石仏群」を訪ねます。

県道44号線の「さくらの山」信号と京成空港線のガード下の間にある脇道を入って、少し進むと、
左手に鳥居と十数基の石造物が見えます。
石の鳥居は、円柱の笠木に角柱の貫が特徴の「靖国鳥居」です。


正面に石宮の道祖神が鎮座しています。
社号も紀年銘もありませんが、後述の「遷座記念碑」の碑文から、この石宮が「道祖神」である
ことが分かります。

****

側面には龍の彫刻が施されています。

道祖神の石宮の後には、風化が進んだ小さな道祖神が置かれています。

そして、境内の右端には、嘉永元年(1848)の銘がある「道祖神」があります。
周りには小さな道祖神が二基置かれています。
この数基の道祖神が、もともと駒井野に散在していたもので、中央の石宮はこの地に遷座
したときに建立されたもののようです。

道祖神の手前左側には、青面金剛像が立っています。
これは「庚申塔(こうしんとう)」と呼ばれます。
これまで何度か庚申塔について書きましたが、あらためてもう一度まとめておきましょう。
「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。
「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
人の体内には、生まれたときから上尸、中尸、下尸の三種の三尸虫がいて、庚申の日の夜に
眠っている人の体内から抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めさせる
と言われています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、三年(十八回)続けると「庚申塔」を建てることができます。
庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
「 一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。」 (P224)
六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、
左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。




寛政十二年(1800)の紀年銘があり、側面には次のような文字が刻まれています。
「西 なりた 北 こまいの」「東 とつこう 南 はたけた」
道標を兼ねていたようですが、「とつこう」は取香、「はたけた」は「畑ケ田」だと思われます。


道祖神や青面金剛像の左手に、十数基の石造物がまとめられています。
中央の五輪塔には紀年銘がありませんが、道祖神の石宮と同じく、この地に遷座したときに
建立されたもののようです。

「馬頭観世音」と刻まれたこの石碑には紀年銘がありません。
これも、この地に遷座したときのものでしょう。


右は馬頭観音の文字塔、左は馬頭観音の像塔です。
文字塔は昭和22年、像塔には「寛政三辛亥」の紀年銘が刻まれています。
寛政三年は西暦1791年、第十一代将軍・徳川家斉の治世です。
約230年前のものにしては、風化が少なく、冠の馬頭がはっきり分かる珍しい観音像です。

五輪塔の左側に並んでいる石造物はいずれも墓石のようです。

風化が進んでいますが、「宝永三」と読めます。
宝永三年は西暦1706年、310年も前のものです。

こちらも「宝永三戊」と読めます。

「・・童子」とあるので、子供の墓石のようです。
「宝曆十庚辰」と刻まれています。
宝暦十年は西暦1760年、第九代将軍徳川家重の治世です。

宝暦七年(1757)の墓石。
「・・・定門 ・・・定尼 霊位」と刻まれています。
「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院」表によれば、駒井野地区の寺院は
天台宗の「髙福寺」(山之作・円融寺末)と、真言宗の「法蔵寺」(吉岡・大慈恩寺末)の二寺
のみで、高福寺は新駒井野に移転して存続し、法蔵寺は明治初期に廃寺となっています。
状況から考えると、廃寺となった「法蔵寺」にあった墓石ではないでしょうか。

五輪塔の右側にも三基の墓石が並んでいます。

左は寛政十年(1798)のもので、・・・權律師(ごんのりっし)と読めますので、お坊さんの
墓石です。
「權律師」は僧侶の位(僧階)の最下位の名称です。
ちなみに、僧階は上位から次のようになっています(宗派によって多少の違いがあります)。
【 大僧正・権大僧正・中僧正/僧正・権中僧正・少僧正・権少僧正・大僧都・権大僧都
中僧都/僧都・権中僧都・少僧都・権少僧都・大律師・中律師/律師・権律師 】
右の墓石は享保七年のもので、風化と苔で読みにくくなっていますが、「・・・照誉道光・・」
「・・・開眼道了・・」と読めるような気がします。
享保七年は西暦1722年、八代将軍徳川吉宗の時代です。

こちらの石仏は風化と欠損により、年代等は不明ですが、地蔵菩薩であると思われます。

五輪塔の後方には「子安地蔵尊」があります。
明治十三年(1880)の建立です。


50メートル先は空港の滑走路です。

******

***********


******

***********

ここはちょうどA滑走路の離陸スタートポイントになるため、次々と一気にエンジンを吹かして
走り始める旅客機が現れます。
障害物の間から見ていると、機体は一瞬で走り去り、轟音だけが襲ってきます。

遷座記念碑には次のような言葉が刻まれています。
「遷座記念碑
我等が先祖より、居住の地は昭和四十一年新東京国際空港の用地と決定した これに
伴ない昭和四十八年八月区民の柱の一つとして崇拝している道祖神等をこの地に合祀し
遷座祭を執り行なう ここに記念の碑を建て永く駒井野区民の加護を祈念する」



空港の工事により、駒井野の道端や林の中に散在する道祖神や石仏、墓石等が失われ
ないよう、この地に集めて、離散する住民の心の拠り所としようとしたのでしょう。
しかし、絶え間なく航空機の離着陸の轟音が響くこの地に、人家は消えて、今は訪ねる人
もなさそうです。
過疎化で忘れ去られて草むす石仏や石碑もあれば、やむを得ない事情によって元の土地を
追われて離れた場所に移り、人と引き離されて忘れられて行く石仏や石碑もあります。

※ 駒井野道祖神と石仏群 成田市駒井野1393-5
宝暦の墓石は建立者と石工とやりとりが伝わってくるようで、遷されて本当に良かったと実感しました。
成田近郊には、空港事業によって遷座した寺社、石仏・石碑が実に多くあります。そして、その多くが、
地域住民との絆を保ちにくい場所に遷座しています。物理的な問題や経済的な問題から、致し方ないこと
なのでしょうが、国際空港の華やかさの陰の寂しい景色です。