大清水の星神社は、延喜年間に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されましたが、空港事業の
関係で平成5年にこの地(成田市大清水209-11)に遷座されました。


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現在地への遷座前には、駒井野613番地に天御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)を御祭神
とし、本殿・石宮・拝殿六坪、境内一四三坪、氏子六〇戸を擁する神社として記録されています。
「天御中主之命」については、「日本古代神祇事典」(平成12年)に次のように紹介されています。
【 古事記では序文の末尾と本文冒頭に記された神。冒頭部分は「天地のはじめの時、高天原に
成りませる神の名は、天之御中主神、次に高音産栄日神、次に・・・」と書き出されている天地初現
の神である。】 (P69)
社殿の裏に大小18基の石造物が並んでいます。



この石造物群の中に、以前から気になっていた石仏(青面金剛)が3基ありますので紹介します。

天保十四年(1843)の青面金剛像

宝暦八年(1758)の青面金剛像

享保十九年(1734)の青面金剛像
① 天保十四年(1843)の青面金剛像

左側面に、「天保十四卯年 六月吉日」と刻まれています。
天保十四年は西暦1843年、約180年前の建立です。
第十二代将軍德川家慶が老中水野忠邦を重用して行ってきた「天保の改革」が、旗本領を幕府
直轄領へ編入する政策の失敗をきっかけに失速し、幕政の迷走が目立ちはじめたころです。

三眼六臂の立像で、左上腕には法輪、中腕には弓、下腕にはショケラ、右上腕には錫杖、中腕
には剣、下腕には三叉戟を持っています。

怒髪の中にドクロがありますが、風化のため何やらかわいらしい表情になっています。


この青面金剛像にはちょっと変った特徴が見られます。
何だか分かりますか?
そう、心なしか俯いているように見えるのです。
そして、本来憤怒相であるべきお顔が、微笑んでいるように見えるのです。

光線の加減にもよるのですが、俯き加減に微笑んでいるように見えませんか?
これまでたくさんの青面金剛像を見てきましたが、これほど柔らかい表情の像はありません。

ショケラは合掌しています

足下には踏みつけられた鬼

三猿は風化が進んでいます

② 宝暦八年(1758)の青面金剛像

天保十四年の金剛像の隣に立っているこの金剛像は二つに折られて、顔を削られています。
おそらく明治初期の廃仏毀釈によって受けた損傷でしょう。
宝暦八年は西暦1758年、約260年前の建立です。
この時の将軍は第八代德川家重です。
病気による言語不明瞭だったため評価の低い将軍でしたが、大岡忠光や田沼意次などを重用
し、彼らを通して堅実な政治を行ったとの評価もあります。


「宝暦八寅天 三月吉日」の文字が読めます。
260年以上前の建立にしては隣の天保十四年の金剛像に比べて風化は進んでいません。
材質の問題でしょうか?
体の正面で合掌し、左上腕に法輪、下腕に弓、右上腕に剣、下腕に矢と三叉を握っています。
台座には「駒井野村講中」と刻まれています。
この金剛像建立の時代の駒井野村は佐倉藩に属していました。
明治二十二年(1889)の町村制施行により下埴生郡遠山村駒井野となり、明治三十年(1897)
に印旛郡遠山村駒井野、昭和29年(1954)の昭和の大合併で成田市に編入されました。


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ノミでも使ったのでしょうか、顔の部分がザックリと削られています。
顎の下、まるで首をはねるように、二つに折られています。
成田近郊での廃仏毀釈運動はさほど激しいものではなかったようですが、この青面金剛像の
破壊者には仏教に対する強い憎悪があったのでしょうか。
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よく見ると、金剛の左右には向い合った鳥が描かれています。
一見、鳩のように見えますが、これは鶏(ニワトリ)で、徹夜で行われる講の終了を告げる鳴き声
を象徴して刻まれることがあります。
また、「申」が明けた翌日は「酉(トリ)」であることを表しているとも言われています。
③ 享保十九年(1734)の青面金剛像

この金剛像は珍しい四臂像です。
中央で合掌し、右上腕に戟を持っています。
左上腕が何を持っていたのかはわかりません。
掌を開いているように見えますが、風化のためか持ち物が見えません。

三猿はしっかり見えています。


憤怒相ですが、丸顔の愛嬌のあるお顔です。
口を少し開けて、歯が見えているようです。
牙が見える石仏は珍しくもありませんが、普通に歯並びが見える石仏は見た記憶がありません。

四臂の青面金剛像は珍しく、私の記憶では野毛平の東陽寺跡に立っている二基のうちの一基
のみです(まだ見つけていない像があるとは思いますが)。

(野毛平・東陽寺跡の四臂青面金剛像 2015年5月撮影)
この像は四臂像で、左手上腕に月輪、下腕に錫杖を持ち、右手上腕に金剛杵を、下腕に
羂索を持っています。

刻まれている文字は、向かって右側に「●庚申待信心本願三十三人」「●結衆二十人」、左側に
「●享保十九甲寅三月」と読めます。
「結衆」の部分は「繕衆」または「結兵」とも読めるような気がしますが、ここは仏教的な意味で「ある
ことを目的とした集まり」である「結衆」だと思います。
庚申講のメンバーが33名、そのまわりに20人の同調者がいたと想像してみました。

享保十九年は西暦1734年、約290年前の建立です。
将軍は第八代德川吉宗。 享保の改革と呼ばれる諸改革を行い、特に幕府の財政再建を実現
させた名君です。


約1100年前の延喜年間(901~923)に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されたこの神社の
本殿には、千葉氏の家紋である「九曜紋」が掲げられています。

空港事業のために移転する前の駒井野には二つの星神社がありました。
昭和62年に発行された「千葉県神社名鑑」には、
星神社 駒井野88 <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
本殿 1坪 境内 100坪 <氏子> 60戸
星神社 駒井野613 <祭神>天御中主之命(アメノミナカヌシノミコト)
本殿・石宮・拝殿 6坪 境内 143坪 <氏子) 60戸
と記載されています。
また、大正2年に発行された「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、
星神社 駒井野村字高芝 間口一尺五寸 奥行一尺二寸
境内 一二〇坪 氏子 五〇戸
星神社 駒井野村字舘曲輪 間口五尺五寸 奥行四尺
境内 一四〇坪 氏子 五〇戸
と記載されています。
両社とも、現在のさくらの山公園とビューホテル、空港通りに囲まれたあたりにありました。
駒井野613(舘曲輪)の移転とともに駒井野88(高芝)も現在地に合祀されたものと思われます。
本殿裏の石造物群は、その時に両社の境内や近隣の路端などから集めたのでしょう。
今回とりあげた3基の青面金剛像は、一見何の変哲も無いありふれた金剛像に見えますが、
よく見るとなかなか興味深い、個性的な金剛像でした。


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以前にも何回か解説をしてきましたが、あらためて庚申信仰についておさらいをします。
青面金剛は「庚申塔」に刻まれます。
青面金剛は、中国の道教思想と日本の民間信仰である庚申信仰の融合によって生まれた尊格
で、庚申講の本尊とされ、三尸(さんし)を押さえる存在とされています。
「足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ
(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。 頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に
巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。 彩色される時は、
その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係しているとされる。」
(ウィキペディア 青面金剛)
人間の体内には、三尸(さんし)という三匹の虫が棲すすみついていて、庚申(かのえさる)の日
に寝ている宿主の体内から抜け出して、天帝にその人の悪行を言いつけるとされています。
天帝は悪行を聞くと、罰として寿命を縮めてしまうので、庚申の夜は眠らずに酒食をとりながら
過ごして、三尸虫が体内から出ることができないようにするのがよい、とされています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願い、天帝にご注進をする機会を
狙っています。
台座に三猿を刻むのは、庚申の申(さる)からきたものといわれ、三尸虫の告げ口を封じる意味
で、もし悪行を見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって天帝に伝えないでもらいたいと
いう願いが込められています。
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(左から下尸、中尸、上尸) (ウィキペディア)
上尸(じょうし)は頭部に、中尸(ちゅうし)は腹部に、下尸(げし)は足に棲んでいます。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、「庚申講」を三年(十八回)続けると
「庚申塔」を建てることができます。
「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。
眠らないように酒を飲み、歌い踊る庚申講の集会は、徐々に宗教的行事から離れた娯楽の
側面を強くしてきました。
月待講にも共通した傾向がみられますが、日常生活の苦しみから解放されたい庶民の数少ない
楽しみだったのでしょう。
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( 星神社 成田市大清水209-11 )
地元の寺社は普段から人影の無い所が多いのでこの所のコロナ禍にあってもほとんど心配無用なのが時代の皮肉に思えてしまいます(笑)
地元の寺社は普段から人影の無い所が多いのでこの所のコロナ禍にあってもほとんど心配無用なのが時代の皮肉に思えてしまいます(笑)
コメント、ありがとうございます。
このところ、足の具合が悪く、車でソバまで行ける取材対象に偏っています。
でも、以前何気なく見ていた石仏や石造物をあらためて眺めると新しい発見が
あるものですね。 これからもよろしくお願いします。
静岡県東部に星山と言う場所に倭文神社というのがあって、古事記にも出てきますが、朝廷に倭文織りの布を納めていたと言われています。
富士川のあたりに多生部という倭文織りの部族がいて、これが大陸から渡来した泰氏に滅ぼされたという伝説があります。倭文は麻、秦氏が持ってきた技術が絹で、静岡市がちょうどその分岐点になります。静岡市の背後の岡に倭文織りの人たちが住んでいたので、明治の初め県名を「倭ケ岡」にしようとしたそうですが、「倭」は賤しいと言う意味なので「静」にしたそうです。
コメントを興味深く読ませていただきました。
富士宮の「倭文神社」については初めて知りましたが、とても好奇心をそそられる神社ですね。
ただ、残念ながら成田の「星神社」との関連はなさそうです。 星神社はもともと千葉県内に多くみられる「妙見宮」とよばれた神仏習合のお宮でした。 妙見宮とは北斗七星を神格した「妙見菩薩」を祀るもので、地元の豪族・千葉氏が深く信仰して、各地に建立しました。 一方、「天之御中主神」も北斗七星の神とされていたことから、両者が習合して「妙見宮」または「妙見神社」となっていたのですが、明治新政府による「神仏分離令」によって妙見宮・妙見神社の解体が行われ、その多くは「天之御中主神」を祭神とする神社となりました。 この「星神社」もその一つです。
成田には織物に関連する神社としては式内社の「麻賀多神社(まがたじんじゃ)」があります。ご興味があれば、http://narita-kaze.jp/blog-entry-65.html(珍しい名前の麻賀多神社)、http://narita-kaze.jp/blog-entry-67.html(船形の麻賀多神社奥宮)」をご覧下さい。
更新、楽しみにしています!
手術の失敗は足の痛みや痺れ以上に気持ちを萎えさせています。杖なしでは歩くことができず、石仏
を前に両手でカメラを構えることもできません。昨年末から少しずつ取材を進めている小さな神社が
あるのですが、図書館の階段がきつく、資料調べが思うようにできません。でも、がんばって4月中
にはアップしようと思っています。
ありがとうございます。 あまりにも長いブランクで、撮った写真とメモがうまく
組み合わなくなってしまいました。 もう一度訪ねてチェックをしなくてはなり
ませんが、なかなか気力が湧いてきません。 このままでは朽ち果ててしまいそう
なので、梅雨の合間を見て再訪問するつもりです。