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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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いつの日か、昔日の境内が蘇れ~村田の「耕田寺」
耕田寺ー1
耕田寺ー37

村田の細い山道を登ると、二本の石柱が目に入ります。
「耕田寺」の門柱で、大正八年(1919)建立です。


耕田寺ー35
耕田寺ー49

山道からお寺への道の片側は崖になっていて、地層がむき出しになっています。


耕田寺ー2
耕田寺ー38
耕田寺ー39

石段の脇に湧水があるようで、コンクリートで囲われた小さな池があり、中に数匹の金魚
が泳いでいました。


耕田寺ー4

石段は急勾配で、上の様子は見えません。


耕田寺ー5

石段を登り切ると正面に集会所のような建物が見えます。
周りには建物がありませんから、どうやらこれが「耕田寺」の本堂のようです。
ごく最近建てられたもののようで、寺額は架かっていません。
境内も整地されたばかりのようで、立木も無く殺風景な感じです。

この「耕田寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「若宮山」。
佐原の「大龍寺」の末寺で、ご本尊は「十一面観音菩薩」です。
史料にはそれぞれ下記のように記されています。

「臨済宗妙心寺派。村田村字寺下に所在。山号は若宮山(「郡誌」)で、若宮八幡の
別当寺であることからの名称。本尊は観世音(「県寺明細」)。長泉寺と同じく大龍寺
の末寺。」
 (「大栄町史通史編中巻」P559)

「若宮山耕田寺 大須賀村大字寺下に在り域内二百五十坪臨済宗にし觀音を本尊とす
開創詳らかならず寺傳に曰く本寺には弘安年中北條時宗國難を全國の神社に祈願し
討平の後ち香取神宮に収めし時の十一面觀世音菩薩を安置せしものなりと」

(「香取郡誌」大正十年 P431 アンダーライン部分は脱字?)
村田村は明治二十二年(1889)の町村制施行に伴い、大須賀村になっています。
 
臨済宗は建仁寺派・東福寺派・建長寺派を始め十数派に分かれていますが、妙心寺派
は3500寺近くを有する最大の派で、成田市内の5つの臨済宗寺院は全て妙心寺派に
属しています。
「耕田寺」の本寺である「大龍寺」は、佐原にある大同年間(806~810)に創建された
1200年以上の歴史を有する古刹です。
寺伝の通りだとすると、ご本尊の「十一面観世音菩薩」が香取神宮から移されて安置され
たのが弘安年間(1278~1287)であることから、この「耕田寺」の創建は730年以上も
前ということになります。


耕田寺ー6

補修された手水盤には、■■四十二年一月と記されています。
風化の状態から明治四十二年(1909)に寄進されたものと思われます。


耕田寺ー7
耕田寺ー9

本堂の右手に建つ宝塔には、「天明三癸卯八月」と記されています。
天明三年は西暦1783年で、この年は浅間山の大噴火によって天明の大飢饉がさらに
深刻化した年です。
正面には「㳒界萬靈」と刻まれ、裏面に「奉讀誦大乘妙典千部」「権大僧都法印觀海」と
刻んでいます。

宝塔の隣に立つ説明柱には、ご本尊について下記のように書かれています。

「成田市指定有形文化財 銅造十一面観世音菩薩坐像 鎌倉時代
佐原市観福寺所蔵の重要文化財である銅造十一面観世音菩薩座像と同じものと思わ
ています。もとは、香取神宮本地仏であったと伝えられていますが、この作風からみて
地方では僅少の金銅仏で貴重なものであります。」


「成田の地名と歴史」には、この「銅造十一面観世音菩薩座像」について次のように
詳述しています。
「村田の耕田寺の本尊で、像高21.9cmを計る銅像である。髻頂に仏面、髻中に
頭上面十面をあらわし、正面には化仏を配する。頭部・体部・脚部を一鋳し、両腕
は別鋳して、肩でアリ枘挿しする。鍍金の痕跡が認められる。背面は平らにし、上下
2か所に接合用の枘(小孔を持つ)を鋳出しているので、もとは懸仏であったものと
考えられる。本像はよく引き締まった丸顔に明るく生気ある表情を見せ、胸、腹など
の肉付けにも生彩がある。これらの作風から、本像は鎌倉時代も13世紀後半ごろ
の作とみられる。」
 (P256)


耕田寺ー11
耕田寺ー12
耕田寺ー13

失礼して、ガラス越しに内部の写真を撮らせていただきました。

ご本尊の「十一面観世音菩薩坐像」の写真が飾られ、「観世音」の掲額も見えます。
色鮮やかな厨子の中にご本尊が安置されているのでしょうか。


耕田寺ー10

本堂の軒下に小さな鐘が吊るされています。
宝暦十年(1760)と記されていますが、気になる文字を見つけました。

「下總國香取郡村田村若宮山光傳禪寺小鐘銘」 とありました。
「耕田寺」ではなく、「光傳寺」となっています。
これについては、「大栄町史 通史編中巻」に次のような記述がありました。

『「禅宗済家妙心寺派下寺院帳」や、天明四年の内寄水帳では「光伝寺」とある。』
(P559)
以前は「光傳寺」であったものが、何らかの理由で「耕田寺」に変わった訳です。
意味のある改称であったはずですが、史料は見つかっていません。


耕田寺ー14

ポツンと立つ灯篭は昭和58年に奉納されました。


耕田寺ー15

「奉讀普門品壱萬巻供羪塔」。
大正十参年(1924)と記されています。


耕田寺ー16

この板碑には梵字の下に「平」という文字が刻んであります。


耕田寺ー17

この小さな石仏は摩耗が激しく、はっきりとは分かりませんが、立膝をした如意輪観音の
ようにも見え、赤子を抱いているようにも見えるので慈母観音かも・・・。
ずんぐりした、見慣れないスタイルの石仏です。
「明治四十三年女人中」と記されています。


耕田寺ー18

多分「地蔵菩薩」だと思いますが、苔がたくさん付いていて、よく分かりません。


耕田寺ー19

境内横の山腹に墓地が見えます。


耕田寺ー20

道が消えて雑草が生い茂る中を、何とか墓地まで登ると、石仏と祠が並んでいます。


耕田寺ー21

「奉建立子安観世音」と刻まれたこの子安観音像には、「寛政十■午十一月吉日」と
記されています。
寛政十年代で干支に午があるのは十年だけですから、この子安観音像は寛政十年
(1798)のものです。
とても優しいお顔をしておられます。


耕田寺ー40

「子安観音」の隣は元禄二年(1689)と元禄十三年(1700)年と記された二つの戒名
が刻まれています。
真ん中の石仏は享保四年(1719)のものです。

耕田寺ー23
耕田寺ー24

右端にある祠は珍しいものです。
正面には、「待拾九夜同志満願■女二十七人施主」と刻まれています。
この文字からは「月待塔」ということになりますが、側面と裏面にそれぞれ二体ずつの
地蔵像が彫られています。
月待塔に六地蔵の組み合わせは初めて見ました。


耕田寺ー25
耕田寺ー26

元禄、享保、延享、宝暦、寛政、文化、天保等の年号が見えます。


耕田寺ー27

突き当たりにも数基の板碑が・・・。
その形状から、下総型板碑と武蔵型板碑が混在しているようです。


耕田寺ー28
耕田寺ー29
耕田寺ー30

さらに上の山腹には歴代住職のものと思われる卵塔が並んでいます。
板碑も2基ありました。


耕田寺ー31

卵塔の並ぶ墓地から見下ろす村田の景色。
右下に見えている屋根は「耕田寺」の本堂です。


耕田寺ー32

墓地の一角に「青面金剛王」と刻まれた庚申塔がありました。
寛政十■とだけ読めました。
「寛政」は十三年までで、たまたま十二年(1800)が「庚申」にあたります。
寛政十二年に建立されたと考えても良いのではないでしょうか。


耕田寺ー33

庚申塔の隣の「月待塔」。
「奉造立十九夜月天子」と刻まれています。
月天子はインドの月の神で、仏教では勢至菩薩の化身とされています。
明和九年(1772)の建立です。
この年は江戸三大火の一つ、「目黒行人坂の大火」があった年で、この他にも度々災害
が起こったので、人々は“迷惑年=明和九年”などと言い合ったそうです。


耕田寺ー43

「奉造立十三夜」、「天明七丁未十一月吉日」と記された「月待塔」。
天明七年は西暦1787年になります。
宝冠をかぶり、右手に剣、左手に宝珠を持つ、「虚空蔵菩薩」が刻まれていますが、
これは十三夜講が「虚空蔵菩薩」を信仰対象としているからです。


耕田寺ー45
耕田寺ー46

小さなバッタがいました。
夏も終わり、動きも鈍ってきたのでしょうか、カメラを近付けてもジッとしています。


耕田寺ー34
耕田寺ー42

本堂を建て直し、境内を整地して間もないからでしょうが、何となく物足りない風景です。

でも、ここは(寺伝によれば)730年以上の歴史ある「耕田寺」なのです。
再び木々が茂り、鳥や虫が集い、長い歴史を浸み込ませた石仏や板碑が似合う境内が、
五十年、百年先のいつの日か、戻ると信じたいと思います。
そして、その蘇った境内を決して見ることのない私は、と言えば、“光を伝える”寺(光伝寺)
が、如何なる理由から“田を耕す”寺(耕田寺)となったのかを教えてくれる史料が、いつか
眼前に現れることを信じています。


耕田寺ー36


               ※ 「若宮山耕田寺」 成田市村田333



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大須賀村の寺社 | 07:54:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
寺名も宗派も変えて紡ぐ690年の歴史~堀籠の高徳寺
今回は堀籠(ほうめ)の「高徳寺」を訪ねます。

高徳寺ー18

「高徳寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「池谷山(ちさくさん)」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。


高徳寺ー1

堀籠の山道を登ると、ポツンとお堂が建っています。


高徳寺ー2
高徳寺ー4

左右には一体ずつ石仏が置かれ、お堂の中には紐で結ばれた細長い厨子が。


高徳寺ー5

左側の石仏は頭や印を組む手が欠けていて、何の仏様か分かりません。(頭はセメントで
一応着け直されています。)
年代も分かりませんが、立膝の見慣れないポーズをとっています。
「興福寺」の国宝の中にある法相六祖の「伝・行賀像」や「伝・神叡像」がこれに似たような
ポーズですが、石仏としては見たことがありません。


高徳寺ー6

右側の石仏は「釈迦如来」とも見えますが、親指と人差し指で輪を作り、右手を上に、
左手を下に置く「上品下生印」を組んでいるので、「阿弥陀如来」です。
天明二年(1782)と記されていますが、この年は近世における最大の飢饉と言われる
「天明の大飢饉」(天明二~八)が始まった年です。

お堂の先に左に下る急坂があり、お寺の本堂がチラリと見えています。
下り口に消えかかった文字で高徳寺と書かれた掲示板(?)がありました。

高徳寺ー35

高徳寺ー8
高徳寺ー10

「高徳寺」については、「千葉縣香取郡誌」の寺院の項に“その他の寺院”としてだだ一行、
「大栄堀籠 宗派・曹洞宗 本尊・阿彌陀如来」とのみ記されているだけですが、実はその
前身の「興徳院」から数えると700年近い歴史を秘めた古刹なのです。

「この地には、鎌倉時代から室町時代にかけて、成田市吉岡に所在する大慈恩寺の
末寺で、真言律宗の興徳寺があったとされています。しかし、いつの時期に興徳寺から
高徳寺となり、曹洞宗に転じたかは不明です。」

(「成田市の文化財 第42集 P28)

「曹洞宗。堀籠村字池ノ谷に所在。山号は池谷(ちさく)山。本尊は阿弥陀如来。伊能村
宝応寺の末寺。禅宗でも他宗と同様龍門寺ー長国寺ー宝応寺ー高徳寺という多層の
上下関係が成立していた訳である。高徳寺の地には鎌倉時代末期から室町時代前期
にかけて、大慈恩寺末で真言律宗の「興徳院」があった。」
「興徳院から高徳寺となり、曹洞宗に転じた年月については現時点では未詳である。」

(大栄町史 通史編中巻 P560)

現在の「高徳寺」は曹洞宗で「宝応寺」の末寺ですが、その昔は真言律宗で「大智恩寺」
の末寺の「興徳院」であったようです。

この「興徳院」については、「成田の地名と歴史」に次のように書かれています。

「堀籠字池ノ谷にあった律宗寺院で、大慈恩寺の末寺であった。現在同地にある曹洞宗の
池谷山高徳寺の前身。国分氏の祖胤通の子である村田宥通は、大戸庄村田郷を名字の
地としたが、その子孫に当たる胤朝・胤頼らは1325(正中2)年、当寺の本寺を大慈恩寺と
定め、村田郷堀籠村の内で寺領を寄進し、寺領における公事(税)免除の特権を与えた。」

「1336(建武3)年には国分朝胤が、堀籠村の内の寺領を、大慈恩寺の末寺であることを
条件に安堵している。1363(貞治2)年には、国分一族の胤村・貞義も堀籠村の内で寺領
を寄進している。国分氏の一族は、大慈恩寺の末寺である当寺を外護することを通じて
律宗を信仰していたのである。」
 (P256)


高徳寺ー11
高徳寺ー12

境内の左手奥に建つ「慈母地蔵尊」。
右手に錫杖を持ち、左手に子供を抱え、足許にも袈裟にすがる子供が刻まれています。

親に孝行の徳を積む間もなく幼くして世を去った子供は、賽の河原で鬼にいじめられながら
石塔婆作りを続けさせられるとされていますが、地蔵菩薩は賽の河原を訪れては子供達を
守りながら、仏法やお経を聞かせることで徳を与え、成仏への道を開いてあげると言い伝え
られています。
この像は、その地蔵菩薩の姿を現しています。


高徳寺ー14
高徳寺ー15

「慈母地蔵尊」の後方の山腹には、小さな墓地があります。


高徳寺ー16
高徳寺ー17

慶安、元禄、宝永、享保、元文、延享、宝暦、明和などの年号が読め、300年以上前の
古い墓石も多く並んでいます。


高徳寺ー19
高徳寺ー20
高徳寺ー34

本堂の鬼瓦には、千葉氏の流れを組む国分氏の家紋である「九曜紋」が光っています。


高徳寺ー21
高徳寺ー13

「慈母地蔵尊」の奥に建っている「一石一字塔」。
「奉書寫大乘妙典一石一字」と「讀誦千手陀羅尼百万遍」と記されています。
明和二年(1765)の紀年銘があります。
「大乗妙典」とは、人々を悟りの世界に導いてくれる経典のことで、法華経(妙法蓮華経)
のことです。
「千手陀羅尼(せんじゅだらに)」は、千手経のことで、千手観音の功徳を説いたお経です。

「一石一字塔」は経文の文字を一文字ずつ石に書いて埋めたもので、土屋の「薬王寺」や
東和泉の「城固寺」にもありました。


城固寺ー17 城固寺の一石一字塔


高徳寺ー23
高徳寺ー24

本堂の裏にある墓地は、山腹の墓地より新しい墓石が多いようです。
周りの竹やぶの中で、曼珠沙華が深紅の花を咲かせています。


高徳寺ー26
高徳寺ー25

本堂の新築記念碑には、空港関連事業や東関東自動車道の大栄インターのために、寺山
の大部分が買収の対象となってしまった経緯と、この本堂が平成15年11月に落成したこと
等が記されています。


高徳寺ー27
高徳寺ー28

境内の脇からもう一つの坂が下っています。
どうやらこちらが正門だったようです。
門柱は大正四年(1915)に建立されました。


高徳寺ー30
高徳寺-29

門柱の陰に「不許葷酒入山門」と刻まれた「結界石」が立っています。
“酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は修業の妨げとなるので、入山すること
を許さない”という、曹洞宗のお寺の入口には必ずと言って良いくらい立っているものです。

養泉寺ー3 養泉寺の結界石(東和泉)
東参道ー15 永興寺の結界石(寺台)
長興禅寺ー16 長興院の結界石(伊能)
宝応寺ー8 宝応寺の結界石(伊能)

高徳寺ー31
***************高徳寺ー32

南天の葉に小さなアマガエルがいました。(あわてて撮ったのでピンボケです)

高徳寺ー33
高徳寺ー9

「成田市の文化財第42集」や「大栄町史」では、「高徳寺」がいつ「興徳院」から改宗し、
改称したのかは不明としていましたが、「成田の地名と歴史」中の「興徳院」の項に、

「近世に入ると伊能の宝応寺七世の懃南嶺慇(1661没)が曹洞宗に改宗して宝応寺の
末寺として高徳寺と改め、当寺に隠居した。」
 (P256)

と改宗・改称について書かれていました。
宝応寺七世の懃南嶺慇が1661年(万治四年)に没したとすれば、改宗・改称の時期は、
明暦年間または万治年間と考えて良いと思われます。

堀籠の「高徳寺」は、正中二年(1325)に真言律宗の「興徳院」として開かれ、明暦・
万治年間に曹洞宗に改宗して、寺名も「高徳寺」と改めたということで、「興徳院」から
数えて690年、「高徳寺」となってからも約350年の歴史を持つ古刹です。


高徳寺ー36
高徳寺ー37

                       ※ 「池谷山高徳寺」 成田市堀籠614



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大須賀村の寺社 | 07:45:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
琴平神社と道端の六地蔵~佐原街道沿いの松子・馬洗
【ちょっとしたスポット】
旧大栄町の松子・馬洗地区は、大栄支所や公民館などの裏に隠れていますが、
旧佐原街道沿いの歴史ある地域です。

まずは「琴平神社」を訪ねます。

琴平神社ー1

街道に面して建つ、昭和52年に建立の明神鳥居。


琴平神社ー2

鳥居の脇の手水盤(?)。
手造り感満点ですが、水は出ていません。


琴平神社ー3

急な階段は65段あります。


琴平神社ー4

途中に立っているスリムな灯篭は大正十一年(1922)の寄進です。


琴平神社ー5

灯篭の反対側にある「石段勧進寄付者」と刻まれた小さな石碑。
明治二十四年(1891)と記されています。
並んで2基の石碑がありますが、風化で文字等の判別は難しそうです。


琴平神社ー14

身体を横向きにして下りないと転がり落ちそうな急勾配です。


琴平神社ー10

階段の上は20坪ほどの境内ですが、お堂の他には何もありません。
お堂は平成元年に新築されました。


琴平神社ー6

お堂の内部。

この神社に関する情報は今のところ全く見つかりません。
「成田の地名と歴史」(平成23年 成田市発行)には、この神社のある松子には「八幡神社」と
「天満神社」の2社しか記載されていません。
千葉県神社庁の「神社名鑑」には、上記2社の他に「宇迦神社」が掲載されていますが、「琴平
神社」の名前は見当たらず、念のため「金比羅宮」「金毘羅神社」で探してみましたが、やはり
該当する神社はありませんでした。
ゼンリン地図には載っているのですが・・・。
残念ながら現時点では、創建・ご祭神・由緒については不詳と言うことになります。


琴平神社ー8
琴平神社ー9

倒木にハグロトンボが止まっています。(取材は8月上旬でした)
ひらひらと羽根を蝶のように動かして飛ぶこのトンボは、子供のころに田舎の小川で群舞する
姿を見て以来、大好きになりました。
今でもたまに見つけると、懐かしさと、何か幸運が舞い込むような気がして、うれしくなります。


琴平神社ー11
琴平神社ー12
琴平神社ー13

手造りの梯子が裏の斜面に立てかけてあります。
斜面の上には何もありませんが、成田市の大栄支所(旧大栄町役場)や近隣ののどかな
風景が見渡せます。

チラリと公園のような場所が見えたので、ちょっと回り道をしてみます。

琴平神社ー32

国道51号線に面した「旧大栄町役場」、現在の「成田市役所大栄支所」です。

「大栄町史 通史編下巻」に大栄村、そして大栄町役場についての記述があります。

「昭和三十年三月二十三日に両村の議会は合併案を審議、昭栄村議会は満場一致、
大須賀村議会は賛成一五、反対四でそれぞれ議決された。新町の名称は大須賀村の
「大」と昭栄村の「栄」とを併せて大栄町と決定、新庁舎は新町のほぼ中央にあたり、
且つ交通の便利な大須賀川沿岸の大須賀村地先に建設することに決定したが、それ
までの間は昭栄村役場庁舎を新町役場庁舎として使用することになった。」 
(P518)

この新庁舎の場所は伊能2326番地で、昭和46年6月に写真にある現在の庁舎に
移転するまで使われていました。
現在の庁舎から国道51号線を佐原方向に少し進んだ、伊能交差点の手前あたりです。

支所の庁舎は町役場時代のものですが、「大栄公民館」や「保健福祉館大栄分館」
など、新しい立派な建物が集中しています。

琴平神社ー29 学校給食センター
琴平神社ー30  保健福祉館
琴平神社ー31  大栄公民館


琴平神社ー21
琴平神社ー22

支所の裏側に回ると、「松子街区公園」という立派な公園がありました。


琴平神社ー25

左側に見える杜が「琴平神社」ですが、こちら側から行くことはできません。

この辺りにはかつて「馬洗城」があったことが分かっています。
この公園や大栄支所の辺りの地形は、大分開発の手が入っていますが、確かに台地
がせり出した、「城」を築くには適した地形に見えます。

「馬洗城」に関しては「大栄町史 通史編 中世補選」に次のように書かれています。

「大須賀川中流の左岸、松子城跡のある半独立状台地の南端にあった。台地北端に
あった松子城跡fが標高三五メートルほどであるのに対し、こちらは四二メートルほどと
いくぶん高い。台地の南側を半周するように、千葉と佐原・香取を結ぶ古道が巻いて
いる。」
  (P92)

この古道とは、旧佐原街道のことです。
また、発掘調査で出土品が少なかったことから、この城がすぐ近くにあった「松子城」と
一体となって機能する「支城」であったと推測しています。

「本城は大須賀川の渡河点(「馬洗」という字は渡河点を示す)と古道を監視するため
と、国分氏勢力に直接松子城をさらさせないために、外郭に置かれた支城である。その
ため、生活拠点的な性格は薄かったのであろう。」
  (同P94)


琴平神社ー27 公園下の馬洗池
琴平神社ー28

琴平神社ー26

公園の下にある小さな墓地は、
「火葬施設や墓壙、地下式抗、宋銭、宝篋印塔などが出土していることから、城の存在
時期より以前は墓域であったことがわかっている。」  
(前出町史 P94)
とあることから、開発にあたって、昔からあった墓地をまとめたものなのでしょう。

周辺に何か歴史的に興味あるものが無いか探してみました。

琴平神社ー33
琴平神社ー34
琴平神社ー35

公園から神社の方向へ戻る途中に、道端の草むらに隠れた石塔がありました。
苔に覆われ、下部は草が密生していて全体像が見にくい状態です。
正面に地蔵菩薩が彫られていて、その下と左右、裏面に文字が刻まれています。

「大栄町史 通史編中巻」にこの石塔のスケッチがあるので、そこから何とか文字を拾うと、
表面の下部は戒名が、左側面には「東 いのう(伊能) さら(佐原)」とあり、右側面には
「西 きちをか(吉岡)り田(成田)」、裏面には「南 うすくり(臼作) ひとつぼた(一坪田)
 まいやし(前林) 道」と記され、「文政十亥八月」とあります。(太字は変体仮名)
これは道標を兼ねた供養塔のようです。
文政十年は西暦1827年になります。


琴平神社ー15
琴平神社ー17
琴平神社ー18

さらに神社下から「馬洗橋」に向かうと、もう一つの石塔が立っていました。
この石塔も道標を兼ねた供養塔ですが、三面の上部には二体ずつ、計六体の地蔵像
(六地蔵)が刻まれている珍しいもので、裏側には寛政・安永等の年号と複数の戒名
らしきものが記されています。
「願主 宮野藤兵衛」と先ほどの供養塔と同じ願主名が記されています。

三面の下部には、正面に「なりた(成田)・きちおか(吉岡)」、左側面に「うさ(神埼)・
(奈土)・(不明)」、裏面に「いの(伊能)・さわら(佐原)」と刻まれています。

民家の庭に食い込むように建っていて、電柱の陰にもなっているため、注意して見ないと
見落としてしまいそうです。


琴平神社ー19

「六地蔵」から見た「琴平神社」の鳥居です。

ところで、この「六地蔵」を調べていて、突然「琴平神社」の名前が出てきて驚きました。
「大栄消防団第二分団第四班機具庫」を右に見ながら進むと、道は左右に分かれる。
旧道は琴平神社の祀られている高台の下の道を行き、・・・」
 
(「大栄町史 通史編中巻 P476)
私の調べた限りでは、「琴平神社」の名前が出ているのはこれだけです。

大正十年(1921)編さんの「香取郡誌」にも現われず、平成14年に編さんされた「大栄
町史」の神社の項目にも名前が無く、ただ一ヶ所チラッと出ているだけの「琴平神社」。
「六地蔵」ともう一つの道標はここが昔の「佐原街道」であることを示しています。
さらにここには「馬洗城」があったことなどを考えると、松子のこの一帯にはまだまだ知ら
れざる歴史が埋もれているように思われます。

旧佐原街道は「六地蔵」を過ぎ、大須賀川に架かる「馬洗橋」を渡り、伊能の台地上の
「秋葉神社」を通り、「大須賀神社」へと向かっていました。
現在は国道によりこの街道は分断されてしまいましたが、所々には道標や祠が残って
いて、昔の面影を残しているようです。


琴平神社ー36

                     

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寺社 | 08:57:10 | トラックバック(0) | コメント(0)
門前四か町の一つ「本町」は、電車が走る官庁街だった
本町(ほんちょう)は成田村の「成田山門前四か町」の一つです。
四か町とは、仲町、田町、上町、そして本町を指します。

(仲町、田町、上町の記事は、巻末にリンクがあります。)

本町ー1

ここが本町の北端。
手前の黒い建物は酒屋の「なべだな(鍋屋源五右衛門)」、その後ろは「鍋店ビル」です。
鍋店ビルのすぐ後ろは、同じ「成田山門前四か町」の田町になります。


本町ー2
本町ー3

成田山総門に向かって右側の境内の外れから、参道に面した一角は「本町」になります。
総門側の、普段は閉まっている小さな売店から、右端の「なべだな(酒屋)」まで、数軒の
店が並んでいます。
「なべだな」の先は田町方向への道を挟んで田町の弘恵会駐車場です。


本町ー5 「若松本店」

総門向かいの「若松本店」は「本町」ですが、隣の「信徒会館」は「成田」です。
「信徒会館」だけが「成田」で、その隣の「佐野屋」からは「本町」になります。
入り組んだ境界線ですが、もともとは「若松本店」から「いなりや」までの並びが本町だった
のが、後述する「日赤病院」(前・蓬莱閣ホテル)を成田山信徒会館とした時点で、この場所
だけを「成田」に移したのではないでしょうか。


本町ー6 「信徒会館」
本町ー4 「佐野屋」
本町ー8「いなりや」(左端)


本町ー12
本町ー13
本町ー14

「東町」との境の「いなりや」の脇に小さなお堂があります。
「正一位胡桃下稲荷大明神」の幟が数本立っています。
詳細は不明ですが、幟の中に「笠間稲荷大明神」と記したものが一本ありましたので、
茨城の「笠間稲荷」から分祀したものと考えられます。
「笠間稲荷」は別名「胡桃下稲荷」とも言われています。


本町ー7
本町ー9

参道から京成成田駅方面にに抜ける、通称「電車道」です。
この辺りが宗吾参道から成田駅を通って成田山まで走っていた「成宗電車」の終点で、
昭和19年に廃止されるまで「山門前駅」があった所です。
そのためでしょうか、この一角だけは道幅がとても広くなっています。
私の記憶では、30年ほど前までこの場所には大きな鉄傘が架かっていて、商店の店先
は昼間でも薄暗かったものです。
あれは駅の名残りだったのでしょうか。

「成宗電車」は、明治四十三年(1910)12月に門前~成田間が開通しましたが、宗吾~
成田間のように、すんなり実現したわけではありません。
門前への乗り入れには当時150台近くあった人力車の車夫や参拝客に素通りされる
不安を持つ上町や花崎町の商店主らが猛反対し、乗り入れ推進派の本町・田町との間で
町を二分する大騒動となりました。

滑車が回転して架線に接する集電装置(トロリーボール)で走る、定員40人の車両で、
巾約2.3メートル、長さ約8メートル、重量は約6.4トンでした。
(「成宗電車」についてはいずれじっくり取材して書くつもりです。)


電車道を京成成田駅方面にちょっと進んで左に折れると、町役場や郵便局、警察、裁判所
などがあった、かつての官庁街の一帯に出ます。
今は全てが移転して何も残っていません。

本町ー56
この辺りが官庁街だった(?)本町ー16
本町ー15

明治三十二年(1899)に本町字谷津に新たに役場が建設されました。
木造二階建ての新役場の建設費は当時のお金で1785円かかりました。

「仝丗二年町村制施行につき成田町役塲と改稱九月十日成田町字谷津五百九十八番地
の二に新築移轉す即今の建物之にして敷地二畝十八歩建物は瓦葺木造二階建一棟建坪
四十七坪七勺三才あり」
 (「千葉縣印旛郡誌」中の「成田町誌」)
(合は坪の10分の1、勺は合の10分の1、才は勺の10分の1)

町役場の周辺には、郵便局や警察の成田分署、佐倉裁判所の出張所などが集まって、
活気ある官庁街を形成して行きます。
この役場は昭和9年に建て直されました。
一階には事務室・町長室・助役室・応接室・食堂・印刷室などがあり、二階には会議室・議員
控室などがあるモダンな建物で、昭和29年に成田市が誕生後も、増改築を繰り返しながら
現在の市庁舎が建てられる昭和33年まで使われていました。


本町ー17

ここが現在の本町598番地。
番地が変更されていなければ、役場があった場所はここになります。
いまは跡形もありませんが、道端に鳥居が立っています。


本町ー18

細い路地の先に石段が見えます。


本町ー21

80段余りの九十九折りの石段を登ると、鞘堂に護られたお堂がありました。
このお堂の名前は地図にも史料にも出ていません。


本町ー22
本町ー23

お堂の前には「永代常燈明」を刻まれた小さな石塔と手水鉢があります。
石塔は一部が欠けていますが、「品■ 講中」と記され、側面には寛政十一年(1799)と
読める紀年銘があります。
手水鉢はお椀のような形の変わったものですが、年代は分かりません。


本町ー25
本町ー28

ここからは、門前地区の本町と成田山の伽藍が見えます。

鳥居のあった場所から石段の下までは「本町」ですが、このお堂は、上町が本町と東町
の間に突き出した場所にあります。


本町ー30
本町ー31

「電車道」の一本裏の道は静かな住宅街です。


本町ー32

登り坂の途中に大師堂と地蔵堂がありました。


本町ー34
************本町ー35
本町ー36
************本町ー37

大師堂の中には小さな大師像が見えます。
地蔵堂には3体のお地蔵さまが立ち、中央の大きなお地蔵さまの台座には「三界万霊」
と刻まれています。
右端のお地蔵様は痛ましいお姿です。
それでも何とか修復が試みられて、あちらこちらにセメントの痕がありますが、首は無く
なっていて、頭の形をしたセメントの玉が載っています。


本町ー38

道端の地蔵堂は、何か懐かしい風景です。


本町ー39
本町ー40

登り坂の上は突き当たりになっていて、左側は「成田幼稚園」、右に行けば「上町」です。
チラリと「電車道」のトンネルが見えています。


本町ー41

トンネルの上から成田山方面を見ています。
画面右側が「本町」、左側は「上町」です。


本町ー42

「電車道」に下りてきました。
先ほど上から見下ろした「成宗電車」の名残りのトンネルが見えます。


本町ー44
本町ー45

電車のホームにある駅名板のようなものが、石垣に取り付けられています。
昔のものではなさそうですし、バス停でもなさそうです。
書かれている地名は、昔の小字(こあざ)で、「谷津」はこの一帯の小字、「小井戸」は
石段を上った先の小字で、古地図には、この辺りに「神明ミタラシ小井戸」があり、坂の
上には「神明社」が書き込まれています。


本町ー53

「電車道」を成田山に向かって戻ってきました。
「信徒会館」の裏側に左に入る細い石段が見えます。
「神明山」に登る道です。


本町ー49

石段は途中で二又に分かれ、真っ直ぐ登ると、昔の一時期に新勝寺があった「神明山」
に向かい、左に折れると「上町」の住宅街、そして表参道へと続いています。
分かれ道に祠が3基立っています。
手前の屋根の下の祠は、補修が加えられていて一見新しく見えますが、明和八年辛卯
(1771)と記され、露天の右側の祠には天保五年(1834)と記されています。


本町ー50  「旧蹟神明山」の碑
本町ー52  神明山へは立入禁止

本町ー51

振り返ると先ほど登った向いの山の神社や道路の鳥居が見えています。

神明山については、以前書いた「お不動様の旅(4)」の項でふれています。

「神明山」から「現本堂」まで~お不動様の旅(4) ☜ ここをクリック


本町ー6

さて、最後にもう一度信徒会館に戻って、以前ここに建っていた「蓬莱閣ホテル」について
書いてみます。(写真は下記の成田市立図書館のホームページ中にありますので、リンク
を貼っておきます。)

「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 成田」(昭和55年 大野政治・小倉博 編)には、
「蓬莱閣ホテル」について次のように書かれています。

「大正一五年三月、門前の旅館海老屋・小川屋・阿波屋(もと鍵屋)を合して、株式会社
蓬莱閣ホテルが完成した。大小三十数室を備え、千人風呂・家族風呂・婦人専用風呂
の設備のほか、舞台付きの大広間などがある近代的なホテルであった。また階下には
大食堂をつくり、宿泊客だけでなく一般の参詣客にも利用させた。昭和四年の宿泊料金
は三円から七円で、他の旅館よりは高い。」
 (P22)

京成電車が成田まで開通することになり、東京方面からの急増する参詣客が宿泊する
ことを予想して、このホテルは構想され建設されましたが、皮肉なことに電車の開通は
日帰りの参詣を可能にしたため、ホテル経営は思惑外れとなってしまいました。

「明治初年の成田村旅館業の状況は、52軒の旅籠屋が存在し、宿泊人数は半年間で
14万2,131人にのぼり、1日平均785人の客がいたことが示されている。」

(「成田の歴史アルバム」 昭和63年 市長公室広報広聴課 編 P48)

鉄道も無かったころの宿泊客がこれほどいたとすれば、明治30年に成田鉄道が開通して
以降も、宿泊客は飛躍的に増加していたはずで、そこに京成電車も・・・となれば、海老屋
や小川屋、阿波屋が近代的なホテル建設を急いだのは当然だったのかも知れません。
戦後は日本赤十字社の病院となり、さらに成田山信徒会館となっていましたが、それも
平成16年に解体され、現在の景色となっています。

成田市立図書館 「蓬莱閣ホテルと石川家(海老屋)」 ☜ ここをクリック

「千葉県博覧図」には、明治時代の「旅舎 海老屋石川甚兵衛」と「旅舎 小川屋小野寺
久太郎」の様子が描かれています。
「海老屋」は木造二階建てで「海老屋甚兵衛」と書かれた大看板が正面に掲げられ、二階
には道路に向かって突き出したベランダのようなものが見えます。
奥には廊下でつながった数棟の離れが並んでいて、正面の店先には人力車が並び、車夫
が客待ちをしています。
「小川屋」は木造三階建てで、二階・三階には「海老屋」と同じベランダのようなものがあり、
裏側の同じ三階建ての建て物との間には風呂場があるようで、大きな煙突が見えます。
一階の正面は大きく開かれて、奥には番頭らしき人物が座っています。
いずれも堂々たる旅館で、(結果論ですが)ホテルへの転身はちょっともったいなかった気
がしてしまいます。


本町ー11

「成田名所圖會」(昭和48年 中路定俊著)に掲載されている「成田山全圖」には、現在の
本町あたりも書きこまれていて、成田山の前を神明山の山裾を縫うように権現山に至る道
が見えます。
また、「元往来」と書かれた道は今の信徒会館の辺りを通り、現在「電車道」と言われている
通りに合流しています。
合流点の辺りは大きな「用水」があり、元往来から成田山に向かって右側(現在の電車道
との間)には、「大日寺」というお寺があったようです。

昔から成田山の門前に拓けた「本町」界隈は、時代の移り変わりとともに大きく変貌して
きましたが、市外からの参詣客が表参道を歩く一方、勝手知ったる成田市民にとっては、
混雑の少ない「本町」を通る「電車道」が、生活道路としての重要な役割を果たしています。


本町ー57


台の坂の成田山門前町~仲之町 ☜ ここをクリック
門前四ヶ町の「田町」には宵待草のロマンが・・・ ☜ ここをクリック
上町~門前四ヶ町の一つは参道と路地の町 ☜ ここをクリック



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まち、町 | 09:16:48 | トラックバック(0) | コメント(2)
住民の増加で夏祭りも復活~飯田の「琴平神社」
飯田琴平神社-1

「琴平神社」のご祭神は「金山彦命(カナヤマヒコノミコト)」。
200年以上前に四国の琴平宮から分祀されました。

「金山彦命」はその名の通り「金山」(かなやま=鉱山)を司る神で、金属に関わる技工を
守護する神とされています。

「成田市史 中世・近世編」中の「成田市域の主な神社」表と解説にはこの神社についての
記述が見当たりません。
「成田市史近代編史料集一」中の「公津村誌」にも記述は無く、「千葉縣印旛郡誌」に公津村
の“その他の神社”として一行名前があるのみです。


飯田琴平神社ー33

石段を数段上って鳥居をくぐります。
昭和53年に建立された石造りの立派な明神鳥居です。


飯田琴平神社ー32
飯田琴平神社ー21
飯田琴平神社ー22

小柄な狛犬は愛嬌のある表情です。
平成10年に設置されました。


飯田琴平神社ー17
飯田琴平神社ー18

手水舎と手水鉢は昭和61年に地元企業から寄進されました。


飯田琴平神社ー19
飯田琴平神社ー2

「千葉県神社名鑑」には、次のように記載されています。
「琴平神社 本殿・銅板葺一坪、幣殿・銅板葺八幡造一.五坪、拝殿・同六坪、社務所瓦葺
木造三二坪、神輿山庫・瓦葺木造七.五坪 境内坪数五〇八.六坪 氏子二〇〇戸」


大正二年(1913)編さんの「千葉縣印旛郡誌」に一行だけあった「琴平神社」の項では、氏子
は十八戸とありましたが、昭和62年編さんの「千葉県神社名鑑」ではそれが200戸となり、
後述の「社殿建設記念碑」(昭和53年)では氏子は500戸を超えると書かれています。
宅地化が進んだ現在では、さらに氏子の数は増えているはずです。


飯田琴平神社ー3
飯田琴平神社ー14

八幡造りの拝殿はバランス良く、その大きさ以上の重みが感じられます。


飯田琴平神社ー4
飯田琴平神社ー5
飯田琴平神社ー31

銅板葺き、神明造りの本殿は、幣殿で拝殿とつながっています。
鰹木は3本、千木は垂直切りでご祭神が男神であることを示しています。


飯田琴平神社ー7
飯田琴平神社ー8

「天満宮」(上)と「子安神社」(下)。


飯田琴平神社ー9

「子安神社再建碑」。
大正十二年(1923)に建てられましたが、現在の「子安神社」は昭和53年に再建されました。


飯田琴平神社ー10

「再建碑」の隣にある手水鉢は大正八年(1919)のものです。


飯田琴平神社ー11

境内左手に並ぶ「子安神社」と再建碑と手水鉢。
左端は納札所。


飯田琴平神社ー12
飯田琴平神社ー13

赤い木柵で囲まれた一角があります。
説明板がありませんが、何か神聖な場所のようで、中には数個の石が積まれています。
香取神宮の「要石」を思い出しました。

香取神宮ー13  香取神宮の「要石」


飯田琴平神社ー15
飯田琴平神社ー24

境内の右手には公民館と社務所があります。


飯田琴平神社ー16

昭和53年建立の「社殿建設記念碑」。
碑文には、
「当琴平神社は今を去る二百余年前 旧飯田新田の鎮守神として四国琴平宮より ご祭神
金山彦命を分祀し古くより家内安全 五穀豊穣 進学 就職 縁結びの守護神として各方面
に御神徳を顕現せられ 氏子崇敬者の信仰尊敬極めて篤く今日に及んだ 創祀当時の氏子
は十八戸なるも現在区内五百数十戸に激増し社殿の狭隘甚だしく夙にその改築と諸施設の
整備が望まれていた 今日成田ニュータウンへの幹線道路の建設に伴い境内地一、〇一八
平方米の譲渡を機に建設委員会を組織して 神社役員 地権者相計り社殿を始め天満宮 
子安神社 社務所 鳥居 参道及び本記念碑の建設を議決 昭和五十三年一月着工し仝年
十月完成した・・・」
とあります。 

各地の「琴平神社」はそのほとんどがご祭神を「大物主神」としていますが、この神社のよう
に「金山彦命」をご祭神としている所もあるようです(和歌山・紀美野町、山形・南陽市等)。
明治政府による「神仏分離令」によって象頭山松尾寺が廃寺となり、神仏習合の神であった
金毘羅権現は金刀比羅宮となりました。
金毘羅権現時代のご祭神は不詳とされていますが、「大物主神」とも、「素戔嗚尊」とも、また
「金山彦命」とも言われていましたので、ここ飯田新田の「琴平神社」のご祭神が「金山彦命」
となったのでしょう。


飯田琴平神社ー20

昭和59年に建立された「夏祭復活記念之碑」。

夏祭りが昭和36年を最後に行われなくなっていましたが、周辺の人口増加もあって復活
の機運が高まり、昭和58年に神輿を新調して再び夏祭りが行われるようになった経緯が
書かれています。


飯田琴平神社ー25

通りを挟んだ向かいは「成田赤十字病院」です。


飯田琴平神社ー26

「山車蔵」は通りに面して建てられています。
隣は消防団の第2分団第8部の詰所です。


飯田琴平神社ー27

神社の裏手にあるスーパー銭湯「華の湯」。


飯田琴平神社ー29
飯田琴平神社ー28
飯田琴平神社ー23

よく整備された「琴平神社」は人口が増加する市街地の中にあって、過疎化や神社離れの
風潮に晒されている多くの神社に比して、とても恵まれた環境にあります(いや、恵まれた
環境を神様が与えて下さっていると言うべきでしょうか)。
この神社の夏祭りの復活のように、神社やお寺が、地域の精神文化の中心に戻れる日が
来てほしいものです。


飯田琴平神社-34


               ※ 「琴平神社」  成田市飯田町89



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公津村の寺社 | 17:41:21 | トラックバック(0) | コメント(2)
寺社が並立する信仰の場~八代の「善勝院」と「稲荷神社」
善勝院ー33

「善勝院」は八代にある真言宗豊山派のお寺で、山号は「大張山」。
ご本尊は「十一面観音菩薩」です。


善勝院ー1
善勝院ー2

創建年代等は定かではありませんが、元禄元年(1688)、澄賢和尚によって江戸時代の
初めの頃に焼失した本堂が再建されたことが分かっています。
その後も何度か火災に遭い、現在の本堂は昭和58年に再建されました。

推定400年近い歴史のあるお寺です。


善勝院ー3

本堂前に立つ空海(弘法大師)像は平成17年の建立です。
「南無遍照金剛」と刻まれています。


善勝院ー4

「百観音霊場巡拜結願記念」と刻まれた石碑。
南無観世音菩薩」の文字の左右に、西国霊場、秩父霊場、坂東霊場と記されています。
平成元年の建立です。


善勝院ー5

並んで立つ「弘法大師入定一、一五〇年御遠忌」「四國霊場巡拜結願記念」と刻まれた
この石碑は、昭和59年の建立です。


善勝院ー6

さらに、「四國霊場巡拜結願記念」と刻まれた、平成25年建立の石碑も並んでいます。

境内右手の崖下に並ぶ3基には、それぞれに巡拝年月日と巡拝者名が記されています。


善勝院ー9

地蔵堂の隣に立つ「戸井氏碑」。
千葉氏遺臣戸井四郎・・・と始まるこの顕彰碑は明治八年(1875)の建立です。

ここに記されている「戸井四郎」とは、干ばつに苦しむ八代の農民を救うため、農業用水路
の開発に尽くした人物で、千葉氏の遺臣・戸井四郎の孫である八代村の名主・戸井四郎
左衛門のことです。
全長約6.5キロの「万治掘」と呼ばれる用水路は、万治二年(1659)3月に完成し、近年、
土地改良事業が行われるまでの長い間、八代地区に恩恵をもたらしました。


善勝院ー10

昭和58年の「善勝院再建記念碑」。

「元禄年間澄賢和尚により創建・・・昭和26年、39年に祝融に会って灰燼に帰し・・・」
と記されています。
祝融とは聞き慣れない言葉ですが、中国の神話に出てくる火の神のことで、火災にあう事を
「祝融に遇う」とたとえる言い方があるようです。


善勝院ー11

大正二年(1913)の「千葉縣印旛郡誌」は、「善勝院」について次のように記述しています。

「八代村字谷津にあり眞言宗にして東勝寺末なり十一面勸世音を本尊とす由緒不詳堂宇
間口六間奥行五間三尺庫裡間口五間三尺奥行二間三尺境内二百三十一坪官有地第四種あり」

「檀徒三百六十六人を有し管轄廰まで八里十町とす境内佛堂三于あり即
一、地蔵堂 地蔵尊を本尊とす由緒不詳建物間口六尺奥行三尺
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺
三、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺 寺院明細帳


善勝院ー7

大師堂。


善勝院ー8

地蔵堂。


善勝院ー12

本堂の屋根に「輪違い紋」が見えます。
この紋は、真言宗豊山派の宗紋です。

『「輪違わちがい」は仏さまと衆生しゅじょうは同じであり、異なることはない凡聖不二ぼんじょうふに
というおしえを基にしています。』
 (真言宗豊山派ホームページ)


善勝院ー13

境内に入ってすぐ左手に墓地があり、寛文、享保、文政、天保、弘化等の年号が読めます。


善勝院ー14
善勝院ー15

びっしりと古い墓石が並ぶ無縁塚。

善勝院ー16
善勝院ー36

「善勝院」の入口からすぐ右に登る石段があり、少し登ると鳥居が建っています。
控柱の付いた立派な台輪鳥居です。
脇にある手水盤は天保六年(1835)のものです。


善勝院ー17
善勝院ー30

長く急な石段を登ると、境内が広がります。

「村社稲荷神社 八代字時田にあり蒼稲魂命を祭る神位正一位寛政十一年未年贈位社殿
間口三間奥行三間境内三百坪官有地第一種


「印旛郡誌」には「稲荷神社」についてこう書かれています。

「蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)」は穀物・食物の神で、「日本書紀」では倉稲魂命、「古事記」
では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と表記します。
「伏見稲荷大社」の主祭神で、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。

正一位を贈られた寛政十一年は、西暦1799年になります。


善勝院ー20
善勝院ー21
善勝院ー22
善勝院ー23

流造りの本殿は、小さいながらもどっしりとした重量感があります。

キツネの狛犬は拝殿の前ではなく、本殿の前に並んでいます。


善勝院ー19

「疱瘡神社」。
疱瘡神(ホウソウシン)は疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種ですが、これを
鎮め、治癒と流行の防止を祈願して祀られています。


善勝院ー24  文久二年(1862)の祠
善勝院ー25 明治三十二年(1899)の祠

善勝院ー26
善勝院ー27

境内の奥に鳥居とお堂があります。
鳥居は笠木が円柱で貫が角柱の靖国鳥居です。
お堂の中には古い神輿と、色鮮やかな新しい神輿がありました。

善勝院ー29  明治二十三年(1890)の手水鉢


善勝院ー28

境内の外れに小さな五角柱がありました。
「地神碑」と呼ばれ、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植安媛命
(ハニヤスヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と
刻まれています。
何れも農業に深い関わりを持つ神々です。


善勝院ー31

上部が欠けて「・・記念」とのみ読めるたこの石碑には、「公津村八代區歓迎會」と記され、
「・・■十九年四月廿八日建立」と刻まれています。
公津村は昭和29年3月31日に成田町、八生村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村と合併
して成田市となりましたので、この碑は昭和29年建立の合併記念碑ですね。


善勝院ー32

石段を下りて「善勝院」の境内に戻ります。


善勝院ー34
善勝院ー35

「善勝院」と「稲荷神社」は、以前訪れた山口の「證明寺」と「稲荷神社」のように、寺社が並立
する信仰の空間を持っています。
日本人が昔からそうであったように、“お寺にお参りしたついでに神社にも・・・”、”神様・仏様”
といったような、“ゆるい信仰の場”が私は好きです。

瑠璃台はいずこ(?)~山口の古刹「證明寺」 ☜ ここをクリック
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善勝院ー37


                 ※ 「大張山善勝院」 成田市八代805



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公津村の寺社 | 23:31:11 | トラックバック(0) | コメント(2)