成田駅方向から51号線を佐原方向に向かい、野毛平工業団地の少し手前を左に入ると、
国道や工場地帯のそばとは思えない雑木林と竹林が広がる台地に出ます。
まず人も車も通りそうもない道端に「鎮守皇神社」があります。

「鎮守皇神社」の古社名は「神明宮」。
ご祭神は天照大神です。



鳥居の下に、50×30センチくらいの石が2つ転がっています。
良く見ると、何か文字らしきものが彫られています。
摩耗していますが、「奉納 靈石」と読めました。
これは「力石」です。
江戸時代から明治時代にかけて、このような力石による力試しが各地の村や町で盛んに
行われ、特に神社のお祭りで行われることが多かったようです。
時の流れとともにこの風習は廃れ、ほとんどの力石が打ち捨てられ、忘れられて行きまし
たが、わずかに各地の神社に奉納されたものが残っています。
通常、石の重さは60キロ以上、米俵より重くなくては競技の意味がなかったようです。
かすかに「壱石」と読める文字が刻まれていますので、ここの石は通常の半分の約31キロ
の重さのようです。
何の変哲もない石のように見えますが、なかなか貴重なものだと思いますので、保存に
配慮が欲しいところです。
「香取神宮」で「さし石」と呼ばれる「力石」の一種を見たことがありますが、ここの石は
「香取神宮」の力石より少し小振りのようです。
香取神宮に奉納のさし石



「皇神社改修記念」と記された、平成12年に奉納の御神燈。


手水鉢には明治三年(1870)と記され、正面に大きく「奉獻」と彫られています。

木々に陽を遮られている境内には、一面に苔が生えています。


「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、
『皇太神宮ヲ祭レリ。村ノ稍中央ニ在リ、祭日九月二十日、本社ハ村内ノ人民之ヲ創建
スト虽トモ年号月日詳ナラス。境内ニ存スルモノハ妙見宮、天満宮ノ二社ナリ。』
(成田市史 近代編史料集一 P267)
とあります。
村民による創建と伝えられる神社は、珍しいのではないでしょうか。

千葉県神社庁編さんの「千葉県神社名鑑」(昭和62年)によれば、本殿は銅板瓦葺きの
神明造りで、1.6坪、拝殿は亜鉛板葺きで6坪の建物です。
境内は253坪あります。
鰹木は4本、千木は水平切りで、ご祭神が女神であることを示しています。

寛文六年(1666)に再建されたという記録が残っているようですが、現在の社殿は御神燈
にあったように、平成12年に改修されたものです。

脇の竹やぶから、筍が元気良く頭を出していました。(4月29日撮影)


「野毛平村誌」にあるとおり、二つのお堂が境内にありました。
どちらが妙見宮で、どちらが八幡宮でしょうか?
何となく石の祠が八幡宮、木造の小堂が妙見宮のような気がしますが・・・。
「成田市史 中世・近世編」中には、成田市域の妙見神社の一つが皇神社境内にあると
書かれていますが(P249)、八幡宮についての記述は見つかりませんでした。


拝殿の軒にスズメバチの巣を見つけました。
そう言えば鳥居の下にスズメバチの死骸がありましたので、この巣はまだ活動中のようです。

並び立つ古木にはツタがからみ、裏側からは竹林が迫っています。
周りの森が荒れているので管理が大変そうです。


『野毛平村創置ノ年号干支詳ナラス。往古ヨリ埴生郡ニ属シ、遠山庄久米郷ニ隷ス。
当村古昔ニ泝リ得テ考フヘキ書目ナシ。』
『只知ル佐倉下総國印旛郡城主堀田相模守正亮ノ所領ニ属シテヨリ、以還連綿トシテ
本村ヲ領スル事ヲ明治元年徳川氏大政ヲ返上シ、続テ明治二年己巳六月藩主堀田
正倫版籍ヲ奉還シ、仝月佐倉藩知事ニ任セラレ本村ヲ管轄ス。仝年十一月仝縣廃セラ
レテ更ニ印旛縣ノ管轄スル所トナル。仝六年癸酉六月仝縣廃セラレ改テ千葉縣ノ管轄
スル所トナル。』
「野毛平村誌」には村の成り立ちについてこう書かれています。
多くの村々では頻繁に領主の交代がありましたが、野毛平村は元禄十四年(1701)
から明治の廃藩置県に至るまでの約170年間堀田家の下にありました。
『地勢 村落部ハ高燥ニシテ平坦、四面土壌起伏シ、田畑山林相交ル。』
『地質 其色淡黒、其質稍美、稲麦甘薯及野菜等ヲ作ルニ適ス。』
村誌にこう書かれた野毛平村ですが、昭和50年代に入ると国際空港の開港の波に
のまれることになります。
この地域は騒音区域内になり、多くの住民が近くの米塚団地に移転し、神社の周りから
生活の匂いが遠のいて行きました。
その昔、野毛平の住民が地域の安寧を願って勧請した「鎮守皇神社」は、人影の無く
なったこの場所で、時の流れに逆い、ひとり踏み止まっているように感じます。

※ 「鎮守皇神社」 成田市野毛平498