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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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寺台城の豪傑・海保三吉
戦国末期の世を風のように駆け抜けて行った海保三吉(かいほ みつよし生年不詳~元和三年
(?~1617)は、剛力で知られた武将で、寺台の高台にあった寺台城の城主でした。

海保三吉は謎の多い人物で、「新編成田山史」には次のような記述があります。
【そもそも海保三吉なる武将そのものが、かなり不明瞭な伝承的かと考えられ、その事績につい
ても、全てを史実と考えることは躊躇される。】
 (P169)

今回は、この「海保三吉」を追いかけてみます。


足利幕府と下総の結城一族との合戦 ―結城合戦・永享十二年(1440)~嘉吉元年(1441)で
結城方に与して討ち死にした里見家基の嫡子・義実と次男・家氏は、安房に逃れて安房里見氏
を興しましたが、三男の又三郎は父・家基の領地であった上総の里見邑に逃れて、上総の守護
・千葉介胤直に仕え、海保庄の領地を与えられて海保氏を興しました。

以降、海保氏は代々千葉氏に仕え、徐々に重用されるようになってゆきます。
海保氏四代の泰氏の時には下総佐倉山城に移り、嫡子信氏が千葉介勝胤と昌胤の代に執権職
を務め、さらに信氏の子の勝氏は千葉介利胤・親胤の代にも執権を務めました。
信氏の子・七代の氏之は千葉介富胤の執権を務め、成田の寺台城主でもありました。

八代・英氏のとき、豊臣秀吉の小田原・北条攻めがあり、北条氏が敗れると、九代・氏次(三吉)
は德川家に仕えたものの、後の改易等によりやがて海保氏宗家は断絶することとなります。
     
里見家基--海保氏義--氏重--氏俊--泰氏--信氏--勝氏--氏之--英氏--氏次(三吉)



                                   ( 寺台城址 )


三吉にまつわる伝承は多くありますが、代表的な二つの話を紹介します。

【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の2つ
の仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に信仰の
深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さまの脇におら
れる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】
  (新勝寺ホームページ)

この記述の後半部分、斃れた三吉が蘇生したという合戦とは、天正元年(1573)小田原北条氏と
下総千葉氏とが戦った公津合戦のことで、戦死が伝えられていた陣営に三吉が戻ったため、皆が
大層驚いたことは事実のようです。

成田山公園-115
                 (成田公園内にある不動明王三尊像)
**額堂-99
                 ( 光明堂脇にある不動明王三尊像)                    

制咤迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)が脇侍となって不動明王の左右に
控える三尊像は成田山内にいくつか見られます。
通常、明王の左(向って右)に制咤迦童子を、右(向って左)に矜羯羅童子が控えています。

成田山を深く信心していた三吉らしい話です。


三吉の剛力ぶりを示すもう一つの伝承は、前述のホームページ文章の前半部分に関わる、
成田山の仁王さまとの力比べです。

成田山の二王様は「朱振りの仁王尊」といわれていますが、かつては白木の仁王様でした。
あるとき、寺台城主だった海保三吉が成田山に参詣したとき、「私に誰にも負けない大きな力を
与えていただけたら、朱塗りを奉じたい」と願をかけました。
その帰路のこと。闇夜の中で大男が両手を拡げて三吉の行く手を遮りました。
三吉はこの大男に組み付き、信じられないほどの力で大男を投げ飛ばしてしまいます。
その時、頭上から「我は成田の仁王なり。汝の願いを聞き入れて敵一倍の腕力を授けたり。」と
大声が響きわたりました。
三吉は約束どおり仁王を朱塗りにし、仁王を投げ込んだ田を仁王面と名付け、成田山に寄進
しました。




模写 「怪談春雨草紙」中の挿絵 (市川三升 作 歌川國安 画 文政十三年ー1830)
    孝蔵(海保三吉)と仁王との格闘 (「仮名垣魯文の成田道中記」昭和55年に収録)


山門ー16
                成田山の仁王門      (2014年5月撮影)

山門ー9
                        ( 那羅延金剛[ならえんこんごう])
山門ー8
                         ( 密迹金剛[みっしゃくこんごう])

さて、三吉と格闘したのはどちらの金剛様だったのでしょうか。


【・・・それぞれにひかえたるうちにたゞ一人、土俵の上に力足をふみならしいる者あり。見るに、
その丈七尺五寸余にして、眼するどく、顔色総体朱をそゞぎしごとく、あくまで骨太にして仁王の
いけるがごとし。宵より二十七番をとるといえども、一度もまけをとらず、かちつゞけたり。見物
一同こゝろにくしとおもへども、たれ相手になるべき者もなく、口おしながらひかへゐる。この時、
桟敷より孝蔵にとるべしと下知あり。つれきたりし山伏もたってとるべしと、そのかはりには汝が
のぞみごとかなへべしとすゝむるゆへ、いまはせんかたなく、孝蔵土俵のうちにとびあがり、
たがひに式礼なし、たちあはんとせし時、孝蔵心におもふやう、なかなかかれにひきくんでは
かなふまじ、手先にてとるべしと、アイヤと声かけ。双方たちあひ、しばらくもみあふそのありさま、
竜虎の勢、されど孝蔵はわづか五尺五寸あまりの小男、かたがたは七尺五寸にあまる大の男
なれば、やゝともすれば孝蔵あやうく見へければ、見物固唾をのみ、目ばたきもせず見つめて
ゐたりしが、大の男やっと声かけ孝蔵をつかまんとするところをすかさずとって足をかけつき
けるが、なんなくかの大の男を土俵の外へおのれが力にて半身土の中へうづんだり。】


これは、七代目市川団十郎が文政十三年(1830)に書いた、「怪談春雨草紙」にある一節で、
海保三吉の伝説的武勇伝からヒントを得たと思われます。


秀吉による北条氏討伐に際して、北条方の体制は団結とはほど遠いものでした。
長い間、関東の八カ国に君臨してきた北条氏の暴政に苦しめられてきた多くの家臣の不満は
大きく、大名達の評定(小田原評定)はなかなか定まらず、秀吉軍につけいる隙を与えました。
後に「小田原評定」とは、「議論ばかりで結論が出ないこと」と揶揄されることになります。

面従腹背の家臣達につけいって帰参を呼びかけたのが徳川家康です。
千葉氏一族の大須賀氏・原氏・押田氏・土気、東金の両酒井氏等も、それぞれ領地を与えられて
德川氏の直参となりました

寺台城主であった海保英氏は小田原城に詰めていたため、殿台城主であった馬場伊勢守勝政が
城代として寺台城を守っていました。
しかし、優勢な德川勢との戦いは厳しく、馬場勝政は討ち死にし、寺台城と殿台城はともに炎上し、
あえなく落城してしまいます。
直線距離で2キロにも満たない二つの城が炎上する様は恐ろしい景色だったに違いありません。
住民はどんな思いで燃える城を見上げたのでしょう。

なお、殿台城は今は跡形もありませんが、現在の美郷台のJR線路脇にあったようです。
馬場勝政は土屋の「大宮神社」を創建した千葉氏一族の武将で、寺台城下の永興寺に葬られた
と伝わっています。


裏参道-58
                     大宮神社 (2014年5月撮影)
*******東参道ー16
                     永興寺 (2014年7月撮影)


英氏は家康に帰参しましたが、寺台城の再建は叶わず、焼け跡に屋敷を構えていたようです。
【三吉は部屋住とは云え身長七尺五寸、力量二十五人力と云われ、殊に膂力(りょりょく)が非常
に強かったので、家康は大御番を命じ別に三百石を給わり信任された。父の没後家督を相続して
四千三百石の直参となって甲斐守氏次と称するようになった。】
  
(「広報よこしば 第46号」 昭和43年7月)

7尺5寸って227センチ! 
NBAウィザーズの八村塁(203㎝)やVリーグジェイテクトの伏見大和(207㎝)よりも背が高い!
この時代にこの背丈は事実ならば怪物です。
まあ、よくある大袈裟な表現なのでしょうが、ともかく図抜けた大男だったのでしょう。
ちなみに、部屋住み(へやずみ)とは嫡男でまだ家督を相続していない者や、次男以下の独立
せずに親元にいる者を指します。
また、大御番とは、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊のことです。


大御番となった三吉は、生来の粗暴さ故の不祥事を重ねてしまいます。
房総関連の古文書や諸記録を集大成した「房総叢書」の中の「千葉傳考記」に、次のような
記述があります。

【海保三吉は、千葉家の士なり。後に召し出されて幕府の直參となり、大番組を勤む。然るに、
慶長十四年十月十六日、大番頭たる水野市正・近勝口口切腹を命ぜらる。其の故は、去月
廿九日、市正宅に於て服部牛八が久米左不治を双傷せし事あり。其の時、近勝は寺院に入
りて、陳謝する所ありしも、去々年以來、此の市正組の海保三吉・荒尾長五郎・有賀忠三郎・
世良田小傳次・小股猪右衛門・間宮彦九郎等、伏見在番中、徒然に堪へずして密々所々を
徘徊し、樊崎講といふものを催し、街中に於て双傷を遊戯とし、殊に海保は坂東の強力たるに
依りて、忍びて上京し、好みて相撲を取りけるが、遂に秀賴の中間を抛殺せり。やがて、三年
の在番終りて歸府し各々其の知行所に休息しけるところ、其の濫行露顯し、遂に死罪又は改易
となりたりといふ。この時、間宮彦九郎一人逃亡せしが、妻子を虜とせらるゝ、由を聞き、忽ち
出で自殺せり。其の外、松平九郎右衛門忠利・津野戶左門・岡部庄九郎・駒井孫四郎も連座に
よりて其の祿を沒收せらる。小斐仁左衛門は、父の忌中に密々江戶へ下りし爲め改易。藤方
平九郎・小川左太郎は罪なしと雖も、其の家僕が商人を摶殺して逐電せし故、「尋ね出し斬戮す
べし」とて、其の間のを祿收せられしが、後遂に探り出し、之を斬りて歸參する】



三吉の乱暴者ぶりは相当なもので、喧嘩で複数の武士を殺したり、相撲で相手を投げ殺したり
したと言われています。
一方で、三吉が領民に慕われていた、善政を行っていた、という記述も散見されますが、乱暴者
とする記述に比し非常に少なく、検証がむずかしいところです。

史料のほとんどは大御番時代の振る舞いから寺台での最期まで、そして彼の墳墓に関する記述
ばかりです。
三吉の領主としての姿、領民とのふれあいなどについての史料は海保家の記録として残されて
いましたが、残念ながら焼失してしまったため、今では知ることができません。
わずかに「広報よこしば」第48号(昭和43年9月)に、以下のような記述を見つけました。

【さて寺台の人々は今でも甲斐守様とか三吉様とかと尊敬しているから、豪放多く非道に出たと
伝えられた節もあるが、己が領民に対しては善根を施したから、それが子孫に伝わり今に残って
いるのであろう。】 



史料は一気に寺台城下での三吉の最期を語ります。

【これらのことで小野次郎右衛門が三吉の非道を将軍に言上したため、佐倉城主土井大炊頭
利勝に命じ御名代として篠田勘兵衛、日暮弥市の二人に大将を命じ三百騎をもって寺台城攻略
にかかったのである。】 
 (「広報よこしば 第47号」 昭和43年8月)

【それから三吉は寺台の河岸まで来て見ると橋を引いて河面には篠田、日暮両人の上使が出迎え
「御上意にて土井大炊頭名代としてわれ等両人罷り越した。それにて切腹なされ候え」と呼ば
わる。三吉これを聞いて「御上意なれば是非なし。城に入って切腹仕る。橋を渡し候え」と答えた。
これに対し「橋を渡すこと罷りならぬ。それにて切腹召され候らえ」と言うや否や三百騎の兵、三吉
を渡さじと切先をならべ、槍ふすまをつくって川端に馳せ向う。三吉これを見て幅八間の根木名川
を飛び越えながら、二十四本ひかえた槍を両手にて八本をかい掴み引折って捨ててしまった。この
勢いに恐れをなし大勢の者ども一度にどっと引き退く。しかし渡って行っては御上意に叛く。ちょうど
川辺に嶋の坊という行屋があったので、そこに立入り見ごと切腹して相果てた。時に元和三年十月
一日、三吉行年四十八才であった。】 
  (「広報よこしば 第48号」 昭和43年9月)

「行年四十八才」とあるのが正しいとすると、三吉は永禄十一年(1568)生まれ(数え年齢)という
ことになりますが、そうすると公津合戦で制咤迦童子に助けられたという伝承の天正元年(1573)
ではまだ6才ということになり、(伝承とはもともと不合理に満ちていますが)話に無理があります。

【神君海保氏ノ暴慢ヲ悪ミ、土民ヲシテ之ヲ誅セシム。三吉偶山之作村圓融寺ニ在リ、棋ヲ圍
ム。之ヲ聞キ将サニ帰ラントス。酒々井人篠田勘七槍ヲ持シ、寺臺橋下ニ隱レ其過ルヲ伺ヒ、
突テ之ヲ僵ス。今橋側松アリ血塚ノ松ト云、其所ナリト。】
  
(下総國下埴生郡寺臺村誌 明治十七年)

【海保三吉ノ遺址ハ本村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉力ヲ飽マテ強ク能ク尺ノ圍ノ竹ヲ握リテ之ヲ
潰ブス。後、力ヲ負ミ豪放ニシテ其為ス所多ク非法ニ出ツ。元和中神君小野次郎左衛門(右ノ
誤カ)ニ命シテ之ヲ誅セシム。小野氏三吉ヲ攻ム。三吉輙輙クモ屈セス。小野氏諭シテ曰、汝チ
順逆ノ分ル所ヲ知ラス、而孤城落日ヲ恃ミ強力ニ誇コルルト雖、能ク幾ハク時ヲ保タンヤ、速ニ
自衂スルニハ如カス。汝若シ我言ニ従ハゝ我汝カ為メニ墳墓ヲ營ミ、香花永ク絶エサラシメント。
三吉其言ヲ容レ割腹シテ死ス。】
   (同上)

三吉の最期については諸説あるようですが、根木名川の寺台橋近辺が波乱の人生の終焉の地
であったようです。
< 山之作の円融寺で住職と碁を打っているとき、三吉討伐の軍勢が来たとの知らせがあり、
急いで城に戻る途中の寺台橋で討伐隊と遭遇し、獅子奮迅の抵抗を続けたが、小野次郎右衛門
の説得を受け入れて切腹した>といったところでしょうか。

円融寺ー21
                          三吉が碁を打っていた円融寺


寺台橋とはどこに架かっていたのでしょうか?
寺台城の位置や、昔からの古い街道である三里塚街道の起点などから、現在の「あづまばし」
付近と考えて間違いないと思われます。

三里塚街道ー75  (上流)
三里塚街道ー76  (下流)

現在の「あづまばし」から見た景色です。
当時は現在よりも川幅は広かったようです。


三吉の墓については、明治十七年の「下総國下埴生郡寺臺村誌」に詳しく記されています。

【海保三吉墓 村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉ハ海保丹波守ノ子ナリ。天正十八年千葉氏滅ビ、
東照神君千葉氏ノ奮臣海保三吉及ビ某々等ヲ召シ采地ヲ賜フ。三吉本村ニ居ル後暴慢ニ
シテ誅ニ遇フ。茲ニ葬ムル。】
                    

【海保塚  村ノ東北ノ間ニ突出ス。四面林巒村落其間ニ参見シ、平田数百町歩一目ニ瞰下ス。
風光壮快月ニ宜シク、雪ニ宜ク、花ニ宜ク納涼ニ宜シ、本地ハ海保氏墳墓ノ在ル處ニシテ、古
松矗々林立シ頗ル名勝ノ區ナリ。】
 

【本地ハ海保氏ノ墳墓アル所ニシテ墓上巨松アリ、大サ四抱許、一幹三枝ニ分ル。三枝ノ大サ
皆二抱許、枝下ノ長サ配枝ノ風容相同シク翳欝トシテ髙ク雲辺ニ聳ユ。口碑ニ依レハ海保三吉
自劒ノトキ遺言スラク、墓標トシテ松ヲ植ヘヨ、後世該松ノ三枝ニ分ルヲ見ハ吾成佛セシナリト。
松ノ三枝ニ分レシハ其何年頃ナルヤ詳ナラス。其他境内ノ古松大サ皆二、三抱許アリ。】

                               

三吉の亡骸は焼け落ちた寺台城の出丸跡に葬られ、遺言によって墓標に松が植えられました。
昭和28年に松が枯れ、撤去のために根元を掘り起こしたところ、真下から一体の人骨が出土
し、調査した結果、言い伝え通りの偉丈夫らしい骨格で、三吉の骨であることが判明しました。
永興寺にて供養が行われた後、再び元の場所に埋葬されました。

東参道ー16
                   三吉の供養が行われた永興寺(ようこうじ)              


寺台城址の様子は、2014年7月の「成田山東参道を歩く」から引用します。

東参道ー25
東参道ー26

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、訪ねる人も無い林の中に
建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。

【後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。】


東参道ー27

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。


現在はきれいに整備されていると思いますが、約7年前の様子は寂しいものでした。



さて、最期に三吉と成田山の関係について見てみましょう。


【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の
2つの仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に
信仰の深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さま
の脇におられる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】

                            (新勝寺ホームページ)

【伝承では成田山新勝寺は、現在の成田市寺台の地にあった寺台城の城主海保甲斐守三吉(?
~一六一七)の肝入りで、永禄九年(一五六六)六月二十八日に現在地で落慶供養を行ったと
いわれている(「新修成田山史」三一頁)が、これが他所(公津ヶ原)からご本尊を遷座しての入仏
落慶供養であったのか、あるいはすでに現在地に遷座していて、新たに本堂や他のお堂を整え
てからの落慶供養であったのか判然とせず、またこのときの寺台城主は海保三吉ではなく馬場
伊勢守勝正(?~一五九〇)であったはずであり、混乱しているところがある。】

                           (「新編成田山史」 P91~92)

【この城は、千葉氏一族出身で家臣であった馬場氏の居城(詰の城であった)と伝承され、豊臣
秀吉の天正十八年(一五九〇)の小田原攻めのとき、城主馬場伊勢守勝政が千葉氏とともに
北条方に加わって敗死し、そのために城は徳川家康から海保三吉に与えられたと伝えられて
いる。これによれば海保三吉は、馬場勝政の後に寺台城の城主になっていたことになり、小田原
攻めの後となるので、永禄九年(一五六六)に新勝寺落慶供養が行われたとすれば、そのときの
城主は勝政であったとみられる。後の者が寺台城の城主ということからだけで単純に海保三吉と
記してしまったのであろう。】
  (同 P149)

成田山新勝寺としては、海保三吉が新勝寺を現在地に移し、諸堂を整備・建立したとする説には
疑問を持っているようですが、ホームページでは三吉が諸堂の建立をしたと記しています。
また、馬場勝政は寺台城落城の時点では殿台城の城主であって、寺台城主は海保英氏でした
(当時、馬場勝政は寺台城の城代家老)。
つまり、馬場勝政の戦死にによって海保三吉が寺台城主になったのではなく、秀吉の小田原攻め
の時点での寺台城主は三吉の父・英氏だったのです。
海保氏が寺台城主として記録に表れるのは、三吉の二代前、英氏の父・氏之ですので、海保氏が
永禄九年の落慶供養に大いに貢献した可能性はあると思います。
記録には、氏之は千葉介富胤の執権を務めたとありますが、千葉介富胤が下総千葉氏宗家の第
27代当主となったのが弘治三年(1557)ですから、永禄九年(1566)の新勝寺落慶供養に向け
て氏之が寺台城主としてまた千葉氏執権として大いに貢献したと考えることに無理はありません。

私は、年代的にみて落慶供養の主役は三吉ではなく、氏之であったと考えます。
三吉が仁王像を朱塗りにしたのは事実のようですから、史料の記述の際に寺台城主として知名度
のある三吉の業績と記してしまった、ということではないか、と想像します。


「新編成田山史」は、海保三吉について一項を割いています。
【海保三吉 武士・武将による信仰の最後として、海保三吉の霊験譚について述べる。 海保三吉
は、現在の寺域に隣接する寺台にあった寺台城の城主で、甲斐守を名乗った。 ただし、これは
官途名乗りであって、朝廷の任命する国史としての実質や、甲斐国(現山梨県)との関係は一切
ない。三吉は当山の諸堂を再建し、永禄九年(一五五六)六月二十八日に落慶入仏供養を行った
と伝えられる。 これはまた一説に、同元年に係るともいう。 これより先、天文七年(一五三八)に
生実御所源義明と相模小田原の北条氏綱とが戦ったとき、堂宇や文書・記録類がことごとく失わ
れたといわれており、それを復興したということであろう。
具体的な話としては、かつて当山の仁王門にある密迹・金剛の仁王尊像が素木造りであったの
を、大力を授かった礼として朱塗りに改め、田地を寄進したという。この田地は寺台にあって、
小字名を仁王面というが、おそらく仁王免であろう。】 
 (P153~154)


部屋住みでありながら家康に引き立てられて京・伏見の御番頭となった三吉は、すっかり舞上
がってしまったのでしょう。
勢いづいての乱暴狼藉を注進され、亡くなった父・英氏の跡を継いで寺台城主となったものの、
討手を差し向けられて無念の切腹をした三吉。
制咤迦童子による蘇生伝説や、仁王との格闘伝説が物語るように、成田山を深く信仰した三吉。
領民に慕われ、後世にまで語り継がれる一面を持つ三吉。

私は、力を持て余してついつい乱暴を働いてしまうが、直情径行型の気のいい大男(昔はこんな
ヤツがいたなあ)を想像してしまいます。


***境内ー20





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人とその歴史 | 13:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
気になる石仏~馬に乗った馬頭観音

馬乗り馬頭-12

     聖観音のように見えますが、実は「馬頭観音」です。

今回は、「気になる石仏シリーズ」の馬頭観音編で、馬に乗った観音様「馬乗り馬頭観音」です。
「馬乗り馬頭観音」は、千葉県の東総地区と上総の木更津周辺地域にのみ見られると言っても
過言ではない、とても珍しい石仏です。(他には、長野県、群馬県をはじめ、9都県に合計30基
ほどが確認されているだけのようです。)


馬乗り馬頭-4  香取市神生「観音寺」
馬乗り馬頭-23  香取市鳩山「円満寺」
血当寺ー18  香取市下小川「血当寺」

今回は、以前に取材で何回か訪れたことがある、旧山田町(現香取市)の「観音寺」と「円満寺」、
旧小見川町(現香取市)の「血当寺」の3基を紹介します。

馬頭観音については「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 幻冬舎)に次のように解説されています。 
【 サンスクリット語でハヤグリーヴァといい。文字どおり「馬の頭を持つもの」という意味。天馬
のように縦横無尽に駆け巡り、困難を乗り越えて衆生を救済する。】
 (P119)

馬頭観音は、観音像に見られる穏やかな表情ではなく、怒りの表情をしているため、「馬頭明王」
と呼ばれることもあります。
また「馬頭」という名前から、民間の信仰では馬の守護仏として祀られることが多く、さらには馬
に限らずあらゆる畜生類を救うとされて、「六観音」では畜生道を化益する観音とされています。

近世になってから、牛に代って馬が人の移動や荷物運びの手段として使われることが多くなる
とともに、馬の事故死も増加してきました。
慣習として地域の役馬を供養するために建てられた馬頭観音塔もあれば、愛馬の死を悲しんで
建立された馬頭観音塔もあります。
急坂の途中にある石塔は、きっと後者のものでしょう。

成田街道ー106
成田街道ー29 
     旧成田街道酒々井町大崎の急坂途中にある馬頭観音

押畑稲荷ー3
押畑稲荷ー71
     旧水戸街道押畑の山中に建つ馬頭觀音(享和三年)

松崎街道ー25
松崎街道ー32  
     旧松崎街道観音堂の急坂途中にある観音堂の馬頭観音

これらは、愛馬を失った悲しみと、後悔の気持ちがこもった供養塔なのでしょう。


まずは、2016年5月に紹介したことがある、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」です。

馬乗り馬頭-19
***************馬乗り馬頭-2

【 神生、向油田にある。本尊に馬頭観世音菩薩をまつる。下総七牧の一つ、油田牧の内にあり、
馬観音として信仰されてきた。】
 (「山田町史」昭和61年 P1345)


山田馬頭ー32

本堂に向かって左手に「馬乗り馬頭觀音」があります。


馬乗り馬頭-3
山田馬頭ー23

立っている二基は刻まれた文字が読めますが、倒れている二基は枯れ草や土に埋もれ、風化も
進んでいて、「馬頭観世音」の文字のみがかろうじて読めるのみです。


馬乗り馬頭-5

この石仏は風化が余り見られず、刻まれた文字も読むことができます。
観音像の左側には「安永六丁酉」、右側には「六月吉日」と刻まれ、左下に「小見川 弥兵衛
苗谷」、右下に「宮ノ内栄■ 新田」と刻まれています。

安永六年は西暦1777年、243年も前のものです。


馬乗り馬頭-6

右手に三叉、左手に未開の蓮を持ち、馬上に趺坐しています。
普通、頭上には馬の頭があるのですが、この像は宝冠を被っていて、顔つきはとても柔和です。
馬に乗っていなければ「観音菩薩」と見分けがつかないでしょう。


馬乗り馬頭-7
馬乗り馬頭-16
山田馬頭ー21 2016年5月撮影

本堂の扉に空いた小さな窓から、御前立ちの「木像馬乗り馬頭観音」が見えますが、馬上で趺坐
する姿は、後ろの厨子内に安置されている本尊と同じ像容と言われています。
そして、この石造馬乗り馬頭観音像も、ほぼ同じ像容に見えます。


馬乗り馬頭-8
馬乗り馬頭-9

隣の倒れかけた小さな石仏には、「元治元甲子十二月」「内山村」と刻まれています。
馬頭観音が馬に跨がっている跨座型です。

元治元年は西暦1864年、徳川家茂の時代で、新撰組の池田屋事件や禁門の変など、幕末の
騒然とした世情でした。


馬乗り馬頭-12
馬乗り馬頭-13

馬頭観音に似合わぬ柔和な表情や、観音を支える馬の表情など、他の馬乗り馬頭観音に比して
丁寧な彫りに思えます(風化が進んでいないせいもあるでしょうが)。



次は鳩山の円満寺の馬乗り馬頭観音です。

「円満寺」については、「山田町史」の以下のように紹介されています。
【 鳩山字イリグチにあり、本尊は阿弥陀如来をまつる。浄土宗に属しているが、現在の堂舎を
解体し境内に青年館を建築して、本尊仏をここに安置している。】
 (P1346)


馬乗り馬頭-32
馬乗り馬頭-20

小さな子安観音堂の脇に6基の石仏が無造作に並んでいます。


馬乗り馬頭-21

左奥の1基が「馬乗り馬頭観音」です。


馬乗り馬頭-22

「安永五申七月吉日」「鳩山村中」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」の1年前のものです。

馬に跨がる跨座型で、馬の足が長くスッキリとした印象です。


馬乗り馬頭-24

一面二臂で根本馬口印を結んでいます。
ややうつむき加減の表情は、眉がつり上げた忿怒相にも見え、柔和な表情にも見えます。


馬乗り馬頭-26

頭上には宝冠のようなものを被っていますが、もともとは馬頭が彫ってあったものが風化して
しまったのかもしれません。


馬乗り馬頭-25

馬の表情もしっかり彫ってある印象です。


馬乗り馬頭-31
馬乗り馬頭-23

風化とともにウメノキゴケがつき、劣化が進んでいます。
如意輪観音像や青面金剛像など、境内を整理したときに寄せ集めたのでしょうが、もう少し
保護が欲しいところです。



次は、血当寺の「馬乗り馬頭観音」です。

【 東光院血当寺 小見川町下小川に在り、境内七三二・六平方メートル、天台宗東叡山派で
薬師如来を本尊とする。永禄十年(一五六七)成毛宗正父宗親戦死の地に英霊を弔うために
東光院血当寺と称した。間口六間奥行四間半であったが腐朽し、現今これを改造した。】

(「小見川町史通史編」 平成3年 P1146~7)

馬乗り馬頭-33

参道の左側にずらりと石仏が並んでいます。
手前から二基目が「馬乗り馬頭観音」です。


馬乗り馬頭-34

残念ながら全体の3分の1程度がコンクリーで固められ、像容の全体を見ることができません。
跨座型の一面二臂で、頭上に宝冠を被っています。


馬乗り馬頭-35

「廿三□待」(□は夜の異体字)、「安永五丙申吉日」、「小川村」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、円満寺の馬乗り馬頭観音と同じ年、観音寺の1年前です。
旧山田町・旧小見川町近辺の馬乗り馬頭観音は、安永年間に集中的に建立されたようです。


血当寺ー18 2016年5月撮影
馬乗り馬頭-36 2020年10月撮影

4年の間にウメノキゴケの範囲は広がっています。

古い写真を見ると、この像の馬には四本の足が刻まれている、とても珍しい像容でした。
コンクリートを剥がしての復元は難しいでしょうが、せめて、円満寺の馬乗り馬頭観音同様、
ちょっとした保護活動が欲しいものです。


馬乗り馬頭-37
血当寺ー16  2016年5月

昨年、一昨年と続いた台風の影響でしょうか、堂宇は傾き、「崩壊危険」の立て札がありました。
東日本大震災以来、どこも文化財の復旧・保護が進んでいないようです。



「観音寺」  香取市神生1473-1
「円満寺」  香取市鳩山502-1
「血当寺」  香取市下小川1584



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馬頭観音 | 12:30:54 | トラックバック(0) | コメント(18)
気になる石仏~お神楽を踊る三猿
青面金剛-14
青面金剛-13

さて、この景色は何でしょう?

竜台にある「百庚申」です。
竜台は成田市の西北、栄町と利根川に接する地域で、昭和29年の昭和の大合併で成田市に
編入となるまでは豊住村竜台でした。
昭和43年に茨城県の河内とを結ぶ長豊橋が完成するまでは「竜台の渡し」がありました。


竜台稲荷ー1
                     (おはつ稲荷 2016年4月撮影)

百庚申へは、国道408号線が長豊橋に向かって大きくカーブするあたりを左に入るのですが、
入り口は道なのか民家の庭なのか、分かりにくい所です。
でも、ちょっと奥をのぞくと、「おはつ稲荷」が見えます。

青面金剛-12

「おはつ稲荷」の先を進むと、畑の一角のようなところに、「百庚申」が現われます。

庚申塔には大きく分けて「文字塔」と「青面金剛像塔」があり、「文字塔」には「庚申塔」と刻まれた
ものと「青面金剛」と刻まれたものがあります。
青面金剛像は六臂三眼の忿怒相が標準形ですが、二臂や四臂像もあり、持物にもいろいろな
バリエーションがあります。


青面金剛-53

ここでは文字塔が大部分で、像塔は15基だけです。
成田市内には百庚申と呼ばれている場所が4ヶ所ありますが(宝田・後、宝田・秋谷津、西和泉、
竜台)、いずれも文字塔のほうが多く見られます(※)。

(※)2016年4月の「成田の百庚申」の記事 クリック ☞ 成田の百庚申


青面金剛-55

奥の方に非常に珍しい庚申塔があります。


青面金剛-51

嘉永七年(1854)十月の文字塔ですが、台座部分に「三猿」が彫られています。
しかも、その三猿は、一般的に見られる「見ざる・聞かざる・言わざる」の形ではなく、なんと、
お神楽を踊っているのです。


青面金剛-60

   分かりますか?

青面金剛-59

いずれも烏帽子をかぶり、右の猿は扇を持ち、真ん中の猿は御幣を担いで舞い、左の猿は太鼓
をたたいて囃しています。

この庚申塔が建立された嘉永七年(1854)は、ペリーが再来して江戸湾に入ったり(2月)、日米
和親条約が結ばれ(3月)、下田・箱館の開港(5月)など、幕府の外交上大きな変革がありました。
4月には京都大火により御所が焼失、また、前年の小田原地震に続き、伊賀・上野地震(6月)が
発生するなど、世の中は暗澹とした雰囲気に包まれていました。 (※)

そんな時に、この庚申塔が建立されたことにはとても興味を惹かれます。

 (※) さらに11月には安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震と大地震が連続したため、
     11月末に「嘉永」は「安政」へと改元されました。
 (当時は改元は1月まで遡って行われていたため、東海・南海地震は安政の地震と呼ばれます)


青面金剛-2

【三尸の虫を酒肴でもてなし、踊るほど酔わせて天帝に報告させないようにすると、洒落をきか
したものであろうか。この像を眺めていると、当時の農民の心の豊かさを感じることであろう。】

(「成田の史跡散歩」 P148)
不安を吹き飛ばそうとして、このような三猿を彫ったのか、それとも世情とは関係なく、庚申講が
今や宗教行事ではなく、仲間内の単なる「飲み会」になっていることを皮肉たっぷりに表したのか、
あるいは、実は真剣に三尸虫が天帝に告げ口することを封じるために(※)、猿を楽しげに舞い
踊らせることで気をそらそうというのか、・・・ 今になっては知る由もありません。
いずれにしろ、江戸時代の庶民のユーモアのセンスはなかなかのものです。

(※)三尸虫については以前にも何回か記していますので、「追記」に簡単に説明しておきます。


青面金剛-3

       烏帽子をかぶり扇を持って踊る猿

青面金剛-4

      烏帽子をかぶり御幣を担いで踊る猿

青面金剛-5

      烏帽子をかぶり太鼓をたたいて囃す猿


青面金剛-56

この文字塔の左右には二基の像塔が並んでいます。


青面金剛-57

向かって右の塔には、「安政六○未十二月」と刻まれています。
安政六年は西暦1859年、中央の庚申塔の5年後に建立されました。
前年(安政五年)には「安政の大獄」翌年の安政七年には「桜田門外の変」と、政治の混迷が
加速し、後に幕末と言われる時代の入口に差しかかっていました。


青面金剛-58

向かって左の塔には、「大木徳兵衛」「○政六年○未十二月」と刻まれています。
元号の後ろが「政」で六年が未年なのは安政六年(己未)と文政六年(癸未・1823)ですが、
右側の青面金剛像との照合や、ここの百庚申の庚申塔の大部分が安政年間のものである
ことから、安政六年の建立と考えてよいと思われます。


青面金剛-52

整然と並んだ庚申塔は大小の文字塔と像塔が混在し、文字塔85基、像塔15基の構成です。
(一基だけ、如意輪観音像が紛れ込んでいます)


竜台稲荷ー17

「青面金剛尊」の文字が深く刻まれたこの庚申塔は寛政十二年(1800)のもので、百基の
中で一番古い、220年前のものです。



青面金剛-62
青面金剛-7


この庚申塔が完成したとき、庚申講の人達はどんな顔をしてお神楽を踊る猿を見たのでしょうか。
ニヤリと笑っていたに違いありません。

お神楽を踊る猿の構図を考えた庶民と、それを咎めなかったであろう村役人(?)の、おおらかで
伸びやかな精神は、騒然とした時代の大波を横目に、しぶとく、たくましく生きていたのでしょう。




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庚申塔(文字塔) | 19:00:28 | トラックバック(0) | コメント(8)
気になる石仏・青面金剛(2)~押畑の山中に佇む三基の金剛像

今回は気になる”石仏シリーズ”青面金剛編の2回目です。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛
像」が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」 (瓜生 中 著 平成16年
幻冬舎)では次のように解説しています。
『 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病
神として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を
身につけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られ
るのは六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになった
のは、中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。』 (P224)



押畑の山中、「押畑稲荷神社」を越えた先の三叉路に、三基の「青面金剛像」が建っています。
普段は人の通らないような道ですが、昔はそれなりに主要な道だったようです。


青面金剛-36

真っ直ぐに進む道は昔は先まで続いていたようですが、今はすぐに竹林に阻まれてしまいます。
左に折れる道(子安神社が見えています)は、延々と山中に伸びています。


青面金剛-15

直進する道端に建つ「青面金剛」像。
延宝八年(1680)の建立です。
この年は、四代将軍家綱が亡くなり、綱吉が五代将軍になりました。
延宝五年から六年にかけて、三陸や房総沖などで立て続けに大地震があり、世相は落ち着が
ない空気に包まれていました。

「下総國香取郡埴生庄押畑村惣結願造立迄敬白」と刻まれたこの像は、340年も前のものとは
思えないほど造形がしっかり残っています。


青面金剛-16

太い眉の迫力ある忿怒相です。


青面金剛-18
*****押畑稲荷ー24

三眼六臂の像は、右(向かって左)上腕は戟を、中腕は剣を、下腕は弓を持ち、左(向かって右)
上腕は法輪、中腕はショケラ、下腕は弓を持っています。


青面金剛-19

シンプルは彫りですが、三猿もしっかり見えます。



押畑稲荷ー18

三叉路の角はちょっとした崖になっていて、その上に二基目の青面金剛像が建っています。
目線よりだいぶ上の位置にあり、竹林にも邪魔されて、見過ごしてしまいそうです。


青面金剛-20

正面には文字らしきものが見当たらないので、子安神社の裏に回ってみました。
足場が悪く、近づくのは危険ですが、側面の「天明■■巳十一月吉日」の文字が読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。

この像が建立された天明五年は、天明の大飢饉の真っ只中でした。
「天明の大飢饉」とは、天明二年から続く天候不順に、同三年の岩木山噴火及び浅間山噴火に
よる大被害が加わり、東北地方を中心に同八年まで続いた近世最大の飢饉です。


青面金剛-23

何となく優しげで、忿怒相と言うより菩薩相のような顔に見えなくもありません。


青面金剛-27

三眼六臂で、右(向かって左)上腕には剣を、下腕には弓を、左(向かって右)上腕は法輪、
下腕は金剛杵を持ち、中腕は合掌しています。


押畑稲荷ー19

足許には踏みつけられた邪鬼が、台座には三猿が刻まれています。



青面金剛-32
青面金剛-28

三叉路の入り口左上に三基目の青面金剛が建っています。
「正徳甲午正月吉日」
「奉造立庚申待下総國香取郡埴生庄」

と刻まれています。
正徳年間で干支が甲午となるのは四年ですので、西暦1714年の建立です。

正徳四年は七代将軍家継の治世で、貨幣の改鋳やあらたな発行などが行われました。


青面金剛-31

頬を膨らませた忿怒相で、ちょっと愛嬌がある顔つきです。


押畑稲荷ー20

三眼六臂の像で、右(向かって左)上腕には戟を持ち、下腕には剣を持ち、左(向かって右)
上腕には法輪、下腕には弓を持って、中腕は合掌しています。


青面金剛-35

三猿は他の二基より大きく彫られています。




青面金剛-37

三基の青面金剛像が見守るこの三叉路は、かつては重要な道だったのでしょう。
今では人通りのない寂しい山道ですが、(地形的にやや無理があるかもしれませんが)旧佐原
街道のような気もしますし、あるいはその支道なのかもしれません。
ここから左にしばらく進んだ先には小さな祠の「白幡神社」があります。


押畑稲荷ー73
押畑稲荷ー74   (平成15年7月撮影)

「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。

大正三年の八生村誌には次のような記述があります。
〔押畑元押旗ニ作ル源頼義奥州征討ノ際、此地ニ次シ、旗ヲ押シ立シヨリ因ミテ押畑ト云フ由。
同地廣臺ニ白幡神社アリ、其跡ナリト云ヒ傳フ。〕
 


また、「千葉縣印旛郡誌」にも、
〔・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・〕
との記述があることから、「白幡神社」は現在の姿はともかく、押畑地区のランドマーク的な存在
であったことでしょう。
その「白幡神社」へと続くこの道もまた、重要な道であったはずです。


三基とも六臂像なのですが、持物は少しずつ異なり、同じ物でも持つ手が異なっています。

押畑稲荷ー23  
***押畑稲荷ー19  
******押畑稲荷ー20  

今から340年前の延宝八年の青面金剛、その34年後(306年前)の正徳四年の青面金剛、
そして105年後(235年前)の天明五年の青面金剛。

三基の金剛像は、その昔交通の要所であった三叉路を、今も見守っています。


****押畑稲荷ー61




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青面金剛(庚申塔) | 17:33:26 | トラックバック(0) | コメント(2)
千葉県内に3例しかない(?)石造金剛力士像
今回は、気になる石仏シリーズの金剛力士(仁王さま)です。

【「仁王さま」として親しまれている金剛力士像は、釈迦如来の「倶生神」(守るべき相手と同時に
生まれ、生涯を捧げ守護する使命を持つ者)である。梵名の「ヴァジュラダラ(阿形)」と「ヴァジュ
ラバニ(吽形)」は金剛杵を手にする者という意味で、「常に釈迦如来の周囲で金剛杵をとる」
仏法守護神とされる。】 
   (「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・
望月真澄/監修 2016年 宝島社 P147)

【金剛は「金剛杵」の意。あらゆるものを破壊する強力な武器で、金剛力士はこの武器を手に、
仏や信者を敵から護る、忿怒相の夜叉神です。日本では、上半身裸で筋骨隆々とし、血管が
誇張され、忿怒相の躍動感あふれる姿に表すのが主流となっています。敵を退散させる意味で
山門などに二一組で造像される金剛力士は、二つの王の意で仁王とよばれ・・・】

(「仏像の事典」 熊田由美子/監修 2014年 成美堂出版 P73)


石造仁王-1

旧本大須賀村の一坪田(ひとつぼた)に、廃寺となった田中山宝蔵院があります。
現在観音堂として残るお堂への登り口に、二基の丸彫りの仁王像が立っています。


石造仁王-2  (阿 形)
石造仁王-6  (吽 形)

めずらしい石造の仁王像です。


田中山ー26
田中山ー34田中山ー33
                                          (2014年10月撮影)
この仁王像に出会ったのはいまから5年前、偶然通りかかった道端でした。
これまでは、仁王門の格子や金網の中に立つ仁王像ばかり見てきたので、最初はずんぐり
した地蔵菩薩像かと思いました。
近づいてみると、それは初めて見る石造の仁王像でした。


石造仁王-10
田中山ー14田中山ー4

【一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。】

                                     (「成田の地名と歴史」 P365)

寛保三年は徳川吉宗の治世で、歴史上六番目の明るさと言われる「クリンケンベルグ彗星」
が現われた年です。
この彗星は、香取神宮の旧社家である、大禰宜家に伝わる「香取大禰宜家日記」にも記述が
あり、流言飛語が飛び交う不穏な空気の漂う中、二体の仁王像はこの地に建立されたのです。


石造仁王-12
石造仁王-5

左手に金剛杵を持って、口を開いている「阿形」は、諸法や物事の始りを示しています。


石造仁王-11
石造仁王-9

左手は拳を握り右手を開いて、口を閉じている「吽形」は、諸法や物事の終わりを示します。


石造仁王-10

石造仁王-2石造仁王-4
石造仁王-8石造仁王-6

.阿形の仁王像の背面には、次のような文字が刻まれています。

當村施主北崎氏甚右衛門
戒名即翁須達沙弥
奉建立田中山阿吽両躰
法師智元
寛保三癸亥正月廿三日

また、吽形の背面には多くの戒名が刻まれています。
(一部の文字については自信がなかったので、「大栄町の歴史散歩」(久保木良 著 1994年
崙書房 P58~59)に助けを借りました。)


田中山ー35

宝蔵院に関する記録は少なく、「大栄町史」の中でも旧昭栄村域の寺院として、簡単な記述が
あるだけです。

【 宝蔵院 新義真言宗。 一坪田村に所在。 山号は田中山(史話)。 「新義十五」に稲荷山村
大聖寺の門徒寺として載せられている。 元文二年の香奠帳(史料編Ⅲ)に名が見えている。】


元文二年(1737)の香奠帳とは、「元文二年閏十一月 津富浦村実岩良相香奠帳」のことで、
その中に「弐百文 一坪田宝蔵院」と出ています。


石造仁王-13

丸彫りのずんぐりした体型と、忿怒相でありながらことなく表情に愛嬌のあるこの仁王さまは、
約280年もの間「田中山」を護ってきました。
もう寺は廃寺となってしまいましたが、わずかに残った「観音堂」をこれからも守り続けるでしょう。



さて、「成田の地名と歴史」に”石造の二王さまは県内では3例しかない”と書かれていました
ので、他の2例についても見てみましょう。

九十九里町粟生の善福寺にも石造仁王像があります。
若尾山善福寺は寛永二年(1625)の創建と伝えられる顕本法華宗のお寺。
「山武郡郷土誌」(大正五年 千葉縣山武郡教育會)に、豊海村にある善福寺についての記述が
一行だけありました。

【若尾山善福寺 粟生區にあり、顕本法華宗に屬せり。】

本堂の前に二体の立派な石造仁王像が立っています。

石造仁王-42

説明板には次のように書かれています。

【 石造金剛力士像阿吽一対
この金剛力士像は、宝暦一〇年(一七六〇)江戸松屋町の石工上総屋二兵衛の作である。
古文書によれば、宝暦六年、粟生の表飯高十兵衛が蓮沼宮免の収益金を資とし、不足金
八両を助力して造立したが、十兵衛とのみ刻して第六天社に奉納したため、村内から苦情
が出、台座の文字を「惣氏子 助力願主飯高氏」と刻みなおして決着したという。金剛力士像
は寺門の左右を警護することから、後に別当の善福寺に移され、近年の寺堂改修際、現在
の位置に安置されたものである。】



石造仁王-38
石造仁王-39
                                                  (阿 形)

石造仁王-36
石造仁王-37
                                                  (吽 形)

阿吽両像の台座には、次のような文字が刻まれています。
前面に、「宝暦十歳庚辰改」「惣氏子」
側面に、「助力願主飯高氏」


石造仁王-27石造仁王-29
石造仁王-26石造仁王-24
石造仁王-43

一坪田の仁王さまと比べると、筋骨隆々の忿怒形という標準型の仁王さまです。



そしてもう一つの石造仁王像が旭市にあります。
( ※ 私はこの旭市の石造仁王像が一坪田・九十九里に続く3例目だと思っていましたが、
3例目は上総勝浦の長秀寺にあるとの記述を目にしました。 いつか機会があれば訪ねて
みたいと思います。)


石造仁王-46

旭市の「成田山真福寺」にある石造仁王像は、不動明王を護るように立っています。


石造仁王-19
石造仁王-22
                                                (阿 形)

石造仁王-18
石造仁王-21
                                                (吽 形)


石造仁王-55  
石造仁王-54

「旭町史 第2巻」(旭市史編さん委員会 1973年)に収録されている成田村の項に、真福寺に
ついての記述があります。

【 真福寺 字田町にある。摩尼山と号し、新義真言宗智山派。銚子市本銚子町(旧飯沼村)
円福寺末。寺伝によると、千葉氏一族の海上理慶が檀越である。理慶は成田に城塁を築き、
軍中の守本尊として聖観音を尊び、応永二年(一三九五)堂宇を造立して、理慶が日頃帰依
していた貞範を開基としたのが寺の草創であるという。文明年間(一四六九ー八七)兵火に
罹ったともいわれている。慶安二年(一六四九)十月朱印地一〇石を賜った。もと境内の東南
小塚の上に、海上公胤(理慶)の墓があったが、のち滅失したという。】
  (P118)


石造仁王-47
石造仁王-49石造仁王-51
石造仁王-52石造仁王-48

建立の日付らしき文字がうっすらと見えますが、風化で読み取ることはできません。
宝蔵院や善福寺の仁王像のような丸彫りではない分、やや迫力に欠けますが、忿怒の表情や
力一杯開いた手の形は、仏法を守護する神としての姿を十分に現しています。


石造仁王-4石造仁王-8
石造仁王-29石造仁王-26
石造仁王-49石造仁王-48

ふつう、木造の仁王さまは仁王門の中に立っています。
屋根があるとはいえ、風雨に晒される環境ですから、どうしても傷みが進みますが、その点、
石造りの仁王さまは長持ちがします。
細かい細工や彩色には向きませんが、大分県の国東半島のように、もっとたくさん造立例が
あってもよさそうな気がします。

「仁王」は、もとはインドの執金剛神(しつこんごうしん)という一体の神でしたが、インドから
中国を経て日本に伝えられる中で、二体となって「仁王」と呼ばれるようになりました。
日本語の五十音はサンスクリット語のアルファベットから生まれたと言われています。
仁王の「阿」は、サンスクリット語でも「ア」で、、「吽」は「ン」です。
「仁王さま」は恐い顔で立っているだけではありません。
私たちの日常に深く関わる存在なのですね。

  

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金剛力士(仁王さま) | 20:56:11 | トラックバック(0) | コメント(2)
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