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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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三百年にわたって多くの学僧が巣立っていった「飯高檀林」

今回は匝瑳市の飯高寺の「飯高檀林跡」を訪ねます。

飯高檀林-94

飯高寺(はんこうじ)には、天正八年(1580)から明治七年(1874)までの約300年にわたり、
「飯高檀林」と呼ばれる法華宗(日蓮宗)の学問所が置かれていました。
総門、鼓楼、鐘楼、講堂等は国の重要文化財に指定され、鬱蒼とした森に覆われた境内は
県の指定史跡となっています。

檀林(だんりん)とは、僧侶の集りを栴檀(せんだん)の林に例えた「栴檀林」の略で、仏教の
学問修行所のことを指します。

「飯高寺(ハンコウジ) (一)日蓮宗。 (二)妙雲山と號す。初め日祐、法輪寺なる一寺を
松崎村に建立す。これ本寺の草創なり。永禄年中、もと小田原北條氏の臣平山某の城址
なる現在の地に移る。天正十九年、徳川家康、寺領三十石の朱印を附與せしがこの朱印狀
に飯高寺とありしかば爾後寺號を今の如く改むと云ふ。尚ほ此際、檀林設置を許可せられ、
大講堂以下の諸堂造營せられる。教藏院日生これが開講の祖たり。宗門最初の根本檀林
と稍せらるゝ。飯高檀林即ちこれにして、學僧常に千人を越えたりと云う。 (三)寺域、丘陵
の地を占めて眺望に富み、大講堂・書院・庫裏・學問所・對面所・鐘楼・鼓堂・一切経藏・
文句論談所・玄義論談所等の諸堂宇を具備す。寺寶に、徳川光圀書簡其他あり。」

(「日本社寺大觀 寺院編」 昭和45年 名著刊行会)

飯高檀林は、明治五年(1872)の「学制」発布により、明治七年(1874)に廃檀となりました。


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飯高檀林-1
飯高檀林-2

急坂に続いて、これまた急な石段を登ったところに、国の重要文化財の「総門」があります。
間口は約4.7m、脇門が約1.9m、左袖約2.7m、右袖約3.6mの腕木門です。


飯高檀林-4
飯高檀林-3
飯高檀林-6

「総門」は初め延宝八年(1673)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
所々に補修の跡がありますが、主要部分には335年前の堂々たる木組みが残っています。
天明二年は、その後7年間続いた「天明の大飢饉」の始まりの年でした。


飯高檀林-8
飯高檀林-5
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飯高檀林-12

総門をくぐり、樹齢2~300年の杉の大木が並ぶ参道を進みます。
これらの杉は、紀州家から寄進された熊野杉です。

千葉県教育委員会の説明板は、次のように「飯高檀林(跡)」を解説しています。
天正八年(一五八〇)土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺をつくり学問所
(檀林)としたのが始まり伝えられています。 天正十九年に徳川家より日蓮宗の宗門根本檀林
として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。特に、家康の側室養珠院「おまんの方」
の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宣の寄進等により規模が整えられました。以後、寺は
日蓮宗の根本檀林として遠近各地から参集する修行僧たちでにぎわい、名僧を輩出しました。
慶安三年(一六五〇)に火災にあい、 衆寮・楼門・大講堂を焼失し、 現在の建物はその翌年
(慶安四年)に再建されたものといわれています。」



参道を右に折れて、しばらく進むと歴代の化主(けしゅ)の供養塔が並ぶ「廟所」があります。
「化主」とは、檀林の最上位である檀林長のことです。

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飯高檀林-64
**************飯高檀林-65

正面には檀林初期の化主の供養塔が並んでいます。
中央に「開山蓮成院日尊聖人 慶長八癸卯年」と刻んだ塔があり、その左右の塔には、
二世・法雲院日道、三世・心性院日遠、十三世・寿量院日祐などの名が読み取れます。
手前の灯籠は正保四年(1647)のものです。

「蓮成院日尊」は、天正元年(1573)に「要行院日統」が飯塚村の光福寺に開いた
「飯塚檀林」を、「教藏院日生」と共に飯高村の妙福寺に、さらに法輪寺(後に飯高寺)
へと移して「飯高檀林」の基礎を築いた名僧です。
日尊は後に池上本門寺の十三世貫首となっています。
「法雲院日道」は、約1年の在位の後、久遠寺の十九世となっています。
「心性院日遠」は、約5年間にわたって檀林の組織や教育制度の充実などに尽力し、
その後身延山西谷檀林の檀林長となっています。

ここに、墓石ではなく慰霊塔が並んでいるのは、歴代の化主はそれぞれに池上本門寺や
身延山久遠寺をはじめとする全国の寺へと招聘されていったため、その墓所は招聘先に
存在するからです。


飯高檀林-66

風化が進んで読みにくくなっているものもありますが、いずれも「○○世○○聖人(または上人)」
と刻まれ、宝永、正徳、享保、元文、寛延、宝暦、天保などの元号が読めます。


飯高檀林-67

この「飯高檀林(飯高寺)」は、その学問所としての成り立ちから、檀家を持たないと聞いて
いましたが、この廟所の一段高くなった場所に比較的新しく見える、「○○家」と刻まれた
墓石群があります。
たまたまここを清掃中であった方に尋ねると、「もともと崖下にあった墓地が崖崩れに遭い、
仕方なくこの場所に移設させてもらったのだが、偉いお坊さんより高い場所となってしまい、
申し訳ない気持ちです。」と話してくれました。


飯高檀林-15

参道に戻ると、ここが元々は平山常時の居城であった痕跡の空堀があります。
過日の面影はありませんが、相当深く掘られています。


飯高檀林-72
飯高檀林-73

経文や諸文書を収める「一切経藏」。
寛文十二年(1672)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
傷みが激しいため、外壁はモルタル塗装で補強されています。


飯高檀林-21

飯高檀林は現在の「立正大学」発祥の地とされています。
立正大学のホームページにも、平成2年に建立されたこの石碑が紹介されています。


飯高檀林-76
飯高檀林-25
飯高檀林-26

木造寄棟造の「題目堂」。
18世紀ごろの建立とされています。
学僧達が上級試験に合格できるよう祈願したと伝えられています。

手前の手水鉢は明治八年(1875)の寄進ですが、その時には檀林は既に廃檀となって
いましたので、どんな気持ちでこの小さな手水鉢を寄進したのでしょうか?


飯高檀林-79

題目堂の先、参道の左手に鳥居が見えます。
「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」です。

この神社にまつわる話が、匝瑳市のホームページにありました。
少々長くなりますが、面白い話なので、ふりがなを省略して紹介します。
「その昔、檀林の僧が、朝早く、掃除をしようとして、大講堂の前庭に出てみると、総門の方か
ら、大講堂の昇り段のところまで、狐の足跡がはっきりとついていた。 庭を歩き回った足跡
からみて、大講堂の中へ入った様子なのだ。 僧は狐がどうして大講堂の中に入ったのか、
不思議に思えてならなかった。翌日も、足跡は大講堂のところで切れていた。 僧は、仲間に
このことを話した。 「それはおもしろいぞ。みんなで探してみるか」ということになり、鶯谷一帯
を探し回ってみた。 狐は見つからない。 夜中も見張っていたが、狐らしいものは一向に見当
らないのだ。 何日かたって、今度は、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いた木の葉が、庭に
落ちていた。 このことは、飯高村ばかりではなく、このあたり一帯の評判となった。 足跡を
残した狐の仕業とも思われず、かと言って、そんなことは誰もしていない。 当時は、憶測に
憶測が重なって、いろいろなうわさ話が生まれたようだ。 ところが、何年か過ぎて、その正体
がはっきりした。 能化上人の檀林入山式の日のことである。 その日は、上人の入山式と
あって、大酒盛があった。 普段、酒など飲めない学僧なので、その日だけは、無礼講とばかり、
みんな酔いつぶれるほど飲んだ。 酒宴も終わり、僧たちはみんな引き上げてしまった。 ところ
が、一人の僧が酔いつぶれて動こうとしない。 上人は、不思議に思っていろいろと尋ねてみた。
僧は、上人の前にひざまづき、ついに、正体を現わしてしまった。狐だったのだ。 この狐は、
表参道の橋げた近くの穴に住んでいた。 毎日、毎日学僧の唱える法華経の教えに感動して、
勉強がしたくなり、能化の授業に出席していた。 何年も何年もの間。しかも、一生懸命だったの
で、いろいろな教えの奥義を身につけ、時々、学寮の僧たちに、法門を指南するほどであった。
上人は、この話を聞き、法華経の奥義をきわめ、学僧の師となった努力に対して、僧に化けて
いたことを許してやることにした。 狐は、これから後、法華経の教えを守る一族として、仕える
ことを誓ったのである。 上人は、狐のために、大講堂の前庭の一角に、祠をつくり、ここに住ま
わせた。 後に、この祠は、古能葉稲荷大明神と呼ばれ久遠寺本仏(くおんじほんぶつ)の代
わり身として、信心する者が多いという。 今でも、五穀の守護神として、願をかけ、成就のお礼
に赤い幟を立てる者が大勢いる。」



飯高檀林-80  宝珠を刻む手水盤
絵馬掛けには多くの絵馬が 飯高檀林-78
飯高檀林-30  延享三年(1746)
 寛政十二年(1800)  飯高檀林-31

飯高檀林-32
飯高檀林-81
************飯高檀林-82

明治三十九年(1906)に奉納の狐の表情は、何か笑っているような・・・。


飯高檀林-38

「古能葉稲荷大明神」と参道を挟んだ場所に三基の石造物があります。
右は明治四十九年(1909)の題目塔です。


飯高檀林-87

左の石塔は「享保廿乙卯年」の紀年銘がある、道標です。
正面には「飯高檀林道」と刻み、側面には「いいたか」や「てうしみち」と刻まれています。
(「てうしみち」とは九十九里浜を銚子へと向かう「銚子道」のことと思われます。)
享保二十年は西暦1735年ですから、約280年前のものです。


飯高檀林-37

真ん中にあるこの石造物に刻まれた文字は「崇石」と読めますが、「崇」はもともと高い山という
意味で、「たっとぶ」とか「あがめる」という意味をもっています。
”それにしては何ともこじんまりしているなァ”と思ったら、「これは『崇』ではなく、『祟』ですよ。」
と、観光ガイドの方(※追記を参照してください)に教えられました。
確かによく見ると、「山に宗」ではなく、「出に示」の祟(すい=たたる・たたりの意)でした。

匝瑳市のホームページにこの「祟石(たたりいし)」にまつわる話が載っています。
正保四年(1640)、飯高檀林で総門前に石段をつくることになり、江戸から石を買い、小見川
まで船で運んで来た。そのあと、陸路を檀林まで運ぶのであるが、途中の神生村(旧山田町)
の藤右衛門という者が、そのうちの一つを盗んでしまった。 ところが、藤右衛門の家に不幸が
続き、「石を盗んだ祟りだ」ということになった。 そこで、親類の勘衛門という人に頼み、飯高寺
名主与右衛門を通して詫を入れ、ざんげの意を「祟石」と刻し、檀林へ戻したと言われている。」



飯高檀林-88

「講堂」の前に来ました。
珍しい栩葺(とちぶき)の堂々たる姿で、重要文化財としては県内最大級の建築物です。
「八日市場市史」の記述から、この「講堂」の変遷を要約すると、次のようになります。

檀林の初期の頃、講堂は総門の左側にあったと考えられていますが、慶長元年(1596)
に初代檀林長の日尊によって現在地に再建されました。
この講堂は、学僧の増加によって手狭となったため、慶安元年(1648)に家康の側室
「おまんの方」の寄進によって再築されました。
しかし、慶安三年(1650)の火災により焼失してしまったため、慶安四年(1651)に水戸藩
によって再建されたのが現在の講堂です。
約370年前の慶安四年は、軍学者・由井正雪の乱、いわゆる慶安事件が起こった年です。


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飯高檀林-44

千葉県教育委員会のホームページには、この講堂について次のように解説されています。

その後、何度かの修理を経て桁行26.7m、梁間16.2mで寄棟造、鉄板葺となって
いたが、平成9年(1997)から平成14年(2002)の半解体修理の際の調査で、かつては
屋根が入母屋造の栩葺き(とちぶき)であったことが判明し、旧に復した。」



飯高檀林-98
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講堂の前面には、3.82mの奥行を持つ広縁がまっすぐ伸びています。
この広縁を、大勢の学僧が行き来している風景が浮かびます。


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境内の右手には、入母屋造り茅葺き、袴腰の付いた、重要文化財の「鼓楼」があります。
享保五年(1720)に建立されました。


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ここで、学僧を講堂に呼集するために太鼓を鳴らしました。
太鼓の音が遠くまで響くように、袴腰の地面に大きな瓶を口縁部分を残して埋めてあります。


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「鼓楼」の脇に、集落へ下る石段があります。
「水門坂」と呼ばれ、集落には学僧相手の様々な店が並んでいたようです。
ある程度裕福な家の子弟でないと、全てが自己負担である檀林での長期間の生活は難し
かったようで、それだけに、近隣の集落は学僧達の落とす金でそこそこ潤っていたようです。


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境内の左側には、これも国の重要文化財の鐘楼があります。
慶安三年(1650)の火災で焼失した後、承応年代(1652~1654)に再建されました。

「梵鐘には寛永十六年(一六三九)秋の銘があり、現存の鐘楼が再建される以前、やはり
鐘楼があって慶安三年の火災で講堂などとともに焼失したと考えられる。」 

(「八日市場市史 下巻」 P198)


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屋根は鉄板葺きでしたが、平成4年の補修の際に講堂と同様に以前の栩葺きに戻されました。


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講堂の裏手には化主の住居であった「庫裏」があります。
現在の庫裏は、明治の廃檀後に移築され、その後も改修を加えられていますが、元々の
庫裏は何度か改築や焼失を繰り返して、寛文十年(1670)ごろに再建されました。


飯高檀林-109 講堂へ向かう渡り廊下
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飯高檀林-102 渡り廊下の奥の牡丹園


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庫裏の横を下る道は裏参道です。


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裏参道を登ってくると、講堂の裏側と鼓楼が見えてきます。


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『「学徒帳」によると、元禄期(一七〇〇年)ごろはおよそ四五〇から六五〇名の生徒が学んで
おり、文政十三年の「檀林明細書」には「千人以上」と見られる。それらのほとんどは寄宿生活
で、 (中略) 享和三年(一八〇三)四月の「御由緒明細書」によると、城下谷一七軒、中台谷
二〇軒、松和田谷二二軒、合わせて五九軒あった。』
 (八日市場市史 下巻 P202)


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「その飯高檀林の修学課程は、天台学研究を踏まえて、最後に日蓮聖人の御書を研鑽すると
いう初等教育課程から専門研究過程に至る八階級が設置されている。すなわち、(1)名目部
(2)四教儀部 (3)集解部 (4)観心部 (5)玄義部 (6)文句部 (7)止観部 (8)御書科の
八課程である。名目部に入学して全課程修了まで、早い者で十三~十五年、普通は二十年
の修学期間を必要とした。」
 (同 P190)

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飯高檀林-114

厳しく長い修行を終えた学僧達は、ここから全国の寺へと旅立って行きました。

かつては、大勢の学僧の研鑽する熱気が充満していたであろう境内には、今はただ冷峻な
空気が静かに流れています。


飯高檀林-0

                         ※ 「飯高檀林(跡)」  匝瑳市飯高1789


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テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

匝瑳市の寺社 | 08:20:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
伝承によれば2100年の歴史~式内社の「老尾神社」
今回は匝瑳市にある式内社の「老尾神社」です。

老尾神社-58

老尾神社-43

老尾神社-1

「式内社(しきないしゃ)」とは、延長五年(927)にまとめられた「延喜式(えんぎしき)」の巻九と
巻十の「延喜式神明帳」に記載されている全国2861社の神社のことで、平安時代からの由緒
ある神社です。
「延喜式」は、延喜五年(905)に醍醐天皇によって当時の律、令、格についての施行細則を
記したもので、その完成には22年を要しました。

旧下総国内では、「香取神宮」、「麻賀多神社」、「蘇賀比咩神社」、「寒川神社」と、今回訪問の
「老尾神社」の五座しかありません。
「麻賀多神社」は論社として成田市台方と船形の二社に分かれ、「寒川神社」は千葉市中央区
の「寒川神社」と船橋市の「二宮神社」の二社に分かれます。
(「論社」とは、「比定社」とも呼ばれ、延喜式に記載されている神社と同一か、あるいはその
後裔と推定される神社のことです。)

なお、匝瑳市に隣接する多古町の「六所大神(ろくしょおおかみ)」は、「延喜式」には記載が
ありませんが、「式内社」であると主張しています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック


老尾神社-2

参道の入口は県道16号線沿いの、県立匝瑳高校の向い側にあります。
入口の説明板には、江戸時代の「下総名勝図絵」にある、当時の「老尾神社」の様子が紹介
されています。


老尾神社-3

社号標は昭和60年に建立されたものです。


老尾神社-4

県道から細い山道を登ると、昭和55年に建立された鳥居が見えてきます。


老尾神社-5

鳥居をくぐった100メートルほど先に拝殿が見えます。
式内社にしては、拍子抜けするほど質素な感じです。


老尾神社-52

参道の左右には、いくつかの祠が間隔を置いて並んでいます。
それぞれの祠は、参道が枝分かれするように数メートルの小道を持っています。


老尾神社-6

参道に入って15メートルほど進んだ右手への小道にある二基の祠。
向かって左は年代不詳の「道祖神」、右は社名は不詳ですが、「安永■子九月」と読めます。
安永年間で干支に子があるのは、安永九年(1780)ですから、230年以上前のものです。
「八日市場市史 下巻」(昭和62年)には、「老尾神社」の石造物の一つとして安永九子九月の
「阿夫利神」との記述があります。
他に安永年間の石造物はありませんので、この祠は「阿夫利神」ということになります。


老尾神社-8

さらに参道を15メートルほど進んだ右側の小道の先には、「石尊宮」があります。
「大天狗 小天狗」「嘉永元戊申」と読めます。
嘉永元年は西暦1848年になります。


老尾神社-9

「石尊宮」の向いの小道に先には「疱瘡神」があります。
「八日市場市史」には、文政十三年(1830)のものと記されています。


老尾神社-10

「疱瘡神」の少し先の左へ伸びる小道にある、「■永■子」と読める祠。
「八日市場市史」の記述から、該当するのは嘉永五年(1852)の「道祖神」のようです。


老尾神社-11

「享和三癸亥」と読める祠。
享和三年は西暦1803年で、「八日市場市史」によれば「浅間社」のようです。


老尾神社-12

「浅間社」の向いの小道にある「天神宮」。
「弘化四未」(1847)と読めます。


老尾神社-13

式内社「老尾神社」は、香取神宮の御祭神である「経津主命(ふつぬしのみこと)」の御子神・
「阿佐比古命(あさひこのみこと)」を主祭神として、「磐筒男命(いわづつおのみこと)」・「磐筒
女命(いわづつめのみこと)」・「国常立命(くにのとこたちのみこと)」を配祀しています。

「老尾神社は初め匝瑳之大神と称したが、延喜式には里名をもって老尾神社と記載されている。
崇神天皇の七年、神田を授かり祭祀の則これより定まるという。 正平二四年五月回禄之災に
あい、千葉介平朝臣満胤が再建し現在に至る。 明治六年郷社に列した。」 

(「全国神社名鍳 昭和52年)
崇神天皇の七年とは紀元前91年と推定されますので、実に2100年もの昔になります。
正平二四年は西暦1369年になります。
(「回禄之災」とは、火事にあうこと。 回禄は中国の火の神のこと。)

「祭神は、阿佐比古命・磐筒男命・磐筒女命・國常立命を祀っています。敷地1,200坪の境内には、
本殿(亜鉛板葺)、拝殿(亜鉛板葺)が建ち並んでいます。物部匝瑳連熊猪が、祖先の物部小事
を祖神として祭ったとの、いわれがあります。平安時代の書物「延喜式」に登載された、由緒ある
神社の式内社です。延喜帝のときに香取神宮とともに式内に列せられました。古くから匝瑳市
(旧匝瑳郡)の一座で旧海上郡・旧匝瑳郡の総社であるとの御状を拝したと伝えられています。」
 (千葉県公式觀光物産ガイド「まるごとeちば」より)


老尾神社-14

小さな手水舎があります。
手水盤は大正九年(1920)に寄進されたものです。


老尾神社-16
老尾神社-17

神額の文字はほとんど消えて読めませんが、拝殿内部に掲げられている額にははっきりと
「延喜式内 老尾神社」と書かれています。


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***********老尾神社-60

拝殿の内部には神輿のような小さなお社と、匝瑳市からの文化財指定書が見えます。


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本殿の鰹木は三本、千木はありません。


老尾神社-21
老尾神社-24
***********老尾神社-20
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長い年月の風雪に削られて、彫りが浅くなっていますが、細かい彫刻が施されています。


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本殿の左奥に、木造の鳥居(平成21年建立)と「子安宮」があります。
右が昔からある祠で、「子安大明神」と刻まれ、「享和元酉年」と記されています。
享和元年は西暦1801年ですから、約220年前のものです。


老尾神社-56

「子安宮」の後方、少し離れた場所に、巨大な木の幹が見えました。
近づいてみると、ご神木の大杉で、匝瑳市の天然記念物に指定されています。


老尾神社-28
*****老尾神社-27
**********老尾神社-29

「御神木大杉は周囲二丈余亭々天を摩し、漁船出入の際目標となり、記念物として指定
されている。」
 (「全国神社名鍳 昭和52年)

地図で見ると、神社から海岸線までは直線距離で約8キロほどあります。
「全国神社名鍳」の刊行は昭和52年(1977)ですから、わずか40年ほど前まで、この大杉が
九十九里の海から見えていたわけです。
昔の漁師達にとっては、この大杉の存在感は絶大なものであったことでしょう。


老尾神社-31

大杉から道を挟んだ路地の先に大きな石碑のようなものが見えています。


老尾神社-32

近づいて見ると、それは板碑でした。


老尾神社-33

匝瑳市の有形文化財に指定されていて、「胎蔵界大日如来」の種子が刻まれています。
資料によれば、文和二年(1353)のものだそうです。

周りは小さな墓地ですが、お寺は見当たりません。
「八日市場市史」には、「老尾神社の造営」の項に、
「同神社の別当は八日市場・見徳寺と生尾・光福寺の二か寺で、「見徳寺文書」に造営の記録
がある。」
 (P361)
と書かれています。
同書の362ページにある「生尾の耕地と集落」と題する地図には、「老尾神社」と道を挟んだ場所
に「光福寺」が記されています。
と、すると、ここは「老尾神社」の別当であった「光福寺」跡なのでしょうか?
ただ、WEBで検索すると「光福寺」は匝瑳市内の別の場所にあります。
その「光福寺」は、市内の飯塚にある歴史あるお寺で、生尾にあったという記録はありません。
現存の「光福寺」とは別の「光福寺」が「老尾神社」の側にあって、この板碑のある場所は、その
「生尾・光福寺」だったのではないでしょうか。


老尾神社-36
老尾神社-37
老尾神社-41
老尾神社-45

正平二四年(1369)に社殿が焼失し、その後千葉氏によって再建されたものの、千葉氏の
衰退とともにこの「老尾神社」も衰退していったようです。
式内社としては何とも寂しい社殿と境内の風景ですが、掃き清められた参道と境内を見ると、
地元の人々の崇敬の念に護られて、長い、長い歴史を紡いできたことが感じられます。


老尾神社-00

                          式内社・「老尾神社」  匝瑳市生尾75


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匝瑳市の寺社 | 08:13:02 | トラックバック(0) | コメント(2)
再訪~改修なった「成田山・額堂」
しばらくお休みしていましたが、久しぶりに更新します。
まずは、あまり歩き回らずにすむ成田山の「額堂」の再訪から始めます。
更新は、以前のようなペースにはなかなか戻れませんが、これからもお付き合いください。


改修なった成田山の「額堂」を訪ねます。

額堂-96

今回は、大本堂の後ろの階段を登る通常のコースではなく、裏門側から外周路を登ります。


額堂-1

外周路の急坂をあえぎながら登っていると、何となく視線のようなものを感じ、ふと上を見ると、
こんなものが目に入りました。


額堂-3額堂-5

「のぞき小僧」と呼ばれているようですが、由来は全くわかりません。
ニヤリとしたずらっぽい表情で、「のぞき小僧」とは言い得て妙ですね。

石塀に描かれているのは中国の何かの故事のようで、寄進名には左端に大きく「横■■■町
八幡屋彦兵■」、右端には「深川大工町講中」とあります。
下に並んでいる寄進名には全て昭和29年と記されています。


額堂-61

後ろ側が気になって、そばの駐車場の隙間から覗いてみました。
台の上に乗って伸び上がるようにしています。
初めからここにあったのか、後から付けたのか・・・遊び心が感じられる風景です。


額堂-62
額堂-63


額堂-4

周りにはたくさんの石碑、石版が林立しています。
「永代御膳料」「永代護摩料」と記されたものが多く、「壹千圓」「参百圓」「百圓」など、寄進当時
では非常に高額であったであろう金額が書かれています。


額堂-7
額堂-6

人通りはほとんどありませんから、猫ものんびり日向ぼっこです。


額堂-8

「包丁塚」がありました。
「この塚は、長年愛用し使い古した包丁を納めてその功徳に感謝すると共に、調理した
鳥獣魚菜の霊を慰め供養するため建立したものである」

説明板にはこう書かれていました。
何年も何年も使い込み、切れ味が鈍れば砥石で研いでまた何年も使う・・・。
最近はセラミックやプラスチックの包丁がほとんどで、包丁を研ぐ風景ははついぞ見かけなく
なりましたが、こうした供養塚には日本人の感性がとても良く反映されているように思います。


額堂-10

「額堂」は包丁塚の前を右に曲がったところにあります。
長い間耐震補強工事が行われていましたが、工事が終わり、工事囲いは取り払われています。
工事は、東日本大震災で全体が少し右側に傾いたために行われました。

「額堂」は奉納額や絵馬などを掲げるお堂で、文久元年(1861)に建立されました。
「建物は桁行正面が3間(約5.5 メートル)背面は6間(約 11 メートル) で、屋根は入母屋
桟瓦葺です。現在は四方が開放されていますが当初は背面が板壁でした。組物 は平三斗、
中備蟇股、二軒の半繁垂木です。額堂としては虹梁や木鼻など細部まで本格的な建物で、
近世における庶民信仰をあらわす代表建築の一つであります。」
 (成田山ホームページ)

この「額堂」は、正式には「第二額堂」と呼ばれます。
文政五年(1822)に七代目市川團十郎の寄進によって建立された「第一額堂」は、残念なが
ら昭和40年に焼失してしまいました。

「第一額堂」は、寄進した団十郎の定紋の三枡(みます)から「三枡の額堂」と呼ばれました。
「一切経堂の左隣にあった、間口一六・五メートル、奥行九・六メートル瓦葺き入母屋造りの
堅牢な建物で文政四年五月、当山の篤信で梨園の大御所であった七代目市川団十郎が、
当時の金で壱千両を寄進して建立したもので、翌五年一二月一九日に上棟した。 其の折
七代目は門弟一同を引具して登山し盛大なる上棟式を行ったという。 大工棟梁は大塚新八・
道明作兵衛、周囲の牡丹・唐獅子・歌舞伎十八番の「解脱」の景清等の彫刻は長坂猪之助
の刀にして精巧を極めている。」
「中央の柱には、「せったい所七代目団十郎」と書した自筆の招牌を掲げた。 当時は七代目
自ら參詣者に、茶の接待をしたという。 又堂内には七代目の袴姿の石像がある。」

(「新修成田山史」 昭和43年 P126~127)

大正元年(1912)八月の「成田町史」は、二つの額堂について次のように記述しています。
額堂 一切経藏の隣に建てり。間口九間一尺・奥行五間の堅固なる建築にして、文政四年
五月の建設にかかる。 俳優七代目市川団十郎の寄附進せるものなりといふ。 無数の額面
處狭き迠に掲げられ、中央に團十郎の石像を据えつく。」
第二額堂 光明堂の左側に立てり。 間口十間半、奥行五間半あり。 文久元年の建立にして、
多くの額面を掲ぐること前記のものに同じ。」 
(「成田市史 近代編史料集一」 P117)


額堂-11

瓦が新しく葺き直され、懸魚や虹梁も化粧直しされています。


額堂-23

四隅を新たに鉄パイプが支え、これまでの木柱には金属ベルトがはめられています。


「額堂」は二回目の訪問ですが、今回は奉納額を少し詳しく見てみましょう。

額堂-70

南側の全面です。

額堂-72

長い間風雨にさらされて、文字はほとんど読めない状態です。


額堂-64  昭和15年の奉納額

額堂-67
額堂-65 古銭を貼り付けています

額堂-68*額堂-69 

不動明王を現す剣の奉納額が目立ちます。


額堂-86

東側の全景です。


額堂-76

大きな「清元講」の額は大正六年(1917)、「成田山不動明王」と書かれている額は大正九年
(1920)の奉納です。


額堂-77
額堂-78

真ん中の大きな額は大正七年(1918)。
右上の消えかかっている絵馬には、不動明王と明王を拝む女性が描かれているようです。


額堂-79
額堂-80
***********額堂ー31

左下にはお不動様の剣に龍と富士が彫られています。
右下の額に描かれていた絵はほとんど消えていますが、中央にうっすらとお不動様の姿が
浮かんでいるように見えます。


額堂-81

「明治四拾参年」(1910)と読めます。


額堂-82

上の「敬神講」と書かれた額には昭和拾年と記されています。
左上には「心」の文字が浮き彫りされています。
その下の額は昭和6年、右上の「必願成就」と書かれた額は大正十年(1921)のものです。


額堂-83

北側に回ってみます。

額堂-84

「武蔵國北足立郡草加町」と読める明治25年(1892)の奉納額。


額堂-85

凱旋祝と書かれたこの額は「明治廿八年」(1895)と記されています。


額堂-87

西側にもびっしりと奉納額が並んでいます。

中央の大きな奉納額は、大正十三年(1924)のもので、「東京市外入新井町 諸職聯合」と
書かれています。
上に並んでいる二つの奉納額は、左が昭和15年、右が昭和26年のものです。
左にある奉納額には「上毛安中宿永代護摩講」と書かれています。


額堂-88

ひときわ目を引く大正十年(1921)の大きな奉納額には、「永代大般若経 睦會 三十六童子」
と記されています。
三十六童子は不動明王が従える童子で、大本堂裏の斜面にその像が並んでいます。


額堂-89

上に並ぶ三つの額は、「成田山」とある左が明治三十三年(1900)、「御手長」とある真ん中
が明治三年(1870)、右端は読めません。
左下は明治四十三年(1910)のものです。
奉納年は見つかりませんが、右下の奉納額には「不動明王横浜復興講社」とあります。


額堂-91

「額堂」の内部にもたくさんの奉納額・絵馬が掲げられていますが、残念ながら内部に入れない
ため、その一部が覗けるだけです。

額堂-90

昭和42年に東京理器株式会社が奉納した、バリカンとカミソリの奉納額。
この会社は昭和21年の設立(創業は大正十四年)で、現在はハサミに特化したメーカーとして、
東京・板橋で事業を展開しています。


額堂-73
額堂-74

大正七年(1918)に横須賀の料亭「小松楼」が奉納したこの額には、当時の横須賀の様子が
いきいきと描かれています。
「料亭小松」は、明治十八年(1885)創業の老舗料亭で、帝国海軍時代から海軍軍人に利用
され、戦後は米海軍、海上自衛隊にも利用されてきたことから「海軍料亭」と呼ばれています。
額を奉納した当時は海岸沿いの田戸にありましたが、海岸の埋め立てなどのため大正十二年
(1923)に米が浜に移転しています。
残念ながら今年の5月に原因不明の火事により焼失してしまい、、東郷平八郎、山本五十六、
米内光政らの書をはじめ、日本海軍に関する多くの資料も失われてしまいました。


奉納額の他に堂内には、梵鐘、将軍地蔵像、方位盤、七代目市川團十郎像、青銅製大地球儀
が展示されています。
内部に入れないため、柵の外から眺めるだけなのが残念です。

額堂-25

慶應三年(18967)に鋳造された梵鐘で、昭和43年まで門前の町々に時を告げていました。
供出を免れたこの梵鐘は、神田鍋町の藤原国信の作で、912.5キロの重量があります。


額堂-26
額堂-75

勝軍地蔵尊です。
昭和15年にここに設置されたということ以外、この像に関する記述は見つかりません。
「勝軍(または将軍)地蔵」は、甲冑を着け、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持って軍馬に跨がる
地蔵菩薩で、この地蔵に祈れば戦に勝つと言われ、鎌倉時代以後,武家の間で信仰されました。
ヨーロッパに戦火が広がり、日本の周辺にも戦雲が漂う時勢を反映した寄進だったのでしょう。


額堂-27

この公園の水飲み場のようなものは「方位盤」といいます。
「この方位盤は群馬県伊勢崎町の佐藤藤三郎氏が奉納したものです。 八角形の図形の内側
には東西南北の文字が、その外側には壬・子・癸 丑・艮・寅 甲・卯・乙 辰・巽・巳・午・丁 未・
坤・申庚・酉・辛 戌・乾・亥の方位を現す十干と十二支の文字が また欄外には放射状にその
方向の地名が、南の方向には東金・勝浦また、辰の方向には八日市場、 卯の方向には銚子
等の地名が記入されています。」
 (新勝寺ホームページ)


額堂-28
額堂-29

第一額堂を寄進した七代目市川團十郎の石像です。
鼻が欠けているのは火災時の出来事だったのでしょうか?
「團十郎の石像は、自身が奉納した第一額堂内にありましたが第一額堂は昭和40年に焼失
した為、石像を第二額堂内の現在位置に移設しました。」
 (新勝寺ホームページ)


額堂-30

青銅製の大地球儀。
「作製は、神田岩井町の紀伊国屋伝七が請負、技師は村田鉄之助、鋳工は大島金太郎。
明治40 年(1907)11月に東京上野の牛肉店の奥平洋三、梅子夫妻が店名の「世界」に
ちなんで、日露戦争の戦勝記念に奉納したものです。 直径 約110cmの青銅製で、子午
環儀の上に23.5度の傾斜をもって設置されていて、大日本帝国の範囲に銀の象嵌を
施していました。 日本帝国を銀色にしたるは目立ちて見せんが為なり、これを看る人能く
注意して此国を思ひ、彌々将来の発展を図り、益々此色を輝かすことに心掛けられたし」
と説明があったようです。」
 (新勝寺ホームページ)

以前は中に入って触ることができましたから、表面がツルツルになってしまい、良く判別でき
なくなっています。
カメラを望遠にして覗いてみました。

額堂-92 
タヒチなどがあるフランス領ポリネシアのソシエテ諸島です。

額堂ー28
アフリカ東海岸のタンザニア沿岸のようです。

額堂ー29
亜米利加(アメリカ)です。


額堂ー33
額堂ー34

見事な龍や獅 子などの彫刻は後藤勇次郎経慶の作です。


額堂-31
***********額堂-32

龍の目には銅製の目がはめ込まれていましたが、今でははこの写真の龍の左目に残っている
だけです。(機会があったら探してみてください)


「額堂」の周りを見渡してみましょう。

額堂-00
額堂-35

裏手には明治二十年(1887)に建立された天満宮と、慶応三年(1867)に建立された
「朝日観音堂」が並んでいます。


額堂-97

「光明堂」です。
元禄十四年(1701)に当時の本堂として建立され、別名「元禄の本堂」と呼ばれます。

新勝寺の本堂は何度も建て直されていますが、現存する最古のものは明暦元年(1655)
に建立された現在の「薬師堂」です。
江戸・深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって建て替え
られた本堂が、この「光明堂」です。
その後、参詣客が増えて手狭になった本堂は、安政五年(1858)に建て替えることとなり、
現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年の間、本堂
としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と呼ばれ
ていますが、それぞれに当時の新勝寺の賑わいぶりがしのばれます。


額堂-98

「額堂」と「光明堂」との間には「三社」があります。
中央に「金毘羅大権現」、左に「白山明神」、右は「今宮神社」です。


額堂-99

三社の隣には「不動三尊像」があります。
真ん中の剣が「不動明王」を表し、向かって左には「制多迦(せいたか)童子」、右には「矜羯羅
(こんから)童子」の像が立っています。
制多迦童子は強さを、矜羯羅童子は優しさを表しています。
真ん中の剣が不動明王を表していますが、二人の童子は不動明王の持つ二つの面、“強さと
優しさ”を表現しています。


額堂-49

「額堂」の向い側には「開山堂」が建っています。
昭和13年に建立のお堂で、新勝寺の開山上人・寛朝大僧正のお姿が安置されています。
寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の乱平定祈願のため、高雄山護摩堂の不動明王を
捧持して下総に下り、天慶三年(940)に公津ヶ原に成田山を開山しました。


額堂ー40
**額堂ー41

天保四年(1833)に寄進された「成田山絵図」の石碑。
風化が進み良く見えませんが、細かく彫られた精緻な絵図です。


額堂-51

「成田山絵図」の隣にも「不動三尊像」があります。


額堂-33
額堂-20

天満宮の側に昭和58年に建立された二つの句碑があります。
中興一四世貫主・三池照鳳の「節分や 本堂ゆるる 人なみや」と、中興一七世貫主・池田照誓
の「人馬絡繹万戸の村やことし米」です。
以前は、中興十五世貫首・石川照勤の「風凪ぎし雲の切日や皈る雁」と、中興十六世貫首・服部
照和の「霧や深し 天地にあるは 我ばかり」の句碑もあったのですが、大本堂裏から「額堂」や
「光明堂」へ登る石段脇にエレベーターを設置する工事のため撤去されてしまいました。(工事
完了後に戻されるのかも知れませんが・・・)         

額堂-59 工事中のエレベーター
***********額堂-60


額堂-95
額堂-41

「額堂」の前からは「光明堂」の屋根越しに「平和大塔」が見えます。
改修なった「額堂」の内部が解放される日は来るのでしょうか?
隠れている奉納額や青銅地球儀上の日本を是非見てみたいものです。



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成田山 | 07:56:31 | トラックバック(0) | コメント(4)
再訪~七百年以上の歴史ある古刹、船形の「薬師寺」

今回は二年以上前(平成26年8月)に一度ご紹介した、船形の「薬師寺」を再び訪れます。

薬師寺-164

薬師寺-100

「薬師寺」は真言宗のお寺で、山号は「船形山」、本尊は「阿弥陀如来」とされています。

「千葉縣印旛郡誌」には、「薬師寺」が次のように紹介されています。
「船形村字船形にあり眞言宗にして東勝寺末なり本尊を阿彌陀如來とす元は麻賀多神社の
別當にして今も船形北須賀二ヶ村の祈願にて二百年前船形の文書にも別當とありしと云ふ
堂宇間口六間奥行四間庫裏間口六間奥行三間半門間口三間奥行二間境内六百四十九坪
官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒四十三人を有し管轄廳まで八里七町なり境内
佛堂一宇あり即
一、藥師堂 藥師如來を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行三間」


今は本堂は無く、仁王門と薬師堂だけが残っています。


薬師寺-121
薬師寺-168  阿形の仁王像
吽形の仁王像  薬師寺-166

仁王門の左右に、県の有形文化財に指定されている迫力ある二体の仁王像があります。


薬師寺-170
薬師寺-169

阿形像は像高1.7メートルで、右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。

薬師寺-165
薬師寺-167

吽形像は像高1.71メートルで、左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。

この仁王像は、応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
近年、この仁王像の解体修理を行った際、腕と胴体の部材に大永二年(1522)と天正
二十年(1592)の修理墨書銘が見つかりました。


薬師寺ー42

仁王門の脇の手水盤には、延享三年(1746)と刻まれています。


薬師寺-122

仁王門下に立つ風化した石碑には、「奉 光明■眞言億万■■」「元禄十■■」と刻まれて
いるように見えます。
これは「光明真言百万遍塔」の一種だと思います。
「光明真言」はとても短いお経で( オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン )、これを一心に唱えれば、全ての災いを除くことができると
されています。
元禄十年は西暦1697年ですから、320年前のものです。


薬師寺-123

仁王門をくぐらずに左に行くと、小さな墓地があります。
元禄、明和、天明、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


薬師寺-126

台座に「筆子中」とある文久二年(1862)の墓石には、「法印照山不生位」と刻まれています。
照山という僧侶に学問を学んだ生徒が、師匠の菩提を弔うために建立したものである。
右側面には「松に日は暮てあかるきさくらかな 方円舎器水」の句が刻まれている。方円舎
器水は照山の俳号で、辞世の句であろうか。」
 (成田の史跡散歩 小倉 博 P106)


薬師寺-125

墓地の外れ、と言うよりは近くの原っぱにポツンと小さな石仏が置かれています。
何か文字らしきものが見えますが、読むことはできません。


薬師寺-127
薬師寺-128

薬師堂へ登る石段の左右に、数基の板碑や石塔があります。
石塔には「大僧都法印照盛」「天明七丁未」と刻まれています。(天明七年は西暦1787年)


薬師寺-154
薬師寺-129

『船形村には薬師寺と明王寺という末寺がある。 薬師寺は船形山と号し、阿弥陀如来を本尊
としている。創建年代など不詳。天保八年(一八三七)の「寺柄書上」によると、薬師寺は東西
二〇間・南北二八間の除地に認可された境内に六間・四間半の客殿(本堂)をはじめ、庫裏・
薬師堂・仁王門が建ち、檀家は一一軒であった。』
 (P787~8)
「成田市史 中世・近世編」は、「薬師寺」を「東勝寺」の末寺として、こう解説しています。

また、「成田の史跡散歩」(小倉 博 著)にも、
「明王寺跡から少し行った左側が船形の薬師寺である。薬師寺は山号を船形山と号する
真言宗豊山派の持院で、阿弥陀如来をご本尊としている」
 (P104)
とあり、その他のほとんどの資料が本尊を「阿弥陀如来」としています。

しかし、全国寺院名鑑(昭和44年)には、
「薬師寺 真言宗(豊山派) 本尊薬師如来境内八五六坪建物薬師堂一一坪仁王門寺宝
旗曼荼羅版木梵鐘(応永元年作) 由緒 船形山と号し、創建年代不詳。麻賀多神社の
別当寺であったといわれる。」

とあり、また安政五年(1858)の「成田名所圖會」には、
「舟形山薬師寺 船形村にあり。本尊薬師如来行基菩薩の開眼なりと云開基詳ならす。
此寺旗曼荼羅と云古き板木を蔵す。古色掬すべし。」

とあります。
さらに、「成田の地名と歴史」では、「薬師寺の木造薬師如来坐像」を本尊としています。

さて、ご本尊は「阿弥陀如来」か、「薬師如来」か?


薬師寺-104

薬師堂の中には三尊像があります。

「成田の史跡散歩」ではこの三尊像について次のように解説しています。
「仁王門をくぐると正面に石段があり、その上に本堂(薬師堂)が建つ。本堂にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と観音菩薩立像・勢至菩薩立像の、いわゆる阿弥陀三尊が祀られ、その
後方の厨子に平安時代から鎌倉時代の作品とされる、やはり千葉県指定文化財の木造
薬師如来坐像が納められている」
 (P105)

ずっと疑問に思っていたことがあります。
それは、「薬師寺」なのになぜご本尊が「阿弥陀如来」なのか?
さらに、薬師堂になぜ「薬師三尊」ではなく「阿弥陀三尊」なのか?
ということでした。

これまで多くのお寺を訪ねてきましたが、この船形の「薬師寺」は特に好きなお寺の一つ
なのですが、訪ねる度にこの疑問が湧いてきます。


薬師寺-103
薬師寺-205

「阿弥陀如来」であれば九品来迎印や弥陀の定印を結び、衣は偏袒右肩が一般的ですが、
この像は定印で通肩、しかも薬壺らしきものを抱えています。
もしこの像が薬師如来だとすれば、この像容は珍しく、ネット上で画像を探しましたが、東京都
中野区の新井薬師、山口県山口市の瑠璃光寺、京都府井出町の西福寺で見つかりました。
そして中尊が薬師如来ならば、脇侍は日光菩薩と月光菩薩ということになります。
背後に十二神将が並んでいることも整合します。


薬師寺-106
薬師寺-207 左脇侍(漢音菩薩か日光菩薩)

薬師寺-105
薬師寺209 右脇侍(勢至菩薩か月光菩薩)

「阿弥陀三尊」だとすると、左脇侍の「観音菩薩」、右脇侍の「勢至菩薩」、ともにその像容に
やや違和感があります。


薬師寺-156

「薬師三尊」である確信は持てませんが、「阿弥陀三尊」にも疑問が残ります。

へそ曲がりの素人の妄言かもしれませんが、専門家の方のご意見が欲しいところです。


三尊像の両脇後方には十二神将が並んでいます。

薬師寺-213
薬師寺-217
薬師寺210
***********薬師寺-211

十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来や
薬師経を信仰する人を守護するとされています。
十二神将とその本地物を列挙すると、
                         
宮毘羅大将(くびら)   弥勒菩薩   ・  伐折羅大将(ばさら)   勢至菩薩 
迷企羅大将(めきら)  阿弥陀如来 ・  安底羅大将(あんちら) 観音菩薩
頞儞羅大将(あにら)  如意輪観音 ・  珊底羅大将(さんちら) 虚空蔵菩薩
因達羅大将(いんだら) 地蔵菩薩   ・  波夷羅大将(はいら)   文殊菩薩
摩虎羅大将(まこら)  大威徳明王  ・  真達羅大将(しんだら) 普賢菩薩
招杜羅大将(しょうとら) 大日如来   ・  毘羯羅大将(びから)  釈迦如来

薬師三尊像の眷属として十二神将像をともに安置することが多く見られます。


後ろの厨子に安置されている、「木造薬師如来坐像」の画像を、千葉県教育庁教育振興部
文化財課の許可をいただいて、掲載します。

薬師寺ー36
(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ 

「この像は同寺の本尊として本堂に安置されている。 ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼が
はめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、現状では素地となっているが、
薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」

この画像の解説にはこう書かれています。

ここでもこの「薬師如来」を本尊としています。

ご本尊は「阿弥陀如来」なのか、「薬師如来」なのか、そして、三尊像は「阿弥陀三尊」なのか
「薬師三尊」なのか・・・。
素人なりに追いかけるには、おもしろいテーマだと思っています。


薬師寺-130

薬師堂の前に、宝珠と火袋部分が無くなって、中台の上に笠だけが乗っている石灯籠が二基
並んでいます。
「享保十一午」の文字が読めますので、1726年のものです。


薬師寺ー6

本堂左手に立つ一対の灯籠と宝篋印塔。


薬師寺-134
***********薬師寺-135

灯籠の竿の部分には地蔵菩薩が刻まれています。


薬師寺-136

この宝篋印塔は、明和二年(1765年)に建立されました。


薬師寺-137
薬師寺-138

宝篋印塔の後方に裏山へ登る石段があり、小さな祠が見えています。
登ってみましたが、何の祠かは分かりませんでした。


薬師寺-139
薬師寺-141

祠の先の急な山道を登ると、子安観音を祀った祠がひっそりと建っています。
こんな足許の悪い狭い急坂を登って、熱心にお詣りする方がおられるようで、新しい御札が
置かれています。
二年前にここに登ったときにも、新しい御札が置かれていました。

薬師寺ー8  二年前の子安観音

子安観音には宝暦四年(1754年)と記されています。


薬師寺-142

子安観音から坂を下る途中から薬師堂を見ると、軒下に何やら彫刻が並んでいます。


薬師寺-143
薬師寺-144
薬師寺-145
薬師寺-146
薬師寺-147
薬師寺-148

長い年月で木が痩せ、どれがどれだか分かりませんが、十二支であることは確かです。


薬師寺-153

境内の右手には大きな宝篋印塔と大師堂があります。


薬師寺-149

宝篋印塔は宝暦とだけ読めますので、約260年前のものです。


薬師寺-152

大師像の後ろにある石版には、「量海法師皆得体怡信士」と記されています。
文化十年(1813)の文字も見えます。


薬師寺-154

この薬師寺にはもう一つ、県の有形文化財に指定されているものがあります。
応長元年(1311年)に造られた梵鐘で、現在は宗吾霊堂(東勝寺)の宝物殿内に置かれて
いるものですが、「木造薬師如来坐像」と同様に、千葉県教育庁教育振興部文化財課の許可
をいただき、画像を掲載します。

薬師寺ー37
(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )

「宗霊宝殿に保管されている梵鐘で、総高79.6㎝、口径51.4㎝、3段組で鋳造されていて、
乳は4段4列、上帯下帯とも文様のない素文である。蓮の花をかたどった蓮華文を陰刻した
撞座が一つというめずらしい例で、県内で撞座が一つというのは他に印西市龍腹寺の梵鐘
があるのみである。竜頭も簡略化されたものとなっている。
4区画された池の間の1区画目の銘文には「下州印東庄八代郷船方薬師寺」とあり、成田市
船形の薬師寺に奉納されたものであることがわかる。さらに、梵鐘の由来として、僧良円が
願主となって応長元年(1311)に、娑弥善性という茨城県新治郡出身の鋳物師によって鋳造
されたことが記されている。」

この画像の解説にはこう書かれています。

梵鐘の銘文からすると、この「薬師寺」は、700年以上の歴史があることがわかります。


薬師寺ー33
薬師寺-160
薬師寺-161

境内の外れにシイの大木があります。
「船形の大シイ」と呼ばれているこの大木は、市の天然記念物で、幹周りは6メートル、高さは
15メートルもあります。
一部に傷みも見えますが、樹勢はまだまだ盛んです。


薬師寺-155
薬師寺-159
薬師寺-121
薬師寺-101

『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷船方
薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に豆留しながら
印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」には仁王門・
薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代にはこの地方屈指の大寺
であった。』
 (成田の地名と歴史)

「成田名所圖會」には、薬師寺から北須賀村越しに、帆掛け舟が浮かぶ印旛沼を望み、その
遥か先には富士山が描かれています。
実に風光明媚なお寺であったことが分かります。

境内は狭くなり、干拓によって印旛沼は遠くなって、見晴らしも悪くなってしまいましたが、長い
歴史を有する古刹の雰囲気は十分に残っています。


薬師寺-220

                          ※ 「船形山薬師寺」 成田市船形219-1


追記: 二年間で少しは進歩したでしょうか? 
二年前の「薬師寺」の記事 ☜ ここをクリック



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公津村の寺社 | 07:54:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
西国・秩父・坂東の観音霊場をひとまとめ~「安食百観音」

「安食百観音」は、前回紹介した「大乗寺」への参道の入口にあります。

大乗寺-50

観音経では、観音菩薩は衆生救済のために人々の機根に応じた三十三の姿に変身すると
されています。(「機根=きこん」とは、仏の教えを理解したり、修行できる能力のことです。)
この三十三の変化に因んで、各地に三十三ヵ所の霊場を巡礼する風習が生まれました。
その代表的なものが、「西国三十三ヵ所」「秩父三十四ヵ所」「坂東三十三ヵ所」の霊場です。

秩父の三十四番「水潜寺」は西国・秩父・坂東各三十三ヵ所の「結願寺」となっていて、合計
百ヵ所となります。

「夫々の観音霊場を実際に歩いて廻ることは江戸時代の民衆にとっては容易なことでは
なかった。その簡便化として多くの地方に写し巡礼が生まれた。それすら出来ない人々の
ために、百観音すべてを一山一寺の一ヵ所に集め、誰でも簡単に參詣出来るミニチュア
版が考え出された。これが百観音霊場である。」
「安食村とその周辺の村々(現栄町)は古くから観音信仰が盛んな所で、正保四年(1647)
寛政七年(1795)までの間に六観音を初めとし七九体の観音像が方々に祀られていた。」
「寛政十年(1798)に安食村に百観音霊場が建立されたのは、江戸で流行った観音信仰
が地方にまで広がった証しと見られるが、ここには既にその土壌があったのである。」

(「古文書でたどる安食の歴史」(今井康之 著 平成23年 P69~70)


大乗寺-51

正面に立つ寛政十年(1798)の「阿弥陀三尊」。

「阿弥陀三尊(あみださんぞん)」は、阿弥陀如来を中尊として、その左右に左脇侍の観音菩薩
と右脇侍の勢至菩薩を配する仏像安置形式です。
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」を現す化身、勢至菩薩は「智慧」を現す化身とされています。


大乗寺-53
大乗寺-54
大乗寺-64

中央の阿弥陀三尊を囲むように、西国・秩父・坂東の百体の観音像が並んでいます。


百観音-40

境内の左手にある「弁財天堂」には「寬保元年酉八月」と記されています。
寛保元年は西暦1741年になります。


大乗寺-65

「奉納 明和四丁亥天 大乘妙典 日本回国 信濃善光寺三拾三度」と刻まれた石碑。
明和四年は西暦1767年です。


大乗寺-67

手水鉢は昭和63年のものです。


では、三体ずつ、全ての観音像を見てみましょう。
全て写真左からの解説です。
各観音像の側面には、像の寄進者の名前と、その親族でしょうか、一~三名の戒名と没年
が刻まれています。
風化でその多くが読めなくなっていますが、没年が読めるものは括弧内に示しました。


 西国三十三ヵ所 】

兵庫・大阪・奈良・和歌山・京都・滋賀・岐阜の二府五県に点在する観音霊場で、三十三ヵ所
の霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行です。

百観音-3

一番 「青岸渡寺」  本尊・如意輪観音  和歌山県那智勝浦町
二番 「金剛宝寺」  本尊・十一面観音  和歌山県和歌山市
三番 「粉河寺」    本尊・千手観音    和歌山県紀の川市


百観音-4

四番 「施福寺」   本尊・千手観音  大阪府和泉市
五番 「葛井寺」   本尊・千手観音  大阪府藤井寺市 (寛政四年・1792)
六番 「南法華寺」 本尊・千手観音  奈良県高取町


百観音-5

七番 「龍蓋寺」 本尊・如意輪観音    奈良県明日香村
八番 「長谷寺」 本尊・十一面観音    奈良県桜井市
九番 「興福寺」 本尊・不空羂索観音  奈良県奈良市 (宝暦十四年・1764)


百観音-6

  十番 「三室戸寺」 本尊・千手観音  京都府宇治市
十一番 「上醍醐寺」 本尊・准胝観音  京都府京都市 (天明八年・1788)
十二番 「岩間寺」   本尊・千手観音  滋賀県大津市 (明和三年・1766)


百観音-7

十三番 「石山寺」 本尊・如意輪観音  滋賀県大津市
十四番 「園城寺」 本尊・如意輪観音  滋賀県大津市
十五番 「観音寺」 本尊・十一面観音  京都府京都市 
                          (享保十六年・1731 延享四年・1747)


百観音-8

十六番 「清水寺」    本尊・千手観音   京都府京都市
                          (安永元年・1772 寛政九年・1797)
十七番 「六波羅蜜寺」 本尊・十一面観音 京都府京都市 (寛政三年・1791)
十八番 「頂法寺」    本尊・如意輪観音 京都府京都市
                          (天明七年・1787 寛政八年・1796)


百観音-9

  十九番 「行願寺」 本尊・千手観音  京都府京都市
  二十番 「善峯寺」 本尊・千手観音  京都府京都市
二十一番 「穴太寺」 本尊・聖観音    京都府亀岡市 (天明七年・1787)


百観音-10

二十二番 「総持寺」 本尊・千手観音   大阪府茨木市
              (宝暦十三年・1763 安永六年・1777 寛政二年・1790)
二十三番 「勝尾寺」 本尊・千手観音   大阪府箕面市
二十四番 「中山寺」 本尊・十一面観音 兵庫県宝塚市


百観音-11

二十五番 「清水寺」 本尊・千手観音   兵庫県加東市
二十六番 「一乗寺」 本尊・聖観音    兵庫県加西市
二十七番 「圓教寺」 本尊・如意輪観音 兵庫県姫路市  


百観音-12

二十八番 「成相寺」 本尊・聖観音   京都府宮津市 
                    (宝暦十一年・1761 安永六年・1777)
二十九番 「松尾寺」 本尊・馬頭観音 京都府舞鶴市 
                    (寛保二年・1742 宝暦二年・1752 明和六年・1769)
  三十番 「宝厳寺」 本尊・千手観音 滋賀県長浜市


百観音-13

三十一番 「長命寺」   本尊・千手観音・十一面観音・聖観音 滋賀県近江八幡市
三十二番 「観音正寺」 本尊・千手観音               滋賀県近江八幡市
三十三番 「華厳寺」   本尊・十一面観音             岐阜県揖斐川町


【 秩父三十四ヵ所 】

埼玉県秩父地方の秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町の一市三町に点在する観音霊場です。
西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所と併せて日本百観音と言い、秩父三十四番の「水潜寺」を
結願寺(けちがんじ)としています。
結願をした後には、長野の善光寺にお詣りするのが慣例です。

百観音-14

一番 「四萬部寺」 本尊・聖観音  秩父市
二番 「真福寺」   本尊・聖観音  秩父市
三番 「常泉寺」   本尊・聖観音  秩父市 (寛政六年・1794)


百観音-15

四番 「金昌寺」 本尊・十一面観音  秩父市
五番 「語歌堂」 本尊・准胝観音    横瀬町
六番 「卜雲寺」 本尊・聖観音     横瀬町 (安永四年・1775)


百観音-16

七番 「法長寺」 本尊・十一面観音  横瀬町
八番 「西善寺」 本尊・十一面観音  横瀬町
九番 「明智寺」 本尊・如意輪観音  横瀬町


百観音-17

  十番 「大慈寺」 本尊・聖観音     横瀬町
十一番 「常楽寺」 本尊・十一面観音  秩父市
十二番 「野坂寺」 本尊・聖観音     秩父市 (安永四年・1775 天明六年・1786)


百観音-18

十三番 「慈眼寺」 本尊・聖観音     秩父市
十四番 「今宮坊」 本尊・聖観音     秩父市
十五番 「少林寺」 本尊・十一面観音  秩父市


百観音-19

十六番 「西光寺」 本尊・千手観音    秩父市 (宝永四年・1707)
十七番 「定林寺」 本尊・十一面観音  秩父市 (寛政十二年・1800)
十八番 「神門寺」 本尊・聖観音     秩父市


百観音-20

  十九番 「龍石寺」   本尊・千手観音  秩父市
  二十番 「岩之上堂」 本尊・聖観音    秩父市 (安永四年・1707)
二十一番 「観音寺」   本尊・聖観音    秩父市 (天明八年・1788)


百観音-21

二十二番 「童子堂」 本尊・聖観音  秩父市
二十三番 「音楽寺」 本尊・聖観音  秩父市
二十四番 「法泉寺」 本尊・聖観音  秩父市 
                    (明和六年・1769 明和八年・1771 天明六年・1786)


百観音-22

二十五番 「久昌寺」 本尊・聖観音  秩父市
二十六番 「圓融寺」 本尊・聖観音  秩父市
二十七番 「大渕寺」 本尊・聖観音  秩父市


百観音-23

二十八番 「橋立堂」 本尊・馬頭観音   秩父市 (元文五年・1740)
二十九番 「長泉院」 本尊・聖観音     秩父市 (天明八年・1788)
  三十番 「法雲寺」 本尊・如意輪観音  秩父市


百観音-24

三十一番 「観音院」 本尊・聖観音  小鹿野町
三十二番 「法性寺」 本尊・聖観音  小鹿野町 (安永八年・1779 寛政元年・1789)
三十三番 「菊水寺」 本尊・聖観音  秩父市   (宝暦四年・1754 天明四年・1784)


百観音-25

三十四番 「水潜寺」 本尊・千手観音  皆野町  (百観音結願寺)


【 坂東三十三ヵ所 】

神奈川・埼玉・東京・千葉・茨城・群馬・栃木の一都六県に点在する観音霊場。
源頼朝が発願し、源実朝が西国の霊場を模して制定したと伝えられています。

(坂東三十三観音は、西国・秩父の並びとは逆になっているため、写真左の札所番号が
大きくなっています。)

百観音-26

三十三番 「那古寺」 本尊・千手観音    千葉県館山市      
三十二番 「清水寺」 本尊・千手観音    千葉県いすみ市  
三十一番 「笠森寺」 本尊・十一面観音  千葉県長南町
 

百観音-27

  三十番 「高蔵寺」 本尊・聖観音     千葉県木更津市 (元禄四年・1691)
二十九番 「千葉寺」 本尊・十一面観音  千葉県千葉市   (寛政四年・1792)
二十八番 「龍正院」 本尊・十一面観音  千葉県成田市  


百観音-28

二十七番 「圓福寺」 本尊・十一面観音  千葉県銚子市  
                           (宝暦十年・1760 安永七年・1778)
二十六番 「清瀧寺」 本尊・聖観音     茨城県土浦市
二十五番 「大御堂」 本尊・千手観音    茨城県つくば市


百観音-29

二十四番 「楽法寺」 本尊・延命観音      茨城県桜川市 (寛政元年・1789)
二十三番 「正福寺」 本尊・十一面千手観音 茨城県笠間市
二十二番 「佐竹寺」 本尊・十一面観音    茨城県太田市


百観音-30

二十一番 「日輪寺」 本尊・十一面観音  茨城県大子町
  二十番 「西明寺」 本尊・十一面観音  栃木県益子町
  十九番 「大谷寺」 本尊・千手観音    栃木県宇都宮市


百観音-31

十八番 「中禅寺」 本尊・千手観音  栃木県日光市
十七番 「満願寺」 本尊・千手観音  栃木県栃木市
十六番 「水澤寺」 本尊・千手観音  群馬県渋川市


百観音-32

十五番 「長谷寺」 本尊・十一面観音  群馬県高崎市   (寛政四年・1792)
十四番 「弘明寺」 本尊・十一面観音  神奈川県横浜市  (天明四年・1784)
十三番 「浅草寺」 本尊・聖観音     東京都台東区


百観音-33

十二番 「慈恩寺」 本尊・千手観音  埼玉県さいたま市
十一番 「安楽寺」 本尊・聖観音    埼玉県吉見町
  十番 「正法寺」 本尊・千手観音  埼玉県東松山市


百観音-34

九番 「慈光寺」 本尊・十一面千手千眼観音 埼玉県ときがわ町 (宝暦六年・1756)
八番 「星谷寺」 本尊・聖観音          神奈川県座間市
七番 「光明寺」 本尊・聖観音          神奈川県平塚市  
                             (寛政六年・1794 天明七年・1787)


百観音-35

六番 「長谷寺」 本尊・十一面観音  神奈川県厚木市   (天明八年・1788)
五番 「勝福寺」 本尊・十一面観音  神奈川県小田原市
四番 「長谷寺」 本尊・十一面観音  神奈川県鎌倉市


百観音-36

三番 「安養院」 本尊・千手観音    神奈川県鎌倉市
二番 「岩殿寺」 本尊・十一面観音  神奈川県逗子市
一番 「杉本寺」 本尊・十一面観音  神奈川県鎌倉市


百観音の中には、明らかに風化ではない傷跡が残されているものがあります。
各地の寺院の石仏と同様に、ここの観音像も「廃仏毀釈」の嵐に巻き込まれたようです。

百観音-62 西国 四番(施福寺・千手観音)
百観音-63 西国 七番(龍蓋寺・如意輪観音)
百観音-64 西国 十番(三室戸寺・千手観音)
百観音-65 西国十五番(観音寺・十一面観音)
百観音-66 秩父十二番(野坂寺・聖観音)
百観音-67 秩父十七番(定林寺・十一面観音)
百観音-68 秩父二十六番(圓融寺・聖観音)
百観音-69 秩父二十八番(橋立堂・馬頭観音)
百観音-70 坂東三十三番(那古寺・千手観音)
百観音-71 坂東十三番(浅草寺・聖観音)

また、西国三十二番、秩父五番・八番・九番・十一番・十三番、坂東五番・二十二番・二十五番・
二十八番の十体は新しく造られています。
補修が難しかったのかもしれません。
「古文書でたどる安食の歴史」(平成23年)には、観音像の寄進者名が記載されていますが
(P71~74)、秩父十三番を除いて上記九体は(欠)となっていますので、これらはここ数年の
間に新たに安置されたものであることが分かります。


百観音-72

そして、中央の阿弥陀三尊像もその例外ではなく、三体とも首が落とされて補修されています。
削られたり、割られたりした石仏は、その傷口からさらに風化が進んでしまいます。
「廃仏毀釈」という悲しい歴史の一コマは、風化させずにしっかりと検証しておくべきでしょう。


百観音-38

阿弥陀三尊の隣に「西国番外」として、左から花山院・藥師如来(兵庫県三田市)、元慶寺・
藥師如来(京都府京都市)、法起院・徳道上人(奈良県桜井市)が並んでいます。


百観音-41

これは何の碑か分かりません。
「觀■■■ 妙■■■」しか読めません。
紀年銘は文政とあるような気がしますが・・・。


百観音-43

前面の大乗寺参道側にもたくさんの観音像が並んでいます。


百観音-80
大乗寺-66
***********大乗寺-56
百観音-75

「安食百観音霊場」の場所は三方を池に囲まれていて、通称「弁天島」と呼ばれています。


百観音-44
百観音-2    亀ものんびり甲羅干し


百観音-37
百観音-79
百観音-73

約220年前の寛政十年に建立されてから、長い間に石仏は風化し、境内は荒廃していましたが、
昭和60年に整備されて今の姿になりました。
百ヶ所の霊場を一ヶ所にまとめてお詣りできる「安食百観音」。
お気に入りの札所や観音像を決めて、お詣りするのも良いかもしれませんね。


大乗寺-71

                           ※ 「安食百観音」 栄町安食3633(付近)



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