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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏

長い間ご無沙汰しておりました。
この間の事情は追記に簡単に記しておきました。
以前よりスローペースになると思いますが、再開させていただきます。
今回は、以前から気になっていた、成田山の石仏です。



成田山の外周路に、ひっそりと佇む石仏があります。

額堂-100

光明堂裏辺りの外周路。
寄進された金額や奉納物が刻まれた、大きな石碑が立ち並ぶ一角に、隠れるようにして
その四体の石仏はあります。


成田山石仏-12
成田山石仏-61

もともとこの外周路を歩く人は少ないうえに、大きな奉納碑や記念碑に囲まれているので、
気付く人はほとんどいません。

成田山の境内には多くの奉納碑、記念碑、修行碑、句碑などが立ち並んでいます。

大本堂裏の築山には不動明王の眷属(けんぞく)童子群が並んでいますし、光明堂・開山堂・
額堂に囲まれた一角には、不動明王像や矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せい
たかどうじ)を従えた三尊像が複数見られます。 

成田山石仏-81
成田山石仏-76
**********成田山石仏-77
成田山石仏-79
**********成田山石仏-80
成田山石仏-82
***************成田山石仏-84

ただ、不思議なことに、どこのお寺でも普通に見られる観音菩薩や地蔵菩薩のような石仏を
目にすることはありません。
広い境内のどこかに立像や坐像が隠れているのかも知れませんが、私はこの四体の石仏
以外には見つけることができていません。


成田山石仏-60

これらの石仏には、この場所にある必然性も、配置の意味も感じられなく、あちこちに分散して
あったものを境内の整備などの事情で、とりあえずここにまとめて置いたように見えます。



一体ずつ見てみましょう。

成田山石仏-3
成田山石仏-126
***************成田山石仏-48

左端に立つのは庚申塔の青面金剛像です。
顔から上半身にかけて大きく削り取られています。
右側面には文字が刻まれていますが、風化と欠損で、わずかに「本尊」と「八月吉日」の文字
が読み取れるのみです。


成田山石仏-2

この青面金剛像をよく見ると珍しい一面八臂像です。

今までこのブログでたくさんの青面金剛像を見てましたが、どれもが一面六臂像でしたので、
これは初めて見る八臂像です。
正面の二臂は削られていますが、合掌している様子がかすかに残っています。


駒井野道祖神-6 「駒井野道祖神」の青面金剛像
大鷲神社ー7 北羽鳥「大鷲神社」の青面金剛像
東陽寺ー2 野毛平「東陽寺」の青面金剛像
芦田八幡ー20 芦田「八幡神社」の青面金剛像

通常、六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を六臂全てに持つか、四臂で
いずれかを持って、残る二臂で合掌しています。
忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。


成田山石仏-125

この八臂像は、六臂で持物を持ち、さらに合掌する二臂が加えられています。


成田山石仏-4

邪鬼と三猿の部分も風化や欠損ではなく、削られた痕があります。
顔から上半身、邪鬼と三猿、いずれも廃仏毀釈の嵐に揉まれたことによるものでしょう。

この像にはもう一つ変わった部分があります。
ふつう金剛像の足許の左右に刻まれる鶏が、三猿の下に刻まれているのです。


成田山石仏-47

三猿を刻むのは、庚申の申(さる)にかけて、三尸(さんし)に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝への告げ口をさせないようにするためだと言われ、鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを
表しているとか、十二支の申(さる)の次に来る酉(とり)の日になるまで起きていることを表し
ているとか言われていますが、この位置に鶏があるのは初めて見ます。


成田山石仏-100

この珍しい青面金剛像の建立年代が分からないのは、とても残念です。
(庚申や庚申塔については度々書いてきましたが、「駒井野の道祖神と石仏群」の項に書いた
解説を参考までに追記に載せておきます。)


金剛像の隣にある石仏には大いに迷わされました。

成田山石仏-7

一見、観音菩薩像と思いましたが、なにか違和感があります。


成田山石仏-44
成田山石仏-58

頭部は隣の青面金剛像と同じく、廃仏毀釈により落されたようです。
修復の痕が痛々しい姿です。


成田山石仏-45

今は失われていますが、頭上には宝冠のようなものが載っていたようです。


成田山石仏-8

宝冠をかぶり、左手に蓮華、右手は与願印を結ぶこの石像は「虚空蔵菩薩」と思われます。

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)とは、無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味で、智恵や
知識に関するご利益をもたらす菩薩です。

この石像は、いろいろ比較してみると、京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵菩薩立像」にとても
良く似た像容です。
醍醐寺の虚空蔵菩薩像は、長らく「聖観音像」と伝えられてきましたが、平成27年に「虚空蔵
菩薩」であることが判明しました。
一見、観音菩薩と見誤るのは当然と言えば当然ですね。


多門院ー40 吉倉・多門院の虚空蔵菩薩
耕田寺ー43 村田・耕田寺の虚空蔵菩薩

上の虚空蔵菩薩像はいずれも十三夜の月待塔に本尊として刻まれたもので、この石像の
ような単立像は珍しいものです。


額堂-46
***************成田山石仏-57

「月待塔」の可能性もあるので、刻まれた文字を探しましたが、「寛文十一年」の文字が読める
だけで、月待らしき文字は見当たりません。
寛文十一年は西暦1671年、約350年も前のものです。
この年には歌舞伎の「先代萩」や映画・小説でも多く題材にされている「伊達騒動」がありました。


手前にある坐像は「十一面観音」です。

額堂-101

この観音菩薩は、十種の現世利益(十種勝利)と、四種の来世利益(四種果報)をもたらす
とされています。
【<十種の勝利>(一)病気せず、(二)つねに諸仏に憶念され、(三)財物や衣服飲食に欠乏
せず、(四)すべての怨敵を破り、(五)衆生の慈悲心をおこし、(六)虫害や熱病、(七)刀杖に
害されることがなく、(八)火難、(九)水難をのがれ、(十)横死しない、ことの十種である。
<四種の果報>(一)臨終の時に諸仏を見ることができ、(二)地獄に堕ちず、(三)禽獣に害
せされず、(四)無量寿国に生まれることができることの四種である。】
(「目でみる仏像事典」 田中義恭・星山晋也著 P275)


成田山石仏-5

「十一面観音」はヒンドゥ教のシヴァ神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の変化身
の一つです。
頭部に十一の顔を持ち、正面の顔は修行によって得られた如来の境地を表し、他の十面は
修行中の菩薩を表しています。 

【菩薩の顔が三面、忿怒の顔が三面、牙を持つものが三面、暴悪大笑と称するものが一面】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生 中著 P112)


ただ、この十一面観音像には忿怒相は見当たりません。

成田山石仏-124 正 面
成田山石仏-38 左側面
成田山石仏-39 右側面

頭上に三面、額上に五面、左右側面に一面ずつ刻まれ、本面を含め全て菩薩面です。
頭頂部には削られたような痕があるので、もともとはここに阿弥陀如来の化仏が載っていた
のかもしれません。


成田山石仏-36
成田山石仏-121

十一面観音の像容は、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つ形が
多いのですが、この観音像には持物はなく、両手は膝上で変わった印を結んでいます。


成田山石仏-56

掌を上に、親指と中指を付ける「上品中生」の印を両手を離して膝上に置く形で、いろいろ
調べても該当する印相が見つかりません。
「上品中生」の変形とでも言うのでしょうか。

「仏像印相大事典」(秋山昌海 著 昭和60年)にあった、
【・・・もうひとつ、わが国の観音像は、蓮華を持つことでは、ほとんど例外がないほどで変わり
ばえしないのに、印のかたちはまちまちで、これは、印については、観音像というものがかなり
自由に、形式にわずらわされずに造られていたことをものがたる。】
 (P321)
という文章に納得して、”自由に、形式に囚われずに彫られた”像だとしておきましょう。

足は半跏趺座に組んでいます。

全体のバランスがあまり良くないので、印の部分等が補修されて、もともとの形から違って
しまったのではないか・・・と、何度も見ましたが、その痕跡はありません。


右端は、亀に乗った珍しい石仏です。

成田山石仏-9
成田山石仏-53

一見、妙見菩薩のように見えますが、乗っているのは妙見菩薩が乗る玄武ではなく、亀です。


成田山石仏-10
成田山石仏-34
**********成田山石仏-33
成田山石仏-51

どこを見ても蛇と合体した玄武の痕跡はありません。


成田山石仏-32
成田山石仏-31

左手に持っているのは薬壺のようです。
とすれば、これは亀に乗った薬師如来だと思われます。


額堂-45

亀乗藥師如来は浦安の「東学寺」(坐像)や京都の「亀龍院」(立像)のものが知られていますが、
全国的にあまり例がありません。


額堂-43

この四体の珍しい石仏について、何も資料が見つからないのはとても残念に思い、何度も
現地を訪ね、思いつく資料を片っ端からあたってみました。
そして、奇跡的に「成田山新勝寺史料集 別巻」(成田山新勝寺 平成20年)の巻末にある
「金石一覧」表の中に、この四体の石仏が記載されていることを見つけました。
境内にある全1442件の金石について、1件1行ずつの記載です。
なお、代表的な270件については本文中に詳細な記述があります。

10  庚申塔         年代 ―   奉納者 ―   位置   97
811  十一面観音像     年代 ―   奉納者 ―   位置   98
812  聖観音像        年代 ―   奉納者 ―   位置   99
813  獏に觀音像      年代 ―   奉納者 ―   位置  100


いずれも年代、奉納者ともに不詳とされていて、「虚空蔵菩薩像」と見た石仏は「聖観音像」、
「亀乗薬師如来像」と見た石仏は「獏に観音像」と書かれています。


成田山石仏-111

ここで「聖観音」とされてる石仏は、その像容と、前述した”京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵
菩薩立像」”の例を踏まえて、私としては「虚空蔵菩薩像」であるとしたいと思います。
年代不詳となっていますが、よく見ると寛文十一年の文字が読み取れます。

【密教で発達した菩薩で、真言宗などでは虚空蔵菩薩を本尊として、さまざまな修法が行わ
れる。 また、この菩薩を本尊として記憶力を高める求聞持法という修法も古くから行われ、
弘法大師も若いころこの法を行ったという。】
【また、大日如来を中心とする五仏の化身として、五大虚空蔵菩薩が造られた。 このほか、
飛鳥時代に造られた聖観音に、虚空蔵菩薩と呼ばれるものがある。 中世以降、虚空蔵菩薩
の信仰が盛んになるにつれて、そのように呼ばれた。】(
「仏像鑑賞入門」瓜生 中著 P104)

このように、真言宗・大日如来と虚空蔵菩薩との関連を考えれば、虚空蔵菩薩像が成田山
新勝寺の境内の片隅に置かれていても不思議はないでしょう。
(大本堂の回廊を裏側に回れば、裏仏として、不動明王の本地物である大日如来像とともに
虚空蔵菩薩像と聖徳太子像が安置されています。)


次に、「亀乗薬師如来」と見た石仏が、「獏に観音」とされている件ですが、「獏に観音」とは
聞き慣れない名前です。
仏像に関する本や仏教辞典類などを見ても、この名前は出てきません。

成田山石仏-93

”最後の望み”で「成田山仏教図書館」を訪ね、質問をしてみました。

答えは意外にも、
”いろいろ調べても分からなかったので、見た目の印象を記したのだろう。 こういうことは
ままある。” というものでした。
「獏に観音」という観音は無く、たまたま調べた人が確信が持てなかったので、像容の印象
から、仮に「獏に」と名付けた、ということらしいのです。
それにしても「獏に」とはどういう印象なのでしょう?

恐いもの知らずの素人が、ここはちょっぴり勇気を持って「亀乗薬師如来」としたいと思います。


額堂-42

境内の片隅に、片付けられたかのように佇む四体の石仏ですが、よく見ればそれぞれに興味
深い特徴があり、見飽きません。

境内の片隅にひっそりと佇む四体の石仏。
成田山裏門の駐車場から境内へと上る坂道を、奥山広場に入らずにまっすぐ上って行き、
額堂の裏側を過ぎて、光明堂の裏側辺り、薬王寺に下る細い坂道の手前左側に見えます。




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ちょっと寄り道 | 16:47:28 | トラックバック(0) | コメント(10)
しばらくお休みします。

気力、体力の問題で、このブログをしばらくお休みにさせていただきます。

いずれ再開するつもりですが、いつになるかはまだわかりません。

いつもお読みいただいている皆様には、勝手を申しますがお許しください。


薬師寺-104
薬師寺-103
                                         船形・薬師寺 藥師如来




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未分類 | 21:06:55 | トラックバック(0) | コメント(8)
ちょっとしたスポット~駒井野の道祖神と石仏群
成田空港のA滑走路の西側、「さくらの山」近くの森の中にポツンとある、「駒井野の道祖神と
石仏群」を訪ねます。

駒井野道祖神-1

県道44号線の「さくらの山」信号と京成空港線のガード下の間にある脇道を入って、少し進むと、
左手に鳥居と十数基の石造物が見えます。
石の鳥居は、円柱の笠木に角柱の貫が特徴の「靖国鳥居」です。


駒井野道祖神-2
駒井野道祖神-5

正面に石宮の道祖神が鎮座しています。
社号も紀年銘もありませんが、後述の「遷座記念碑」の碑文から、この石宮が「道祖神」である
ことが分かります。


駒井野道祖神-3
****駒井野道祖神-4

側面には龍の彫刻が施されています。


駒井野道祖神-8

道祖神の石宮の後には、風化が進んだ小さな道祖神が置かれています。


駒井野道祖神-30

そして、境内の右端には、嘉永元年(1848)の銘がある「道祖神」があります。
周りには小さな道祖神が二基置かれています。

この数基の道祖神が、もともと駒井野に散在していたもので、中央の石宮はこの地に遷座
したときに建立されたもののようです。


駒井野道祖神-6

道祖神の手前左側には、青面金剛像が立っています。
これは「庚申塔(こうしんとう)」と呼ばれます。
これまで何度か庚申塔について書きましたが、あらためてもう一度まとめておきましょう。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。

「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
人の体内には、生まれたときから上尸、中尸、下尸の三種の三尸虫がいて、庚申の日の夜に
眠っている人の体内から抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めさせる
と言われています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、三年(十八回)続けると「庚申塔」を建てることができます。

庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
「 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。」
 (P224)

六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、
左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。


駒井野道祖神-31
駒井野道祖神-33
駒井野道祖神-34 


駒井野道祖神-32

寛政十二年(1800)の紀年銘があり、側面には次のような文字が刻まれています。
「西 なりた 北 こまいの」「東 とつこう 南 はたけた」
道標を兼ねていたようですが、「とつこう」は取香、「はたけた」は「畑ケ田」だと思われます。


駒井野道祖神-10
駒井野道祖神-53

道祖神や青面金剛像の左手に、十数基の石造物がまとめられています。
中央の五輪塔には紀年銘がありませんが、道祖神の石宮と同じく、この地に遷座したときに
建立されたもののようです。


駒井野道祖神-11

「馬頭観世音」と刻まれたこの石碑には紀年銘がありません。
これも、この地に遷座したときのものでしょう。


駒井野道祖神-12
駒井野道祖神-35

右は馬頭観音の文字塔、左は馬頭観音の像塔です。
文字塔は昭和22年、像塔には「寛政三辛亥」の紀年銘が刻まれています。
寛政三年は西暦1791年、第十一代将軍・徳川家斉の治世です。

約230年前のものにしては、風化が少なく、冠の馬頭がはっきり分かる珍しい観音像です。


駒井野道祖神-14

五輪塔の左側に並んでいる石造物はいずれも墓石のようです。


駒井野道祖神-38

風化が進んでいますが、「宝永三」と読めます。
宝永三年は西暦1706年、310年も前のものです。


駒井野道祖神-39

こちらも「宝永三戊」と読めます。


駒井野道祖神-40

「・・童子」とあるので、子供の墓石のようです。
「宝曆十庚辰」と刻まれています。
宝暦十年は西暦1760年、第九代将軍徳川家重の治世です。


駒井野道祖神-50

宝暦七年(1757)の墓石。
「・・・定門 ・・・定尼 霊位」と刻まれています。

「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院」表によれば、駒井野地区の寺院は
天台宗の「髙福寺」(山之作・円融寺末)と、真言宗の「法蔵寺」(吉岡・大慈恩寺末)の二寺
のみで、高福寺は新駒井野に移転して存続し、法蔵寺は明治初期に廃寺となっています。
状況から考えると、廃寺となった「法蔵寺」にあった墓石ではないでしょうか。


駒井野道祖神-36

五輪塔の右側にも三基の墓石が並んでいます。


駒井野道祖神-51

左は寛政十年(1798)のもので、・・・權律師(ごんのりっし)と読めますので、お坊さんの
墓石です。
「權律師」は僧侶の位(僧階)の最下位の名称です。
ちなみに、僧階は上位から次のようになっています(宗派によって多少の違いがあります)。
【 大僧正・権大僧正・中僧正/僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都
中僧都/僧都・権中僧都・少僧都・権少僧都・大律師・中律師/律師・権律師 】

右の墓石は享保七年のもので、風化と苔で読みにくくなっていますが、「・・・照誉道光・・」
「・・・開眼道了・・」と読めるような気がします。
享保七年は西暦1722年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


駒井野道祖神-52

こちらの石仏は風化と欠損により、年代等は不明ですが、地蔵菩薩であると思われます。


駒井野道祖神-15

五輪塔の後方には「子安地蔵尊」があります。
明治十三年(1880)の建立です。


駒井野道祖神-17
駒井野道祖神-60

50メートル先は空港の滑走路です。


駒井野道祖神-61
******駒井野道祖神-62
***********駒井野道祖神-63
駒井野道祖神-64
******駒井野道祖神-66
***********駒井野道祖神-67

ここはちょうどA滑走路の離陸スタートポイントになるため、次々と一気にエンジンを吹かして
走り始める旅客機が現れます。
障害物の間から見ていると、機体は一瞬で走り去り、轟音だけが襲ってきます。


駒井野道祖神-9

遷座記念碑には次のような言葉が刻まれています。
「遷座記念碑
我等が先祖より、居住の地は昭和四十一年新東京国際空港の用地と決定した これに
伴ない昭和四十八年八月区民の柱の一つとして崇拝している道祖神等をこの地に合祀し
遷座祭を執り行なう ここに記念の碑を建て永く駒井野区民の加護を祈念する」



駒井野道祖神-18
駒井野道祖神-37
駒井野道祖神-16

空港の工事により、駒井野の道端や林の中に散在する道祖神や石仏、墓石等が失われ
ないよう、この地に集めて、離散する住民の心の拠り所としようとしたのでしょう。
しかし、絶え間なく航空機の離着陸の轟音が響くこの地に、人家は消えて、今は訪ねる人
もなさそうです。

過疎化で忘れ去られて草むす石仏や石碑もあれば、やむを得ない事情によって元の土地を
追われて離れた場所に移り、人と引き離されて忘れられて行く石仏や石碑もあります。


駒井野道祖神-0

                 ※ 駒井野道祖神と石仏群  成田市駒井野1393-5




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史跡・その他 | 20:18:03 | トラックバック(0) | コメント(2)
大木に囲まれた静寂の空間~久能の「駒形神社」

今回は、富里・久能の「駒形神社」を訪ねます。

駒形神社-1

「駒形神社 旧村社 <祭神>駒形神(こまがたのかみ) <主要建物>本殿・亜鉛板葺流造
一坪、弊殿・同一五坪、社務所・同六坪 <境内坪数>五三八.五七坪 <氏子>一〇〇戸
<神事と芸能>一月二〇日備社。 四月三日と八月二八日に獅子舞(三匹獅子・羯鼓舞)を
奉納する。」
 (「千葉県神社名鑑」昭和62年)

御祭神の「駒形神(こまがたのかみ)」とは、あまり聞き慣れない神名ですが、馬の守護神で
あるとされていて、「馬頭観音」の垂迹神であるとも言われています。

「駒形神社」といえば、通常、岩手県奥州市にある式内社(現神社本庁別表神社)を指しま
すが、久能の「駒形神社」も、この岩手の「駒形神社」を勧請したもので、「駒形神社」が多く
分布する岩手・宮城地方と同様に、富里が馬の産地であったことと無関係では無いでしょう。


駒形神社-2
駒形神社-51

神社入口の道端に、やや傾いた「道祖神」があります。
この道祖神には「南無道祖神」と刻まれています。

相模地方やその他の地方では、この「南無道祖神」と刻まれた道祖神をよく見かけますが、
これまで私の見てきた成田近郊の多くの道祖神には無かった珍しいものです。
「明和四丁亥」と記されています。
明和四年は西暦1767年で、第十代将軍・徳川家治の治世です。


駒形神社-3

一の鳥居は石造りの明神鳥居で、昭和49年のものです。


駒形神社-4

鳥居の脇にある手水盤は、明治四十五年(1912)に寄進されています。
この年の7月には明治天皇が崩御され、元号が大正と代わりました。


駒形神社-7
駒形神社-8

ニの鳥居は、控柱のある木製の明神鳥居です。


駒形神社-5
駒形神社-6

玉垣に囲まれたこの木は、枯れた幹の根元から蘖(ひこばえ)が生えています。
玉垣には「大當番奉任記念 昭和十五年一月 丸山八代藤崎源之助」と記されています。
この名前は「一の鳥居」にも寄進者として記され、狛犬の台座にも多くの寄進者の中に
寄進者の一人として記されています。


駒形神社-9  昭和15年の石灯籠
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駒形神社-11
駒形神社-14
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小振りながら、なかなか重量感のある狛犬は、昭和15年の寄進です。


駒形神社-16

「富里村史通史編」(昭和56年)には、「駒形神社」はこう紹介されています。

「駒形神社  駒形神・天照皇大神・宇賀御霊命
所在地は、久能字比丘尼内にあり、ここは古くは尼僧寺のあった所かも知れない。 「富里
村誌」によれば、村社で祭神は稚産霊命、大巳貴命、面足少名彦命、惶根命となっている
が創建は不詳である。境内には、明和四年(一七六七)丁亥十一月吉日建立の道祖神が
あり、これは、入母屋式石祠で、「南無道祖神」と彫られている。他に二三夜塔、天神宮など
の石塔、石祠がある。また、四月と八月の祭礼に獅子舞が行われている。」
  (P627)

御祭神が史料や時代と共に変わっているのはよくあることです。


駒形神社-17
駒形神社-18
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駒形神社-21

鞘堂に覆われた本殿は、辛うじて流造の屋根が見えるだけで、外からはほとんど見えません。


駒形神社-24

拝殿の屋根に「立浪」の飾瓦がありました。
神社やお寺の屋根に、火除けのまじないとしてよく見られるものです。
「千葉県神社名鑑」には、本殿・拝殿ともに亜鉛板葺となっていましたが、近年瓦葺きに改装
されたようです。

参道の左右、少し奥まった所に、数基ずつの石造物が並んでいます。

駒形神社-25

拝殿に向かって左側の石造物は六基です。

駒形神社-32

一番左には、力石のような丸い石が置かれています。
見たところ、表面にはなにも刻まれていません。


駒形神社-26

「延享四丁卯」の紀年銘が読めますが、何の石祠かはわかりません。
延享四年は西暦1747年ですから、270年前のものです。
(後述の「千葉縣印旛郡誌」にある、「摩利支天王」かもしれません。)


駒形神社-27

三番目の祠は、昭和62年の新しいものです。


駒形神社-29

この五角の柱は、「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植山姫命
(ハニヤマヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。


駒形神社-30

社号も紀年銘もありませんが、風化は進んでいないので、あまり古いものではなさそうです。


駒形神社-31

右端にあるこの石には、何やら文様があるように見えますが、風化で判別はできません。


駒形神社-33
駒形神社-34

拝殿に向かって右側にも、五基の石造物が並んでいます。
手前にある手水鉢には「明治参拾九年」と刻まれています。
明治三十九年は、西暦1906年にあたります。


駒形神社-35

左端の石祠には、「妙正大明神」と刻まれています。
この神様については確たる史料が見当たりませんが、どうやら「疱瘡神」のようです。
(市川市にある「龍経山妙正寺」の縁起に出てくる「妙正大明神」の話が有名です)

「寶暦■辛未」の紀年銘があります。
宝暦年代中の干支が「辛未」となるのは「宝暦元年」ですので、西暦1751年のものです。


駒形神社-36

右にある石祠も「妙正大明神」です。
こちらには「天保六乙未」と記されています。
天保六年は西暦1835年ですから、隣の「妙正大明神」から84年後のものです。


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拝殿に向かって左側にあった石宮と同じもので、昭和62年と記されています。


駒形神社-38

「奉勸請廿三夜月天王」と刻まれたこの石塔は、弘化二年(1845)の月待塔です。
月待講は通常仏教の世界での行事とされていますが、神道でも行われることがあります。
仏教の二十三夜講では「勢至菩薩」を信仰の対象としますが、神社にある珍しい月待塔の
信仰対象は、「月読尊(ツクヨミノミコト)」になります。


駒形神社-39

右端のこの石祠は、風化で刻まれている文字が読めませんが、上部は「三」と読めるような
気がしますので、「三峯神社」ではないでしょうか。


駒形神社ー40

「千葉縣印旛郡誌」には、「駒形神社」について次のように記述されています。

「村社 駒形神社
久能字比丘尼内にあり稚産靈命大己貴命面足少名彦命惶根命を祭る創建不詳なれども
明治四十三年三月許可を得て仝村大字久能字久保臺にありし無格社妙正神社仝村大字
宮谷にありし無格社皇産靈神社を本社に合祀し祭神を配祠せり本殿間口四尺六寸奥行
六尺七寸雨屋間口二間三尺奥行三間境内百八十坪官有地第一種あり神官は篠原周助にして
氏子三十九戸を有し管轄廳まで八里十一町五十四間なり境内三社あり即
一、天照皇太神    大日靈女貴命埴山姫命少名彦命倉稲魂命大己貴命を祭る由緒不詳
              建物は石祠にして高三尺一寸横五寸
二、廿三夜月天王   月夜見命を祭る弘化二年己年勸請建物は石祠にして高二尺三寸
              横七寸
三、摩利支天王    武甕槌命を祭る由緒不詳建物は高三尺一寸横九寸の石祠なり 」



神社の境内では、毎年4月3日と8月の最終日曜日に、五穀豊穣や交通安全などを祈願する
獅子舞が行われます。
「久能の獅子舞」と呼ばれ、約300年前から行われてきた伝統芸能で、富里市の指定民俗
文化財となっています。

久能駒形ーC
                               (富里市教育委員会生涯学習課 提供)

富里市のホームページに、この獅子舞の”ストーリー”が紹介されています。

「獅子舞は、頭の大きなものから順に「雄獅子」「中獅子(雄)」「雌獅子」と呼ばれる3匹の獅子
によって演じられ、笛と大小太鼓の囃子に合わせて舞を踊ります。 
久能の獅子舞は別名「やきもち獅子」とも呼ばれており、1匹の雌獅子をめぐる2匹の雄獅子
のストーリーが展開されます。
4段の場から構成されていて、1段目の場では、雌獅子と雄獅子がそれぞれの個性を表わし、
2段目では、3匹が入り乱れ仲良く踊りに興じます。3段目では、雄獅子2匹による雌獅子の
独占争いが始まります。争いは、話し合いという形で始まりますが、何度話し合いをしても
折り合いがつかず、そのうちに雄獅子同士の喧嘩が始まってしまいます。
喧嘩の様子はユーモラスで、勝ち獅子は右に左にと大きく飛び回り、倒れて負け獅子が立ち
上がろうとしているところに出向き、「どうだ!参ったか」というような仕草を見せます。 結局、
勝負は引き分けとなって、舞は4段目に移ります。 2匹の雄獅子は争いの愚を悟り、最初の
ように3匹の獅子は仲直りして舞は終わります。 近隣で行なわれている獅子舞は、勇壮な
ものが多いように見受けられますが、この獅子舞は、勇壮な場面の中にユーモラスな動きを
含め、民俗芸能としての娯楽性を備えています。」


久能駒形ーB
                            (富里市教育委員会生涯学習課 提供)

獅子舞の行われる境内の賑やかさが想像できないほど、普段の境内は静かです。
鬱蒼とした木々に囲まれ、日中でも薄暗く、曇天の日はフラッシュが必要なほどです。

駒形神社-53
駒形神社-54
駒形神社-55
駒形神社-52

それにしても、この森には圧倒されます。
杉やスダジイの巨木が何本も、何本も・・・。


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駒形神社-43

通りの反対側にも幹周りが7~8メートルはあろうかという巨木が・・・。


駒形神社-56
駒形神社-22
駒形神社-44


久能の「駒形神社」は、交通量の多い道路に面していますが、巨木に囲まれた社殿と境内は
忘れられた空間のように静寂に包まれています。



駒形神社-100

                          ※ 「久能 駒形神社」 富里市久能553



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富里市の寺社 | 09:08:34 | トラックバック(0) | コメント(2)
歴史の彼方にチラリと見える「成田五郎」とは誰か?そして何処に眠るのか?


成田五郎-43

成田総鎮守「埴生神社」の御由緒書きの中に、

「 歴史的に年代が出てくるのは、まず仁安3年(西暦1168年)に成田五郎頼重という埴生郡
を領していた武士が鉱物を奉納したと言うことが書かれてあり、成田という文字が出てくる
最初と言われております。」


というくだりがあります。
今回は、ここに出てくる「成田五郎頼重」という人物を追いかけてみます。

三年前に「埴生神社」についてこのブログで取り上げたときは、「成田五郎頼重」には特に
関心を持ちませんでした。
”「成田」という姓から、当時の埴生庄の有力な武士だろう・・・”ぐらいにしか思っていません
でしたが、今年に入って安政五年(1858)の「成田參詣記」中にある「成田山全圖」に次の
ような文字が書き込まれていることに気付いて、俄然、この人物のことが気になってきました。

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

さて、調べ始めたところが、全くと言って良いほど資料が見つかりません。
市立図書館や成田山仏教図書館で調べ、それぞれレファレンス・サービスでも調べてもらい
ましたが、わかりません。
「成田五郎」に関して見つけた記述は、わずかに「埴生神社・御由緒書き」の他に、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著 平成16年)、「成田村誌」(明治十九年)と「成田町史」(大正元年)、
そして「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)に、「鉱石を埴生神社に奉納したこと」と「成田五郎の
墓」がある」ということだけで、どんな人物であったかは全く触れられていません。
そして、その「墓」についても曖昧な記述しかなく、その場所が特定できません。

********成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI成田五郎-0000_LI (4)

横着をして、「埴生神社」に直接お伺いしてみましたが、やはりわかりませんでした。

「成田の史跡散歩」に次のような一節があります。

宮司の宮崎家に伝わる縁起や古文書によると、領主の成田五郎頼重が、仁安三年(一一
六八)に直径一寸五分の鉱物を二個奉納している。縄文時代の磨石であろうか。」


”「成田五郎」は埴生庄の領主だった”というのです。
埴生神社の「御由緒書き」にも、”成田五郎頼重という埴生郡を領していた武士”とありました。
領主とあらば系図にその名前があるはず・・・と当時の埴生庄を治めていた千葉氏の流れを
組む「埴生氏」の系図を追いましたが、「成田五郎」の名はありません。
念のため、同時代の千葉氏の系図も追ってみましたが、やはり「成田五郎」はみつかりません。

*************成田五郎-0000_LI (4)

もしやと思い「成田氏」も調べてみることにしました。
「成田氏」の出自には諸説ありますが、いずれも武蔵国崎西郡成田郷(現在の埼玉県熊谷市
近辺)に勢力を持っていた一族で、下総の埴生庄とは地理的に離れています。
念のため「成田氏系図」を調べてみましたが、「成田五郎頼重」の名は出てきません。
ウィキペディアの「成田氏」の項では、

「承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が
討死している。建保5年(1217年)には、北条泰時の家人で成田一族とみられる成田五郎が
刃傷沙汰を起こしている。」

「成田氏の菩提寺たる龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。」

とあります。
承久の乱は1221年のことで、成田五郎が鉱石を奉納した仁安三年の約50年後のことです。
また、「龍淵寺」とは、埼玉県熊谷市にある曹洞宗のお寺で、その縁起では、成田家中興の祖
「成田左京亮家時」が応永十八年(1411)に創建したとあります。
いずれも年代的には探している「成田五郎」とは一致しません。

ちょっと先が見えません。

「成田五郎頼重」とはどんな人物なのか?
「埴生氏」なのか、「千葉氏」なのか、あるいは「成田氏」なのか?
領主なのか、家臣なのか?

成田五郎-0000_LI (4)


視点を変えて「成田參詣記」の「成田山全圖」に戻り、「成田五郎」の墓を探してみましょう。

img005 (2)
(「成田參詣記」(安政五年)中の成田山全圖の一部を模写)

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

右中央に、『「要害」(地形が険しいところ)が訛った「ユウガイ」という字(あざ)があり、そこに
「成田五郎」の墓がある』、と書かれています。

書かれている場所は、滑川村へ向かう道の傍らになります。
「三竹山道祖神」(地図では現在の場所から道路を挟んだ反対側に書かれています)から
土屋へ向かう、旧滑川道の左側の一帯のようです。


成田五郎-25  三竹山道祖神と旧滑川道
成田五郎-27
成田五郎-28

旧滑川道の左手は深い谷のような地形です。


成田五郎-29

谷の底に下りてNTTの鉄塔を見上げると、高低差はかなりあることがわかります。
確かに、要害と呼ばれてもおかしくない地形です。


成田五郎-30
成田五郎-31

谷底の道を進むと、市立成田中学校の下に出ます。


成田五郎-35

やがて成田山裏参道の旧三里塚鉄道の橋脚跡に突き当たり、右へ行けば成田山裏門への
登り坂、左に行けば土屋への下り坂となります。


成田五郎-34
***********成田五郎-36

住宅もだいぶ建っていますが、空き地はどこもこうした景色です。

確かに要害という字(あざ)が付いていたかもしれない地形ですが、隅々まで歩いてみても、
「成田五郎の墓」らしきもの、または、その跡のようなものは見つかりませんでした。


明治十九年の「下総國下埴生郡成田村誌」(「成田市史史料集一」に収録)には、

「亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、之但シ成田五郎ナル者ハ本村
之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」
 

とあり、さらに同誌の「埴生神社」についての記述の中に、

「最モ神輿ニ寛元二年六月日埴生次郎平時常奉納スト。蓋シ東鑑ニ埴生次郎ハ、上総國
大柳之館ニ於テ自殺スト云々。亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、
之但シ成田五郎ナル者ハ本村之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」


とありますので、「要害」という字(あざ)には間違いなく「成田五郎」の墓があるはずです。
ここでは「成田五郎」を単に「本村の住人」として、領主やその家臣というような表現をして
いないことが気になりますが、ただの住人の墓について記すということは考えられません
ので、やはり「成田五郎」はそれなりの人物だったはずです。

*************成田五郎-0000_LI (4)


「千葉縣印旛郡誌」を何度か読み返している内に、収録されている「成田町誌」に、「成田五郎
頼重墓」という一項があることに気付きました。

「成田區の東方松原にあり坪數百八十坪自ら一塚をなし高二丈余墓上竹藪荊蕀叢生す
頼重の事蹟詳ならず口碑によれば千葉家の臣族にして亦本郡の守なりし由」


「松原」は昔の字で、現在の東町あたり、国道51号線を挟んだ一帯です。
「成田山全圖」に「成田五郎ノ墓アリ」と書き込まれていた「土屋」近辺からは、ずいぶん離れた
場所ですが、「成田區の東方松原」と場所を特定しています。
意外な場所ですが、これは有力な手掛かりになります。
二丈の高さといえば約6メートルですから、相当目立つはずです。

あらためて、「成田市史史料集一」に収録されている「成田村誌」と「成田町誌」も読み返して
みると、見落としていた記述を見つけました。
「成田村誌」には「墳墓」という一項があり、そこに「成田五郎頼重墓」とありました。

「本村東方字松原(舊要害)小高キ丘ニアリ、松木ヲ以テ墓標ス。最モ年號干支詳ナラスモ、
千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」


これも、「松原」と場所を特定して、しかも、「字松原(舊要害)」と、「成田山全圖」にあった

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

との書き込みと一致します。
「成田村誌」が書かれた明治十九年(1886)頃には、松原の字要害の小高い丘の上に、
松を植えて墓標とした「成田五郎頼重」の墓があったのです。
その後、墓は「印旛郡誌」が書かれた大正二年(1913)頃には、竹薮とイバラの生い茂る
荒れた様子となっていたようです。

*************成田五郎-0000_LI

あとは「旧松原」一帯で「成田五郎」の墓を探すだけです。
ヒントは「要害」という地形を表すような場所です。

その地形は、現在「東町高架配水塔」や「お仙稲荷」のある一角以外にありません。


成田五郎-1
成田五郎-51
成田五郎-20
成田五郎-53

(上から順に、成田山自動車祈祷殿側から ・ 新参道から ・ 国道を挟んだイオンの屋上から
・ 東町公民館側から)


さて、この小山にある「お仙稲荷」には何度も行っていますが、「成田五郎の墓」とおぼしき
ものは記憶にありません。

もう一度訪ねてみます。
小山を登るには、「お仙稲荷」への参道か、「高架配水塔」への自動車用道路しかありません。
自動車用道路には目立つものは何もありませんので、参道側から登ってみます。

成田五郎-16 ← 小山の登り口の大師堂
    子安観音の石碑 → 成田五郎-17
成田五郎-18 ← 子安観音と将軍地蔵堂

参道の登り口には、大師堂・子安観音の石碑・子安観音と将軍地蔵のお堂がありますが、
墓や塚らしきものを連想させる景色はありません。


成田五郎-54
成田五郎-55

朱色の鳥居が連なる参道を登って行きますが、やはりそれらしき景色は見当たりません。

参道を登り切ったところは、ちょっとした広場になっていて、右手に「高架配水塔」、左手に
「お仙稲荷」があります。


成田五郎-57
成田五郎-58

「お仙稲荷」の説明板には次のように書かれています。

「お仙稲荷は、成田山の出世稲荷が男で、お仙、おろく、お竹という三姉妹があり、この
うちお仙がこのお仙稲荷であるという話が伝えられています。昔は、赤い屋根の立派な
社屋があったといわれていますが、そのうち朽ち果て、そこで、地元東町の篤信者である
三名のご婦人が発起人となり、昭和三十四年に再建されました。
里人の話によれば、このお仙稲荷は霊験あらたかであり、地元民はもとより、とくに明治
以降には花柳界や舞台役者たちの信仰が厚く、浅草、新橋、川口の方からの参詣者も
あり、祭礼日の三月十日には多くの信者が集まります。」



成田五郎-3
成田五郎-13

「お仙稲荷」の場所は、台地からさらに一段高くなっています。
「村誌」や「町誌」にある塚のような感じですが、ここは「墓」ではなく、「神社」です。


成田五郎-6
***********成田五郎-7

境内をくまなく探しましたが、ここには「墓」らしき痕跡がありません。
だいたい、神道では「死」を「穢れ」としていますから、境内に墓など無いのが当然です。

*************成田五郎-0000_LI (4)

成田五郎-9
成田五郎-10

台地の一角に窪地があり、そこには「稲倉魂命」を祀る「松原稲荷大明神」があります。
この「松原稲荷」に関する資料はありませんが、この一帯の昔の字(あざ)の「松原」はここ
から来たのかもしれません。
とすると、相当古くからこの地にあった神社だと思われます。


成田五郎-59
成田五郎-19
成田五郎-60
成田五郎-63
成田五郎-62

ぐるぐると歩き回ってみましたが、どこを探しても、墓らしきものの痕跡はみつかりません。

いよいよ行き詰まりの感が漂い、あきらめかけた時、パラパラとめくった「成田町誌」の中に、
見逃していた「古蹟・古墳」という一項が目に止まりました。

「古墳ノ三  成田区の東方松原の丘陵上、一方は畑地一方は松林の中間に周囲約六十歩
地積百八十坪を有し高さ三丈余の塚あり。近年塚上をかきならして径十五歩許の平地を作り、
稲荷の小祠を建てたるものあり。松原おせん稲荷と称し、芸人共の信仰するものある由にて、
赤き木柵、鳥居等を建て列ね俗気満ちたる地と化了せり。 傳へ云ふ。 是れ千葉氏の族臣に
して埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」


さらに、「印旛郡誌」中の「埴生神社」の項にも、こんな文章が見つかりました。

「寶物として直徑約一寸八分の饅頭形鑛物二個之を収めたる桐箱は仁安三年正月吉日
成田郎頼重の奉納たることを明記す今村仙稲荷と稱して小社を營める塚ありとこれ
頼重の墳墓なりと云ふ」
  (は五の誤植か) 


お仙稲荷ー42

だいぶ回り道をしてしまいましたが、ついに見つけました!
「お仙稲荷」の場所こそが、「成田五郎頼重の墓」だったのです。

*************成田五郎-0000_LI

「成田町誌」は大正元年に書かれていますから、ここにある「近年」とは明治後期のことでしょう。
大正二年の「印旛郡誌」には稲荷のことが書かれていませんが、編集上の時間的な誤差で、
明治後期に、荒れ果てた五郎の墓を整地して「お仙稲荷」を建てた人たちがいたのでしょう。
「塚上をかきならし」「赤き木柵、鳥居等を建て列ね」「俗気満ちたる地と化了せり」と書かれた
「町誌」の文章には、筆者の怒りのようなものが感じられます。

資料を読むときに、ある程度の狙いをつけた個所を拾い読みして、精読をサボる悪い癖が、
今回も核心に迫る道を遠いものにしてしまいました。
反省して(?)あらためて各資料を精読すると、こんな文章も見つかりました。

中世には成田氏・埴生氏の外護があったようで、仁安二年(一一六七)奉納になる鉱石
の箱書に「仁安二壬戊(ママ)年正月大吉日 成田五郎頼重奉納」とあり、また現在はない
が寛元二年(一二四四)の古神輿には「埴生神社神輿一基 埴生次郎平時常献之 寛元
二年六月日」と記されていたと伝えられている。」

(成田市史 中世・近世編 P242 埴生神社に関する記述の中に)

寿永二年(1183)に、上総氏は埴生庄から千葉氏によって追われましたから、「五郎」が
鉱石を奉納した仁安二年のころの埴生神社は上総氏の庇護のもとにあったと考えられ、
地理的には離れているものの、現在の埼玉県熊谷や行田あたりを所領としていた「成田氏」
からも崇敬を受けていたということでしょうか。
とすれば、家系図には見当たらないものの、「成田五郎頼重」は「成田氏」の有力な一員で
あったのでしょう。

ただ、この地に墓まであるので、「成田五郎」が「成田氏」の一員であることに疑問が生じます。

「成田町誌」にある、
「是れ千葉氏の族臣にして埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」 や、
「成田村誌」にある、
「最モ年號干支詳ナラスモ、千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」
とあるように、「成田五郎」は千葉氏の一員であった可能性は捨てきれません。

話はますます迷路に入り、妄想は広がります。

*************成田五郎-0000_LI (4)

「成田五郎」は千葉氏の一員であるとして、「成田」姓の人物は千葉氏の家系図には現れ
ませんので、(よくあるケースの)その領する所の地名を姓として名乗ったと考えられます。

さあ、こうなると、平安時代末期には「成田」という地名が既にあったことになります。

文字としての「成田」が最初に出てくるのが「成田五郎頼重」ならば、地名としての「成田」が
最初に出てくるのは、寺台の「永興寺」にある聖観音像の胎内銘であるとされています。
「成田市史 風俗編」には、「成田」の地名の由来について、次のように書かれています。

「 成田の初出  成田の地名が始めてみられる記録としては、寺台の永興寺所蔵になる
聖観音像の胎内銘で室町時代の応永一五年(一四〇八)二月「成田郷大檀那光量」と
いう文字が記されている。 この聖観音像は、もと成田の仲町にあった禅宗安養寺の本尊
にして、明治初年の廃寺のときに本寺永興寺へ移されたものである。 当時、成田の郷に
安養時の大檀那として光量なる人物が存在していたことがわかる。 なお、神奈川県横浜
市の金沢文庫文書の如賢書状に「成田御百姓并羽鳥大御田作人等」になる文字があり、
鎌倉末期から室町初期にかけての文書と考えられているが、惜しいことに年代がはっきり
していない。 その点から前記聖観音像の胎内銘は、成田の地名を応永一五年までさか
のぼれる貴重な資料といえる。」 
(P9~10)

「聖観音像」の胎内銘の年代は、「成田五郎」が鉱石を寄進した240年後ですが、金沢文庫
の「如賢書状」の存在もあり、「成田」という地名が「五郎」の生きた時代には既にあったと
考えてもおかしくありません。
「成田五郎」は、「成田」という文字が(知られているかぎり)最初に現れる人であり、「成田」
の地名を(知られているかぎり)最初に知らしめた人でもあるということになります。

「成田」という地名の由来については諸説あるようです。
① 昔から雷が多い地だったので、雷の鳴る田→鳴田→成田となった
② 良い稲ができる地だったことから、熟田(ナリタ)となった
③ 田を開いた地なので、田に成る→成田となった
などですが、前掲の「成田山全圖」に、成田という字(あざ)が書き込まれています。

img007 (2)
①ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン
②成田村 鎮守三ノ宮 (三ノ宮埴生神社)
③石宮 道祖神 (三竹山道祖神・北向きのドウロクジン)
④不動堂 (成田山新勝寺)
⑤藥師堂 (明暦の本堂)
⑥大井戸字成田ト云

上部の⑥に、「大井戸字成田ト云」とある場所です。
この場所は、現在の幸町にある成田小学校の下、「古葉師踏切」のあたりになるようです。
表参道の米屋本店裏にある「不動の大井戸」と同じ水脈がこの「字成田」を通り、ほどなく
地表に現れて「小橋川」となっていたと思われます。

足跡ー59 ← 不動の大井戸
 成田小学校下 → 幸町-65幸町-69 ← 古葉師踏切

素人の妄想に近い推論ですが、
「平安時代末期に、「大井戸字成田」あたりを領していた、千葉氏に連なる「成田五郎頼重」が、
「お仙稲荷」の下に葬られている。」となりそうです。


成田五郎-14

「成田五郎」が眠っている「要害」の地からは、遠くに新勝寺の大伽藍が見えています。
彼がここに葬られたであろう頃には「新勝寺」はまだこの地に無く、遠く公津ヶ原の森の中で、
忘れられたように荒れ果てていました。


成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI
                                   [PIXTA]

「成田五郎頼重」は、歴史の彼方でほんの少し顔を出しているだけです。
その存在はほとんど知られていないままですが、実は成田にとってとても重要な人物だった
のかもしれません。

いつかまた、意外なところで「成田五郎」を目にすることがあるような予感がします。




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人とその歴史 | 10:39:08 | トラックバック(0) | コメント(2)
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