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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

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いろいろな顔を持つ、成田山西側の「幸町(さいわいちょう)」
安政五年(1858)に刊行された「成田參詣記」の中にある「成田山全圖」を見ると(「現代語訳
成田參詣記」 平成10年 成田山新勝寺 P488から489)、境界は明確ではありませんが、
今の幸町あたりは「上甼内横甼」と書き込まれています。
昔は「横町」と呼ばれていたようです。

成田街道ー283
成田街道ー282

幸町の散策は、薬師堂のロータリーから始めます。

幸町の東端は、表参道の台の坂の右側にある数軒の店舗です。

幸町-30
幸町-31
***********幸町-32

「表参道開運通り」と刻まれた石柱が上町との境界になり、画面の先数軒が幸町、画面右が
上町になります。
石柱を右に入ると、神明山へ向かう路地に続きます。
路地の右は上町、左は仲町になります。


幸町-33
幸町-34
***********幸町-35

台の坂の左側に面した幸町の店舗も数軒だけです。


幸町-37
*******幸町-38

店舗と店舗の間に町名の石柱が入り組んで置かれています。


幸町-41
幸町-42
***********幸町-43

薬師堂のロータリーから「西参道三の宮通り」を進みます。
右手に入る小道は「出世稲荷」に向かいます。
小道の右側は仲町です。


幸町-44
幸町-45
************幸町-46

しばらく進むと「七霊地蔵尊」があり、ここが町境になります。
「七霊地蔵」とは聞き慣れない名前です。
いろいろ調べても由来についての史料は見つかりません。
思い浮かぶのは、「八百屋お七」の慰霊のために建立されたと伝えられる、大森の密厳院に
ある「お七地蔵」くらいですが、無関係でしょう。


幸町-47

大師堂の二体の大師像には「明治卅一年」(1898)と記されています。


幸町-48

お堂の奥は小さな墓地です。
元禄、宝永、正徳、享保、宝暦、安永、寛政などの元号が読めます。

 
幸町-50

「奉供養 勢至菩薩」と刻まれています。
享保の元号は読めますが、年号と干支は読めません。
ただ、最後に「廿三日」の文字があり、珍しい勢至菩薩像であることから、これは二十三夜の
月待塔のようです。


幸町-52 片隅にはペットの墓も・・・
***********幸町-49

幸町-60

「三の宮通り」へ戻る途中の石段は、成田山裏門の駐車場へ下りる道です。


幸町-54
幸町-55
幸町-76 正門前の小林堂(文具店)

「三の宮通り」を横切ると、明治六年(1873)開校の「成田市立成田小学校」があります。
「千葉縣印旛郡誌」に収録の「成田町史」に、「成田尋常高等小學校」として次のように
記載されています。

「明治廿年以前には高等小學校の設置なく尋常小學校のみなりき尋常小學校は明治六年
三月埴生郡寺臺村永興寺内に借設し東谷小學校と稱す仝七年四月成田村字辻堂に校舎
を改築す仝八年三月聯區第百八十四番成田小學校と改稱仝廿五年五月教育令改正により
成田尋常小學校と改稱仝三十七年二月更に地を成田横町に卜し校舎を新築し茲に移轉す
仝四十一年四月高等科を併置す高等小學校は明治二十年五月之を創設し尋常小學校々舎
の二階を教塲に假用せしが爾來生徒も年々增し狹猛を告ぐるに至りしより仝二十九年更に
校舎を字辻堂に新築し茲に移轉す仝四十一年四月尋常小學校に併置し成田尋常高等小學
校と改稱し更らに校舎の大增築に着手し全竣功す今のものこれなり明治四十三年度末現在
尋常科十四學級男四百五十九人女四百二十八人高等科二學級男三十九人女十八人あり」


卒業生には、プロ野球の唐川侑己選手、リオオリンピックのマラソンに出場した田中智美さん、
プロサッカーの船山祐二・貴之兄弟などがいます。


幸町-75

小学校の正門前を左に入ります。
路地の一角に「白蛇神」があると地図には書かれていますが、どこを探しても見つかりません。
地図に示された場所は、何か建物が取り壊されたような跡があります。
多分、ここに「白蛇神」があったのでしょう。

白蛇は、弁財天の使いとして信仰の対象となっています。
事情があって取り壊されたのでしょうが、残念な気がします。


幸町-61
***********幸町-62

突き当たりに小さな墓地があります。
入口に大師堂、古い墓石には享保、明和、安永、文化などの元号が刻まれています。


幸町-63
***********幸町-64

墓地を左に行けば薬師堂の横にでます。
右に行くと下り坂となり、JRの線路に突き当たります。
途中の丁字路を左折すると大師堂があり、二体の大師像の後に明治三十三年(1900)の
「奉納 樒樹壹千本」と刻まれた石版が置かれています。
「樒樹」とは、常緑樹で、仏事に用いるため寺院に植栽されることが多く、その実は有毒です。
地図で見ると、この大師堂の位置は上町になるようです。
路地の右側は米屋の工場で上町、左側は幸町です。


幸町-65
幸町-66
幸町-67
幸町-68

ちょっと戻って坂を下り、JRの線路に向かいます。
線路脇にはお堂が二つ、石碑が一つ建っています。
手前の小さなお堂は名前が分かりません。
大きなお堂は大師堂で、二体の大師像の銘文は、たくさんの張り紙で見えません。
奥の昭和7年の石碑には「三界万霊 供養塔」の文字が刻まれています。


幸町-69
幸町-70
***********幸町-71

お堂の先には小さな踏切があります。
ひっきりなしに電車が通ります。


幸町-72
幸町-73

左に曲がって行く線路は成田線の我孫子行き、直進して行くのは佐原・銚子方面行きです。
振り返ると成田駅はすぐ近くです。


幸町-74

踏切を渡ると急坂になります。
「人と自転車以外は通れません」の注意書きがあります。

この踏切は「古葉師踏切」と言いますが、本来は「古薬師踏切」だったという説が、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著)の「薬師堂」の説明の中で紹介されています。

「日当りの良い場所にあるのに、通称日陰の薬師という。もと成田小学校裏側の日当りの
悪い窪地にあったからで、その名残が小学校裏のJR線踏切の名称「古薬師踏切」である。
しかし踏切の表示は「古葉師踏切」となっている。国鉄時代の担当者が「薬」と「葉」を間違
えてしまったのであろう。」
 (P21~22)


幸町-90
幸町-89
幸町-77

踏切を渡り、急坂を下ると、住宅街が広がっています。
線路に分断されていますが、ここも幸町です。
赤い屋根は昭和29年から31年にかけて建設された初期の市営住宅です。
懐かしいような、ゆったりとした空間が広がっています。


幸町-92
幸町-95

北の方角にはNTTの鉄塔や「埴生神社」の森が、南には成田駅周辺のビル群が見えます。


幸町-101
幸町-100

さて、ここはどこでしょう?
何の変哲もない用水路のようですが・・・、じつはここが1級河川の「小橋川」の水源なのです。
新町の方向からの暗渠が初めて顔を出すここが、町境にある水源になります。


幸町-102
***********幸町-103幸町-104

中台運動公園の第6駐車場の下から流れ出す水と、郷部との町境で合流します。
この合流地点が「小橋川」の起点となり、宝田で「根木名川」に合流するまでの4760メートル
を流れて行きます。
成田市ホームページ中に土木課の「準用河川整備事業」の資料があり、その中に幸町の水源
から合流地点までの145メートルは、準用河川の「上小橋川」であることが記載されています。


松崎街道ー108

成田小学校前に戻り、「西参道三の宮通り」を進みます。


幸町-56
幸町-57

幸町交差点に向かう左側に、小さな道標が立っています。
小さいうえに、道路からちょっと引っ込んだ場所にありますので、注意しないと見落とします。
「正面成田不動尊」と記され、側面には『「南へ上る 酒々井 佐倉」「東へ下る 成田門前を
へて三里塚 芝山」 道』、『北へ下る 滑川 佐原」「西へ上る 安食 木下」 道』
とあります。
明治十五年(1882)と刻まれていますが、見たところ新しいので、復元されたものでしょう。


幸町-59

幸町交差点は三叉路で、右に曲がると成田山裏門を経て土屋方面への裏参道、左へ進むと
西参道三の宮通りで、「三の宮埴生神社」を経て「松崎街道なりたみち」となります。


幸町-106
***********幸町-107
幸町-108
***********幸町-111

この通りは、畳屋、工務店、塗装店、建材店などがとても多いように感じます。
昔から成田山の門前町が形成されて行く過程で、必要とされる職人たちが、自然とこの一角
に集まり、今日に至っているようです。
天保九年(1838)の「諸商渡世向取調書上帳」と、同十四年(1843)の「諸商人軒数書上帳」
から集計した、門前町成田でのさまざまな職業について、「成田市史 中世・近世編」にはこう
書かれています。

『なお、これらの商売の他に成田には医師五人をはじめ畳屋・薪屋・石屋・附木屋・鍛冶屋・
持遊(花札など遊具)屋などの商いもあり、~』
『また天保二年の「諸職人名前取調書上帳」(石井しげ家文書・近世編史料集五上)によると、
大工職七人、桶職七人、木挽四人、下駄職・左官・塗物職各二人、それに屋根職・建具職
各一人の計二六人の職人がいたとある。』
 (P743)


西参道ー33

この通りの幸町の町境はJR線をまたぐ郷部橋の手前になります。
橋の向こうは郷部の「埴生神社」です。


幸町-1

郷部橋の手前を北へ入ります。


幸町-2

狭い道から見上げるNTTの鉄塔は威圧感があります。


幸町-3

道は直ぐに三叉路となり、「三竹山道祖神」が現れます。


幸町-10
幸町-7

榧の大木に覆われたこの道祖神は、「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
「ドウロクジン」とは「道陸神」と書きますが、「道祖神」と同義です。
その名の通り北向きのうえに、NTTのビルに陽を遮られて、いつも薄暗い感じです。


幸町-83

幸町-84

カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれた道祖神で、右端は「奉唱十五夜講中」「元文
四己未」と記された月待塔です。
元文四年は西暦1739年、約280年前のものです。
この十五夜塔の正面には、「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面
には「此方竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
指している方角が違うのは、以前の場所から移されたためでしょう。


幸町-82
幸町-9

道祖神の左手には、六体の大師像が並ぶ「大師堂」があります。
台座にはビッシリとお札が貼られ、刻まれているはずの文字は見えません。


幸町-11

道祖神に背を向ける形で進む小道は、滑川に向かう旧道です。
フェンスの左側は崖で、町名は郷部になります。


幸町-13

石段が崖を下っています。
この先はJRの線路をまたいで薬師堂へと向かう「松崎街道」の旧道です。
以前、「松崎街道」の取材中に、ここがかつての旧街道であった痕跡を見つけました。


松崎街道ー99   2015年6月に撮影
***********松崎街道ー100


幸町-14

滑川への旧道を進むと、「庚申堂」があります。


幸町-15

お堂の中に立つ「青面金剛像」は、六臂で邪鬼を踏みつけ、左右に鶏を配し、台座には三猿
を刻んでいます。
紀年銘は「■永■■申」とだけ読め、永の次は元か八に見えます。
元号と干支の組み合わせで考えると、「宝永元年甲申」が一番可能性が高いと思われます。
宝永元年は西暦1704年、310年以上も前になります。


幸町-16幸町-17

庚申堂だけに、狛犬ならぬ狛猿?
だいぶ傷んでいますが、昭和15年の寄進です。


幸町-18

右端は回国塔で、「寛■四壬子」と読めます。
該当する年代は寛政四年(1792)です。
隣は読誦塔で、「宝暦二壬■」と読めるような気がします。
宝暦二年は西暦1752年になりますが、宝暦十二年(1762)かもしれません。
中央は年代は分かりませんが、「三界萬霊」の文字が見えます。
左の二基は「馬頭観音」で、明治四十二年(1909)のものです。


幸町-19
幸町-20

市立成田中学校の手前を右折し、町内境界に沿って細い路地を進みます。


松崎街道ー117

突き当たりは先ほど歩いた滑川への旧道、後ろ側は成田山の裏門方向になります。


松崎街道ー115
松崎街道ー112

幸町交差点から土屋へ向かう土屋中央通り(成田山裏参道)が町境になります。
写真左(後)は成田山弘恵会の駐車場になります。
右に登る坂は市立成田中学校方向、左に登る坂は幸町交差点方向です。


郷部橋まで戻って道を横切り、南に下ると、幸町の「山車庫」があります。

幸町-105
 幸町-21
祇園ー73 3年前の祇園祭での幸町山車
************祇園ー74

幸町-23

山車庫の先はJRの線路になります。


幸町-24
***********幸町-25
幸町-26

狭い路地を上ると「西参道三ノ宮通り」のNTT前に出ます。


幸町-96
幸町-27
幸町-40
***********幸町-94
幸町-109

幸町は、「西参道三の宮通り」によって「三竹山道祖神」や「庚申堂」のある区域、「成田小学校」
や「山車庫」のある区域、「七霊地蔵尊」や表参道に面する区域、さらにJRの線路によって分れて
いる市営住宅等の区域の大きく4ブロックに分かれている感じです。
上町・仲町・成田・郷部・新町・囲護台・土屋と複雑に町境を接する「幸町」。
いろいろな顔を持った幸町の入り組んだ路地の奥には、まだまだ何かが隠れていそうです。







テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

まち、町 | 07:12:37 | トラックバック(0) | コメント(2)
ちょっとしたスポット~もしかして成田で一番新しい遷座?「押畑浅間神社」
ちょっとしたスポット~「押畑浅間神社」。

押畑浅間-20

国道408号線を、土屋交差点から宝田方面へ向かう左側、京成スカイアクセス線の高架を
くぐって直ぐに、チラリと真新しい鳥居が目に入ります。


押畑浅間-21
押畑浅間-5
押畑浅間-4

大分前になりますが、つくば市で仕事をしていて、毎日この道を往復していたのですが、
その時はこの場所には何もなかったと記憶しています。

1年ほど前、久しぶりにつくばに向かったとき、この神社の存在に気づきました。
新しい鳥居と石宮が、切り開かれた造成地のような場所に建っています。


押畑浅間-8

中央に「浅間神社」、左に「三峰神社」、右に「大山阿夫利神社」が並んでいます。


押畑浅間-9
押畑浅間-10

「浅間神社」の新しい石宮は昭和62年の建立ですが、後方にある古い石宮には「浅間神社遷座
記念の碑」に記されているとおり、「明和七庚寅」と刻まれています。
明和七年は西暦1770年、十代将軍徳川家治の治世でした。
右隣に並んでいる祠の文字はすっかり消えてしまっています。

「成田市史 近代編史料集一」中の「押畑村誌」に、この「浅間神社」が記載されています。

「村ノ南方字浅間山ニアリ。地坪四拾二坪、祭神木花咲耶姫命ヲ祀レリ。祭日三月一日。
七月一日ノ両度トス。創建年月詳ナラズ。」


「浅間神社」は、富士山を信仰対象とした神社で、木花咲耶姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)
を祀る神社です。
「あさま」が本来の呼び方のようですが、「せんげん」と呼ばれることのほうが多いようです。
富士山を信仰の対象とすることから、静岡・山梨を中心に関東一円に広がっています。


押畑浅間-11
押畑浅間-30

右側の「大山阿夫利神社」。
手前の新しい石宮(建立年月日は記されていません)の後ろの石柱には、「阿夫利神社」の
社名と建立日の「明治廿九年五月」が刻まれています。

神奈川県伊勢原市にある式内社の「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」から分祀
されたもので、祭神は木花咲耶姫命の父である「大山祇大神」です。


押畑浅間-12
押畑浅間-13

左側は「三峰神社」です。
後ろの古い祠には「天保二年十二月吉日」の文字が見えます。
天保二年は西暦1831年、十一代将軍徳川家斉の時代です。

江戸時代に、火難・盗難除けの御利益があるとされる秩父の「三峰神社」を参詣する「三峰講」
が盛んになり、各地に三峰神社の分祀が行われました。
三峰神社の主祭神は伊弉諾尊 (イザナギノミコト)と伊弉册尊 (イザナミノミコト)で、大山祇神
はその子、そして木花咲耶姫はその孫という系譜になります。


押畑浅間-2

鳥居の脇の「浅間神社遷座記念の碑」には、以下のような碑文が綴られています。

「浅間神社は、富士信仰に基づき富士山を見晴るかす地に、火伏せの神としてのご神体を
祀ったものである。押畑浅間神社の創建年代は不明だが、古い石社には明和(一七六四~
一七七二)の年号があるので、江戸時代には既に祀られていたと思われる。押畑地区には
朝宮参りの風習があった。即ち祭礼日の七月一日に、区民は生まれた子の健全な成長を
願って朝この神社に裸足で参詣した。平成四年、境内の一部が道路用地となったので境内
と周辺地の整備を余儀なくされ、ここに合祀されている大山・三峰の二社とともに押畑稲荷
神社境内に移転仮遷座した。この度千葉県を始め関係各位の協力により境内地の整備が
完了したので併せて区民の信仰の証である鳥居を建立し、区の益々の発展と子孫の繁栄
を祈り、浅間・大山・三峰の三社を本社地へ遷座した。ここに関係各位に深謝し碑を建立し、
これを記念するものである。 平成二十五年三月吉日 押畑区 」


突然出現したように見えたのは、4年前の再遷座だったのですね。
もしかしたら、これは成田で一番新しい遷座ではないでしょうか?


押畑稲荷ー53

平成27年7月に押畑稲荷神社を訪れた際、本殿の裏側で見つけた「大山阿夫利神社」と
書かれた木札。
時期的には浅間神社とともに再遷座した痕跡だったのかも知れません。


押畑浅間-6
押畑浅間-7

鳥居から離れてぽつんと一体の石仏があります。
この石仏がなぜここにあるのかは分かりません。
神仏習合の名残か、たまたま路傍の仏をここに移設したのか・・・。

風化で像容が崩れ、何の石仏か判断ができませんが、蓮華座の上に座って左右の手には
何かを持っているようです。
下部中央に「奉納 大乘妙典■部■」とありますので、これは読誦塔です。
右に「天下泰平」、左に「國土安全」と刻み、側面には「享保十四己酉」の文字が残っています。
享保十四年は西暦1729年、八代将軍徳川吉宗の時代です。


押畑浅間-16

神社前の道路工事はまだ完成していません。


押畑浅間-32
押畑浅間-33

工事は空港アクセス線の高架の前で止まっています。
まだまだ時間はかかりそうです。
スカイライナーが空港に向かって走って行きます。
神社が以前この場所にあった時には、想像もできない景色でしょうね。


押畑浅間-15
押畑浅間-14
押畑浅間-19

上空を飛行機が飛んで行きます。
今は周りに何もない寂しい景色ですが、木々が茂って、飛行機を木の間越しに見るようになる
には、どのくらいの年月が必要なのでしょうか。


押畑浅間-0

                       ※ 「押畑浅間神社」  成田市押畑1173-2

 

続きを読む >>

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

寺社 | 09:08:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」と「長見寺」跡

栄町の利根川河畔に鎮座する「一ノ宮神社」を訪ねます。

一ノ宮-51

「一之宮神社   祭神 経津主命(ふつぬしのみこと) 
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪 
境内神社 浅間神社  境内坪数 九二〇坪  氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎」
  (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)

延長二年は西暦924年、ほぼ1100年前になります。

ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として知られ、剣神、
または武神・軍神とされています。


さて、境内を見渡しても鳥居が見当たりません。

一ノ宮-1

境内の周りを歩き回ると、風に落とされた木の枝が散乱し、枯れ葉に覆われた、人の通る
気配のない細道の奥に、鳥居がチラリと見えていました。
これがかつての参道なのでしょう。


一ノ宮-2
一ノ宮-4
一ノ宮-7

境内からは300メートルほど離れた場所に建つ鳥居は、平成4年の建立。
「一宮大明神」と刻まれた石の扁額の周りには腐った注連縄が残っていて、少なくとも1年
以上は放置されていたような感じです。
この鳥居や参道の荒れ具合から考えると、今では参道としての役割は失っているようです。


一ノ宮-5
一ノ宮-6

鳥居の先に「矢口区共同墓地」があり、参道の先を 遮る感じになっています。
脇の無縁塚には、宝永・享保・元文・宝暦・寛政などの元号が刻まれた墓石が並んでいます。

ここは以前「花輪堂」と呼ばれるお堂があったところで、毎年4月に神社に奉納される獅子舞
(オコト)が、この共同墓地の前から出発します。
この獅子舞が鳥居をくぐり、社殿へと進む日だけが、参道として蘇る唯一の時なのでしょう。


一ノ宮-8
一ノ宮-9

鳥居をくぐって、参道を神社の境内へと戻ります。


一ノ宮-10

大正二年(1913)編纂の「千葉縣印旛郡誌」は、一宮神社について次のように記述しています。

「村社一ノ宮神社 矢口村字花輪にあり由緒不詳社殿間口一間三尺奥行一間三尺拜殿間口
四間三尺奥行二間境内九百二十坪官有地第一種あり神官は大野橘磨にして氏子八十五戸を
有し管轄廳まで十一里二十町なり五月初旬御田植の式ありて賽客多し」



一ノ宮-11

境内に入った右手に、円筒と手水盤が並んでいます。
円筒形の石造物には、「一宮本地堂」と刻まれ、「文化六己巳年十一月吉日」「當山現住舜海」
と記されています。
ちょっと不思議な形ですが、「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成」(平成4年)には、

「中間が膨んだ円筒形に造られた上端は、丁寧な仕上げが施されていないため、この上に
笠石状のものが乗っていたとも考えられ、或いは石灯籠の竿石であった可能性もある。
翌七年の棟札には、この年の八月に大風により大破したため、組物から上方を組直したこと
が記されていて、文化二年(一八〇五)に修造が行われた本殿の再建祈念といえよう。」

と書かれています。(P168)

そして、翌七年の棟札には、次のように記されています。

「文化六己巳年八月廿三日大風裏大杉木 本社江折懸大破舛ヨリ組直修復造営成就
翌文化七年六月朔日吉辰」


手水盤には「明和九辰」の文字が見えます。
明和九年は西暦1772年、「明暦の大火(振袖火事)」、「文化の大火(車町火事)」とともに
江戸三大大火の一つと言われる「明和の大火(目黒行人坂大火)」のあった年です。


一ノ宮-12
**********一ノ宮-13

常夜燈には、「天保八丁酉秋九月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1837年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」が起こりました。


一ノ宮-14
**********一ノ宮-15

ご神木の杉。
「栄町の自然シリーズ 第一集」(平成2年)には、樹高約28メートル、根回り6.8メートル、
樹齢は推定300年と記されています。


一ノ宮-33

ご神木の他にも、境内には見上げるような大木がたくさんあります。


一宮神社-75   
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本殿には見事な彫刻が施されています。

「本殿は、一間社流れ造りで、屋根は銅板葺、向拝の虹梁上の柱間に見える竜、その柱上
には獅子鼻、その左右に象鼻そして海老虹梁、前廻り縁の左右にある脇障子の彫刻など、
実に見事である。」
  (「栄町觀光ガイドブック」 P16)


一ノ宮-22
***********一宮神社-77

瑞垣の隙間から見える脇障子も、確かに見事な彫りです。


一ノ宮-24

拝殿にも凝った彫刻が施されています。
拝殿は明治四十五年(1912)に建造されました。


一ノ宮-54

「現在の社殿は、安和元年に建造され、安和8年には宮様が訪れていることが石碑などから
うかがわれる。 なお、現在の拝殿は明治45年3月に作られたもので、祭日には獅子舞が
奉納されていた。」
 (「栄町觀光ガイドブック」 P16)

安和元年は西暦968年で、約1050年もの昔になります。
ここで、疑問が湧きます。
千年もの歴史を持つ建造物が、国や県の文化財指定を受けず、さらに地元自治体からも
指定を受けていないのはなぜなのでしょう?
棟札等で見る限り、度々修造が行われているようで、さすがに安和元年の社殿が現存して
いるとは考えにくいのですが・・・。
・ 天明五年(1785)    本殿の建立(再建?) (※1)
・ 文化二年(1805)    修造工事
・ 文化七年(1810)    修造工事
・ 慶應二年(1866)    修造工事
・ 明治三十八年(1905) 修造工事
・ 昭和二十六年(1951) 修築工事
火災による焼失の記録はありませんが、何度かの修繕・修造を繰り返し、昭和26年に大幅
な改築を行ったため、安和元年の社殿はもとより、天明五年の社殿の部分すらほとんど残さ
れていない状態となり、文化財の指定には至らないと判定された、と推測したのですが・・・。
栄町に照会したところ、ニュアンス的には”伝承による神社の歴史の古さはあるものの、建造
物としての社殿には文化財に指定するほどの価値はそれほど見い出せない”とのことでした。
栄町には、古刹の「龍角寺」に関連する国や県の指定文化財がありますが、町の指定文化財
としては一宮神社本殿より新しいものもあり、それぞれ建築技法の珍しさや歴史的価値、美術
的価値などを評価しての指定となっています(※2)。
残念ながら一宮神社本殿には、建造物としての古さ以外に、際立った特徴がないのでしょう。

(※1)天明五年の棟札(これにより天明五年に社殿が建立されたことが分かります)
                    旹天明五乙巳年   遷宮大導師天竺山
    聖衆天中天迦陵頻伽聲                    龍角寺竪者法印春捍
                    天下泰平四海静謐                                    
   奉      建立一宮大明神社頭一宇棟札所
                    國郡安全万民快樂       
    哀愍衆生者我等今敬禮                    別當 長見寺法印智道
                    十一月吉祥日
                                 下総國埴生郡矢口村七箇村氏子中


(※2)日枝神社本殿(寛文十二年・1672)、布鎌神社水神社本殿(宝暦七年・1757)、駒形
神社本殿・文化四年(1807)、大鷲神社本殿・天保二年(1831)、雙林寺大師堂(明治九年・
1876)

なお、「安和8年」は存在しない年号で、「安永八年(1779)」の間違いだと思われます。
「千葉県印旛郡栄町神社棟札集成補遺」(平成9年)に収録されている一宮神社の墨書中に、
小さく  「安永八年亥年宮様御下リ良宮奉称候」 と書かれている部分があります。


一ノ宮-26

拝殿の左側に二基の祠が立っています。
左側の祠は大正十五年(1926)の「出世稲荷神社」。
右は風化で社号、年号ともに不明です。


一ノ宮-27
一ノ宮-28

本殿の裏には小高い塚があり、その上に祠が一つ立っています。
社号は見えませんが、側面には「天下泰平五穀成就」と「安政五午二月」と刻まれています。
状況から、「浅間神社」であろうと思われます。
安政五年は西暦1858年、大老井伊直弼による「安政の大獄」が始まった年です。


一宮神社-80
一宮神社-81

塚の下に並ぶ数基の石造物。
左端の一番大きな石柱には、「奉納 御寶前 文化元年甲子九月吉日 當山現住舜海」
刻まれています。
文化元年は西暦1804年になります。
左から二番目の祠には「天保八酉年」、三番目の祠には「明治十四年」、四番目は二つに
割れて判別不能、そして右端の祠には「万延元申」の文字が読めますが、いずれも社号は
分かりません。
天保八年は西暦1837年、明治十四年は1881年、万延元年は1860年になります。


一ノ宮-30
一宮神社-82

塚の裏には、100段以上もある裏参道の急勾配な石段があります。


一ノ宮-32

境内の一角にある、明治三十九年(1906)の「戦捷紀年碑」。


一宮神社-110
一宮神社-112
一宮神社-111

葉の裏に文字を書いて文通したと伝えられる「タラヨウの木」。
タラヨウは多羅葉と書き、昔は葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したり、
文字を書いたりしたことから、神社やお寺に植えられるようになりました。

タラヨウとは「もちのき」のことで、樹皮から鳥や昆虫などを捕まえるために使う「鳥もち」を作る
ことができることから、この名前が付きましたが、今では鳥もちなど忘れられた存在です。


一ノ宮-47

一ノ宮神社の隣には「矢口青年館」と駐車場がありますが、神社の境内との境界を示すように、
たくさんの石仏・石造物が並んでいます。


一ノ宮-34

この如意輪観音には「寛文九己酉年」の紀年銘が刻まれています。
寛文九年は西暦1669年になりますので、一宮神社が再建された天明五年(1785)より
110年以上前のものです。
ここは、一宮神社の別当寺の「長見寺」があった場所です。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
「矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳


「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)に、次のような記述があります。
「長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。」



一ノ宮-35     右の大師堂
      左の大師堂    一ノ宮-36

寺の境内入口だったであろう場所の左右に「大師堂」があります。
向かって右の大師像には、「文化■■甲戌■」と読める紀年銘が刻まれています。
文化年代で干支が甲戌となるのは十一年(1814)です。
左の大師像の台座には、「万人講」と読める文字が見えます。


一宮神社-100

右の大師堂の隣には、「新 四國八十三番 一ノ宮山■■寺」と刻まれた石柱があります。
■の部分は「長」の異体字と「見」のように思えます。
四国八十八か所霊場の八十三番は「神毫山(しんごうざん)一宮寺」ですが、一ノ宮にかけて
「一ノ宮山長見寺」としたのでしょうか?(■の部分に疑問が残りますが・・・)
右側面には「讃刕一ノ宮 写」とあります(刕は州の異体字なので「讃刕」とは讃岐地方のこと)。
左側面には「南無大師遍照金剛」、裏面には「文政四辛巳年三月造立」と刻まれています。
文政四年は西暦1821年です。


一ノ宮-38
一ノ宮-39

石柱の隣には「子安堂」があります。
赤子を抱いた子安観音は文化三年(1806)のもので、「十九夜講」と刻まれています。
これは「月待講」と呼ばれるもので、十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜、二十三夜などの
月齢の夜に、村の仲間(講)が集まって飲食を共にし、お経をあげたり、月を拝んだりして
悪霊を払うという宗教行事ですが、「庚申講」と同様に娯楽的色彩を強くもった行事です。


一ノ宮-40

子安堂の向いには風化で年号が読めない地蔵菩薩像と、「權大僧都竪者法印舜海大和尚位」
と刻まれた文政七年(1824)の石碑が並んでいます。
この「舜海」という名前は、境内の多くの石造物に刻まれていて、寺の維持管理に大いに貢献
した方のようです。


一ノ宮-41

右端は天保七年(1836)の読誦塔、その隣は文政二年(1819)の読誦塔です。


一ノ宮-42

安永、寛政年間の供養塔。
「竪者法印秀榮」「竪者法印智觀」などの高僧の名前が読み取れます。


一宮神社-102   如意輪観音の十九夜塔
      子 安 観 音     一宮神社-101

一ノ宮-46

左は「法眼宮本豐水之墓」と刻まれた明治十七年(1884)の碑ですが、台座に「文雅堂塾中」
とあるので、墓石ではなく筆子塚だと思われます。
右は三人の戒名が刻まれた慰霊碑のようです。


一宮神社-105
一宮神社-85  

神社境内と小道を挟んで金属柵に囲まれた、「金比羅大権現」があります。
中央の鞘堂の扉が半開きになっていて、中の祠がみえています。


一ノ宮-50

手前の祠は安政四年(1857)のもので、後ろの細長い石碑は「江川延命所 多賀大明神」
と刻まれた文久二年(1862)のものです。
「多賀大明神」とは滋賀県にある式内社の「多賀大社」のことです。


一宮神社-84

「栄町観光ガイドブック」には、
「矢口の一ノ宮神社は、延長2年(今から1023年前)に創建したと伝えられているが、一説
では、現成田市松崎に鎮座する二ノ宮神社は一ノ宮神社よりも110年前に創建されている。
しかし、一ノ宮神社の神官外記という人が二ノ宮神社を相続していることから、一ノ宮神社は、
二ノ宮神社よりも前の創建と考えるのが自然である。 伊藤義一氏説」
 (P16)
と紹介されています。

「神社由緒禄」に神職外記が二ノ宮神社を相続したとあるのは、斎衝三年(856)のことです
ので、二ノ宮神社を相続した外記と一ノ宮神社の外記が同一人物だとすると、少なくとも神職
としては68年以上現役でいたことになり、(神職になるまでの年齢なども考慮すると)平均寿命
が30歳程度であった時代であることから、この説には少々無理があるように思えます。
いずれにしろ、一ノ宮神社が1100年近い歴史を持つ古社であることは間違いありません。


一宮神社-107

さて、一ノ宮神社の解説には必ずと言って良いほど、成田市松崎の「二ノ宮神社」、同郷部の
「三ノ宮神社(埴生神社)」との関連が出てきます。
「二ノ宮神社」の解説にも、そして「三ノ宮神社」の解説にも、(確証はないものの)三社には
何らかのつながりがあるかのように書かれています。

「成田市史中世・近世編」に、安政年間に書かれた「利根川図志」にある、一ノ宮・二ノ宮・
三ノ宮の三社についての記述が紹介されています。
「一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記伝、伝延長二年九月十九日祭ルト
二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と伝
三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮といふ額をかく、こ神明帳に見えぬ神なり」
  
(P801 なお、郷部村は成田村の間違い)

「三ノ宮・埴生神社」のホームページには、
当神社は通称三ノ宮といわれ、その昔物資が利根川流域より運び込まれ、栄町矢口の一ノ宮、
成田市松崎の二ノ宮、そして終点の三ノ宮と順になったとされています。その名残か現在当神社
の向きは真西にむいており、一ノ宮・二ノ宮の方を向いております。」

と書かれています。

旧埴生郡内にある三社は、もともと一ノ宮埴生神社・二ノ宮埴生神社・三ノ宮埴生神社と呼ばれ
ていたのかも知れません。(二ノ宮神社は近年まで「二ノ宮埴生神社」と呼ばれていました)

「二ノ宮神社」 ☜ ここをクリック
三ノ宮神社」 ☜ ここをクリック


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千年の時を刻む境内には、ほのかに梅の香りがただよい、微かな春の足音が聞こえています。


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                        ※ 「一ノ宮神社」  印旛郡栄町矢口1




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栄町の寺社 | 16:51:16 | トラックバック(0) | コメント(6)
三百年にわたって多くの学僧が巣立っていった「飯高檀林」

今回は匝瑳市の飯高寺の「飯高檀林跡」を訪ねます。

飯高檀林-94

飯高寺(はんこうじ)には、天正八年(1580)から明治七年(1874)までの約300年にわたり、
「飯高檀林」と呼ばれる法華宗(日蓮宗)の学問所が置かれていました。
総門、鼓楼、鐘楼、講堂等は国の重要文化財に指定され、鬱蒼とした森に覆われた境内は
県の指定史跡となっています。

檀林(だんりん)とは、僧侶の集りを栴檀(せんだん)の林に例えた「栴檀林」の略で、仏教の
学問修行所のことを指します。

「飯高寺(ハンコウジ) (一)日蓮宗。 (二)妙雲山と號す。初め日祐、法輪寺なる一寺を
松崎村に建立す。これ本寺の草創なり。永禄年中、もと小田原北條氏の臣平山某の城址
なる現在の地に移る。天正十九年、徳川家康、寺領三十石の朱印を附與せしがこの朱印狀
に飯高寺とありしかば爾後寺號を今の如く改むと云ふ。尚ほ此際、檀林設置を許可せられ、
大講堂以下の諸堂造營せられる。教藏院日生これが開講の祖たり。宗門最初の根本檀林
と稍せらるゝ。飯高檀林即ちこれにして、學僧常に千人を越えたりと云う。 (三)寺域、丘陵
の地を占めて眺望に富み、大講堂・書院・庫裏・學問所・對面所・鐘楼・鼓堂・一切経藏・
文句論談所・玄義論談所等の諸堂宇を具備す。寺寶に、徳川光圀書簡其他あり。」

(「日本社寺大觀 寺院編」 昭和45年 名著刊行会)

飯高檀林は、明治五年(1872)の「学制」発布により、明治七年(1874)に廃檀となりました。


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急坂に続いて、これまた急な石段を登ったところに、国の重要文化財の「総門」があります。
間口は約4.7m、脇門が約1.9m、左袖約2.7m、右袖約3.6mの腕木門です。


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「総門」は初め延宝八年(1673)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
所々に補修の跡がありますが、主要部分には335年前の堂々たる木組みが残っています。
天明二年は、その後7年間続いた「天明の大飢饉」の始まりの年でした。


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総門をくぐり、樹齢2~300年の杉の大木が並ぶ参道を進みます。
これらの杉は、紀州家から寄進された熊野杉です。

千葉県教育委員会の説明板は、次のように「飯高檀林(跡)」を解説しています。
天正八年(一五八〇)土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺をつくり学問所
(檀林)としたのが始まり伝えられています。 天正十九年に徳川家より日蓮宗の宗門根本檀林
として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。特に、家康の側室養珠院「おまんの方」
の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宣の寄進等により規模が整えられました。以後、寺は
日蓮宗の根本檀林として遠近各地から参集する修行僧たちでにぎわい、名僧を輩出しました。
慶安三年(一六五〇)に火災にあい、 衆寮・楼門・大講堂を焼失し、 現在の建物はその翌年
(慶安四年)に再建されたものといわれています。」



参道を右に折れて、しばらく進むと歴代の化主(けしゅ)の供養塔が並ぶ「廟所」があります。
「化主」とは、檀林の最上位である檀林長のことです。

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**************飯高檀林-65

正面には檀林初期の化主の供養塔が並んでいます。
中央に「開山蓮成院日尊聖人 慶長八癸卯年」と刻んだ塔があり、その左右の塔には、
二世・法雲院日道、三世・心性院日遠、十三世・寿量院日祐などの名が読み取れます。
手前の灯籠は正保四年(1647)のものです。

「蓮成院日尊」は、天正元年(1573)に「要行院日統」が飯塚村の光福寺に開いた
「飯塚檀林」を、「教藏院日生」と共に飯高村の妙福寺に、さらに法輪寺(後に飯高寺)
へと移して「飯高檀林」の基礎を築いた名僧です。
日尊は後に池上本門寺の十三世貫首となっています。
「法雲院日道」は、約1年の在位の後、久遠寺の十九世となっています。
「心性院日遠」は、約5年間にわたって檀林の組織や教育制度の充実などに尽力し、
その後身延山西谷檀林の檀林長となっています。

ここに、墓石ではなく慰霊塔が並んでいるのは、歴代の化主はそれぞれに池上本門寺や
身延山久遠寺をはじめとする全国の寺へと招聘されていったため、その墓所は招聘先に
存在するからです。


飯高檀林-66

風化が進んで読みにくくなっているものもありますが、いずれも「○○世○○聖人(または上人)」
と刻まれ、宝永、正徳、享保、元文、寛延、宝暦、天保などの元号が読めます。


飯高檀林-67

この「飯高檀林(飯高寺)」は、その学問所としての成り立ちから、檀家を持たないと聞いて
いましたが、この廟所の一段高くなった場所に比較的新しく見える、「○○家」と刻まれた
墓石群があります。
たまたまここを清掃中であった方に尋ねると、「もともと崖下にあった墓地が崖崩れに遭い、
仕方なくこの場所に移設させてもらったのだが、偉いお坊さんより高い場所となってしまい、
申し訳ない気持ちです。」と話してくれました。


飯高檀林-15

参道に戻ると、ここが元々は平山常時の居城であった痕跡の空堀があります。
過日の面影はありませんが、相当深く掘られています。


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飯高檀林-73

経文や諸文書を収める「一切経藏」。
寛文十二年(1672)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
傷みが激しいため、外壁はモルタル塗装で補強されています。


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飯高檀林は現在の「立正大学」発祥の地とされています。
立正大学のホームページにも、平成2年に建立されたこの石碑が紹介されています。


飯高檀林-76
飯高檀林-25
飯高檀林-26

木造寄棟造の「題目堂」。
18世紀ごろの建立とされています。
学僧達が上級試験に合格できるよう祈願したと伝えられています。

手前の手水鉢は明治八年(1875)の寄進ですが、その時には檀林は既に廃檀となって
いましたので、どんな気持ちでこの小さな手水鉢を寄進したのでしょうか?


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題目堂の先、参道の左手に鳥居が見えます。
「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」です。

この神社にまつわる話が、匝瑳市のホームページにありました。
少々長くなりますが、面白い話なので、ふりがなを省略して紹介します。
「その昔、檀林の僧が、朝早く、掃除をしようとして、大講堂の前庭に出てみると、総門の方か
ら、大講堂の昇り段のところまで、狐の足跡がはっきりとついていた。 庭を歩き回った足跡
からみて、大講堂の中へ入った様子なのだ。 僧は狐がどうして大講堂の中に入ったのか、
不思議に思えてならなかった。翌日も、足跡は大講堂のところで切れていた。 僧は、仲間に
このことを話した。 「それはおもしろいぞ。みんなで探してみるか」ということになり、鶯谷一帯
を探し回ってみた。 狐は見つからない。 夜中も見張っていたが、狐らしいものは一向に見当
らないのだ。 何日かたって、今度は、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いた木の葉が、庭に
落ちていた。 このことは、飯高村ばかりではなく、このあたり一帯の評判となった。 足跡を
残した狐の仕業とも思われず、かと言って、そんなことは誰もしていない。 当時は、憶測に
憶測が重なって、いろいろなうわさ話が生まれたようだ。 ところが、何年か過ぎて、その正体
がはっきりした。 能化上人の檀林入山式の日のことである。 その日は、上人の入山式と
あって、大酒盛があった。 普段、酒など飲めない学僧なので、その日だけは、無礼講とばかり、
みんな酔いつぶれるほど飲んだ。 酒宴も終わり、僧たちはみんな引き上げてしまった。 ところ
が、一人の僧が酔いつぶれて動こうとしない。 上人は、不思議に思っていろいろと尋ねてみた。
僧は、上人の前にひざまづき、ついに、正体を現わしてしまった。狐だったのだ。 この狐は、
表参道の橋げた近くの穴に住んでいた。 毎日、毎日学僧の唱える法華経の教えに感動して、
勉強がしたくなり、能化の授業に出席していた。 何年も何年もの間。しかも、一生懸命だったの
で、いろいろな教えの奥義を身につけ、時々、学寮の僧たちに、法門を指南するほどであった。
上人は、この話を聞き、法華経の奥義をきわめ、学僧の師となった努力に対して、僧に化けて
いたことを許してやることにした。 狐は、これから後、法華経の教えを守る一族として、仕える
ことを誓ったのである。 上人は、狐のために、大講堂の前庭の一角に、祠をつくり、ここに住ま
わせた。 後に、この祠は、古能葉稲荷大明神と呼ばれ久遠寺本仏(くおんじほんぶつ)の代
わり身として、信心する者が多いという。 今でも、五穀の守護神として、願をかけ、成就のお礼
に赤い幟を立てる者が大勢いる。」



飯高檀林-80  宝珠を刻む手水盤
絵馬掛けには多くの絵馬が 飯高檀林-78
飯高檀林-30  延享三年(1746)
 寛政十二年(1800)  飯高檀林-31

飯高檀林-32
飯高檀林-81
************飯高檀林-82

明治三十九年(1906)に奉納の狐の表情は、何か笑っているような・・・。


飯高檀林-38

「古能葉稲荷大明神」と参道を挟んだ場所に三基の石造物があります。
右は明治四十九年(1909)の題目塔です。


飯高檀林-87

左の石塔は「享保廿乙卯年」の紀年銘がある、道標です。
正面には「飯高檀林道」と刻み、側面には「いいたか」や「てうしみち」と刻まれています。
(「てうしみち」とは九十九里浜を銚子へと向かう「銚子道」のことと思われます。)
享保二十年は西暦1735年ですから、約280年前のものです。


飯高檀林-37

真ん中にあるこの石造物に刻まれた文字は「崇石」と読めますが、「崇」はもともと高い山という
意味で、「たっとぶ」とか「あがめる」という意味をもっています。
”それにしては何ともこじんまりしているなァ”と思ったら、「これは『崇』ではなく、『祟』ですよ。」
と、観光ガイドの方(※追記を参照してください)に教えられました。
確かによく見ると、「山に宗」ではなく、「出に示」の祟(すい=たたる・たたりの意)でした。

匝瑳市のホームページにこの「祟石(たたりいし)」にまつわる話が載っています。
正保四年(1640)、飯高檀林で総門前に石段をつくることになり、江戸から石を買い、小見川
まで船で運んで来た。そのあと、陸路を檀林まで運ぶのであるが、途中の神生村(旧山田町)
の藤右衛門という者が、そのうちの一つを盗んでしまった。 ところが、藤右衛門の家に不幸が
続き、「石を盗んだ祟りだ」ということになった。 そこで、親類の勘衛門という人に頼み、飯高寺
名主与右衛門を通して詫を入れ、ざんげの意を「祟石」と刻し、檀林へ戻したと言われている。」



飯高檀林-88

「講堂」の前に来ました。
珍しい栩葺(とちぶき)の堂々たる姿で、重要文化財としては県内最大級の建築物です。
「八日市場市史」の記述から、この「講堂」の変遷を要約すると、次のようになります。

檀林の初期の頃、講堂は総門の左側にあったと考えられていますが、慶長元年(1596)
に初代檀林長の日尊によって現在地に再建されました。
この講堂は、学僧の増加によって手狭となったため、慶安元年(1648)に家康の側室
「おまんの方」の寄進によって再築されました。
しかし、慶安三年(1650)の火災により焼失してしまったため、慶安四年(1651)に水戸藩
によって再建されたのが現在の講堂です。
約370年前の慶安四年は、軍学者・由井正雪の乱、いわゆる慶安事件が起こった年です。


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千葉県教育委員会のホームページには、この講堂について次のように解説されています。

その後、何度かの修理を経て桁行26.7m、梁間16.2mで寄棟造、鉄板葺となって
いたが、平成9年(1997)から平成14年(2002)の半解体修理の際の調査で、かつては
屋根が入母屋造の栩葺き(とちぶき)であったことが判明し、旧に復した。」



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講堂の前面には、3.82mの奥行を持つ広縁がまっすぐ伸びています。
この広縁を、大勢の学僧が行き来している風景が浮かびます。


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境内の右手には、入母屋造り茅葺き、袴腰の付いた、重要文化財の「鼓楼」があります。
享保五年(1720)に建立されました。


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ここで、学僧を講堂に呼集するために太鼓を鳴らしました。
太鼓の音が遠くまで響くように、袴腰の地面に大きな瓶を口縁部分を残して埋めてあります。


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「鼓楼」の脇に、集落へ下る石段があります。
「水門坂」と呼ばれ、集落には学僧相手の様々な店が並んでいたようです。
ある程度裕福な家の子弟でないと、全てが自己負担である檀林での長期間の生活は難し
かったようで、それだけに、近隣の集落は学僧達の落とす金でそこそこ潤っていたようです。


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境内の左側には、これも国の重要文化財の鐘楼があります。
慶安三年(1650)の火災で焼失した後、承応年代(1652~1654)に再建されました。

「梵鐘には寛永十六年(一六三九)秋の銘があり、現存の鐘楼が再建される以前、やはり
鐘楼があって慶安三年の火災で講堂などとともに焼失したと考えられる。」 

(「八日市場市史 下巻」 P198)


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屋根は鉄板葺きでしたが、平成4年の補修の際に講堂と同様に以前の栩葺きに戻されました。


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講堂の裏手には化主の住居であった「庫裏」があります。
現在の庫裏は、明治の廃檀後に移築され、その後も改修を加えられていますが、元々の
庫裏は何度か改築や焼失を繰り返して、寛文十年(1670)ごろに再建されました。


飯高檀林-109 講堂へ向かう渡り廊下
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飯高檀林-102 渡り廊下の奥の牡丹園


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庫裏の横を下る道は裏参道です。


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裏参道を登ってくると、講堂の裏側と鼓楼が見えてきます。


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『「学徒帳」によると、元禄期(一七〇〇年)ごろはおよそ四五〇から六五〇名の生徒が学んで
おり、文政十三年の「檀林明細書」には「千人以上」と見られる。それらのほとんどは寄宿生活
で、 (中略) 享和三年(一八〇三)四月の「御由緒明細書」によると、城下谷一七軒、中台谷
二〇軒、松和田谷二二軒、合わせて五九軒あった。』
 (八日市場市史 下巻 P202)


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「その飯高檀林の修学課程は、天台学研究を踏まえて、最後に日蓮聖人の御書を研鑽すると
いう初等教育課程から専門研究過程に至る八階級が設置されている。すなわち、(1)名目部
(2)四教儀部 (3)集解部 (4)観心部 (5)玄義部 (6)文句部 (7)止観部 (8)御書科の
八課程である。名目部に入学して全課程修了まで、早い者で十三~十五年、普通は二十年
の修学期間を必要とした。」
 (同 P190)

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厳しく長い修行を終えた学僧達は、ここから全国の寺へと旅立って行きました。

かつては、大勢の学僧の研鑽する熱気が充満していたであろう境内には、今はただ冷峻な
空気が静かに流れています。


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                         ※ 「飯高檀林(跡)」  匝瑳市飯高1789


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匝瑳市の寺社 | 08:20:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
伝承によれば2100年の歴史~式内社の「老尾神社」
今回は匝瑳市にある式内社の「老尾神社」です。

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「式内社(しきないしゃ)」とは、延長五年(927)にまとめられた「延喜式(えんぎしき)」の巻九と
巻十の「延喜式神明帳」に記載されている全国2861社の神社のことで、平安時代からの由緒
ある神社です。
「延喜式」は、延喜五年(905)に醍醐天皇によって当時の律、令、格についての施行細則を
記したもので、その完成には22年を要しました。

旧下総国内では、「香取神宮」、「麻賀多神社」、「蘇賀比咩神社」、「寒川神社」と、今回訪問の
「老尾神社」の五座しかありません。
「麻賀多神社」は論社として成田市台方と船形の二社に分かれ、「寒川神社」は千葉市中央区
の「寒川神社」と船橋市の「二宮神社」の二社に分かれます。
(「論社」とは、「比定社」とも呼ばれ、延喜式に記載されている神社と同一か、あるいはその
後裔と推定される神社のことです。)

なお、匝瑳市に隣接する多古町の「六所大神(ろくしょおおかみ)」は、「延喜式」には記載が
ありませんが、「式内社」であると主張しています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック


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参道の入口は県道16号線沿いの、県立匝瑳高校の向い側にあります。
入口の説明板には、江戸時代の「下総名勝図絵」にある、当時の「老尾神社」の様子が紹介
されています。


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社号標は昭和60年に建立されたものです。


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県道から細い山道を登ると、昭和55年に建立された鳥居が見えてきます。


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鳥居をくぐった100メートルほど先に拝殿が見えます。
式内社にしては、拍子抜けするほど質素な感じです。


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参道の左右には、いくつかの祠が間隔を置いて並んでいます。
それぞれの祠は、参道が枝分かれするように数メートルの小道を持っています。


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参道に入って15メートルほど進んだ右手への小道にある二基の祠。
向かって左は年代不詳の「道祖神」、右は社名は不詳ですが、「安永■子九月」と読めます。
安永年間で干支に子があるのは、安永九年(1780)ですから、230年以上前のものです。
「八日市場市史 下巻」(昭和62年)には、「老尾神社」の石造物の一つとして安永九子九月の
「阿夫利神」との記述があります。
他に安永年間の石造物はありませんので、この祠は「阿夫利神」ということになります。


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さらに参道を15メートルほど進んだ右側の小道の先には、「石尊宮」があります。
「大天狗 小天狗」「嘉永元戊申」と読めます。
嘉永元年は西暦1848年になります。


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「石尊宮」の向いの小道に先には「疱瘡神」があります。
「八日市場市史」には、文政十三年(1830)のものと記されています。


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「疱瘡神」の少し先の左へ伸びる小道にある、「■永■子」と読める祠。
「八日市場市史」の記述から、該当するのは嘉永五年(1852)の「道祖神」のようです。


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「享和三癸亥」と読める祠。
享和三年は西暦1803年で、「八日市場市史」によれば「浅間社」のようです。


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「浅間社」の向いの小道にある「天神宮」。
「弘化四未」(1847)と読めます。


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式内社「老尾神社」は、香取神宮の御祭神である「経津主命(ふつぬしのみこと)」の御子神・
「阿佐比古命(あさひこのみこと)」を主祭神として、「磐筒男命(いわづつおのみこと)」・「磐筒
女命(いわづつめのみこと)」・「国常立命(くにのとこたちのみこと)」を配祀しています。

「老尾神社は初め匝瑳之大神と称したが、延喜式には里名をもって老尾神社と記載されている。
崇神天皇の七年、神田を授かり祭祀の則これより定まるという。 正平二四年五月回禄之災に
あい、千葉介平朝臣満胤が再建し現在に至る。 明治六年郷社に列した。」 

(「全国神社名鍳 昭和52年)
崇神天皇の七年とは紀元前91年と推定されますので、実に2100年もの昔になります。
正平二四年は西暦1369年になります。
(「回禄之災」とは、火事にあうこと。 回禄は中国の火の神のこと。)

「祭神は、阿佐比古命・磐筒男命・磐筒女命・國常立命を祀っています。敷地1,200坪の境内には、
本殿(亜鉛板葺)、拝殿(亜鉛板葺)が建ち並んでいます。物部匝瑳連熊猪が、祖先の物部小事
を祖神として祭ったとの、いわれがあります。平安時代の書物「延喜式」に登載された、由緒ある
神社の式内社です。延喜帝のときに香取神宮とともに式内に列せられました。古くから匝瑳市
(旧匝瑳郡)の一座で旧海上郡・旧匝瑳郡の総社であるとの御状を拝したと伝えられています。」
 (千葉県公式觀光物産ガイド「まるごとeちば」より)


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小さな手水舎があります。
手水盤は大正九年(1920)に寄進されたものです。


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神額の文字はほとんど消えて読めませんが、拝殿内部に掲げられている額にははっきりと
「延喜式内 老尾神社」と書かれています。


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拝殿の内部には神輿のような小さなお社と、匝瑳市からの文化財指定書が見えます。


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本殿の鰹木は三本、千木はありません。


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長い年月の風雪に削られて、彫りが浅くなっていますが、細かい彫刻が施されています。


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本殿の左奥に、木造の鳥居(平成21年建立)と「子安宮」があります。
右が昔からある祠で、「子安大明神」と刻まれ、「享和元酉年」と記されています。
享和元年は西暦1801年ですから、約220年前のものです。


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「子安宮」の後方、少し離れた場所に、巨大な木の幹が見えました。
近づいてみると、ご神木の大杉で、匝瑳市の天然記念物に指定されています。


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「御神木大杉は周囲二丈余亭々天を摩し、漁船出入の際目標となり、記念物として指定
されている。」
 (「全国神社名鍳 昭和52年)

地図で見ると、神社から海岸線までは直線距離で約8キロほどあります。
「全国神社名鍳」の刊行は昭和52年(1977)ですから、わずか40年ほど前まで、この大杉が
九十九里の海から見えていたわけです。
昔の漁師達にとっては、この大杉の存在感は絶大なものであったことでしょう。


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大杉から道を挟んだ路地の先に大きな石碑のようなものが見えています。


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近づいて見ると、それは板碑でした。


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匝瑳市の有形文化財に指定されていて、「胎蔵界大日如来」の種子が刻まれています。
資料によれば、文和二年(1353)のものだそうです。

周りは小さな墓地ですが、お寺は見当たりません。
「八日市場市史」には、「老尾神社の造営」の項に、
「同神社の別当は八日市場・見徳寺と生尾・光福寺の二か寺で、「見徳寺文書」に造営の記録
がある。」
 (P361)
と書かれています。
同書の362ページにある「生尾の耕地と集落」と題する地図には、「老尾神社」と道を挟んだ場所
に「光福寺」が記されています。
と、すると、ここは「老尾神社」の別当であった「光福寺」跡なのでしょうか?
ただ、WEBで検索すると「光福寺」は匝瑳市内の別の場所にあります。
その「光福寺」は、市内の飯塚にある歴史あるお寺で、生尾にあったという記録はありません。
現存の「光福寺」とは別の「光福寺」が「老尾神社」の側にあって、この板碑のある場所は、その
「生尾・光福寺」だったのではないでしょうか。


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正平二四年(1369)に社殿が焼失し、その後千葉氏によって再建されたものの、千葉氏の
衰退とともにこの「老尾神社」も衰退していったようです。
式内社としては何とも寂しい社殿と境内の風景ですが、掃き清められた参道と境内を見ると、
地元の人々の崇敬の念に護られて、長い、長い歴史を紡いできたことが感じられます。


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                          式内社・「老尾神社」  匝瑳市生尾75


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匝瑳市の寺社 | 08:13:02 | トラックバック(0) | コメント(2)
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