
「永福寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「飯岡山」、ご本尊は「薬師如来」。
天正十九年(1591年)に徳川家康から五石の朱印地を贈られた格式のあるお寺です。

小振りですが、なかなか立派な山門です。
境内に入るにはやや端に位置しているので、移設されたものと思われます。


木組みのしっかりした四脚門で、扉はいつも大きく開かれています。
去年の11月に訪ねた時も、この門は開かれていました。
(六脚に見えて四脚門であることは、多古町の「能満寺」を訪ねた時に学習しました。)
去年11月の永福寺山門

多古町能満寺の四脚門

見事な鐘楼門~能満寺 ☜ ここをクリック

『孝謙天皇の御宇天平宝字年中、唐鑑真和尚入朝の後、嘗て當山を創立す。中古火災に
罹り、現在の伽藍は同寺中興第廿三世法印照善師の時、安永九庚子五月の建設せしもの
なり。』 (明治44年編「久住村郷土誌」より・「成田市史近代編史料集一」 P296に収録)
『寺伝によれば、奈良時代の天平宝字七年(七六三)に、唐の学僧鑑真和上によって創建
されたという。鑑真は日本に律宗を伝えた人物で、奈良の唐招提寺を創建したことでも知ら
れる。』 (「成田の史跡散歩」 小倉 博 著 P261)
吉岡の「大慈恩寺」も鑑真和上によって天平宝字五年に創建されたと伝えられていますので、
きわめて近い時期に、「永福寺」も同じ鑑真和上によって創建されたということになります。
もっとも、「大慈恩寺」の項で記したように、鑑真和上創建説には無理がありますので、同様に
「永福寺」の鑑真和上による創建説にも疑問が残ります。
ただ、「永福寺」が「大慈恩寺」と同じように、長い歴史を有した名刹であることには間違いが
ありません。
吉岡の名刹~大慈恩寺 ☜ ここをクリック
「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博 著)にも、こんな記述が見えます。
『鑑真創建の真否はともかくとして、隣区の荒海には唐鑑房とか唐竹谷といった鑑真に因む
場所が残っている。唐鑑房は鑑真が居住し僧を集めて経行したところ、唐竹谷は鑑真が来朝
のときに持ってきた唐の竹を植えたところといわれる。こうした伝承を考えるに、鑑真ではない
にしても、唐の高僧がこの地を訪れ、永福寺を創建したのであろう。』 (P240)

「成田市史 中世・近世編」は、この「永福寺」について次のように記しています。
『寛平五年(八九三)伽藍残らず焼失、二四年後の延喜十七年(九一七)に範良が再建
している。鎌倉時代に入ると大須賀氏の一族荒見氏の外護を受け教線を拡大した。
「佐倉風土記」には「有鐘、刻、元徳元年(一三二九)字、彫鋳画仏像甚多」と、元徳元年
銘の梵鐘があることを記して、その繁栄さを物語っているが、惜しいことにこの梵鐘は
今日に伝わっていない。』
『その後法脈が絶えたりして衰微したが、由緒ある寺の荒廃を嘆いた照尊が弘治三年
(一五五七)に本堂を再建し旧に復したのである。鑑真開山説はともかく、この寺は近くに
荒海城、大生城、幡谷城など大須賀一族の城址があり、その付近より立派な板碑が出土
する点より見て、荒海郷や飯岡郷などの豊かな農村地帯で、中世には地頭の外護と住民
の信仰により繁栄していたことがうかがわれる。』 (P254~255)
「久住村誌」には、本堂が安永九年(1780年)に再建されたとありますが、その後、平成
元年に改築されたことが、境内に建つ「中興記念之碑」で分かります。


本堂に向かって右手前にあるお堂に鎮座する木仏はどなたなのでしょうか?
ひび割れて虫食いも多数ありますが、何とも楽しげなお顔に見えます。

本堂正面の両脇には比較的新しいお地蔵さまが立っていますが、台座だけは古いもので、
文化四年(1807年)の文字がかろうじて読めます。

境内の一角に8基の下総板碑が並んでいます。
板碑は鎌倉時代から室町時代にかけて建てられたものが多く、その分布は全国にまたがり
ますが、特に関東地方の、それも鎌倉武士の領地に圧倒的に多く見られます。
大きく「武蔵型板碑」と「下総型板碑」に分けられますが、「武蔵型板碑」は主に秩父地方から
出る、やや青みがかった緑泥片岩で造られるものを指し、「下総型板碑」は主に筑波山から
出る黒雲母片岩で造られるものを指します。
前列一番左の板碑 →

前列左から二番目 →


風化で平面化している中で、前列の中央にあるこの板碑には蓮の花が刻まれていることが
分かります。
『その中央の板碑には、蓮の花の上に同じ梵字が二つ刻まれている。梵字は阿弥陀如来
の種字「キリーク」である。同じ梵字が二つ対比して並べてあることから双式板碑と呼び、
この場合は弥陀種字双式板碑となる。市内では双式板碑は少ないので貴重な存在である。』
(「成田の史跡散歩」P261)


後列の左端 →

後列の中央 →

後列の右端 →


裏側から見た板碑群。

境内の左手に、木々に隠れるようにして建っている「奉納 大乘妙典六十六部成就供養
導師永福寺照鑁敬白」と刻まれた石塔があります。
右に「天下泰平 宝永四丁亥 日本廻國」、左に「國土安穏 今月吉日 願主照運」と記され
ています。(今は異字体で、𠆢の下にテ)
宝永四年は西暦1707年で、富士山の宝永大噴火があった年です。

本堂裏の墓地に向かう場所に「無縁仏供養塔」があります。



延宝、天和、元禄、享保、元文、宝暦などの年号が刻まれた墓石が積み上げられています。
ツタに絡まれて傷みも激しいのですが、どれもとても優しいお顔です。


供養塔の隣にあるお堂の中には、上段に木造の仏像が、下段には石造5体、木造1体の
仏像が見えます。
上段の仏像は手首から先が欠け、首も傾いて今にも落ちそうです。

この石碑には苔がびっしりと付いていて、刻んである文字が読めません。
字も崩し文字で難しく、かろうじて阿波國と読めるような気がします。
紀年銘も文化五年(1808年)か文政五年(1822年)のどちらか、判別できません。

上記の石塔の後方の草むらの中には、寛政十年(1798年)の「南無観世音」と刻まれた
石塔があります。
上部には「廻國」とあり、脇には「三月十廿夜同行二人」と記されていますが、十廿夜など
は(私の読み間違いかも知れませんが)、残念ながら意味が分かりません。
側面には「南なりたミち」「北なめかわ道」と刻まれています。
方角が合いませんので、別の場所に置かれていて道標を兼ねていたのでしょう。

裏手の墓地には新旧の墓石が入り混じっています。
ひときわ立派なこの石塔には、○○居士、○○信女と、びっしりと近郷の人々の戒名が
刻まれ、「法界萬靈」と「迴向菩提」の文字が大きく記されています。

本堂と墓地との間にある小さな池。

佐原出身の儒者・久保木竹窓(1762~1829)が「巷談偶記」に記した「永福寺」に伝わる
不思議な話を、「成田 寺と町まちの歴史」から拾ってみます。
『昔、一人の僧がやって来て永福寺に宿泊した。その僧が深夜になっても起きている様子
なので、住職は不審に思い、そっと部屋の中をのぞいてみた。すると一人ではなく、数人の
僧がなにか書きものをしていたのである。だが、住職がのぞいているのを知り、すぐに灯が
消され、物音一つしなくなった。翌朝、その部屋に行ってみると誰れもいなく、ただ、墨も
新しい大般若経が散らばっていたのであった。拾い集めたところ、全巻揃いではなく一部
欠本があり、住職は自分がのぞき見などしなければ、全部書き上がったであろうと反省し、
不足分を版本で買い足したという。』 (P241)
「成田市史 中世・近世編」にある「近世成田市域の寺院」表には、「永福寺」の末寺として
17もの寺が記載されていますが、今ではそのほとんどが廃寺となり、現在残っているのは
6寺のみになっています。
「永福寺」は1250年もの歴史を有するお寺ですが、鐘楼・梵鐘などは失われ、わずかに
残る板碑群や石塔が、このお寺が古刹であることを教えてくれます。

※ 「飯岡山 永福寺」 成田市飯岡95