前回の「大戸神社」の近くにあります。


「地福寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「大戸山」。
ご本尊は「地蔵菩薩」です。
深くえぐれた谷のような場所にあるので、道路からは何も見えません。


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曲がりくねった急さかを下りた、境内の入り口に並ぶ石仏群。
13基の内4基が月待塔で、他は戒名のようなものが刻まれていますので、もともとは墓石
だったもののようです。

石仏群の傍らには「六地蔵」が並んでいます。
左端は安永年間(1772~78)、その隣は年代不明、次は天明元年(1781)、安永年間、
年代不明と続き、右端は安永六年(1777)のものです。
仏教では、あらゆる命は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道の間を生まれ
変わりながらさまよい続ける、という「六道輪廻」の考え方があります。
そしてそれぞれの道に衆生救済のために檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の六地蔵が
配されています。
こうしたことから、墓地の入り口などに「六地蔵」が置かれることが多いようです。

吉倉・てらだい道の墓地




全ての地蔵の頭部が落とされています。
ここにも廃仏毀釈の傷跡が・・・。
落とされた頭を付け直したもの、間に合わせの頭を載せたもの・・・。
壊した人たちも、直した人たちも同じ村人だったはずです。

地蔵堂の中には、子供を抱き、足下にも子供がすがりつく、地蔵菩薩像があります。
「地蔵菩薩」は、釈迦が入滅した後、五十六億七千万年後に「弥勒菩薩」が現れるまでの間、
現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされ
ますが、特に子供の守護尊とされています。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないとされています。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なのです。
これは、賽の河原で鬼にいじめられる子供達を守る「地蔵菩薩」の姿で、「子安地蔵」とも
呼ばれています。



「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には、「地福寺」について次のように書かれています。
「大戸山地福寺 東大戸村大字大戸字寺作に在り域内九百二十坪臨濟宗にして地蔵菩薩を
本尊とす寺傳に曰く僧方外宏遠なるもの開山たり天正中兵亂の為め燒失せるを以て由緒詳
らかならず寺寶には佛畫幅二十餘幀佛像十三體あり就中觀音藥師空海の三像は尤も信者
の歸依する所なりと」

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本堂の横に回ってガラス窓越しに中を覗くと、欄間に不思議な文様が並んでいます。
菊紋や源氏車紋のような感じですが、何か宗教的な意味があるものなのでしょう。


「六地蔵」と背中合わせに観音堂があり、「戸ノ峰観世音」と掲額に書かれています。
由緒等については全く分かりません。



お堂の中には全体が黒い「聖観音菩薩立像」が安置されています。
宝冠の阿弥陀如来の化仏や白毫、瓔珞、臂釧、腕釧の金色がアクセントになっています。

大勢の女性が観音様を拝んでいる絵馬が架かっています。
この図はどこかで見たことがあります。
思い出しました。
2年前に訪ねた、中里の「楽満寺」の本堂に架かっていた「女人観音拝み絵馬」です。

静けさが寺の始まり~楽満寺 ☜ ここをクリック

観音堂の前には欠けた板碑が散乱しています。

鞘堂の中にたくさんの板碑が並べられています。
説明板には、
『千葉県指定有形文化財
板碑(正元元年九月在銘) 1基 板碑(正元元年十月廿五日在銘) 1基
2基とも佐原市、香取郡を中心に分布する黒雲母片岩の下総型板碑です。板状の石の頭部
を山形に整形し、上部に二条線、中央連座の上に金剛界大日如来をあらわす種子、その上
に天蓋を刻んでいます。銘文中に「正元元年(1259年)とあり、製作年代の明らかな下総型
板碑としては最も古いものです。』
と書かれています。

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750年以上も前の、しかも、下総型板碑としては製作年代がはっきりしている最古の板碑の
保管場所としては、少々寂しい気がします。

裏山の中腹に三基の祠が見えています。
祠への道はありません。

気にはなりますが、登るのをあきらめて本堂前に戻り、「沿革の碑」を読んだところ、
「幕末に天満宮を祭祀し学問所を開設す」 とありました。
もしかするとあの祠はここに記されている「天満宮」かもしれないと思い、もう一度引き返し
て、斜面を登ることにしました。



風化が進んでいますが、左端の祠にかすかに「天満宮」の文字が見えました。
お決まりの梅鉢紋も刻まれています。
登った甲斐はありました。

境内の片隅に二基の石碑がありました。
右は墓石のようで、宝永、享保、安永等の年号と、戒名がビッシリと刻まれています。
左の碑文は所々で 「・・藥師護摩供・・天下泰平国土安全・・・」 などと読めますので、
何かの祈願碑のようです。


薄暗い坂道が上の道路へと延びています。
今では反対側から下りる舗装された道を利用するのか、人が通っている形跡はありません。

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鬼瓦が徳川氏の「三つ葉葵紋」になっています。
本堂は江戸末期のものですが、前述の「沿革の碑」に、
「慶長年間に堂宇を再建」「爾来徳川氏代々の祈願所」 とあるように、徳川氏との
強いつながりがあったようです。

境内から少し下がった場所に墓地があります。
墓石はどれも比較的新しいものです。

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奥に進むと古い墓石がたくさん現れました。
寛永、明暦、寛文、元禄、享保などの古い元号が多く見られます。
一番奥には住職等の僧侶の卵塔が並んでいます。


「沿革の碑」には、ご本尊は「延命地蔵菩薩」であると記されています。
延命・利生を誓願する地蔵菩薩を「延命地蔵」と呼びますが、地蔵菩薩の多くの功徳・利益
から、「身代わり地蔵」、「とげ抜き地蔵」、「子安地蔵」、「水子地蔵」のように、民衆が信仰の
中で生み出してきた地蔵尊の一つです。
「佐原市史」(昭和41年)には、ただ一行ですが、この寺を「鎌倉中期の創建」と記しています。
境内には歴史を感じさせるような石造物が少ないような気がしますが、おおよそ780年から
740年の時の流れがここにはあるわけです。

※ 「地福寺」 香取市大戸594
それにしても、最古とされる正元元年(1259)のものが無造作に置かれているのには驚かされました。東大和市の最古は永仁2年(1294)で比較にならないほどさっぱりしています。地域の違いをまざまざと感じさせられました。
種子をはじめ刻み方も多様で見飽きません。
ただ、どこでも保存状態が良いとは言えず、残念な思いをしています。
関東は割と地震が多い所ですし、壊されたと言うよりは地震でドテーンと倒れて壊れちゃう石像とか多いんじゃないでしょうか? 倒れた時は一番に首が折れそうな気もしますしw
倒れない様に対策が出来そうもないし・・・ねぇ。(ロープで繋ぐわけにもいきますまい)
関東大震災や、この前の3・11が犯人だとw
いつもコメントをありがとうございます。
実は私も初めはそう思っていました。それにしてもほとんどのお寺の石仏が、
大きさや形状、置かれている場所等の違いにもかかわらず、同じように首が
落ちたり、削られたりしているので、何人かの住職さんに聞き、無住の場合
は近所の人に聞いて、やはり廃仏毀釈によるものだと確信しました。
もちろん、首や手足が欠けている全ての石仏がそうだとは言えません。
風化や倒壊によるものもあると思われますが、お寺の境内にある石仏に比べて、
道端や橋のたもとにある石仏にはほとんどこうした欠損が見られませんので、
やはり長い間の幕府による寺を利用しての抑圧に対する人々の反発が、新政府
による神仏分離令を契機に、石仏というよりは「寺」に向かった結果である
ことを示していると思います。