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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2016/5/26の「成田にもあった!~二つの「明治神宮」中にある古老の発言中に「アザミヶ里」とあるのは、「アザミガサク」の間違いでした。(2023/10/25成田市教育委員会より指摘をいただきました。) 【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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星神社 -- 三基の青面金剛像

大清水の星神社は、延喜年間に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されましたが、空港事業の
関係で平成5年にこの地(成田市大清水209-11)に遷座されました。

星神社-26
星神社-28
*********三里塚街道ー31

現在地への遷座前には、駒井野613番地に天御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)を御祭神
とし、本殿・石宮・拝殿六坪、境内一四三坪、氏子六〇戸を擁する神社として記録されています。

「天御中主之命」については、「日本古代神祇事典」(平成12年)に次のように紹介されています。
【 古事記では序文の末尾と本文冒頭に記された神。冒頭部分は「天地のはじめの時、高天原に
成りませる神の名は、天之御中主神、次に高音産栄日神、次に・・・」と書き出されている天地初現
の神である。】
 (P69)

社殿の裏に大小18基の石造物が並んでいます。

星神社-27
星神社-23
星神社-82



この石造物群の中に、以前から気になっていた石仏(青面金剛)が3基ありますので紹介します。

星神社-1
   天保十四年(1843)の青面金剛像

星神社-14
   宝暦八年(1758)の青面金剛像

星神社-17
   享保十九年(1734)の青面金剛像



① 天保十四年(1843)の青面金剛像

星神社-22

左側面に、「天保十四卯年 六月吉日」と刻まれています。
天保十四年は西暦1843年、約180年前の建立です。
第十二代将軍德川家慶が老中水野忠邦を重用して行ってきた「天保の改革」が、旗本領を幕府
直轄領へ編入する政策の失敗をきっかけに失速し、幕政の迷走が目立ちはじめたころです。


星神社-11

三眼六臂の立像で、左上腕には法輪、中腕には弓、下腕にはショケラ、右上腕には錫杖、中腕
には剣、下腕には三叉戟を持っています。


星神社-4

怒髪の中にドクロがありますが、風化のため何やらかわいらしい表情になっています。



星神社-3
星神社-5

この青面金剛像にはちょっと変った特徴が見られます。
何だか分かりますか?

そう、心なしか俯いているように見えるのです。
そして、本来憤怒相であるべきお顔が、微笑んでいるように見えるのです。


三里塚街道ー35

光線の加減にもよるのですが、俯き加減に微笑んでいるように見えませんか?
これまでたくさんの青面金剛像を見てきましたが、これほど柔らかい表情の像はありません。


星神社-6 

ショケラは合掌しています
星神社-12

足下には踏みつけられた鬼
星神社-7 

三猿は風化が進んでいます 
星神社-8



② 宝暦八年(1758)の青面金剛像

星神社-13

天保十四年の金剛像の隣に立っているこの金剛像は二つに折られて、顔を削られています。
おそらく明治初期の廃仏毀釈によって受けた損傷でしょう。

宝暦八年は西暦1758年、約260年前の建立です。
この時の将軍は第八代德川家重です。
病気による言語不明瞭だったため評価の低い将軍でしたが、大岡忠光や田沼意次などを重用
し、彼らを通して堅実な政治を行ったとの評価もあります。


星神社-14

星神社-15

「宝暦八寅天 三月吉日」の文字が読めます。
260年以上前の建立にしては隣の天保十四年の金剛像に比べて風化は進んでいません。
材質の問題でしょうか?

体の正面で合掌し、左上腕に法輪、下腕に弓、右上腕に剣、下腕に矢と三叉を握っています。

台座には「駒井野村講中」と刻まれています。
この金剛像建立の時代の駒井野村は佐倉藩に属していました。
明治二十二年(1889)の町村制施行により下埴生郡遠山村駒井野となり、明治三十年(1897)
に印旛郡遠山村駒井野、昭和29年(1954)の昭和の大合併で成田市に編入されました。


星神社-80
星神社-81
*******星神社-79

ノミでも使ったのでしょうか、顔の部分がザックリと削られています。
顎の下、まるで首をはねるように、二つに折られています。
成田近郊での廃仏毀釈運動はさほど激しいものではなかったようですが、この青面金剛像の
破壊者には仏教に対する強い憎悪があったのでしょうか。


*******星神社-78
星神社-77

よく見ると、金剛の左右には向い合った鳥が描かれています。
一見、鳩のように見えますが、これは鶏(ニワトリ)で、徹夜で行われる講の終了を告げる鳴き声
を象徴して刻まれることがあります。
また、「申」が明けた翌日は「酉(トリ)」であることを表しているとも言われています。



③ 享保十九年(1734)の青面金剛像

星神社-16

この金剛像は珍しい四臂像です。

中央で合掌し、右上腕に戟を持っています。
左上腕が何を持っていたのかはわかりません。
掌を開いているように見えますが、風化のためか持ち物が見えません。


星神社-18

三猿はしっかり見えています。


星神社-17
星神社-76

憤怒相ですが、丸顔の愛嬌のあるお顔です。
口を少し開けて、歯が見えているようです。
牙が見える石仏は珍しくもありませんが、普通に歯並びが見える石仏は見た記憶がありません。


星神社-16

四臂の青面金剛像は珍しく、私の記憶では野毛平の東陽寺跡に立っている二基のうちの一基
のみです(まだ見つけていない像があるとは思いますが)。

青面金剛・東陽寺-16
  (野毛平・東陽寺跡の四臂青面金剛像 2015年5月撮影)

この像は四臂像で、左手上腕に月輪、下腕に錫杖を持ち、右手上腕に金剛杵を、下腕に
羂索を持っています。


星神社-72

刻まれている文字は、向かって右側に「●庚申待信心本願三十三人」「●結衆二十人」、左側に
「●享保十九甲寅三月」と読めます。
「結衆」の部分は「繕衆」または「結兵」とも読めるような気がしますが、ここは仏教的な意味で「ある
ことを目的とした集まり」である「結衆」だと思います。
庚申講のメンバーが33名、そのまわりに20人の同調者がいたと想像してみました。


星神社-75

享保十九年は西暦1734年、約290年前の建立です。
将軍は第八代德川吉宗。 享保の改革と呼ばれる諸改革を行い、特に幕府の財政再建を実現
させた名君です。



星神社-84

星神社-83

約1100年前の延喜年間(901~923)に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されたこの神社の
本殿には、千葉氏の家紋である「九曜紋」が掲げられています。


星神社-70


空港事業のために移転する前の駒井野には二つの星神社がありました。
昭和62年に発行された「千葉県神社名鑑」には、
星神社  駒井野88  <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
               本殿 1坪  境内 100坪  <氏子> 60戸
星神社  駒井野613 <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
               本殿・石宮・拝殿 6坪  境内 143坪  <氏子) 60戸
と記載されています。
また、大正2年に発行された「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、
星神社  駒井野村字高芝    間口一尺五寸 奥行一尺二寸
                    境内 一二〇坪  氏子 五〇戸
星神社  駒井野村字舘曲輪  間口五尺五寸 奥行四尺
                    境内 一四〇坪  氏子 五〇戸
と記載されています。

両社とも、現在のさくらの山公園とビューホテル、空港通りに囲まれたあたりにありました。
駒井野613(舘曲輪)の移転とともに駒井野88(高芝)も現在地に合祀されたものと思われます。

本殿裏の石造物群は、その時に両社の境内や近隣の路端などから集めたのでしょう。
今回とりあげた3基の青面金剛像は、一見何の変哲も無いありふれた金剛像に見えますが、
よく見るとなかなか興味深い、個性的な金剛像でした。


星神社-20

星神社-71



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以前にも何回か解説をしてきましたが、あらためて庚申信仰についておさらいをします。

青面金剛は「庚申塔」に刻まれます。
青面金剛は、中国の道教思想と日本の民間信仰である庚申信仰の融合によって生まれた尊格
で、庚申講の本尊とされ、三尸(さんし)を押さえる存在とされています。

「足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ
(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に
巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。 彩色される時は、
その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。」

(ウィキペディア 青面金剛)

人間の体内には、三尸(さんし)という三匹の虫が棲すすみついていて、庚申(かのえさる)の日
に寝ている宿主の体内から抜け出して、天帝にその人の悪行を言いつけるとされています。
天帝は悪行を聞くと、罰として寿命を縮めてしまうので、庚申の夜は眠らずに酒食をとりながら
過ごして、三尸虫が体内から出ることができないようにするのがよい、とされています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願い、天帝にご注進をする機会を
狙っています。

台座に三猿を刻むのは、庚申の申(さる)からきたものといわれ、三尸虫の告げ口を封じる意味
で、もし悪行を見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって天帝に伝えないでもらいたいと
いう願いが込められています。
*****青面金剛-0
              (左から下尸、中尸、上尸)       (ウィキペディア)

上尸(じょうし)は頭部に、中尸(ちゅうし)は腹部に、下尸(げし)は足に棲んでいます。

貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、「庚申講」を三年(十八回)続けると
「庚申塔」を建てることができます。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。

眠らないように酒を飲み、歌い踊る庚申講の集会は、徐々に宗教的行事から離れた娯楽の
側面を強くしてきました。
月待講にも共通した傾向がみられますが、日常生活の苦しみから解放されたい庶民の数少ない
楽しみだったのでしょう。

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                               ( 星神社  成田市大清水209-11 )




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

青面金剛(庚申塔) | 16:25:52 | トラックバック(0) | コメント(11)
「此方 すこしゆき・・・」情報量の多い天保三年の巡拝塔兼道標

県道44号線(成田小見川鹿島港線)の赤池入口バス停(多古循環バス)のある交差点に、
興味深い石塔が立っています。


44号線-1
(多古町十余三355)

この道標は多古町十余三と成田市前林との境界(多古町側)に立っています。
電柱やコンビニの看板に隠れて、注意して見ないとその存在に気付くことはありません。


44号線ー22

車の往来の多い交差点に立っていますが、説明板もなく、注意を引くものが何もありません。

天保三年(1832)の造立で、何の保全もされていない野ざらし状態で黒ずんでいるものの、
約190年間の風雪に耐えてきたわりには風化は少なく、文字もその大半が読める状態です。


44号線-3

篆額に「花山院」、その下に「西國三十三所供羪」の文字が太く深く刻まれています。
これは、西国三十三ヵ所の霊場を巡拝した記念に建てられた巡拝供養塔です。

西国三十三所は、現在の京都府、大阪府、奈良県、和歌山県、兵庫県、滋賀県、岐阜県に点在
する33ヶ所の観音霊場の総称です。
観音菩薩が衆生を救うために33の姿に変化すると言われ、33ヶ所の観音菩薩に参拝すること
によって現世での罪が許され極楽に往生できるという信仰から生まれた巡礼の道です。
江戸時代にはこの観音巡礼が庶民にも広まり、「巡礼講」を組んでの巡礼が盛んに行われました。

右には「とつかう」、左には「なりた」と刻まれ、一番下には「前林村」と刻まれています。


44号線-33

前林村は明治二十二年に町村制施行で本大須賀村に、昭和17年に昭栄村、昭和30年には
昭和の大合併で大栄町となり、平成18年に平成の大合併によって成田市前林となりました。

でも、いまこの巡拝供養塔が立っているところは成田市と多古町の境界線ですが、多古町側です。


44号線-10

この巡拝塔は当初立っていた場所から移動されたのでしょうか?

まず、現在立っている多古町の町史を調べてみました。
【もう一つの道標(高さ一三九センチ)は、成田、小見川県道から国道五十一号線の桜田
へ向い、県道が交差する十字路に立っている。
その刻字は、「(表)花山院西国三十三所供□□とつ□なり□(伏字部分埋没)。(左)此方
すこしゆき右さくらかとり左いのふかうさき。(右)此方ひしたかもしばやまいゝささ。(裏)
みくら山くらまつさきたこ中むら八日市場。旹天保三龍集壬辰(一八三二)霜月詰旦。】

(「多古町史 上巻」昭和60年  P785から786)
と、「多古町の道標」として記述されています。

成田市側からこの巡拝塔の記述があるか、を調べました。
成田市史の編纂は平成の大合併前ですから当然記述はありませんが、「成田市史研究第33号」
(平成21年3月)の「大栄地区の石造物」(島田七夫氏の寄稿)にも見当たりません。

合併前の大栄町史に記述がないか見ましたが、「大栄町史 民俗編」(平成10年)の423ページ
から438ページにある大栄町内の石造物リスト(全595件)に当該石造物の名前はありません。
さらに「大栄町史」中の「大栄町の旧街道を往く」等の記述を追ってみましたが、それらしき記述に
出会うことはありませんでした。

唯一大栄町としての記述は、「大栄町の歴史散歩」(久保木良著 平成6年)にありました。
【県道、成田・小見川・鹿島港線を多古町にむかう。バス停の道祖神をすぎますと右手に
高さ一七五センチの立派な道標が建てられています。
この道標の左側面に「此方 すこしゆき 右 さはら かとり 左 いのふ かうさき」とあり
ます。「此方 すこしゆき右・左」ということばを刻んだ道標なんぞは聞いたことも見たことも
なかったものです。他に例があるだろうか、珍品中の珍品といえるでしょう。 (中略) この
三十三所供養と刻まれた文字の下、左右に「とっこう」「なりた」とあります。さらにその下
には「前林村」と刻んでありますから、村として建立したことがわかります。】
 (P11~12)

ここでは前林村が造立したと明記されています。
「前林村」と刻まれていることからこう記述されたのでしょうが、立っている場所が記述当時の
旧大栄町前林なのか、多古町なのかについての考察はなく、大栄町の石造物であることに
疑問を持たずに記述されているようです。


44号線-4

調べた限りでは、少なくとも近年においては、この巡拝塔が多古町に立っていること、また立って
いたことに疑問はないようです。
ただ、昔の「村」の境界線がどうであったか、今の場所はかつては前林村だったのではないか?
あるいは、この巡拝塔が別の場所(前林村)に立っていたのではないか?
などの疑問は少なからず残っています。


篆額にある「花山院」とは何でしょう?

44号線-31

前述の「大栄町の歴史散歩」に次のような記述があります。
【 正面の上部に「花山院」と横に陽刻してあります。花山院は下総町に鎮座する
小御門神社の御祭神の称号ですが、小御門神社は明治の創建ですから、神社も建立
されていない祠の時代なのですが、悲しい歴史を秘めた藤原文貞公の徳をたたえたもの
なのでしょうか。】
(P11~12)

小御門神社に祀られている藤原師賢は、和歌や管弦に長じていて、花山院師賢と号していた
ことを指しているようですが、この巡拝供養碑との関連は見つかりません。
造立当時の庶民が、藤原師賢のことや彼が花山院を号していたことなどを知っていたでしょうか?
「花山院」は現在の京都御苑内にあった邸宅のことですが、これもまた庶民の知るところではない
ような気がします。
元弘二年(1332)に流刑の地の名古屋(現成田市)で没した師賢は、翌元弘三年に後醍醐天皇
からその功績を称えられて「文貞公」の諡を賜りましたが、これらのことを五百年後の村民の中で
知っていた「文人」のような人がいたのでしょうか?
それとも西国三十三ヵ所巡りの途中で花山院を訪れ、感銘を受けたのでしょうか?

「小御門神社」は明治15年に創建された、比較的新しい神社です。
そして、ご祭神を実在の人物である藤原師賢(ふじわらのもろかた)とする珍しい神社です。
師賢は正安三年(1301年)生れで、大納言として後醍醐天皇に仕えていましたが、元弘元年
(1331年)に天皇と時の執権・北条高時とが対立して起った「元弘の乱」で敗れ、元弘二年五月
に遠くこの地に配流されて、十月に亡くなることになります。
元弘三年、楠木正成らの挙兵により鎌倉幕府が滅びると、天皇は師賢に太政大臣の官位と
「文貞公」の謚号(しごう-贈り名)を贈り、その忠義を称えました。
後に明治天皇がこの忠臣を称えて、国の守り神として「小御門神社」を創建し、「別格官弊社」に
列しました。

小御門神社ー2
小御門神社ー13
(小御門神社 平成26年8月 http://narita-kaze.jp/blog-entry-66.html  ここをクリック


「西国三十三所」の由来には諸説ありますが、次のような説がもっとも知られているものです。
養老二年(718)に大和長谷寺の開基・徳道上人が病を得て亡くなった時、冥土の入口で閻魔
大王から「生前の罪業により地獄へ送られる者があまりにも多いが、三十三ヶ所の観音霊場を
巡ることによって罪滅ぼしが叶うので、巡礼によって人々を救うように」との託宣を受けて現世に
戻されました。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが世間の人々には受け
入れられずにやがて忘れ去られてしまいます。
それから約270年後、出家した花山天皇が紀州那智山での参籠中に、熊野権現が現われて
かつて徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するようにとの託宣を授けました。
その後徐々に三十三所霊場の巡礼は人々に広まっていきました。

花山天皇の追号は「花山院」で、徳道上人を三十三所巡礼の始祖とし、花山院を中興とする
説がもっとも知られた説となっています(これにも諸説あります)。

この篆額にある「花山院」とは、このような説に基づいて巡拝碑に刻まれたのでしょう。
藤原師賢(花山院)は花山天皇の生きた時代より330年以上後の人物であり、篆額に刻まれた
人物ではないようです。



44号線-32

「とつかう」は取香のことで、現在の成田空港周辺の地域です。
「なりた」は取香から右に下った方向です。



向って右の側面を見てみます。

44号線-5
44号線-6

44号線-7

「此方 ひした かも」と刻まれ、その下の右に「いゝさゝ」、左に「志ばやま」と刻まれています。
「ひした」は菱田(現・成田市)、「かも」は加茂(現・芝山町)、「いゝさゝ」は飯笹(現・多古町)、
「志ばやま」は芝山(現・芝山町)のことで、勿論、当時はそれぞれが村でした。
※ 菱田(現・成田市)とあるのは、菱田(現・芝山町)の誤りでした。  「ひょうたんぶらぶら日記」
   というブログ( https://hy08.seesaa.net/ )の「瓢ろく」様からご指摘をいただきました。
   4月20日 「瓢ろく」様、ありがとうございました。


次に背面を見てみます。

44号線-11
44号線-9

中央に「旹天保三龍集壬辰霜月詰日」、その右に「みくら 山くら まつさき」、左に「たこ 中むら 
八日市場」と刻まれています。
旹(とき)と龍集(りゅうしゅう)は年号などを表すときによく使われる言葉です。
天保三年は西暦1832年、第十一代将軍德川家斉の治世です

「みくら」は三倉村(現在の多古町三倉地区)、「山くら」は現在の香取市山倉(旧山田町)、
「まつさき」は現在の多古町松崎のことです。


44号線-8

下部には造立に関わった人々の名前が刻まれています。.
右から、「 飯笹 武兵衛 同 茂右ェ門 同 長兵衛 同 利左ェ門 小堀 宗兵衛 取香 太兵衛 
大木 太右ェ門 同 藤四郎 同 重兵衛 」とあり、その下段にも人名がありますが、こちらは風化
から読み取ることができません。

44号線-53
44号線-52
44号線-51

前林村の造立なのに前林村の名前が見えないのが不思議です。
風化で読めない下段に、前林村の面々の名前があるのでしょうか。


次に左側面を見てみます。

44号線-14

「此方 すこしゆき  右 さくら かとり  左 いのふ かうさき」 と刻まれています。

「此方 すこしゆき」とはおもしろい表現ですね。


44号線-54
44号線-55
44号線-12

44号線-13

二度目の確認のための訪問で、疑問が湧いてきました。
多古町史では「此方 すこしゆき 右 さくら かとり ・・・」と紹介されていて、私も何の疑問もなく
「さくら かとり」と読んでいたのですが、佐倉と香取では方角的に全く逆なのです。
仮に、「すこしゆき」分岐点があったとして、佐倉への道が続いていたなら、ここは「左 いのふ
かうさき さくら」でなければ不自然です。
もしかして、と目を凝らして見ると、「く」と読める字は「わ」の崩し字に見えてきました。
「さくら」ではなく、「さわら」なら矛盾はありません。
ここは「さわら(佐原)」が正解でしょう。 久保木良著の「大栄町の歴史散歩」が正解です。

「いのふ」は現在の成田市伊能、「かうさき」は成田市神崎のことです。



44号線-16

左側面から多古町方面を見ています」。


44号線-59

県道を香取市側から成田市取香方面を見ています。


44号線-57

多古方面から大栄方向を見ています。



44号線-18

44号線-14

電柱とコンビニの看板柱に囲まれ、くすんだ何の特徴もない石柱ですが、近づいて刻まれた文字
を読むと、そこには昔の人々の往来が見えてきます。
とっかう、いゝさゝ、ひした、かも、志ばやま、たこ、みくら、山くら、中むら、八日市場、かうさき、
いのふ、さわら、かとり・・・近隣の村々の名前がたくさん刻まれています。
今はなんの変哲も無い交差点ですが、昔は賑やかな交通の要衝だったようです。




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石造物 | 17:29:39 | トラックバック(0) | コメント(8)
世渡り下手な大剣豪「小野次郎右衛門」
【 さて、海保三吉を説得して切腹させたと伝えられる小野次郎右衛門については、三吉と共に
伏見にて御番を務めていた同僚であり、三吉の乱暴狼藉を上司に注進した人物でもあります。
小野派一刀流で知られた剣豪であり、三吉の後に寺台領主となりました。
三吉に絡むこの人物の生き様もまた、大変興味が湧いてきます。】


前回の「海保三吉」の項の最後でこのように記しましたが、早速「小野次郎右衛門」について
追いかけることにしました。

次郎右衛門が海保三吉とともに伏見で務めていた「御番」とは、江戸時代に非役の小普請や部屋
住みの旗本・御家人から選ばれて、小姓組・書院番・大番などに任じられる役職のことです。

剣豪としての小野次郎右衛門は、多くの時代小説の主人公としてその名声をほしいままにして
いますが、今回は「而シテ小野氏本墓何ノ由緒アリテ本村ニ在ルヤ詳ナラス」とまで地元寺台
村の村誌に書かれるほど、領主としての評価が残されていない人物像に迫ってみたいと思います。

剣豪としてではなく、一人の武士として、あるいは一人の人間としての小野次郎右衛門は、どんな
人物だったのでしょうか?


典膳-6
(炭火焼き 山海料理 「隠れ屋敷 典膳」 ホームページより)


千葉県教育委員会のホームページに、小野次郎右衛門に関する一項があります。
【成田山公園に隣接する、永興寺所有の小高い丘の上に、江戸時代初期の剣豪で小野派一刀流
の流祖小野次郎右衛門忠明・二代小野次郎右衛門忠常の墓(五輪塔)が建っている。
小野派一刀流は、小野次郎右衛門忠明により開かれ、柳生新陰流とともに徳川将軍家に採用され
隆盛を誇った流派である。流祖忠明は、房州御子神(現安房郡丸山町)の生れで少年時代を御子
神の地で過ごし、御子神典膳と称していた。たまたま来遊した一刀流開祖の伊藤一刀斎景久に
入門し、修行を重ねた後、一刀流継承をかけた小金原の決闘で小野善鬼を破り、一刀流の正統を
継承した。その後に徳川家康に仕え、母方の小野姓に改め、元和3年(1617)成田市寺台の地頭
となり、寛永5年(1628)12月7日没した。
2代忠常は、3代将軍家光の指南番となり、小野派一刀流の隆盛に大きく貢献し、寛文5年
(1665)12月6日没したのち、流祖忠明とともに永興寺境内に埋葬された。】



地元の寺台村誌(明治十七年)には、小野次郎右衛門に関する記述がほとんどありません。
不行跡を咎められて切腹に追い詰められた前の地頭・海保三吉に関する記述に比して、不自然
なほどの無関心ぶりです。

【 小野忠明墓
本村永興寺ニ在リ。忠明ハ即チ神子上典膳ナリ。弱冠ヨリ刀槍ノ術ヲ好ム。慶長五年信濃
真田ニ戦ヒ七槍ノ誉アリ。後外祖氏ヲ冒シ小野次郎左衛門(右ノ誤リ)ト称ス。三百石ヲ食ム。
而シテ小野氏本墓何ノ由緒アリテ本村ニ在ルヤ詳ナラス。

(「下総國下埴生郡寺臺村誌」 明治17年)

専門家でもない村役人が作成した町村誌には、多くの誤りが記されていますが、この記述に
あるように小野次郎右衛門への関心は、専ら剣豪であったことに集中しているように思えます。


小野次郎右衛門の出身地である、現南房総市・旧丸山町の町史には彼についての記述がくつか
みられますが、剣客としての描写しかなく、人物像に関する史料は見当たりません。

【 御子神典膳は御子神地区岩浪治兵衛(当主岩浪仁氏)の家の出生という。火災のため文書等
は失ったが、屋敷近くに今宮様と称する五輪塔がある。】

(「丸山町史」 平成元年 第八節 近世の村々中の御子神村 P341)

この「今宮様」とは、後述する、典膳によって殺された相模出身の旅の剣客・「今宮勝人」の墓で
あると伝えられています。

【 小野派一刀流は、江戸時代初期の剣豪・小野次郎右衛門忠明により開かれ、柳生とともに德川
德川将軍家に採用され隆盛を誇った。流祖忠明は、安房國朝夷郡御子神村(現丸山町御子神)の
生れで御子神典膳といい、上総國万喜城主に仕え、たまたま来遊した一刀流開祖伊藤一刀斎

景久に入門し、遂に一刀流の正統を継承した。】
【 その後、江戸に出て当時の兵法家小幡景憲によって非凡な剣技を見込まれ、文禄二年
(一五九三)景憲の推挙によって、徳川家康に仕え、二代将軍秀忠の剣法指南役を勤めた。
このころ、家康の命により外祖父の姓を継いで小野氏を名乗り、小野次郎右衛門忠明と改名した。
忠明の忠は将軍秀忠から賜ったと伝えられる。】
【 忠明は晩年、下総國埴生郡寺台村の地頭となり、寛永五年(一六二八)没した。】
【 二代忠常は、三代将軍家光の剣法指南役となり、父忠明に劣らず勇名を響かせ、小野派
一刀流の隆盛に大きく貢献した。寛文五年(一六六五)没した。】


唯一、彼の剣以外の業績について述べられている部分は、
【 流祖忠明と二代忠常の墓は、成田市寺台の保目山永興寺近くの山上(成田高校裏山)に
あり、永興寺本堂には、曹洞宗宗祖道元禅師と並んで忠明の木像がまつられ、地頭としての
優れた業績と同寺の発展への貢献を物語るように、宗祖と同格に中興の祖として崇められている。】

(丸山町史 第七章 郷土の文化 P1380)
しかし、地頭としての業績や永興寺への貢献についての具体的な記述はありません。


典膳-5
(ユーイの航海日誌 「ユーイ・痴郎」 千葉探訪記115 中の写真)

小野次郎右衛門(御子神典膳)生誕の地には彼の記念碑が建てられ、公園となっています。


有名な剣豪の墓がなぜ成田にあるのか?
寺台村の地頭であったというだけで、生誕の地や活躍した江戸の町ではなく、なぜ成田なのか?

埋葬の地とされるほどの寺台村とのつjながりがあるのか?



本ブログの2014年7月「成田山東参道を歩く」の記事中に、小野次郎右衛門父子の墓に関する
記述があります。 (成田山東参道を歩く 2014年7月 ☜ ここをクリック)

【 高校の手前の急坂を少し登ると狭く急な階段が上へ延びています。

東参道ー4  草に覆われ、顔に蜘蛛の巣がかかります。
             相当きつい階段です。  東参道ー5

東参道ー7

登り切った平地に、小野派一刀流で有名な「小野次郎右衛門」父子の墓がポツンと建っています。

小野次郎右衛門忠明は房州御子神村(現南房州市)の出で、小野次郎右衛門となる前は
神子上典膳と名乗っていました。
小野派一刀流のホームページには、
「伊藤一刀斎景久を一刀流元祖とし、流祖小野次郎右衛門忠明が一刀斎直伝の一刀流の
正統を継ぐ。他の分派・支流と区別するためこの正統に小野派を冠す。忠明は将軍家徳川
秀忠の指南役となる。小野次郎右衛門忠常は忠明の三男。初め忠勝と称す。父に学びその
統を継ぎ次郎右衛門を襲名す。忠常は徳川家並びに多数の門人を指南した。」とあります。
忠明は柳生新陰流の柳生宗矩とともに徳川家指南役となった剣豪です。
ちなみに、北辰一刀流はこの小野派一刀流の分派になります。


東参道ー8

忠明の墓石には「妙法蓮華経 清岸院妙○霊」と刻まれ、寛永五年(1628年)の日付が読めます。
また、忠常の墓石には「妙法蓮華経 清海院日岸居士」と刻まれ、寛文五年(1665年)の日付が
あります。
墓石の後ろから撮ってみました。
これが父子が見ている景色です。
優しい木漏れ日に包まれて、二人は静かに眠っています。
忠明は元和三年(1617年)に寺台の地頭となっていることから、
この地に埋葬されているのでしょう。



父子の五輪塔の墓にはそれぞれ次のような文字が刻まれています。

(忠明)   妙法蓮蕐經  寛永五戊辰  清岸院妙達霊  十二月七日
(忠常)   妙法蓮蕐經  寛文五乙巳年  清海院日岸居士  十二月六日了

寛永五年は西暦1628年、寛文五年は1665年になります。



慶長六年九月に寺台村に本領二百石を賜った小野次郎右衛門ですが、「丸山町史」のP1498に
【典膳(忠明)は将軍家の御指南、御側役のため本領地にはほとんど居なかったようである。】
と書かれているように、寺台村との関わりは希薄だったようです。

このへんが、寺台村誌やその他の史料に次郎右衛門の人間性をうかがわせるエピソードを
見つけることができない理由になるのでしょうか。



小野忠明は、大阪冬の陣・夏の陣に参戦をしていますが、同僚の四奉行の戦場でのふるまいが
見苦しいものであったと強くなじったため、奉行達が諸大名が同席している席で将軍秀忠に直訴
し、大騒動になったことがあります。
【 ところが突発的に不幸が起った。典膳が元和元年、大阪夏の陣に諸道具奉行として出陣中、
同僚の神谷、山角、伊藤、石川の諸奉行が戦況不利に陥った時、督戦の事を忘れ兵と共に
動揺した事を誹謗したとして罰せられ、翌年九月閉門と決まり将軍家の側を去ることになる。
同僚奉行の捨て逃げたあと踏み留まって督戦につとめた働きを認められず、他の奉行達の
反論に上司の心無い裁定であった。しかし後に閉門を解かれたと「寛政重修諸家譜」に記され
ている。】 
 (「丸山町史」第八章 人物 P1498)

また、少し名の通った剣士に対して、相手を誹謗中傷する言辞を吐き、勝負に持ち込んで相手を
叩きつぶすようなことがあったり、同じ将軍家剣術指南の柳生宗矩をあからさまに蔑視するなど、
大人げない言動が多く伝えられています。

傲慢不遜というか融通の効かない、偏屈な天才剣士という、次郎右衛門の人物像が伝えられて
いますが、領民との触れあいのない孤独な後半生であったと推測されます。


東参道ー6
                                          (2014年7月撮影)

次郎右衛門の影の部分について、次のような記述を見つけました。

【まず丸山町御子神に語り伝えられる話から書いてみる。その伝説とは、御子神典膳が十七、八才
頃、御子神の村里に一人の旅の武芸者が訪れた。剣術自慢の典膳は早速、武芸申し込んだ申込
んだ。立合った結果は惨憺たるもので、コテンコテンに打ち据えられてしまった。悔しくて仕方ない
典膳は一計を案じた。それは、家の附近の樹に繫いであった牛を態と解き放し、その武芸者に
牛を取り押さえてくれるよう頼んだ。そして武芸者が牛を捕まえようとして、牛に気を取られている
スキを見て、突然斬り掛かり武芸者を殺してしまったという伝説である。】
【また、もう一つは彼の知行地である成田での話であるが、最初彼の領地は下総埴生郡の一部
だったと言われている。そして当時、成田の寺台領主として海保甲斐守という者が居た。甲斐守も
豪勇の士として有名であった。その海保甲斐守を小野次郎右衛門が、自らか?又は、家来に命じ
てか?暗殺したという伝説である。】
 (「考証 小野次郎右衛門忠明」 宇田川秀雄 昭和63年 P27~29)

海保甲斐守の件については諸説あり、
(本ブログ「寺台城の豪傑海保三吉」を参照 寺台城の豪傑 海保三吉 ☜ ここをクリック )
真実は闇の中ですが、この本の著者は、次のように述べています。
【これらの伝承は今迄小説等に書かれてきた、真面目な御子神典膳像や、粗暴なところはあるが
卑怯な振舞を嫌う武辺一本槍の小野次郎右衛門の映像からは想像できない汚れた姿である。
これは私にとっても郷土の英雄の像を汚すことであるから大変残念至極であるが、調査の結果
その様な伝承が在ることが判明したのだから、ここに書きしるすのもやむを得ないのである。】

(同 P29)


どんな人にも明るい部分だけでなく、暗い部分もあるものです。
剣豪としての名声をほしいままにした小野次郎右衛門にも、闇の部分が見え隠れします。
命のやりとりを何度も行ってきた剣客が、その勝負の全てで正々堂々と振舞ったということは
考えられなく、修羅場の中で人には言えぬ卑怯な行為や策略があったはずです。
生き残った勝者は堂々と勝ったことになり、倒した相手の数だけ伝聞が膨らみ、やがて高潔な
人格者としての「剣豪像」が一人歩きして行きます。
小野次郎右衛門がそうであったとは言い切れませんが、人々の記憶からはただひたすら強く、
剣以外の俗事など彼を語るに不要なこととされてきたのでしょう。
諸説あるものの、忠明には忠常をはじめとして三人または四人の子どもがいたようなので、妻
がいたはずですが、ここに触れている文献は見つかっていません(永興寺には次郎右衛門夫妻の
木像が保管されています)。
人々には、彼の人間性や知行地での施策などは記憶に留めるほどの価値がなかったのでしょう。


次郎右衛門が寺台村の地頭となったのは元和三年(1617)ですが、領民には人気のあった海保
三吉が切腹となったのも元和三年。
つまり、次郎右衛門は前地頭の海保三吉が無念の死を遂げた直ぐ後に地頭となり、しかも、諸説
あるものの、海保三吉を追い詰めた張本人と目されていたわけですから、村人達に人気がない
のも仕方ないところでしょう。


天才肌、または一芸に秀でた人の中には、往々にして融通の利かない、付き合いづらい人物が
いるものです。
言わずもがなの一言を言ってしまう、大局に影響ないのに自説に固執する、妥協することができず
組織の内で常に敵をつくってしまう・・・。

徳川家康によって、柳生新陰流の柳生宗矩と一刀流の神子上典膳(小野忠明)の両名は同時期
に200石で召し抱えられましたが、その後柳生宗矩は関ヶ原で2000石に、大坂の陣の後には
3000石に加増されています。
一方、小野忠明は、生涯で600石に加増されたのみです。
世渡り下手な次郎右衛門の生涯を象徴するような結果です。



人並みに野心はあったものの、生来の性格が出世を阻み、並外れた剣の力を活かす場面の
少ないままに人生を終えてしまった剣客・小野次郎右衛門忠明。
その剣名の高さに相応しいとは言えない不遇とも思える一生に、後悔はなかったのでしょうか。


房総風土記の丘に御子神家住宅が移設されています。

風土記の丘ー12
                        風土記の丘ー11
風土記の丘ー13
(房総風土記の丘に移設されている「旧御子神家住宅」)

のどかな上総の農家ですが、このような環境の中からどのようにして剣聖と称される人物が生まれ
たのでしょうか。
どこかがほんの少し変っていたら、典膳の人生はどう違っていったのでしょうか。
軒先に立って覗く薄暗い室内から、若き典膳の息づかいが聞えてくるような気がします。


東参道ー16
(「永興寺」 2014年7月 撮影)





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人とその歴史 | 13:42:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
寺台城の豪傑・海保三吉
戦国末期の世を風のように駆け抜けて行った海保三吉(かいほ みつよし生年不詳~元和三年
(?~1617)は、剛力で知られた武将で、寺台の高台にあった寺台城の城主でした。

海保三吉は謎の多い人物で、「新編成田山史」には次のような記述があります。
【そもそも海保三吉なる武将そのものが、かなり不明瞭な伝承的かと考えられ、その事績につい
ても、全てを史実と考えることは躊躇される。】
 (P169)

今回は、この「海保三吉」を追いかけてみます。


足利幕府と下総の結城一族との合戦 ―結城合戦・永享十二年(1440)~嘉吉元年(1441)で
結城方に与して討ち死にした里見家基の嫡子・義実と次男・家氏は、安房に逃れて安房里見氏
を興しましたが、三男の又三郎は父・家基の領地であった上総の里見邑に逃れて、上総の守護
・千葉介胤直に仕え、海保庄の領地を与えられて海保氏を興しました。

以降、海保氏は代々千葉氏に仕え、徐々に重用されるようになってゆきます。
海保氏四代の泰氏の時には下総佐倉山城に移り、嫡子信氏が千葉介勝胤と昌胤の代に執権職
を務め、さらに信氏の子の勝氏は千葉介利胤・親胤の代にも執権を務めました。
信氏の子・七代の氏之は千葉介富胤の執権を務め、成田の寺台城主でもありました。

八代・英氏のとき、豊臣秀吉の小田原・北条攻めがあり、北条氏が敗れると、九代・氏次(三吉)
は德川家に仕えたものの、後の改易等によりやがて海保氏宗家は断絶することとなります。
     
里見家基--海保氏義--氏重--氏俊--泰氏--信氏--勝氏--氏之--英氏--氏次(三吉)



                                   ( 寺台城址 )


三吉にまつわる伝承は多くありますが、代表的な二つの話を紹介します。

【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の2つ
の仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に信仰の
深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さまの脇におら
れる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】
  (新勝寺ホームページ)

この記述の後半部分、斃れた三吉が蘇生したという合戦とは、天正元年(1573)小田原北条氏と
下総千葉氏とが戦った公津合戦のことで、戦死が伝えられていた陣営に三吉が戻ったため、皆が
大層驚いたことは事実のようです。

成田山公園-115
                 (成田公園内にある不動明王三尊像)
**額堂-99
                 ( 光明堂脇にある不動明王三尊像)                    

制咤迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)が脇侍となって不動明王の左右に
控える三尊像は成田山内にいくつか見られます。
通常、明王の左(向って右)に制咤迦童子を、右(向って左)に矜羯羅童子が控えています。

成田山を深く信心していた三吉らしい話です。


三吉の剛力ぶりを示すもう一つの伝承は、前述のホームページ文章の前半部分に関わる、
成田山の仁王さまとの力比べです。

成田山の二王様は「朱振りの仁王尊」といわれていますが、かつては白木の仁王様でした。
あるとき、寺台城主だった海保三吉が成田山に参詣したとき、「私に誰にも負けない大きな力を
与えていただけたら、朱塗りを奉じたい」と願をかけました。
その帰路のこと。闇夜の中で大男が両手を拡げて三吉の行く手を遮りました。
三吉はこの大男に組み付き、信じられないほどの力で大男を投げ飛ばしてしまいます。
その時、頭上から「我は成田の仁王なり。汝の願いを聞き入れて敵一倍の腕力を授けたり。」と
大声が響きわたりました。
三吉は約束どおり仁王を朱塗りにし、仁王を投げ込んだ田を仁王面と名付け、成田山に寄進
しました。




模写 「怪談春雨草紙」中の挿絵 (市川三升 作 歌川國安 画 文政十三年ー1830)
    孝蔵(海保三吉)と仁王との格闘 (「仮名垣魯文の成田道中記」昭和55年に収録)


山門ー16
                成田山の仁王門      (2014年5月撮影)

山門ー9
                        ( 那羅延金剛[ならえんこんごう])
山門ー8
                         ( 密迹金剛[みっしゃくこんごう])

さて、三吉と格闘したのはどちらの金剛様だったのでしょうか。


【・・・それぞれにひかえたるうちにたゞ一人、土俵の上に力足をふみならしいる者あり。見るに、
その丈七尺五寸余にして、眼するどく、顔色総体朱をそゞぎしごとく、あくまで骨太にして仁王の
いけるがごとし。宵より二十七番をとるといえども、一度もまけをとらず、かちつゞけたり。見物
一同こゝろにくしとおもへども、たれ相手になるべき者もなく、口おしながらひかへゐる。この時、
桟敷より孝蔵にとるべしと下知あり。つれきたりし山伏もたってとるべしと、そのかはりには汝が
のぞみごとかなへべしとすゝむるゆへ、いまはせんかたなく、孝蔵土俵のうちにとびあがり、
たがひに式礼なし、たちあはんとせし時、孝蔵心におもふやう、なかなかかれにひきくんでは
かなふまじ、手先にてとるべしと、アイヤと声かけ。双方たちあひ、しばらくもみあふそのありさま、
竜虎の勢、されど孝蔵はわづか五尺五寸あまりの小男、かたがたは七尺五寸にあまる大の男
なれば、やゝともすれば孝蔵あやうく見へければ、見物固唾をのみ、目ばたきもせず見つめて
ゐたりしが、大の男やっと声かけ孝蔵をつかまんとするところをすかさずとって足をかけつき
けるが、なんなくかの大の男を土俵の外へおのれが力にて半身土の中へうづんだり。】


これは、七代目市川団十郎が文政十三年(1830)に書いた、「怪談春雨草紙」にある一節で、
海保三吉の伝説的武勇伝からヒントを得たと思われます。


秀吉による北条氏討伐に際して、北条方の体制は団結とはほど遠いものでした。
長い間、関東の八カ国に君臨してきた北条氏の暴政に苦しめられてきた多くの家臣の不満は
大きく、大名達の評定(小田原評定)はなかなか定まらず、秀吉軍につけいる隙を与えました。
後に「小田原評定」とは、「議論ばかりで結論が出ないこと」と揶揄されることになります。

面従腹背の家臣達につけいって帰参を呼びかけたのが徳川家康です。
千葉氏一族の大須賀氏・原氏・押田氏・土気、東金の両酒井氏等も、それぞれ領地を与えられて
德川氏の直参となりました

寺台城主であった海保英氏は小田原城に詰めていたため、殿台城主であった馬場伊勢守勝政が
城代として寺台城を守っていました。
しかし、優勢な德川勢との戦いは厳しく、馬場勝政は討ち死にし、寺台城と殿台城はともに炎上し、
あえなく落城してしまいます。
直線距離で2キロにも満たない二つの城が炎上する様は恐ろしい景色だったに違いありません。
住民はどんな思いで燃える城を見上げたのでしょう。

なお、殿台城は今は跡形もありませんが、現在の美郷台のJR線路脇にあったようです。
馬場勝政は土屋の「大宮神社」を創建した千葉氏一族の武将で、寺台城下の永興寺に葬られた
と伝わっています。


裏参道-58
                     大宮神社 (2014年5月撮影)
*******東参道ー16
                     永興寺 (2014年7月撮影)


英氏は家康に帰参しましたが、寺台城の再建は叶わず、焼け跡に屋敷を構えていたようです。
【三吉は部屋住とは云え身長七尺五寸、力量二十五人力と云われ、殊に膂力(りょりょく)が非常
に強かったので、家康は大御番を命じ別に三百石を給わり信任された。父の没後家督を相続して
四千三百石の直参となって甲斐守氏次と称するようになった。】
  
(「広報よこしば 第46号」 昭和43年7月)

7尺5寸って227センチ! 
NBAウィザーズの八村塁(203㎝)やVリーグジェイテクトの伏見大和(207㎝)よりも背が高い!
この時代にこの背丈は事実ならば怪物です。
まあ、よくある大袈裟な表現なのでしょうが、ともかく図抜けた大男だったのでしょう。
ちなみに、部屋住み(へやずみ)とは嫡男でまだ家督を相続していない者や、次男以下の独立
せずに親元にいる者を指します。
また、大御番とは、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊のことです。


大御番となった三吉は、生来の粗暴さ故の不祥事を重ねてしまいます。
房総関連の古文書や諸記録を集大成した「房総叢書」の中の「千葉傳考記」に、次のような
記述があります。

【海保三吉は、千葉家の士なり。後に召し出されて幕府の直參となり、大番組を勤む。然るに、
慶長十四年十月十六日、大番頭たる水野市正・近勝口口切腹を命ぜらる。其の故は、去月
廿九日、市正宅に於て服部牛八が久米左不治を双傷せし事あり。其の時、近勝は寺院に入
りて、陳謝する所ありしも、去々年以來、此の市正組の海保三吉・荒尾長五郎・有賀忠三郎・
世良田小傳次・小股猪右衛門・間宮彦九郎等、伏見在番中、徒然に堪へずして密々所々を
徘徊し、樊崎講といふものを催し、街中に於て双傷を遊戯とし、殊に海保は坂東の強力たるに
依りて、忍びて上京し、好みて相撲を取りけるが、遂に秀賴の中間を抛殺せり。やがて、三年
の在番終りて歸府し各々其の知行所に休息しけるところ、其の濫行露顯し、遂に死罪又は改易
となりたりといふ。この時、間宮彦九郎一人逃亡せしが、妻子を虜とせらるゝ、由を聞き、忽ち
出で自殺せり。其の外、松平九郎右衛門忠利・津野戶左門・岡部庄九郎・駒井孫四郎も連座に
よりて其の祿を沒收せらる。小斐仁左衛門は、父の忌中に密々江戶へ下りし爲め改易。藤方
平九郎・小川左太郎は罪なしと雖も、其の家僕が商人を摶殺して逐電せし故、「尋ね出し斬戮す
べし」とて、其の間のを祿收せられしが、後遂に探り出し、之を斬りて歸參する】



三吉の乱暴者ぶりは相当なもので、喧嘩で複数の武士を殺したり、相撲で相手を投げ殺したり
したと言われています。
一方で、三吉が領民に慕われていた、善政を行っていた、という記述も散見されますが、乱暴者
とする記述に比し非常に少なく、検証がむずかしいところです。

史料のほとんどは大御番時代の振る舞いから寺台での最期まで、そして彼の墳墓に関する記述
ばかりです。
三吉の領主としての姿、領民とのふれあいなどについての史料は海保家の記録として残されて
いましたが、残念ながら焼失してしまったため、今では知ることができません。
わずかに「広報よこしば」第48号(昭和43年9月)に、以下のような記述を見つけました。

【さて寺台の人々は今でも甲斐守様とか三吉様とかと尊敬しているから、豪放多く非道に出たと
伝えられた節もあるが、己が領民に対しては善根を施したから、それが子孫に伝わり今に残って
いるのであろう。】 



史料は一気に寺台城下での三吉の最期を語ります。

【これらのことで小野次郎右衛門が三吉の非道を将軍に言上したため、佐倉城主土井大炊頭
利勝に命じ御名代として篠田勘兵衛、日暮弥市の二人に大将を命じ三百騎をもって寺台城攻略
にかかったのである。】 
 (「広報よこしば 第47号」 昭和43年8月)

【それから三吉は寺台の河岸まで来て見ると橋を引いて河面には篠田、日暮両人の上使が出迎え
「御上意にて土井大炊頭名代としてわれ等両人罷り越した。それにて切腹なされ候え」と呼ば
わる。三吉これを聞いて「御上意なれば是非なし。城に入って切腹仕る。橋を渡し候え」と答えた。
これに対し「橋を渡すこと罷りならぬ。それにて切腹召され候らえ」と言うや否や三百騎の兵、三吉
を渡さじと切先をならべ、槍ふすまをつくって川端に馳せ向う。三吉これを見て幅八間の根木名川
を飛び越えながら、二十四本ひかえた槍を両手にて八本をかい掴み引折って捨ててしまった。この
勢いに恐れをなし大勢の者ども一度にどっと引き退く。しかし渡って行っては御上意に叛く。ちょうど
川辺に嶋の坊という行屋があったので、そこに立入り見ごと切腹して相果てた。時に元和三年十月
一日、三吉行年四十八才であった。】 
  (「広報よこしば 第48号」 昭和43年9月)

「行年四十八才」とあるのが正しいとすると、三吉は永禄十一年(1568)生まれ(数え年齢)という
ことになりますが、そうすると公津合戦で制咤迦童子に助けられたという伝承の天正元年(1573)
ではまだ6才ということになり、(伝承とはもともと不合理に満ちていますが)話に無理があります。

【神君海保氏ノ暴慢ヲ悪ミ、土民ヲシテ之ヲ誅セシム。三吉偶山之作村圓融寺ニ在リ、棋ヲ圍
ム。之ヲ聞キ将サニ帰ラントス。酒々井人篠田勘七槍ヲ持シ、寺臺橋下ニ隱レ其過ルヲ伺ヒ、
突テ之ヲ僵ス。今橋側松アリ血塚ノ松ト云、其所ナリト。】
  
(下総國下埴生郡寺臺村誌 明治十七年)

【海保三吉ノ遺址ハ本村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉力ヲ飽マテ強ク能ク尺ノ圍ノ竹ヲ握リテ之ヲ
潰ブス。後、力ヲ負ミ豪放ニシテ其為ス所多ク非法ニ出ツ。元和中神君小野次郎左衛門(右ノ
誤カ)ニ命シテ之ヲ誅セシム。小野氏三吉ヲ攻ム。三吉輙輙クモ屈セス。小野氏諭シテ曰、汝チ
順逆ノ分ル所ヲ知ラス、而孤城落日ヲ恃ミ強力ニ誇コルルト雖、能ク幾ハク時ヲ保タンヤ、速ニ
自衂スルニハ如カス。汝若シ我言ニ従ハゝ我汝カ為メニ墳墓ヲ營ミ、香花永ク絶エサラシメント。
三吉其言ヲ容レ割腹シテ死ス。】
   (同上)

三吉の最期については諸説あるようですが、根木名川の寺台橋近辺が波乱の人生の終焉の地
であったようです。
< 山之作の円融寺で住職と碁を打っているとき、三吉討伐の軍勢が来たとの知らせがあり、
急いで城に戻る途中の寺台橋で討伐隊と遭遇し、獅子奮迅の抵抗を続けたが、小野次郎右衛門
の説得を受け入れて切腹した>といったところでしょうか。

円融寺ー21
                          三吉が碁を打っていた円融寺


寺台橋とはどこに架かっていたのでしょうか?
寺台城の位置や、昔からの古い街道である三里塚街道の起点などから、現在の「あづまばし」
付近と考えて間違いないと思われます。

三里塚街道ー75  (上流)
三里塚街道ー76  (下流)

現在の「あづまばし」から見た景色です。
当時は現在よりも川幅は広かったようです。


三吉の墓については、明治十七年の「下総國下埴生郡寺臺村誌」に詳しく記されています。

【海保三吉墓 村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉ハ海保丹波守ノ子ナリ。天正十八年千葉氏滅ビ、
東照神君千葉氏ノ奮臣海保三吉及ビ某々等ヲ召シ采地ヲ賜フ。三吉本村ニ居ル後暴慢ニ
シテ誅ニ遇フ。茲ニ葬ムル。】
                    

【海保塚  村ノ東北ノ間ニ突出ス。四面林巒村落其間ニ参見シ、平田数百町歩一目ニ瞰下ス。
風光壮快月ニ宜シク、雪ニ宜ク、花ニ宜ク納涼ニ宜シ、本地ハ海保氏墳墓ノ在ル處ニシテ、古
松矗々林立シ頗ル名勝ノ區ナリ。】
 

【本地ハ海保氏ノ墳墓アル所ニシテ墓上巨松アリ、大サ四抱許、一幹三枝ニ分ル。三枝ノ大サ
皆二抱許、枝下ノ長サ配枝ノ風容相同シク翳欝トシテ髙ク雲辺ニ聳ユ。口碑ニ依レハ海保三吉
自劒ノトキ遺言スラク、墓標トシテ松ヲ植ヘヨ、後世該松ノ三枝ニ分ルヲ見ハ吾成佛セシナリト。
松ノ三枝ニ分レシハ其何年頃ナルヤ詳ナラス。其他境内ノ古松大サ皆二、三抱許アリ。】

                               

三吉の亡骸は焼け落ちた寺台城の出丸跡に葬られ、遺言によって墓標に松が植えられました。
昭和28年に松が枯れ、撤去のために根元を掘り起こしたところ、真下から一体の人骨が出土
し、調査した結果、言い伝え通りの偉丈夫らしい骨格で、三吉の骨であることが判明しました。
永興寺にて供養が行われた後、再び元の場所に埋葬されました。

東参道ー16
                   三吉の供養が行われた永興寺(ようこうじ)              


寺台城址の様子は、2014年7月の「成田山東参道を歩く」から引用します。

東参道ー25
東参道ー26

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、訪ねる人も無い林の中に
建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。

【後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。】


東参道ー27

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。


現在はきれいに整備されていると思いますが、約7年前の様子は寂しいものでした。



さて、最期に三吉と成田山の関係について見てみましょう。


【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の
2つの仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に
信仰の深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さま
の脇におられる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】

                            (新勝寺ホームページ)

【伝承では成田山新勝寺は、現在の成田市寺台の地にあった寺台城の城主海保甲斐守三吉(?
~一六一七)の肝入りで、永禄九年(一五六六)六月二十八日に現在地で落慶供養を行ったと
いわれている(「新修成田山史」三一頁)が、これが他所(公津ヶ原)からご本尊を遷座しての入仏
落慶供養であったのか、あるいはすでに現在地に遷座していて、新たに本堂や他のお堂を整え
てからの落慶供養であったのか判然とせず、またこのときの寺台城主は海保三吉ではなく馬場
伊勢守勝正(?~一五九〇)であったはずであり、混乱しているところがある。】

                           (「新編成田山史」 P91~92)

【この城は、千葉氏一族出身で家臣であった馬場氏の居城(詰の城であった)と伝承され、豊臣
秀吉の天正十八年(一五九〇)の小田原攻めのとき、城主馬場伊勢守勝政が千葉氏とともに
北条方に加わって敗死し、そのために城は徳川家康から海保三吉に与えられたと伝えられて
いる。これによれば海保三吉は、馬場勝政の後に寺台城の城主になっていたことになり、小田原
攻めの後となるので、永禄九年(一五六六)に新勝寺落慶供養が行われたとすれば、そのときの
城主は勝政であったとみられる。後の者が寺台城の城主ということからだけで単純に海保三吉と
記してしまったのであろう。】
  (同 P149)

成田山新勝寺としては、海保三吉が新勝寺を現在地に移し、諸堂を整備・建立したとする説には
疑問を持っているようですが、ホームページでは三吉が諸堂の建立をしたと記しています。
また、馬場勝政は寺台城落城の時点では殿台城の城主であって、寺台城主は海保英氏でした
(当時、馬場勝政は寺台城の城代家老)。
つまり、馬場勝政の戦死にによって海保三吉が寺台城主になったのではなく、秀吉の小田原攻め
の時点での寺台城主は三吉の父・英氏だったのです。
海保氏が寺台城主として記録に表れるのは、三吉の二代前、英氏の父・氏之ですので、海保氏が
永禄九年の落慶供養に大いに貢献した可能性はあると思います。
記録には、氏之は千葉介富胤の執権を務めたとありますが、千葉介富胤が下総千葉氏宗家の第
27代当主となったのが弘治三年(1557)ですから、永禄九年(1566)の新勝寺落慶供養に向け
て氏之が寺台城主としてまた千葉氏執権として大いに貢献したと考えることに無理はありません。

私は、年代的にみて落慶供養の主役は三吉ではなく、氏之であったと考えます。
三吉が仁王像を朱塗りにしたのは事実のようですから、史料の記述の際に寺台城主として知名度
のある三吉の業績と記してしまった、ということではないか、と想像します。


「新編成田山史」は、海保三吉について一項を割いています。
【海保三吉 武士・武将による信仰の最後として、海保三吉の霊験譚について述べる。 海保三吉
は、現在の寺域に隣接する寺台にあった寺台城の城主で、甲斐守を名乗った。 ただし、これは
官途名乗りであって、朝廷の任命する国史としての実質や、甲斐国(現山梨県)との関係は一切
ない。三吉は当山の諸堂を再建し、永禄九年(一五五六)六月二十八日に落慶入仏供養を行った
と伝えられる。 これはまた一説に、同元年に係るともいう。 これより先、天文七年(一五三八)に
生実御所源義明と相模小田原の北条氏綱とが戦ったとき、堂宇や文書・記録類がことごとく失わ
れたといわれており、それを復興したということであろう。
具体的な話としては、かつて当山の仁王門にある密迹・金剛の仁王尊像が素木造りであったの
を、大力を授かった礼として朱塗りに改め、田地を寄進したという。この田地は寺台にあって、
小字名を仁王面というが、おそらく仁王免であろう。】 
 (P153~154)


部屋住みでありながら家康に引き立てられて京・伏見の御番頭となった三吉は、すっかり舞上
がってしまったのでしょう。
勢いづいての乱暴狼藉を注進され、亡くなった父・英氏の跡を継いで寺台城主となったものの、
討手を差し向けられて無念の切腹をした三吉。
制咤迦童子による蘇生伝説や、仁王との格闘伝説が物語るように、成田山を深く信仰した三吉。
領民に慕われ、後世にまで語り継がれる一面を持つ三吉。

私は、力を持て余してついつい乱暴を働いてしまうが、直情径行型の気のいい大男(昔はこんな
ヤツがいたなあ)を想像してしまいます。


***境内ー20





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人とその歴史 | 13:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
気になる石仏~馬に乗った馬頭観音

馬乗り馬頭-12

     聖観音のように見えますが、実は「馬頭観音」です。

今回は、「気になる石仏シリーズ」の馬頭観音編で、馬に乗った観音様「馬乗り馬頭観音」です。
「馬乗り馬頭観音」は、千葉県の東総地区と上総の木更津周辺地域にのみ見られると言っても
過言ではない、とても珍しい石仏です。(他には、長野県、群馬県をはじめ、9都県に合計30基
ほどが確認されているだけのようです。)


馬乗り馬頭-4  香取市神生「観音寺」
馬乗り馬頭-23  香取市鳩山「円満寺」
血当寺ー18  香取市下小川「血当寺」

今回は、以前に取材で何回か訪れたことがある、旧山田町(現香取市)の「観音寺」と「円満寺」、
旧小見川町(現香取市)の「血当寺」の3基を紹介します。

馬頭観音については「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 幻冬舎)に次のように解説されています。 
【 サンスクリット語でハヤグリーヴァといい。文字どおり「馬の頭を持つもの」という意味。天馬
のように縦横無尽に駆け巡り、困難を乗り越えて衆生を救済する。】
 (P119)

馬頭観音は、観音像に見られる穏やかな表情ではなく、怒りの表情をしているため、「馬頭明王」
と呼ばれることもあります。
また「馬頭」という名前から、民間の信仰では馬の守護仏として祀られることが多く、さらには馬
に限らずあらゆる畜生類を救うとされて、「六観音」では畜生道を化益する観音とされています。

近世になってから、牛に代って馬が人の移動や荷物運びの手段として使われることが多くなる
とともに、馬の事故死も増加してきました。
慣習として地域の役馬を供養するために建てられた馬頭観音塔もあれば、愛馬の死を悲しんで
建立された馬頭観音塔もあります。
急坂の途中にある石塔は、きっと後者のものでしょう。

成田街道ー106
成田街道ー29 
     旧成田街道酒々井町大崎の急坂途中にある馬頭観音

押畑稲荷ー3
押畑稲荷ー71
     旧水戸街道押畑の山中に建つ馬頭觀音(享和三年)

松崎街道ー25
松崎街道ー32  
     旧松崎街道観音堂の急坂途中にある観音堂の馬頭観音

これらは、愛馬を失った悲しみと、後悔の気持ちがこもった供養塔なのでしょう。


まずは、2016年5月に紹介したことがある、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」です。

馬乗り馬頭-19
***************馬乗り馬頭-2

【 神生、向油田にある。本尊に馬頭観世音菩薩をまつる。下総七牧の一つ、油田牧の内にあり、
馬観音として信仰されてきた。】
 (「山田町史」昭和61年 P1345)


山田馬頭ー32

本堂に向かって左手に「馬乗り馬頭觀音」があります。


馬乗り馬頭-3
山田馬頭ー23

立っている二基は刻まれた文字が読めますが、倒れている二基は枯れ草や土に埋もれ、風化も
進んでいて、「馬頭観世音」の文字のみがかろうじて読めるのみです。


馬乗り馬頭-5

この石仏は風化が余り見られず、刻まれた文字も読むことができます。
観音像の左側には「安永六丁酉」、右側には「六月吉日」と刻まれ、左下に「小見川 弥兵衛
苗谷」、右下に「宮ノ内栄■ 新田」と刻まれています。

安永六年は西暦1777年、243年も前のものです。


馬乗り馬頭-6

右手に三叉、左手に未開の蓮を持ち、馬上に趺坐しています。
普通、頭上には馬の頭があるのですが、この像は宝冠を被っていて、顔つきはとても柔和です。
馬に乗っていなければ「観音菩薩」と見分けがつかないでしょう。


馬乗り馬頭-7
馬乗り馬頭-16
山田馬頭ー21 2016年5月撮影

本堂の扉に空いた小さな窓から、御前立ちの「木像馬乗り馬頭観音」が見えますが、馬上で趺坐
する姿は、後ろの厨子内に安置されている本尊と同じ像容と言われています。
そして、この石造馬乗り馬頭観音像も、ほぼ同じ像容に見えます。


馬乗り馬頭-8
馬乗り馬頭-9

隣の倒れかけた小さな石仏には、「元治元甲子十二月」「内山村」と刻まれています。
馬頭観音が馬に跨がっている跨座型です。

元治元年は西暦1864年、徳川家茂の時代で、新撰組の池田屋事件や禁門の変など、幕末の
騒然とした世情でした。


馬乗り馬頭-12
馬乗り馬頭-13

馬頭観音に似合わぬ柔和な表情や、観音を支える馬の表情など、他の馬乗り馬頭観音に比して
丁寧な彫りに思えます(風化が進んでいないせいもあるでしょうが)。



次は鳩山の円満寺の馬乗り馬頭観音です。

「円満寺」については、「山田町史」の以下のように紹介されています。
【 鳩山字イリグチにあり、本尊は阿弥陀如来をまつる。浄土宗に属しているが、現在の堂舎を
解体し境内に青年館を建築して、本尊仏をここに安置している。】
 (P1346)


馬乗り馬頭-32
馬乗り馬頭-20

小さな子安観音堂の脇に6基の石仏が無造作に並んでいます。


馬乗り馬頭-21

左奥の1基が「馬乗り馬頭観音」です。


馬乗り馬頭-22

「安永五申七月吉日」「鳩山村中」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、「観音寺」の「馬乗り馬頭観音」の1年前のものです。

馬に跨がる跨座型で、馬の足が長くスッキリとした印象です。


馬乗り馬頭-24

一面二臂で根本馬口印を結んでいます。
ややうつむき加減の表情は、眉がつり上げた忿怒相にも見え、柔和な表情にも見えます。


馬乗り馬頭-26

頭上には宝冠のようなものを被っていますが、もともとは馬頭が彫ってあったものが風化して
しまったのかもしれません。


馬乗り馬頭-25

馬の表情もしっかり彫ってある印象です。


馬乗り馬頭-31
馬乗り馬頭-23

風化とともにウメノキゴケがつき、劣化が進んでいます。
如意輪観音像や青面金剛像など、境内を整理したときに寄せ集めたのでしょうが、もう少し
保護が欲しいところです。



次は、血当寺の「馬乗り馬頭観音」です。

【 東光院血当寺 小見川町下小川に在り、境内七三二・六平方メートル、天台宗東叡山派で
薬師如来を本尊とする。永禄十年(一五六七)成毛宗正父宗親戦死の地に英霊を弔うために
東光院血当寺と称した。間口六間奥行四間半であったが腐朽し、現今これを改造した。】

(「小見川町史通史編」 平成3年 P1146~7)

馬乗り馬頭-33

参道の左側にずらりと石仏が並んでいます。
手前から二基目が「馬乗り馬頭観音」です。


馬乗り馬頭-34

残念ながら全体の3分の1程度がコンクリーで固められ、像容の全体を見ることができません。
跨座型の一面二臂で、頭上に宝冠を被っています。


馬乗り馬頭-35

「廿三□待」(□は夜の異体字)、「安永五丙申吉日」、「小川村」と刻まれています。
安永五年は西暦1776年、円満寺の馬乗り馬頭観音と同じ年、観音寺の1年前です。
旧山田町・旧小見川町近辺の馬乗り馬頭観音は、安永年間に集中的に建立されたようです。


血当寺ー18 2016年5月撮影
馬乗り馬頭-36 2020年10月撮影

4年の間にウメノキゴケの範囲は広がっています。

古い写真を見ると、この像の馬には四本の足が刻まれている、とても珍しい像容でした。
コンクリートを剥がしての復元は難しいでしょうが、せめて、円満寺の馬乗り馬頭観音同様、
ちょっとした保護活動が欲しいものです。


馬乗り馬頭-37
血当寺ー16  2016年5月

昨年、一昨年と続いた台風の影響でしょうか、堂宇は傾き、「崩壊危険」の立て札がありました。
東日本大震災以来、どこも文化財の復旧・保護が進んでいないようです。



「観音寺」  香取市神生1473-1
「円満寺」  香取市鳩山502-1
「血当寺」  香取市下小川1584



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馬頭観音 | 12:30:54 | トラックバック(0) | コメント(21)
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