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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社
今回は、赤荻(あかおぎ)の稲荷神社です。

赤荻稲荷ー1

「稲荷神社」のご祭神は「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」。
古社名は「稲荷大明神」。
倉稲魂命は日本書紀に登場する神で、古事記では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)として
記されています。
前回に訪ねた「羽黒神社」と同じご祭神で、穀物の神様です。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。


赤荻稲荷ー2

石段下の斜面に立つ「青面金剛」(庚申塔)。
享保十六年(1731)のものです。


赤荻稲荷ー3

石段下の斜面には「道祖神」もあります。
宝暦八年(1758)と記されています。


赤荻稲荷ー4
赤荻稲荷ー5

石段は折れ曲がって上へと続いています。


赤荻稲荷ー6

台輪鳥居には控柱が付いています。


赤荻稲荷ー7

鳥居の下に置かれた手水鉢には明和六年(1769)と刻まれています。


赤荻稲荷ー9

『稲荷神社は赤荻地区の鎮守で、ご祭神は穀物の神で知られる倉稲魂命である。創建年代
は不詳であるが、村人が京都の伏見稲荷大社から勧請したと伝えられる。』

(「成田の史跡散歩」 P274)

以前、野毛平の「鎮守皇神社」が村人によって勧請された珍しい例と紹介しましたが、良くある
ことなのかも知れません。

また、「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡赤荻村誌」には、
『境内二百四坪、祭神大山祇女尊、倉稲魂命 土祖神三座、創建詳カナラス。社格村社。』
とあります。
「大山祇尊(オオヤマツミノミコト)」は良く見聞きする名前ですが、「大山祇女尊」という神様は
初めて聞く名前です。
「オオヤマツミメノミコト」というのでしょうか、名前からすると女神のようです。
「オオヤマツミ」とは「大いなる山の神」という意味で、男神とされています。
「山の神」とは、普通、女神を指す言葉であることと、日本書記には「オオヤマツミ」が女神と
読めるところがあるという説もありますが、一般に広く知られている「大山祇尊」の名前に、
わざわざ「女」と入れる必要があるでしょうか?

「大山祇尊」について調べるうちに、その娘の「石長姫(イワナガヒメ)」に関して興味深い
ことを見つけました。
「石長姫」は妹の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)とともに、天孫降臨の物語で知られる
邇邇芸命(ニニギノミコト)に嫁いだものの、容姿が醜いという理由で帰されてしまった姫で
すが、この姫をご祭神とする数少ない神社の中で、奈良県にある「伊波多神社(いはたじん
じゃ)」に関連して「大山祇女石長姫」の名前がありました。
この神社の現在のご祭神は、「伊波多神」なのですが、明治3年(1870)の「大和國大小
諸神社名記並縁起」にはご祭神を「大山祇女石長姫」と記しているのです。

「赤荻村誌」にある「大山祇女尊」とは、「大山祇女石長姫」のことではないでしょうか?

滋賀県草津市の「伊砂砂神社(いささじんじゃ)」では「岩長比賣命」、静岡県松崎町の「雲見
浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)」では「磐長姫尊」、茨城県つくば市の「月水石神社(がっ
すいせきじんじゃ)」では「磐長媛」と書きますが、いずれも「石長姫」と同一神です。


赤荻稲荷ー10

神額には「正一位稲荷大明神」と記されています。

人に対する位階は正一位以下30階ありますが、神社に対する神階は15階で、最下階は
正六位となっています。
嘉祥四年(851)に全国の神社のご祭神に対して、正六位以上の神階が贈られたためです。
神階は分祀された神社には与えられませんが、次第に律令制の効力が失われるにつれて
勧請元の神階を名乗る分祀先の神社が現れました。
特に稲荷神社ではこの例が多く、「正一位」は稲荷神社の別称と言われるほどです。


赤荻稲荷ー11
赤荻稲荷ー13

流造りの本殿にはいくつかの掲額がありますが、いずれも色褪せて、「額に入った板」でしかない
状態になっています。

赤荻稲荷ー14
赤荻稲荷ー15
赤荻稲荷ー16

そんな中で、一枚だけ何かが描かれた跡が見えました。
アップして見ると、どうやら昔の稲荷神社の絵のようです。
社殿や鳥居が見え、一部民家の屋根も見えています。
人影のように見える白い部分には何が描かれていたのでしょうか?
人にしては、周りとのバランスから大きすぎます。


赤荻稲荷ー17

本殿の右奥の鞘堂に守られたお堂。


境内には多くの石祠があります。

『境内にはほかの場所から移された一〇数基の小祠が合祀されているが、この合祀は
明治四二年(一九○九)と大正初期に行われたものである。』

(「成田の史跡散歩」 P274)

拝殿・本殿の周りを時計回りに見てみます。

赤荻稲荷ー19  ←  一番左の祠
赤荻稲荷ー20  ← 二番目の祠 
赤荻稲荷ー21  ← 三番目(明和三年)  
赤荻稲荷ー22  ← 四番目の祠
赤荻稲荷ー23  ← 五番目の祠
赤荻稲荷ー24  ← 六番目(郷内安全)
赤荻稲荷ー25  ← 七番目(浅間社)
赤荻稲荷ー26  ← 八番目(庚申塔)
赤荻稲荷ー27  ← 九番目(愛宕社)
赤荻稲荷ー28  ← 十番目の祠
赤荻稲荷-39  ← 十一番目の祠

『小祠のうち、拝殿に向かって一番手前の左側の石宮をしゃあぶき爺さんといい、右側の
石宮をしゃあぶき婆さんという。ほかの小祠は羽黒神社とか熊野神社のように社名がある
が、しゃあぶき爺さん・婆さんはおもしろい。「咳く(しわぶく)」から付けられてように両方とも
咳の神様といわれ、咳の出る人は、ここに香煎を供えると咳が止まるとされる。』

(「成田の史跡散歩」P274)
上の写真の一番目が「しゃあぶき爺さん」で十一番目が「しゃあぶき婆さん」のようですが、
他の祠と同じように見えて、特徴はありません。

※ 十番目と十一番目の祠が同じ写真だとのご指摘をいただき、差替え修正しました。
   確認ミスをお詫びいたします。 ご指摘、ありがとうございました。


赤荻稲荷ー35
赤荻稲荷ー37

石段を下りて神社の山裾を少し廻ったところに、文化十四年(1817)の庚申塔と、年代不詳の
十五夜待塔がありました。
庚申塔は斜面を見上げる位置にあり、十五夜待塔は足許の草むらに埋もれていて、注意して
歩かないと見落としてしまいます。


赤荻稲荷ー30
赤荻稲荷ー31
赤荻稲荷ー33

「稲荷神社」の森は鬱蒼として、ひんやりとした空気が流れています。

「赤荻村誌」には、村内にある神社として「稲荷神社」の他に五社を記しています。

『愛宕神社 弐拾四坪   香取神社 七拾貮坪   浅間神社 五拾六坪
熊野神社 五拾四坪餘  羽黒神社 七拾坪餘 』


どれも小さな神社ですが、これらは全て村誌が編さんされて以降、稲荷神社に合祀され、
先ほどの石祠群となったようです。


赤荻稲荷ー38


                ※ 「稲荷神社」 成田市赤荻 1



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中郷村の寺社 | 08:07:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
このまま森に沈んで行ったほうが・・・「東陽寺」
前回の「神光寺」から、さらに50メートルほど進むと、「東陽寺」があります。
残念ながら、「神光寺」以上の荒寺です。

東陽寺ー9

「東陽寺」の山号は「妙照山」、日蓮宗のお寺です。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。

『一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡
小菅村妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。』

(「成田市史 中世・近世編」に収録の「下総國下埴生郡野毛平村誌」より (P267)) 


東陽寺ー1
東陽寺ー2
東陽寺ー3

入口の塚の上に、2基の「青面金剛像」が彫られた「庚申塔」があります。
左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸親成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。


東陽寺ー4

境内への入口に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔があります。
文字は日蓮宗のお寺で良く見かけるもので、くねくねと曲がった字体です。
側面には「明照山東陽寺 享保十十壹」と記されています。
「十十」のところは、(他に読み方は無さそうなので)十が二つで二十(廿)ではないかと推理
しましたが、廿壱(21)だとすると、享保二十一年(1736)は四月二十八日に元文に改元
されていますので、微妙なところです。

また、ここでもう一つの疑問が出てきました。
「野毛平村誌」や、「成田市史」中の「近世成田市域の寺院表」では、山号を「照山」と
していますが、この題目塔には「照山」と記されています。
また、小倉博氏の「成田の歴史散歩」にも、「明照山」と紹介されています(P271)。
本山が「妙福寺」なので、「妙照山」のような気がするのですが・・・。

※ 後日漢和辞典で廾が廿の俗字であることを見つけました。享保21年でした。


東陽寺ー5
東陽寺ー6

題目塔の隣のお堂には、子安観音らしき石仏があります。
成田市史には「七面天女堂」があると書かれていますが、どう見ても子どもを抱いているよう
にしか見えません。
「明治二十五年 女人中」と記されているので、古い台座の上に新しい像を乗せたのでしょう。

七面天女は七面大明神ともいい、法華経の護法神、法華経を信仰する人々の守護神として
信仰され、右手に施無畏の鍵を、左手に如意珠の玉を持つ姿で現わされています。
この像の左手にあるのは「如意珠の玉」にしては大き過ぎ、どう見ても赤子です。
しかし、光背にある三つの玉は、如意珠の形に見えます。
あまり深く考えずに、七面天女像を子安観音の姿にしたのか、それとも・・・。
疑問は尽きません。

※ 一昨日、改めて訪れてしっかり確認しました。左手に抱えているのは赤子でした。


東陽寺ー8

お堂の前に置かれた手水鉢には、文化九年(1812)の紀年銘があり、側面には
「十六夜 十五夜講中 七面」と記されています。


東陽寺ー10
東陽寺ー11
東陽寺ー12

『東陽寺は永禄九年(一五六六)中道院日善が開山した寺で、本尊は釈迦如来。明暦元年
(一六五五)に本堂を建立し、さらに五十年後の宝永三年(一七〇六)に再建した。境内に
三十番神堂や七面天女堂などがある。』
 (「成田市史 中世・近世編」 P790)

開山した永禄年間は武田信玄が勢力を伸ばし、織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、上杉・
武田の川中島合戦が繰り広げられるなど、戦国の時代の真っ只中にありました。
そんな時代に開山し、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てています。
本堂の扉は開きっ放しで、風雨が吹き込み、祭壇も壊れています。

昭和61年編さんの「成田市史」では、このような荒れた様子は微塵も感じられません。
僅か30年の間に、一体何があったのでしょうか?


東陽寺ー13

この墓石には寛文二年(1662)と記されています。


東陽寺ー14
ーーーーーーーーーーーー東陽寺ー15
東陽寺ー16
竹林にのみ込まれそうな墓地には、元禄、寛文、正徳、明和、天明などの年号が見えます。


東陽寺ー17

墓地の中にも青面金剛の庚申塔がありました。
元禄十七年(1704)と刻まれています。


東陽寺ー20

墓地で一番大きな明治三十七年に日露戦争で戦死した陸軍歩兵伍長の墓石。
この兵士が戦死した明治三十七年(1904)八月二十日は、乃木将軍のもと旅順要塞への
総攻撃が始まった日です。
野毛平村からも何人かの出征兵士が戦場に向かい、帰らなかった兵士もいたのですね。
こんな立派な墓石が建てられた明治後半の頃、この寺は何かにつけて村人が集まる
場所であったことが分かります。


東陽寺ー21

あと十年もすれば、この墓地は雑木と竹に覆われてしまうことでしょう。


東陽寺ー22
東陽寺ー23

山道に出てしばらく行くと、目の前が開けた墓地がありました。
比較的新しい墓石が多く見られます。
墓地の入口に、天保十年(1839)の供養塔がありました。
側面に「正竜山」の文字が見えます。
「正竜山」は「東陽寺」の本寺の「妙福寺」の山号です。
往時はここまでが「東陽寺」の境内だったのでしょうか。

三里塚街道ー16
 「東陽寺」の本寺、小菅の「正竜山妙福寺」 (昨年4月末撮影)

東陽寺ー24
東陽寺ー25

竹薮の下の国道51号線との高低差は10メートルはあります。
ここに来る山道の国道側の斜面には「立入禁止」の立札があり、パイプの柵がありました。
開発の波が押し寄せてくるような予感がします。

忘れられたこの寺も、いずれ開発の波にさらわれて、消えてしまうのでしょうか?
この場に立っていると、いっそ忘れられたまま、雑木と竹に覆われて静かにゆっくりと朽ち、
森の中に沈んで行った方が良いような気もします。


東陽寺ー26


                  ※ 「妙照山東陽寺」 成田市野毛平614-2



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中郷村の寺社 | 08:03:15 | トラックバック(0) | コメント(0)
荒れ寺に微笑む如意輪観音~神光寺
「神光寺(しんこうじ)」は前回紹介した「皇神社」のすぐ隣にあります。

神光寺ー8

「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
江戸時代には「鎮守皇神社」の別当でした。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。

『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』

(成田市史 近代編史料集一 P267)

円融寺ー1 本寺の山之作・円融寺
円融寺ー21 昨年11月撮影


神光寺ー1

静かな山道に人の気配は全くありません。

木々の合間に見えているのは、前回紹介した「皇神社」です。


神光寺ー2
神光寺ー3

宝珠も錫杖も、頭さえもかけてしまった石仏は、誰かが間に合わせで載せたセメントの頭で、
それでも一人すっくと立っています。

神光寺ー4
神光寺ー5
ーーーーーーーーーーーー神光寺ー6
境内左手に並ぶ二つのお堂。

石仏の一つの台座には、文政十年(1827)と「大師遍照金剛」の文字が見えます。
遍照金剛(へんじょうこんごう)とは大日如来のことですが、弘法大師を指すこともあります。
良くお遍路さんの背中にこの文字が書かれています。


神光寺ー14
神光寺ー9

境内、本堂ともに荒れています。
もう大分長い間、人の手が入っていないようです。

「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記しています。

『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』
 (P781)

創建年代が不詳とは言うものの、少なくとも350年以上の歴史はあるわけです。


神光寺ー10

本堂正面の軒下に小さな鐘が吊るされていました。
埃にまみれて刻まれた文字はほとんど読めませんが、「昭和四十九年」の銘は読めました。


神光寺ー11
神光寺ー15
神光寺ー16

藪をかき分けて本堂の裏手へ回ろうとしましたが、密生する竹に阻まれて進めません。
荒れるにまかせた本堂の内部にも、竹が伸びていました。


神光寺ー17
神光寺ー19
神光寺ー20

本堂の左奥に並ぶ、古い墓石には、元文、享保、安永、天明、天保などの年号が見えます。


神光寺ー21
神光寺ー22

竹やぶの中に「如意輪観音」を見つけました。
この寺の荒れようを見ても、かすかに微笑む穏やかなお顔の横には、元文元年(1736)
丙辰と記されています。
280年前のこの観音様の前からは、掃き清められた境内が見渡せたはずです。


神光寺ー23

良く見ると、ツタに覆われた墓石が散在しています。


神光寺ー25
神光寺ー24

この石塔には「馬頭観世音」と刻まれています。

「馬頭」は、諸々の悪を下す力を象徴していて、煩悩を断つ功徳があるとされていますが、
「馬頭観音」をその馬頭という名前から、馬の守護仏とする民間信仰があります。

『神光寺にあった観音堂は、のちに香取神宮のご祭神となる経津主大神が、東征のため
この地を通ったとき、長旅の疲れで愛馬が死んでしまったのでその霊を祀ったところと
いわれている。』
 (「成田の史跡散歩」 P271)

村人たちは一本の松を植えて白馬を葬りましたが、年月を経て松が立派な木になったころ、
樹上から悲しげな馬の嘶きが聞こえることがありました。
村人たちは白馬が香取に去った経津主大神を呼んでいるのだろうと、たいそう憐れんで、
その松を「馬嘶の松」と名付けた、という話も、「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博 著)に
紹介されています。

石塔はこの伝承と関わりのあるものなのでしょうか?
周りを見渡してみても、境内には松の木は見当たりませんでした。

松虫姫に置いて行かれた牛の物語や、この白馬の物語は、何とも不憫な思いがします。
時の彼方の姫と牛 ☜ ここをクリック


神光寺ー28

境内から道に出て、更に奥に進む途中に、「奉敬 待庚申開眼供養」と刻まれた石塔が
建っていました。
「明和八年 別當神光寺」と記されています。
明和八年は、西暦1771年になります。


神光寺ー27

訪ねる人の無いお寺が荒れて行くのは寂しいものです。
“時の流れだ・・・”、“過疎化のためだ・・・”とは言っても、かつてここにお参りし、説法を聞き、
送り、送られした人たちの“想い”が、まだこの場所に漂っているような気がします。


神光寺ー29


                ※ 「天照山神光寺」 成田市野毛平497



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中郷村の寺社 | 08:16:56 | トラックバック(0) | コメント(4)
ひとり踏み止まる・・・野毛平の「鎮守皇神社」
今回は、野毛平の「鎮守皇神社(ちんじゅすめらじんじゃ)」を訪ねます。

成田駅方向から51号線を佐原方向に向かい、野毛平工業団地の少し手前を左に入ると、
国道や工場地帯のそばとは思えない雑木林と竹林が広がる台地に出ます。
まず人も車も通りそうもない道端に「鎮守皇神社」があります。


皇神社ー1

「鎮守皇神社」の古社名は「神明宮」。
ご祭神は天照大神です。


皇神社ー2
皇神社ー3
皇神社ー4

鳥居の下に、50×30センチくらいの石が2つ転がっています。
良く見ると、何か文字らしきものが彫られています。
摩耗していますが、「奉納 靈石」と読めました。
これは「力石」です。
江戸時代から明治時代にかけて、このような力石による力試しが各地の村や町で盛んに
行われ、特に神社のお祭りで行われることが多かったようです。
時の流れとともにこの風習は廃れ、ほとんどの力石が打ち捨てられ、忘れられて行きまし
たが、わずかに各地の神社に奉納されたものが残っています。
通常、石の重さは60キロ以上、米俵より重くなくては競技の意味がなかったようです。

かすかに「壱石」と読める文字が刻まれていますので、ここの石は通常の半分の約31キロ
の重さのようです。
何の変哲もない石のように見えますが、なかなか貴重なものだと思いますので、保存に
配慮が欲しいところです。

「香取神宮」で「さし石」と呼ばれる「力石」の一種を見たことがありますが、ここの石は
「香取神宮」の力石より少し小振りのようです。

香取神宮に奉納のさし石 香取神宮ー57


皇神社ー5皇神社ー6
「皇神社改修記念」と記された、平成12年に奉納の御神燈。


皇神社ー7
皇神社ー8

手水鉢には明治三年(1870)と記され、正面に大きく「奉獻」と彫られています。


皇神社ー11

木々に陽を遮られている境内には、一面に苔が生えています。


皇神社ー12
皇神社ー13

「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、

『皇太神宮ヲ祭レリ。村ノ稍中央ニ在リ、祭日九月二十日、本社ハ村内ノ人民之ヲ創建
スト虽トモ年号月日詳ナラス。境内ニ存スルモノハ妙見宮、天満宮ノ二社ナリ。』

(成田市史 近代編史料集一 P267)
とあります。

村民による創建と伝えられる神社は、珍しいのではないでしょうか。


皇神社ー14


千葉県神社庁編さんの「千葉県神社名鑑」(昭和62年)によれば、本殿は銅板瓦葺きの
神明造りで、1.6坪、拝殿は亜鉛板葺きで6坪の建物です。
境内は253坪あります。
鰹木は4本、千木は水平切りで、ご祭神が女神であることを示しています。


皇神社ー16

寛文六年(1666)に再建されたという記録が残っているようですが、現在の社殿は御神燈
にあったように、平成12年に改修されたものです。


皇神社ー17

脇の竹やぶから、筍が元気良く頭を出していました。(4月29日撮影)


皇神社ー19
皇神社ー9

「野毛平村誌」にあるとおり、二つのお堂が境内にありました。
どちらが妙見宮で、どちらが八幡宮でしょうか?
何となく石の祠が八幡宮、木造の小堂が妙見宮のような気がしますが・・・。
「成田市史 中世・近世編」中には、成田市域の妙見神社の一つが皇神社境内にあると
書かれていますが(P249)、八幡宮についての記述は見つかりませんでした。


皇神社ー23
皇神社-24

拝殿の軒にスズメバチの巣を見つけました。
そう言えば鳥居の下にスズメバチの死骸がありましたので、この巣はまだ活動中のようです。


皇神社-21

並び立つ古木にはツタがからみ、裏側からは竹林が迫っています。
周りの森が荒れているので管理が大変そうです。


皇神社ー20
皇神社ー22


『野毛平村創置ノ年号干支詳ナラス。往古ヨリ埴生郡ニ属シ、遠山庄久米郷ニ隷ス。
当村古昔ニ泝リ得テ考フヘキ書目ナシ。』
『只知ル佐倉下総國印旛郡城主堀田相模守正亮ノ所領ニ属シテヨリ、以還連綿トシテ
本村ヲ領スル事ヲ明治元年徳川氏大政ヲ返上シ、続テ明治二年己巳六月藩主堀田
正倫版籍ヲ奉還シ、仝月佐倉藩知事ニ任セラレ本村ヲ管轄ス。仝年十一月仝縣廃セラ
レテ更ニ印旛縣ノ管轄スル所トナル。仝六年癸酉六月仝縣廃セラレ改テ千葉縣ノ管轄
スル所トナル。』


「野毛平村誌」には村の成り立ちについてこう書かれています。

多くの村々では頻繁に領主の交代がありましたが、野毛平村は元禄十四年(1701)
から明治の廃藩置県に至るまでの約170年間堀田家の下にありました。


『地勢 村落部ハ高燥ニシテ平坦、四面土壌起伏シ、田畑山林相交ル。』
『地質 其色淡黒、其質稍美、稲麦甘薯及野菜等ヲ作ルニ適ス。』


村誌にこう書かれた野毛平村ですが、昭和50年代に入ると国際空港の開港の波に
のまれることになります。
この地域は騒音区域内になり、多くの住民が近くの米塚団地に移転し、神社の周りから
生活の匂いが遠のいて行きました。

その昔、野毛平の住民が地域の安寧を願って勧請した「鎮守皇神社」は、人影の無く
なったこの場所で、時の流れに逆い、ひとり踏み止まっているように感じます。


皇神社ー24


                  ※ 「鎮守皇神社」 成田市野毛平498



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中郷村の寺社 | 08:38:10 | トラックバック(0) | コメント(2)
水掛の「羽黒神社」と「正寿院跡」
今回は水掛の「羽黒神社」を訪ねます。

羽黒神社-18

「羽黒神社」は水掛の山中にある神社で、ご祭神は「宇迦之御魂命(ウカノミタマノカミ)」。
元禄十一年(1698)の創建です。

「宇迦之御魂命」は穀物の神様で、女神であるとされています。

この神社に関する記述は、「成田市史 中世・近世編」にも、「近代編史料集」の「町村誌」
にも、その他めぼしい書籍にも見当たりません。
唯一「成田市史」の「成田市域の主な神社」表に1行あるだけです。


羽黒神社ー1

「羽黒神社」への道端に、文化五年(1808)の「馬頭観世音菩薩」と記された石碑。
神社のある小高い山の周りを半周あまりしましたが、入口がなかなか見つかりません。


羽黒神社ー2

ようやく神社への階段を見つけました。
折れ曲がった急な階段です。


羽黒神社ー3

登り切って下を見ると、相当な高低差です。


羽黒神社ー4

103段の石段が終わった所に、土砂に埋まった小さな石碑がありました。
寛政八年(1796)の文字だけが読めます。


羽黒神社ー5

木の鳥居は大分傷んでいます。


羽黒神社ー6

階段を登り、鳥居をくぐっても、まだお社は見えません。
尾根道のような細い道が続いています。


傍らの木の根元の小さな祠羽黒神社ー7

羽黒神社ー8

しばらく進むと、ようやく道の先にお社が見えてきました。


羽黒神社ー9

小さいながらも立派な屋根がある、破風造りのお社です。


羽黒神社ー10

手水鉢は50センチ四方程度の小さなもので、風化と泥で文字などは見えません。


羽黒神社ー11

小さな奉納額がいくつかありますが、いずれも文字などはすっかり消えています。


羽黒神社ー12

棟鬼瓦には「羽黒山」の文字が入っています。

境内には名前の分からない祠が四つあり、その内の一つだけ年号が読めました。

羽黒神社ー13
ーーーーーーーーーーー羽黒神社ー14
羽黒神社ー15
 文政六年(1823)の祠 羽黒神社ー16


羽黒神社ー19

4月上旬に、この境内で神楽が奉納されるそうです。
地域の状況から、氏子は少ないと思われますが、昔からの崇敬が維持されているようです。


羽黒神社ー22
羽黒神社ー23

長い参道を戻り、石段を下ると、小さな墓地があります。
墓石はどれも古く、延宝、安永、宝暦、明和、文政などの年号が読めます。


羽黒神社ー26

「十九夜講」と記された「月待塔」。


羽黒神社ー24
羽黒神社ー25

これは「正寿院」の歴代住職のお墓のようです。
「正寿院」というお寺の名前は町村誌には記載されていませんが、「成田市史 中世・近世編」
の「近世成田市域の寺院」表中にただ一行、西和泉の「城固寺」の末寺で廃寺であることが
記されていました。
かつてはここに天台宗の「正寿院」というお寺があり、多分、そのお寺は「羽黒神社」の別当
であったのでしょう。
同じく「城固寺」の末寺であった芦田の「証明寺」も、廃寺となって墓地だけが残されていまし
たが、いずれも寂しい景色です。
ちょっとしたスポット~取り残された仏たち~証明寺跡 ☜ こちらをクリック


羽黒神社ー27

帰り道、県道161号線に出る手前の民家の庭先のような場所に、「成田山 常夜燈」と
記された天保三年(1832)の古い石灯篭がありました。
台座には「右成田道」と刻まれています。
県道から少し入った小路ですが、ここが常陸国方面から成田山に向かう旧道だったようです。

「羽黒神社」も「正寿院」もほとんど記録が残されていませんが、昔は成田山にお参りに行く
人々が、この常夜燈の前を通り、ちょっと「正寿院」や「羽黒神社」にも立寄ったのでしょうね。


羽黒神社ー28


               ※ 「羽黒神社」(正寿院跡) 成田市水掛40




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久住村の寺社 | 08:19:30 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田の歴史に深くかかわる~幡谷の「延命院」
幡谷(はたや)の「延命院」を訪ねます。

延命院ー6

「延命院」は真言宗智山派の寺院で、山号は「幡谷山」、ご本尊は「不動明王」。
前回紹介した飯岡の「永福寺」の末寺で、創建年代は不詳です。


延命院ー23
延命院ー24

県道115号線から「延命院」に向かって入る道端に、数基の祠が並んでいます。
風化が激しく、わずかにその内の1基に文化三年(1806)の文字が読めるのみです。


延命院ー3

「延命院」の手前に庚申塚があります。
道路からは2~3メートル高い場所にあり、「延命院」とは深い竹薮で切り離されていますが、
地形から見て、昔は境内だったのではないかと思われます。

「青面金剛」と刻まれた庚申塔は、寛政十二年(1800)のものです。
隣の金剛像は倒れています。


延命院ー4
延命院ー5

倒れた「青面金剛像」には、うっすらと宝暦六年(1756)と記されているように見えます。
六臂で、足下には3匹の猿が配されている、最も多くみられる形です。


延命院ー7
延命院ー8

『延命院は不動明王を本尊とし、六〇間・五八間の境内に二間四面の地蔵堂と妙見社が
建てられており、村内の香取大明神と山王権現を支配していた。』 

(成田市史 中世・近世編 P786)

この広さがあったのなら、先ほどの庚申塚は昔は境内だったと考えて間違いないようです。
この本堂は昭和61年に建立されたもので、かつて境内にあった地蔵堂に納められていた
「木造地蔵菩薩立像」も安置されています。

「木造地蔵菩薩立像」については、説明板に次のように記されています。
『この像は、延命院の本尊です。像高75㎝、寄木造りで、左手に宝珠、右手に錫杖を取り、
沓をはいて直立している姿にあらわされています。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、弥勒菩薩
が出現し、この世を救ってくれるまでの長い無仏時代にあらわれ、一切の衆生を教化救済
してくれる菩薩です。この像は衣文を流れるように刻み出したおだやかな作風で、様式は
やゝ形式化していますが、鎌倉時代の造像と考えられます。なお、右足下の台座のさしこみ
ほぞの内面に「施主永範」という墨書銘がみられます。』


「成田市史 中世・近世編」にも、ほぼ同様の記述があります。(P267)


延命院ー9

裏手にある小さな墓地。


延命院ー10
延命院ー11
延命院ー12

貞享、享保、宝暦、文化、萬延などの年号が読めます。


延命院ー13

少し離れた草むらの中に、享保と刻まれた墓石がひとつ、ポツンと立っています。

花を手向ける人が絶えてからどのくらい経っているのでしょう。
他の墓石には動かされた跡がありますが、傾斜地にあるこの墓石は、約300年間ずっと
ここにあったようです。


延命院ー14

「阿波國地蔵尊寫」と刻まれた石塔がありました。
文化十二年(1815)と記されています。

永福寺の阿波國~の石碑 永福寺ー32

もしかすると、前回訪れた永福寺(この「延命院」の本寺)にあった“(私には)読めない石碑”
にも、こう刻まれていたのでしょうか?


延命院ー16
延命院ー17
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・延命院ー18

狭い境内の一角にあるお堂。
何も手掛かりはありませんが、前述の「成田市史」にあった「妙見社」かも知れません。


延命院ー19
延命院-20

見上げると、上空を成田空港に向かう旅客機が飛んでゆきます。


延命院ー15

ふと、成田山の表参道脇にある同じ寺名の「延命院旧跡」との関連が気になりました。

成田山新勝寺の中興八世・照胤(1775~1829)は、安永四年(1775)に千葉権之助宗胤
の子として生まれ(※1)、天明六年(1786)12歳のときに新勝寺で得度して「照胤」と号し、
その後京都の智積院で修行して、享和四年(1804)に幡谷の延命院の住職となりました。
文政二年(1819)に、師の照誉上人の隠居に伴い成田山の中興八世となり、仁王門の修復
や阿弥陀堂の再興、七代目市川団十郎が寄進した額堂(※2)の上棟式なとを行い、成田山
の隆盛に寄与しました。
額堂を寄進した団十郎が、天保の改革のあおりを受けて「江戸十里四方処払い」の処分を
受けると、境内近くの延命院に住まわせ、厚遇しました。

※1 宗胤の父の千葉権之助紀胤の子とする説もあります。
※2 文政四年(1821)に寄進されましたが、残念ながらこの額堂は昭和四十年(1965)に
    不審火で焼失してしまいました。現在残っている額堂は、文久元年(1861)の建立です。

照胤が幡谷村の延命院の住職をしていたこと、新勝寺の貫主となって七代目団十郎との親交
があったこと、不遇の団十郎を一時住まわせたのが成田村の延命院であること、さらに初代
団十郎の曾祖父、祖父、父親が、幡谷村に住んでいたことなどを考えると、二つの「延命院」
には何らかのつながりがあるように思えます。

明治十九年(1886)の「下総國下埴生郡成田村誌」には、
『村ノ北方字仲之町ニ在、境内四百廿五坪、真言宗日影山ト呼フ。本村新勝寺末寺ニシテ、
開基創立沿革トモ詳ナラス。』
 (成田市史 近世編史料集一 P77)
とありますが、幡谷の「延命院」には何も触れていません。

表参道ー43 表参道脇の延命院旧跡
表参道ー45

同じ真言宗であっても、一方は「新勝寺」、もう一方は「永福寺」と、本寺が異なり、関連を
示す資料も見当たらないので、これは単なる偶然であったのでしょうか。

後日、図書館の史料室で見つけた成田山新勝寺編の「成田山史」の中に、仲之町の
「延命院」についての記述を見つけました。

『日陰山延命院と称す。由緒深い寺院で「成田名所図会」(安政五年刊)の巻五に「本尊
地蔵なり。元台にありて薬師の別当を勤め日陰山と称せり」とある。これによると往時は、
現在の上町の薬師堂の裏手にあって後に現在の中の町に移ったことが知られる。
延享三年の調書によると、「寺内御年貢地二畝二五歩」を有していたと記されている。
本尊は智證大師作の地蔵尊である。開創の年月は不明であるが、すでに正徳・享保の頃
には照貞師が住職となって居り、次いで照海師が任じ延享三年の頃は照峯上人が住し
嘉永年間には照岳上人が住して新勝寺の寺務を執行していたのである。
明治三六年に至って院号を出張所横浜野毛山不動堂に移して成田山別院とした。
昔の堂宇の一部は現在も仲の町に保存されている。かつて七代目市川海老蔵(団十郎)が
天保の改革の際に暫く住居したゆかりのある寺である。』


残念ながら、二つの「延命院」には「成田屋・市川団十郎」にまつわる因縁はあっても、お寺と
しての関連はなかったようです。


延命院ー22

「延命院」の創建年代は不詳ですが、文禄三年(1594)の「幡谷郷御縄打水帳」に名前が
見えることから、少なくともそれ以前の創建であることが分かります。

小さな本堂とお堂が一つ、20基程度の墓石が残るのみの「延命院」ですが、その歴史は
成田の歴史に深く関わっています。


延命院ー26


                      ※ 「幡谷山延命院」 成田市幡谷1306



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久住村の寺社 | 08:06:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
1250年の歴史~飯岡の「永福寺」
今回は、1250年の歴史を有する飯岡の古刹、「永福寺」を訪ねます。 

永福寺ー1

「永福寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「飯岡山」、ご本尊は「薬師如来」。
天正十九年(1591年)に徳川家康から五石の朱印地を贈られた格式のあるお寺です。


永福寺ー2

小振りですが、なかなか立派な山門です。
境内に入るにはやや端に位置しているので、移設されたものと思われます。


永福寺ー3
永福寺ー4

木組みのしっかりした四脚門で、扉はいつも大きく開かれています。
去年の11月に訪ねた時も、この門は開かれていました。
(六脚に見えて四脚門であることは、多古町の「能満寺」を訪ねた時に学習しました。)

去年11月の永福寺山門 久住駅ー25
多古町能満寺の四脚門  能満寺ー20
                     見事な鐘楼門~能満寺 ☜ ここをクリック


永福寺ー5

『孝謙天皇の御宇天平宝字年中、唐鑑真和尚入朝の後、嘗て當山を創立す。中古火災に
罹り、現在の伽藍は同寺中興第廿三世法印照善師の時、安永九庚子五月の建設せしもの
なり。』
 (明治44年編「久住村郷土誌」より・「成田市史近代編史料集一」 P296に収録)

『寺伝によれば、奈良時代の天平宝字七年(七六三)に、唐の学僧鑑真和上によって創建
されたという。鑑真は日本に律宗を伝えた人物で、奈良の唐招提寺を創建したことでも知ら
れる。』
 (「成田の史跡散歩」 小倉 博 著 P261)

吉岡の「大慈恩寺」も鑑真和上によって天平宝字五年に創建されたと伝えられていますので、
きわめて近い時期に、「永福寺」も同じ鑑真和上によって創建されたということになります。

もっとも、「大慈恩寺」の項で記したように、鑑真和上創建説には無理がありますので、同様に
「永福寺」の鑑真和上による創建説にも疑問が残ります。
ただ、「永福寺」が「大慈恩寺」と同じように、長い歴史を有した名刹であることには間違いが
ありません。
吉岡の名刹~大慈恩寺 ☜ ここをクリック

「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博 著)にも、こんな記述が見えます。
『鑑真創建の真否はともかくとして、隣区の荒海には唐鑑房とか唐竹谷といった鑑真に因む
場所が残っている。唐鑑房は鑑真が居住し僧を集めて経行したところ、唐竹谷は鑑真が来朝
のときに持ってきた唐の竹を植えたところといわれる。こうした伝承を考えるに、鑑真ではない
にしても、唐の高僧がこの地を訪れ、永福寺を創建したのであろう。』
 (P240)


永福寺ー6

「成田市史 中世・近世編」は、この「永福寺」について次のように記しています。

『寛平五年(八九三)伽藍残らず焼失、二四年後の延喜十七年(九一七)に範良が再建
している。鎌倉時代に入ると大須賀氏の一族荒見氏の外護を受け教線を拡大した。
「佐倉風土記」には「有鐘、刻、元徳元年(一三二九)字、彫鋳画仏像甚多」と、元徳元年
銘の梵鐘があることを記して、その繁栄さを物語っているが、惜しいことにこの梵鐘は
今日に伝わっていない。』
『その後法脈が絶えたりして衰微したが、由緒ある寺の荒廃を嘆いた照尊が弘治三年
(一五五七)に本堂を再建し旧に復したのである。鑑真開山説はともかく、この寺は近くに
荒海城、大生城、幡谷城など大須賀一族の城址があり、その付近より立派な板碑が出土
する点より見て、荒海郷や飯岡郷などの豊かな農村地帯で、中世には地頭の外護と住民
の信仰により繁栄していたことがうかがわれる。』
 (P254~255)

「久住村誌」には、本堂が安永九年(1780年)に再建されたとありますが、その後、平成
元年に改築されたことが、境内に建つ「中興記念之碑」で分かります。


永福寺ー8
永福寺ー7

本堂に向かって右手前にあるお堂に鎮座する木仏はどなたなのでしょうか?
ひび割れて虫食いも多数ありますが、何とも楽しげなお顔に見えます。


永福寺ー9

本堂正面の両脇には比較的新しいお地蔵さまが立っていますが、台座だけは古いもので、
文化四年(1807年)の文字がかろうじて読めます。


永福寺ー10

境内の一角に8基の下総板碑が並んでいます。

板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて建てられたものが多く、その分布は全国にまたがり
ますが、特に関東地方の、それも鎌倉武士の領地に圧倒的に多く見られます。
大きく「武蔵型板碑」と「下総型板碑」に分けられますが、「武蔵型板碑」は主に秩父地方から
出る、やや青みがかった緑泥片岩で造られるものを指し、「下総型板碑」は主に筑波山から
出る黒雲母片岩で造られるものを指します。


前列一番左の板碑 →  永福寺ー11
前列左から二番目 →  永福寺ー12

永福寺ー13

風化で平面化している中で、前列の中央にあるこの板碑には蓮の花が刻まれていることが
分かります。
『その中央の板碑には、蓮の花の上に同じ梵字が二つ刻まれている。梵字は阿弥陀如来
の種字「キリーク」である。同じ梵字が二つ対比して並べてあることから双式板碑と呼び、
この場合は弥陀種字双式板碑となる。市内では双式板碑は少ないので貴重な存在である。』

(「成田の史跡散歩」P261)

永福寺ー14 ← 前列右から2番目
永福寺ー15 ← 前列の右端
   後列の左端 →   永福寺ー16
   後列の中央 →   永福寺ー17
   後列の右端 →   永福寺ー18

永福寺ー19

裏側から見た板碑群。


永福寺ー23

境内の左手に、木々に隠れるようにして建っている「奉納 大乘妙典六十六部成就供養 
導師永福寺照鑁敬白」と刻まれた石塔があります。
右に「天下泰平 宝永四丁亥 日本廻國」、左に「國土安穏 今月吉日 願主照運」と記され
ています。(は異字体で、𠆢の下にテ)
宝永四年は西暦1707年で、富士山の宝永大噴火があった年です。


永福寺ー24

本堂裏の墓地に向かう場所に「無縁仏供養塔」があります。


永福寺ー25
永福寺ー26
永福寺ー27

延宝、天和、元禄、享保、元文、宝暦などの年号が刻まれた墓石が積み上げられています。
ツタに絡まれて傷みも激しいのですが、どれもとても優しいお顔です。


永福寺ー28
永福寺ー29

供養塔の隣にあるお堂の中には、上段に木造の仏像が、下段には石造5体、木造1体の
仏像が見えます。
上段の仏像は手首から先が欠け、首も傾いて今にも落ちそうです。


永福寺ー32

この石碑には苔がびっしりと付いていて、刻んである文字が読めません。
字も崩し文字で難しく、かろうじて阿波國と読めるような気がします。
紀年銘も文化五年(1808年)か文政五年(1822年)のどちらか、判別できません。


永福寺ー33

上記の石塔の後方の草むらの中には、寛政十年(1798年)の「南無観世音」と刻まれた
石塔があります。
上部には「廻國」とあり、脇には「三月十廿夜同行二人」と記されていますが、十廿夜など
は(私の読み間違いかも知れませんが)、残念ながら意味が分かりません。
側面には「南なりたミち」「北なめかわ道」と刻まれています。
方角が合いませんので、別の場所に置かれていて道標を兼ねていたのでしょう。


永福寺ー34

裏手の墓地には新旧の墓石が入り混じっています。
ひときわ立派なこの石塔には、○○居士、○○信女と、びっしりと近郷の人々の戒名が
刻まれ、「法界萬靈」と「迴向菩提」の文字が大きく記されています。


永福寺ー37

本堂と墓地との間にある小さな池。


永福寺ー39

佐原出身の儒者・久保木竹窓(1762~1829)が「巷談偶記」に記した「永福寺」に伝わる
不思議な話を、「成田 寺と町まちの歴史」から拾ってみます。

『昔、一人の僧がやって来て永福寺に宿泊した。その僧が深夜になっても起きている様子
なので、住職は不審に思い、そっと部屋の中をのぞいてみた。すると一人ではなく、数人の
僧がなにか書きものをしていたのである。だが、住職がのぞいているのを知り、すぐに灯が
消され、物音一つしなくなった。翌朝、その部屋に行ってみると誰れもいなく、ただ、墨も
新しい大般若経が散らばっていたのであった。拾い集めたところ、全巻揃いではなく一部
欠本があり、住職は自分がのぞき見などしなければ、全部書き上がったであろうと反省し、
不足分を版本で買い足したという。』 
 (P241)

「成田市史 中世・近世編」にある「近世成田市域の寺院」表には、「永福寺」の末寺として
17もの寺が記載されていますが、今ではそのほとんどが廃寺となり、現在残っているのは
6寺のみになっています。

「永福寺」は1250年もの歴史を有するお寺ですが、鐘楼・梵鐘などは失われ、わずかに
残る板碑群や石塔が、このお寺が古刹であることを教えてくれます。


永福寺ー41

                   ※ 「飯岡山 永福寺」 成田市飯岡95



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