
「羽黒神社」は水掛の山中にある神社で、ご祭神は「宇迦之御魂命(ウカノミタマノカミ)」。
元禄十一年(1698)の創建です。
「宇迦之御魂命」は穀物の神様で、女神であるとされています。
この神社に関する記述は、「成田市史 中世・近世編」にも、「近代編史料集」の「町村誌」
にも、その他めぼしい書籍にも見当たりません。
唯一「成田市史」の「成田市域の主な神社」表に1行あるだけです。

「羽黒神社」への道端に、文化五年(1808)の「馬頭観世音菩薩」と記された石碑。
神社のある小高い山の周りを半周あまりしましたが、入口がなかなか見つかりません。

ようやく神社への階段を見つけました。
折れ曲がった急な階段です。

登り切って下を見ると、相当な高低差です。

103段の石段が終わった所に、土砂に埋まった小さな石碑がありました。
寛政八年(1796)の文字だけが読めます。

木の鳥居は大分傷んでいます。

階段を登り、鳥居をくぐっても、まだお社は見えません。
尾根道のような細い道が続いています。
傍らの木の根元の小さな祠


しばらく進むと、ようやく道の先にお社が見えてきました。

小さいながらも立派な屋根がある、破風造りのお社です。

手水鉢は50センチ四方程度の小さなもので、風化と泥で文字などは見えません。

小さな奉納額がいくつかありますが、いずれも文字などはすっかり消えています。

棟鬼瓦には「羽黒山」の文字が入っています。
境内には名前の分からない祠が四つあり、その内の一つだけ年号が読めました。

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文政六年(1823)の祠


4月上旬に、この境内で神楽が奉納されるそうです。
地域の状況から、氏子は少ないと思われますが、昔からの崇敬が維持されているようです。


長い参道を戻り、石段を下ると、小さな墓地があります。
墓石はどれも古く、延宝、安永、宝暦、明和、文政などの年号が読めます。

「十九夜講」と記された「月待塔」。


これは「正寿院」の歴代住職のお墓のようです。
「正寿院」というお寺の名前は町村誌には記載されていませんが、「成田市史 中世・近世編」
の「近世成田市域の寺院」表中にただ一行、西和泉の「城固寺」の末寺で廃寺であることが
記されていました。
かつてはここに天台宗の「正寿院」というお寺があり、多分、そのお寺は「羽黒神社」の別当
であったのでしょう。
同じく「城固寺」の末寺であった芦田の「証明寺」も、廃寺となって墓地だけが残されていまし
たが、いずれも寂しい景色です。
ちょっとしたスポット~取り残された仏たち~証明寺跡 ☜ こちらをクリック

帰り道、県道161号線に出る手前の民家の庭先のような場所に、「成田山 常夜燈」と
記された天保三年(1832)の古い石灯篭がありました。
台座には「右成田道」と刻まれています。
県道から少し入った小路ですが、ここが常陸国方面から成田山に向かう旧道だったようです。
「羽黒神社」も「正寿院」もほとんど記録が残されていませんが、昔は成田山にお参りに行く
人々が、この常夜燈の前を通り、ちょっと「正寿院」や「羽黒神社」にも立寄ったのでしょうね。

※ 「羽黒神社」(正寿院跡) 成田市水掛40