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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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五百年の歴史~船形の「東永院(トウヨウイン)」 《旧公津村》

東永院-1

「東永院」(とうよういん)は曹洞宗のお寺で、山号は久昌山。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

【大永6年(1526)に、船形の楫波山城主船形越前守胤信が、超林寺第2世松厳周鶴を
開山として創建したと伝えられています。長い間廃寺同様でしたが、平成2年(1990)に
再建されました。】


「成田市の文化財 第42集 仏閣編」(平成23年)には「東永院」がこう紹介されています。


東永院-4
東永院-57東永院-5

「千葉縣印旛郡誌」には、「東永院」について次のように記述されています。

【船形村字稲荷下にあり曹洞通幻派にして超林寺末なり下總國印旛郡臺方村超林寺二世
當院開山松岩周鶴大和尚此地に来到て大永元辛巳年八月當院を建立して弘治三乙卯年
正月二十四日に示寂すと記録に記載有之儘上書仕候也堂宇間口五間半奥行四間境内
五百八十六坪官有地第四種あり檀徒四十一人を有し管轄廳まで八里七町三間なり境内堂宇
一宇あり即
一 大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺寺院明細帳


東永院-12

ここは、当院を建立した千葉一族で馬場氏の流れをくむ、揖波山(かじばやま)城主であった
船形胤信(越前守)の菩提寺となっています。


東永院-58
東永院-11
東永院-59

再建されてから約30年の本堂は、装飾のないスッキリした佇まいです。


東永院-60

ちょっと愛嬌のある鬼瓦。


東永院-7
東永院-70

「印旛郡誌」にあった「大師堂」。

東永院-9
東永院-8

ちょっと失礼して中を覗かせていただいて、びっくり!
大師像の左側面がざっくりと削られています。
風化のようなものではなく、明らかに人工的なものです。


東永院-74
東永院-69

廃仏毀釈による首の無い石仏は多く目にしますが、正面からは見えないところで大きく
えぐり取られたこの姿は衝撃的です。


東永院-6
東永院-75

大師堂の側に、明治四十五年(1912)建立の「悟庵義堂大和尚 大信觀光尼首座」と
刻まれた大きな石碑があり、裏面に二人の生い立ちや業績、明治三十九年(1906)と
四十年に亡くなったことが記されています。

【 梧庵義堂大和尚禪師生國能登國鳳至郡大野村長田彦ノ男同郡稲舟村笠原藤太有忠ノ猶子
トナル明治二拾一年本村船形貮百八番地ノ内壱ニ居住西谷家創立ニ尤モ功アリ明治四十年
九月拾六日午前八時老衰病ヲ以テ遷化セラル行年七拾才 】
【 大信觀光尼首座西谷家ノ先祖生國越後國中頸城郡柿崎宿小出源治右衛門ノ長女明治貮拾
壱年本村船形弐百八番地ノ内弐ニ居住明治三拾九年八月貮拾七日午後壹時老衰病死行年
八拾六年八ケ月 】


明治四十五年(1912)に西谷家の戸主・西谷八三が建立したものです。


東永院-13

平成2年の「本堂新築記念」碑。


東永院-83
**************東永院-84

境内の左右には立派な桜の古木があります。
寂しい境内ですが、満開の桜は一時的にも東永院を華やかに見せることでしょう。


東永院-61

本堂の裏に回ると、小さな墓地があります。


東永院-63
東永院-65

コンクリーで固められた墓石からは、安らぎのようなものが感じられず、もの悲しい風情です。

どれも風化が進んでいますが、元禄、宝永、享保、明和、天明、寛政、天保、嘉永などの元号
がかろうじて読み取れます。


東永院-66

一角には歴代住職の卵塔が並んでいます。


東永院-67
東永院-68

墓石に刻まれている多くが、地蔵菩薩か如意輪観音です。


東永院-23

「成田市史 中世・近世編」の東永院の項には、次のような文章があります。

【 船形にあり、超林寺末で、大永六年(一五二六)八月、船形の楫波山城主船形越前守胤信
が超林寺第二世松厳周鶴を開山として創建した。境内に鎌倉時代の嘉曆四年(一三二九、
元徳と改元)と南北朝時代の康永元年(一三四二)の板碑がある。】 
(P258~259)


さて、境内をくまなく探しましたが、板碑らしきものは見当たりません。

東永院-86

道路から境内に上る階段の両脇に、門柱代わりのように置かれた石がありますが、あらためて
見ると、何となく板碑のような気もします。


東永院-54

どうやらこれが嘉曆四年(1329)と康永元年(1342)の板碑のようです。
約690年前と680年前の板碑の残し方に、もう少し工夫があって欲しかったと思います。

このお寺の創建が大永6年(1526)ですから、その200年近く前に刻まれた板碑が境内
にあることに理由があるのかも知れません。
どこかにあったものを移設してきた、というようなことであれば、その扱いに丁寧さが欠ける
のは仕方ないことでしょう。
階段工事の時にここに埋め込まれたようですから、もともとあまり注目されてはいなかった
のでしょう。


東永院-22
東永院-52

向かって左の板碑には、かすかに梵字が残っています。

0001キリーク      なんとか読める梵字は「キリーク」のようです。
キリークは阿弥陀如来または千手観音を表しますが、ご本尊が阿弥陀如来であることから、
これは「阿弥陀如来」を刻んでいると考えるのが妥当でしょう。(でも、お寺の創建と板碑の
年代の問題から、あまりあてにはなりませんね。)

梵字の下に「曆」らしき文字がうっすらと見えます。
こちらが嘉曆四年のものでしょうか。


薬師寺-109
東永院-53

向かって右の板碑。
こちらは風化で何も読めない状態です。


東永院-80
薬師寺-116薬師寺-117
東永院-81

境内の左奥に小さなお社がありました。
何のお社かは分かりませんが、しっかりとした流造りのお社です。


薬師寺-118
東永院-100

木陰にひっそりと並んでいる二体の石仏。


薬師寺-119         観音菩薩(?)
**************東永院-102

向かって左は観音菩薩のようですが、何となく像容に違和感があります。


東永院-104
****東永院-103

裏に回ってみると、頭部は補修されてセメントで固められていました。
首を落とされて、後に付け直されたようです。

顔は観音菩薩のようですが、体は地蔵菩薩に見えます。
昭和58年の「成田市の文化財 第14集」に、この石仏らしき写真が載っていますが、首が
無く、地蔵菩薩と記されています。
首を落とされた地蔵菩薩に、観音菩薩の首を載せたのかもしれません。
よく見ると観音菩薩の顔は仮面のような薄さです。


東永院-79   首のない地蔵菩薩
**************東永院-2

どこにも残る廃仏毀釈の傷跡ですが、そのまま放置されて草に埋もれてしまった石仏や、
首や腕のないまま立ち尽くしている石仏、あるいは稚拙であっても何とか補修しようとして、
セメントで間に合わせの頭を載せたもの等々、それぞれのお寺の事情によって境内の風景
は異なります。
時代が変わり、人々の信仰心も薄れて行くのは仕方ないことですが、通りすがりに石仏に
たとえ首が無くとも、そっと合掌するような日常が欲しいと思うのは私だけでしょうか?


東永院-51

境内から向いの山腹に薬師寺の屋根が見えます。


東永院-20

二年前に同じ場所から撮った薬師寺の屋根です。
屋根の右側に天然記念物の「船形の大シイ」が見えています。
今、そこには大木の姿がありません。
昨年六月の大風で倒壊してしまいました。

人による歴史の破壊だけでなく、自然もまた徐々に歴史を消し去って行きます。


東永院-90
東永院-93
東永院-94
東永院-95

蘖が伸びて、数百年後にまた、あの大木がここに聳えていることを信じたい気持ちです。


東永院-14
東永院-21
東永院-88
東永院-87

訪れる人も無い東永院ですが、再建されて二十八年、再び五百年の歴史を繋ぎ始めています。


Map船形

                        「久昌山 東永院」  成田市船形185




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公津村の寺社 | 17:46:47 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏

長い間ご無沙汰しておりました。
この間の事情は追記に簡単に記しておきました。
以前よりスローペースになると思いますが、再開させていただきます。
今回は、以前から気になっていた、成田山の石仏です。



成田山の外周路に、ひっそりと佇む石仏があります。

額堂-100

光明堂裏辺りの外周路。
寄進された金額や奉納物が刻まれた、大きな石碑が立ち並ぶ一角に、隠れるようにして
その四体の石仏はあります。


成田山石仏-12
成田山石仏-61

もともとこの外周路を歩く人は少ないうえに、大きな奉納碑や記念碑に囲まれているので、
気付く人はほとんどいません。

成田山の境内には多くの奉納碑、記念碑、修行碑、句碑などが立ち並んでいます。

大本堂裏の築山には不動明王の眷属(けんぞく)童子群が並んでいますし、光明堂・開山堂・
額堂に囲まれた一角には、不動明王像や矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せい
たかどうじ)を従えた三尊像が複数見られます。 

成田山石仏-81
成田山石仏-76
**********成田山石仏-77
成田山石仏-79
**********成田山石仏-80
成田山石仏-82
***************成田山石仏-84

ただ、不思議なことに、どこのお寺でも普通に見られる観音菩薩や地蔵菩薩のような石仏を
目にすることはありません。
広い境内のどこかに立像や坐像が隠れているのかも知れませんが、私はこの四体の石仏
以外には見つけることができていません。


成田山石仏-60

これらの石仏には、この場所にある必然性も、配置の意味も感じられなく、あちこちに分散して
あったものを境内の整備などの事情で、とりあえずここにまとめて置いたように見えます。



一体ずつ見てみましょう。

成田山石仏-3
成田山石仏-126
***************成田山石仏-48

左端に立つのは庚申塔の青面金剛像です。
顔から上半身にかけて大きく削り取られています。
右側面には文字が刻まれていますが、風化と欠損で、わずかに「本尊」と「八月吉日」の文字
が読み取れるのみです。


成田山石仏-2

この青面金剛像をよく見ると珍しい一面八臂像です。

今までこのブログでたくさんの青面金剛像を見てましたが、どれもが一面六臂像でしたので、
これは初めて見る八臂像です。
正面の二臂は削られていますが、合掌している様子がかすかに残っています。


駒井野道祖神-6 「駒井野道祖神」の青面金剛像
大鷲神社ー7 北羽鳥「大鷲神社」の青面金剛像
東陽寺ー2 野毛平「東陽寺」の青面金剛像
芦田八幡ー20 芦田「八幡神社」の青面金剛像

通常、六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を六臂全てに持つか、四臂で
いずれかを持って、残る二臂で合掌しています。
忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。


成田山石仏-125

この八臂像は、六臂で持物を持ち、さらに合掌する二臂が加えられています。


成田山石仏-4

邪鬼と三猿の部分も風化や欠損ではなく、削られた痕があります。
顔から上半身、邪鬼と三猿、いずれも廃仏毀釈の嵐に揉まれたことによるものでしょう。

この像にはもう一つ変わった部分があります。
ふつう金剛像の足許の左右に刻まれる鶏が、三猿の下に刻まれているのです。


成田山石仏-47

三猿を刻むのは、庚申の申(さる)にかけて、三尸(さんし)に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝への告げ口をさせないようにするためだと言われ、鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを
表しているとか、十二支の申(さる)の次に来る酉(とり)の日になるまで起きていることを表し
ているとか言われていますが、この位置に鶏があるのは初めて見ます。


成田山石仏-100

この珍しい青面金剛像の建立年代が分からないのは、とても残念です。
(庚申や庚申塔については度々書いてきましたが、「駒井野の道祖神と石仏群」の項に書いた
解説を参考までに追記に載せておきます。)


金剛像の隣にある石仏には大いに迷わされました。

成田山石仏-7

一見、観音菩薩像と思いましたが、なにか違和感があります。


成田山石仏-44
成田山石仏-58

頭部は隣の青面金剛像と同じく、廃仏毀釈により落されたようです。
修復の痕が痛々しい姿です。


成田山石仏-45

今は失われていますが、頭上には宝冠のようなものが載っていたようです。


成田山石仏-8

宝冠をかぶり、左手に蓮華、右手は与願印を結ぶこの石像は「虚空蔵菩薩」と思われます。

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)とは、無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味で、智恵や
知識に関するご利益をもたらす菩薩です。

この石像は、いろいろ比較してみると、京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵菩薩立像」にとても
良く似た像容です。
醍醐寺の虚空蔵菩薩像は、長らく「聖観音像」と伝えられてきましたが、平成27年に「虚空蔵
菩薩」であることが判明しました。
一見、観音菩薩と見誤るのは当然と言えば当然ですね。


多門院ー40 吉倉・多門院の虚空蔵菩薩
耕田寺ー43 村田・耕田寺の虚空蔵菩薩

上の虚空蔵菩薩像はいずれも十三夜の月待塔に本尊として刻まれたもので、この石像の
ような単立像は珍しいものです。


額堂-46
***************成田山石仏-57

「月待塔」の可能性もあるので、刻まれた文字を探しましたが、「寛文十一年」の文字が読める
だけで、月待らしき文字は見当たりません。
寛文十一年は西暦1671年、約350年も前のものです。
この年には歌舞伎の「先代萩」や映画・小説でも多く題材にされている「伊達騒動」がありました。


手前にある坐像は「十一面観音」です。

額堂-101

この観音菩薩は、十種の現世利益(十種勝利)と、四種の来世利益(四種果報)をもたらす
とされています。
【<十種の勝利>(一)病気せず、(二)つねに諸仏に憶念され、(三)財物や衣服飲食に欠乏
せず、(四)すべての怨敵を破り、(五)衆生の慈悲心をおこし、(六)虫害や熱病、(七)刀杖に
害されることがなく、(八)火難、(九)水難をのがれ、(十)横死しない、ことの十種である。
<四種の果報>(一)臨終の時に諸仏を見ることができ、(二)地獄に堕ちず、(三)禽獣に害
せされず、(四)無量寿国に生まれることができることの四種である。】
(「目でみる仏像事典」 田中義恭・星山晋也著 P275)


成田山石仏-5

「十一面観音」はヒンドゥ教のシヴァ神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の変化身
の一つです。
頭部に十一の顔を持ち、正面の顔は修行によって得られた如来の境地を表し、他の十面は
修行中の菩薩を表しています。 

【菩薩の顔が三面、忿怒の顔が三面、牙を持つものが三面、暴悪大笑と称するものが一面】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生 中著 P112)


ただ、この十一面観音像には忿怒相は見当たりません。

成田山石仏-124 正 面
成田山石仏-38 左側面
成田山石仏-39 右側面

頭上に三面、額上に五面、左右側面に一面ずつ刻まれ、本面を含め全て菩薩面です。
頭頂部には削られたような痕があるので、もともとはここに阿弥陀如来の化仏が載っていた
のかもしれません。


成田山石仏-36
成田山石仏-121

十一面観音の像容は、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つ形が
多いのですが、この観音像には持物はなく、両手は膝上で変わった印を結んでいます。


成田山石仏-56

掌を上に、親指と中指を付ける「上品中生」の印を両手を離して膝上に置く形で、いろいろ
調べても該当する印相が見つかりません。
「上品中生」の変形とでも言うのでしょうか。

「仏像印相大事典」(秋山昌海 著 昭和60年)にあった、
【・・・もうひとつ、わが国の観音像は、蓮華を持つことでは、ほとんど例外がないほどで変わり
ばえしないのに、印のかたちはまちまちで、これは、印については、観音像というものがかなり
自由に、形式にわずらわされずに造られていたことをものがたる。】
 (P321)
という文章に納得して、”自由に、形式に囚われずに彫られた”像だとしておきましょう。

足は半跏趺座に組んでいます。

全体のバランスがあまり良くないので、印の部分等が補修されて、もともとの形から違って
しまったのではないか・・・と、何度も見ましたが、その痕跡はありません。


右端は、亀に乗った珍しい石仏です。

成田山石仏-9
成田山石仏-53

一見、妙見菩薩のように見えますが、乗っているのは妙見菩薩が乗る玄武ではなく、亀です。


成田山石仏-10
成田山石仏-34
**********成田山石仏-33
成田山石仏-51

どこを見ても蛇と合体した玄武の痕跡はありません。


成田山石仏-32
成田山石仏-31

左手に持っているのは薬壺のようです。
とすれば、これは亀に乗った薬師如来だと思われます。


額堂-45

亀乗藥師如来は浦安の「東学寺」(坐像)や京都の「亀龍院」(立像)のものが知られていますが、
全国的にあまり例がありません。


額堂-43

この四体の珍しい石仏について、何も資料が見つからないのはとても残念に思い、何度も
現地を訪ね、思いつく資料を片っ端からあたってみました。
そして、奇跡的に「成田山新勝寺史料集 別巻」(成田山新勝寺 平成20年)の巻末にある
「金石一覧」表の中に、この四体の石仏が記載されていることを見つけました。
境内にある全1442件の金石について、1件1行ずつの記載です。
なお、代表的な270件については本文中に詳細な記述があります。

10  庚申塔         年代 ―   奉納者 ―   位置   97
811  十一面観音像     年代 ―   奉納者 ―   位置   98
812  聖観音像        年代 ―   奉納者 ―   位置   99
813  獏に觀音像      年代 ―   奉納者 ―   位置  100


いずれも年代、奉納者ともに不詳とされていて、「虚空蔵菩薩像」と見た石仏は「聖観音像」、
「亀乗薬師如来像」と見た石仏は「獏に観音像」と書かれています。


成田山石仏-111

ここで「聖観音」とされてる石仏は、その像容と、前述した”京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵
菩薩立像」”の例を踏まえて、私としては「虚空蔵菩薩像」であるとしたいと思います。
年代不詳となっていますが、よく見ると寛文十一年の文字が読み取れます。

【密教で発達した菩薩で、真言宗などでは虚空蔵菩薩を本尊として、さまざまな修法が行わ
れる。 また、この菩薩を本尊として記憶力を高める求聞持法という修法も古くから行われ、
弘法大師も若いころこの法を行ったという。】
【また、大日如来を中心とする五仏の化身として、五大虚空蔵菩薩が造られた。 このほか、
飛鳥時代に造られた聖観音に、虚空蔵菩薩と呼ばれるものがある。 中世以降、虚空蔵菩薩
の信仰が盛んになるにつれて、そのように呼ばれた。】(
「仏像鑑賞入門」瓜生 中著 P104)

このように、真言宗・大日如来と虚空蔵菩薩との関連を考えれば、虚空蔵菩薩像が成田山
新勝寺の境内の片隅に置かれていても不思議はないでしょう。
(大本堂の回廊を裏側に回れば、裏仏として、不動明王の本地物である大日如来像とともに
虚空蔵菩薩像と聖徳太子像が安置されています。)


次に、「亀乗薬師如来」と見た石仏が、「獏に観音」とされている件ですが、「獏に観音」とは
聞き慣れない名前です。
仏像に関する本や仏教辞典類などを見ても、この名前は出てきません。

成田山石仏-93

”最後の望み”で「成田山仏教図書館」を訪ね、質問をしてみました。

答えは意外にも、
”いろいろ調べても分からなかったので、見た目の印象を記したのだろう。 こういうことは
ままある。” というものでした。
「獏に観音」という観音は無く、たまたま調べた人が確信が持てなかったので、像容の印象
から、仮に「獏に」と名付けた、ということらしいのです。
それにしても「獏に」とはどういう印象なのでしょう?

恐いもの知らずの素人が、ここはちょっぴり勇気を持って「亀乗薬師如来」としたいと思います。


額堂-42

境内の片隅に、片付けられたかのように佇む四体の石仏ですが、よく見ればそれぞれに興味
深い特徴があり、見飽きません。

境内の片隅にひっそりと佇む四体の石仏。
成田山裏門の駐車場から境内へと上る坂道を、奥山広場に入らずにまっすぐ上って行き、
額堂の裏側を過ぎて、光明堂の裏側辺り、薬王寺に下る細い坂道の手前左側に見えます。




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ちょっと寄り道 | 16:47:28 | トラックバック(0) | コメント(12)
しばらくお休みします。

気力、体力の問題で、このブログをしばらくお休みにさせていただきます。

いずれ再開するつもりですが、いつになるかはまだわかりません。

いつもお読みいただいている皆様には、勝手を申しますがお許しください。


薬師寺-104
薬師寺-103
                                         船形・薬師寺 藥師如来




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ちょっとしたスポット~駒井野の道祖神と石仏群
成田空港のA滑走路の西側、「さくらの山」近くの森の中にポツンとある、「駒井野の道祖神と
石仏群」を訪ねます。

駒井野道祖神-1

県道44号線の「さくらの山」信号と京成空港線のガード下の間にある脇道を入って、少し進むと、
左手に鳥居と十数基の石造物が見えます。
石の鳥居は、円柱の笠木に角柱の貫が特徴の「靖国鳥居」です。


駒井野道祖神-2
駒井野道祖神-5

正面に石宮の道祖神が鎮座しています。
社号も紀年銘もありませんが、後述の「遷座記念碑」の碑文から、この石宮が「道祖神」である
ことが分かります。


駒井野道祖神-3
****駒井野道祖神-4

側面には龍の彫刻が施されています。


駒井野道祖神-8

道祖神の石宮の後には、風化が進んだ小さな道祖神が置かれています。


駒井野道祖神-30

そして、境内の右端には、嘉永元年(1848)の銘がある「道祖神」があります。
周りには小さな道祖神が二基置かれています。

この数基の道祖神が、もともと駒井野に散在していたもので、中央の石宮はこの地に遷座
したときに建立されたもののようです。


駒井野道祖神-6

道祖神の手前左側には、青面金剛像が立っています。
これは「庚申塔(こうしんとう)」と呼ばれます。
これまで何度か庚申塔について書きましたが、あらためてもう一度まとめておきましょう。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。

「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
人の体内には、生まれたときから上尸、中尸、下尸の三種の三尸虫がいて、庚申の日の夜に
眠っている人の体内から抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めさせる
と言われています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、三年(十八回)続けると「庚申塔」を建てることができます。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
「 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。」
 (P224)

六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、
左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。


駒井野道祖神-31
駒井野道祖神-33
駒井野道祖神-34 


駒井野道祖神-32

寛政十二年(1800)の紀年銘があり、側面には次のような文字が刻まれています。
「西 なりた 北 こまいの」「東 とつこう 南 はたけた」
道標を兼ねていたようですが、「とつこう」は取香、「はたけた」は「畑ケ田」だと思われます。


駒井野道祖神-10
駒井野道祖神-53

道祖神や青面金剛像の左手に、十数基の石造物がまとめられています。
中央の五輪塔には紀年銘がありませんが、道祖神の石宮と同じく、この地に遷座したときに
建立されたもののようです。


駒井野道祖神-11

「馬頭観世音」と刻まれたこの石碑には紀年銘がありません。
これも、この地に遷座したときのものでしょう。


駒井野道祖神-12
駒井野道祖神-35

右は馬頭観音の文字塔、左は馬頭観音の像塔です。
文字塔は昭和22年、像塔には「寛政三辛亥」の紀年銘が刻まれています。
寛政三年は西暦1791年、第十一代将軍・徳川家斉の治世です。

約230年前のものにしては、風化が少なく、冠の馬頭がはっきり分かる珍しい観音像です。


駒井野道祖神-14

五輪塔の左側に並んでいる石造物はいずれも墓石のようです。


駒井野道祖神-38

風化が進んでいますが、「宝永三」と読めます。
宝永三年は西暦1706年、310年も前のものです。


駒井野道祖神-39

こちらも「宝永三戊」と読めます。


駒井野道祖神-40

「・・童子」とあるので、子供の墓石のようです。
「宝曆十庚辰」と刻まれています。
宝暦十年は西暦1760年、第九代将軍徳川家重の治世です。


駒井野道祖神-50

宝暦七年(1757)の墓石。
「・・・定門 ・・・定尼 霊位」と刻まれています。

「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院」表によれば、駒井野地区の寺院は
天台宗の「髙福寺」(山之作・円融寺末)と、真言宗の「法蔵寺」(吉岡・大慈恩寺末)の二寺
のみで、高福寺は新駒井野に移転して存続し、法蔵寺は明治初期に廃寺となっています。
状況から考えると、廃寺となった「法蔵寺」にあった墓石ではないでしょうか。


駒井野道祖神-36

五輪塔の右側にも三基の墓石が並んでいます。


駒井野道祖神-51

左は寛政十年(1798)のもので、・・・權律師(ごんのりっし)と読めますので、お坊さんの
墓石です。
「權律師」は僧侶の位(僧階)の最下位の名称です。
ちなみに、僧階は上位から次のようになっています(宗派によって多少の違いがあります)。
【 大僧正・権大僧正・中僧正/僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都
中僧都/僧都・権中僧都・少僧都・権少僧都・大律師・中律師/律師・権律師 】

右の墓石は享保七年のもので、風化と苔で読みにくくなっていますが、「・・・照誉道光・・」
「・・・開眼道了・・」と読めるような気がします。
享保七年は西暦1722年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


駒井野道祖神-52

こちらの石仏は風化と欠損により、年代等は不明ですが、地蔵菩薩であると思われます。


駒井野道祖神-15

五輪塔の後方には「子安地蔵尊」があります。
明治十三年(1880)の建立です。


駒井野道祖神-17
駒井野道祖神-60

50メートル先は空港の滑走路です。


駒井野道祖神-61
******駒井野道祖神-62
***********駒井野道祖神-63
駒井野道祖神-64
******駒井野道祖神-66
***********駒井野道祖神-67

ここはちょうどA滑走路の離陸スタートポイントになるため、次々と一気にエンジンを吹かして
走り始める旅客機が現れます。
障害物の間から見ていると、機体は一瞬で走り去り、轟音だけが襲ってきます。


駒井野道祖神-9

遷座記念碑には次のような言葉が刻まれています。
「遷座記念碑
我等が先祖より、居住の地は昭和四十一年新東京国際空港の用地と決定した これに
伴ない昭和四十八年八月区民の柱の一つとして崇拝している道祖神等をこの地に合祀し
遷座祭を執り行なう ここに記念の碑を建て永く駒井野区民の加護を祈念する」



駒井野道祖神-18
駒井野道祖神-37
駒井野道祖神-16

空港の工事により、駒井野の道端や林の中に散在する道祖神や石仏、墓石等が失われ
ないよう、この地に集めて、離散する住民の心の拠り所としようとしたのでしょう。
しかし、絶え間なく航空機の離着陸の轟音が響くこの地に、人家は消えて、今は訪ねる人
もなさそうです。

過疎化で忘れ去られて草むす石仏や石碑もあれば、やむを得ない事情によって元の土地を
追われて離れた場所に移り、人と引き離されて忘れられて行く石仏や石碑もあります。


駒井野道祖神-0

                 ※ 駒井野道祖神と石仏群  成田市駒井野1393-5




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史跡・その他 | 20:18:03 | トラックバック(0) | コメント(2)
大木に囲まれた静寂の空間~久能の「駒形神社」

今回は、富里・久能の「駒形神社」を訪ねます。

駒形神社-1

「駒形神社 旧村社 <祭神>駒形神(こまがたのかみ) <主要建物>本殿・亜鉛板葺流造
一坪、弊殿・同一五坪、社務所・同六坪 <境内坪数>五三八.五七坪 <氏子>一〇〇戸
<神事と芸能>一月二〇日備社。 四月三日と八月二八日に獅子舞(三匹獅子・羯鼓舞)を
奉納する。」
 (「千葉県神社名鑑」昭和62年)

御祭神の「駒形神(こまがたのかみ)」とは、あまり聞き慣れない神名ですが、馬の守護神で
あるとされていて、「馬頭観音」の垂迹神であるとも言われています。

「駒形神社」といえば、通常、岩手県奥州市にある式内社(現神社本庁別表神社)を指しま
すが、久能の「駒形神社」も、この岩手の「駒形神社」を勧請したもので、「駒形神社」が多く
分布する岩手・宮城地方と同様に、富里が馬の産地であったことと無関係では無いでしょう。


駒形神社-2
駒形神社-51

神社入口の道端に、やや傾いた「道祖神」があります。
この道祖神には「南無道祖神」と刻まれています。

相模地方やその他の地方では、この「南無道祖神」と刻まれた道祖神をよく見かけますが、
これまで私の見てきた成田近郊の多くの道祖神には無かった珍しいものです。
「明和四丁亥」と記されています。
明和四年は西暦1767年で、第十代将軍・徳川家治の治世です。


駒形神社-3

一の鳥居は石造りの明神鳥居で、昭和49年のものです。


駒形神社-4

鳥居の脇にある手水盤は、明治四十五年(1912)に寄進されています。
この年の7月には明治天皇が崩御され、元号が大正と代わりました。


駒形神社-7
駒形神社-8

ニの鳥居は、控柱のある木製の明神鳥居です。


駒形神社-5
駒形神社-6

玉垣に囲まれたこの木は、枯れた幹の根元から蘖(ひこばえ)が生えています。
玉垣には「大當番奉任記念 昭和十五年一月 丸山八代藤崎源之助」と記されています。
この名前は「一の鳥居」にも寄進者として記され、狛犬の台座にも多くの寄進者の中に
寄進者の一人として記されています。


駒形神社-9  昭和15年の石灯籠
************駒形神社-10

駒形神社-11
駒形神社-14
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小振りながら、なかなか重量感のある狛犬は、昭和15年の寄進です。


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「富里村史通史編」(昭和56年)には、「駒形神社」はこう紹介されています。

「駒形神社  駒形神・天照皇大神・宇賀御霊命
所在地は、久能字比丘尼内にあり、ここは古くは尼僧寺のあった所かも知れない。 「富里
村誌」によれば、村社で祭神は稚産霊命、大巳貴命、面足少名彦命、惶根命となっている
が創建は不詳である。境内には、明和四年(一七六七)丁亥十一月吉日建立の道祖神が
あり、これは、入母屋式石祠で、「南無道祖神」と彫られている。他に二三夜塔、天神宮など
の石塔、石祠がある。また、四月と八月の祭礼に獅子舞が行われている。」
  (P627)

御祭神が史料や時代と共に変わっているのはよくあることです。


駒形神社-17
駒形神社-18
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駒形神社-21

鞘堂に覆われた本殿は、辛うじて流造の屋根が見えるだけで、外からはほとんど見えません。


駒形神社-24

拝殿の屋根に「立浪」の飾瓦がありました。
神社やお寺の屋根に、火除けのまじないとしてよく見られるものです。
「千葉県神社名鑑」には、本殿・拝殿ともに亜鉛板葺となっていましたが、近年瓦葺きに改装
されたようです。

参道の左右、少し奥まった所に、数基ずつの石造物が並んでいます。

駒形神社-25

拝殿に向かって左側の石造物は六基です。

駒形神社-32

一番左には、力石のような丸い石が置かれています。
見たところ、表面にはなにも刻まれていません。


駒形神社-26

「延享四丁卯」の紀年銘が読めますが、何の石祠かはわかりません。
延享四年は西暦1747年ですから、270年前のものです。
(後述の「千葉縣印旛郡誌」にある、「摩利支天王」かもしれません。)


駒形神社-27

三番目の祠は、昭和62年の新しいものです。


駒形神社-29

この五角の柱は、「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植山姫命
(ハニヤマヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。


駒形神社-30

社号も紀年銘もありませんが、風化は進んでいないので、あまり古いものではなさそうです。


駒形神社-31

右端にあるこの石には、何やら文様があるように見えますが、風化で判別はできません。


駒形神社-33
駒形神社-34

拝殿に向かって右側にも、五基の石造物が並んでいます。
手前にある手水鉢には「明治参拾九年」と刻まれています。
明治三十九年は、西暦1906年にあたります。


駒形神社-35

左端の石祠には、「妙正大明神」と刻まれています。
この神様については確たる史料が見当たりませんが、どうやら「疱瘡神」のようです。
(市川市にある「龍経山妙正寺」の縁起に出てくる「妙正大明神」の話が有名です)

「寶暦■辛未」の紀年銘があります。
宝暦年代中の干支が「辛未」となるのは「宝暦元年」ですので、西暦1751年のものです。


駒形神社-36

右にある石祠も「妙正大明神」です。
こちらには「天保六乙未」と記されています。
天保六年は西暦1835年ですから、隣の「妙正大明神」から84年後のものです。


駒形神社-37

拝殿に向かって左側にあった石宮と同じもので、昭和62年と記されています。


駒形神社-38

「奉勸請廿三夜月天王」と刻まれたこの石塔は、弘化二年(1845)の月待塔です。
月待講は通常仏教の世界での行事とされていますが、神道でも行われることがあります。
仏教の二十三夜講では「勢至菩薩」を信仰の対象としますが、神社にある珍しい月待塔の
信仰対象は、「月読尊(ツクヨミノミコト)」になります。


駒形神社-39

右端のこの石祠は、風化で刻まれている文字が読めませんが、上部は「三」と読めるような
気がしますので、「三峯神社」ではないでしょうか。


駒形神社ー40

「千葉縣印旛郡誌」には、「駒形神社」について次のように記述されています。

「村社 駒形神社
久能字比丘尼内にあり稚産靈命大己貴命面足少名彦命惶根命を祭る創建不詳なれども
明治四十三年三月許可を得て仝村大字久能字久保臺にありし無格社妙正神社仝村大字
宮谷にありし無格社皇産靈神社を本社に合祀し祭神を配祠せり本殿間口四尺六寸奥行
六尺七寸雨屋間口二間三尺奥行三間境内百八十坪官有地第一種あり神官は篠原周助にして
氏子三十九戸を有し管轄廳まで八里十一町五十四間なり境内三社あり即
一、天照皇太神    大日靈女貴命埴山姫命少名彦命倉稲魂命大己貴命を祭る由緒不詳
              建物は石祠にして高三尺一寸横五寸
二、廿三夜月天王   月夜見命を祭る弘化二年己年勸請建物は石祠にして高二尺三寸
              横七寸
三、摩利支天王    武甕槌命を祭る由緒不詳建物は高三尺一寸横九寸の石祠なり 」



神社の境内では、毎年4月3日と8月の最終日曜日に、五穀豊穣や交通安全などを祈願する
獅子舞が行われます。
「久能の獅子舞」と呼ばれ、約300年前から行われてきた伝統芸能で、富里市の指定民俗
文化財となっています。

久能駒形ーC
                               (富里市教育委員会生涯学習課 提供)

富里市のホームページに、この獅子舞の”ストーリー”が紹介されています。

「獅子舞は、頭の大きなものから順に「雄獅子」「中獅子(雄)」「雌獅子」と呼ばれる3匹の獅子
によって演じられ、笛と大小太鼓の囃子に合わせて舞を踊ります。 
久能の獅子舞は別名「やきもち獅子」とも呼ばれており、1匹の雌獅子をめぐる2匹の雄獅子
のストーリーが展開されます。
4段の場から構成されていて、1段目の場では、雌獅子と雄獅子がそれぞれの個性を表わし、
2段目では、3匹が入り乱れ仲良く踊りに興じます。3段目では、雄獅子2匹による雌獅子の
独占争いが始まります。争いは、話し合いという形で始まりますが、何度話し合いをしても
折り合いがつかず、そのうちに雄獅子同士の喧嘩が始まってしまいます。
喧嘩の様子はユーモラスで、勝ち獅子は右に左にと大きく飛び回り、倒れて負け獅子が立ち
上がろうとしているところに出向き、「どうだ!参ったか」というような仕草を見せます。 結局、
勝負は引き分けとなって、舞は4段目に移ります。 2匹の雄獅子は争いの愚を悟り、最初の
ように3匹の獅子は仲直りして舞は終わります。 近隣で行なわれている獅子舞は、勇壮な
ものが多いように見受けられますが、この獅子舞は、勇壮な場面の中にユーモラスな動きを
含め、民俗芸能としての娯楽性を備えています。」


久能駒形ーB
                            (富里市教育委員会生涯学習課 提供)

獅子舞の行われる境内の賑やかさが想像できないほど、普段の境内は静かです。
鬱蒼とした木々に囲まれ、日中でも薄暗く、曇天の日はフラッシュが必要なほどです。

駒形神社-53
駒形神社-54
駒形神社-55
駒形神社-52

それにしても、この森には圧倒されます。
杉やスダジイの巨木が何本も、何本も・・・。


駒形神社-41
駒形神社-43

通りの反対側にも幹周りが7~8メートルはあろうかという巨木が・・・。


駒形神社-56
駒形神社-22
駒形神社-44


久能の「駒形神社」は、交通量の多い道路に面していますが、巨木に囲まれた社殿と境内は
忘れられた空間のように静寂に包まれています。



駒形神社-100

                          ※ 「久能 駒形神社」 富里市久能553



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