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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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成田街道を往く(4)~成田駅前から表参道を通り、山門へ
成田街道ー243
成田街道ー244

「成田街道」は一本松通りから表参道に入ります。
「歌舞伎役者の像」が駅から成田山に向かう参詣客を迎えます。


成田街道ー245
成田街道ー124
*********** 成田街道ー125
成田街道ー126

街道の左側のJR成田駅前は大きく変貌しています。
成田市の「JR成田駅東口第二種市街地再開発事業」によって誕生した共同住宅や商業施設・
公益施設等の複合ビル、「スカイタウン成田」が今年の春に完成し、今は駅前広場の整備が
急ピッチで進められています。

駅前の「不動の椎」はどうやら無事に生き延びたようです。
昨年4月にはこの「不動の椎」の運命を心配した記事を書いたのですが・・・。
以下、その時の記事の引用です。
*************************************************************************


駅舎を出て京成成田駅に向かう通路(現在は工事中で通行止め)の脇に不動明王
の分身と伝わる「不動の椎」が立っています。
樹齢700年の老大木ですが、今は工事現場のフェンスに囲まれて根元は隠れて
しまっています。
まさか切り倒されるようなことはないと思いますが、ダンプが出入りし、重機がうなる
中で、どんなに住み辛く思っていることでしょう。
工事が終わってフェンスが外された時には高層ビルが立ちふさがり、日当たりが
めっきり悪くなるだろうと心配です。
開発は必要でしょうが、どうか、自然に優しい開発であって欲しいと願うばかりです。

************************************************************************

成田街道ー127

右側に見える京成成田駅前は、相変わらずの景色です。
現在は駅構内での耐震工事やエレベーター・エスカレーター等の設置工事が行われています。


成田街道ー241
*********** 成田街道ー239
成田街道ー240

JR成田駅前、駅前交番の後ろに「権現山」と呼ばれる一角があります。
この一帯は鉄道が通るまでは鬱蒼とした森で、「不動の椎」もその中の一本でした。
この森の中に「湯殿権現神社」があったので、一帯を「権現山」と呼ぶようになったようです。


成田街道ー249
成田街道ー250

通りは門前町らしい店構えが多くなってきました。


成田街道ー246

まだ新しい蔵造り風の建物があります。
これはなんと!銀行なのです。


成田街道ー248
成田街道ー132
成田街道-205
成田街道ー247

歌舞伎とのつながりが強い成田らしい看板も目につきます。


成田街道ー254

江戸時代から続く地元の酒蔵、長命泉です。


成田街道ー258

昔の道は曲りも厳しいですね。


成田街道ー214

平日の夕方でも、参道の人通りは途切れることがありません。


成田街道ー257
成田街道ー253
成田街道ー297

沿道の両脇には干支の石像が一定間隔で並んでいます。


成田街道ー216

こちらは来年の干支の申です。


成田街道ー264

参道に並んでいる建物は、新しくなっても、極力昔ながらの雰囲気を守る造りにしています。


成田街道ー265

米屋総本店。
成田を代表する和菓子の製造・販売の会社で、明治三十二年(1899)の創業です。


成田街道ー215

米屋の前にはなぜか干支には無い亀がいます。


成田街道ー261
成田街道ー262
成田街道ー263

店の裏側には工場があり、その敷地の一角に「お不動様旧跡庭園」があります。

前回立寄った「不動塚」付近にあった当初の「新勝寺」は、長引く戦乱等のため荒れ果てて
しまい、見かねた名主たちが相談した結果、成田村の諸岡三郎左衛門が不動像を自分の
敷地内に遷座して、井戸水をお供えして大切にお祀りしたのがこの場所です。
諸岡三郎左衛門は、米屋の創業者の遠縁にあたります。

 
成田街道ー260  羊羹博物館もあります


成田街道ー266

江戸時代から続く「後藤だんご屋」。


成田街道ー281

やがて街道は三叉路となり、右は「台の坂」と呼ばれる参道のメインストリートとなり、左は
西参道となって、三宮埴生神社を経て郷部へと向かいます。
この三叉路に面して「薬師堂」があります。
明暦元年(1655)の建立で、もともとは新勝寺の本堂でした。


成田街道ー282
成田街道ー284

新勝寺の本堂はこれまでに三度建て直され、それぞれ建て直された年号から元禄の本堂
(現・光明堂)、安政の本堂(現・釈迦堂)と呼ばれ、この薬師堂は明暦の本堂と呼ばれました。
この薬師堂(旧本堂)には、水戸光圀公や初代市川団十郎も参拝したと言われています。

新たに本堂が建設される度に移設が繰り返され、今では境内からは離れた場所にあります
が、近年何度か整備が行われて、狭いながらもきれいな境内になっています。
石灯篭は文政二年(1819)、手水盤は宝暦十二年(1762)に寄進されたものです。

成田街道ー283

「薬師堂」の境内から台の坂を見ています。
遠くに成田山が見えています。


成田街道ー267

薬師堂の石垣の下にある「成田町道路元標」。
大正八年(1919)に設置されたもので、成田から各地への距離を計測するときの起点
としたものです。

大正元年(1912)の「成田町誌」に、この薬師堂からの道路の状況が書かれています。
「縣道は成田町の殆ど中心点たる成田區横町の薬師堂前より各方面に通ず。即ち南する
ものは成田區の上町花崎町等を経て佐倉に至り、北するものは土屋區の境に至りて二つ
に分れ、一方は郷部區より八生村を経て安食町に至るべく、一方は土屋區を横ぎりて
八生村に入り滑川佐原方面に至るべし。又東するものは成田區の中の町、本町、田町
を経て寺台區に出て、遠山村を経多古方面に通ず。」


ここが、今回歩いてきた成田街道のほか、松崎街道、佐原街道、三里塚街道などに通じる
交通の要だったことが分かります。


成田街道ー269

薬師堂の前の小公園に立つ、成田出身の俳人、「三橋鷹女(みはし たかじょ)」の像。
成田高等女学校を出た鷹女は若山牧水や与謝野晶子に師事した女流俳人で、
夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり
鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし 愛は 奪うべし
等の激しい句で知られています。


成田街道ー279
成田街道ー271

台の坂は右に左に曲がりながら下って行きます。
成田山がだんだん近くに見えてきます。
時々雨がパラつき始めました。


成田街道ー273
観光館ー21
観光館ー22

「成田観光館」には昔の成田の資料が展示されています。

目で見る昔の成田~成田観光館 ☜ ここをクリックしてください。

 
表参道ー3
  昨年6月に撮影  表参道ー38
************* 表参道ー2

三芳屋の手前の目立たない細い路地の奥には、しゃれた甘味処があります。
両側のお店のひさしの間を抜けて入って行くような感じで、ついつい見過ごしてしまいます。
あまり知られていない店なので、ちょっとした隠れ家のような雰囲気です。


成田街道ー272
成田街道ー278

うなぎで有名な「川豊本店」です。
店先でうなぎをさばき、おいしそうな匂いの煙を参道に流しながら焼いています。
休日には行列が絶えない名店です。
大正6年に建てられた店は、かつては旅館だったものだそうです。


成田街道ー274
成田街道ー226

いろんなお店がありますが、漬物屋さん、うなぎ屋さん、薬屋さんが目立ちます。


成田街道ー293

老舗の「大野屋旅館」。
木造三階建てで、上部に望楼が付いているユニークな外見の建て物は、平成17年に国の
有形文化財に指定されました。
「大野屋」の創業は江戸中期ですが、この建物は昭和10年に建てられたものです。


成田街道ー292

大野屋の先にベンチのある小さな休憩スペースがあり、「延命院旧跡」と彫られた石碑が
立っています。

天保の改革で、贅沢なものの象徴として、歌舞伎の七代目市川団十郎が狙い撃ちにされ
ましたが、縁の深かった新勝寺が手を差し延べて、一時ここに住まわせた跡です。


成田街道ー290
表参道ー45  昨年6月に撮影
成田街道ー291 木戸には成田屋の三枡紋

木戸の隙間から中を覗くと、真新しい感じの家が見えます。
以前は雑木が茂り、朽ち果てたようなあばら家が見えていたのですが、最近になって手が
入れられたようです。

 
成田街道ー294

振り返ってみると、けっこうな坂道です。


成田街道ー289

創業280年の「一粒丸三橋薬局」。
店舗は明治時代初期のもので、土蔵造りの二階建。
国の登録有形文化財になっています。
血止めと切り傷の薬で有名な「成田山一粒丸」の製造元です。


成田街道ー295

ようやくゴールの総門に着きました。
この総門は平成19年に建てられました。

成田街道ー296
成田街道ー238 
*********** 成田街道ー237

文化十一年(1814)に寄進された狛犬。
「靈巖島南新堀貮町目」と記されています。
丁目が町目となっていますが、昔はそうなっていたのかもしれません。
(今でも福島県いわき市の平地区などには「町目」が使われています。)


成田街道ー288

陽も傾き、空模様も怪しくなってきました。
仁王門には上らずに、ここで「成田街道」の終点としましょう。


成田街道ー286
成田街道ー285

大きな猫が総門裏の大木の根元にいました。
近づいても目線を外さず、じっとこちらを見ています。
今日は誰とも話さず、ただひたすら歩いてきたので、少し彼と話してから帰ろうと思います。


成田街道ー236
成田街道ー287

成田山の向かい側の「神明山」の紅葉もそろそろ終わりです。


成田街道ー298
成田街道マップー6
①権現山  ②長命泉  ③米屋総本店  ④お不動様旧跡庭園  ⑤薬師堂  ⑥成田町道路元標
⑦延命院旧跡  ⑧成田山総門




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

街 道 | 00:26:47 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田街道を往く(3)~不動塚、一本松跡を経て不動尊旧跡まで
成田街道ー2 

今回は、前回のこのお地蔵様の景色からのスタートです。


成田街道ー4
成田街道ー114

お地蔵様を過ぎると、街道は緩やかに右に曲がりながら上って行き、再び国道と合流します。


ここからしばらくは国道を進むことになります。
酒々井町から成田市に入りました。

成田街道ー115  Y字路を国道はゆるく左へ
成田街道ー116  街道は国道を突っ切ります
成田街道ー117 右に行くと東関道の富里インター

成田街道ー118
成田街道ー159
成田街道ー119
成田街道ー50

国道から入った道は、一旦下ってからすぐに上りになります。
左にはトイザラスや教会が見えています。


成田街道ー199

トイザラスの手前に右に下っている気になる細道がありますので、ちょっと戻ってみます。


成田街道ー200

雰囲気的には間違いなく旧街道です。
右に行く道がありますが、後で紹介する「不動塚」へ通じる道です。


成田街道ー201

200メートルも歩くと上り坂になり、トイザラスの先に出ました。
この道は国道を整備する時に取り残されたようです。

ここでちょっと先ほどの旧道を右に入る道から、成田山にゆかりの旧跡に立寄りましょう。

成田街道ー59

「不動塚」と呼ばれる成田山発祥の地です。

ここは東国で反乱を起こした平将門を調伏すべく、朱雀天皇の命により京都神護寺の不動
明王を奉持した寛朝大僧正が天慶三年(940)に調伏の祈祷を行った場所とされています。
21日間の祈祷が終わった頃、平将門は討伐軍の平貞盛と藤原秀郷の軍によって討取られ
「将門の乱」と呼ばれた大乱は鎮まりました。


成田街道ー51
成田街道ー52

お堂の中には不動明王の石像が置かれています。
石像には昭和16年の紀年銘が刻まれています。


成田街道ー54

「成田山舊跡 不動塚之碑」と刻まれたこの石碑は明治17年(1884)の建立です。

乱が平定され、寛朝大僧正が都へ帰還する際に、神護寺より奉持してきた不動明王像
がなぜか全く動かなくなりました。
その時の様子を「新修成田山史」(成田山新勝寺編 P15)にはこう書かれています。

「兵乱既に治まりしを以て、僧正再び尊像を俸持して都に還らんとせしに、重きこと盤石の
如く、僧正未曾有の想をなし、合掌瞑目至心に黙禱せしに明王髣髴として告げ給わく、
『夫れ衆生は無辺にして、我が願も亦尽くることなし。儻し深信機熟の者あらば、処として
応ぜざるなし、我復び京師に還るを願はず、永く此の地に留りて東国の逆徒を鎮押し
渇仰の輩を利益せん』と。」 


この話を聞いた天皇は大いに感動し、「新たに勝った」という意味を込めて、「神護新勝寺」の
寺号を与えてこの地に堂宇を建て、不動明王を祀りました。
これが成田山新勝寺の始まりとされています。

成田山発祥の地「不動塚」~お不動様の旅(2) ☜ ここをクリック


成田街道ー88
成田街道ー89
成田街道ー90

再び街道に戻ってきました。
並木坂上の交差点からちょっと進むと、また国道51号線と交差します。
この辺りは昔は「成木新田」といわれ、明治十七年の「下総國下埴生郡成木新田誌」には、
この道を「銚子街道」として次のように記しています。

等級 縣道
 長  南方印旛郡伊篠ヨリ来リ成田町ニ達ス。延長七百七拾五間
 幅  四間
並木 本道ハ首尾悉並木ニシテ、古松両側ニアリ。鬱蒼陰ヲナス。
形状 平坦 


伊篠の松並木がずっと続いていたことから、この辺りの町名が現在の「並木町」となった
のだそうです。


成田街道ー162
成田街道ー160

国道を横切って100メートルほど行くと、右側に小さな墓地があり、その脇には「和算家
飯嶋武雄の墓」の標柱が立っています。
飯嶋武雄は安永三年(1774)に下総国金江津村(現・茨城県河内町)の生まれで、若く
して算法に長け、江戸に出て算法の私塾を開いていましたが、不幸にも失明して帰国し、
近郷を巡回して算法を教えていました。
並木町の大坂家が寺子屋を開き師として迎えた縁で、ここにお墓があるようです。
「算法理解教初編」の著作があります。


成田街道-87
成田街道ー86

「デニーズ」「和みの米屋」の先の信号からは、黄葉した銀杏並木と「日本赤十字成田病院」
が見えています。
街道はこの信号を渡って進みます。


成田街道ー61
成田街道ー60

JR成田駅方面に向かうこの通りは、「一本松通り」と名付けられています。


成田街道ー62

しばらく進むと、丁字路の手前に「一本松跡」が現れます。
ここは前回に出てきた「伊篠の松並木」が続いていた所で、立派な松の古木が生えていた
のですが、残念ながら枯死寸前となったため、昭和51年に伐採されてしまいました。


成田街道ー63
成田街道ー64

一本松跡の碑の横に2基の石塔があります。
一つは馬頭観音で、安政五年(1858)のものです。
側面には「宗吾靈神」の文字が見えます。

「当時はまだ宗吾霊堂はなく、佐倉宗吾(木内惣五郎)の墓地に祠があったことから、宗吾
霊神としたのであろう。」
 (「成田の史跡散歩」 P93)

もう一つの石碑は風化のため全く読めません。

「成田街道を通ってきた旅人はここまで来るとホッと一息ついたのである。成田に着いた
安堵感から松並木の木陰で一服し、旅の疲れを癒したことであろう。明治時代になると、
成田の旅館は参詣人の奪い合いから、旅館名を半纏に染めた番頭たちが、小旗を持って
ここまで出迎えにきたという。」
 (「成田の史跡散歩」 P93~94)


成田街道ー65
成田街道ー66
成田街道ー84

街道は緩やかなカーブを描きながら続きます。
やがてJRの踏切が見えてきます。
この「成木県道踏切」の遮断機は途中で折り畳む、「屈折形遮断桿」が採用されています。
多くの場合踏切は、道の両側または片側から踏切道を長い棹で遮断する「腕木式」ですが、
道幅が広かったり変形道路の場合にはこの「屈折形遮断桿」が使われます。


成田街道ー67

上下線の線路に段差があり、線路が少し離れていますので、踏切の真ん中に安全地帯の
ような場所があります。(もちろん、危険ですからここで立ち止まることはできませんが・・・)
昔のこの踏切には「踏切番」がいて、ワイヤーに踏切の表示板をぶら下げた「昇開式」だっ
たのではないでしょうか。


成田街道ー77
成田街道ー76

だいぶ進んできました。
街道の下を京成電鉄の線路がくぐっています。
京成とJRはここで交差していて、前方に成木踏切を渡ってきたJRの線路が見えます。
線路をまたぐ橋は、難しい仏教用語の『「阿利耶」橋』といいます。


足跡ー56
成田街道ー70

「阿利耶橋」を渡ると、「不動尊旧跡」の標識が立ち、地蔵堂が見えます。


成田街道ー71

ここは安政五年(1858年)に新勝寺の新本堂(現釈迦堂)が完成した時、その入仏供養の
行列が出発した場所です。
元禄十四年(1701年)の新本堂(現光明堂)の入仏供養の際は、先ほど寄り道した不動塚
から出発しましたが、その後この地が幕府直轄領となったため、約1.7キロ離れたこの地
に仮の安置所を設け、ここから出発したのが始まりです。


成田街道ー72
成田街道ー73

ここにも護摩木山の碑が並んでいます。

成田街道ー75

お堂の中は「道祖神」です。


成田街道ー78
成田街道ー79

左手にはニュータウンの一角が、正面には成田駅前の景色です。


成田街道ー80
成田街道ー81
成田街道ー82

成田駅に向かって進むと、左に大きくUターンのように曲がりながら、下る道があります。
ここは、「成宗電車」の線路跡です。
曲がり口には大師堂があり、「摩尼山国分寺 第二十九番 不動ヶ岡 苅分」と書かれた
木札が架かっています。(不動ヶ岡とは、この一帯の地名です。)

「成宗電車」は明治四十三年(1910)に成田山の山門前から成田駅まで、翌年には宗吾
門前までを結んだ電車です。
成田駅から成田街道を進み、この坂を下って現在の日赤病院の傍を通り、宗吾霊堂まで
伸びていましたが、昭和19年に廃線となりました。

仲の町ー14 成宗電車(成田観光館に展示)

成田街道ー83

もうちょっとで成田駅です。
この先は次回に。(15日にアップの予定です。)


成田街道ー204
成田街道マップー3
成田街道マップー5

①酒々井町と成田市の境界  ②国道と街道の別れ道  ③取り残された旧道  ④不動塚  ⑤飯嶋武雄の墓
⑥一本松跡  ⑦成木踏切  ⑧不動尊旧跡  ⑨成宗電車道




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

街 道 | 07:39:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田街道を往く(2)~大崎の馬頭観音から伊篠のお地蔵様まで
今回は「大崎の馬頭観音」から始まります。

成田街道ー26
成田街道ー29  昭和8年の馬頭観音
成田街道ー27

前回の、倒れかかった道標の先をさらに登って行くと、途中に見過ごしてしまいそうな石段が
あり、その上に小さなお堂が見えてきます。
ここは「大崎の馬頭観音」と呼ばれています。


成田街道ー30

お堂の右側置かれた2基の板碑状の馬頭観音。
手前は明治二十九年(1896)、後方は明治二十七年(1894)のものです。
こちらには「馬車連中」と読める文字が刻まれています。
観音像を刻まない、文字だけの馬頭観音の多くは、愛馬の供養のために建てられることが
多いと言われていますので、急坂を馬で越えることが多かったであろうこの場所のような所
の独特な供養塔なのかも知れません。

観光館ー12  成田観光館の展示
観光館ー13

昔はこんな風景がこの辺りで見られたのではないでしょうか?


成田街道ー32
成田街道ー31

隣のお堂には慈母観音像があります。
赤い布で隠れていますが、赤子をしっかり抱いています。


成田街道ー28
成田街道ー34

二つのお堂の間にたくさんの馬頭観音が集められています。
その中に が描かれた成田山への道標が隠れています。
俳句のような文字が見えますが、“あゝ楽・・・御利益・・・”以外は欠けていて読めません。
酒々井町のホームページによれば、裏面に天保十一年(1840)と記されているようです。


松崎街道ー231  成田湯川駅前の道標

この マークは成田湯川駅の傍にある善導大師堂への道標にもありました。
ずいぶん昔から使われていた絵記号なのですね。


成田街道ー106

旧道の登り坂はまだ続きます。


成田街道ー23

坂を登り切ると再び街道は国道と合流しますが、すぐに右に別れて進みます。


成田街道ー22
成田街道ー19

国道と接する場所に「成田道伊篠の松並木跡」の説明板と、風化した木柱があります。
説明板にはこうあります。
「伊篠の松並木は、国道五一号線に沿った旧成田街道約八〇〇メートルの地域の松並木
であった。 通称杢之進並木といわれ、享保年中(一七一六~三五)佐倉七牧を支配した
代官小宮山杢之進が植樹したと伝えられていたが、樹齢三〇〇~三五〇であることから、
年代が合わず、おそらくこれより早い時期に道中者の便を図って植えられたものと思われる。
昭和四十三年四月に県の史跡として指定された当時は、巨松三十六本が松並木を形成して、
街道の美観を誇っていたが、昭和五十年代になって、松喰虫の被害を受けて次々と枯れ、
昭和五十七年七月には県の指定が解除となり、昭和五十九年七月に町史跡指定に変更
された。昭和六十年十一月、最後まで残った二本も枯損し、その後町史跡指定も解除され、
今は史跡としての名称だけが残されている。」



*********** 成田街道ー10
成田街道ー9
*********** 成田街道ー108

ところどころに植え替えられた松の木がありますが、本数もわずかで、桜の木の方ずっと
多く目立ちます。
街道をゆく旅人が腰をおろして一服した景色は、もう戻ることはありません。


成田街道ー21

朽ちかけた木柱の陰に、年代不詳の「宗吾道」と刻まれた道標があります。
上部にうっすらと マークが見えます。
成田街道は国道に合流することはなく、このまま並行して進みますが、この道標がある場所
から国道を横切る細道があり、その道を辿ると宗吾霊堂に行けたのかも知れません。

ここまで歩いてきた行程を、「千葉縣印旛郡誌」に収録された各村誌中に見える「成田街道」の
部分を、以下に抜き書きしてみます。

「香取は成田道と言ふ南方酒々井町より村の中央を貫き上岩橋村に至る長三町四十間幅四間」
                                             (中川村誌)
「香取路成田街道と言うふは南中川村より本村西部字岩橋に至り安食道を分ち西北部を貫き
伊篠村の境に至る長十町十五間幅四間」
                   
                                             (上岩橋村誌)
「香取道一に成田道と言ふは南上岩橋村より村の中央を貫き成木新田に至る長十六町三十五間
幅四間」

                                              (伊篠村誌)

これにより、「成田街道」は周辺の村々の中心的な道路で、7メートル以上の幅のある街道
であったことが分かります。


成田街道ー92

街道は、「伊篠の松並木跡」を過ぎ、国道に並行して近づいたり離れたりしながら成田に
向かって続いています。

やがて左側に5基の成田山護摩木山の石碑群が見えてきます。
この板碑型の碑には、「成田山 永代護摩木山 深川末廣講社」とあり、明治二十一年に
建立されました。

護摩木山とは護摩木になる杉を切り出す山のことで、山ごと寄進されるものです。


成田街道ー109
成田街道ー11 「東京新宿新榮講」とある
*********** 成田街道ー14
成田街道ー15 成田山壱里余と読める

成田街道ー13
成田街道ー16

この石塔は道標で、正面に「東 成田山 宗吾社 道」とあり、側面には「西 佐くら 酒々井 道」、
「左 しすゐ 停車塲 道」とある道標です。
ただ、裏面に「元禄元年 起■丸■講」と記された横に「明治三十二年建立」と記されている
ことの意味が分かりません。
明治二十二年は西暦1899年になり、これが建立された年であることは間違いないと思い
ますが、元禄~の部分は私の読み間違いなのでしょうか?

※ 後日酒々井町のホームページで調べたところ、この部分は「元禄元年起立丸万講」と
  記されていことが分かりました。
  明治三十二年にこの道標を建立した「丸万講」は、元禄元年(1688)に結成された講
  のようで、この道標は「丸万講」ができてから178年後に「講」を引き継いでいる人たち
  によって建てられたというわけです。
  また、この道標は以前は「築山」の下に建てられていたそうです。
  「停車塲」と彫られていることはこれで納得ですが、なぜ、わざわざここに移設したのか?
  という疑問が新たに湧いてきます。


成田街道-93

しばらくは平坦な道が続きます。


成田街道ー6
成田街道ー7

また護摩木山の石碑が建っています。
「奉獻 成田山永代護摩木山」と刻み、「東京巣鴨町二丁目 保坂徳右衛門長男 保坂
源太郎」と記されています。
碑の裏側の藪がぬかるんでいて、建立年を調べることはできませんでしたが、住所表示
から考えて、それほど古いものではないようです。
保坂家は、巣鴨村で長く名主を勤めた名家で、家長は代々徳右衛門を名乗っています。


成田街道ー8
成田街道ー110
成田街道ー111

護摩木山の碑を過ぎると、やがて国道51号線に出ます。
向かい側に細い道が見えています。
もともと街道はその道に続いていて、国道に分断されたようです。


成田街道ー5

国道を横切ると、道は緩やかに右にカーブしながら下って行きます。


成田街道ー112
成田街道ー113

道の左側には田んぼが広がり、小高い丘の上には農家らしき家が数軒見えています。



成田街道ー1
成田街道ー3
成田街道ー2

小川のほとりに、頭が欠けて、セメントで補修されたお地蔵さまがポツンと立っています。
台座には「三界萬靈」「當村女人講中」と刻まれ、「文政四辛巳年四月」と記されています。
文政四年は西暦1821年ですから、約200年近くもこの道端に立ち続けているのですね。

今回はこののんびりした街道風景で終り、続きは12日にアップする予定てす。


成田街道ー210
成田街道マップー2
①大崎の馬頭観音  ②伊篠の松並木跡  ③護摩木山の碑と道標  ④護摩木山の碑  ⑤伊篠のお地蔵様






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街 道 | 08:52:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田街道を往く(1)~酒々井の築山から上岩橋の道標まで
今回は「成田街道」を歩いてみたいと思います。

「現在、その道筋は、市川・海神間は国道一四号、船橋市前原・酒々井間は国道二九六号、
酒々井から成田を経て佐倉までは国道五一号の路線にほぼ踏襲され、前原・成田間の旧道
道筋は今も成田街道の通称で呼ばれている。現在では道幅も拡張され、屈曲部が直線化
されて旧街道の面影を留める所はきわめて少ないが、新たにバイパスを通じた部分では
旧道の雰囲気を残している。」
 (P14)
(「千葉県歴史の道調査報告書二 成田街道」 1987年 千葉県教育庁)

開発が進み、往時の面影があまり残されていないようですが、“まだ一部には旧道の雰囲気が
残っている”というこの文章に後押しされて、「佐倉街道」から「成田街道」に入る酒々井町から
成田に向かって歩くことにします。

成田街道ー43

今回の「成田街道を往く」は、この景色から始まります。

京成酒々井駅を出て国道51号線に向かうと、右手に小高い丘が見えます。
遠く筑波山を望むここは、「築山」と呼ばれる酒々井町の名勝です。


成田街道ー39

国道に出る一つ前の信号を右に曲がるとすぐに「宗吾入口」の信号があります。
右側の階段を登ると、まもなく絶景が開けます。


成田街道ー40

途中で振り返ると、既になかなかの景色が広がっています。


成田街道ー42

遠くに見えているのが筑波山です。


成田街道ー47

筑波山は標高877メートルで、女体山(877m)と男体山(871m)からなり、その美しい
山容は万葉集にも詠まれ、「紫峰(しほう)」とも呼ばれています。
日本百名山の一つで、百名山の中では最も標高の低い山です。


成田街道ー44
成田街道ー41

反対側は見渡す限りの田園風景。


成田街道ー45

昭和3年に建立された「明治天皇御駐蹕記念碑」。
裏面に、ここで明治天皇が四度にわたってお休みになられたことと、ここがかつて中川村
の木内常右衛門邸の築庭であったことが記されています。
「目で見る千葉県の明治時代 千葉県博覧図(上)」(明治27年に制作された銅版画集の
復刻版・1986年)に、「木内常右衛門邸宅の図」が載っていますが、近江八景を模して
造られたと伝えられる大邸宅の庭には、築山があり、灯篭や数々の石柱が立ち、小川が
流れ、背後に印旛沼が広がり、遠く筑波山も見えています。
そして、その絵の中には次のような文章が書き込まれています。
「明治十四年七月一日習志野原演習天覧并成田行幸ノ際及明治十五年五月廿三日
三里塚競馬天覧御幸ノ際往返共天皇陛下行在所」


街道歩きの出発点としてはなかなか良い場所だと思います。


成田街道ー46

右下にこれから歩く「成田街道」が見えています。


成田街道ー38

築山を下りて街道を進みます。
「成田街道」は、ほぼ国道51号線に沿うかたちで左右に交差を繰り返しながら進みます。

この「成田街道」は、実は「佐倉街道」が「多古街道」へと続く分岐点から派生する、小さな
街道でしかありませんでした。
成田山新勝寺が有名になり、参詣客が増えるに従って、いつしか「佐倉街道」を含めて
江戸から成田までの道を「成田街道」と呼ぶようになりました。

『船橋市郷土資料館編の「道標」によると、船橋市古和釜の元禄十四年(一七〇一)の
念仏塔や、同市宮本の東光寺境内に保存されている宝永六年(一七〇九)の廻国塔、
それに八千代市大和田の寛延二年(一七四九)の庚申塔には「さくら道」と記されている
が、船橋市前原の安永六年(一七七七)の道標には「なりた道」、同所、明治十一年と
十二年の道標には「成田山道」と刻まれており、次第に成田道の名称が人々の間に浸透
していった様子を窺うことができる。』 
 (P23)
(「房総の道 成田街道」 昭和62年 山本光正著)

6~700メートルほど進むと、街道は一旦国道51号線と合流します。

成田街道ー99

ここはやや変則な交差点ですが、写真の手前には2軒のラーメン屋、向かい側には2軒の
ファミリーレストランがあります。
街道はこの交差点へ斜めに入って行く形になります。


成田街道ー102
成田街道ー103

街道はほんのちょっと国道を進みます。
前方に「水戸104Km、鹿嶋47Km、成田7Km」の標識が見え、その先の信号を右へ入る
のが街道です。
信号の手前に“「酒々井ちびっこ天国」は左に入る”との案内板が立っています。


成田街道ー101

国道から再び旧街道に入る景色が目の前に見えていますが、ここでちょっと気にかかる
ことがあります。
私が見た資料では、今来た道が「成田街道」になっていますが、スタートした築山からの
道は旧道らしくない「直線的」であることです。
一旦戻ってそれらしき道が無いか探してみます。

成田街道ー134

築山から一つ目の信号まで戻り、京成酒々井駅寄りの一つ目の路地に入ってみます。


成田街道ー157

それらしき景色になってきました。


成田街道ー136
成田街道ー135
成田街道ー137

200メートルほど進むと、丁字路になりますが、その手前に大師堂と、「富士登山参拾二度
大願成就」と刻まれた、明治三十四年(1901)の石碑がありました。
上部には富士山が線描されています。
大師像の隣にある四角柱状の石には、文政十丁亥と文政九丙戌の年号と男女の戒名が
記されています。
文政九年と十年は西暦1826年・27年です。

成田街道ー138

さらに大師堂の先、丁字路に面して8体のお地蔵様(1体は欠損)の地蔵堂があり、元禄二年
(1689)や明和七年(1770)の年号が読めます。


成田街道ー139
成田街道ー140

地蔵堂の向かいある2基の石柱。
左は「二王ミち」と刻まれ、「成田・岩名道蜀山人道標」と呼ばれています。
酒々井町のホームページによれば、江戸後期の国学者、高田与清が文化十四年(1817)
に千葉を旅した時の「相馬日記」に、この石碑のことを「銘は太田南畝、脇に北川眞顔の歌
あり」と記している、とありました。
太田南畝は「蜀山人」と号した狂歌の名人です。
200年以上前の、なかなか貴重なもののようですが、今は風化で読むことはできません。

「二王みち」とは、「岩名の仁王様」として知られる佐倉の玉泉寺毘沙門堂の仁王門への
道を指していると言われているようですが、もともとの場所からここへ移されたようです。
右の石碑には「此方酒々井停車塲道」と刻まれていますので、明治以降のものです。

もう、こちらが旧道の「成田街道」で間違いないようです。

成田街道ー156

丁字路を右に曲がり、振り返ると、大師堂と地蔵堂の後ろに「火の見櫓」が見えました。
下ばかり見て歩いていたので気が付きませんでした。


成田街道ー142
成田街道ー143

さらに200メートルほど進むと、また丁字路が現れます。
ここにも道標が立っています。
正面には「成田 佐原 道 宗吾 安喰 道」とあり、側面にはそれぞれ「酒々井停車場 佐倉
千葉 道」、「酒々井停車場 佐倉 東京 道」とあって、裏面に「上岩橋青年■■」とありました。 


成田街道ー144
成田街道ー155

これも道標です。
正面に「佐倉 千葉 成田 佐原 道」、側面には「七榮 三里塚 道」と刻まれています。
七栄や三里塚と記された道標は初めて見ました。


成田街道ー145 曲がりくねった街道が続きます
成田街道ー146 ちょっと国道に出てすぐ左に・・・
成田街道ー147 大きく右に曲がり道はさらに細く・・・
成田街道ー148

成田街道ー154

小公園があり、そこに「酒々井町立酒々井小学校岩橋分校跡」と刻まれた昭和58年建立の
大きな石碑が建っています。
明治六年(1873)に妙楽寺に仮校舎を建てて開校して以来、昭和54年の閉校まで、106
年間に約1900名の卒業生を送り出したと記されています。


成田街道ー149

小公園を過ぎると道は右に大きく曲がり、前方に国道がチラリと見えてきます。


成田街道ー150
成田街道ー151

国道に出た所の草むらに、傾いて電柱に寄りかかった道標がありました。
風化が進んでいますが、かろうじて「奉納 仁王尊」と読めるような気がします。
寛政二年(1790)のもので、「東 なりた」と刻まれています。
交通量の多い国道の脇で、遮るものも無く風雨にさらされ・・・、このままではやがて文字も
読めなくなって忘れ去られるのでしょう。


成田街道ー152

国道を渡った先が、前にファミリーレストランのある交差点から見た街道の続きです。


成田街道ー98
成田街道ー97
成田街道ー96

国道を渡って先に進むと、しばらくはいかにも旧道らしい道が続きます。


成田街道ー104
成田街道ー105

道端にチラリと倒れた石塔が見えます。
歩いている目線よりやや高い斜面の草むらに隠れていますので、よほど注意して見ないと
見逃してしまいそうです。
「成田山」の文字が大きく彫られ、脇に「酒々井■三拾町」とあります。
酒々井宿から三拾町ではちょっと長すぎますし、成田山へ三拾町では短すぎます。
成田街道の道標であることは間違いないのですが・・・。


成田街道ー35
成田街道ー24
*********** 成田街道ー94
成田街道ー36
成田街道ー107

やがて道は大きく左へカーブして長い登り坂となります。
この辺りは木々に囲まれて薄暗く、人家もまばらで、廃屋もいくつか見られます。

ゴールの成田山はまだまだ先ですが、ここから先は次回にしましょう。
(9日に更新の予定です。)


成田街道ー158
成田街道マップー1
①築山  ②大師堂・道蜀山人道標  ③酒々井停車場道標  ④七栄・三里塚道標  ⑤岩橋小学校跡
⑥倒れた道標  ⑦上岩橋道標





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街 道 | 08:33:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
「松崎街道・なりたみち」を歩く(4)善導大師堂から成田街道踏切まで
「松崎街道・なりたみち」の最終回は、「来迎寺」、「善導大師堂」から出発です。

松崎街道ー178


まずは、前回に「千把ヶ池跡」の「奉讀普門品一萬巻供養塔」にあった ☜ の“ぜんどうだいし・
ぬけみち”を探してみましょう。

松崎街道ー231

松崎街道ー177

方向的には「善導大師堂」の墓地の先にある「松崎郵便局」の前を行くと、「成田湯川駅」に
近付けるような気がします。

「八生小学校」の前を抜け、相当な距離を進みましたが、この道は県道18号線のバイパスに
出ることが分かり、途中で引き返しました。

この道の途中で、参道が道路に分断された神社を見つけました。
今のところこの神社については、千葉県神社庁の「神社名鑑」にも記載が無く、詳細が分かって
いませんが、後日、機会があれば紹介したいと思います。

松崎街道ー54
松崎街道ー50道路に分断された富宮神社


さて、そうすると残る道は、「善導大師堂」前の「六地蔵」の横を行く小道しかありません。

松崎街道ー181
松崎街道ー180

「六地蔵」はお堂への階段の途中に立っています。
人は生前の行いの善悪によって、その死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道を
輪廻・転生すると言われていますが、その六道のそれぞれに、衆生救済のために檀陀・宝印・
宝珠・持地・除蓋障・日光の六地蔵が配されていると信じられ、お寺や墓地の入口などにこの
六体のお地蔵様を並べ建てることが行われています。

この「六地蔵」の前を横切って、やや下り坂になっている小道を進みます。
(六地蔵に向かって右になります。)

松崎街道ー182
松崎街道ー186

道は曲がりくねっていて、先が見えません。


松崎街道ー183

突然、道が広くなりましたが、工事中の道路のようです。
ここまで歩いてきた道は、車がすれ違えない細い道でしたが、ここは広く立派な道路です。


松崎街道ー184

向こうに何か見えています。
よく見ると、どうやら「成田湯川駅」のようです。


松崎街道ー185
松崎街道ー162

前方にある通行止めの景色は、前回「第二大鷲踏切」の先で見た景色と同じです。

“ぬけみち”は間違いなくここです!
かつての「松崎街道」は、「千把ヶ池跡」の 「普門品一萬巻供養塔」にあった ☜ が指して
いたとおり、大鷲を抜けて「善導大師堂」に向かっていました。

工事が終わると“ぬけみち”にしては立派な道になります。
便利になることは良いことですが、“よそもの”の勝手な感覚としては、いつまでも狭い
“ぬけみち”であり続けて欲しい気がします。

さて、“ぬけみち”を見つけたので、「松崎街道」に戻りましょう。

松崎街道ー187

来た道を戻ります。
のんびりした山村の風景が広がっているのを見ると、地元の皆さんには申し訳ありませんが、
やはり、この景色を残してほしい気がします。


松崎街道ー201

「八生村道路元標」に戻って、現在の「松崎街道」を下ります。


松崎街道ー105
松崎街道ー192

「八生村道路元標」を左に折れると、街道は長い下り坂になります。
傾斜がきつい上に曲りくねった長い坂で、昔は“街道最大の難所”と言われていたようです。


松崎街道ー220
松崎街道ー221

長い坂を下りきると、一面田んぼの田園風景へと一変します。

勝手に決めた「松崎街道」の終点まではもう一息ですが、先ほど見つけた旧街道(ぬけみち)
の「善導大師堂」からここへ抜けてくる道がどこかにないか、気になります。

昔の「松崎街道」は、今下りてきた坂の手前を大きく迂回して、「来迎寺」や「善導大師堂」へと
続いていたはずです。


松崎街道ー206

正面が現在の「松崎街道」の下り坂ですが、手前の寿司屋の看板と松崎保育園の看板の
手前を右に入ってみましょう。


松崎街道ー230
松崎街道ー102
松崎街道ー103

保育園の前を過ぎると道は急坂となり、“この先行き止まり”の看板がいくつも立っています。

『新道は山裾の長い距離を徐々に登って行くが、旧道はその高さをわずかな距離で登る
ため、ここが安食方面から成田に向かう街道の最大の難所であった。歩くだけでも困難ならば、
人を乗せた駕籠や馬はそれ以上に大変だった。』
『文化十四年(一八一七)八月に、安食方面から来た国文学者の小山田与清も、その様子を
「相馬日記」に「松崎村といふ所よりつづらをりをのぼるに、駒も行なづみ、鞍のうへ平ならず
していとむつかし」と記している。』
 (「成田の史跡散歩」P214)

これまでも坂道の連続でしたが、確かに、登り始めてすぐに後悔するほどのきつい坂道です。
“街道最大の難所”とは、こちらのことですね。


松崎街道ー106
松崎街道ー107

途中で振り返ると、遠く印旛沼が見えています。
これは相当な高低差がある、難所中の難所ですね。


松崎街道ー104
松崎街道ー193

最後は階段になって、現在の「松崎街道」(県道18号線の旧道)に出ました。
さきほど見た景色です。


松崎街道ー189

道を横断した先に、左へ上って行く小さな坂が見えます。
もしかすると、ここが「善導大師堂」へとつながる道なのかも知れません。
少し上ってみました。


松崎街道ー190

すぐ下に、今登って来た難所の急坂が見えます。


松崎街道ー194

T字路になっています。
画面の左側から上ってきました。
画面の手前方向に進みます。


松崎街道ー188

印旛沼が大きく見える高さです。

ちょっと歩くと、前回「八生村道路元標」を右に入って、突き当たった場所に出ました。

松崎街道ー199
松崎街道ー197

ここからは前回歩いた道を行けば、「来迎寺」、「善導大師堂」に着きます。
これで、「松崎街道・なりたみち」の旧道がつながりました。

今きた道を戻り、再び現在の「松崎街道」を下ります。

行ったり来たりで、旧道のつながりが分かりにくいと思いますので、おさらいしておきましょう。
【 千把ヶ池跡を右折し ⇒ 成田湯川駅の左側を抜け ⇒ 第二大鷲踏切を渡って ⇒
工事中の広い道から ⇒ 山間の小道を進み ⇒ 善導大師堂の六地蔵前を抜けて ⇒ 
左折して道祖神のT字路へ ⇒ 直進してT字路を左に下り ⇒ 現在の松崎街道を横断
⇒ 階段と急坂を下り ⇒ 松崎保育園を右に見て進む ⇒ 現在の松崎街道の坂下へ】
この間、休憩なしで私の足で約1時間と少々の行程です。(スポットの見学時間を除く)

松崎街道ー231松崎街道ー158松崎街道ー161松崎街道ー162
松崎街道ー182松崎街道ー180松崎街道ー196松崎街道ー194
松崎街道ー190松崎街道ー104松崎街道ー206


因みに、現在の「松崎街道」を「千把ヶ池跡」からこの坂の下まで歩くと、やはり1時間と少々
の行程になると思います。
【 千把ヶ池跡の前を直進 ⇒ 最初の信号を右折 ⇒ 蕎麦屋さんの前を通り ⇒ 無縁塚
⇒ 八生村道路元標の二又路を左へ ⇒ 長い下り坂 】


松崎街道ー222

街道はすっかり平坦になり、両側には田んぼや畑が広がっています。


松崎街道ー74
松崎街道ー75

道端に「青面金剛」と刻んだ石塔が立っていました。

何とか□保四□巳と読めましたが、□の部分は判別できません。
年号の後ろが(保)の四年で、干支の後ろが巳である年は、天保四年(1833)です。
この年の干支は癸巳で、もう一つの候補の享保四年(1719)の干支は己亥ですから、
該当するのは天保四年ということになります。(100%の自信はありません)
側面には「東 なりた しば山」「西 あじき りうヶ崎」と記されています。


松崎街道ー205
松崎街道ー73
松崎街道ー228
松崎街道ー229

のどかな街道風景が続き、ようやく「下総松崎駅」に着きました。
明治三十四年(1901)開業の駅は、街道から少し入ったところにあります。


松崎街道ー213
松崎街道ー214

「下総松崎駅」を過ぎて少し進むと、「成田街道踏切」になります。

今回の「松崎街道・なりたみち」の(私が勝手に決めた)ゴールです。

踏切を渡り、50メートルほど行くとT字路になり、街道は右方向の安食方向に向かって平坦な
道を行くことになります。
やがて成田市を出て栄町に入り、県道18号線のバイパスと合流して「安食駅」へと向かいます。
ここから先は「安食街道」のほうがピッタリしますので、私は「成田街道踏切」を両街道の境界と
考えました。


松崎街道ー215
松崎街道ー216
松崎街道ー217

成田行きの電車が踏切を通過して行きます。
「下総松崎駅」が近いので、スピードを落としながら走っています。


松崎街道ー219
松崎街道ー218

ここで「松崎街道・なりたみち)」は終り、安食(あじき)、木下(きおろし)、布佐(ふさ)、そして
我孫子(あびこ)へと道をつないで行きます。

街道を歩くと、新たな発見があります。
街道を歩くと、先人の“想い”に向き合うことができます。
街道を歩くと、自分の生き方を見つめ直せます。

成田山から成田街道踏切まで、歩くだけなら4時間程度の行程です。
いくつかのスポットをゆっくり見て回れば5時間半くらいでしょうか。
一気に踏破する必要はありません。
何回かに分けて、少しずつ、自分のペースで歩いてみてください。


松崎街道ー227

松崎街道ー226




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街 道 | 08:07:25 | トラックバック(0) | コメント(0)
「松崎街道・なりたみち」を歩く(3)~雷神社から善導大師堂まで
「山口県道踏切」を越えてきました。

松崎街道ー42
松崎街道ー43
雷神社ー1

踏切を越え、小橋川に架かる「雷神橋」を渡ると、正面が「雷神社(らいじんじゃ)」です。


雷神社ー6
雷神社ー11

『字雷アリ、地坪四拾九坪。祭神ハ大雷神ナリ。境内ノ土地醎気ヲ帯ヒ海塩ノ如シ』

「下総國下埴生郡山口村誌」にある、こんな記述を見て、
『塩害があるような場所ではありませんので、太古にこの一帯が海だった名残でしょうか?
そんな土壌に見事な森が育つものなのか、記述に誤りがあるのか、何らかの理由で一時的
に醎気(かんき-辛い・塩辛い)を帯びたのでしょうか?』

と、昨年暮れの「雷神社」の項で書きましたが、その後に、この一帯が太古には海底や浜辺
だったことが科学的に証明されていることを知りました。

神社の土が塩辛いのは、“太古の記憶”だったわけです。
悠久の時の流れの中では、成田詣での人々が行き交う「街道」が、鉄道に分断され、新しい
道が作られて、通う人の無い草生す廃道となって行くことなど、ほんの一瞬のことでしかない
ことを思い知らされました。

1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック

雷神社ー20

神社の木陰が心地良く、もう少し休んでいたいところですが、「松崎街道」はまだ道半ば、
がんばって先に進みましょう。


松崎街道ー44

小橋川の向こう岸に地蔵堂が見えています。
葦が密生していて近づけませんが、旧道の名残でしょうか?


松崎街道ー45

市街地をちょっと外れると、車に轢かれる野生動物が多くなります。
車の犠牲になったタヌキだけでも、毎年10頭は目にします。
たまたま私が目にするだけでこの数ですから、近郊で犠牲になる頭数は相当な数でしょう。

動物の生活圏を人間が侵し、移動が命がけになってしまったことを、せめて申し訳なく思って
注意して走るくらいは当然ですよね。
「松崎街道」を「満咲花街道(まんざきはなかいどう)」としたセンスは☆三つです。


松崎街道ー155
松崎街道ー153
松崎街道ー156

道は急な登り坂になります。
木々が両脇から迫って、昼間でも薄暗い坂道です。
(※ きつい“のぼり”は「登り」、ゆるい“のぼり”は「上り」と表現しています。)

江戸時代にはこの峠道に数軒の茶店があったそうです。


松崎街道ー157

坂を登り切ると、突然道幅が広がり、今度はすぐに下り坂になります。
左に見えているのは「成田北高校」です。

※ 「松崎街道」は、県道18号線(成田・安食線)の旧道とほぼ同じです。
  現在の18号線は土屋の交差点から栄町・酒直までのバイパスがメインで、「松崎街道」側は裏道という感じです。
  表現の混乱を避けるため、本ブログでは「県道18号線の旧道」ではなく、「松崎街道」に統一して呼んでいます。



松崎街道-169
湯川駅ー28
湯川駅ー25

坂を下りきった右奥に、成田高速鉄道アクセス線の「成田湯川駅」があります。


松崎街道ー159

平成22年7月に開業した「成田湯川駅」ですが、周辺ではまだ工事が続いています。

工事現場をのぞいていて、ふと、この駅を取材していたときにホームから見た不思議な
踏切のことを思い出しました。

湯川駅ー14 本年1月初旬撮影湯川駅ー15

『ふと外を見ると100メートルほど先で何やら工事が行われています。
トンネルを掘っているように見えますが、良く見ると踏切がありました。
仮設の踏切のようで、下の細い道から木組みの階段が設けられています。
工事の上は線路のようです。
と、すると、この工事はトンネルではなく、線路をくぐるガード工事ですね。
線路はJR成田線でしょうか?』

と、そのとき私は書きました。

成田で一番新しい駅「成田湯川駅」 ☜ ここをクリック

ちょっと寄り道をしてみましょう。
駅の脇を進むと、重機がうなり、警備の人が何人も見えます。
入って行くのはちょっと気が引ける感じです。


松崎街道ー160
松崎街道ー161

工事フェンスの壁の中、急坂を登ると、小さな踏切がありました。
もちろん、車は通れません。
両方向とも登山道のような急坂ですから、自転車も無理でしょう。
人が通るだけの道と踏切ですが、工事関係者以外に利用する人がいるとは思えません。

ゼンリン地図2014年版で調べたところ、「第二大鷲踏切」と書かれていました。
工事のために作られたものではなく、以前からあった踏切のようです。


松崎街道ー162

だいぶ先の方に、工事中の舗装道路が見えています。
警備の方に尋ねたところ、その先はまだつながっていないとのことでした。
(ゼンリン地図で確認すると点線になっていました。)

戻ることにしましょう。

松崎街道ー163 踏切から見る湯川駅
松崎街道ー164    成田駅方面


高架の下をくぐって街道に戻りました。
角に石仏が立っています。
「千波が池(千把ヶ池)跡」です。

松崎街道ー165

このお地蔵様の前には、辺り一面が萱原の「千把ヶ池(せんばがいけ)」という幅90メートル
深さ1メートルほどの池があったそうです。

大正三年(1914)の「八生村誌」には、
『昔松崎村ノ一農家ニお鶴ト云フ女アリケリ。体格力量衆ニ勝レ、仕事上手ニシテ数人前ノ
働キヲナセリ。或年ノ田植時千把ノ苗ヲ運バセテ一日ニ植終ラント一心不乱ニ植ケル程ニ、
日ハ西天ニ傾キタレド未ダ隠レザルニ植終リシカバお鶴ハ己ガ手柄ニ驕リヤシケン股内
ヨリ夕陽ヲノゾキテ、お日さまハ又入リヤラヌト叫ビシニ、忽チ天罰ヲ蒙リテ其場ニ斃レ死セ
リト。村民其田ヲ穿チテ池トナシ、千把ヶ池ト云フ。』
 
(成田市史 近代編史料集一 P243)
との記述が見えます。
この話は、こんな風に変化して伝わってもいます。
「松崎村にお鶴という身体の大きな娘がいたが、ある日、名主に“暮六つまでに千把の苗
を植えられたら、その田んぼはお前にやろう”と言われ、がんばって苗を植えてもう少しで
終わるところまできた。それを見た名主は慌てて寺に行き、早めに暮六つの鐘を撞いた。
しかし、お鶴は股下からお日さまを見て、“まだ暮六つじゃあない、オラの勝ちだ。”と叫ん
だが、力が抜けて田んぼに倒れ込んでそのまま死んでしまった。その後田んぼが沈んで
池になった。」

こうした言い伝えの変化はおもしろいものですね。
このお地蔵さまはお鶴の供養のために建てられたのでしょうか?


松崎街道ー167

文化十一年(1814)の建立で、側面には「十五夜講中」と記されています。


松崎街道ー166

左に建っているのは「廿三夜供養塔」です。
二十三夜の月待講の本尊、勢至菩薩が彫られていて、明和七年(1770)の建立です。


松崎街道ー168

右の「奉讀普門品一萬巻供養塔」には文政十三年(1830)と記されています。
側面を見ると、「ぜんどうだいしみち あじきへととおりぬけ」と読める文字と、指差すやじるし
)が見えています。
180年以上も前に、 が使われていたとは驚きです。

松崎街道ー231


ところで、この石塔が正しい位置に建てられているとすると、指は「成田湯川駅」の方向を
指しています。
もしかして、先ほどの踏切の道が「ぬけみち」なのでしょうか?


善導大師ー31

「ぜんどうだいし」とは、松崎にある「善導大師堂」のことで、街道からはちょっと外れた場所
にある、古いお堂です。
駅を抜けて踏切を越えて行く、消えかかった道は、「松崎街道」の旧道なのかも知れません。


湯川駅ー2

千把ヶ池の地蔵堂の前を過ぎ、信号を右に曲がると、またもやきつい登り坂です。
「成田湯川駅」が眼下に見えてきます。


松崎街道ー55
松崎街道ー56
松崎街道ー76

昔からの「峠の茶屋」風の蕎麦屋さん。
昔からこの場所にあったとすると、いろいろ話が聞けるかも知れません。
この日は定休日だったので、後日来店してご主人にお尋ねしましたが、残念ながら、創業して
30年程だそうです。


松崎街道ー77

蕎麦屋さんを過ぎて、もう少し登ると峠の頂上(?)になり、今度は下り坂になります。
(頂上付近は現在湯川駅関連の工事中です。)


松崎街道ー59
松崎街道ー60

街道の右側に、ツツジがきれいに刈り込まれた「無縁塚供養塔」が建っています。
お堂の中のお地蔵さまの台座には「百人講中」と刻まれています。


松崎街道ー173
松崎街道ー61

「無縁塚」のすぐ先で道は二又に分かれます。
「松崎街道」は右に下る坂道になります。
左に行くとニュータウンの玉造地区に至ります。


松崎街道ー57
松崎街道ー58

分かれ道に、白い苔に覆われた5基の石塔が並んでいます。
左から二番目は月待塔のようです。
全体が苔に覆われていますので、文字等は全く読めません。
二股の分かれ道ですので、場所からすると、どれかは道祖神だと思います。


松崎街道ー170
松崎街道ー171

二又を右に行くと小さな橋があり、再び上り坂になります。


松崎街道ー172

橋の下はJR成田線(成田~我孫子)です。
ここはびっくりするほど深い谷になっています。


松崎街道ー200

道はまた二又になりました。
「松崎街道」は左に折れ、今度は坂を下ります。


松崎街道ー201

二又の角に「八生村道路元(標)」があります。
台の坂上の「薬師堂」前にあった、「成田町道路元標」と同じようなものですね。

「八生村(はぶむら)」は、明治二十二年(1889)の町村制施行によって誕生した村で、
松崎村、大竹村、上福田村、下福田村、宝田村、押畑村、山口村、米野村が合併して
できた村です。
明治二十四年(1891)の人口は3227人、戸数は634戸でした。
昭和29年に成田町等と合併して成田市となりました。

ここまで来たらちょっと足を延ばして、以前訪ねた「来迎寺」と「千把ヶ池跡」にあった
指す「善導大師堂」に立ち寄りましょう。

松崎街道ー195

「八生村道路元標」のある二又路を街道から外れて、右に進んでみます。
道は狭く曲がりくねっていて、家並みが旧街道風です。


松崎街道ー199

突き当たりがT字路になって、ここを右に行きます。
左は車両進入禁止で、細い路地のようです。


松崎街道ー197
松崎街道ー196

T字路の一段高くなったところに小さな祠があります。
近づいてみると、「道祖神」と刻まれていました。


松崎街道ー202

細い道が続き、また二又路が現れます。
ここを右に進むと、「来迎寺(らいこうじ)」です。


松崎街道ー174
来迎寺ー4
来迎寺ー13

「来迎寺」は天台宗のお寺で、山号は「松葉山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」、栄町の「竜角寺」の末寺です。
創建年代は不詳とされています。

境内を覆うような榧(カヤ)の大木は、昔から「日暮の榧」と呼ばれています。
『 日暮ノ榧  松崎来迎寺境内ニアリ。周圍二間。丈高カラズシテ其枝八方二垂レ、殆ント
一反歩餘ヲ壓ス。夏季此ノ下ニアルヤ涼気自ラ来リ去ル能ハズ。遂ニ日ノ暮ルゝヲ覚ヘズト。
因リテ此名アリ。』
 (成田市史 近代編史料集一 P244)

来迎寺 ☜ ここをクリック

松崎街道ー176
松崎街道ー179

道を挟んで「善導大師堂」があります。

『其後安貞元年八月十四日夜當國ノ城主千葉六郎太夫入道、法阿沙弥善導大師ノ靈夢ヲ
蒙リ、印旛湖ノ湄リ埴生ノ郡松崎ト云里ヲ尋ネ給フニ浦辺近キ芦間ヨリ光明赫々、其容貌
半バ金色ニテ、腰ヨリ上ハ黒染ノ木像壱軀ト水難除ノ守船板名号ヲ発見シ、大ニ警キ再拜
崇敬シ、則チ松崎村ヘ草堂ヲ建設アリ。』

(「成田市史 中世・近世編 P219)

開基は安貞元年(1227)。
千葉一族で、東氏初代当主の千葉六郎(東胤頼)が、お告げを得て印旛沼から引揚げたと
伝えられる「善導大師像」を本尊としています。

善導大師堂 ☜ ここをクリック

さて、「松崎街道・なりたみち」も終盤になってきました。
ここで一息ついて、次回はこの一帯の旧道を巡りながら「下総万崎駅」へ向かいます。
そして街道の(私が勝手に定めた)終点の「成田街道踏切」まで歩きます。


松崎街道ー225
松崎街道ー224




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「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)~埴生神社裏から小橋川のほとりまで
今回は「埴生神社」からの出発です。

松崎街道ー128

郷部橋を渡ると左側には「埴生神社」の裏口が見えています。


松崎街道ー17

橋の下をJR成田線が走っています。
先に見えるのが、前回渡りかけた跨線橋です。
橋を渡ってすぐ、右(画面の左側)の坂道を下ります。


松崎街道ー130

橋の上から反対側を見ると、成田線の我孫子線と佐原・銚子方面への分岐点が見えます。


松崎街道ー18
松崎街道ー19

坂を下って跨線橋に着きました。
向こう側は前回歩いた滑川への旧道へ上る道です。
間違いなく、昔はこの跨線橋のあたりを「松崎街道・なりたみち」が通っていました。


松崎街道ー20

踏切跡(?)から道は大きく左へと曲がります。
下り坂はまだ続いています。


松崎街道ー22
松崎街道ー21

左手斜面に「記念碑」と記された石碑がありました。
碑文を読んでみます。

『抑この道は旧安食みちであり、成田市が道路改修を行うに当り、関係各位に多大な協力を
受け併せて久保庭利平氏により埴生神社御手洗井改修を行い工事の完成をなした。
此に交通安全と地域住民の繁栄を念願する。平成八年十二月吉日 成田市長 小川国彦』


ここは「埴生神社」の御手洗井戸だったようです。
この碑文でも分かるように、昔からこの街道は「安食みち」と呼ばれていて、「松崎街道」と
呼ぶようになったのは歴史的には最近のことのようです。


松崎街道ー23
松崎街道ー24

この井戸の後方は密生した竹やぶの山です。
ここには明治初期に廃寺となった「神光寺(じんこうじ)」がありました。

「神光寺」は真言宗のお寺で、山号は「仏伝山」。
成田山新勝寺の末寺で、ご本尊は恵心僧都作の「阿弥陀如来」でした。
「恵心僧都(えしんそうず)」は平安時代中期の天台宗の僧、源信の尊称です。
「證明寺」の項でも瑠璃台の薬師如来像を刻した高僧として登場しました。

『郷部村にあった門徒寺で、仏伝山神光寺と称し、本尊は恵心僧都作の阿弥陀如来と伝
えられる。石高は六石八斗八升九合。郷部村内に真言宗の檀家が三軒あるが、いずれも
成田山の檀家となっていて同寺は無檀家。享保年間以降、照盤・照寿・寛善・照竜といった
僧侶が住しているが、無住になることが多い。天保十年には後に成田山中興第十三世と
なる照輪もいたことがある。』
 (「成田市史 中世・近世編」 P709)

成田山新勝寺の末寺には、「門末六か寺」と呼ばれる、延命院・観音院・正福院・南光坊・
神光寺・円応寺の六寺があり、延命院のみが末寺で、他の五寺はその下の門徒寺と呼ばれ
ていました。
観音院、神光寺は明治初期に、南光院は明治十七年、延命院は明治二十六年に廃寺となり、
現在は米野の円応寺のみが残っています。
明治初期に廃寺となった「神光寺」については、明治十七年に編さんされた「下埴生郡郷部
村誌」には記述されていません。

「神光寺」については「成田の史跡散歩」にこんなエピソードが紹介されています。
『また歴代住職の一人、蹄阿上人は俳人小林一茶と親しくした僧侶で、俳号を至長という。
妻を亡くして、文化元年(一八〇四)に四二歳で出家した人物で、京都の智積院での修業
を経て、同七年四月に神光寺の住職になっている。文化十二年十二月十四日に成田山
参詣を終えた一茶は、成田から木下(現印西市)に向かっているが、このとき至長が道案内
をしているので、通り道になる神光寺にも立ち寄り、句作について語りあったことだろう。』

(P72)
200年前に、この道を一茶も同じように歩いたのですね。


松崎街道ー25

道は急な上り坂となり、前方に「観音堂」が見えてきます。


松崎街道ー26
松崎街道ー27

「観音堂」のご本尊は「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」で、安産・子育ての観音様として
信仰を集めています。
この「観音堂」は「神光寺」の管理下にありました。
廃寺となった「神光寺」の本尊や、市の指定文化財となっている「阿弥陀如来三尊来迎図」
と「地蔵十王図」は、現在はこの「観音堂」に収められています。


松崎街道ー28
松崎街道ー29

狭い境内には小さなお堂や石塔が並んでいます。


松崎街道ー34

観音像が線描されているこの石碑は、昭和9年のものです。


松崎街道ー30

観音像の他の石塔は白い苔に覆われて、紀年銘などは読めません。

松崎街道ー31   青面金剛
松崎街道ー32   馬頭観音
松崎街道ー33   如意輪観音

松崎街道ー35

この「観音堂」は昭和63年に再建されたものです。
以前はここで、あの「いしばし」が渡り板になったり、井戸の流し台になったりしていました。

石橋地蔵ー39  かつての「いしばし橋」

石橋地蔵と清水地蔵 ☜ ここをクリック


松崎街道ー36
松崎街道ー37

「観音堂」をあとに、左に大きくカーブする街道は、ようやく平坦になります。
左側に「浅間神社」がありますが、周囲はすっかり住宅地となっていて、その一角にかろうじて
残っているといった感じです。


松崎街道ー38
松崎街道ー39

郷部の交差点が見えてきました。
ここまでは、台の坂を上り、「三竹山道祖神」から「埴生神社」や「神光寺跡」の下までを下り、
そこから「観音堂」まで再び上るという、アップダウンのきつい道のりです。


松崎街道ー41

正面に「石橋地蔵・清水地蔵」が現れます。

ちょっとお参りして行きましょう。

   「いしばし橋」の石橋 石橋地蔵ー13
「いしばし橋」の石橋地蔵 石橋地蔵ー29 
 首だけだった清水地蔵  石橋地蔵ー30

もう一度、石橋地蔵と清水地蔵 ☜ ここをクリック


松崎街道ー137
松崎街道ー136

ここで郷部の交差点を横切ります。
とても交通量の多い所で、左は郷部大橋です。


松崎街道ー131
松崎街道ー132

交差点を渡ると右側にちょっと変わった建造物が見えてきます。
これは郷部配水場の貯水塔で、平成元年から排水を開始しました。


松崎街道ー71
松崎街道ー72

右側に「成田山奉納 永代護摩木山」と刻まれた石柱が見えてきます。
護摩木山とは護摩焚きの護摩札になる木材を切り出す山のことで、成田山に向かう昔の
街道筋には十数ヶ所もあったと言われています。
この辺りは鬱蒼とした森が広がっていたのでしょう。


松崎街道ー68

明治十一年(1878)に建てられた「こま木山道」の石柱。
先ほどの石柱から少し下ったところに立っています。


松崎街道ー69
松崎街道ー70

「こま木山道」の石柱から道を挟んだ反対側の斜面に小さな墓地があります。
證明寺のご住職の話では、ここはニュータウンの開発などの伴い、この一帯にバラバラに
あったお墓を集めた場所です。
宝永、享保、寛延、延享、宝暦、天明、享和などの年号が見え、見事な彫りの墓石もありますが、
いくつかは不心得者によって持ち去られてしまったそうです。


松崎街道ー138
松崎街道ー139 坂は右に左に曲ります
松崎街道ー140

松崎街道ー141
松崎街道ー142
松崎街道ー143

ちょっと怖い橋がありました。
「山口橋」と書いてあります。
下はJRの線路で、渡った先には立派なお屋敷があります。
橋には相当傷みが出ているようで、欄干は工事用のフェンスで覆われています。


松崎街道ー144
松崎街道ー212

街道はひたすら下っています。
成田線の線路が目線の高さになってきました。

この先を右に入ると、つい先日紹介した「證明寺」と「稲荷神社」があります。

証明寺ー24
証明寺ー3 證明寺 ☜ ここをクリック
証明寺ー1
山口稲荷ー3
山口稲荷ー27 稲荷神社 ☜ ここをクリック
山口稲荷ー26


松崎街道ー211

「「證明寺」に入る道を過ぎて、少し進むと「山口県道踏切」があります。
踏切の手前で道が大きくカーブしていて、道幅も狭いため、車は踏切上ではすれ違えません。

向こうの方に「雷神社(らいじんじゃ)」の鳥居が見えています。

現在の松崎街道は、踏切を渡って「雷神橋」を渡り、まっすぐ「雷神社」まで進んでから右折して
湯川方面へと向かいますが、昔の街道は踏切の手前を右に入り(ちらっと小路が見えています)
300メートルほど進んでから小橋川を渡り、「雷神社」の先に出ていたようです。

小路は途中で途切れていますが、小橋川を渡る手前の場所にいくつかの石塔が立っています。

松崎街道ー145
松崎街道ー146

寛政六年(1794)の「奉待廿三夜」と刻まれた月待塔。

月待とは、十三夜、十五夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まって、
飲み食いした後にお経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
それぞれに本尊があり、例えば十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、二十三夜は
勢至菩薩が本尊になります。
月は勢至菩薩の化身であるとされていますので、二十三夜講が最も多く見られるようです。


松崎街道ー147
松崎街道ー65
松崎街道ー64


『石仏の場所は三叉路になった追分で、石仏はいずれも道標を兼ねている。一基は中央に
「南無阿弥陀仏」と文字を刻み、左右に「なめ川道」「なりた道」とある。』
『一基は文化七年七月のもので正面に不動明王像を刻み、左側面に「なめかわ道」、右側面
に「右なりた道」とある。』
 (「成田の史跡散歩」P219)


松崎街道ー148

手前にある丸い石は、「香取神宮」や「鎮守皇神社」にあった「力石」のように見えます。
何か文字が刻まれていますが、風化でほとんど判読できません。
かろうじて「右なりた」の文字だけが読めるような気がします。


松崎街道ー150

石仏の前にかつての街道の跡がかすかに残っていますが、今は畑に入る人だけが使う農道
になっているようです。
跡は数十メートル伸びて小橋川とJRの線路で断ち切られています。


松崎街道ー62

消えた街道の先を見ると、左にちらりと「雷神社」の鳥居が見えています。
昔の街道は「雷神社」の向かって右側、100メートルほどの所に出たはずです。


松崎街道ー151

道標を兼ねた石仏によれば、三叉路のもう一方は滑川に出る旧道のはずですが、こちらも
かつての面影は無く、単なる畦道と化しています。
少し先に進んでみましたが、田畑に通う人以外には通る人はいないようです。


松崎街道ー152

郷部大橋の下を流れてきた小橋川は、まだ川幅も狭く、葦に覆われて川面は見えません。

次回は小橋川を越えて湯川から松崎に入ります。


松崎街道ー223




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街 道 | 08:53:49 | トラックバック(0) | コメント(0)
「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)~成田山から埴生神社まで
「松崎街道(まんざきかいどう)」とは、あまり聞き慣れない名前かも知れません。
いくつかある「なりたみち」の一つで、利根川から安食(あじき)を通って松崎(まんざき)を
抜け、成田山へ向かう旧街道のうち、前半が「安食街道(あじきかいどう)」、松崎に入った
後半が「松崎街道」となります。

松崎街道ー61

成田への街道の解説は、通常、成田山へ向かう上り(のぼり)の形で行われますが、今回は
趣向を変えて、成田山から松崎方面への下り(くだり)で歩いてみようと思います。
(いろいろ寄り道もしますので、数回に分けて紹介する予定です。)

余計なことですが、
MANZAKI St の表示より、Manzaki Road の方が「街道」のイメージが湧くと思うのですが・・・


境内ー20
山門ー16  昨年5月撮影
山門ー17
表参道ー40  昨年6月撮影
表参道ー39

成田山の大本堂、仁王門、総門を後に、表参道・台の坂を上ります。

松崎街道ー209
松崎街道ー207
松崎街道ー208

坂を上り切った突き当たりが明暦元年(1655)建立の、当時の本堂であった「薬師堂」です。
「薬師堂」下の歩道に「成田町道路元標」と刻まれた小さな石柱が立っていますが、大正八年
(1919)に設置されたもので、成田から各地への距離を計測するときの起点となります。

松崎街道ー108

薬師堂から右に向かうと、そこは「西参道・三の宮通り」です。


松崎街道-109
松崎街道ー1

西参道の幸町交差点付近から「松崎街道・なりたみち」は始まります。
「西参道三の宮通り」で紹介した道標にある、“西に上る 安食 木下 道”に従って、西参道
を進むことにします。

西参道・三の宮通り ☜ ここをクリック

松崎街道ー111
松崎街道ー3

交差点から西参道に入るとすぐに「黒田材木店」があり、その先を右に入る路地があります。


松崎街道ー10
松崎街道ー4

すぐに「三竹山道祖神」が見えてきます。
長い道のりを歩いてきた人たちがここで一息ついて、成田山参拝の準備をしたことでしょう。

あっさりと街道のスポットの一つに着いてしまいました。
ここはちょっと戻って、成田山の裏門から出発し直してみましょう。



裏門は土屋から長い坂を上る「裏参道」側にあります。


松崎街道ー115
松崎街道ー112

裏門から幸町の交差点に向かって坂道を上ります。
途中に信号のあるT字路があるので、ここを右へとさらに上ります。


松崎街道ー113
松崎街道ー116

けっこうきつい坂です。
振り返ると成田山の裏門の向こうに、イオンモールが見えています。


松崎街道ー117

しばらく上ると旧道に突き当たります。
左に行く道は「旧松崎街道・なりたみち」に合流する道で、(画面の手前になる)右に行く道は、
土屋を抜けて滑川へ向かう旧道です。
ここを左に300メートルほど進むと、先ほどの「三竹山道祖神」に着きます。(画面の正面方向)


松崎街道ー6
松崎街道ー7

道祖神の脇にはカヤの大木が祠を覆うように立っています。
細い道の路端にへばりつくような場所ですから、お参りするには膝を曲げてかがんで鳥居を
くぐらなければなりません。
鳥居は平成18年に奉納されたものです。


松崎街道ー9
松崎街道ー12

カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれています。
右端は元文四年(1739)の十五夜塔で、「奉唱十五夜講中町同行十八人」と記されています。
また、正面には「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面には「此方
竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
方角が少しおかしいのは、もともとの場所から移されたからだと思われます。
表示からすると、本来は道祖神の反対側のT字路に、道祖神に向かって立っていたのでしょう。


松崎街道ー5

道祖神の脇には六体のお大師様が並んでいます。
台座には幾重にもお札が貼り付けられています。

「三竹山道祖神」は地元では「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
日中でもカヤの大木とNTTのビルに陽を遮られたこの場所は、まさに「北向き」の趣きですが、
「ドウロクジン」とは「道祖神」と六体のお大師様を併せて言った言葉なのでしょうか?

※ ドウロクジンとは「道陸神」と書き、「道祖神」と同じものだということが分かりました。(7/6)


松崎街道ー10

右側に見えているのがT字路で、左に向かうと「埴生神社」への道になります。
右へ入ると、滑川への旧道になります。


松崎街道ー86

先ほど成田山裏門方向から通ってきた道ですが、これが滑川への旧道です。
細くて暗い道ですが、こういう道には何か好奇心がくすぐられます。
もう一度戻ってみます。


松崎街道ー14

フェンス越しにチラリと階段が見えました。


松崎街道ー99
松崎街道ー100

階段は下へ下へと続いています。
普段人が通っている気配は無く、枯葉が積もっています。
この階段はどこへつながっているのでしょうか?


松崎街道ー120

道を覆っていた木々の隙間から、西参道にあるNTTの鉄塔が見えました。


松崎街道ー119
松崎街道ー121

道はまだまだ続きます。
突き当たりにコンクリートの壁が見えてきました。
民家が2、3軒ありましたが、あまり生活感が感じられません。


松崎街道ー122

コンクリートの壁の上はJRの線路でした。
細い道は一応舗装されてはいますが、人が通らないので草ボウボウです。
錆びた跨線橋が見えています。


松崎街道ー125
松崎街道ー126

跨線橋に上ってみました。
成田駅方向には西参道の郷部橋と「三ノ宮埴生神社」の森が見えています。
逆方向には、かすかに成田中学のグランドが見えます。


松崎街道ー124

気になるものを見つけました。
線路の向こう側のフェンスに、一ヶ所だけ扉のようになっている場所があります。

「西参道三の宮通り」の項で見つけた「旧江弁須街道跡」のように、ここには昔、線路を
横切る道があり、踏切があったのではないでしょうか?
跨線橋の向こうは埴生神社側から下ってくる坂道で、この踏切跡(?)に行きつきます。

何か分かったような気がします。
これは、「松崎街道・なりたみち」の旧道跡です!
旧道は「三竹山道祖神」から滑川への道を少し進み、左に曲がって坂道を下り、現在の
JRの線路を突っ切って「観音堂」へと向かっているのです。
「松崎街道」についての数少ない解説には、「三竹山道祖神」から郷部橋を渡り、すぐに
直角に右折して線路わきの坂道を下るように書かれていますが、「街道」としてはいかにも
不自然な形です。
鉄道が無かった昔ならば、「道祖神」からまっすぐ「観音堂」へと街道が伸びている方が
自然な形だと思います。

線路の反対側へは、現在の「松崎街道」に一旦戻ってから向かうことにしましょう。


松崎街道ー118

長い階段を上って、滑川への旧道に戻ってきました。

だいぶ寄り道をしていますが、寄り道ついでに滑川への旧道を少し歩いてみましょう。

松崎街道ー92

民家に挟まれたお堂の中に、「青面金剛」の庚申塔がありました。


松崎街道ー87
松崎街道ー88

お堂の壁に木札が掛けられていました。
「お地蔵さま」とありますが、「青面金剛」なので、狛犬ならぬお猿さんがここにいるわけです。
昭和15年に奉納されたお猿さんには、「たすき」は掛っていませんでした。

松崎街道ー89
松崎街道ー90
松崎街道ー91

風化が進んだ5基の石塔の、一番手前は寛政四年(1792)の「日本廻國塔」で、一番奥が
明治四年(1871)の「馬頭観音」です。


松崎街道ー95

道は下りになります。
左に時計が見えているのは、成田中学です。


松崎街道ー94

成田中学を過ぎ、しばらく進むと、前方に成田山の「平和大塔」が見えてきます。


裏参道ー2
裏参道ー3

そして突然、この道は裏参道に出ます。
目の前に見えるのは、かつての軽便鉄道が裏参道を跨いだ橋梁の橋台跡です。
こんなところを鉄道が走っていたことがあるのですね。

ここを走っていたのは、成田鉄道の多古線で、土屋から寺台、法華塚を抜けて三里塚へ、
さらに千代田、五辻、飯笹から多古まで伸びていました。
(軽便鉄道についてはいずれ書こうと思っています。)

滑川への旧道はまだまだ続きますが、これ以上進むと「松崎街道」から離れすぎますので、
そろそろ戻ることにします。

松崎街道ー15

「三竹山道祖神」に戻ってきました。

松崎街道ー16
西参道ー33

道祖神を左に見て、そのまま直進すると、ほどなく西参道に出ます。
郷部橋の向こうは「埴生神社」です。

西参道ー31


「埴生神社」については何度も紹介していますので、ここでは「下總國下埴生郡成田村誌」
にある数行を紹介するにとどめます。

『埴生神社 本村原標ヨリ凡四町未申ニ方リ字神代ニアリ。社地坪三百坪、祭神ハ埴山姫
之命、鎮座年暦詳カナラス。』
『抑当社ハ古来ヨリ当郡之内十一ヶ村之惣鎮守ニシテ、氏子村と稱スル村々左之如シ。
成田 郷部 寺臺 関戸 和田 下金山 押畑 新妻 山口 東和田 成木新田 』 

(「成田市史 近代編史料集一 P76)

「本村原標」とあるのは、薬師堂前の「成田町道路元標」が大正八年に新しく設置される前の
もので、場所は同じであったと思われます。

出だしから寄り道ばかりで、一向に街道を進めません。
次回は「埴生神社」をあとに、「観音堂」、「清水地蔵・石橋地蔵」を経て、山口の「雷神社」
方面に向かいます。


松崎街道ー210




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街 道 | 08:45:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
三里塚街道を往く(その参 三里塚交差点界隈)
「三里塚街道を往く」の最後は三里塚交差点の周辺を巡ります。


三里塚街道ー72

三里塚交差点では、県道62号線と106号線が交差しています。
これでは何んとも味気がありませんね。
言い方を変えましょう。

多古街道と三里塚街道が交わるのが三里塚交差点です。


三里塚街道ー17

長い年月が表面を削った道標が交差点の傍に立っています。

道路に向かう南面には、「志バ山・九十九り」と何んとか読めました。


三里塚街道ー65

西側の面には、「○こ○(禰こ奈―案内板による)・さくら・江戸」、
北側には、「なりた・なめ川、」
東側には、「加茂・○○(多古)・てうし」
と彫られています。
今風の言い方ですと、「芝山・九十九里」「根木名(現富里)・佐倉・東京」
「成田・滑川」「加茂(現芝山)・多古・銚子」となります。

この交差点が昔からの交通の要衝だったことがわかります。

三里塚の“三里”とはどこからの三里でしょうか?
諸説ありますが、私は多古町の日本寺(にちほんじ)を起点として、
江戸までの道の三里目という説に一番説得力があると思います。
日本寺は中村檀林と呼ばれる日蓮宗の学問所があった由緒あるお寺で、
そこから一里目が染井(多古町)、二里目は加茂(芝山町)という説です。
そして、四里目は三里塚街道沿いの遠山(成田市)の法華塚になります。
江戸までに17カ所あったと言われています。


三里塚街道ー23

交差点の一角に浅間神社があります。
飾り気のない神社の前にある説明板はペンキがはげ落ちてよく読めません。
なんとか富士山信仰と浅間神社についての解説と、
明治19年に建之されたらしいことが読み取れました。

道標は、この浅間神社に隣接する駐車場の入り口近くにあります。


三里塚街道ー20

さて、三里塚と言う以上、どこかに“塚”があるはずです。

浅間神社の境内から四方を眺め渡してもそれらしいものは見当たりません。

ちょっと気になる景色がありました。
神社に隣接する公園の先に一段と高い2本の杉の木が見えます。
ちょっと離れていますが、とりあえず行ってみましょう。


三里塚街道ー52

杉の木を目指して裏道を2度ほど曲がると、
駐車場の角に「三里塚の地名のもとになったという塚0.1Km」と書かれた
小さな案内板がありました。


三里塚街道ー53

0.1Kmなんてありません。
目と鼻の先、ほんの20メートルほどのところに“塚”はありました。

でも、民家の庭先みたいなところです。
路地とも言えない狭いところを、恐る恐る進みます。


三里塚街道ー21

これが、“三里塚”です。
保存状態が悪く、残念ながら往時の面影はありません。
住宅に囲まれて、僅かに残る“塚”らしきものを
2本の杉が懸命に守っているように思えます。

“三里塚”という地名が、昔から旅人や荷物が行き交う、
歴史ある交通の要衝として記憶されるのではなく、
「空港反対闘争」の象徴的な地名として記憶されるのは、
こうした史跡の扱い方にも原因があると思えるのは私だけでしょうか?


三里塚街道ー19

交差点の角にはJRバスの停留所があります。

結構広い敷地に専用のスペースをとっています。
バスの先に見えるのはドライバーの待機所です。
多くのバスは三里塚が終点となりますが、一部は多古や八日市場まで走ります。


三里塚街道ー18

看板を見ると、「三里塚駅」と書いてあります。
ここは昔軽便鉄道が走っていた名残で、以前はまさに駅の待合室のような
停留所の“建物”が建っていました。
(軽便鉄道については別の機会に詳しく書く予定です)

まだ駅の名残の建物があった40年ほど前に、ここを通勤路にしていた私には、
この“駅”で時間待ちをするのんびりした時間が、とても好きでした。


三里塚街道ー54

交差点から62号線を芝山方向に進み、最初の信号を左折すると
正面に、天満天神社の鳥居が見えます。

遊具が見えるのは境内が保育園になっているからです。


三里塚街道ー55

遊具に旅客機があるのも、如何にも空港に近い三里塚の保育園ですね。


三里塚街道ー57

由緒のありそうな名前のお社ですが、説明板はどこにもありません。


三里塚街道ー58

破風板の先端が縦切りになっているので、ご祭神は男神様だと思うのですが・・・
(名前から推察すれば、多分菅原道真公だと思います)


三里塚街道ー59
三里塚街道ー60

来た道を戻る途中、62号線に出る手前の道を左に曲がると
面白い景色が広がります。

高い壁に囲まれた中は空港関係の施設ですが、
その壁に約100メートルにわたって壁画が描かれています。
三里塚の今と昔をテーマにした絵が並んでいます。

人通りの無い裏道ですが、ホッとする風景です。


三里塚街道ー64

壁画の反対側にあるガレージを見て驚きました。
柱に小さく「旧御料牧場厩舎」と書いた木札が掛っています。

“こんなところに残されていたのか”といううれしい思いと、
“ガレージになってしまったのか”という寂しい思いが交差します。


三里塚街道ー61

ガレージの隣は子安神社です。
案内板に「埴生郡駒井野村三里塚 明治15年建之」とあります。


三里塚街道ー62

お社の前に杉の大木が立っています。
人家に囲まれた一角ですが、木々の緑が
静かな空間を作っていました。


三里塚街道は時代の流れで大きく変わってしまいました。
昔から交通量の多い街道だったようですが、
近年の空港建設・開港により特に大きく変貌してきました。
でも、その中で道標や塚や寺や神社が、かろうじて息をひそめて生き残っています。

自然との調和、環境への配慮を十分にした開発を行い、
開発の波が“歴史”を消し去ることのないように願っています。



              ※三里塚交差点
               JR成田駅東口からバスで約25分。
               以前紹介した三里塚記念公園はバス停から徒歩3分。
               




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街 道 | 18:50:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
三里塚街道を往く (その弐 清水神社から三里塚記念公園まで)
今回は前回の“寺台から法華塚まで”に引き続いて
三里塚街道を大清水から三里塚に向かって進みます。


三里塚街道ー2

三里塚街道を走るJRバスのほぼ中間点、大清水バス停からスタートします。

バス停から法華塚方向にちょっと戻ると
左に下る小さな坂があり、清水神社が見えます。
道から見ると目線に鳥居がかかります。


三里塚街道ー3

小さなお社で何の飾りもありません。
最近建て直された手水舎だけが目立ちます。


三里塚街道ー5

脇の坂を10歩も下れば「弘法の清水」があります。
昔、この地に住む一人の老人が、水を所望する旅の僧侶のために
遠くまで水を汲みに行って飲ませたところ、
「この坂の下を掘れば清水が湧く」と伝えて去って行ったので、
翌日そこを掘ってみたところ、本当に清水が湧き出し、
近隣の住民は大いに助かったという言い伝えです。
後にこの僧侶は弘法大師だと知り、「弘法の清水」と名付けられました。


三里塚街道ー6

今は井戸には蓋がされ、ポンプが取り付けられて少々味気ない景色ですが、
安全のためには仕方ないでしょうね。
手前の池にはメダカがたくさん元気良く泳いでいました。


三里塚街道ー30

バス停を三里塚に向って1つ歩き、宮下のバス停の手前を右折します。
100メートルほどで右手に「星神社」が見えてきます。
街道をちょっと入っただけで、車の往来は無く、とても静かです。


三里塚街道ー31

星神社なんてなかなかロマンチックな名前ですね。

延喜年間に千葉城の鎮守として駒井野に創杞されましたが、
ここも近隣の多くの寺社と同様に空港事業の関係で
平成5年にこの地に遷座されました。


三里塚街道ー33
三里塚街道ー37

本殿の左奥には熊野神社、手前には天神社、子安神社、稲荷神社が合祀されています。


三里塚街道ー35

裏手の一隅にお不動様がありました。
うつむいているようなお姿はめずらしい気がします。
台座の裏に天保十四年という文字が読めます。

※この石仏は庚申信仰の「青面金剛」像でした。(「お不動様」は間違い) 2016/07/09 記


三里塚街道ー39

星神社の左手の坂を下ると高福寺が見えます。
天台宗のお寺です。

三里塚街道ー41
三里塚街道ー42

お地蔵様の台座には宝暦三年と彫られています。

寺の由来を知る手掛かりは無く、谷間に静かに佇んでいます。

三里塚街道ー43

何も書いてありませんが、用事があれば鐘を鳴らせということでしょうか。


三里塚街道ー46

来た道を引き返し、さらに街道をバス停1つ歩くと三里塚小学校があります。


三里塚街道ー48

明治24年の開校という歴史ある学校で、
正門は津田沼鉄道大隊の兵舎の門であったものを移設しました。


三里塚街道ー49
三里塚街道ー51

広い校庭の周囲はうっそうとした木々に囲まれ(ここも校庭の中です)、
こんな環境で勉強し、遊べる子供たちはうらやましいかぎりです。


三里塚街道ー91

交通量の多い三里塚街道ですが、
標識がなければここが昔からの街道だとは気付かないでしょう。

右奥に見えるこんもりとした木々は三里塚小学校の校庭の林です。


三里塚街道ー90

小学校の正門前からは三里塚記念公園の森が見えます。
前に紹介してからさほど時間は経っていませんが、トチノキ並木は
新緑のアーチとなって、大きな日陰を作っていました。
夏の散歩は涼しそうです。

三里塚はもう目の前です。



          ※次回は三里塚の近辺を散策します。



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街 道 | 18:33:18 | トラックバック(0) | コメント(2)
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