長い間ご無沙汰しておりました。
この間の事情は追記に簡単に記しておきました。
以前よりスローペースになると思いますが、再開させていただきます。
今回は、以前から気になっていた、成田山の石仏です。
成田山の外周路に、ひっそりと佇む石仏があります。

光明堂裏辺りの外周路。
寄進された金額や奉納物が刻まれた、大きな石碑が立ち並ぶ一角に、隠れるようにして
その四体の石仏はあります。


もともとこの外周路を歩く人は少ないうえに、大きな奉納碑や記念碑に囲まれているので、
気付く人はほとんどいません。
成田山の境内には多くの奉納碑、記念碑、修行碑、句碑などが立ち並んでいます。
大本堂裏の築山には不動明王の眷属(けんぞく)童子群が並んでいますし、光明堂・開山堂・
額堂に囲まれた一角には、不動明王像や矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せい
たかどうじ)を従えた三尊像が複数見られます。


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ただ、不思議なことに、どこのお寺でも普通に見られる観音菩薩や地蔵菩薩のような石仏を
目にすることはありません。
広い境内のどこかに立像や坐像が隠れているのかも知れませんが、私はこの四体の石仏
以外には見つけることができていません。

これらの石仏には、この場所にある必然性も、配置の意味も感じられなく、あちこちに分散して
あったものを境内の整備などの事情で、とりあえずここにまとめて置いたように見えます。
一体ずつ見てみましょう。


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左端に立つのは庚申塔の青面金剛像です。
顔から上半身にかけて大きく削り取られています。
右側面には文字が刻まれていますが、風化と欠損で、わずかに「本尊」と「八月吉日」の文字
が読み取れるのみです。

この青面金剛像をよく見ると珍しい一面八臂像です。
今までこのブログでたくさんの青面金剛像を見てましたが、どれもが一面六臂像でしたので、
これは初めて見る八臂像です。
正面の二臂は削られていますが、合掌している様子がかすかに残っています。




通常、六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を六臂全てに持つか、四臂で
いずれかを持って、残る二臂で合掌しています。
忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。

この八臂像は、六臂で持物を持ち、さらに合掌する二臂が加えられています。

邪鬼と三猿の部分も風化や欠損ではなく、削られた痕があります。
顔から上半身、邪鬼と三猿、いずれも廃仏毀釈の嵐に揉まれたことによるものでしょう。
この像にはもう一つ変わった部分があります。
ふつう金剛像の足許の左右に刻まれる鶏が、三猿の下に刻まれているのです。

三猿を刻むのは、庚申の申(さる)にかけて、三尸(さんし)に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝への告げ口をさせないようにするためだと言われ、鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを
表しているとか、十二支の申(さる)の次に来る酉(とり)の日になるまで起きていることを表し
ているとか言われていますが、この位置に鶏があるのは初めて見ます。

この珍しい青面金剛像の建立年代が分からないのは、とても残念です。
(庚申や庚申塔については度々書いてきましたが、「駒井野の道祖神と石仏群」の項に書いた
解説を参考までに追記に載せておきます。)
金剛像の隣にある石仏には大いに迷わされました。

一見、観音菩薩像と思いましたが、なにか違和感があります。


頭部は隣の青面金剛像と同じく、廃仏毀釈により落されたようです。
修復の痕が痛々しい姿です。

今は失われていますが、頭上には宝冠のようなものが載っていたようです。

宝冠をかぶり、左手に蓮華、右手は与願印を結ぶこの石像は「虚空蔵菩薩」と思われます。
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)とは、無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味で、智恵や
知識に関するご利益をもたらす菩薩です。
この石像は、いろいろ比較してみると、京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵菩薩立像」にとても
良く似た像容です。
醍醐寺の虚空蔵菩薩像は、長らく「聖観音像」と伝えられてきましたが、平成27年に「虚空蔵
菩薩」であることが判明しました。
一見、観音菩薩と見誤るのは当然と言えば当然ですね。


上の虚空蔵菩薩像はいずれも十三夜の月待塔に本尊として刻まれたもので、この石像の
ような単立像は珍しいものです。

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「月待塔」の可能性もあるので、刻まれた文字を探しましたが、「寛文十一年」の文字が読める
だけで、月待らしき文字は見当たりません。
寛文十一年は西暦1671年、約350年も前のものです。
この年には歌舞伎の「先代萩」や映画・小説でも多く題材にされている「伊達騒動」がありました。
手前にある坐像は「十一面観音」です。

この観音菩薩は、十種の現世利益(十種勝利)と、四種の来世利益(四種果報)をもたらす
とされています。
【<十種の勝利>(一)病気せず、(二)つねに諸仏に憶念され、(三)財物や衣服飲食に欠乏
せず、(四)すべての怨敵を破り、(五)衆生の慈悲心をおこし、(六)虫害や熱病、(七)刀杖に
害されることがなく、(八)火難、(九)水難をのがれ、(十)横死しない、ことの十種である。
<四種の果報>(一)臨終の時に諸仏を見ることができ、(二)地獄に堕ちず、(三)禽獣に害
せされず、(四)無量寿国に生まれることができることの四種である。】
(「目でみる仏像事典」 田中義恭・星山晋也著 P275)

「十一面観音」はヒンドゥ教のシヴァ神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の変化身
の一つです。
頭部に十一の顔を持ち、正面の顔は修行によって得られた如来の境地を表し、他の十面は
修行中の菩薩を表しています。
【菩薩の顔が三面、忿怒の顔が三面、牙を持つものが三面、暴悪大笑と称するものが一面】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生 中著 P112)
ただ、この十一面観音像には忿怒相は見当たりません。



頭上に三面、額上に五面、左右側面に一面ずつ刻まれ、本面を含め全て菩薩面です。
頭頂部には削られたような痕があるので、もともとはここに阿弥陀如来の化仏が載っていた
のかもしれません。


十一面観音の像容は、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つ形が
多いのですが、この観音像には持物はなく、両手は膝上で変わった印を結んでいます。

掌を上に、親指と中指を付ける「上品中生」の印を両手を離して膝上に置く形で、いろいろ
調べても該当する印相が見つかりません。
「上品中生」の変形とでも言うのでしょうか。
「仏像印相大事典」(秋山昌海 著 昭和60年)にあった、
【・・・もうひとつ、わが国の観音像は、蓮華を持つことでは、ほとんど例外がないほどで変わり
ばえしないのに、印のかたちはまちまちで、これは、印については、観音像というものがかなり
自由に、形式にわずらわされずに造られていたことをものがたる。】 (P321)
という文章に納得して、”自由に、形式に囚われずに彫られた”像だとしておきましょう。
足は半跏趺座に組んでいます。
全体のバランスがあまり良くないので、印の部分等が補修されて、もともとの形から違って
しまったのではないか・・・と、何度も見ましたが、その痕跡はありません。
右端は、亀に乗った珍しい石仏です。


一見、妙見菩薩のように見えますが、乗っているのは妙見菩薩が乗る玄武ではなく、亀です。


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どこを見ても蛇と合体した玄武の痕跡はありません。


左手に持っているのは薬壺のようです。
とすれば、これは亀に乗った薬師如来だと思われます。

亀乗藥師如来は浦安の「東学寺」(坐像)や京都の「亀龍院」(立像)のものが知られていますが、
全国的にあまり例がありません。

この四体の珍しい石仏について、何も資料が見つからないのはとても残念に思い、何度も
現地を訪ね、思いつく資料を片っ端からあたってみました。
そして、奇跡的に「成田山新勝寺史料集 別巻」(成田山新勝寺 平成20年)の巻末にある
「金石一覧」表の中に、この四体の石仏が記載されていることを見つけました。
境内にある全1442件の金石について、1件1行ずつの記載です。
なお、代表的な270件については本文中に詳細な記述があります。
810 庚申塔 年代 ― 奉納者 ― 位置 97
811 十一面観音像 年代 ― 奉納者 ― 位置 98
812 聖観音像 年代 ― 奉納者 ― 位置 99
813 獏に觀音像 年代 ― 奉納者 ― 位置 100
いずれも年代、奉納者ともに不詳とされていて、「虚空蔵菩薩像」と見た石仏は「聖観音像」、
「亀乗薬師如来像」と見た石仏は「獏に観音像」と書かれています。

ここで「聖観音」とされてる石仏は、その像容と、前述した”京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵
菩薩立像」”の例を踏まえて、私としては「虚空蔵菩薩像」であるとしたいと思います。
年代不詳となっていますが、よく見ると寛文十一年の文字が読み取れます。
【密教で発達した菩薩で、真言宗などでは虚空蔵菩薩を本尊として、さまざまな修法が行わ
れる。 また、この菩薩を本尊として記憶力を高める求聞持法という修法も古くから行われ、
弘法大師も若いころこの法を行ったという。】
【また、大日如来を中心とする五仏の化身として、五大虚空蔵菩薩が造られた。 このほか、
飛鳥時代に造られた聖観音に、虚空蔵菩薩と呼ばれるものがある。 中世以降、虚空蔵菩薩
の信仰が盛んになるにつれて、そのように呼ばれた。】(「仏像鑑賞入門」瓜生 中著 P104)
このように、真言宗・大日如来と虚空蔵菩薩との関連を考えれば、虚空蔵菩薩像が成田山
新勝寺の境内の片隅に置かれていても不思議はないでしょう。
(大本堂の回廊を裏側に回れば、裏仏として、不動明王の本地物である大日如来像とともに
虚空蔵菩薩像と聖徳太子像が安置されています。)
次に、「亀乗薬師如来」と見た石仏が、「獏に観音」とされている件ですが、「獏に観音」とは
聞き慣れない名前です。
仏像に関する本や仏教辞典類などを見ても、この名前は出てきません。

”最後の望み”で「成田山仏教図書館」を訪ね、質問をしてみました。
答えは意外にも、
”いろいろ調べても分からなかったので、見た目の印象を記したのだろう。 こういうことは
ままある。” というものでした。
「獏に観音」という観音は無く、たまたま調べた人が確信が持てなかったので、像容の印象
から、仮に「獏に」と名付けた、ということらしいのです。
それにしても「獏に」とはどういう印象なのでしょう?
恐いもの知らずの素人が、ここはちょっぴり勇気を持って「亀乗薬師如来」としたいと思います。

境内の片隅に、片付けられたかのように佇む四体の石仏ですが、よく見ればそれぞれに興味
深い特徴があり、見飽きません。
境内の片隅にひっそりと佇む四体の石仏。
成田山裏門の駐車場から境内へと上る坂道を、奥山広場に入らずにまっすぐ上って行き、
額堂の裏側を過ぎて、光明堂の裏側辺り、薬王寺に下る細い坂道の手前左側に見えます。
追 記
[ 庚申と庚申塔 ]
「庚申」とは「干支(えと)」の一つです。
昔の暦や方位に使われていた「干支」とは、十干(じっかん)と十二支(じゅうにし)を組み合わ
せた60を周期とする数詞です。
十干とは[甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸]、十二支とは[子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・
酉・戌・亥]で、干支の組み合わせ周期は60回になります(10と12の最小公倍数は60)。
つまり、庚申の年は60年に1回、庚申の日は60日に1回周ってきます。
「庚申信仰」は道教の説く「三尸説(さんしせつ)」を起源とする民間信仰です。
人の体内には、生まれたときから上尸、中尸、下尸の三種の三尸虫がいて、庚申の日の夜に
眠っている人の体内から抜け出して、その人の悪行を天帝に告げ口をして寿命を縮めさせる
と言われています。
三尸虫は宿主が死ぬと自由になれるため、常にその短命を願っています。
そのため、庚申の日の夜は身を慎んで眠らないで過ごし、三尸虫が体内から出られないよう
にする、「守庚申」と言う信仰の形が生まれました。
貴族の間に始まったこの信仰が、やがて庶民の間にも広まり、念仏を唱えたり、酒を飲んで
歌い踊る宴会によって眠気を払う「講」の形になりました。
60日に1回、1年に6回ある庚申の日に人々が集まって、三尸の虫が天帝に悪口を告げない
ように夜明かしをする「庚申講」を、三年(十八回)続けると「庚申塔」を建てることができます。
庚申塔には「庚申塔」と文字が刻まれたもの、「青面金剛(王)」の文字、または「青面金剛像」
が刻まれたものの三種類があります。
「青面金剛(しょうめんこんごう)」について、「仏像鑑賞入門」(瓜生 中 著 平成16年 幻冬舎)
には次のように解説しています。
【一般には「庚申さま」の名で親しまれている。 もともとは悪性の伝染病をはやらせる疫病神
として恐れられていた。 疫病の神にふさわしく、青い肌に蛇を巻きつけ、髑髏の装身具を身に
つけるなど、恐ろしい姿をしている。経典には四臂像が説かれているが、実際に造られるのは
六臂像が多く、また二臂のものもある。 青面金剛が庚申さまと呼ばれるようになったのは、
中国の民間信仰である道教の影響を受けたためである。】 (P224)
六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を持つ忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、
左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。
鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを表しているとか、十二支の申(さる)の次の酉(とり)の日
になるまで起きていることを表しているとか言われています。
また、三猿は(諸説ありますが)庚申の申にかけて、三尸に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝に告げ口をさせないようにするためだと言われています。
[ 再開にあたって ]
八ヶ月もの間お休みをいただいていましたが、その間にも連日数十名以上の方々に
このブログを開いていただき、コメントやメールも多数お送りいただきました。
ありがとうございました。
私事でございますが、
昨年八月初めに妻が入院し、十月中旬に西方浄土へ旅立って行きました。
大病院の二人の医師による一年間に二度の信じがたい大誤診の結果、入院した時
には既に手遅れの状態でした。
いい加減な診療への怒りと、妻の無念を思い、告訴をしようと思いましたが、それで
妻が戻ってくるはずもなく、妻のつらい闘病中の姿を何度も思い出させられることに
耐える気力もありません。
二ヶ月半の入院闘病生活の間には、このブログを通じて得た知識が、意識の混濁した
妻の頭の中に奇跡のような瞬間をもたらしてくれたことがありました。
ブログをやっていて本当に良かったと思います。
リタイアしてから抜け殻のようになっていた私の背中を押して、このブログを始めさせて
くれたのは妻で、毎回、常に最高の読者としてサポートしてくれました。
いつまでも悲しんでいては妻に叱られそうです。
ブログの再開を待っていていただいた皆様と、妻のためにも、そろそろブログを再開し、
少しでも楽しんでいただけたら・・・と思います。
半年を越えるブランクは大きく、なかなかペースが戻りませんが、今まで同様、これから
もお付き合いのほど、よろしくお願い申し上げます。
とても興味深い記事ですね。さすがです。
これからの御活躍も楽しみにしています。
再会を楽しみにしておりました。
再び、私にも成田の風を感じることができ、嬉しく思います。
よろしくお願いいたします。
次回の予定も組めない状態ですが、ボチボチやって行こうと思います。
でも、追記を読んで、涙が出ました。
奥様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ありがとうございます。
これからも妻と会話しながら取材をして行こうと思います。
今まで以上に人生を感じながら読ませて頂きます。
ありがとうございます。
次の取材への気力がなかなか湧いてこないのですが、
無理せず心のおもむくままに書いてゆこうと思っています。
これからもよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。 ゆっくりとペースを取り戻して行きたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。
成田山は昔からの遊び場で、その石仏はよく見てました。
亀に乗ってたり、顔つきがどことなく外国風だったりで、
子供心にちょっと変わってると思ってました。
実は、大昔(40年くらい前)に額堂のお坊さんへ質問したことがあります。
詳しいことはわからないが、置き場はその場所ではなかったと
言ってた気もします。廃仏毀釈は成る程なと思いました。
印の形や鶏も気づかず、目からウロコでした。
実は先日、私も某十字の病院で母を亡くしました。
治療が出来なくなってからの扱いが酷く、湧き上がってくる
後悔の念に苛まれていたのですが、久々に石仏を見ていたら
ちょっと薄れてきました。
管理人さんも1日も早く元気になって、面白い考察記事を書いて下さいね。
また見に来ます。
コメントをありがとうございます。 この石仏たちは以前から気になって
いたのですが、「わざわざ取り上げるまでもないかな・・・」と思ってパス
していました。久々の復帰には軽いテーマが良いなと取材を始めたところ、
意外に手強い石仏たちで、「成田五郎とは誰か?」以来の苦戦でした。
私も石仏の前に何度も足を運ぶ度に、少しずつ持って行きようのない気持ち
がほぐれていくような気がしました。
これからも時々お訪ねください。