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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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大木に囲まれた静寂の空間~久能の「駒形神社」

今回は、富里・久能の「駒形神社」を訪ねます。

駒形神社-1

「駒形神社 旧村社 <祭神>駒形神(こまがたのかみ) <主要建物>本殿・亜鉛板葺流造
一坪、弊殿・同一五坪、社務所・同六坪 <境内坪数>五三八.五七坪 <氏子>一〇〇戸
<神事と芸能>一月二〇日備社。 四月三日と八月二八日に獅子舞(三匹獅子・羯鼓舞)を
奉納する。」
 (「千葉県神社名鑑」昭和62年)

御祭神の「駒形神(こまがたのかみ)」とは、あまり聞き慣れない神名ですが、馬の守護神で
あるとされていて、「馬頭観音」の垂迹神であるとも言われています。

「駒形神社」といえば、通常、岩手県奥州市にある式内社(現神社本庁別表神社)を指しま
すが、久能の「駒形神社」も、この岩手の「駒形神社」を勧請したもので、「駒形神社」が多く
分布する岩手・宮城地方と同様に、富里が馬の産地であったことと無関係では無いでしょう。


駒形神社-2
駒形神社-51

神社入口の道端に、やや傾いた「道祖神」があります。
この道祖神には「南無道祖神」と刻まれています。

相模地方やその他の地方では、この「南無道祖神」と刻まれた道祖神をよく見かけますが、
これまで私の見てきた成田近郊の多くの道祖神には無かった珍しいものです。
「明和四丁亥」と記されています。
明和四年は西暦1767年で、第十代将軍・徳川家治の治世です。


駒形神社-3

一の鳥居は石造りの明神鳥居で、昭和49年のものです。


駒形神社-4

鳥居の脇にある手水盤は、明治四十五年(1912)に寄進されています。
この年の7月には明治天皇が崩御され、元号が大正と代わりました。


駒形神社-7
駒形神社-8

ニの鳥居は、控柱のある木製の明神鳥居です。


駒形神社-5
駒形神社-6

玉垣に囲まれたこの木は、枯れた幹の根元から蘖(ひこばえ)が生えています。
玉垣には「大當番奉任記念 昭和十五年一月 丸山八代藤崎源之助」と記されています。
この名前は「一の鳥居」にも寄進者として記され、狛犬の台座にも多くの寄進者の中に
寄進者の一人として記されています。


駒形神社-9  昭和15年の石灯籠
************駒形神社-10

駒形神社-11
駒形神社-14
*********駒形神社-15

小振りながら、なかなか重量感のある狛犬は、昭和15年の寄進です。


駒形神社-16

「富里村史通史編」(昭和56年)には、「駒形神社」はこう紹介されています。

「駒形神社  駒形神・天照皇大神・宇賀御霊命
所在地は、久能字比丘尼内にあり、ここは古くは尼僧寺のあった所かも知れない。 「富里
村誌」によれば、村社で祭神は稚産霊命、大巳貴命、面足少名彦命、惶根命となっている
が創建は不詳である。境内には、明和四年(一七六七)丁亥十一月吉日建立の道祖神が
あり、これは、入母屋式石祠で、「南無道祖神」と彫られている。他に二三夜塔、天神宮など
の石塔、石祠がある。また、四月と八月の祭礼に獅子舞が行われている。」
  (P627)

御祭神が史料や時代と共に変わっているのはよくあることです。


駒形神社-17
駒形神社-18
***********駒形神社-20
駒形神社-21

鞘堂に覆われた本殿は、辛うじて流造の屋根が見えるだけで、外からはほとんど見えません。


駒形神社-24

拝殿の屋根に「立浪」の飾瓦がありました。
神社やお寺の屋根に、火除けのまじないとしてよく見られるものです。
「千葉県神社名鑑」には、本殿・拝殿ともに亜鉛板葺となっていましたが、近年瓦葺きに改装
されたようです。

参道の左右、少し奥まった所に、数基ずつの石造物が並んでいます。

駒形神社-25

拝殿に向かって左側の石造物は六基です。

駒形神社-32

一番左には、力石のような丸い石が置かれています。
見たところ、表面にはなにも刻まれていません。


駒形神社-26

「延享四丁卯」の紀年銘が読めますが、何の石祠かはわかりません。
延享四年は西暦1747年ですから、270年前のものです。
(後述の「千葉縣印旛郡誌」にある、「摩利支天王」かもしれません。)


駒形神社-27

三番目の祠は、昭和62年の新しいものです。


駒形神社-29

この五角の柱は、「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植山姫命
(ハニヤマヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。


駒形神社-30

社号も紀年銘もありませんが、風化は進んでいないので、あまり古いものではなさそうです。


駒形神社-31

右端にあるこの石には、何やら文様があるように見えますが、風化で判別はできません。


駒形神社-33
駒形神社-34

拝殿に向かって右側にも、五基の石造物が並んでいます。
手前にある手水鉢には「明治参拾九年」と刻まれています。
明治三十九年は、西暦1906年にあたります。


駒形神社-35

左端の石祠には、「妙正大明神」と刻まれています。
この神様については確たる史料が見当たりませんが、どうやら「疱瘡神」のようです。
(市川市にある「龍経山妙正寺」の縁起に出てくる「妙正大明神」の話が有名です)

「寶暦■辛未」の紀年銘があります。
宝暦年代中の干支が「辛未」となるのは「宝暦元年」ですので、西暦1751年のものです。


駒形神社-36

右にある石祠も「妙正大明神」です。
こちらには「天保六乙未」と記されています。
天保六年は西暦1835年ですから、隣の「妙正大明神」から84年後のものです。


駒形神社-37

拝殿に向かって左側にあった石宮と同じもので、昭和62年と記されています。


駒形神社-38

「奉勸請廿三夜月天王」と刻まれたこの石塔は、弘化二年(1845)の月待塔です。
月待講は通常仏教の世界での行事とされていますが、神道でも行われることがあります。
仏教の二十三夜講では「勢至菩薩」を信仰の対象としますが、神社にある珍しい月待塔の
信仰対象は、「月読尊(ツクヨミノミコト)」になります。


駒形神社-39

右端のこの石祠は、風化で刻まれている文字が読めませんが、上部は「三」と読めるような
気がしますので、「三峯神社」ではないでしょうか。


駒形神社ー40

「千葉縣印旛郡誌」には、「駒形神社」について次のように記述されています。

「村社 駒形神社
久能字比丘尼内にあり稚産靈命大己貴命面足少名彦命惶根命を祭る創建不詳なれども
明治四十三年三月許可を得て仝村大字久能字久保臺にありし無格社妙正神社仝村大字
宮谷にありし無格社皇産靈神社を本社に合祀し祭神を配祠せり本殿間口四尺六寸奥行
六尺七寸雨屋間口二間三尺奥行三間境内百八十坪官有地第一種あり神官は篠原周助にして
氏子三十九戸を有し管轄廳まで八里十一町五十四間なり境内三社あり即
一、天照皇太神    大日靈女貴命埴山姫命少名彦命倉稲魂命大己貴命を祭る由緒不詳
              建物は石祠にして高三尺一寸横五寸
二、廿三夜月天王   月夜見命を祭る弘化二年己年勸請建物は石祠にして高二尺三寸
              横七寸
三、摩利支天王    武甕槌命を祭る由緒不詳建物は高三尺一寸横九寸の石祠なり 」



神社の境内では、毎年4月3日と8月の最終日曜日に、五穀豊穣や交通安全などを祈願する
獅子舞が行われます。
「久能の獅子舞」と呼ばれ、約300年前から行われてきた伝統芸能で、富里市の指定民俗
文化財となっています。

久能駒形ーC
                               (富里市教育委員会生涯学習課 提供)

富里市のホームページに、この獅子舞の”ストーリー”が紹介されています。

「獅子舞は、頭の大きなものから順に「雄獅子」「中獅子(雄)」「雌獅子」と呼ばれる3匹の獅子
によって演じられ、笛と大小太鼓の囃子に合わせて舞を踊ります。 
久能の獅子舞は別名「やきもち獅子」とも呼ばれており、1匹の雌獅子をめぐる2匹の雄獅子
のストーリーが展開されます。
4段の場から構成されていて、1段目の場では、雌獅子と雄獅子がそれぞれの個性を表わし、
2段目では、3匹が入り乱れ仲良く踊りに興じます。3段目では、雄獅子2匹による雌獅子の
独占争いが始まります。争いは、話し合いという形で始まりますが、何度話し合いをしても
折り合いがつかず、そのうちに雄獅子同士の喧嘩が始まってしまいます。
喧嘩の様子はユーモラスで、勝ち獅子は右に左にと大きく飛び回り、倒れて負け獅子が立ち
上がろうとしているところに出向き、「どうだ!参ったか」というような仕草を見せます。 結局、
勝負は引き分けとなって、舞は4段目に移ります。 2匹の雄獅子は争いの愚を悟り、最初の
ように3匹の獅子は仲直りして舞は終わります。 近隣で行なわれている獅子舞は、勇壮な
ものが多いように見受けられますが、この獅子舞は、勇壮な場面の中にユーモラスな動きを
含め、民俗芸能としての娯楽性を備えています。」


久能駒形ーB
                            (富里市教育委員会生涯学習課 提供)

獅子舞の行われる境内の賑やかさが想像できないほど、普段の境内は静かです。
鬱蒼とした木々に囲まれ、日中でも薄暗く、曇天の日はフラッシュが必要なほどです。

駒形神社-53
駒形神社-54
駒形神社-55
駒形神社-52

それにしても、この森には圧倒されます。
杉やスダジイの巨木が何本も、何本も・・・。


駒形神社-41
駒形神社-43

通りの反対側にも幹周りが7~8メートルはあろうかという巨木が・・・。


駒形神社-56
駒形神社-22
駒形神社-44


久能の「駒形神社」は、交通量の多い道路に面していますが、巨木に囲まれた社殿と境内は
忘れられた空間のように静寂に包まれています。



駒形神社-100

                          ※ 「久能 駒形神社」 富里市久能553



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富里市の寺社 | 09:08:34 | トラックバック(0) | コメント(2)
歴史の彼方にチラリと見える「成田五郎」とは誰か?そして何処に眠るのか?


成田五郎-43

成田総鎮守「埴生神社」の御由緒書きの中に、

「 歴史的に年代が出てくるのは、まず仁安3年(西暦1168年)に成田五郎頼重という埴生郡
を領していた武士が鉱物を奉納したと言うことが書かれてあり、成田という文字が出てくる
最初と言われております。」


というくだりがあります。
今回は、ここに出てくる「成田五郎頼重」という人物を追いかけてみます。

三年前に「埴生神社」についてこのブログで取り上げたときは、「成田五郎頼重」には特に
関心を持ちませんでした。
”「成田」という姓から、当時の埴生庄の有力な武士だろう・・・”ぐらいにしか思っていません
でしたが、今年に入って安政五年(1858)の「成田參詣記」中にある「成田山全圖」に次の
ような文字が書き込まれていることに気付いて、俄然、この人物のことが気になってきました。

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

さて、調べ始めたところが、全くと言って良いほど資料が見つかりません。
市立図書館や成田山仏教図書館で調べ、それぞれレファレンス・サービスでも調べてもらい
ましたが、わかりません。
「成田五郎」に関して見つけた記述は、わずかに「埴生神社・御由緒書き」の他に、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著 平成16年)、「成田村誌」(明治十九年)と「成田町史」(大正元年)、
そして「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)に、「鉱石を埴生神社に奉納したこと」と「成田五郎の
墓」がある」ということだけで、どんな人物であったかは全く触れられていません。
そして、その「墓」についても曖昧な記述しかなく、その場所が特定できません。

********成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI成田五郎-0000_LI (4)

横着をして、「埴生神社」に直接お伺いしてみましたが、やはりわかりませんでした。

「成田の史跡散歩」に次のような一節があります。

宮司の宮崎家に伝わる縁起や古文書によると、領主の成田五郎頼重が、仁安三年(一一
六八)に直径一寸五分の鉱物を二個奉納している。縄文時代の磨石であろうか。」


”「成田五郎」は埴生庄の領主だった”というのです。
埴生神社の「御由緒書き」にも、”成田五郎頼重という埴生郡を領していた武士”とありました。
領主とあらば系図にその名前があるはず・・・と当時の埴生庄を治めていた千葉氏の流れを
組む「埴生氏」の系図を追いましたが、「成田五郎」の名はありません。
念のため、同時代の千葉氏の系図も追ってみましたが、やはり「成田五郎」はみつかりません。

*************成田五郎-0000_LI (4)

もしやと思い「成田氏」も調べてみることにしました。
「成田氏」の出自には諸説ありますが、いずれも武蔵国崎西郡成田郷(現在の埼玉県熊谷市
近辺)に勢力を持っていた一族で、下総の埴生庄とは地理的に離れています。
念のため「成田氏系図」を調べてみましたが、「成田五郎頼重」の名は出てきません。
ウィキペディアの「成田氏」の項では、

「承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が
討死している。建保5年(1217年)には、北条泰時の家人で成田一族とみられる成田五郎が
刃傷沙汰を起こしている。」

「成田氏の菩提寺たる龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。」

とあります。
承久の乱は1221年のことで、成田五郎が鉱石を奉納した仁安三年の約50年後のことです。
また、「龍淵寺」とは、埼玉県熊谷市にある曹洞宗のお寺で、その縁起では、成田家中興の祖
「成田左京亮家時」が応永十八年(1411)に創建したとあります。
いずれも年代的には探している「成田五郎」とは一致しません。

ちょっと先が見えません。

「成田五郎頼重」とはどんな人物なのか?
「埴生氏」なのか、「千葉氏」なのか、あるいは「成田氏」なのか?
領主なのか、家臣なのか?

成田五郎-0000_LI (4)


視点を変えて「成田參詣記」の「成田山全圖」に戻り、「成田五郎」の墓を探してみましょう。

img005 (2)
(「成田參詣記」(安政五年)中の成田山全圖の一部を模写)

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

右中央に、『「要害」(地形が険しいところ)が訛った「ユウガイ」という字(あざ)があり、そこに
「成田五郎」の墓がある』、と書かれています。

書かれている場所は、滑川村へ向かう道の傍らになります。
「三竹山道祖神」(地図では現在の場所から道路を挟んだ反対側に書かれています)から
土屋へ向かう、旧滑川道の左側の一帯のようです。


成田五郎-25  三竹山道祖神と旧滑川道
成田五郎-27
成田五郎-28

旧滑川道の左手は深い谷のような地形です。


成田五郎-29

谷の底に下りてNTTの鉄塔を見上げると、高低差はかなりあることがわかります。
確かに、要害と呼ばれてもおかしくない地形です。


成田五郎-30
成田五郎-31

谷底の道を進むと、市立成田中学校の下に出ます。


成田五郎-35

やがて成田山裏参道の旧三里塚鉄道の橋脚跡に突き当たり、右へ行けば成田山裏門への
登り坂、左に行けば土屋への下り坂となります。


成田五郎-34
***********成田五郎-36

住宅もだいぶ建っていますが、空き地はどこもこうした景色です。

確かに要害という字(あざ)が付いていたかもしれない地形ですが、隅々まで歩いてみても、
「成田五郎の墓」らしきもの、または、その跡のようなものは見つかりませんでした。


明治十九年の「下総國下埴生郡成田村誌」(「成田市史史料集一」に収録)には、

「亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、之但シ成田五郎ナル者ハ本村
之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」
 

とあり、さらに同誌の「埴生神社」についての記述の中に、

「最モ神輿ニ寛元二年六月日埴生次郎平時常奉納スト。蓋シ東鑑ニ埴生次郎ハ、上総國
大柳之館ニ於テ自殺スト云々。亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、
之但シ成田五郎ナル者ハ本村之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」


とありますので、「要害」という字(あざ)には間違いなく「成田五郎」の墓があるはずです。
ここでは「成田五郎」を単に「本村の住人」として、領主やその家臣というような表現をして
いないことが気になりますが、ただの住人の墓について記すということは考えられません
ので、やはり「成田五郎」はそれなりの人物だったはずです。

*************成田五郎-0000_LI (4)


「千葉縣印旛郡誌」を何度か読み返している内に、収録されている「成田町誌」に、「成田五郎
頼重墓」という一項があることに気付きました。

「成田區の東方松原にあり坪數百八十坪自ら一塚をなし高二丈余墓上竹藪荊蕀叢生す
頼重の事蹟詳ならず口碑によれば千葉家の臣族にして亦本郡の守なりし由」


「松原」は昔の字で、現在の東町あたり、国道51号線を挟んだ一帯です。
「成田山全圖」に「成田五郎ノ墓アリ」と書き込まれていた「土屋」近辺からは、ずいぶん離れた
場所ですが、「成田區の東方松原」と場所を特定しています。
意外な場所ですが、これは有力な手掛かりになります。
二丈の高さといえば約6メートルですから、相当目立つはずです。

あらためて、「成田市史史料集一」に収録されている「成田村誌」と「成田町誌」も読み返して
みると、見落としていた記述を見つけました。
「成田村誌」には「墳墓」という一項があり、そこに「成田五郎頼重墓」とありました。

「本村東方字松原(舊要害)小高キ丘ニアリ、松木ヲ以テ墓標ス。最モ年號干支詳ナラスモ、
千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」


これも、「松原」と場所を特定して、しかも、「字松原(舊要害)」と、「成田山全圖」にあった

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

との書き込みと一致します。
「成田村誌」が書かれた明治十九年(1886)頃には、松原の字要害の小高い丘の上に、
松を植えて墓標とした「成田五郎頼重」の墓があったのです。
その後、墓は「印旛郡誌」が書かれた大正二年(1913)頃には、竹薮とイバラの生い茂る
荒れた様子となっていたようです。

*************成田五郎-0000_LI

あとは「旧松原」一帯で「成田五郎」の墓を探すだけです。
ヒントは「要害」という地形を表すような場所です。

その地形は、現在「東町高架配水塔」や「お仙稲荷」のある一角以外にありません。


成田五郎-1
成田五郎-51
成田五郎-20
成田五郎-53

(上から順に、成田山自動車祈祷殿側から ・ 新参道から ・ 国道を挟んだイオンの屋上から
・ 東町公民館側から)


さて、この小山にある「お仙稲荷」には何度も行っていますが、「成田五郎の墓」とおぼしき
ものは記憶にありません。

もう一度訪ねてみます。
小山を登るには、「お仙稲荷」への参道か、「高架配水塔」への自動車用道路しかありません。
自動車用道路には目立つものは何もありませんので、参道側から登ってみます。

成田五郎-16 ← 小山の登り口の大師堂
    子安観音の石碑 → 成田五郎-17
成田五郎-18 ← 子安観音と将軍地蔵堂

参道の登り口には、大師堂・子安観音の石碑・子安観音と将軍地蔵のお堂がありますが、
墓や塚らしきものを連想させる景色はありません。


成田五郎-54
成田五郎-55

朱色の鳥居が連なる参道を登って行きますが、やはりそれらしき景色は見当たりません。

参道を登り切ったところは、ちょっとした広場になっていて、右手に「高架配水塔」、左手に
「お仙稲荷」があります。


成田五郎-57
成田五郎-58

「お仙稲荷」の説明板には次のように書かれています。

「お仙稲荷は、成田山の出世稲荷が男で、お仙、おろく、お竹という三姉妹があり、この
うちお仙がこのお仙稲荷であるという話が伝えられています。昔は、赤い屋根の立派な
社屋があったといわれていますが、そのうち朽ち果て、そこで、地元東町の篤信者である
三名のご婦人が発起人となり、昭和三十四年に再建されました。
里人の話によれば、このお仙稲荷は霊験あらたかであり、地元民はもとより、とくに明治
以降には花柳界や舞台役者たちの信仰が厚く、浅草、新橋、川口の方からの参詣者も
あり、祭礼日の三月十日には多くの信者が集まります。」



成田五郎-3
成田五郎-13

「お仙稲荷」の場所は、台地からさらに一段高くなっています。
「村誌」や「町誌」にある塚のような感じですが、ここは「墓」ではなく、「神社」です。


成田五郎-6
***********成田五郎-7

境内をくまなく探しましたが、ここには「墓」らしき痕跡がありません。
だいたい、神道では「死」を「穢れ」としていますから、境内に墓など無いのが当然です。

*************成田五郎-0000_LI (4)

成田五郎-9
成田五郎-10

台地の一角に窪地があり、そこには「稲倉魂命」を祀る「松原稲荷大明神」があります。
この「松原稲荷」に関する資料はありませんが、この一帯の昔の字(あざ)の「松原」はここ
から来たのかもしれません。
とすると、相当古くからこの地にあった神社だと思われます。


成田五郎-59
成田五郎-19
成田五郎-60
成田五郎-63
成田五郎-62

ぐるぐると歩き回ってみましたが、どこを探しても、墓らしきものの痕跡はみつかりません。

いよいよ行き詰まりの感が漂い、あきらめかけた時、パラパラとめくった「成田町誌」の中に、
見逃していた「古蹟・古墳」という一項が目に止まりました。

「古墳ノ三  成田区の東方松原の丘陵上、一方は畑地一方は松林の中間に周囲約六十歩
地積百八十坪を有し高さ三丈余の塚あり。近年塚上をかきならして径十五歩許の平地を作り、
稲荷の小祠を建てたるものあり。松原おせん稲荷と称し、芸人共の信仰するものある由にて、
赤き木柵、鳥居等を建て列ね俗気満ちたる地と化了せり。 傳へ云ふ。 是れ千葉氏の族臣に
して埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」


さらに、「印旛郡誌」中の「埴生神社」の項にも、こんな文章が見つかりました。

「寶物として直徑約一寸八分の饅頭形鑛物二個之を収めたる桐箱は仁安三年正月吉日
成田郎頼重の奉納たることを明記す今村仙稲荷と稱して小社を營める塚ありとこれ
頼重の墳墓なりと云ふ」
  (は五の誤植か) 


お仙稲荷ー42

だいぶ回り道をしてしまいましたが、ついに見つけました!
「お仙稲荷」の場所こそが、「成田五郎頼重の墓」だったのです。

*************成田五郎-0000_LI

「成田町誌」は大正元年に書かれていますから、ここにある「近年」とは明治後期のことでしょう。
大正二年の「印旛郡誌」には稲荷のことが書かれていませんが、編集上の時間的な誤差で、
明治後期に、荒れ果てた五郎の墓を整地して「お仙稲荷」を建てた人たちがいたのでしょう。
「塚上をかきならし」「赤き木柵、鳥居等を建て列ね」「俗気満ちたる地と化了せり」と書かれた
「町誌」の文章には、筆者の怒りのようなものが感じられます。

資料を読むときに、ある程度の狙いをつけた個所を拾い読みして、精読をサボる悪い癖が、
今回も核心に迫る道を遠いものにしてしまいました。
反省して(?)あらためて各資料を精読すると、こんな文章も見つかりました。

中世には成田氏・埴生氏の外護があったようで、仁安二年(一一六七)奉納になる鉱石
の箱書に「仁安二壬戊(ママ)年正月大吉日 成田五郎頼重奉納」とあり、また現在はない
が寛元二年(一二四四)の古神輿には「埴生神社神輿一基 埴生次郎平時常献之 寛元
二年六月日」と記されていたと伝えられている。」

(成田市史 中世・近世編 P242 埴生神社に関する記述の中に)

寿永二年(1183)に、上総氏は埴生庄から千葉氏によって追われましたから、「五郎」が
鉱石を奉納した仁安二年のころの埴生神社は上総氏の庇護のもとにあったと考えられ、
地理的には離れているものの、現在の埼玉県熊谷や行田あたりを所領としていた「成田氏」
からも崇敬を受けていたということでしょうか。
とすれば、家系図には見当たらないものの、「成田五郎頼重」は「成田氏」の有力な一員で
あったのでしょう。

ただ、この地に墓まであるので、「成田五郎」が「成田氏」の一員であることに疑問が生じます。

「成田町誌」にある、
「是れ千葉氏の族臣にして埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」 や、
「成田村誌」にある、
「最モ年號干支詳ナラスモ、千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」
とあるように、「成田五郎」は千葉氏の一員であった可能性は捨てきれません。

話はますます迷路に入り、妄想は広がります。

*************成田五郎-0000_LI (4)

「成田五郎」は千葉氏の一員であるとして、「成田」姓の人物は千葉氏の家系図には現れ
ませんので、(よくあるケースの)その領する所の地名を姓として名乗ったと考えられます。

さあ、こうなると、平安時代末期には「成田」という地名が既にあったことになります。

文字としての「成田」が最初に出てくるのが「成田五郎頼重」ならば、地名としての「成田」が
最初に出てくるのは、寺台の「永興寺」にある聖観音像の胎内銘であるとされています。
「成田市史 風俗編」には、「成田」の地名の由来について、次のように書かれています。

「 成田の初出  成田の地名が始めてみられる記録としては、寺台の永興寺所蔵になる
聖観音像の胎内銘で室町時代の応永一五年(一四〇八)二月「成田郷大檀那光量」と
いう文字が記されている。 この聖観音像は、もと成田の仲町にあった禅宗安養寺の本尊
にして、明治初年の廃寺のときに本寺永興寺へ移されたものである。 当時、成田の郷に
安養時の大檀那として光量なる人物が存在していたことがわかる。 なお、神奈川県横浜
市の金沢文庫文書の如賢書状に「成田御百姓并羽鳥大御田作人等」になる文字があり、
鎌倉末期から室町初期にかけての文書と考えられているが、惜しいことに年代がはっきり
していない。 その点から前記聖観音像の胎内銘は、成田の地名を応永一五年までさか
のぼれる貴重な資料といえる。」 
(P9~10)

「聖観音像」の胎内銘の年代は、「成田五郎」が鉱石を寄進した240年後ですが、金沢文庫
の「如賢書状」の存在もあり、「成田」という地名が「五郎」の生きた時代には既にあったと
考えてもおかしくありません。
「成田五郎」は、「成田」という文字が(知られているかぎり)最初に現れる人であり、「成田」
の地名を(知られているかぎり)最初に知らしめた人でもあるということになります。

「成田」という地名の由来については諸説あるようです。
① 昔から雷が多い地だったので、雷の鳴る田→鳴田→成田となった
② 良い稲ができる地だったことから、熟田(ナリタ)となった
③ 田を開いた地なので、田に成る→成田となった
などですが、前掲の「成田山全圖」に、成田という字(あざ)が書き込まれています。

img007 (2)
①ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン
②成田村 鎮守三ノ宮 (三ノ宮埴生神社)
③石宮 道祖神 (三竹山道祖神・北向きのドウロクジン)
④不動堂 (成田山新勝寺)
⑤藥師堂 (明暦の本堂)
⑥大井戸字成田ト云

上部の⑥に、「大井戸字成田ト云」とある場所です。
この場所は、現在の幸町にある成田小学校の下、「古葉師踏切」のあたりになるようです。
表参道の米屋本店裏にある「不動の大井戸」と同じ水脈がこの「字成田」を通り、ほどなく
地表に現れて「小橋川」となっていたと思われます。

足跡ー59 ← 不動の大井戸
 成田小学校下 → 幸町-65幸町-69 ← 古葉師踏切

素人の妄想に近い推論ですが、
「平安時代末期に、「大井戸字成田」あたりを領していた、千葉氏に連なる「成田五郎頼重」が、
「お仙稲荷」の下に葬られている。」となりそうです。


成田五郎-14

「成田五郎」が眠っている「要害」の地からは、遠くに新勝寺の大伽藍が見えています。
彼がここに葬られたであろう頃には「新勝寺」はまだこの地に無く、遠く公津ヶ原の森の中で、
忘れられたように荒れ果てていました。


成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI
                                   [PIXTA]

「成田五郎頼重」は、歴史の彼方でほんの少し顔を出しているだけです。
その存在はほとんど知られていないままですが、実は成田にとってとても重要な人物だった
のかもしれません。

いつかまた、意外なところで「成田五郎」を目にすることがあるような予感がします。




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人とその歴史 | 10:39:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
奈土の名刹、「紫雲山 昌福寺」
奈土にある名刹、「昌福寺」を訪ねます。

紫雲山-58

「昌福寺」は天台宗のお寺で、「釈迦如来」をご本尊としています。
山号は「紫雲山」、院号は「来迎院」です。


紫雲山-2

参道に面して四基の石仏が並んでいます。


紫雲山-3

左端の石仏は如意輪觀音です。
台座には「十九夜講」と刻まれていますので、十九夜待の「月待塔」です。
補修のため紀年銘がほとんど読めませんが、「享」「四」「子」の三文字が辛うじて読めます。
この三文字から推理すると、享のつく元号で四年以上あり、その四年の干支に子がある年号は、
永享四年(壬子・1432)と享和四年(甲子・1804)しかなく、月待講が広まったのが江戸時代
に入ってからであることを考えると、「享和四甲子年」と刻まれていると思われます。


紫雲山-4紫雲山-5

真ん中の二基は「子安観音」です。
右側の観音像には「文化十三子」の紀年銘があります。
文化十三年は西暦1816年、200年前の石仏です。


紫雲山-6

右端の観音像には「普門品供羪塔」と刻まれています。
「普門品」とは、法華経の中の「観世音菩薩普門品(観音経)」という一章のことです。
観音経は、観世音菩薩の偉大な慈悲の力を信じその名前を唱えることで、あらゆる苦難から
救われる、と説いています。
「明治四未年」(1871)の紀年銘があります。


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隣には昭和16年の「馬頭観音」の文字石版が建っています。


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「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。

「奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。」
 (P276~277)

これにより「昌福寺」は、少なくとも16世紀前半には存在していたことが分かります。
450年以上の歴史あるお寺です。


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本堂の屋根には、天台宗の宗紋である「三諦星(さんたいせい)」が掲げられています。


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「天台宗。 奈土村字昌福寺に所在。 山号は紫雲山で院号は来迎院(大正十年『千葉県香取
郡誌』、以下『郡誌』)。 本尊は釈迦如来(明治十二年『千葉県寺院明細帳 下総国香取郡』、
以下『県寺明細』。 天明六年(一七八六)前後の「上総国下総国 天台宗寺院名前帳』に、上州
世良田長楽寺末の下総国小見村徳星寺の末寺として「紫雲山来迎院昌福寺」とある。 長楽寺
は群馬県新田郡尾島町、徳星寺は香取郡山田町に」所在する。 長楽寺ー徳星寺ー昌福寺と
いう上下関係であった。 同名前帳には「門徒九ヶ寺」とあり、昌福寺が配下の寺を九ヶ寺有して
いたと解釈されるが、同帳には個々の寺院の記載はない。」
 (「大栄町史 P556~557)


紫雲山-13

本堂の前に「十三仏」と刻まれた石柱があります。
「奉造立 寶暦八戌■」と記されています。
寶曆八年は西暦1758年になります。

十三仏(じゅうさんぶつ)とは、平安時代の末期ごろから仏教に由来する末法思想や冥界思想
と共に広く浸透した十王(地獄で死者の審判を行う裁判官のような存在)という考え方をもとに、
死者の生前の行いを審判する十王と、浄土へと導く本地仏を置く思想です。
江戸時代に入ってから急速に広まり、三王・三仏を加えて十三王・十三仏となりました。

秦広王・不動明王(初七日)、初江王・釈迦如来(二十七日)、宋帝王・文殊菩薩(三十七日)、
五官王・普賢菩薩(四十七日)、閻魔王・地蔵菩薩(五十七日)、変成王・弥勒菩薩(六十七日)、
泰山王・薬師如来(七十七日)、平等王・観音菩薩(百か日)、都市王・勢至菩薩(一周忌)、
五道転輪王・阿弥陀如来(三回忌)、蓮華王・阿閃如来(七回忌)、祇園王・大日如来(十三回忌)、
法界王・虚空蔵菩薩(三十三回忌)

法要は、その都度、十王(十三王)に対して死者への減罪の嘆願を行うために行われます。


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元禄、正徳、享保、延享、明和、寛政、文政などの元号が読める墓地の奥には、歴代の住職や
有力者の墓石が並んでいます。

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墓地の中でとても珍しい、貴重な石仏を見つけました。
「愛染明王」像です。

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
「なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。」
 
とありますので、明和七年(1770)の造立であると思われます。

愛染明王は一面三目六臂の忿怒相で、頭には獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上の
蓮華座上に結跏趺坐で座るという、特徴ある像容を持っています。
恋愛・縁結び・家庭円満などをつかさどる仏として信仰を集め、また「愛染」を「藍染」と解釈して、
染物や織物職人達の守護仏としても信仰されています。


紫雲山-17

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。
この明王像は廃寺となった「東光寺」にあったもので、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史
風俗編」に掲載されています。(P196)


紫雲山-18

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。

成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、私の知る限り、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一、印西市の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。

松虫寺ー28
(「松虫姫神社」境内の「愛染金剛」像 2014年11月撮影)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2) ☜ ここをクリックしてください。


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境内には多くの本堂や庫裏の改修記念碑が建っています。


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境内の右手に建つ年代不詳の二基の宝塔。
右の宝塔には「法蕐塔」と刻まれ、側面には「十方佛土中 唯有一乘法」と記されています。
これは法華経中の「方便品」にある一節で、仏の真の教えは唯一であって、それによって全て
の衆生が成仏できると説いています。


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宝塔のそばにある年代不詳の「子安観音」像。


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境内の一角には、千葉県指定の文化財である「山王社」があります。

「山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を
指したものである。」
「山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の
垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、
これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。」
 (ウィキペディア)

「享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等を建て柱材
其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり」
「域内山王社あり亦貞正の寄附建立する所にして其子孫奮族を以て稱せらる貞正通稱を
平兵衛と曰ふ」
 (千葉縣香取郡誌)

この記述から、「山王社」は享保年代に奈土村の里正(村長的な存在)であった金岡貞正と
いう人物が建立・寄進したことが分かります。
説明板には次のように書かれています。
「寛保二年(一、七四二年)第二十世俊亮法師の建立。天台宗特有の社で、滋賀県比叡山の
日吉神社を勧請したもので、祭神は山咋命に大巳貴命、小祠であり、総けやき作りである。」

金岡貞正(平兵衛)の名前は出てきませんが、約280年前に建立されたことが分かります。


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虹梁や側面、脇障子、台座部分に至るまで、細かい彫刻が施されています。


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さらに、「香取郡誌」には、
「明治の初大に荒敗に屬し銅像蓮臺の如きに至るまで之を失ふに至りしが後住長澤良心
杜澤亮朝等苦心經營し漸く保存の道を講せり」

と書かれた一節があります。
この一節の前半部分は、明治政府による「神仏分離令」に触発されて起こった「廃仏毀釈」の
嵐を指しているものと思われますが、「神仏習合」の一例である「山王社」は、「神道」の側に
あるものとして、難を逃れたのでしょうか。


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山門には釣鐘が下がっている珍しい造りです。
撞木もありますので、鐘楼も兼ねた山門です。


紫雲山-40
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紫雲山-42

鐘は昭和37年の鋳造で、撞座の脇にはうっすらと釈迦如来像が浮き上がっています。


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山門の手前左右に二基の六角柱があり、それぞれに六観音と六地蔵が刻まれています。


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「山門の前に六地蔵を刻んだ六角石幢と六観音を刻んだ六角石幢が建っている。 一対のように
見えるが六地蔵は1679(延宝7)年の造立、六観音は1765(明和2)年の造立である。」

(「成田の地名と歴史」 P276~277)


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「紫雲山來迎院昌福寺 
同村奈土字昌福寺に在り域内七百三十六坪天台宗にして釋迦牟尼佛を本尊とす創建
詳ならざるも慶覺法印の開基にして天正中古山城主秋山佐内本寺に歸依し金穀を寄附
せり往時は村の寺家山に在りしを元禄中今の地に移せしと改建の時奮構造に用ゐたる
欄間あり之を本堂全体壁間に保存しあるも其彫刻の古雅なるは確として奮刹なるを證す
るに足る享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等
を建て柱材其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり各高各四尺許」
 
(千葉縣香取郡誌 P431~432)

のどかな山道を登り切ったところに「昌福寺」はあります。
長い年月を刻んだ境内を、春の風が桜を散らしながら吹き抜けて行きます。


紫雲山-0


                          ※ 「紫雲山 昌福寺」 成田市奈土608




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大須賀村の寺社 | 18:43:25 | トラックバック(0) | コメント(2)
堀之内の森に佇む「西福寺」の「不動堂」
今回は、堀之内の「西福寺」を訪ねます。

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「西福寺」は天台宗のお寺で、山号は「不動山」。
本尊は「阿弥陀如来」です。


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本堂は民家風の建物で、周りには何もありません。
お寺の境内の雰囲気は、本堂の手前左側にある「不動堂」に残されています。


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参道の入口には小さな大師堂があります。


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門柱には「不動山西福寺」と刻まれ、裏面には「平成十三年」とあります。


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門柱の左右に立つ、地蔵菩薩と観音菩薩。
地蔵菩薩には享保十一年(1726)の銘があります。
廃仏毀釈の痕でしょうか、地蔵菩薩の頭は仮のセメント造です。


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「不動堂」の前にある小さな鐘楼。
鐘も小さく、橦木はありません。


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手水鉢の銘は読めませんが、それほど古いものではなさそうです。


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大銀杏の樹齢は数百年はありそうです。


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宝珠と火袋が失われた灯籠には、「文化八辛未春」との銘が見えます。
文化八年は西暦1811年、11代将軍徳川家斉の時代です。


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「不動堂」には掲額がなく、小さな木版が掛かっていますが、文字はすっかり消えています。
なんとか「不動」と読めるような気がしますが・・・。


西福寺-12

「不動堂」の脇にある小さな「大師堂」。
柱にはまだ謹賀新年のお札が・・・


西福寺-13

しっかりとした造りですが、飾り気はありません。


西福寺-14

失礼してお堂の中を覗かせていただきました。
正面の厨子は扉が閉まっていますが、右側に二体の仏像らしきものが見えます。
暗いうえに幕に遮られてよく見えませんが、二体の後にもう一体の仏像があるようです。


西福寺-37

目を凝らして見ると、仏像の背に火焔光が見えています。
腰のあたりまでしか見えませんが、これは「不動明王」像のようです。
足許の二体は八大童子の「制多迦(せいたか)童子」と「矜羯羅(こんから)童子」でしょうか。

「不動明王」は、『「動かない守護者」を意味する名の、明王の中で最も重要な存在。大日如来
の教令(命令)を受け、如来の教えに従わない者たちの前に忿怒の形相で現れ、教化します。』

(「仏像の事典」 熊田由美子 P56)

足跡ー7
(九十九里の尾垂ヶ浜に建つ不動明王像)
観照院-20
(富里の「観照院」境内の不動明王像)

不動明王は右手に剣、左手に羂索を持っています。
剣は、「魔を退け、人々の煩悩を断つため」、羂索は、「悪を縛り、煩悩から抜け出せない者を
救い出すため」のものです。


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不動堂の周りには石仏や墓石が並んでいます。
寛文、貞享、元禄、正徳、享保、延享、宝暦、文化、文政などの元号が読めます。


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西福寺-21

「不動堂」の裏に鳥居があり、小さなお社があります。
鳥居の扁額には「子安様」と刻まれています。
ここはお寺の境内ですが、鳥居とお社の組み合わせはまさに「神社」そのものです。

お寺の中に神社があることは、さほど珍しいことではありません。
神仏習合や本地垂迹の産物として、各地で見られる風景です。
たとえば成田山の「額堂」の周りには「天満宮」や「金毘羅大権現」、「白山明神」、「今宮神社」
がありますし、匝瑳市の「飯岡檀林」にも「古能葉稲荷大明神」があります。

額堂-00
(成田山にある「天満宮」)
額堂-98
(成田山にある「三社」(中央「金毘羅大権現」、左「白山明神」、右「今宮神社」))
飯高檀林-79
(飯高檀林 「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」)

ただ、気になる記述が「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)にあります。

「西福寺 堀内村字西之台にあり天台宗山門派にして圓融寺末あり阿彌陀如來を本尊とす
由緒不詳堂宇間口六間奥行五間境内四百八十三坪官有地第四種あり檀徒十八戸住職は鈴木
諄英にして管轄廳まで十里九町とす境内佛堂二宇あり即
一、不動堂  不動尊とす由緒不詳建物二間半四面なり
二、観音堂  本尊子安觀音にして由緒不詳建物二尺四面あり 寺院明細帳」


「観音堂」の大きさもほぼ一致していますので、これは「子安観音」を本尊とする「観音堂」で、
鳥居は神仏習合の名残だ、とも考えられます。


西福寺-22
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西福寺-25
***********西福寺-26

様々な石仏、墓石の中に、三基の月待塔が並んでいます。

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十九夜の月待塔。
「奉造立 十九夜待成就之所」「元禄七甲戌二月」の文字が読めます。
元禄七年は西暦1694年、忠臣蔵の逸話で有名な「高田馬場の決闘」があった年です。


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「享保十六辛亥」と記された「十九夜月待塔」。
享保十六年は西暦1731年、徳川吉宗の治世でした。


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「天明七丁未年」と記された「十七夜月待塔」。
天明七年は西暦1787年、この年には全国規模での打ち壊し(天明の打ち壊し)がありました。


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この石仏は頭部を砕かれています。
「十七」という文字だけが台座に残されています。
十七夜待の聖観音像かと思いましたが、像容は地蔵菩薩にも見えます。
可能性のある、十七年以上あった元号は、慶長・寛永・享保なので、慶長十七年(1612)か、
寛永十七年(1640)か、享保十七年(1732)のいずれかの地蔵菩薩かもしれません。


西福寺-33

裏の藪の中に山羊がいました。
怪訝そうにこちらを見ています。


西福寺-34
西福寺-35
西福寺-41

境内に人影はありません。
参道も分かりにくい場所にあり、周囲の人家もまばらです。

「成田の地名と歴史」に、堀之内村は、「元禄期(1688~1703)は南町奉行所与力給地で、
その後北町奉行所与力給地に移る。」
(P180)とあります。

「与力は加勢するという意味で、諸役職の奉行や頭に付属した役人の称である。将軍への
拝謁を許されない御家人であるが、中には俸禄として知行地を集団で与えられた与力がいた。
その知行地が与力給地で、市域には江戸の南北両町奉行与力の給地が存在した。」

(同 P338)

見かけた石仏の銘の一番古い元号は「寛文」(1661~1672)なので、このお寺の歴史は
少なくとも350年以上はあると思われます。
ここを給地とした江戸の奉行所与力が、このお寺に参詣したこともあったことでしょう。


西福寺-0

                           ※ 「西福寺」  成田市堀之内148



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遠山村の寺社 | 11:51:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
いろいろな顔を持つ、成田山西側の「幸町(さいわいちょう)」
安政五年(1858)に刊行された「成田參詣記」の中にある「成田山全圖」を見ると(「現代語訳
成田參詣記」 平成10年 成田山新勝寺 P488から489)、境界は明確ではありませんが、
今の幸町あたりは「上甼内横甼」と書き込まれています。
昔は「横町」と呼ばれていたようです。

成田街道ー283
成田街道ー282

幸町の散策は、薬師堂のロータリーから始めます。

幸町の東端は、表参道の台の坂の右側にある数軒の店舗です。

幸町-30
幸町-31
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「表参道開運通り」と刻まれた石柱が上町との境界になり、画面の先数軒が幸町、画面右が
上町になります。
石柱を右に入ると、神明山へ向かう路地に続きます。
路地の右は上町、左は仲町になります。


幸町-33
幸町-34
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台の坂の左側に面した幸町の店舗も数軒だけです。


幸町-37
*******幸町-38

店舗と店舗の間に町名の石柱が入り組んで置かれています。


幸町-41
幸町-42
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薬師堂のロータリーから「西参道三の宮通り」を進みます。
右手に入る小道は「出世稲荷」に向かいます。
小道の右側は仲町です。


幸町-44
幸町-45
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しばらく進むと「七霊地蔵尊」があり、ここが町境になります。
「七霊地蔵」とは聞き慣れない名前です。
いろいろ調べても由来についての史料は見つかりません。
思い浮かぶのは、「八百屋お七」の慰霊のために建立されたと伝えられる、大森の密厳院に
ある「お七地蔵」くらいですが、無関係でしょう。


幸町-47

大師堂の二体の大師像には「明治卅一年」(1898)と記されています。


幸町-48

お堂の奥は小さな墓地です。
元禄、宝永、正徳、享保、宝暦、安永、寛政などの元号が読めます。

 
幸町-50

「奉供養 勢至菩薩」と刻まれています。
享保の元号は読めますが、年号と干支は読めません。
ただ、最後に「廿三日」の文字があり、珍しい勢至菩薩像であることから、これは二十三夜の
月待塔のようです。


幸町-52 片隅にはペットの墓も・・・
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幸町-60

「三の宮通り」へ戻る途中の石段は、成田山裏門の駐車場へ下りる道です。


幸町-54
幸町-55
幸町-76 正門前の小林堂(文具店)

「三の宮通り」を横切ると、明治六年(1873)開校の「成田市立成田小学校」があります。
「千葉縣印旛郡誌」に収録の「成田町史」に、「成田尋常高等小學校」として次のように
記載されています。

「明治廿年以前には高等小學校の設置なく尋常小學校のみなりき尋常小學校は明治六年
三月埴生郡寺臺村永興寺内に借設し東谷小學校と稱す仝七年四月成田村字辻堂に校舎
を改築す仝八年三月聯區第百八十四番成田小學校と改稱仝廿五年五月教育令改正により
成田尋常小學校と改稱仝三十七年二月更に地を成田横町に卜し校舎を新築し茲に移轉す
仝四十一年四月高等科を併置す高等小學校は明治二十年五月之を創設し尋常小學校々舎
の二階を教塲に假用せしが爾來生徒も年々增し狹猛を告ぐるに至りしより仝二十九年更に
校舎を字辻堂に新築し茲に移轉す仝四十一年四月尋常小學校に併置し成田尋常高等小學
校と改稱し更らに校舎の大增築に着手し全竣功す今のものこれなり明治四十三年度末現在
尋常科十四學級男四百五十九人女四百二十八人高等科二學級男三十九人女十八人あり」


卒業生には、プロ野球の唐川侑己選手、リオオリンピックのマラソンに出場した田中智美さん、
プロサッカーの船山祐二・貴之兄弟などがいます。


幸町-75

小学校の正門前を左に入ります。
路地の一角に「白蛇神」があると地図には書かれていますが、どこを探しても見つかりません。
地図に示された場所は、何か建物が取り壊されたような跡があります。
多分、ここに「白蛇神」があったのでしょう。

白蛇は、弁財天の使いとして信仰の対象となっています。
事情があって取り壊されたのでしょうが、残念な気がします。


幸町-61
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突き当たりに小さな墓地があります。
入口に大師堂、古い墓石には享保、明和、安永、文化などの元号が刻まれています。


幸町-63
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墓地を左に行けば薬師堂の横にでます。
右に行くと下り坂となり、JRの線路に突き当たります。
途中の丁字路を左折すると大師堂があり、二体の大師像の後に明治三十三年(1900)の
「奉納 樒樹壹千本」と刻まれた石版が置かれています。
「樒樹」とは、常緑樹で、仏事に用いるため寺院に植栽されることが多く、その実は有毒です。
地図で見ると、この大師堂の位置は上町になるようです。
路地の右側は米屋の工場で上町、左側は幸町です。


幸町-65
幸町-66
幸町-67
幸町-68

ちょっと戻って坂を下り、JRの線路に向かいます。
線路脇にはお堂が二つ、石碑が一つ建っています。
手前の小さなお堂は名前が分かりません。
大きなお堂は大師堂で、二体の大師像の銘文は、たくさんの張り紙で見えません。
奥の昭和7年の石碑には「三界万霊 供養塔」の文字が刻まれています。


幸町-69
幸町-70
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お堂の先には小さな踏切があります。
ひっきりなしに電車が通ります。


幸町-72
幸町-73

左に曲がって行く線路は成田線の我孫子行き、直進して行くのは佐原・銚子方面行きです。
振り返ると成田駅はすぐ近くです。


幸町-74

踏切を渡ると急坂になります。
「人と自転車以外は通れません」の注意書きがあります。

この踏切は「古葉師踏切」と言いますが、本来は「古薬師踏切」だったという説が、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著)の「薬師堂」の説明の中で紹介されています。

「日当りの良い場所にあるのに、通称日陰の薬師という。もと成田小学校裏側の日当りの
悪い窪地にあったからで、その名残が小学校裏のJR線踏切の名称「古薬師踏切」である。
しかし踏切の表示は「古葉師踏切」となっている。国鉄時代の担当者が「薬」と「葉」を間違
えてしまったのであろう。」
 (P21~22)


幸町-90
幸町-89
幸町-77

踏切を渡り、急坂を下ると、住宅街が広がっています。
線路に分断されていますが、ここも幸町です。
赤い屋根は昭和29年から31年にかけて建設された初期の市営住宅です。
懐かしいような、ゆったりとした空間が広がっています。


幸町-92
幸町-95

北の方角にはNTTの鉄塔や「埴生神社」の森が、南には成田駅周辺のビル群が見えます。


幸町-101
幸町-100

さて、ここはどこでしょう?
何の変哲もない用水路のようですが・・・、じつはここが1級河川の「小橋川」の水源なのです。
新町の方向からの暗渠が初めて顔を出すここが、町境にある水源になります。


幸町-102
***********幸町-103幸町-104

中台運動公園の第6駐車場の下から流れ出す水と、郷部との町境で合流します。
この合流地点が「小橋川」の起点となり、宝田で「根木名川」に合流するまでの4760メートル
を流れて行きます。
成田市ホームページ中に土木課の「準用河川整備事業」の資料があり、その中に幸町の水源
から合流地点までの145メートルは、準用河川の「上小橋川」であることが記載されています。


松崎街道ー108

成田小学校前に戻り、「西参道三の宮通り」を進みます。


幸町-56
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幸町交差点に向かう左側に、小さな道標が立っています。
小さいうえに、道路からちょっと引っ込んだ場所にありますので、注意しないと見落とします。
「正面成田不動尊」と記され、側面には『「南へ上る 酒々井 佐倉」「東へ下る 成田門前を
へて三里塚 芝山」 道』、『北へ下る 滑川 佐原」「西へ上る 安食 木下」 道』
とあります。
明治十五年(1882)と刻まれていますが、見たところ新しいので、復元されたものでしょう。


幸町-59

幸町交差点は三叉路で、右に曲がると成田山裏門を経て土屋方面への裏参道、左へ進むと
西参道三の宮通りで、「三の宮埴生神社」を経て「松崎街道なりたみち」となります。


幸町-106
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幸町-108
***********幸町-111

この通りは、畳屋、工務店、塗装店、建材店などがとても多いように感じます。
昔から成田山の門前町が形成されて行く過程で、必要とされる職人たちが、自然とこの一角
に集まり、今日に至っているようです。
天保九年(1838)の「諸商渡世向取調書上帳」と、同十四年(1843)の「諸商人軒数書上帳」
から集計した、門前町成田でのさまざまな職業について、「成田市史 中世・近世編」にはこう
書かれています。

『なお、これらの商売の他に成田には医師五人をはじめ畳屋・薪屋・石屋・附木屋・鍛冶屋・
持遊(花札など遊具)屋などの商いもあり、~』
『また天保二年の「諸職人名前取調書上帳」(石井しげ家文書・近世編史料集五上)によると、
大工職七人、桶職七人、木挽四人、下駄職・左官・塗物職各二人、それに屋根職・建具職
各一人の計二六人の職人がいたとある。』
 (P743)


西参道ー33

この通りの幸町の町境はJR線をまたぐ郷部橋の手前になります。
橋の向こうは郷部の「埴生神社」です。


幸町-1

郷部橋の手前を北へ入ります。


幸町-2

狭い道から見上げるNTTの鉄塔は威圧感があります。


幸町-3

道は直ぐに三叉路となり、「三竹山道祖神」が現れます。


幸町-10
幸町-7

榧の大木に覆われたこの道祖神は、「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
「ドウロクジン」とは「道陸神」と書きますが、「道祖神」と同義です。
その名の通り北向きのうえに、NTTのビルに陽を遮られて、いつも薄暗い感じです。


幸町-83

幸町-84

カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれた道祖神で、右端は「奉唱十五夜講中」「元文
四己未」と記された月待塔です。
元文四年は西暦1739年、約280年前のものです。
この十五夜塔の正面には、「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面
には「此方竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
指している方角が違うのは、以前の場所から移されたためでしょう。


幸町-82
幸町-9

道祖神の左手には、六体の大師像が並ぶ「大師堂」があります。
台座にはビッシリとお札が貼られ、刻まれているはずの文字は見えません。


幸町-11

道祖神に背を向ける形で進む小道は、滑川に向かう旧道です。
フェンスの左側は崖で、町名は郷部になります。


幸町-13

石段が崖を下っています。
この先はJRの線路をまたいで薬師堂へと向かう「松崎街道」の旧道です。
以前、「松崎街道」の取材中に、ここがかつての旧街道であった痕跡を見つけました。


松崎街道ー99   2015年6月に撮影
***********松崎街道ー100


幸町-14

滑川への旧道を進むと、「庚申堂」があります。


幸町-15

お堂の中に立つ「青面金剛像」は、六臂で邪鬼を踏みつけ、左右に鶏を配し、台座には三猿
を刻んでいます。
紀年銘は「■永■■申」とだけ読め、永の次は元か八に見えます。
元号と干支の組み合わせで考えると、「宝永元年甲申」が一番可能性が高いと思われます。
宝永元年は西暦1704年、310年以上も前になります。


幸町-16幸町-17

庚申堂だけに、狛犬ならぬ狛猿?
だいぶ傷んでいますが、昭和15年の寄進です。


幸町-18

右端は回国塔で、「寛■四壬子」と読めます。
該当する年代は寛政四年(1792)です。
隣は読誦塔で、「宝暦二壬■」と読めるような気がします。
宝暦二年は西暦1752年になりますが、宝暦十二年(1762)かもしれません。
中央は年代は分かりませんが、「三界萬霊」の文字が見えます。
左の二基は「馬頭観音」で、明治四十二年(1909)のものです。


幸町-19
幸町-20

市立成田中学校の手前を右折し、町内境界に沿って細い路地を進みます。


松崎街道ー117

突き当たりは先ほど歩いた滑川への旧道、後ろ側は成田山の裏門方向になります。


松崎街道ー115
松崎街道ー112

幸町交差点から土屋へ向かう土屋中央通り(成田山裏参道)が町境になります。
写真左(後)は成田山弘恵会の駐車場になります。
右に登る坂は市立成田中学校方向、左に登る坂は幸町交差点方向です。


郷部橋まで戻って道を横切り、南に下ると、幸町の「山車庫」があります。

幸町-105
 幸町-21
祇園ー73 3年前の祇園祭での幸町山車
************祇園ー74

幸町-23

山車庫の先はJRの線路になります。


幸町-24
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幸町-26

狭い路地を上ると「西参道三ノ宮通り」のNTT前に出ます。


幸町-96
幸町-27
幸町-40
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幸町-109

幸町は、「西参道三の宮通り」によって「三竹山道祖神」や「庚申堂」のある区域、「成田小学校」
や「山車庫」のある区域、「七霊地蔵尊」や表参道に面する区域、さらにJRの線路によって分れて
いる市営住宅等の区域の大きく4ブロックに分かれている感じです。
上町・仲町・成田・郷部・新町・囲護台・土屋と複雑に町境を接する「幸町」。
いろいろな顔を持った幸町の入り組んだ路地の奥には、まだまだ何かが隠れていそうです。







テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

まち、町 | 07:12:37 | トラックバック(0) | コメント(2)
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