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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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気になる石仏~お神楽を踊る三猿
青面金剛-14
青面金剛-13

さて、この景色は何でしょう?

竜台にある「百庚申」です。
竜台は成田市の西北、栄町と利根川に接する地域で、昭和29年の昭和の大合併で成田市に
編入となるまでは豊住村竜台でした。
昭和43年に茨城県の河内とを結ぶ長豊橋が完成するまでは「竜台の渡し」がありました。


竜台稲荷ー1
                     (おはつ稲荷 2016年4月撮影)

百庚申へは、国道408号線が長豊橋に向かって大きくカーブするあたりを左に入るのですが、
入り口は道なのか民家の庭なのか、分かりにくい所です。
でも、ちょっと奥をのぞくと、「おはつ稲荷」が見えます。

青面金剛-12

「おはつ稲荷」の先を進むと、畑の一角のようなところに、「百庚申」が現われます。

庚申塔には大きく分けて「文字塔」と「青面金剛像塔」があり、「文字塔」には「庚申塔」と刻まれた
ものと「青面金剛」と刻まれたものがあります。
青面金剛像は六臂三眼の忿怒相が標準形ですが、二臂や四臂像もあり、持物にもいろいろな
バリエーションがあります。


青面金剛-53

ここでは文字塔が大部分で、像塔は15基だけです。
成田市内には百庚申と呼ばれている場所が4ヶ所ありますが(宝田・後、宝田・秋谷津、西和泉、
竜台)、いずれも文字塔のほうが多く見られます(※)。

(※)2016年4月の「成田の百庚申」の記事 クリック ☞ 成田の百庚申


青面金剛-55

奥の方に非常に珍しい庚申塔があります。


青面金剛-51

嘉永七年(1854)十月の文字塔ですが、台座部分に「三猿」が彫られています。
しかも、その三猿は、一般的に見られる「見ざる・聞かざる・言わざる」の形ではなく、なんと、
お神楽を踊っているのです。


青面金剛-60

   分かりますか?

青面金剛-59

いずれも烏帽子をかぶり、右の猿は扇を持ち、真ん中の猿は御幣を担いで舞い、左の猿は太鼓
をたたいて囃しています。

この庚申塔が建立された嘉永七年(1854)は、ペリーが再来して江戸湾に入ったり(2月)、日米
和親条約が結ばれ(3月)、下田・箱館の開港(5月)など、幕府の外交上大きな変革がありました。
4月には京都大火により御所が焼失、また、前年の小田原地震に続き、伊賀・上野地震(6月)が
発生するなど、世の中は暗澹とした雰囲気に包まれていました。 (※)

そんな時に、この庚申塔が建立されたことにはとても興味を惹かれます。

 (※) さらに11月には安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震と大地震が連続したため、
     11月末に「嘉永」は「安政」へと改元されました。
 (当時は改元は1月まで遡って行われていたため、東海・南海地震は安政の地震と呼ばれます)


青面金剛-2

【三尸の虫を酒肴でもてなし、踊るほど酔わせて天帝に報告させないようにすると、洒落をきか
したものであろうか。この像を眺めていると、当時の農民の心の豊かさを感じることであろう。】

(「成田の史跡散歩」 P148)
不安を吹き飛ばそうとして、このような三猿を彫ったのか、それとも世情とは関係なく、庚申講が
今や宗教行事ではなく、仲間内の単なる「飲み会」になっていることを皮肉たっぷりに表したのか、
あるいは、実は真剣に三尸虫が天帝に告げ口することを封じるために(※)、猿を楽しげに舞い
踊らせることで気をそらそうというのか、・・・ 今になっては知る由もありません。
いずれにしろ、江戸時代の庶民のユーモアのセンスはなかなかのものです。

(※)三尸虫については以前にも何回か記していますので、「追記」に簡単に説明しておきます。


青面金剛-3

       烏帽子をかぶり扇を持って踊る猿

青面金剛-4

      烏帽子をかぶり御幣を担いで踊る猿

青面金剛-5

      烏帽子をかぶり太鼓をたたいて囃す猿


青面金剛-56

この文字塔の左右には二基の像塔が並んでいます。


青面金剛-57

向かって右の塔には、「安政六○未十二月」と刻まれています。
安政六年は西暦1859年、中央の庚申塔の5年後に建立されました。
前年(安政五年)には「安政の大獄」翌年の安政七年には「桜田門外の変」と、政治の混迷が
加速し、後に幕末と言われる時代の入口に差しかかっていました。


青面金剛-58

向かって左の塔には、「大木徳兵衛」「○政六年○未十二月」と刻まれています。
元号の後ろが「政」で六年が未年なのは安政六年(己未)と文政六年(癸未・1823)ですが、
右側の青面金剛像との照合や、ここの百庚申の庚申塔の大部分が安政年間のものである
ことから、安政六年の建立と考えてよいと思われます。


青面金剛-52

整然と並んだ庚申塔は大小の文字塔と像塔が混在し、文字塔85基、像塔15基の構成です。
(一基だけ、如意輪観音像が紛れ込んでいます)


竜台稲荷ー17

「青面金剛尊」の文字が深く刻まれたこの庚申塔は寛政十二年(1800)のもので、百基の
中で一番古い、220年前のものです。



青面金剛-62
青面金剛-7


この庚申塔が完成したとき、庚申講の人達はどんな顔をしてお神楽を踊る猿を見たのでしょうか。
ニヤリと笑っていたに違いありません。

お神楽を踊る猿の構図を考えた庶民と、それを咎めなかったであろう村役人(?)の、おおらかで
伸びやかな精神は、騒然とした時代の大波を横目に、しぶとく、たくましく生きていたのでしょう。





庚申信仰は、中国の道教にある「三尸説(さんしせつ)」からきたもので、仏教や神道、その他
日本の土着の信仰などが混合された信仰です。
「人間の体内には、三尸(さんし)という三匹の虫が棲すすみついていて、庚申(かのえさる)
の日に寝ている宿主の体内から抜け出して、天帝にその人の悪行を言いつけるとされています。
天帝は悪行を聞くと、罰として寿命を縮めてしまうので、庚申の夜は眠らずに酒食をとりながら
過ごして、三尸虫が体内から出ることができないようにするのがよい」というものです。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願い、天帝にご注進をする機会を
狙っているのです。。

台座に三猿を刻むのは、庚申の申(さる)からきたものといわれ、三尸虫の告げ口を封じる意味
で、もし悪行を見られても「見ざる・言わざる・聞かざる」になって天帝に伝えないでもらいたいと
いう願いが込められています。
*****青面金剛-0
              (左から下尸、中尸、上尸)       (ウィキペディア)

上尸(じょうし)は頭部に、中尸(ちゅうし)は腹部に、下尸(げし)は足に棲んでいます。

貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、「庚申講」を三年(十八回)続けると
「庚申塔」を建てることができます。

「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

庚申塔(文字塔) | 19:00:28 | トラックバック(0) | コメント(10)
コメント
こんにちは

更新ありがとうございます

楽しく読ませていただいています!
2020-06-02 火 23:52:12 | URL | 安藤 [編集]
Re: タイトルなし
安藤 様
ありがとうございます。励みになります。
最近は更新のペースがすっかり落ちてしまいました。
このところ思うように歩けないのが主な理由ですが、市内の寺社は
ほとんど紹介してしまったこともペースダウンにつながっています。
見落としているところ、紹介しきれなかったところを思い出しながら
なんとかがんばっています。
2020-06-03 水 00:05:55 | URL | sausalito(船山俊彦) [編集]
とても珍しいですね!
 踊る三猿、しかもこれだけ明確に姿態を彫り上げるとは恐れ入ります。
 地方文化の突っ張りというか、独自性の主張というか、すっかり、はまってしまいました。
 庚申塔の持ち味の独自性に惚れ込みます。
 この時代の反映なのでしょうか?
2020-06-04 木 17:05:59 | URL | 野火止用水 [編集]
更新、心待ちにしていました!
そして…訪れる場所は同じ場所、近い場所で全然良いと勝手に思っています!
訪れる時々の思いは都度変わるでしょうし、改めて気付くこともあると思います。そうした思いは必ず伝わりますし、何より「更新」でいつも元気付けて頂いてます!
2020-06-04 木 19:30:03 | URL | ATSU [編集]
Re: タイトルなし
ATSU 様
いつもコメントをいただき、ありがとうございます。
確かに同じ場所でも訪れる度に新しい発見がありますね。
その時大きく心が動いたら、何度でも書いてゆこうと思います。
2020-06-04 木 22:59:31 | URL | sausalito(船山俊彦) [編集]
Re: とても珍しいですね!
野火止用水 様
幕末の騒然とした雰囲気の中、右往左往する武士階級と違って、
庶民はむしろ精神的な開放感を抱いていたのかもしれませんね。
何度見ても飽きない庚申塔ですが、野ざらし状態で風化が心配です。
2020-06-04 木 23:08:47 | URL | sausalito(船山俊彦) [編集]
こんにちは。
最近、更新されませんが、お身体は大丈夫でしょうか。
2020-10-06 火 20:15:11 | URL | いけまさ [編集]
Re: タイトルなし
いけまさ 様
お気遣いいただき、ありがとうございます。
足のぐあいが思わしくなく、ちょっと調子が良いときは雨や猛暑
といったぐあいで、ずいぶんと間が長くなってしまいました。
実は、今日4カ月ぶりに取材に出かけてきました。
以前は何でも無かった石段を上るのにすごく苦労しましたが、何
とか3ヶ所をまわってきました。資料のチェックをして、来週末
にはアップしようと思っています。もう少々お待ち下さい。
2020-10-06 火 22:53:24 | URL | sausalito(船山俊彦) [編集]
初めまして
丹念な調査をされていて凄いなあと思いながら拝見しております。
この踊る三猿、私も初めて見ました。なんだかとても楽しくなりますね。
私のところにも「全部、聞か猿」という謎の三猿があって、
庚申さんの専門の先生にもお聞きしたら、先生も初めて見るとのこと。
現在までに判明したのは、江戸時代の大津絵に一枚(現在は不明)と
この現物の二つだけということになりました。
私は「よほど聞きたくないことがあったんだろう」と勝手に解釈しております。
2021-12-15 水 03:09:24 | URL | 雨宮清子(ちから姫) [編集]
Re: 初めまして
雨宮 様
コメント、ありがとうございます。 江戸時代の庶民のユーモアや
世情に対する鋭い風刺は、うっかり見逃してしまいそうな何でもない
石仏・石造物の中に見つけることができます。 こうした精神文化
が現代の我々に引き継がれていると思うと、代り映えのしない石仏・
石造物にも何か「想い」が隠されているのでは・・・と、ついつい
深読みをしてしまいます。 自分の頭の中に浮かんだストーリーは
極力排除していますが、読み返して見ると客観性のない私の主観が
暴走している回もありますね。
「ウッセエ、ウッセエ、ウッセエヨ!」とでも大合唱しているので
しょうか? みんな聞か猿の庚申塔なんて、楽しいですね。
2021-12-15 水 18:01:24 | URL | sausalito(船山俊彦) [編集]
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