霊」の文字が見えます。
左の二基は「馬頭観音」で、明治四十二年(1909)のものです。


幸町-19
幸町-20

市立成田中学校の手前を右折し、町内境界に沿って細い路地を進みます。


松崎街道ー117

突き当たりは先ほど歩いた滑川への旧道、後ろ側は成田山の裏門方向になります。


松崎街道ー115
松崎街道ー112

幸町交差点から土屋へ向かう土屋中央通り(成田山裏参道)が町境になります。
写真左(後)は成田山弘恵会の駐車場になります。
右に登る坂は市立成田中学校方向、左に登る坂は幸町交差点方向です。


郷部橋まで戻って道を横切り、南に下ると、幸町の「山車庫」があります。

幸町-105
 幸町-21
祇園ー73 3年前の祇園祭での幸町山車
************祇園ー74

幸町-23

山車庫の先はJRの線路になります。


幸町-24
***********幸町-25
幸町-26

狭い路地を上ると「西参道三ノ宮通り」のNTT前に出ます。


幸町-96
幸町-27
幸町-40
***********幸町-94
幸町-109

幸町は、「西参道三の宮通り」によって「三竹山道祖神」や「庚申堂」のある区域、「成田小学校」
や「山車庫」のある区域、「七霊地蔵尊」や表参道に面する区域、さらにJRの線路によって分れて
いる市営住宅等の区域の大きく4ブロックに分かれている感じです。
上町・仲町・成田・郷部・新町・囲護台・土屋と複雑に町境を接する「幸町」。
いろいろな顔を持った幸町の入り組んだ路地の奥には、まだまだ何かが隠れていそうです。







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まち、町 | 07:12:37 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~もしかして成田で一番新しい遷座?「押畑浅間神社」
ちょっとしたスポット~「押畑浅間神社」。

押畑浅間-20

国道408号線を、土屋交差点から宝田方面へ向かう左側、京成スカイアクセス線の高架を
くぐって直ぐに、チラリと真新しい鳥居が目に入ります。


押畑浅間-21
押畑浅間-5
押畑浅間-4

大分前になりますが、つくば市で仕事をしていて、毎日この道を往復していたのですが、
その時はこの場所には何もなかったと記憶しています。

1年ほど前、久しぶりにつくばに向かったとき、この神社の存在に気づきました。
新しい鳥居と石宮が、切り開かれた造成地のような場所に建っています。


押畑浅間-8

中央に「浅間神社」、左に「三峰神社」、右に「大山阿夫利神社」が並んでいます。


押畑浅間-9
押畑浅間-10

「浅間神社」の新しい石宮は昭和62年の建立ですが、後方にある古い石宮には「浅間神社遷座
記念の碑」に記されているとおり、「明和七庚寅」と刻まれています。
明和七年は西暦1770年、十代将軍徳川家治の治世でした。
右隣に並んでいる祠の文字はすっかり消えてしまっています。

「成田市史 近代編史料集一」中の「押畑村誌」に、この「浅間神社」が記載されています。

「村ノ南方字浅間山ニアリ。地坪四拾二坪、祭神木花咲耶姫命ヲ祀レリ。祭日三月一日。
七月一日ノ両度トス。創建年月詳ナラズ。」


「浅間神社」は、富士山を信仰対象とした神社で、木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)
を祀る神社です。
「あさま」が本来の呼び方のようですが、「せんげん」と呼ばれることのほうが多いようです。
富士山を信仰の対象とすることから、静岡・山梨を中心に関東一円に広がっています。


押畑浅間-11
押畑浅間-30

右側の「大山阿夫利神社」。
手前の新しい石宮(建立年月日は記されていません)の後ろの石柱には、「阿夫利神社」の
社名と建立日の「明治廿九年五月」が刻まれています。

神奈川県伊勢原市にある式内社の「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」から分祀
されたもので、祭神は木花咲耶姫命の父である「大山祇大神」です。


押畑浅間-12
押畑浅間-13

左側は「三峰神社」です。
後ろの古い祠には「天保二年十二月吉日」の文字が見えます。
天保二年は西暦1831年、十一代将軍徳川家斉の時代です。

江戸時代に、火難・盗難除けの御利益があるとされる秩父の「三峰神社」を参詣する「三峰講」
が盛んになり、各地に三峰神社の分祀が行われました。
三峰神社の主祭神は伊弉諾尊 (イザナギノミコト)と伊弉册尊 (イザナミノミコト)で、大山祇神
はその子、そして木花咲耶姫はその孫という系譜になります。


押畑浅間-2

鳥居の脇の「浅間神社遷座記念の碑」には、以下のような碑文が綴られています。

「浅間神社は、富士信仰に基づき富士山を見晴るかす地に、火伏せの神としてのご神体を
祀ったものである。押畑浅間神社の創建年代は不明だが、古い石社には明和(一七六四~
一七七二)の年号があるので、江戸時代には既に祀られていたと思われる。押畑地区には
朝宮参りの風習があった。即ち祭礼日の七月一日に、区民は生まれた子の健全な成長を
願って朝この神社に裸足で参詣した。平成四年、境内の一部が道路用地となったので境内
と周辺地の整備を余儀なくされ、ここに合祀されている大山・三峰の二社とともに押畑稲荷
神社境内に移転仮遷座した。この度千葉県を始め関係各位の協力により境内地の整備が
完了したので併せて区民の信仰の証である鳥居を建立し、区の益々の発展と子孫の繁栄
を祈り、浅間・大山・三峰の三社を本社地へ遷座した。ここに関係各位に深謝し碑を建立し、
これを記念するものである。 平成二十五年三月吉日 押畑区 」


突然出現したように見えたのは、4年前の再遷座だったのですね。
もしかしたら、これは成田で一番新しい遷座ではないでしょうか?


押畑稲荷ー53

平成27年7月に押畑稲荷神社を訪れた際、本殿の裏側で見つけた「大山阿夫利神社」と
書かれた木札。
時期的には浅間神社とともに再遷座した痕跡だったのかも知れません。


押畑浅間-6
押畑浅間-7

鳥居から離れてぽつんと一体の石仏があります。
この石仏がなぜここにあるのかは分かりません。
神仏習合の名残か、たまたま路傍の仏をここに移設したのか・・・。

風化で像容が崩れ、何の石仏か判断ができませんが、蓮華座の上に座って左右の手には
何かを持っているようです。
下部中央に「奉納 大乘妙典■部■」とありますので、これは読誦塔です。
右に「天下泰平」、左に「國土安全」と刻み、側面には「享保十四己酉」の文字が残っています。
享保十四年は西暦1729年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


押畑浅間-16

神社前の道路工事はまだ完成していません。


押畑浅間-32
押畑浅間-33

工事は空港アクセス線の高架の前で止まっています。
まだまだ時間はかかりそうです。
スカイライナーが空港に向かって走って行きます。
神社が以前この場所にあった時には、想像もできない景色でしょうね。


押畑浅間-15
押畑浅間-14
押畑浅間-19

上空を飛行機が飛んで行きます。
今は周りに何もない寂しい景色ですが、木々が茂って、飛行機を木の間越しに見るようになる
には、どのくらいの年月が必要なのでしょうか。


押畑浅間-0

                       ※ 「押畑浅間神社」  成田市押畑1173-2

 

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寺社 | 09:08:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」と「長見寺」跡

栄町の利根川河畔に鎮座する「一ノ宮神社」を訪ねます。

一ノ宮-51

「一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎」
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

延長二年は西暦924年、ほぼ1100年前になります。

ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として知られ、剣神、
または武神・軍神とされています。


さて、境内を見渡しても鳥居が見当たりません。

一ノ宮-1

境内の周りを歩き回ると、風に落とされた木の枝が散乱し、枯れ葉に覆われた、人の通る
気配のない細道の奥に、鳥居がチラリと見えていました。
これがかつての参道なのでしょう。


一ノ宮-2
一ノ宮-4
一ノ宮-7

境内からは300メートルほど離れた場所に建つ鳥居は、平成4年の建立。
「一宮大明神」と刻まれた石の扁額の周りには腐った注連縄が残っていて、少なくとも1年
以上は放置されていたような感じです。
この鳥居や参道の荒れ具合から考えると、今では参道としての役割は失っているようです。


一ノ宮-5
一ノ宮-6

鳥居の先に「矢口区共同墓地」があり、参道の先を 遮る感じになっています。
脇の無縁塚には、宝永・享保・元文・宝暦・寛政などの元号が刻まれた墓石が並んでいます。

ここは以前「花輪堂」と呼ばれるお堂があったところで、毎年4月に神社に奉納される獅子舞
(オコト)が、この共同墓地の前から出発します。
この獅子舞が鳥居をくぐり、社殿へと進む日だけが、参道として蘇る唯一の時なのでしょう。


一ノ宮-8
一ノ宮-9

鳥居をくぐって、参道を神社の境内へと戻ります。


一ノ宮-10

大正二年(1913)編纂の「千葉縣印旛郡誌」は、一宮神社について次のように記述しています。

「村社一ノ宮神社 矢口村字花輪にあり由緒不詳社殿間口一間三尺奥行一間三尺拜殿間口
四間三尺奥行二間境内九百二十坪官有地第一種あり神官は大野橘磨にして氏子八十五戸を
有し管轄廳まで十一里二十町なり五月初旬御田植の式ありて賽客多し」



一ノ宮-11

境内に入った右手に、円筒と手水盤が並んでいます。
円筒形の石造物には、「一宮本地堂」と刻まれ、「文化六己巳年十一月吉日」「當山現住舜海」
と記されています。
ちょっと不思議な形ですが、「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成」(平成4年)には、

「中間が膨んだ円筒形に造られた上端は、丁寧な仕上げが施されていないため、この上に
笠石状のものが乗っていたとも考えられ、或いは石灯籠の竿石であった可能性もある。
翌七年の棟札には、この年の八月に大風により大破したため、組物から上方を組直したこと
が記されていて、文化二年(一八〇五)に修造が行われた本殿の再建祈念といえよう。」

と書かれています。(P168)

そして、翌七年の棟札には、次のように記されています。

「文化六己巳年八月廿三日大風裏大杉木 本社江折懸大破舛ヨリ組直修復造営成就
翌文化七年六月朔日吉辰」


手水盤には「明和九辰」の文字が見えます。
明和九年は西暦1772年、「明暦の大火(振袖火事)」、「文化の大火(車町火事)」とともに
江戸三大大火の一つと言われる「明和の大火(目黒行人坂大火)」のあった年です。


一ノ宮-12
**********一ノ宮-13

常夜燈には、「天保八丁酉秋九月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1837年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」が起こりました。


一ノ宮-14
**********一ノ宮-15

ご神木の杉。
「栄町の自然シリーズ 第一集」(平成2年)には、樹高約28メートル、根回り6.8メートル、
樹齢は推定300年と記されています。


一ノ宮-33

ご神木の他にも、境内には見上げるような大木がたくさんあります。


一宮神社-75   
*******一宮神社-72
一宮神社-103
*******一ノ宮-18
一ノ宮-20
*******一ノ宮-21

本殿には見事な彫刻が施されています。

「本殿は、一間社流れ造りで、屋根は銅板葺、向拝の虹梁上の柱間に見える竜、その柱上
には獅子鼻、その左右に象鼻そして海老虹梁、前廻り縁の左右にある脇障子の彫刻など、
実に見事である。」
  (「栄町觀光ガイドブック」 P16)


一ノ宮-22
***********一宮神社-77

瑞垣の隙間から見える脇障子も、確かに見事な彫りです。


一ノ宮-24

拝殿にも凝った彫刻が施されています。
拝殿は明治四十五年(1912)に建造されました。


一ノ宮-54

「現在の社殿は、安和元年に建造され、安和8年には宮様が訪れていることが石碑などから
うかがわれる。 なお、現在の拝殿は明治45年3月に作られたもので、祭日には獅子舞が
奉納されていた。」
 (「栄町觀光ガイドブック」 P16)

安和元年は西暦968年で、約1050年もの昔になります。
ここで、疑問が湧きます。
千年もの歴史を持つ建造物が、国や県の文化財指定を受けず、さらに地元自治体からも
指定を受けていないのはなぜなのでしょう?
棟札等で見る限り、度々修造が行われているようで、さすがに安和元年の社殿が現存して
いるとは考えにくいのですが・・・。
・ 天明五年(1785)    本殿の建立(再建?) (※1)
・ 文化二年(1805)    修造工事
・ 文化七年(1810)    修造工事
・ 慶應二年(1866)    修造工事
・ 明治三十八年(1905) 修造工事
・ 昭和二十六年(1951) 修築工事
火災による焼失の記録はありませんが、何度かの修繕・修造を繰り返し、昭和26年に大幅
な改築を行ったため、安和元年の社殿はもとより、天明五年の社殿の部分すらほとんど残さ
れていない状態となり、文化財の指定には至らないと判定された、と推測したのですが・・・。
栄町に照会したところ、ニュアンス的には”伝承による神社の歴史の古さはあるものの、建造
物としての社殿には文化財に指定するほどの価値はそれほど見い出せない”とのことでした。
栄町には、古刹の「龍角寺」に関連する国や県の指定文化財がありますが、町の指定文化財
としては一宮神社本殿より新しいものもあり、それぞれ建築技法の珍しさや歴史的価値、美術
的価値などを評価しての指定となっています(※2)。
残念ながら一宮神社本殿には、建造物としての古さ以外に、際立った特徴がないのでしょう。

(※1)天明五年の棟札(これにより天明五年に社殿が建立されたことが分かります)
                    旹天明五乙巳年   遷宮大導師天竺山
    聖衆天中天迦陵頻伽聲                    龍角寺竪者法印春捍
                    天下泰平四海静謐                                    
   奉      建立一宮大明神社頭一宇棟札所
                    國郡安全万民快樂       
    哀愍衆生者我等今敬禮                    別當 長見寺法印智道
                    十一月吉祥日
                                 下総國埴生郡矢口村七箇村氏子中


(※2)日枝神社本殿(寛文十二年・1672)、布鎌神社水神社本殿(宝暦七年・1757)、駒形
神社本殿・文化四年(1807)、大鷲神社本殿・天保二年(1831)、雙林寺大師堂(明治九年・
1876)

なお、「安和8年」は存在しない年号で、「安永八年(1779)」の間違いだと思われます。
「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成補遺」(平成9年)に収録されている一宮神社の墨書中に、
小さく  「安永八年亥年宮様御下リ良宮奉称候」 と書かれている部分があります。


一ノ宮-26

拝殿の左側に二基の祠が立っています。
左側の祠は大正十五年(1926)の「出世稲荷神社」。
右は風化で社号、年号ともに不明です。


一ノ宮-27
一ノ宮-28

本殿の裏には小高い塚があり、その上に祠が一つ立っています。
社号は見えませんが、側面には「天下泰平五穀成就」と「安政五午二月」と刻まれています。
状況から、「浅間神社」であろうと思われます。
安政五年は西暦1858年、大老井伊直弼による「安政の大獄」が始まった年です。


一宮神社-80
一宮神社-81

塚の下に並ぶ数基の石造物。
左端の一番大きな石柱には、「奉納 御寶前 文化元年甲子九月吉日 當山現住舜海」
刻まれています。
文化元年は西暦1804年になります。
左から二番目の祠には「天保八酉年」、三番目の祠には「明治十四年」、四番目は二つに
割れて判別不能、そして右端の祠には「万延元申」の文字が読めますが、いずれも社号は
分かりません。
天保八年は西暦1837年、明治十四年は1881年、万延元年は1860年になります。


一ノ宮-30
一宮神社-82

塚の裏には、100段以上もある裏参道の急勾配な石段があります。


一ノ宮-32

境内の一角にある、明治三十九年(1906)の「戦捷紀年碑」。


一宮神社-110
一宮神社-112
一宮神社-111

葉の裏に文字を書いて文通したと伝えられる「タラヨウの木」。
タラヨウは多羅葉と書き、昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したり、
文字を書いたりしたことから、神社やお寺に植えられるようになりました。

タラヨウとは「もちのき」のことで、樹皮から鳥や昆虫などを捕まえるために使う「鳥もち」を作る
ことができることから、この名前が付きましたが、今では鳥もちなど忘れられた存在です。


一ノ宮-47

一ノ宮神社の隣には「矢口青年館」と駐車場がありますが、神社の境内との境界を示すように、
たくさんの石仏・石造物が並んでいます。


一ノ宮-34

この如意輪観音には「寛文九己酉年」の紀年銘が刻まれています。
寛文九年は西暦1669年になりますので、一宮神社が再建された天明五年(1785)より
110年以上前のものです。
ここは、一宮神社の別当寺の「長見寺」があった場所です。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
「矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)に、次のような記述があります。
「長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。」



一ノ宮-35     右の大師堂
      左の大師堂    一ノ宮-36

寺の境内入口だったであろう場所の左右に「大師堂」があります。
向かって右の大師像には、「文化■■甲戌■」と読める紀年銘が刻まれています。
文化年代で干支が甲戌となるのは十一年(1814)です。
左の大師像の台座には、「万人講」と読める文字が見えます。


一宮神社-100

右の大師堂の隣には、「新 四國八十三番 一ノ宮山■■寺」と刻まれた石柱があります。
■の部分は「長」の異体字と「見」のように思えます。
四国八十八か所霊場の八十三番は「神毫山(しんごうざん)一宮寺」ですが、一ノ宮にかけて
「一ノ宮山長見寺」としたのでしょうか?(■の部分に疑問が残りますが・・・)
右側面には「讃刕一ノ宮 写」とあります(刕は州の異体字なので「讃刕」とは讃岐地方のこと)。
左側面には「南無大師遍照金剛」、裏面には「文政四辛巳年三月造立」と刻まれています。
文政四年は西暦1821年です。


一ノ宮-38
一ノ宮-39

石柱の隣には「子安堂」があります。
赤子を抱いた子安観音は文化三年(1806)のもので、「十九夜講」と刻まれています。
これは「月待講」と呼ばれるもので、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの
月齢の夜に、村の仲間(講)が集まって飲食を共にし、お経をあげたり、月を拝んだりして
悪霊を払うという宗教行事ですが、「庚申講」と同様に娯楽的色彩を強くもった行事です。


一ノ宮-40

子安堂の向いには風化で年号が読めない地蔵菩薩像と、「權大僧都竪者法印舜海大和尚位」
と刻まれた文政七年(1824)の石碑が並んでいます。
この「舜海」という名前は、境内の多くの石造物に刻まれていて、寺の維持管理に大いに貢献
した方のようです。


一ノ宮-41

右端は天保七年(1836)の読誦塔、その隣は文政二年(1819)の読誦塔です。


一ノ宮-42

安永、寛政年間の供養塔。
「竪者法印秀榮」「竪者法印智觀」などの高僧の名前が読み取れます。


一宮神社-102   如意輪観音の十九夜塔
      子 安 観 音     一宮神社-101

一ノ宮-46

左は「法眼宮本豐水之墓」と刻まれた明治十七年(1884)の碑ですが、台座に「文雅堂塾中」
とあるので、墓石ではなく筆子塚だと思われます。
右は三人の戒名が刻まれた慰霊碑のようです。


一宮神社-105
一宮神社-85  

神社境内と小道を挟んで金属柵に囲まれた、「金比羅大権現」があります。
中央の鞘堂の扉が半開きになっていて、中の祠がみえています。


一ノ宮-50

手前の祠は安政四年(1857)のもので、後ろの細長い石碑は「江川延命所 多賀大明神」
と刻まれた文久二年(1862)のものです。
「多賀大明神」とは滋賀県にある式内社の「多賀大社」のことです。


一宮神社-84

「栄町観光ガイドブック」には、
「矢口の一ノ宮神社は、延長2年(今から1023年前)に創建したと伝えられているが、一説
では、現成田市松崎に鎮座する二ノ宮神社は一ノ宮神社よりも110年前に創建されている。
しかし、一ノ宮神社の神官外記という人が二ノ宮神社を相続していることから、一ノ宮神社は、
二ノ宮神社よりも前の創建と考えるのが自然である。 伊藤義一氏説」
 (P16)
と紹介されています。

「神社由緒禄」に神職外記が二ノ宮神社を相続したとあるのは、斎衝三年(856)のことです
ので、二ノ宮神社を相続した外記と一ノ宮神社の外記が同一人物だとすると、少なくとも神職
としては68年以上現役でいたことになり、(神職になるまでの年齢なども考慮すると)平均寿命
が30歳程度であった時代であることから、この説には少々無理があるように思えます。
いずれにしろ、一ノ宮神社が1100年近い歴史を持つ古社であることは間違いありません。


一宮神社-107

さて、一ノ宮神社の解説には必ずと言って良いほど、成田市松崎の「二ノ宮神社」、同郷部の
「三ノ宮神社(埴生神社)」との関連が出てきます。
「二ノ宮神社」の解説にも、そして「三ノ宮神社」の解説にも、(確証はないものの)三社には
何らかのつながりがあるかのように書かれています。

「成田市史中世・近世編」に、安政年間に書かれた「利根川図志」にある、一ノ宮・二ノ宮・
三ノ宮の三社についての記述が紹介されています。
「一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記伝、伝延長二年九月十九日祭ルト
二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と伝
三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮といふ額をかく、こ神明帳に見えぬ神なり」
  
(P801 なお、郷部村は成田村の間違い)

「三ノ宮・埴生神社」のホームページには、
当神社は通称三ノ宮といわれ、その昔物資が利根川流域より運び込まれ、栄町矢口の一ノ宮、
成田市松崎の二ノ宮、そして終点の三ノ宮と順になったとされています。その名残か現在当神社
の向きは真西にむいており、一ノ宮・二ノ宮の方を向いております。」

と書かれています。

旧埴生郡内にある三社は、もともと一ノ宮埴生神社・二ノ宮埴生神社・三ノ宮埴生神社と呼ばれ
ていたのかも知れません。(二ノ宮神社は近年まで「二ノ宮埴生神社」と呼ばれていました)

「二ノ宮神社」 ☜ ここをクリック
三ノ宮神社」 ☜ ここをクリック


一宮神社-109
一宮神社-108
一ノ宮-31

千年の時を刻む境内には、ほのかに梅の香りがただよい、微かな春の足音が聞こえています。


一宮神社-0

                        ※ 「一ノ宮神社」  印旛郡栄町矢口1




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