
「延命院」は真言宗智山派の寺院で、山号は「幡谷山」、ご本尊は「不動明王」。
前回紹介した飯岡の「永福寺」の末寺で、創建年代は不詳です。


県道115号線から「延命院」に向かって入る道端に、数基の祠が並んでいます。
風化が激しく、わずかにその内の1基に文化三年(1806)の文字が読めるのみです。

「延命院」の手前に庚申塚があります。
道路からは2~3メートル高い場所にあり、「延命院」とは深い竹薮で切り離されていますが、
地形から見て、昔は境内だったのではないかと思われます。
「青面金剛」と刻まれた庚申塔は、寛政十二年(1800)のものです。
隣の金剛像は倒れています。


倒れた「青面金剛像」には、うっすらと宝暦六年(1756)と記されているように見えます。
六臂で、足下には3匹の猿が配されている、最も多くみられる形です。


『延命院は不動明王を本尊とし、六〇間・五八間の境内に二間四面の地蔵堂と妙見社が
建てられており、村内の香取大明神と山王権現を支配していた。』
(成田市史 中世・近世編 P786)
この広さがあったのなら、先ほどの庚申塚は昔は境内だったと考えて間違いないようです。
この本堂は昭和61年に建立されたもので、かつて境内にあった地蔵堂に納められていた
「木造地蔵菩薩立像」も安置されています。
「木造地蔵菩薩立像」については、説明板に次のように記されています。
『この像は、延命院の本尊です。像高75㎝、寄木造りで、左手に宝珠、右手に錫杖を取り、
沓をはいて直立している姿にあらわされています。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、弥勒菩薩
が出現し、この世を救ってくれるまでの長い無仏時代にあらわれ、一切の衆生を教化救済
してくれる菩薩です。この像は衣文を流れるように刻み出したおだやかな作風で、様式は
やゝ形式化していますが、鎌倉時代の造像と考えられます。なお、右足下の台座のさしこみ
ほぞの内面に「施主永範」という墨書銘がみられます。』
「成田市史 中世・近世編」にも、ほぼ同様の記述があります。(P267)

裏手にある小さな墓地。



貞享、享保、宝暦、文化、萬延などの年号が読めます。

少し離れた草むらの中に、享保と刻まれた墓石がひとつ、ポツンと立っています。
花を手向ける人が絶えてからどのくらい経っているのでしょう。
他の墓石には動かされた跡がありますが、傾斜地にあるこの墓石は、約300年間ずっと
ここにあったようです。

「阿波國地蔵尊寫」と刻まれた石塔がありました。
文化十二年(1815)と記されています。
永福寺の阿波國~の石碑

もしかすると、前回訪れた永福寺(この「延命院」の本寺)にあった“(私には)読めない石碑”
にも、こう刻まれていたのでしょうか?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

狭い境内の一角にあるお堂。
何も手掛かりはありませんが、前述の「成田市史」にあった「妙見社」かも知れません。


見上げると、上空を成田空港に向かう旅客機が飛んでゆきます。

ふと、成田山の表参道脇にある同じ寺名の「延命院旧跡」との関連が気になりました。
成田山新勝寺の中興八世・照胤(1775~1829)は、安永四年(1775)に千葉権之助宗胤
の子として生まれ(※1)、天明六年(1786)12歳のときに新勝寺で得度して「照胤」と号し、
その後京都の智積院で修行して、享和四年(1804)に幡谷の延命院の住職となりました。
文政二年(1819)に、師の照誉上人の隠居に伴い成田山の中興八世となり、仁王門の修復
や阿弥陀堂の再興、七代目市川団十郎が寄進した額堂(※2)の上棟式なとを行い、成田山
の隆盛に寄与しました。
額堂を寄進した団十郎が、天保の改革のあおりを受けて「江戸十里四方処払い」の処分を
受けると、境内近くの延命院に住まわせ、厚遇しました。
※1 宗胤の父の千葉権之助紀胤の子とする説もあります。
※2 文政四年(1821)に寄進されましたが、残念ながらこの額堂は昭和四十年(1965)に
不審火で焼失してしまいました。現在残っている額堂は、文久元年(1861)の建立です。
照胤が幡谷村の延命院の住職をしていたこと、新勝寺の貫主となって七代目団十郎との親交
があったこと、不遇の団十郎を一時住まわせたのが成田村の延命院であること、さらに初代
団十郎の曾祖父、祖父、父親が、幡谷村に住んでいたことなどを考えると、二つの「延命院」
には何らかのつながりがあるように思えます。
明治十九年(1886)の「下総國下埴生郡成田村誌」には、
『村ノ北方字仲之町ニ在、境内四百廿五坪、真言宗日影山ト呼フ。本村新勝寺末寺ニシテ、
開基創立沿革トモ詳ナラス。』 (成田市史 近世編史料集一 P77)
とありますが、幡谷の「延命院」には何も触れていません。


同じ真言宗であっても、一方は「新勝寺」、もう一方は「永福寺」と、本寺が異なり、関連を
示す資料も見当たらないので、これは単なる偶然であったのでしょうか。
後日、図書館の史料室で見つけた成田山新勝寺編の「成田山史」の中に、仲之町の
「延命院」についての記述を見つけました。
『日陰山延命院と称す。由緒深い寺院で「成田名所図会」(安政五年刊)の巻五に「本尊
地蔵なり。元台にありて薬師の別当を勤め日陰山と称せり」とある。これによると往時は、
現在の上町の薬師堂の裏手にあって後に現在の中の町に移ったことが知られる。
延享三年の調書によると、「寺内御年貢地二畝二五歩」を有していたと記されている。
本尊は智證大師作の地蔵尊である。開創の年月は不明であるが、すでに正徳・享保の頃
には照貞師が住職となって居り、次いで照海師が任じ延享三年の頃は照峯上人が住し
嘉永年間には照岳上人が住して新勝寺の寺務を執行していたのである。
明治三六年に至って院号を出張所横浜野毛山不動堂に移して成田山別院とした。
昔の堂宇の一部は現在も仲の町に保存されている。かつて七代目市川海老蔵(団十郎)が
天保の改革の際に暫く住居したゆかりのある寺である。』
残念ながら、二つの「延命院」には「成田屋・市川団十郎」にまつわる因縁はあっても、お寺と
しての関連はなかったようです。

「延命院」の創建年代は不詳ですが、文禄三年(1594)の「幡谷郷御縄打水帳」に名前が
見えることから、少なくともそれ以前の創建であることが分かります。
小さな本堂とお堂が一つ、20基程度の墓石が残るのみの「延命院」ですが、その歴史は
成田の歴史に深く関わっています。

※ 「幡谷山延命院」 成田市幡谷1306