

さて、この景色は何でしょう?
竜台にある「百庚申」です。
竜台は成田市の西北、栄町と利根川に接する地域で、昭和29年の昭和の大合併で成田市に
編入となるまでは豊住村竜台でした。
昭和43年に茨城県の河内とを結ぶ長豊橋が完成するまでは「竜台の渡し」がありました。

(おはつ稲荷 2016年4月撮影)
百庚申へは、国道408号線が長豊橋に向かって大きくカーブするあたりを左に入るのですが、
入り口は道なのか民家の庭なのか、分かりにくい所です。
でも、ちょっと奥をのぞくと、「おはつ稲荷」が見えます。

「おはつ稲荷」の先を進むと、畑の一角のようなところに、「百庚申」が現われます。
庚申塔には大きく分けて「文字塔」と「青面金剛像塔」があり、「文字塔」には「庚申塔」と刻まれた
ものと「青面金剛」と刻まれたものがあります。
青面金剛像は六臂三眼の忿怒相が標準形ですが、二臂や四臂像もあり、持物にもいろいろな
バリエーションがあります。

ここでは文字塔が大部分で、像塔は15基だけです。
成田市内には百庚申と呼ばれている場所が4ヶ所ありますが(宝田・後、宝田・秋谷津、西和泉、
竜台)、いずれも文字塔のほうが多く見られます(※)。
(※)2016年4月の「成田の百庚申」の記事 クリック ☞ 成田の百庚申

奥の方に非常に珍しい庚申塔があります。

嘉永七年(1854)十月の文字塔ですが、台座部分に「三猿」が彫られています。
しかも、その三猿は、一般的に見られる「見ざる・聞かざる・言わざる」の形ではなく、なんと、
お神楽を踊っているのです。

分かりますか?

いずれも烏帽子をかぶり、右の猿は扇を持ち、真ん中の猿は御幣を担いで舞い、左の猿は太鼓
をたたいて囃しています。
この庚申塔が建立された嘉永七年(1854)は、ペリーが再来して江戸湾に入ったり(2月)、日米
和親条約が結ばれ(3月)、下田・箱館の開港(5月)など、幕府の外交上大きな変革がありました。
4月には京都大火により御所が焼失、また、前年の小田原地震に続き、伊賀・上野地震(6月)が
発生するなど、世の中は暗澹とした雰囲気に包まれていました。 (※)
そんな時に、この庚申塔が建立されたことにはとても興味を惹かれます。
(※) さらに11月には安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震と大地震が連続したため、
11月末に「嘉永」は「安政」へと改元されました。
(当時は改元は1月まで遡って行われていたため、東海・南海地震は安政の地震と呼ばれます)

【三尸の虫を酒肴でもてなし、踊るほど酔わせて天帝に報告させないようにすると、洒落をきか
したものであろうか。この像を眺めていると、当時の農民の心の豊かさを感じることであろう。】
(「成田の史跡散歩」 P148)
不安を吹き飛ばそうとして、このような三猿を彫ったのか、それとも世情とは関係なく、庚申講が
今や宗教行事ではなく、仲間内の単なる「飲み会」になっていることを皮肉たっぷりに表したのか、
あるいは、実は真剣に三尸虫が天帝に告げ口することを封じるために(※)、猿を楽しげに舞い
踊らせることで気をそらそうというのか、・・・ 今になっては知る由もありません。
いずれにしろ、江戸時代の庶民のユーモアのセンスはなかなかのものです。
(※)三尸虫については以前にも何回か記していますので、「追記」に簡単に説明しておきます。


烏帽子をかぶり扇を持って踊る猿


烏帽子をかぶり御幣を担いで踊る猿


烏帽子をかぶり太鼓をたたいて囃す猿

この文字塔の左右には二基の像塔が並んでいます。

向かって右の塔には、「安政六○未十二月」と刻まれています。
安政六年は西暦1859年、中央の庚申塔の5年後に建立されました。
前年(安政五年)には「安政の大獄」翌年の安政七年には「桜田門外の変」と、政治の混迷が
加速し、後に幕末と言われる時代の入口に差しかかっていました。

向かって左の塔には、「大木徳兵衛」「○政六年○未十二月」と刻まれています。
元号の後ろが「政」で六年が未年なのは安政六年(己未)と文政六年(癸未・1823)ですが、
右側の青面金剛像との照合や、ここの百庚申の庚申塔の大部分が安政年間のものである
ことから、安政六年の建立と考えてよいと思われます。

整然と並んだ庚申塔は大小の文字塔と像塔が混在し、文字塔85基、像塔15基の構成です。
(一基だけ、如意輪観音像が紛れ込んでいます)

「青面金剛尊」の文字が深く刻まれたこの庚申塔は寛政十二年(1800)のもので、百基の
中で一番古い、220年前のものです。


この庚申塔が完成したとき、庚申講の人達はどんな顔をしてお神楽を踊る猿を見たのでしょうか。
ニヤリと笑っていたに違いありません。
お神楽を踊る猿の構図を考えた庶民と、それを咎めなかったであろう村役人(?)の、おおらかで
伸びやかな精神は、騒然とした時代の大波を横目に、しぶとく、たくましく生きていたのでしょう。
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今回は気になる”石仏シリーズ”青面金剛編の2回目です。
庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛
像」が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」 (瓜生 中 著 平成16年
幻冬舎)では次のように解説しています。
『 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病
神として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を
身につけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られ
るのは六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになった
のは、中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。』 (P224)
押畑の山中、「押畑稲荷神社」を越えた先の三叉路に、三基の「青面金剛像」が建っています。
普段は人の通らないような道ですが、昔はそれなりに主要な道だったようです。

真っ直ぐに進む道は昔は先まで続いていたようですが、今はすぐに竹林に阻まれてしまいます。
左に折れる道(子安神社が見えています)は、延々と山中に伸びています。

直進する道端に建つ「青面金剛」像。
延宝八年(1680)の建立です。
この年は、四代将軍家綱が亡くなり、綱吉が五代将軍になりました。
延宝五年から六年にかけて、三陸や房総沖などで立て続けに大地震があり、世相は落ち着が
ない空気に包まれていました。
「下総國香取郡埴生庄押畑村惣結願造立迄敬白」と刻まれたこの像は、340年も前のものとは
思えないほど造形がしっかり残っています。

太い眉の迫力ある忿怒相です。

*****

三眼六臂の像は、右(向かって左)上腕は戟を、中腕は剣を、下腕は弓を持ち、左(向かって右)
上腕は法輪、中腕はショケラ、下腕は弓を持っています。

シンプルは彫りですが、三猿もしっかり見えます。

三叉路の角はちょっとした崖になっていて、その上に二基目の青面金剛像が建っています。
目線よりだいぶ上の位置にあり、竹林にも邪魔されて、見過ごしてしまいそうです。

正面には文字らしきものが見当たらないので、子安神社の裏に回ってみました。
足場が悪く、近づくのは危険ですが、側面の「天明■■巳十一月吉日」の文字が読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。
この像が建立された天明五年は、天明の大飢饉の真っ只中でした。
「天明の大飢饉」とは、天明二年から続く天候不順に、同三年の岩木山噴火及び浅間山噴火に
よる大被害が加わり、東北地方を中心に同八年まで続いた近世最大の飢饉です。

何となく優しげで、忿怒相と言うより菩薩相のような顔に見えなくもありません。

三眼六臂で、右(向かって左)上腕には剣を、下腕には弓を、左(向かって右)上腕は法輪、
下腕は金剛杵を持ち、中腕は合掌しています。

足許には踏みつけられた邪鬼が、台座には三猿が刻まれています。


三叉路の入り口左上に三基目の青面金剛が建っています。
「正徳甲午正月吉日」
「奉造立庚申待下総國香取郡埴生庄」
と刻まれています。
正徳年間で干支が甲午となるのは四年ですので、西暦1714年の建立です。
正徳四年は七代将軍家継の治世で、貨幣の改鋳やあらたな発行などが行われました。

頬を膨らませた忿怒相で、ちょっと愛嬌がある顔つきです。

三眼六臂の像で、右(向かって左)上腕には戟を持ち、下腕には剣を持ち、左(向かって右)
上腕には法輪、下腕には弓を持って、中腕は合掌しています。

三猿は他の二基より大きく彫られています。

三基の青面金剛像が見守るこの三叉路は、かつては重要な道だったのでしょう。
今では人通りのない寂しい山道ですが、(地形的にやや無理があるかもしれませんが)旧佐原
街道のような気もしますし、あるいはその支道なのかもしれません。
ここから左にしばらく進んだ先には小さな祠の「白幡神社」があります。


「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。
大正三年の八生村誌には次のような記述があります。
〔押畑元押旗ニ作ル源頼義奥州征討ノ際、此地ニ次シ、旗ヲ押シ立シヨリ因ミテ押畑ト云フ由。
同地廣臺ニ白幡神社アリ、其跡ナリト云ヒ傳フ。〕
また、「千葉縣印旛郡誌」にも、
〔・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・〕
との記述があることから、「白幡神社」は現在の姿はともかく、押畑地区のランドマーク的な存在
であったことでしょう。
その「白幡神社」へと続くこの道もまた、重要な道であったはずです。
三基とも六臂像なのですが、持物は少しずつ異なり、同じ物でも持つ手が異なっています。

***

******

今から340年前の延宝八年の青面金剛、その34年後(306年前)の正徳四年の青面金剛、
そして105年後(235年前)の天明五年の青面金剛。
三基の金剛像は、その昔交通の要所であった三叉路を、今も見守っています。
****

【「仁王さま」として親しまれている金剛力士像は、釈迦如来の「倶生神」(守るべき相手と同時に
生まれ、生涯を捧げ守護する使命を持つ者)である。梵名の「ヴァジュラダラ(阿形)」と「ヴァジュ
ラバニ(吽形)」は金剛杵を手にする者という意味で、「常に釈迦如来の周囲で金剛杵をとる」
仏法守護神とされる。】 (「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・
望月真澄/監修 2016年 宝島社 P147)
【金剛は「金剛杵」の意。あらゆるものを破壊する強力な武器で、金剛力士はこの武器を手に、
仏や信者を敵から護る、忿怒相の夜叉神です。日本では、上半身裸で筋骨隆々とし、血管が
誇張され、忿怒相の躍動感あふれる姿に表すのが主流となっています。敵を退散させる意味で
山門などに二一組で造像される金剛力士は、二つの王の意で仁王とよばれ・・・】
(「仏像の事典」 熊田由美子/監修 2014年 成美堂出版 P73)

旧本大須賀村の一坪田(ひとつぼた)に、廃寺となった田中山宝蔵院があります。
現在観音堂として残るお堂への登り口に、二基の丸彫りの仁王像が立っています。


めずらしい石造の仁王像です。



(2014年10月撮影)
この仁王像に出会ったのはいまから5年前、偶然通りかかった道端でした。
これまでは、仁王門の格子や金網の中に立つ仁王像ばかり見てきたので、最初はずんぐり
した地蔵菩薩像かと思いました。
近づいてみると、それは初めて見る石造の仁王像でした。



【一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。】
(「成田の地名と歴史」 P365)
寛保三年は徳川吉宗の治世で、歴史上六番目の明るさと言われる「クリンケンベルグ彗星」
が現われた年です。
この彗星は、香取神宮の旧社家である、大禰宜家に伝わる「香取大禰宜家日記」にも記述が
あり、流言飛語が飛び交う不穏な空気の漂う中、二体の仁王像はこの地に建立されたのです。


左手に金剛杵を持って、口を開いている「阿形」は、諸法や物事の始りを示しています。


左手は拳を握り右手を開いて、口を閉じている「吽形」は、諸法や物事の終わりを示します。





.阿形の仁王像の背面には、次のような文字が刻まれています。
當村施主北崎氏甚右衛門
戒名即翁須達沙弥
奉建立田中山阿吽両躰
法師智元
寛保三癸亥正月廿三日
また、吽形の背面には多くの戒名が刻まれています。
(一部の文字については自信がなかったので、「大栄町の歴史散歩」(久保木良 著 1994年
崙書房 P58~59)に助けを借りました。)

宝蔵院に関する記録は少なく、「大栄町史」の中でも旧昭栄村域の寺院として、簡単な記述が
あるだけです。
【 宝蔵院 新義真言宗。 一坪田村に所在。 山号は田中山(史話)。 「新義十五」に稲荷山村
大聖寺の門徒寺として載せられている。 元文二年の香奠帳(史料編Ⅲ)に名が見えている。】
元文二年(1737)の香奠帳とは、「元文二年閏十一月 津富浦村実岩良相香奠帳」のことで、
その中に「弐百文 一坪田宝蔵院」と出ています。

丸彫りのずんぐりした体型と、忿怒相でありながらことなく表情に愛嬌のあるこの仁王さまは、
約280年もの間「田中山」を護ってきました。
もう寺は廃寺となってしまいましたが、わずかに残った「観音堂」をこれからも守り続けるでしょう。
さて、「成田の地名と歴史」に”石造の二王さまは県内では3例しかない”と書かれていました
ので、他の2例についても見てみましょう。
九十九里町粟生の善福寺にも石造仁王像があります。
若尾山善福寺は寛永二年(1625)の創建と伝えられる顕本法華宗のお寺。
「山武郡郷土誌」(大正五年 千葉縣山武郡教育會)に、豊海村にある善福寺についての記述が
一行だけありました。
【若尾山善福寺 粟生區にあり、顕本法華宗に屬せり。】
本堂の前に二体の立派な石造仁王像が立っています。

説明板には次のように書かれています。
【 石造金剛力士像阿吽一対
この金剛力士像は、宝暦一〇年(一七六〇)江戸松屋町の石工上総屋二兵衛の作である。
古文書によれば、宝暦六年、粟生の表飯高十兵衛が蓮沼宮免の収益金を資とし、不足金
八両を助力して造立したが、十兵衛とのみ刻して第六天社に奉納したため、村内から苦情
が出、台座の文字を「惣氏子 助力願主飯高氏」と刻みなおして決着したという。金剛力士像
は寺門の左右を警護することから、後に別当の善福寺に移され、近年の寺堂改修際、現在
の位置に安置されたものである。】


(阿 形)


(吽 形)
阿吽両像の台座には、次のような文字が刻まれています。
前面に、「宝暦十歳庚辰改」「惣氏子」
側面に、「助力願主飯高氏」





一坪田の仁王さまと比べると、筋骨隆々の忿怒形という標準型の仁王さまです。
そしてもう一つの石造仁王像が旭市にあります。
( ※ 私はこの旭市の石造仁王像が一坪田・九十九里に続く3例目だと思っていましたが、
3例目は上総勝浦の長秀寺にあるとの記述を目にしました。 いつか機会があれば訪ねて
みたいと思います。)

旭市の「成田山真福寺」にある石造仁王像は、不動明王を護るように立っています。


(阿 形)


(吽 形)


「旭町史 第2巻」(旭市史編さん委員会 1973年)に収録されている成田村の項に、真福寺に
ついての記述があります。
【 真福寺 字田町にある。摩尼山と号し、新義真言宗智山派。銚子市本銚子町(旧飯沼村)
円福寺末。寺伝によると、千葉氏一族の海上理慶が檀越である。理慶は成田に城塁を築き、
軍中の守本尊として聖観音を尊び、応永二年(一三九五)堂宇を造立して、理慶が日頃帰依
していた貞範を開基としたのが寺の草創であるという。文明年間(一四六九ー八七)兵火に
罹ったともいわれている。慶安二年(一六四九)十月朱印地一〇石を賜った。もと境内の東南
小塚の上に、海上公胤(理慶)の墓があったが、のち滅失したという。】 (P118)





建立の日付らしき文字がうっすらと見えますが、風化で読み取ることはできません。
宝蔵院や善福寺の仁王像のような丸彫りではない分、やや迫力に欠けますが、忿怒の表情や
力一杯開いた手の形は、仏法を守護する神としての姿を十分に現しています。






ふつう、木造の仁王さまは仁王門の中に立っています。
屋根があるとはいえ、風雨に晒される環境ですから、どうしても傷みが進みますが、その点、
石造りの仁王さまは長持ちがします。
細かい細工や彩色には向きませんが、大分県の国東半島のように、もっとたくさん造立例が
あってもよさそうな気がします。
「仁王」は、もとはインドの執金剛神(しつこんごうしん)という一体の神でしたが、インドから
中国を経て日本に伝えられる中で、二体となって「仁王」と呼ばれるようになりました。
日本語の五十音はサンスクリット語のアルファベットから生まれたと言われています。
仁王の「阿」は、サンスクリット語でも「ア」で、、「吽」は「ン」です。
「仁王さま」は恐い顔で立っているだけではありません。
私たちの日常に深く関わる存在なのですね。
今回は「気になる石仏・石神・石造物シリーズ」から、造立例が非常に少ない「愛染明王」の
石像を紹介します。
【愛染明王は、もともとは煩悩(愛欲や欲望、執着)を悟りに変えて、菩提心(悟りの境地)
にまで導いてくれる力を持つ仏尊。すなわち、愛欲と、その裏返しの怨憎の両方を整え、
人々の心を安らかにしてくれる仏尊である。】
(「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・望月真澄 監修 P137)
【 忿怒形で、体の色は真紅、一面三目六臂が一般的である。 頭上に獅子頭のついた獅子冠を
載いているのが特徴で、獅子の頭からは天帯という長い紐が左右の耳の後ろを通って、膝の
あたりまで垂れている。 左手には金剛鈴、弓を持ち、いちばん後ろの手は拳を握って上に挙げ
ている。 右手には五鈷杵、矢、蓮華を持っている。 拳を握った左手には、われわれが求める
ものは何でも掴んでいるという意味が込められている。宝甁という大きな壺の上の蓮華座に
座る坐像のみで、立像は見られない。 赤い日輪を光背とする。】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 P146)

愛染明王像は作例が少なく、特に石像はほとんど見かけることがありません。
私の知る限りでは、成田市・奈土と印西市・松虫の二基があるのみです。


この愛染明王像は、奈土にある「紫雲山昌福寺」の墓地の一角に佇んでいます。
「昌福寺」は天台宗のお寺で、開山は不詳ですが、いろいろな史料から、少なくとも450年以上
の歴史を有すると推定される名刹です。
「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
【奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。】 (P276~277)
(昌福寺について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)

紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
【なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。】
とありますので、この像は、明和七年(1770)の造立、250年前のものであると思われます。
【愛欲の存在をそのまま認めて、悟りまで導く功徳を持つ明王である。特に男女の愛の悩みを
救うと信じられた。また、愛染という言葉から染色業の守り本尊になったりもする。町内では
一基のみが確認された。奈土の東光寺跡にあったもので、造立年代は不明であるが、三眼
六臂で日輪を表わす円光背を背負い、獅子冠を戴き、宝瓶の蓮華に結跏趺坐をしている。】
(「大永町史 民俗編」 P196)
廃寺となった東光寺については、「大栄町史 通史編中巻」に、次のような記述を見つけました。
【 東光寺 天台宗。奈土村字仲台に所在。本尊は阿弥陀如来(『県寺明細』)。天明六年前後
の天台宗寺院名前帳には、東叡山末(寛永寺末)として「一律院天幢山東光寺」等と載せられて
いる。 『県寺明細』には浄名院(台東区)末と記されているが、同院は寛永寺の子院である。
当寺の成立については明確な史料があり、元文五年(一七四〇)に山門(比叡山)の安楽律院
の末として、正式に寺院として認められた(『史料編Ⅳ』〔九七〕。同史料によれば当寺は廃寺で
あったのを、金岡氏で善楽沙弥と称した人物が再興したものという。 (中略) なお、その少し前
の文政九年(一八二六)に当寺は類焼で焼失したとある(『史料編Ⅲ』〔二五八〕。さらに『郡誌』
によれば、明治二年にも火災で諸堂のことごとくを焼失したという。その後昭和二十七年に至り、
栃木県日光市の日光山興雲律院に合併し、寺院としての役目を終えた。】 (P561)
また、「千葉縣香取郡誌」には、
【 同所字仲臺に在り域内五百三十一坪天台宗にして阿彌陀佛を本尊とす寺傳に曰く享保
十一年亦亦金岡貞愛の創建する所にして仝空開基たり天保元年火災〇罹り八年之を再建す
往時は其構造頗る宏麗なりしが明治二年再び祝融の變に遭ひ本堂庫裏舎利堂悉く燒失せり
・・・ 】 (P432 祝融とは、中国の神話に出てくる火の神)
記録にあるだけでも、文政九年(1826)、天保元年(1831)、明治二年(1869)と、たびたび
火災に見舞われた(43年間に3度も!)不運なお寺です。
なお、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史民俗編」の196ページに掲載されています。

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。
成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけのようです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一印西市松虫の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。(今回、「印旛村史」に、平賀にもう一体あるこという
記述を見つけました。折を見て探したいと思います。)
もう一体の「愛染明王」像は、印西市の松虫寺に隣接する「松虫姫神社」境内にあります。

(松虫姫神社の愛染明王像)
宝甁の上に座ってはいませんが、台座には「女人講中八(?)人」と刻まれ、石仏の側面には
「嘉永元申年八月吉日」と記されています。
嘉永元年は西暦1848年ですから、170年前のものです。



(2014年11月 撮影)
「松虫姫神社」については、「印旛村史 通史1」(印旛村史編纂委員会編 1984年)に次の
ように記されています。
【松虫の松虫寺境内にある神社で、同寺の開基にかかわる聖武天皇の皇女松虫姫を祭神と
している。松虫姫が都で蚕を飼っていたという伝承から、同神社は蚕の神様として信仰を集め、
四月と八月の十五日の祭礼には、印旛郡内はもとより茨城県などから養蚕を行う人々が講社
を結成にて参拝に訪れ、境内にも露店が出るほど賑わった。しかし、養蚕業の衰退とともに
次第に参詣人も減少した。】 (P823)

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左上の手は拳を握って突き上げ、中の手には弓を持ち、前の手には金剛令を持っています。
右上の手には蓮華を、中の手には矢を、そして前の手には五鈷杵を持っています。
頭上に獅子頭の付いた獅子冠を戴き、額には第三の眼があります。
(松虫神社について詳しくは http://narita-kaze.jp/blog-entry-100.html ☜ こちらをクリック)

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170年前の松虫姫神社の石像に比べて、250年前の奈土の石像は、長い風雪に耐えてきたに
しては驚くほど風化がなく、忿怒の形相はもとより、獅子頭やそれぞれの手に持つ金剛鈴や
金剛杵、弓矢などもはっきり見分けることができます。


多くの墓石に囲まれてひっそりと佇むこの石仏は、注意して見ないと見落としてしまいそうです。
「愛染明王像」といえば、成田山外周路の「馬頭観音像」が「愛染明王像」だとされていることに
も触れなければなりません。
ご覧の通り、よく見ればこの石仏の頭上にあるのは「馬頭」であって「獅子頭」には見えません。
獅子か馬の頭を戴き、三目で六臂であることなど、像容が似ているため、間違えられることが
多いのかも知れません。

成田山の馬頭観音

(この石像の詳細は http://narita-kaze.jp/blog-entry-275.html ☜ こちらをクリック)


愛染明王が祀られている成田山の光明堂などは、縁結びの祈願に訪れる人が大勢いますが、
意外とこの明王の像容を知る人は少ないように思います。
馬頭観音と間違えられている愛染明王があるかも知れません。
まだ、人知れず佇んでいる愛染明王がどこかにいるかも知れません。
「醫王殿」は成田山新勝寺の一番新しい堂宇です。

【 2017(平成29)年に開基1080年祭記念事業として建立。木造総檜、一重宝形造の御堂
には薬師瑠璃光如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が奉安されています。健康長寿と病気
平癒の祈祷所です。】 (成田山新勝寺ホームページ)

派手さはありませんが、装飾もしっかりと施されています。

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唐破風棟鬼飾りには輪宝がはめ込まれています。
なかなか迫力のある鬼瓦です。

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一つ一つに寺紋の「葉牡丹」が焼き込まれています。

【平成二十九年(二〇一七)開基一〇八〇年祭記念事業として建立。御本尊薬師瑠璃光如来
は、大醫王如来とも称され、古来、病を癒やし苦痛を取り除き、寿命を延ばす功徳がある。
健康長寿、息災延命の仏様として信仰される。 脇侍の日光菩薩は太陽のような光明を放ち
心の闇を取り除き、月光菩薩は、月のような穏やかな慈悲の心で煩悩を鎮めて下さり、眷属
の十二神将は、十二の方位を守り干支の守護神として信仰される。】
台の坂上の「薬師堂」におられた「薬師如来」がこちらに移られ、「平和大塔」に置かれていた
十二神将像も眷属として移されて祀られています。

(台の坂上の「薬師堂」 2014年3月撮影)


(2015年12月)
この「薬師堂」は明暦元年(1655)に建立された当時の本堂で、「明暦の本堂」ともよばれます。
元禄の本堂(現在の光明堂)、安政の本堂(現在の釈迦堂)と本堂が新しく造られる度に移転を
繰り返し、現在の場所へ。
現存する成田山新勝寺最古の本堂です。


「醫王殿」のすぐ隣にある「平和大塔」。
十二神将像は醫王殿に移される前はここに祀られていました。
成田市内の広い範囲から見えるこの塔は、昭和59年(1984)に建立され、境内では3番目に
新しい堂宇です(2番目は「聖徳太子堂・平成4年)。


醫王殿の裏には一本の白木蓮が植えられています。
樹齢100年、樹高7メートルで、東京・小石川植物園、明治神宮外苑の樹とともに、「白木蓮の
三銘木」と言われています。
毎年3月には美しい純白の花を開きます。


「醫王」とは、「薬師如来」の異称です。
「薬師如来」は東方の瑠璃光浄土の教主で、病苦に苦しむ人々を瑠璃光で照らして救います。
現世利益をもたらす「薬師如来」は、西方極楽浄土の来世利益を説く「阿弥陀如来」とともに
多くの人々の信仰を集めています。

手水場はシンプルでガッシリした造りです。

「光明堂」から「醫王殿」へ向かう途中にある弘法大師像。

以前はうぐいす亭前の外周路から「醫王殿」の前に入れたのですが、最近になって外周路が
石塀で囲まれてしまい、額堂の前からしか入れなくなりました。
「額堂」から見ても、「光明堂」と「平和大塔」しか見えないため、私のような足の悪い者には
残念ながらとても遠い感じがしてしまいます。

(2018年2月)

(2019年11月)


白く輝いていた総檜の真新しい堂宇は、2年が経って落ち着いた色になってきました。
境内で一番古い光明堂と鐘楼(元禄十四年)から、317年後に建立された「醫王殿」が、
柱や壁に時代の色を染み込ませて、お参りする人々に悠久の時の流れを感じさせるには、
あと300年も必要なのです。
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