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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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成田山公園ーじっくり散歩(その弐)
散歩を再開する前にちょっと道草(というより、脱線ですが・・・)。

明治十九年(1886)六月に作成された「下總國下埴生郡成田村誌」に「名勝」として次の
ような記述があります。

【新勝寺境内ノ東端ニアリ、東和田、日吉倉ノ田畝ヲ東南ニ望ミ本村ヲ直下トス。風光壮快
ナリ。本地ハ新勝寺住職故原口照輪是茲ニ見ルアリテ、好樹木数株ヲ漸次ニ他ヨリ移シ
蕃植シ求メタレハ、樹林蒼々トシテ名勝ノ区画ヲ存スル。】


前回に「(日光の)五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い
茂り、残念ながら見晴らしは良くありません。目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるよう
です。」
と触れた場所が、その「名勝」と言われた所だったのかも・・・と思いつきました。

成田山公園-278

これがその場所。 柵で先には進めませんが、ちょっとした台地のようなスペースがあります。

Map成田山公園周辺

成田山公園-101 前回掲載の写真
  東南の方向 →  成田山公園-267

残念ながら東南の方向は鬱蒼と樹木が生い茂り、遠くを見渡すことができませんが、地図で
見るかぎり、ここから東南方向には東和田・日吉倉があります。
当時のここからの景色は、遙か先まで見渡せるのどかなものであったことでしょう。

成田山公園-276成田山公園-277

東和田方向から成田山を望遠で望むと、ビルの先に大本堂の大屋根が見えます。
明治十九年当時なら、視界を遮る高い建物などは無く、正面に当時の本堂(現在の釈迦堂)が
しっかり見えたでしょうね。

さて、前回からの続きです。

成田山公園-128 前回見た日光町の五重塔から小径を挟んだ、多くの石碑で囲まれた
小さなサークルのような場所から始めます。

成田山公園-201

大正十二年(1922)の「永代御膳料奉納碑」。
「磐城平町 大新榮講 鈴木得鑁」と刻まれ、世話人として井上貞治郎の他十二名の名が
刻まれています。
平町は現在のいわき市で、この奉納碑が建立された当時は石城郡平町。


成田山公園-232

(左奥) 大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
      「幕張村 市原任三郎」と刻まれています。
      幕張村は現・千葉市花見川区と現・習志野市にまたがる地域にあった村です。
      明治二十八年(1896)には町制施行で「幕張町」になっていますが、この時代は
      住民にとって新たな行政区域の浸透が薄かったのでしょうか?
(手前) 大正二年(1913)六月の「永代御膳料奉納碑」。
      「栃木縣下都賀郡中村 石川政之助 石川福次 石川寅之進」と読めます。
      「下都賀郡中村」は現・小山市。
 (左)  大正三年(1914)三月の「永代御膳料奉納碑」。
      「石川縣能美郡小松町 佐野とよ」と刻まれています。
      能美郡小松町は、現在の小松市です。
 (右)  大正三年(1914)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
      「武藏國埼玉郡新方村 金岡祐元」と読めます。
      新方村は現・越谷市。


成田山公園-234

(左)  大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
     「陸奥國八戸町 高橋常太郎 妻ふく」と刻まれています。
     八戸町は当時は三戸郡に属していて、現在の八戸市の中心部あたりです。
(中)  明治四十一年(1908)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     香取郡香西村岩澤新兵衛と刻まれています。
     香西村(かさいむら)は現・香取市の西部にあたります。
(右)  大正五年(1916)八月の「永代御膳料奉納碑」。
     「石川縣能美郡小松町 渡邊そと」と読めます。
     

成田山公園-235

(左)  大正十五年(1926)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     「猿島郡新郷村 長澤茂一郎 長澤善三郎」と記されています。
     猿島郡新郷村は、現・古河市になります。
(中)  大正六年(1917)の「明大講記念碑」。
     「水戸市上市」と刻まれています。
(右)  大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
     「府下大井町 白米商 鈴木保五郎 仝未次郎 仝タツ」と記されています。


成田山公園-236

(中央左) 明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「茨城縣結城郡石下町 山田清三郎」と刻まれています。
       結城郡石下町(いしげまち)は、現・常総市になります。
  (中)  大正六年(1917)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
       福島縣石城郡平町 小林サツ」と読めます。
       石城郡平町は、現在のいわき市。
  (右)  明治四十五年(1912)二月の「永代御膳料奉納碑」。
       福島縣邑樂郡六郷村 鑓田三四郎 仝利平」と刻まれています。
       邑樂郡六郷村は、現・館林市になります。
     

成田山公園-205

今さらですが、「講」とはどんなものなのでしょうか?
「新修成田山史」(昭和43年)に次のような解説があります。

【 講について
 講とは本来講演の意味で集会の席上で経論等を講演論議することを云うのである。「法華
 八軸」を講議するのを「法華八講」と云い「最勝王経」・「仁王経」等を講議するのを「最勝講」
 ・「仁王講」と云うが如きである。かくの如く講の歴史は頗る古く、推古天皇一一年に聖徳太
 子が諸法師を小墾田宮に招いて「安宅経」を講ぜしめたこともあり又太子自身も「勝鬘経」・
 「法華経」を講ぜられたことは歴史上有名なことである。尚其の後も各時代、宮中及び諸寺
 で行われたことは非常に多く特に「仁王経」・「金光明最勝王経」の読誦は宮中の恒例となっ
 ていたのである。こうした上堂方の行事が民間に移動し、一定の日を決めて庶民が仏寺に
 集会して僧侶を請じて法談を聴聞することが行なわれるようになった。そこで「観音講」・「地
 蔵講」等と称せられるようになった。 (中略) 江戸時代の随筆「翁草」の一九一の雑話の中
 に「昔より仏家に観音講等あり、近世伊勢講と称し、結衆銭を集め貸之・・・・・・」とある。この
 風習は参詣の為めに積立てをした金を講員に貸すまでに発展したもので先述の「たのもし
 講」の起源とも云うべきであろう。偖て、古代に於いては上述の如き意味であったが、其の後
 語義が変じて遂に仏事參詣等宗教的行事の為めに集会する意になり、その集団を講又は
 講社と称し其の加入者を講中と云うようになって登山参詣と云う宗教的行事に発展したので
 ある。」 
(P349~350)

多くの奉納碑に刻まれている「講」や「講社」とは、簡単に言えば、 神社・仏閣への参詣や寄進
等を行なう信者の集まりです。


成田山公園-237

 (左)   大正六年(1917)九月の「永代御膳料奉納碑」。
       「葛飾郡大島町 大須賀菊次郎」と記されています。
       葛飾郡大島町は、現在の東京都江東区の東北部にありました。
(中左)  大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
       「東京芝區新錢座町 藤本恭助」と刻まれています。
       新錢座町は、現在の港区浜松町1丁目あたりで、寛永十三年(1636)に江戸で
       最初の銭貨鋳造所が設けられたことから付けられた地名です。      
(中右)  大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
       群馬縣邑楽郡三●谷村 三田庄作」と読めます。
       この時代の邑楽郡の村名の中には該当しそうなものはありませんでした(あえて選
       べば、四ッ谷村・入ヶ谷村の二村、または田谷村・中谷村・細谷村・鍋谷村・仙石村
       ・籾谷村の六村)。
 (右)   大正七年(1918)一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「茨城縣那珂郡芳野村 水戸藩士族 鈴木昂之介」と刻まれています。
       那珂郡芳野村は現在の那珂市の西部にあたります。
       「士族」とは、明治維新後に旧武士階級をはじめとする禄を得ていた者のうち、華族
       に取り立てられなかった者に与えられた身分で、戸籍には「士族」と身分表示が記さ
       れていました。
       この制度は昭和22年の民法改正時まで続きました。
       あえてここに「士族」と刻んだ鈴木昂之介氏の心情とは、武士階級の崩壊から50年
       経っても捨てきれぬ「誇り」なのか、単なる過去への郷愁なのか、それとも時代への
       怨嗟なのか?
       できれば聞いてみたい気がします。


成田山公園-206

明治四十五年(1912)一月の「永代資堂講奉納碑」。
「新榮講 行者 野村英海」と刻まれています。
台座には「武蔵 川越」と彫られています。
さらに「比企郡松山 行者 中村海運 同郡南吉見村 行者 岡野海寶」の文字も読めます。
比企郡松山は現在の東松山市、南吉見村は現在の比企郡吉見町です。
左の小さな碑は、大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
川越と武州松山の新榮講の奉納です。


成田山公園-239

(左) 大正七年(1918)三月の「永代御膳料奉納碑」。
    「平沼福次郎」と刻まれています。
    崩し字で読みにくいのですが、「請負業」と刻まれているようです。
(右) 大正八年(1919)二月の「永代御膳料奉納碑」。
    「文京 日本橋區元濱町 合名會社 中村商店」と刻まれています。
    隣の灯籠は、竿の部分に「御半」と刻まれていますが、その他の文字は読めません。
    「御半」の意味は分かりません。
    「御半下」なら、召使い・下女という意味ですが、灯籠に刻む文字とは思えません。


成田山公園-240

(手前) 明治四十三年(1910)三月建立の「永代御膳料奉納碑」。
     「横濱市伊勢佐木町 足袋卸商 岡田佐金次」と刻まれています。
(中央) 大正八年(1919)九月建立の「永代 護摩料」奉納碑」。
     「東京浅草千束町 鳥料理 みまき(「ま」は崩し字)」と刻まれています。
(右)  大正五年(1916)九月建立の「永代御膳料奉納碑」。
     「北海道網走港 福米講」と読めます。
(右奥) 大正八年(1919)五月建立の「永代御膳料奉納碑」 
     「東京府下日暮里元金杉 東京硝子管製作所」と記されています。


成田山公園-209

大正七年(1918)四月の「永代御膳料奉納碑」。
「弘運講」「埼玉縣大里郡大寄村」「講元 森田周藏」と刻まれています。
大里郡大寄村は現在の深谷市になります。


成田山公園-242

大正元年(1912)の「成田山 報徳會松戸支部記念碑」。
会長の渋谷保太郎と支部長の澁谷保太郎の名前があります。


成田山公園-243

大きい方は、大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「埼玉縣北足立郡植水村 蓜島辨作」と刻まれています。
北足立郡植水村は現在のさいたま市西区。
もう一基は大正七年(1918)五月の「永代御膳料奉納碑」。
「内陣五講」「講元 五十嵐寅七 高橋忠治」と刻まれています。
「内陣五講」は、「内陣十六講」・「浅草十講」とともに成田山との強いつながりを持った講でした。
「新修成田山史」には、最も古い講として東京の「丸下講」を挙げた後に、

【この講に次いで古いものは「御内陣五講」・「御内陣十六講」・「浅草十講」等があり当山に最も
縁故が深い講社とせられている。】
 (P351)

と記述しています。


成田山公園-244

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
「山梨縣谷村町 奥孫三郎」と刻まれています。
谷村町は現在の都留市になります。


成田山公園-245

(手前) 「久保たか先生之碑」。 「一心講」と刻まれています。
      「久保たか先生」については手掛かりが見つかりませんでした。 
(奥)   明治三十二年(1899)十二月の「一心日護摩講記念碑」。
     「東京府南千住」「先達 塚本施心」と刻まれています。


成田山公園-246

大正八年(1919)九月の「永代御膳料奉納碑」。
東京市日本橋兜町 行木松五郎」と刻まれています。


成田山公園-247
成田山公園-286

大正七年(1918)の「永代護摩修行料奉納碑」。
「大新榮講」「社長 鈴木得鑁」の文字が読めます。
台座の両脇には不動明王の脇侍である矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子( せいたか
どうじ)像が置かれています。

成田山公園-218
成田山公園-215   制吒迦童子
成田山公園-219
成田山公園-216   矜羯羅童子 

ここに矜羯羅童子と制吒迦童子像が置かれていることは謎です。
三尊像であれば、中央に不動明王を象徴する剣が置かれているはずですが、見当たりません。
欠けたり、失われたような痕跡もありません。

成田山公園-284成田山公園-285

さらに、両童子像はまるで両腕を切り取られたように失っています。
これを見たときに一瞬、廃仏毀釈が頭に浮かびましたが、奉納碑が建立された大正中期には
とうに廃仏毀釈の嵐は過ぎ去っていました。

もしかしたら、この童子像は奉納碑の建立後にどこからか移設されたのではないか?
それは、童子像が置かれた火山岩にはめ込まれた名板にある「田方郡伊東町」(現・伊東市)
や「相州中郡」(現・神奈川県中郡)から運び込まれたのかもしれない。
廃仏毀釈の被害に遭って、修復不能な破損を受けた不動明王の剣を除き、かろうじて残った
童子像を講中の人達がここへ安置した・・・。
両童子像のどこか物憂げで寂しそうな表情を見ていると、こんな想像をしてしまいます。

成田山公園-280成田山公園-281
        前回紹介した木遣会の童子の表情
成田山公園-283成田山公園-282
         今回の奉納碑の童子像の表情


成田山公園-250

大正七年(1918)の「永代御膳料奉納碑」。
「大新榮講」「鈴木得鑁」「伊豆伊東町 山田屋 井原平助」の文字が読めます。
「鈴木得鑁」の名前はあちこちで見かけますが、その人物像は不明です。


成田山公園-221

(左) 大正八年(1919)十月の「永代御膳料奉納碑」。
    「岩根政太郎事 家元 港家大夢」と刻まれています。
    「港家」は浪曲界の一門です。
(中) 明治四十五年(1912)四月の「永代御膳料奉納碑」。
    「埼玉縣北足立郡白子村 常燈元講社 社長 榎本英喜」と記されています。
    「北足立郡白子村」は現在の和光市の一部です。
(右) 大正七年(1918)十月の「永代御膳料奉納碑」。
    「香取郡大須賀村 高木重左衛門 高木伊助」と刻まれています。
    「香取郡大須賀村」は旧大栄町・現成田市の一部です。


成田山公園-222

明治四十四年(1911)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京兜町 川口關之助 川口佐一郎」と記されています。


成田山公園-224

「永代護摩料奉納碑」(建立年不明)。
「開永講」「初代先達 平井觀全」と刻まれています。
手前は「永代護摩講連名碑」。


成田山公園-225

大正六年(1917)十二月の「永代御膳料奉納碑」。
「大成講社 先達 大竹良蔵 一鋤田與右衛門」他三名の名が記されています。


成田山公園-226

大正四年(1915)の「永代御膳料奉納碑」。
「東京古屋同志會」「古屋良作」他11名の名前が刻まれています。


成田山公園-227

(右手前) 大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」(柱状)。
       「穀肥料商 永沼嘉右衛門 永沼運造」の名前があります。
(中右)   「拾周年記念碑」(建立年不明)。
       「横濱市 寛盛講」と刻まれています。
       講の創立十周年なのでしょうか。
(中左)   明治三十九年(1906)九月の「大護摩料奉納碑」。
       隣と同じく「寛盛講」とあり、「福重助」の名前が読めます。
(奥)    明治三十九年(1906)一月の「永代御膳料奉納碑」。
       「志木町 坂間久次郎」と刻まれています。
       「志木町」は現在の埼玉県志木市になります。


成田山公園-228

大正九年(1920)一月の「永代護摩料奉納碑」。
「新潟縣長岡講中」と刻まれ、台座には昭和15年にはめ込まれた「皇紀二千六百年記念」
と記されたプレートがあります。
「皇紀」とは、日本書紀の記述による神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年とする
紀元のことで、大東亜戦争の敗戦まではよく使われていました。
ちなみに、今年は皇紀(紀元)2679年になります。


成田山公園-258

(左)  「奉納 永代大護摩料」の他は石材の酸化(?)で碑文が読めません。
(中)  明治三十九年(1906)の「永代護摩修行碑」。
     「武藏国青梅町 永盛講」と刻まれています。
     題額は中興第十五世石川照勤上人によるものです。
(右)  大正二年(1913)四月の碑。(汚れで碑文が読めません) 


成田山公園-259

「成田山 不動尊」の碑。(建立年不明)
「新榮講 水峯清泉」と読めます。


成田山公園-260

(左)  明治三十九年(1906)十一月の「永代御膳料奉納碑」。
     「東京日本橋區濱町 永井京子」と刻まれています。
     題額は石川照勤上人(中興第十五世)のものです。
(中)  「碑石建設寄附 幕張組」「荻田得門」と読めます。
(右)  「碑石建設寄附名簿」「田邊虎松」と刻まれています。


成田山公園-269

 (左)  建立年不明の「永代御膳料奉納碑」。
      「新榮講社中 永峰濟衆」と読めます。   
(左奥)  明治三十年の「永峰濟衆頌徳碑」。
      碑面にビッシリ文字が彫られていますが、柵から遠いため読めません。
      「新修成田山史 別巻」に碑面についての記述がありましたので引用します。
      【 成田山新勝寺住職権少僧正石川照勤篆額 田中 参撰
       成田山信者新栄講社長永峰君卒既葬其徒追慕不措相謀為一大斉出財建碑表之
       請文於予予乃表之白人之慶世信而己矣信則人自信之初君有娣帰依成田山来拝
       布施歳時靡懈近隣人相従而為伴必来拝以為常其衆日益盛此其功君興有力馬遂
       請名於富時之住持照輪照輪命以新栄講邦人結社拝神仏称講娣以明治六年十一
       月十三日没享年五十九扵是講衆推君爲長嗚呼死生亦大矣君継娣之遺志捨身成
       田山絶食至二十一日貧民病者投財興之自至其家而祷祷禳自是嚮慕帰依者極多
       近自千葉遠至北海道入講衆者至二万余人講衆之盛無出於其右者明治十八年六
       月受道路修繕之賞状於時之知県十一月受木盃九十二月又受木盃一十九年一月
       又受木盃一皆以輔公事也其尽力於公益如此矣其所施捨供田数十頃及供米数百
       俵可以供斉有山林数十町可以供護摩其他自珎宝竒竒品及器物之異常者不可枚
       擧新勝寺住持三池照鳳其帰仏篤信賜袈裟一領及賞状嗚呼信之及人至於此乎君
       東京青山善光寺門前坊長峰喜太郎長子後嗣家又称喜太郎諱済衆幼字和三郎娶
       東京柏木成子坊川村喜兵衛長女有子一人名亀太郎為嗣以明治二十四年一月二
       十四日病没葬下
       印旛郡伊篠村浄泉寺中享年七十三   明治三十年十二月 】
 (P651) 
      
       【銘文によると永峰は新栄講を組織して新勝寺の参詣を続け、明治六年に没した。
        しかし、彼を慕う者は千葉県から北海道に至るまで二万人を越え、そこで彼の恩
       に報いるため新栄講から分派した各講などが協力してこの碑を建てるとある。(中
       略)碑の題額は新勝寺の中興第一五世石川照勤上人が書き、東勝寺(宗吾霊堂)
       の住職田中照心上人が揮毫している。】
 (P58~59)
     
(中央)  「碑石建設寄附内譯」。
       「内譯」は内訳のことですから、この碑は寄附者名簿ということになります。
       「東京日本橋濱町壹町目壹番地 柳澤久太郎」と刻まれています。
       ここからは見えませんが、裏面に寄附者の名前が記されているのでしょう。
(中奥)  明治三十四年(1901)五月の「永代供養料奉納碑」。
       「京橋新榮講」と刻まれています。
(右奥)  「碑石建設寄附」。
       「東京京橋 新榮講」「行者 清水法善」と刻まれています。
 

成田山公園-263

(左)  「碑石建設寄附内譯」。
     「東京日本橋區蠣壳町壹丁目四番地 木村猛三郎」と刻まれています。
     「蠣壳」は「蛎殻」の異体字です。
(右)  「碑石建設寄附」。
     「京橋區 新榮講 八王子部 斎●●吉」
     京橋と八王子との関連に疑問が残ります。
     もしかすると、お釈迦様よりはるか以前に、法華経を説いた二万の日月灯明仏の最後
     の一人が出家以前にもうけた八人の王子に因んだグループなのでしょうか?


成田山公園-272

大正三年(1914)の「永世大護摩」奉納碑。
崩し字で読みにくいのですが、「成田山御貫主権大僧正石川照勤」「小阪●●」等が読めます。


成田山公園-273

隣にある灯籠は風化で竿に刻まれた文字が読めません。


成田山公園-275

大正四年(1915)一月の「永代御膳料奉納碑」。
「東京市京橋區新榮町四丁目 渡村榮左ェ門 妻せき」と刻まれています。


今回はここまでにしましょう。
距離にして僅か4、50メートルの距離しかありませんが、林立する石碑に圧倒される思いです。

一月下旬の梅林では、蕾が少しずつふくらんできたように思えます。
日当りの良い場所の枝には、気の早い白梅・紅梅が寒風に晒されながらも、小さな花を開いて
います。
春はもうすぐです。

成田山公園-264
******成田山公園-265
成田山公園-266

さて、石碑群はまだまだ続いています。
次回は少し気分を変えて、公園の別の場所を歩いてみようと思います。
その後、この場所にまた戻って、碑面とにらめっこするつもりです。



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成田山公園-じっくり散歩(その壱)

今回は成田山公園を散策します。
この公園についてはネット上でもたくさん紹介されていますので、ちょっと趣向を変えて、園内
をゆっくり歩きながら、石造物や金石文を丹念に見て行こうと思います(長期の更新無しにつ
いての言い訳と逃げです-追記もお読みください)。
園内にはとても多くの石造物・金石文がありますので、何回かに分けて紹介することになります。

成田山公園-3

大本堂に向かって右側奥に成田山公園の入口があります。
光明堂の脇や、平和大塔の前など、入口は何カ所かありますが、まずは正面入口(?)から
散策を始めましょう。


成田山公園-51

【 成田山の境内には、東京ドーム約3.5個分 (16万5000㎡)にも及ぶ広大な公園が整備
されています。公園は仏教の生きとし生けるものすべての生命を尊ぶという思想が組み入れ
られ、不殺生を表す尊い生命をはぐくむ場となっております。また、公園内各所には松尾芭蕉
や高浜虚子など著名な文人たちの句碑があり、先人の足跡を感じることができます。】 

(成田山新勝寺ホームページ)


成田山公園-2

緩やかな石段を上って行きます。

石造物のほとんどは、立ち入り禁止の柵内にあり、風化も進んでいて紀年銘や金石文が良く
読めなくなっています。
可能な限り読み取り、不明部分は「成田山新勝寺史料集 別巻」にある、金石に関する資料
(以下「別巻資料」)等をもとに補足して行きます。
ただ、別巻資料では場所の特定が難しく、類似する石造物の特徴等から推定したものも多く
あります(場所が移動したり、地震等による損壊で撤去されたりしたものもあるようです)。


成田山公園-4

公園に入って直ぐ右側には「永代御膳料」と竿の部分に刻まれた大きな石灯籠が立っています。
「久富■■」と読めるような気がします。
別巻資料に「久富~」とあるのは、大正十一年(1922)の灯籠のみです。


成田山公園-5

 大寺や 玄関飾る 菊懸崖

石灯籠の隣には、こう刻まれた句碑があります。
「中興第十九世 空如」とあるのは、中興十九世の松田照應師の俳号です。

松田照應師は明治三十六年(1903)成田に生まれ、明治四十五年(1912)に成田山に
入山、昭和3年総本山地積院主事、同9年横浜別院主監、13年権少僧正、16年少僧正、
20年大阪別院主監、21年権中僧正、24年中僧正、28年権大僧正、40年大僧正となって、
大本山成田山貫主となりました。 昭和61年(1986)没。


成田山公園-6
*****成田山公園-7
成田山公園-8
*****成田山公園-140

この辺りは「梅園」と呼ばれ、多くの梅の木が植えられています。
早春の頃の成田山公園は、梅のほのかな香りにつつまれます。


成田山公園-9

変わった形のこの灯籠には、「 獻燈 」「東京明治座 大正十年五月建立」と刻まれています。
この献灯の二年後、当時久松町にあった劇場が関東大震災で焼失し、麻布十番の末広座を
明治座と改称して興業するなど、苦難の時代が続きました。


成田山公園-10
成田山公園-11

公園入口の門をくぐって直ぐに左に入る小径があります。
スダジイの大木の根元に立つ灯籠には、「永代御膳料」と刻まれています。
東京の大久保久七氏が、大正十年(1921)に寄進したものです。
大久保久七氏は日本橋富沢町で呉服商として成功を収めた人のようです。(三田商学研究・
第46巻第2号、同第48巻第3号の織物問屋群生化に関する白石 学氏の論文に、何度か
名前が出ています。)


成田山公園-12
成田山公園-105
成田山公園-106

小径の左側は崖で、右側にはたくさんの紫陽花が植えられています。
崖の下は雄飛の滝(いずれ散策に行きます)になるようです。
目を凝らすと、滝の上にある「洗心堂」の屋根が見えます。


成田山公園-13

紫陽花の小径を進むと、藤棚が見えてきます。


成田山公園-14
***成田山公園-59
成田山公園-60

四月下旬から五月初旬にかけて、見事な花を咲かせます。
花の盛りには、ベンチは人々でいっぱいになります。


成田山公園-15

藤棚からメインストリート(?)へ出る場所に立つ灯籠。
竿下部にかすかに「大正十年十二月建之」と読める文字があります。
別巻資料には年代等の記載が無い灯籠が一基載っていますが、記載されている高さから、
「東京旭一心講」の奉納ではないかと思われます。


成田山公園-16

藤棚の横の柵内にある、明治十一年(1878)の照輪上人らの句碑。
「花園」(現成田山公園)の完成祝に、三橋梅隣が主催した句会で詠まれたもののようで、
「如是我聞   園の日に 経よみ鳥や 法の花   黙堂」 (黙堂は照輪上人の俳号)
をはじめ約二十首が刻まれています。
「経よみ鳥」とはウグイスのことで、その鳴き声が「法華経(ホケキョウ)」と聞えることから
こう呼ばれることがあります。


成田山公園-17

照輪上人らの句碑の隣にある小さな石碑には、「大護摩修行」「明治十二年」と刻まれています。


成田山公園ー21

藤棚の脇にある、天明八年(1788)建立の松尾芭蕉の句碑。

「丈六に 陽炎高し 石の上」

この句は、貞享五年(1688)故郷の伊賀の新大仏寺を訪ねた時に、土砂崩れによって
堂塔が破壊され、仏頭のみが石座に残されたさまを詠んだものです。

丈六(じょうろく)とは、仏像の背丈を現す言葉で、仏は一丈六尺(約4.85m)の身長が
あるとされているので、仏像もこれに合わせて作られます。
半丈六像は約八尺(2.43m)、坐像はこの高さが多いようです。


成田山公園ー40
成田山公園-18

藤棚に入らず、そのまま小径を進むと、「獻燈」と刻まれた古い灯籠があります。
台座に「斎木」「平岡」の名前が読めますが、寄進年等は不明で、別巻資料にもこの灯籠は
見当たりません。


成田山公園-108
成田山公園ー19

灯篭の先には、明治四十二年(1909)の東京府消防組木遣会の「木遣塚」が見えてきます。
江戸火消し時代の「ほ組」「と組」「ち組」「ぬ組」「わ組」「か組」が再編された「第五区」(現在の
台東区全域、荒川区の大部分、千代田区の一部を担当)が奉納したもので、不動明王を現す
剣を中心に置き、左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を従えた
三尊の形式になっています。

成田山公園-113
***********成田山公園-114
成田山公園-115

**額堂-99

三尊像は境内の何カ所かで見られますが、光明堂脇にある三尊像の構図とほぼ同じようです。


成田山公園-109
成田山公園-110

木遣塚からメインストリートに出る角にある灯籠。
笠の部分に特徴のある、ずんぐりした灯籠です。
「永代御膳料」「大正九年九月」の文字が見えます。


ほとんどの石碑や石造物への接近が、立ち入り禁止の柵またはロープに阻まれている中、
小さな階段に導かれる石碑があります。

成田山公園ー25

照輪上人の碑。
中興第十三世照輪上人は、文化十二年(1815)上総富津の生まれで、字は貫瑞、黙堂と
号しました。

抑〻成田山公園は、当山光明堂右側丘陵地の一部に始まり、漸次に拡張せられて現公園
となったのであるが、もとこの場所は平坦な芝地で、当山開帳等の場合には、此処に各種の
興業場が設けられ、就中曲馬の興業は最も盛んに行われていた関係から古くは此処を「曲
馬場」と称し、又一方屢〻佐倉藩郷兵の調練場となったところから、一名「調練場」ともいわれ
ていた。然るに其の後照輪上人は、一般參詣者並びに信徒の慰安を図る為め、明治九年(一
八七六)此の地に花園を造る計画を立て、同一〇年此の芝地を開拓して梅樹を植えて梅園と
し、藤棚を設け、池を掘って花菖蒲を植え、更に桜樹・花卉等を裁えて、「花園」又は「花屋敷」
と称し、其の南側には四阿を建て、上人自ら筆を執って「華胥」と題し、屢〻歌人・俳士・文人・
墨客を集めて、清遊を試みた処である。蓋し当時この園は、艶美恰も華胥の境に遊ぶが如き
感があったからであろう。】 
 (「新修成田山史」 P166~167)


成田山公園ー38
成田山公園ー23

公園内の「金蘭不朽」の碑の右方、一段高き丘上にある銅碑で、三段の墓石の上に立ち、
高さ三メートル、巾一・一〇メートルの雲竜の縁付の鋳造物である。明治二一年(一八八八)
一一月二九日昭輪上人の七回忌に際し、三池大僧正の建立せるものであって、照輪上人の
伝記を詳細に誌してある。「照輪和尚之碑」の六字の題額は、北白川宮能久親王殿下の御染筆
にして、撰文は上人と蘭交ありし宗伯浅田惟常氏。書は高橋泥舟氏、鋳造人は川口住の永瀬
正吉である。】 
 (「新修成田山史」 P659  赤字の「昭」は「照」の誤植と思われます)

碑文にはこう記されています。

照輪和尚之碑 二品大勲位能久篆額 泥舟隱士高橋精一書
師諱照輪字貫瑞號黙堂姓原口氏下總國周准郡富津村人父半藏母某氏師生而頴異文政甲申
中從下總國新勝寺主照胤薙染爲僧時年甫十歳天保中就照恵和尚受戒後入京師智積院顕密
二教凡二十余季學就住于江都浅草正福院慶應丁卯衆推襲其師新勝寺職明治中擢七級教導
試補暦階級至権中教正兼眞言學頭当此時寺務倥怱冗費極多師入寺後慈忍化行百廃倶擧称
爲中興繼之築明王支院於東京及横浜高崎等修行徳詣成田道路改架佐倉鹿島橋時供學校警
署育児訓児等費官屢賜銀杯以賞之明治十四年 皇上臨三里塚種畜場以本寺爲行在所特許
拝謁賜紅白縐各一匹金百錠越十五年又臨幸賜菊章銀杯三脚絳錦二巻金百錠他寺之所罕世
以爲栄焉師賦性慈緩端重寡言夙夙起奉事不動明王日佛有盛衰道不虛行在其人勉勵耳終身
持行不倦誨人則務以身卒惓惓唯恐其力之不逮故其道風雅量爲世所欽如此師以文化乙亥二
月廿一日生以明治壬午十一月廿九日示寂世壽六十八僧臘五十八檀越慕之如哀妣師會在都
下十八年與貴紳名流驩又與異邦名士爲詩文之友傍通諸子百家書頗有文字禅之名蓋逃于墨
而仍不失爲儒者也記距今六年余與門生林静斎訪師盧一見如旧識齢亦相若因訂兄弟之盟詩
文贈答殆無虚月師乃爲余撰壽蔵文而今弟子来徴師墓銘潜然不堪存没之感余曷得辞乎為之
銘曰
      仁風披拂成田雨   炎威薫騰聖尊煙
      非斯師誰能爲之   非斯道孰得其縁
      神朗気清仙耶佛   宜矣其徳蚤達天
                  明治十九年九月     明宮尚薬  従六位  浅田惟常謹撰 】  
   
(「新修成田山史」 P659~660)


この「照輪和尚の碑」は、一段と高い場所にありますが、向かって左側に少し下りると、「金蘭
不朽の碑」があります。


成田山公園ー39
成田山公園-22

この碑は、生前の漢方医学の大家である浅田宗伯と、原口照輪との親しい交わりを記したもので、
題額は勝海舟、撰文は石川大僧正、書は浅田惟恭によるものです。

【 際洋医跋扈之時凛然持長沙之正脈者非栗園浅田先生乎當佛教衰頽之日毅然掲不動之法幢
者非我師黙堂上人乎其精神気魄俱足壓當代而動後世矣明治十二年己卯先生拉其門人林静斎
訪上人於我成田山新勝寺先生與上人意気相投年歯相若握手驩甚因直訂兄弟之盟爾來交情日
厚山河雖隔雁魚頻通夢寐之間不能相忘於懐也是實希世之佳遇而雖由先生之與我師有道心相
印者安知非不動明王之冥助陰誘哉十三年庚辰先生自建壽碑題曰寂然不動上人爲之銘十五年
壬午上人示寂先生撰其墓碑銘二十七年甲午先生亦逝矣今玆丁酉静斎與院代峰川照和等相謀
募浄財建一大碑将傳金襴之交於不朽其志可嘉也庶幾千歳之下聞二老之風者使薄夫敦懦夫立
志焉銘曰
       成田之山  蒼翠聳天  両賢相遇  笑指白雲
       宿縁甚深  交誼至重  妙諦仁術  萬古不動
                                        明治三十五年五月
                               成田山新勝寺現住權少僧正照勤謹撰
                               從二位勲一等伯爵勝安芳題額
                                            東京  淺田惟恭謹書 】
(「新修成田山史」 P661)


成田山公園ー26
成田山公園ー28
成田山公園-112

照輪和尚の碑からメインストリートをはさんだ反対側に、木々に埋もれた五重塔があります。
繁みの中には小さな奉納碑が立っています。
別巻資料で該当すると思われるのは、大正十一年(1922)の東京穀物商組合の寄進です。


成田山公園-101
成田山公園-102

五重塔の先は柵に囲まれた展望台のようになっていますが、木々が生い茂り、残念ながら
見晴らしは良くありません。
目を凝らすと、成田駅方面がわずかに望めるようです。


成田山公園ー30

五重塔の反対側に立つ大きな灯籠。
別巻資料の中に該当すると思われるものは見つけられませんでした。


成田山公園ー33
成田山公園ー34
成田山公園-100
                                               ( 裏 側 )
木(?)のように見える不思議な形状の碑ですが、公園の管理をしていた方の話ですと、木の
化石のようだとのことです。
灯籠奉納碑のようで、かすかに「■田久保」と読めます。


成田山公園-37

左は明治三十九年(1906)の「日露戦争戦勝紀念碑」。
東京・日本橋の太物商(綿や麻の和服商)の小島勇次郎夫妻による建立ですが、上部の
碑銘には「紀念 東郷書」とあります。
「東郷」とは、日露戦争で連合艦隊司令長官を務めた東郷平八郎のことです。
碑文は風化で読みにくくなっているので、「新修成田山史」から引用します。

 【我が国露国との戦争は明治三十七年二月八日に始り、海陸連戦連勝九月四日遼陽を
占領、三十八年一月一日旅順を陥れ三月十日奉天を占領、十六日は鉄嶺も占領せり、
五月二十七日より二十八日までの日本海海戦に敵の船隊をして殆ど全滅に至らしむ後
米国大統領の講和勧告によりてこゝに平和の秋とはなりぬ
           御代なれや凱旋門に菊の花    愛宕
                            香鴻  山岡 昇 書   田鶴年刻 】

裏面には建立のいきさつが次のように刻まれています。

【 此表面は愛宕千葉先生の亀戸に建られし紀年碑を老父勇翁が報国のため先生に乞て
覆刻し成田山に建むといふ時に年七十七其志に感し老父に代りて之を建
嘗て老父の句に
              開戦の二月八日や大勝利
                           明治三十九年冬日
                             東京日本橋区元大坂町太物商
                                  大坂屋二代 小島勇次郎
                                        妻    なか  】


句にある二月八日とは、日露戦争における最初の戦闘に、勝利した日のことです(二月六日・
国交断絶、二月十日・宣戦布告)。

この紀念碑の右側、成田小学校方向へ下る石段の脇にあるのは、は明治四十一年(1908)の
奉納碑で、「永代御膳料 金五百圓」と刻まれています(寄進・横浜 原田久吉・寿以)。」
 
現代の貨幣価値に換算すると4~500万円くらいでしょうか。
原田久吉は天保八年(1837)、静岡の佐久間出身で、横浜を拠点に活躍した名士です。


成田山公園-56

「紀念碑」から少し奥に進むと、明治三十六年の「竜王講内田竜左右頌徳碑」があります。

内田竜左右(文化十三年~明治三十年)は武州葛飾郡桜田村の生まれで、東京・日本橋の
ほか上州、武州に多くの講社を主宰し、安政の本堂再建に大きな貢献をした人物です。
安政の本堂とは、安政五年(1858)に建立された現在の釈迦堂のことです。
現在の大本堂の建立にあたって昭和39年に現在の場所に移されました。


成田山公園ー35

大師像。
ビッシリと張紙があって、刻まれているはずの文字が全く見えません。
寄進者と思われる「立嵜貞助」の名前が読めました。


成田山公園-41

成田山公園-54

成田小学校脇へ下る石段の右側に建つ灯籠。
木々に覆われて刻まれている文字が良く見えませんが、辛うじて「獻燈」「石橋利仁」「大正十■」
などが読めます。


「木遣塚」の先にはズラリと石碑が並んでいます。

成田山公園-116

大東講の護摩木山奉納碑。


成田山公園-117

護摩木山奉納碑。
奉納者は新栄講の石森安兵衛。


成田山公園-119

明治九年(1876)、新栄講の「永代護摩木山奉納碑」。
「山坪数四千八百三十五坪」と刻まれています。

護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。
「酒々井町篠山新田字大山」と読めますが、現在の国道51号線の「公津の杜入口」の信号の
ちょっと先、酒々井町に入って直ぐの右側、ゴルフ練習場やガソリンスタンドがあるあたりです。

手前は奉納者名簿。


成田山公園-120

大正六年(1917)の「永代御膳料奉納碑」。
山梨・上野原の弘敬講中の寄進です。


成田山公園-121

これは句碑のようです。
明治三十四年(1901)の建立で、「吉田・太田・和田」等の名前があり、6首の俳句が刻まれて
います。


成田山公園-122

「永代護摩料奉納碑」。
木に隠れて見にくいのですが、「新明講」「君津郡金田村」と読めます。
君津郡金田村は、現在の木更津市の西部にあたります。


成田山公園-123

明治三十三年(1900)の「敷石紀念碑」。
「神力講・古谷野」の名前があります。
手前は「鉄柵奉納連名碑」で、明治三十九年(1906)のものです。


成田山公園-124

明治三十六年(1903)の永代御膳料奉納碑。
弘明講社と記されています。

横にある永代御膳料奉納碑は,大正二年(1913)のもので、「中村平右衛門」の名があります。


成田山公園-125

左は大正三年の(1914)「玉垣建設補助人名碑」。
真ん中は大正六年(1917)の「百度大願成就」記念碑。
右は明治四十四年(1911)の神生講の「永代護摩料奉納碑」。


成田山公園-126

明治四十年(1907)の「永代御膳料奉納碑」。


成田山公園-127

「永代資堂金奉納碑」。
明治四十年(1907)に深谷町と記されています。
「金五百圓」を何かの時の資金として新勝寺に奉納したものです。


成田山公園-129

「永代御膳料奉納碑」。
「不動講」とありますが、別巻資料には該当しそうなものが見つかりません。
柵の奥にあるため、良く見えませんが、裏面に「嶋野念」の名前が読めます。


成田山公園-70
成田山公園-128

大正十一年(1922)の五重塔。
「栃木縣日光町」と刻まれています。


成田山公園-130
成田山公園-141

五重塔の奥には明治二十四年(1891)の「永代大護摩修行碑」があります。
成田町の丸成元講社が建立しました。
横にある石碑には講の由来が記されています。

【 丸成講社起因碑
  夫天者生々発育之気而不能無不時晦明風雨人者万物之霊長而不免有不虞疾病災害是故人
  皆欲去禍害就福利仰神明仏陀之冥護亦古今之常情也抑丸成元講先師原口教正之所金圏而
  現住三池僧正之継其志信者長谷川社長及副長諸氏協同組織之実以明治七年起社員三十毎
  歳三回必修大護摩以祈講社安全所謂畏彼天命以真実之心行善良之事者社運日趨隆盛不宜
  哉雖是因明王之冥護然亦諸氏積善之余慶在新勝寺多年能知其事実故不敢辞也 】
 

天候不順による災害・疫病から、仏陀に救いを求めて講を組織したようです。


今回はこのへんで。
この先はまたいずれ次回に。


成田山公園-133
成田山公園-134

取材を始めた夏の盛りから5ヶ月以上経ち、公園は紅葉の時期を終わろうとしています。

梅がほころぶ早春の日まで、石造物は落ち葉が舞う木枯らしの中で立ち続けます。




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気になる石仏~成田山外周路の続き~愛染明王か、馬頭観音か?

成田山石仏-62

前々回の「ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏」を取材している時、とても気になる石像
が近くにありました。
取材終了以降も何度か立寄ったのですが、この石仏が「愛染明王」なのか、「馬頭観音」なのか
の判断ができずにいました。


成田山石仏-72
*************成田山石仏-71

初めてこの石像を見たときは、「馬頭観音」だと直感しました。
三面八臂の坐像で、所々に朱色の塗料がわずかに残っています。

頭上には馬頭冠を戴き、根本馬口印を結んでいるように見えます。
馬頭観音は立像が多く、坐像は珍しいのですが、いくつかの特徴がこの石像は「馬頭観音」
であると示しているように思えました。

数枚の写真を撮り、十メートルほど離れた場所にある「亀乗り薬師如来」や「十一面観音」、
「勢至菩薩」や「青面金剛」と共に紹介しようとしましたが、「成田山新勝寺史料集 別巻」
にこの石像が「愛染明王」であるとの記述を見つけ、前々回の紹介記事からはこの石像を
外すことにしました。

文政元年(一八一八)十一月に成田村の藤藏らが建てた愛染明王像で、石工は庄吉である。
彫られた像は三面三目八臂の姿で円相を光背にして結跏趺坐し、頭部には獅子冠をいただく
姿となっている。像の前に建つ光明堂は大日如来を本尊としているが、本尊の脇に愛染明王
もお祭りしているので、この場所が適しているのである。】 
(P54)

こうはっきり記されている以上、馬頭観音とは書けませんが、愛染明王にもいまひとつ納得が
できませんでした。


額堂-97
                                  (外周路を隔てた境内にある光明堂)
成田山石仏-68

光明堂が現在の場所に移設されたのは安政二年(1856)のことですから、その四十年も前
の文政元年に、すでにこの場所に愛染明王像を置くとは少々出来過ぎな話に思えます。
もっとも、移設された光明堂に愛染明王が安置されていることから、他所にあった愛染明王像
をこの場所に持ってきた、とも考えられます。


成田山石仏-69
*************成田山石仏-66
成田山石仏-67

何回も通ってあれこれ眺めましたが、自信が持てないままに記事を見送っていました。

周りに建つ石碑は、いずれも明治時代の護摩木山の碑や永代御膳料の碑ばかりで、この
石像が移設されたものであることを強く示しているように思えます。


紫雲山-18
                                  (奈土・昌福寺境内の愛染明王像)
松虫寺ー28
                               (印西・松虫姫神社境内の愛染金剛像)

 髪を逆立て、獅子冠を戴き、三目六臂(三つの目と六つの宛を備えた形)で、冠上に五鈷
(インドから伝った仏具)を飾り、三眼で牙をむき出し、蓮華、弓矢、宝鈴、五鈷杵をそれぞれ
の手に握って、赤い火焔の円相を背にして、宝瓶に活けられた赤蓮華台に結跏趺坐している】

(「日本仏像大全書 四季社 2006年」 P29~30 愛染明王)

成田山石仏-65

細かいところはともかく、この石像の特徴は、愛染明王像にほぼ一致しているように見えます。


成田山石仏-70

しかし、何度見ても頭上にあるのは獅子冠ではなく、馬頭に見えてしまいます。


これまでに多くの馬頭観音像を紹介してきましたが、そのいくつかを並べてみても、いずれも
頭上には面長の馬頭を戴いています。

観音寺-4
                                           (南羽鳥・観音寺)
昌福寺ー17
                                            (富里・昌福寺)
観音堂ー25
                                         (富里・新橋観音堂)
自性院ー14
                                            (小泉・自性院)
田中山ー41
                                           (一坪田・宝蔵院)


さて、三ヶ月もの間悩んできたことが、実に簡単なことから一気に解消することになりました。


成田山石仏-137

先日、思い立って早朝の成田山を訪ねた時、いつも見ていた日中とは違う角度の日当りが、
石像の凹凸を浮き上がらせてくれたのです。
斜めから、上から、下から、と何度も目を凝らして眺めていた石像が、これまでとは全く違う
表情を見せてくれたのです。


成田山石仏-143

頭上にあるのは紛れもなく「馬頭」でした。


成田山石仏-142
成田山石仏-138

今までどうしてこのようにはっきりと見えなかったのか?
ピンと張った耳、ふさふさとしたたてがみ、見開いた両目、大きく開いた鼻・・・、立派な馬頭です。

この石像は「愛染明王」ではなく、「馬頭観音」でした。


成田山石仏-139
成田山石仏-64

体の正面で結んでいる印は、愛染明王の「根本愛染印」ではなく、「根本馬口印」です。


成田山石仏-144

「馬頭観音」は、他の観音像が女性的で穏やかな表情であるのに対して、一般に憤怒相で
あることが特徴です。
このため、密教では「馬頭明王」と呼ばれて明王部に分類されることもあります。
近世以降は国内の流通の活発化に伴い、荷運びの手段として馬が頻繁に使われるように
なり、事故や病気などで死んだ馬の供養のために建てられることが多くなりました。

「馬頭観音」または「馬頭観世音菩薩」などと文字のみを刻むことがほとんどで、石像が刻まれ
ているものは少ないようです。


成田山石仏-145

この馬頭観音像は、前々回の「ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏」で紹介した
四体の石仏群から、新しくできた醫王堂へ向かって十メートルほど進んだところにあります。
(薬王寺に下る坂の降り口、左側になります。)



「亀乗り薬師如来」などの石仏群からは、石像の上部がわずかに見えます。(矢印)


裏門からの外周路は、実は「平和大塔」への近道で、注意しながらゆっくり歩くと、いろいろと
おもしろいものが見つかります。

額堂-3
                                              (のぞき小僧)
額堂-8
                                                 (包丁塚)
額堂-100
                                             (珍しい石仏群)
医王殿-5
                                         (新しくできた醫王殿)


成田山石仏-136

成田山石仏-140

表参道から総門をくぐり、仁王門から石段を大本堂へと上る王道コースを外れて、裏門から
外周路をのんびり散策すると、思わぬ発見があるかもしれません。
額堂と光明堂の裏側を見ながら、「醫王堂」と「平和大塔」にお参りするのはいかがでしょう。




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馬頭観音 | 16:31:10 | トラックバック(0) | コメント(2)
五百年の歴史~船形の「東永院(トウヨウイン)」 《旧公津村》

東永院-1

「東永院」(とうよういん)は曹洞宗のお寺で、山号は久昌山。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

【大永6年(1526)に、船形の楫波山城主船形越前守胤信が、超林寺第2世松厳周鶴を
開山として創建したと伝えられています。長い間廃寺同様でしたが、平成2年(1990)に
再建されました。】


「成田市の文化財 第42集 仏閣編」(平成23年)には「東永院」がこう紹介されています。


東永院-4
東永院-57東永院-5

「千葉縣印旛郡誌」には、「東永院」について次のように記述されています。

【船形村字稲荷下にあり曹洞通幻派にして超林寺末なり下總國印旛郡臺方村超林寺二世
當院開山松岩周鶴大和尚此地に来到て大永元辛巳年八月當院を建立して弘治三乙卯年
正月二十四日に示寂すと記録に記載有之儘上書仕候也堂宇間口五間半奥行四間境内
五百八十六坪官有地第四種あり檀徒四十一人を有し管轄廳まで八里七町三間なり境内堂宇
一宇あり即
一 大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺寺院明細帳


東永院-12

ここは、当院を建立した千葉一族で馬場氏の流れをくむ、揖波山(かじばやま)城主であった
船形胤信(越前守)の菩提寺となっています。


東永院-58
東永院-11
東永院-59

再建されてから約30年の本堂は、装飾のないスッキリした佇まいです。


東永院-60

ちょっと愛嬌のある鬼瓦。


東永院-7
東永院-70

「印旛郡誌」にあった「大師堂」。

東永院-9
東永院-8

ちょっと失礼して中を覗かせていただいて、びっくり!
大師像の左側面がざっくりと削られています。
風化のようなものではなく、明らかに人工的なものです。


東永院-74
東永院-69

廃仏毀釈による首の無い石仏は多く目にしますが、正面からは見えないところで大きく
えぐり取られたこの姿は衝撃的です。


東永院-6
東永院-75

大師堂の側に、明治四十五年(1912)建立の「悟庵義堂大和尚 大信觀光尼首座」と
刻まれた大きな石碑があり、裏面に二人の生い立ちや業績、明治三十九年(1906)と
四十年に亡くなったことが記されています。

【 梧庵義堂大和尚禪師生國能登國鳳至郡大野村長田彦ノ男同郡稲舟村笠原藤太有忠ノ猶子
トナル明治二拾一年本村船形貮百八番地ノ内壱ニ居住西谷家創立ニ尤モ功アリ明治四十年
九月拾六日午前八時老衰病ヲ以テ遷化セラル行年七拾才 】
【 大信觀光尼首座西谷家ノ先祖生國越後國中頸城郡柿崎宿小出源治右衛門ノ長女明治貮拾
壱年本村船形弐百八番地ノ内弐ニ居住明治三拾九年八月貮拾七日午後壹時老衰病死行年
八拾六年八ケ月 】


明治四十五年(1912)に西谷家の戸主・西谷八三が建立したものです。


東永院-13

平成2年の「本堂新築記念」碑。


東永院-83
**************東永院-84

境内の左右には立派な桜の古木があります。
寂しい境内ですが、満開の桜は一時的にも東永院を華やかに見せることでしょう。


東永院-61

本堂の裏に回ると、小さな墓地があります。


東永院-63
東永院-65

コンクリーで固められた墓石からは、安らぎのようなものが感じられず、もの悲しい風情です。

どれも風化が進んでいますが、元禄、宝永、享保、明和、天明、寛政、天保、嘉永などの元号
がかろうじて読み取れます。


東永院-66

一角には歴代住職の卵塔が並んでいます。


東永院-67
東永院-68

墓石に刻まれている多くが、地蔵菩薩か如意輪観音です。


東永院-23

「成田市史 中世・近世編」の東永院の項には、次のような文章があります。

【 船形にあり、超林寺末で、大永六年(一五二六)八月、船形の楫波山城主船形越前守胤信
が超林寺第二世松厳周鶴を開山として創建した。境内に鎌倉時代の嘉曆四年(一三二九、
元徳と改元)と南北朝時代の康永元年(一三四二)の板碑がある。】 
(P258~259)


さて、境内をくまなく探しましたが、板碑らしきものは見当たりません。

東永院-86

道路から境内に上る階段の両脇に、門柱代わりのように置かれた石がありますが、あらためて
見ると、何となく板碑のような気もします。


東永院-54

どうやらこれが嘉曆四年(1329)と康永元年(1342)の板碑のようです。
約690年前と680年前の板碑の残し方に、もう少し工夫があって欲しかったと思います。

このお寺の創建が大永6年(1526)ですから、その200年近く前に刻まれた板碑が境内
にあることに理由があるのかも知れません。
どこかにあったものを移設してきた、というようなことであれば、その扱いに丁寧さが欠ける
のは仕方ないことでしょう。
階段工事の時にここに埋め込まれたようですから、もともとあまり注目されてはいなかった
のでしょう。


東永院-22
東永院-52

向かって左の板碑には、かすかに梵字が残っています。

0001キリーク      なんとか読める梵字は「キリーク」のようです。
キリークは阿弥陀如来または千手観音を表しますが、ご本尊が阿弥陀如来であることから、
これは「阿弥陀如来」を刻んでいると考えるのが妥当でしょう。(でも、お寺の創建と板碑の
年代の問題から、あまりあてにはなりませんね。)

梵字の下に「曆」らしき文字がうっすらと見えます。
こちらが嘉曆四年のものでしょうか。


薬師寺-109
東永院-53

向かって右の板碑。
こちらは風化で何も読めない状態です。


東永院-80
薬師寺-116薬師寺-117
東永院-81

境内の左奥に小さなお社がありました。
何のお社かは分かりませんが、しっかりとした流造りのお社です。


薬師寺-118
東永院-100

木陰にひっそりと並んでいる二体の石仏。


薬師寺-119         観音菩薩(?)
**************東永院-102

向かって左は観音菩薩のようですが、何となく像容に違和感があります。


東永院-104
****東永院-103

裏に回ってみると、頭部は補修されてセメントで固められていました。
首を落とされて、後に付け直されたようです。

顔は観音菩薩のようですが、体は地蔵菩薩に見えます。
昭和58年の「成田市の文化財 第14集」に、この石仏らしき写真が載っていますが、首が
無く、地蔵菩薩と記されています。
首を落とされた地蔵菩薩に、観音菩薩の首を載せたのかもしれません。
よく見ると観音菩薩の顔は仮面のような薄さです。


東永院-79   首のない地蔵菩薩
**************東永院-2

どこにも残る廃仏毀釈の傷跡ですが、そのまま放置されて草に埋もれてしまった石仏や、
首や腕のないまま立ち尽くしている石仏、あるいは稚拙であっても何とか補修しようとして、
セメントで間に合わせの頭を載せたもの等々、それぞれのお寺の事情によって境内の風景
は異なります。
時代が変わり、人々の信仰心も薄れて行くのは仕方ないことですが、通りすがりに石仏に
たとえ首が無くとも、そっと合掌するような日常が欲しいと思うのは私だけでしょうか?


東永院-51

境内から向いの山腹に薬師寺の屋根が見えます。


東永院-20

二年前に同じ場所から撮った薬師寺の屋根です。
屋根の右側に天然記念物の「船形の大シイ」が見えています。
今、そこには大木の姿がありません。
昨年六月の大風で倒壊してしまいました。

人による歴史の破壊だけでなく、自然もまた徐々に歴史を消し去って行きます。


東永院-90
東永院-93
東永院-94
東永院-95

蘖が伸びて、数百年後にまた、あの大木がここに聳えていることを信じたい気持ちです。


東永院-14
東永院-21
東永院-88
東永院-87

訪れる人も無い東永院ですが、再建されて二十八年、再び五百年の歴史を繋ぎ始めています。


Map船形

                        「久昌山 東永院」  成田市船形185




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公津村の寺社 | 17:46:47 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっと寄り道~成田山外周路の隠れた石仏

長い間ご無沙汰しておりました。
この間の事情は追記に簡単に記しておきました。
以前よりスローペースになると思いますが、再開させていただきます。
今回は、以前から気になっていた、成田山の石仏です。



成田山の外周路に、ひっそりと佇む石仏があります。

額堂-100

光明堂裏辺りの外周路。
寄進された金額や奉納物が刻まれた、大きな石碑が立ち並ぶ一角に、隠れるようにして
その四体の石仏はあります。


成田山石仏-12
成田山石仏-61

もともとこの外周路を歩く人は少ないうえに、大きな奉納碑や記念碑に囲まれているので、
気付く人はほとんどいません。

成田山の境内には多くの奉納碑、記念碑、修行碑、句碑などが立ち並んでいます。

大本堂裏の築山には不動明王の眷属(けんぞく)童子群が並んでいますし、光明堂・開山堂・
額堂に囲まれた一角には、不動明王像や矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せい
たかどうじ)を従えた三尊像が複数見られます。 

成田山石仏-81
成田山石仏-76
**********成田山石仏-77
成田山石仏-79
**********成田山石仏-80
成田山石仏-82
***************成田山石仏-84

ただ、不思議なことに、どこのお寺でも普通に見られる観音菩薩や地蔵菩薩のような石仏を
目にすることはありません。
広い境内のどこかに立像や坐像が隠れているのかも知れませんが、私はこの四体の石仏
以外には見つけることができていません。


成田山石仏-60

これらの石仏には、この場所にある必然性も、配置の意味も感じられなく、あちこちに分散して
あったものを境内の整備などの事情で、とりあえずここにまとめて置いたように見えます。



一体ずつ見てみましょう。

成田山石仏-3
成田山石仏-126
***************成田山石仏-48

左端に立つのは庚申塔の青面金剛像です。
顔から上半身にかけて大きく削り取られています。
右側面には文字が刻まれていますが、風化と欠損で、わずかに「本尊」と「八月吉日」の文字
が読み取れるのみです。


成田山石仏-2

この青面金剛像をよく見ると珍しい一面八臂像です。

今までこのブログでたくさんの青面金剛像を見てましたが、どれもが一面六臂像でしたので、
これは初めて見る八臂像です。
正面の二臂は削られていますが、合掌している様子がかすかに残っています。


駒井野道祖神-6 「駒井野道祖神」の青面金剛像
大鷲神社ー7 北羽鳥「大鷲神社」の青面金剛像
東陽寺ー2 野毛平「東陽寺」の青面金剛像
芦田八幡ー20 芦田「八幡神社」の青面金剛像

通常、六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を六臂全てに持つか、四臂で
いずれかを持って、残る二臂で合掌しています。
忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。


成田山石仏-125

この八臂像は、六臂で持物を持ち、さらに合掌する二臂が加えられています。


成田山石仏-4

邪鬼と三猿の部分も風化や欠損ではなく、削られた痕があります。
顔から上半身、邪鬼と三猿、いずれも廃仏毀釈の嵐に揉まれたことによるものでしょう。

この像にはもう一つ変わった部分があります。
ふつう金剛像の足許の左右に刻まれる鶏が、三猿の下に刻まれているのです。


成田山石仏-47

三猿を刻むのは、庚申の申(さる)にかけて、三尸(さんし)に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝への告げ口をさせないようにするためだと言われ、鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを
表しているとか、十二支の申(さる)の次に来る酉(とり)の日になるまで起きていることを表し
ているとか言われていますが、この位置に鶏があるのは初めて見ます。


成田山石仏-100

この珍しい青面金剛像の建立年代が分からないのは、とても残念です。
(庚申や庚申塔については度々書いてきましたが、「駒井野の道祖神と石仏群」の項に書いた
解説を参考までに追記に載せておきます。)


金剛像の隣にある石仏には大いに迷わされました。

成田山石仏-7

一見、観音菩薩像と思いましたが、なにか違和感があります。


成田山石仏-44
成田山石仏-58

頭部は隣の青面金剛像と同じく、廃仏毀釈により落されたようです。
修復の痕が痛々しい姿です。


成田山石仏-45

今は失われていますが、頭上には宝冠のようなものが載っていたようです。


成田山石仏-8

宝冠をかぶり、左手に蓮華、右手は与願印を結ぶこの石像は「虚空蔵菩薩」と思われます。

虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)とは、無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味で、智恵や
知識に関するご利益をもたらす菩薩です。

この石像は、いろいろ比較してみると、京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵菩薩立像」にとても
良く似た像容です。
醍醐寺の虚空蔵菩薩像は、長らく「聖観音像」と伝えられてきましたが、平成27年に「虚空蔵
菩薩」であることが判明しました。
一見、観音菩薩と見誤るのは当然と言えば当然ですね。


多門院ー40 吉倉・多門院の虚空蔵菩薩
耕田寺ー43 村田・耕田寺の虚空蔵菩薩

上の虚空蔵菩薩像はいずれも十三夜の月待塔に本尊として刻まれたもので、この石像の
ような単立像は珍しいものです。


額堂-46
***************成田山石仏-57

「月待塔」の可能性もあるので、刻まれた文字を探しましたが、「寛文十一年」の文字が読める
だけで、月待らしき文字は見当たりません。
寛文十一年は西暦1671年、約350年も前のものです。
この年には歌舞伎の「先代萩」や映画・小説でも多く題材にされている「伊達騒動」がありました。


手前にある坐像は「十一面観音」です。

額堂-101

この観音菩薩は、十種の現世利益(十種勝利)と、四種の来世利益(四種果報)をもたらす
とされています。
【<十種の勝利>(一)病気せず、(二)つねに諸仏に憶念され、(三)財物や衣服飲食に欠乏
せず、(四)すべての怨敵を破り、(五)衆生の慈悲心をおこし、(六)虫害や熱病、(七)刀杖に
害されることがなく、(八)火難、(九)水難をのがれ、(十)横死しない、ことの十種である。
<四種の果報>(一)臨終の時に諸仏を見ることができ、(二)地獄に堕ちず、(三)禽獣に害
せされず、(四)無量寿国に生まれることができることの四種である。】
(「目でみる仏像事典」 田中義恭・星山晋也著 P275)


成田山石仏-5

「十一面観音」はヒンドゥ教のシヴァ神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の変化身
の一つです。
頭部に十一の顔を持ち、正面の顔は修行によって得られた如来の境地を表し、他の十面は
修行中の菩薩を表しています。 

【菩薩の顔が三面、忿怒の顔が三面、牙を持つものが三面、暴悪大笑と称するものが一面】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生 中著 P112)


ただ、この十一面観音像には忿怒相は見当たりません。

成田山石仏-124 正 面
成田山石仏-38 左側面
成田山石仏-39 右側面

頭上に三面、額上に五面、左右側面に一面ずつ刻まれ、本面を含め全て菩薩面です。
頭頂部には削られたような痕があるので、もともとはここに阿弥陀如来の化仏が載っていた
のかもしれません。


成田山石仏-36
成田山石仏-121

十一面観音の像容は、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つ形が
多いのですが、この観音像には持物はなく、両手は膝上で変わった印を結んでいます。


成田山石仏-56

掌を上に、親指と中指を付ける「上品中生」の印を両手を離して膝上に置く形で、いろいろ
調べても該当する印相が見つかりません。
「上品中生」の変形とでも言うのでしょうか。

「仏像印相大事典」(秋山昌海 著 昭和60年)にあった、
【・・・もうひとつ、わが国の観音像は、蓮華を持つことでは、ほとんど例外がないほどで変わり
ばえしないのに、印のかたちはまちまちで、これは、印については、観音像というものがかなり
自由に、形式にわずらわされずに造られていたことをものがたる。】
 (P321)
という文章に納得して、”自由に、形式に囚われずに彫られた”像だとしておきましょう。

足は半跏趺座に組んでいます。

全体のバランスがあまり良くないので、印の部分等が補修されて、もともとの形から違って
しまったのではないか・・・と、何度も見ましたが、その痕跡はありません。


右端は、亀に乗った珍しい石仏です。

成田山石仏-9
成田山石仏-53

一見、妙見菩薩のように見えますが、乗っているのは妙見菩薩が乗る玄武ではなく、亀です。


成田山石仏-10
成田山石仏-34
**********成田山石仏-33
成田山石仏-51

どこを見ても蛇と合体した玄武の痕跡はありません。


成田山石仏-32
成田山石仏-31

左手に持っているのは薬壺のようです。
とすれば、これは亀に乗った薬師如来だと思われます。


額堂-45

亀乗藥師如来は浦安の「東学寺」(坐像)や京都の「亀龍院」(立像)のものが知られていますが、
全国的にあまり例がありません。


額堂-43

この四体の珍しい石仏について、何も資料が見つからないのはとても残念に思い、何度も
現地を訪ね、思いつく資料を片っ端からあたってみました。
そして、奇跡的に「成田山新勝寺史料集 別巻」(成田山新勝寺 平成20年)の巻末にある
「金石一覧」表の中に、この四体の石仏が記載されていることを見つけました。
境内にある全1442件の金石について、1件1行ずつの記載です。
なお、代表的な270件については本文中に詳細な記述があります。

10  庚申塔         年代 ―   奉納者 ―   位置   97
811  十一面観音像     年代 ―   奉納者 ―   位置   98
812  聖観音像        年代 ―   奉納者 ―   位置   99
813  獏に觀音像      年代 ―   奉納者 ―   位置  100


いずれも年代、奉納者ともに不詳とされていて、「虚空蔵菩薩像」と見た石仏は「聖観音像」、
「亀乗薬師如来像」と見た石仏は「獏に観音像」と書かれています。


成田山石仏-111

ここで「聖観音」とされてる石仏は、その像容と、前述した”京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵
菩薩立像」”の例を踏まえて、私としては「虚空蔵菩薩像」であるとしたいと思います。
年代不詳となっていますが、よく見ると寛文十一年の文字が読み取れます。

【密教で発達した菩薩で、真言宗などでは虚空蔵菩薩を本尊として、さまざまな修法が行わ
れる。 また、この菩薩を本尊として記憶力を高める求聞持法という修法も古くから行われ、
弘法大師も若いころこの法を行ったという。】
【また、大日如来を中心とする五仏の化身として、五大虚空蔵菩薩が造られた。 このほか、
飛鳥時代に造られた聖観音に、虚空蔵菩薩と呼ばれるものがある。 中世以降、虚空蔵菩薩
の信仰が盛んになるにつれて、そのように呼ばれた。】(
「仏像鑑賞入門」瓜生 中著 P104)

このように、真言宗・大日如来と虚空蔵菩薩との関連を考えれば、虚空蔵菩薩像が成田山
新勝寺の境内の片隅に置かれていても不思議はないでしょう。
(大本堂の回廊を裏側に回れば、裏仏として、不動明王の本地物である大日如来像とともに
虚空蔵菩薩像と聖徳太子像が安置されています。)


次に、「亀乗薬師如来」と見た石仏が、「獏に観音」とされている件ですが、「獏に観音」とは
聞き慣れない名前です。
仏像に関する本や仏教辞典類などを見ても、この名前は出てきません。

成田山石仏-93

”最後の望み”で「成田山仏教図書館」を訪ね、質問をしてみました。

答えは意外にも、
”いろいろ調べても分からなかったので、見た目の印象を記したのだろう。 こういうことは
ままある。” というものでした。
「獏に観音」という観音は無く、たまたま調べた人が確信が持てなかったので、像容の印象
から、仮に「獏に」と名付けた、ということらしいのです。
それにしても「獏に」とはどういう印象なのでしょう?

恐いもの知らずの素人が、ここはちょっぴり勇気を持って「亀乗薬師如来」としたいと思います。


額堂-42

境内の片隅に、片付けられたかのように佇む四体の石仏ですが、よく見ればそれぞれに興味
深い特徴があり、見飽きません。

境内の片隅にひっそりと佇む四体の石仏。
成田山裏門の駐車場から境内へと上る坂道を、奥山広場に入らずにまっすぐ上って行き、
額堂の裏側を過ぎて、光明堂の裏側辺り、薬王寺に下る細い坂道の手前左側に見えます。




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