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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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西参道三の宮通り
前回の「石橋地蔵」と「清水地蔵」で西参道に入り込みましたので、今回は西参道を歩きます。

石橋地蔵ー1
西参道ー21

「西参道三の宮通り」は公園通りの郷部大橋の上、郷部交差点から始まります。
この参道は県道18号線、成田安食線の旧道になります。


西参道ー40
石橋地蔵ー28

参道に入ると、右側に「石橋地蔵」と「清水地蔵」があり、すぐに道は二股に分かれます。
右が西参道で、左に入ると「旧松崎街道なりたみち」になります。


西参道ー22

一見、何の変哲もない生活道路です。


西参道ー23

右に下って行く細い道路があります。
前回の『郷部の「石橋地蔵」と「清水地蔵」』で紹介した、昔の「江弁須街道」です。
しばらく下るとJR成田線の線路に突き当たります。


西参道ー24
西参道ー25
西参道ー26

道は線路に向かって真っすぐ伸び、フェンスで行き止まりとなります。
線路の向こう側には、やはり先に延びる道の跡が見えています。
チラリと見えているのは「いしばし橋」です。
昔はこの道も大勢の人が行き交ったのでしょう。

「石橋地蔵」と「清水地蔵」 ☜ ここをクリック


西参道ー27

参道に戻り、さらに進むと、道は左に大きくカーブします。


西参道ー28
西参道ー29

カーブを曲がり切ると、正面に「三宮埴生神社(さんのみやはぶじんじゃ)」が見えてきます。
カーブからは300メートルほど先になります。


西参道ー41
ーーーーーーーーーーーー西参道ー37
西参道ー38

この通りは、畳屋、工務店、塗装店、建材店などがとても多いように感じます。
郷部にはニュータウンの開発前から、市営住宅が建設されていましたので、そのことが関連
しているのでしょうか?
それとも、昔から成田山の門前町が形成されて行く過程で、必要とされる職人たちが、自然と
この地区に集まったのでしょうか?
その両方かも知れませんね。

天保九年(1838)の「諸商渡世向取調書上帳」と、同十四年(1843)の「諸商人軒数書上帳」
から集計した、門前町成田でのさまざまな職業について、「成田市史 中世・近世編」にはこう
書かれています。

『なお、これらの商売の他に成田には医師五人をはじめ畳屋・薪屋・石屋・附木屋・鍛冶屋・
持遊(花札など遊具)屋などの商いもあり、~』
『また天保二年の「諸職人名前取調書上帳」(石井しげ家文書・近世編史料集五上)によると、
大工職七人、桶職七人、木挽四人、下駄職・左官・塗物職各二人、それに屋根職・建具職
各一人の計二六人の職人がいたとある。』
 (P743)


西参道ー30

「埴生神社」の姿が大きくなってきました。


西参道ー44


『本村原標ヨリ凡四町未申ニ方リ字神代ニアリ。社地坪三百坪、祭神埴山姫之命、鎮座
年暦詳カナラス。』
 (「成田市史近代編史料集一」P76)

「埴生神社」の古社名は「三ノ宮大明神」。
ご祭神は「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」で、創建年代は不詳です。
御魂代は「土師器(はじのうつわ)」だとされています。
「埴山姫命」は土の神様で、「埴生(はぶ)」は、きめの細かい、黄赤色の土器や瓦の原料と
なる粘土のことです。
近くの美郷台には「土師神社」があり、この一帯は土器を連想させます。
   
『~古代に土師部一族がこの地に集団で居住し、その職業から、自分たちの祖神ともいう
べき埴山姫命を守護神として祀ったのが、三宮埴生神社と考えられる。まだ元号のない
時代のため、創建が○○何年とできないのであり、それだけ古いことになる。』

(「成田の史跡散歩」 P71)   


西参道ー43

「埴生神社」は、地元では「三宮(さんのみや)」の方が通りが良いようです。
ここが「三宮」なら、どこかに「一宮」、「二宮」があるはずです。

「一宮」は栄町の矢口に、「二宮」は松崎にありました。
それぞれの神社のつながりははっきりしていません。

『しかし、平安時代の書物の「倭名類聚鈔」に記載される、埴生郡内の麻在郷・玉作郷・山方郷
の位置が、それぞれ三社の周辺に比定されていることから、本来は各郷の守護神として創建
されたものと考えられるのである。』
 (「成田の史跡散歩」P70)

江戸時代末期に赤松宗旦が著した「利根川図志」に書かれている各宮について、「成田市史
中世・近世編」に次のような記載があります。

『一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記ニ云、伝フ延長二年九月十九日祭ルト
 二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と云
 三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
           に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮という額をかく、こハ神名帳に
           ハ見えぬ神なり、云云 
と記されている。ただし、このなかで三宮が郷部村にあるとしているのは、その場所が郷部村
と成田村の境界近くに位置するために誤ったものであろう。』 
(P801)

歴史ある立派な神社ですが、謎の残る神社とも言えますね。

昨年4月、このブログを書き始めた頃に、埴生神社を訪ねています。(参考まで)
新緑の埴生神社 ☜ ここをクリック


西参道ー31

西参道からは埴生神社の本殿がちらりと見えます。


西参道ー36

「埴生神社」の横には旅館の看板が見えます。
成田山からは少し離れていますが、西参道からお参りする人たちや、埴生神社に参拝する
人たちが利用する旅館だったのでしょうか?
今は、旅館の名前の前に「ビジネス」の表記が付いています。


西参道ー33
西参道ー98

「郷部橋」の下はJR成田線が走っています。
線路の左側に郷部橋から下る坂道がありますが、それが旧道の「松崎街道なりたみち」です。
この旧道は、近いうちに歩いてみる予定です。


西参道ー34

橋を渡った右側にある、壁面いっぱいにペイントされたビル。
大分以前からシャッターが降りていて、何のビルかは分かりませんが、音楽スタジオとか、
ライブハウスだったような雰囲気です。


西参道ー35

左側はNTTです。
旧街道はこのビルの裏側を通っています。


西参道ー39

幸町の三叉路です。
左に下る道は成田山の裏門を通り、土屋に抜ける道です。


西参道ー50

成田山裏門へは、ここを左に下ります。
さらに下って行くと「薬王寺」や「大宮神社」を経て、国道408号線に交わります。


西参道ー20
西参道ー19

三叉路を直進すると、薬師堂の三叉路、そこを左に下ると成田山の総門に至ります。
道端に小さな道標が立っています。
「正面成田不動尊」と記され、側面には『「南へ上る 酒々井 佐倉」「東へ下る 成田門前を
へて三里塚 芝山」 道』、『北へ下る 滑川 佐原」「西へ上る 安食 木下」 道』とあります。
明治十五年(1882)と刻まれていますが、この道標は新しいので、復元されたものでしょう。

さて、西参道はここから薬師堂まで進み、表参道に合流して台の坂を下り、総門に至るのか、
それとも・・・
この辺りには「西参道三の宮通り」の標識は見当たりません。

薬師堂を左に曲がり、総門に向かう道はおなじみの表参道になります。
多分、西参道のコースはこちらでしょう。

西参道ー47
上町ー35    薬師堂
上町ー39    台の坂
表参道ー61   台の坂

台の坂の詳細 ☜ ここをクリック
                                   
個人的には、薬師堂より手前の小路を左に入り、発心院・勧学院・修智院の成田山三学院
の前をを抜けて、出世稲荷から釈迦堂へ出るコースが好きなのですが・・・。

西参道ー49

幸町の三叉路と薬師堂の三叉路の中間に、レトロな赤いポストが立っています。
ここを左に入ると、成田山三学院、出世稲荷を経て成田山の境内に入れます。

西参道ー12   静かな小路
西参道ー14   成田山三学院
西参道ー15   出世稲荷
西参道ー48

ポストを通り過ぎて、成毛屋旅館を左に入っても三学院の手前で道は合流します。
参道の雰囲気としては、こちらの道の方がピッタリです。

成田山の「学問の道」 ☜ ここをクリック


西参道ー42

表参道は誰でも知っています。
裏参道も比較的知られていますが、東参道と西参道はあまり知られていないようです。
標識が立っていなければ、地元の人以外には気付かれないでしょう。
歩道が整備されていないので歩行者には少々歩きにくい道路です。
表参道ほどではないにしろ、もう少し整備がされれば、平行する「旧松崎街道・なりたみち」
もあるので、賑わいが出るのではないでしょうか。

東参道 ☜ ここをクリック


西参道ー45




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

参 道 | 07:06:05 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山東参道を歩く
東参道は寺台から成田山の東門に至る道です。

参道はこの景色から始まります。

東参道-29

寺台の吾妻橋の袂に、夏草に覆われてわずかに顔を出している石碑がありました。
今までいくら探しても見つからなかった「寺台河岸」の碑です。
説明板がなければ見つけることは難しい場所です。

東参道-30 寺台河岸の説明板
 吾妻橋から根木名川下流を望む   三里塚街道ー75

「寺台河岸」とは、「黒川河岸」「山小河(やまこが)河岸」「山六河岸」の総称で、
「黒川河岸」は吾妻橋の上流側、橋の下流側に「山小河河岸」、さらに下流の関戸橋際に
「山六河岸」がありました。
川幅は現在よりも広く、水深もあった昔は、利根川からの水運の起点であったようです。
石碑は「黒川河岸」のみにあり、往時を偲ばせるものは何もありません。


東参道ー24

吾妻橋から東参道に入ると右に入る細道があります。
ちょっと登ると民家の軒先が迫り、このまま進んで良いものか迷うほどの道です。
途中にちょっと舗装された部分がありますが、大部分は「けもの道」のような様子です。


東参道ー25

片側は崖の急斜面をしばらく登ると視界が開けます。
ここが寺台城址です。
15世紀ごろには千葉氏の支城がこの地にあったと言われています。
室町時代の城主は土屋の大宮神社の項で登場した馬場伊勢守勝政。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に、この城主だった
海保甲斐守三吉は北条方について敗れ、この城も落城しました。


東参道ー26

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、
訪ねる人も無い林の中に建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。

「後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。」


東参道ー27

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。


足元に気をつけながら坂を下り、東参道に戻ります。

東参道ー21

参道の右側に「保目(ほうめ)神社」があります。
7月末に行われる祭例では、御輿を担いで根木名川を渡る「お浜下り」が行われます。


東参道ー23東参道-22

本殿には鞘堂がかけられていますが、見事な彫刻で飾られています。


東参道ー20

説明板にある成田市指定文化財の「懸仏」です。
直径17.5センチの青銅製で、中央に千手観音像があります。

下部が欠け、ひびも入っていますが、これは「喧嘩御輿」と呼ばれた「お浜下り」の際に
何度も御輿を放り投げたために壊れたものです。(今は危険なので投げないそうです)


東参道ー9

以前に紹介した裏参道と同じく、ありふれた生活道路が続きます。


東参道ー16

保目神社からしばらく進むと、「永興寺(ようこうじ)」が見えてきます。
永興寺は曹洞宗のお寺で、ご本尊は「延命地蔵尊」です。

「室町時代の1398(応永5)年に、寺台城主の馬場伊勢守勝政の室である藤松女こと
藤原松女の開祖で、1426年に勝政が七堂伽藍を整備し、丹波国(京都府)の永沢寺3世の
陳庭顕淋を招き開山したという。」(「成田の地名と歴史」成田市発行)
なお、永興寺が所蔵する「木造聖観音菩薩坐像」は鎌倉時代の作とされていますが、
背面に「成田郷安養寺本尊」と記されていることから、成田の地名を確認できる
金石文(金属や石などに記された文字資料)としては最古のものと言われています。


東参道ー15

山門横には「不許葷酒入山門」と彫られた石柱が建っています。
これは“臭いの強い野菜を食べたり酒を飲んだ者は入山してはならない”という意味です。


東参道ー17

境内は保育園になっていて、かわいい遊具がたくさん並んでいます。
安全でとても素晴らしい環境ですね。


東参道ー14

山門の手前左側に「大日如来」の掲額があるお堂が建っています。
享保十五年(1730年)の銘がある石仏で、寺台村の護神として信仰を集めていたものです。
昭和55年にこのお堂を再建して祀った、と書かれた木札が掛っていました。


東参道ー11

大日如来のお堂の隣り、参道から見ると正面に「延命地蔵菩薩」のお堂があります。
お堂のそばにはたくさんの石碑が並び、宝暦、文化、弘化などの年号が読めます。


東参道ー10

東参道の標識は、私の知る限りこれだけだと思います。

※ 後日、田町を取材していて、公民館の横にもう一つあるのを見つけました。


東参道ー18

火の見櫓です。
何か懐かしい風景です。


東参道ー2

ちらりと広いグランドが見えました。
成田高校のグランドです。
ここで室伏広治や増田明美が育ったのですね。


東参道ー1

成田高校の正門が右手に見えてきます。
成田山新勝寺が運営する私立高校で、中学校、小学校も併設されています。


高校の手前の急坂を少し登ると狭く急な階段が上へ延びています。

東参道ー4  草に覆われ、顔に蜘蛛の巣がかかります。
             相当きつい階段です。  東参道ー5
東参道ー7

登り切った平地に、小野派一刀流で有名な「小野次郎右衛門」父子のお墓が
ポツンと建っています。

小野次郎右衛門忠明は房州御子神村(現南房州市)の出で、小野次郎右衛門となる前は
神子上典膳と名乗っていました。
小野派一刀流のホームページには、
「伊藤一刀斎景久を一刀流元祖とし、流祖小野次郎右衛門忠明が一刀斎直伝の一刀流の
正統を継ぐ。他の分派・支流と区別するためこの正統に小野派を冠す。忠明は将軍家徳川
秀忠の指南役となる。小野次郎右衛門忠常は忠明の三男。初め忠勝と称す。父に学びその
統を継ぎ次郎右衛門を襲名す。忠常は徳川家並びに多数の門人を指南した。」とあります。
忠明は柳生新陰流の柳生宗矩とともに徳川家指南役となった剣豪です。
ちなみに、北辰一刀流はこの小野派一刀流の分派になります。


東参道ー8

忠明の墓石には「妙法蓮華経 清岸院妙○霊」と刻まれ、
寛永五年(1628年)の日付が読めます。
また、忠常の墓石には「妙法蓮華経 清海院日岸居士」と刻まれ、
寛文五年(1665年)の日付があります。
墓石の後ろから撮ってみました。
これが父子が見ている景色です。
優しい木漏れ日に包まれて、二人は静かに眠っています。
忠明は元和三年(1617年)に寺台の地頭となっていることから、
この地に埋葬されているのでしょう。


東参道ー32
東参道-34

東門が近づいてきました。
参道の右上方に「子安観世音菩薩」の木札が掛ったお堂が見えます。
左側には「水子地蔵」があり、毛糸の帽子に涎掛け、かざぐるまを持った
お地蔵さまが並んでいます。
二つのお堂の間にはいくつかの石仏があり、文化、元禄、享保などの年号が刻まれています。


東参道-33

このちょっと変わった観音様には明和四年(1767年)と刻まれています。


東参道-36

東門の手前を右に登ると「成田山仏教図書館」があります。
明治35年の開館で、貴重な資料を大量に所蔵しています。
名前に似つかぬモダンな建物です。


東参道ー35

図書館脇の階段から仰ぎ見る三重塔と一切経堂です。


門前4町ー5

東門に着きました。

東参道は裏参道と同様に、脇道に興味をそそられる歴史がたくさん隠れています。




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参 道 | 07:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山の「学問の道」
表参道の中間点、薬師堂の前を、総門へ向って坂を下らずに、
そのまま直進して西参道に入ると直ぐに気になる脇道があります。
以前から“どこに抜けるのだろう?”と気になっていたのですが、
今回はこの道を辿ってみます。


西参道ー1

脇道の入り口は和食の「成毛屋」さんです。


西参道ー4

向い側に別棟の「成毛屋旅館」があります。


西参道ー2

成毛屋旅館の先、右側に「塚之越庵」の石柱が立っています。


西参道ー3

敷地は新旧のお墓でいっぱいです。
寛政十二年(1800年)と記されたお地蔵さまがありました。
台座には○○童子、○○童女と彫られています。
幼くして亡くなった子供の供養のために建てられたのでしょう。


西参道ー6

この供養塔には享和二年(1802年)と記されています。
お地蔵さまとほぼ時を同じくして建てられたわけです。


西参道ー7

人通りの無いこの道は、静かで、なにか懐かしいような雰囲気です。


西参道ー8

「七霊地蔵尊」がありました。
残念ながら由来は分かりません。
お地蔵様の奥は小さな墓地でした。


西参道ー10
西参道ー9

墓地の隅に傾いた犬の像がありました。
良く見ると「愛犬六の墓」と記されています。
家族に愛されて幸せな生涯を送った犬なのでしょう。
でも、もう訪れる家族はいないようです。


西参道ー12

なにやら成田山周辺で見慣れた景色が現れました。


西参道ー11

「発心院」は法資(ほっし)と呼ばれる仏弟子を養成する成田山の学院です。


西参道ー13
西参道ー14

「発心院」に並んで、「勧学院」「修智院」があります。
「勧学院」は真言宗智山派の教師養成機関、「修智院」は留学生の修行場です。
「発心院」「勧学院」「修智院」を「成田山三学院」と言うそうです。
中からかすかに太鼓の音が聞こえてきます。
この静かな環境は、学問に、修行に格好な場所でしょう。

この脇道は、いわば成田山の「学問の道」ですね。


西参道ー15

「出世稲荷」の前に出ました。
この裏道はここにつながっていました。
出世稲荷にお参りした時は、長い階段を下りて成田山の境内を横切り、
さらに階段を下って仁王門、総門を過ぎて、表参道の坂を上り・・・と
ちょっとしんどい帰り道でしたが、この道を行けばポンと参道の坂の上に出られる
ことが分かりました。


西参道ー16

思わぬお参りができ、得した気分で来た道を引き返します。


西参道ー17

道端で猫の集会に出会いました。
5匹で議論中だったのですが、私の姿を見て2匹はそそくさと退席してしまいました。
残る3匹も“議論の盛り上がりに水を差された”と言わんばかりに不満そうです。


西参道ー18

西参道に出ました。
ポストもレトロな脇道でした。




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参 道 | 21:44:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
裏参道を歩く
成田山の「裏参道」を歩いてみます。
表参道があるのなら裏参道も・・・と考えましたが、どうも良く分かりません。
多分、この道だろうと歩いて、後に出てくる出雲屋のご主人と、
成田山の平和大塔の脇にある食堂のおかみさんに聞いて確認できました。


裏参道ー30

スタート地点は408号線の「成田山裏門入口」の交差点です。
51号線側からは「土屋」交差点の1つ手前、イオンモールのはずれがこの交差点です。


裏参道ー12

100メートルほど入ると右側に「大宮神社」があります。
秀吉の時代、殿台城主馬場伊勢守勝政により建立ですから、
約400年の歴史があります。


裏参道ー13

古い標識には「右 あじき龍○さ○(龍がさき)」
「左 なりたさん」と彫られています。


裏参道ー15
大宮神社ー2

この大宮神社は以前に詳しく取り上げましたので、先を急ぎましょう。
(左欄の「記事の分類とアップ数」の「神社・仏閣」をクリックすると出てきます)


裏参道ー29

特に目立つものも無い普通の道です。
「参道」をイメージできるものは見当たりません。


裏参道ー10

10分ほど歩いてようやく何か由緒ありげな屋号の食堂を見つけました。
出雲屋さん、聞けば創業100年近くになるそうです。
明治の終わりか大正の始めからこの地で商いをしていたわけです。        


裏参道ー9

いなりずしとのりまき、がメインで、蕎麦と丼物もやっています。
今はほとんどの参拝客が車でこの参道を登って行ってしまいますから、
お客さんは地元の人がほとんどでしょう。
でも、正月はこの参道も車の大渋滞と、行き交う人で混雑しますから、
唯一最大のかきいれ時になるのでしょう。


裏参道ー8

どこまでも平凡な道が続きます。
生活道路として、地元の方々には重要な道路なのでしょうが、
参道として歩きたい人間にとっては何か物足りないような・・・


裏参道ー7

「土屋中央通」の標識が立っていますが、個人的には「裏参道土屋中央通」と
して欲しかったと思います。
でも、ご近所の方にとっては“裏”という表現は好ましくないのでしょうね。


裏参道ー2

出雲屋さんから50メートルほど、カーブの先に異様な光景がありました。
この景色は前に2、3度見た記憶がありますが、場所も覚えていませんでした。
「土屋商店会マップ」という大きな看板が掛けられていますが、
看板を立てるための建造物にしては物々しすぎます。


裏参道ー1
裏参道ー3

後で調べたところ、これは昔ここを通っていた「軽便鉄道」の陸橋の「橋げた」でした。(※1)
後日あらためてここを訪ねて良く見てみましたが、言われてみればなるほど頑丈な橋桁です。
三里塚へ向かうのにずいぶんと回り道をしていたようです。

軽便鉄道に関しては、あちこちで話しは聞くのですが、
ほとんど痕跡が残っていません。
いずれ、行く先々で聞く軽便鉄道の話しをつなぎ合わせてみようと思っています。


裏参道ー6

家並みの切れ目から「平和大塔」が見え隠れしています。
「平和大塔」は昭和59年の建立ですから、
この道が裏参道と言われていた頃には見えなかった景色です。


裏参道ー32裏参道ー33

相変わらず興味をそそられる景色が現れません。
しばらく歩いてお寺の看板を見つけました。


裏参道ー34

横町を入ると古い旅館がありました。
様子からしてもう営業はしていないようですが、参道の名残のような気がします。


裏参道ー35

長い階段が現れました。
がんばって登ってみました。


裏参道ー36裏参道ー38

ひょっこり出た場所は、成田山の釈迦堂の裏にあるお土産物屋さんや
占い部屋、食堂が並ぶ広場の裏手でした。
釈迦堂の屋根も見えます。
薬王寺はどこにあるのでしょう?
どうやら道を間違えたようです。


裏参道ー67

あわてて来た道を引き返します。
階段の登り口にさっきは気がつかなかった石柱が立っています。
「従是西貮百六間 従是東五拾貮間四尺 新勝寺所有地」と書かれています。
裏面には「明治二十七年建立」とありました。
この階段から上は新勝寺の土地だったのですね。


裏参道ー68

参道に戻り一本前の路地を入ると、ありました、薬王寺。


裏参道ー69
裏参道ー42

立派な山門です。


裏参道ー43
裏参道ー44

薬王寺は天台宗のお寺で、ご本尊は木造の「阿弥陀如来」です。
天正十八年(1590年)までは殿台城主の馬場伊勢守勝政(大宮神社を建立)の
持仏だったものです。
このお寺にはたくさんの歴史が詰まっているようです。
いずれもう一度ゆっくり訪ねてみたい場所です。


裏参道ー46
裏参道ー47
裏参道ー48

境内の裏側に回ると、狭く急な石段がありました。
本堂の裏手から延びる階段ですが、あまり人が利用している様子がありません。
進んで良いものか、迷いましたが、好奇心には勝てません。

登りきったところに「福聚観世音」がありました。


裏参道ー50
裏参道ー51

この先を左に行けば成田山の平和大塔に続きます。
右には額堂の屋根が見えています。
曲がりくねった参道と路地、お寺の階段と歩いていると、方向感覚が無くなってしまいます。
何でここに出るのか良く分かりませんが、隠れた裏道を発見したような喜びがあります。


裏参道ー85
裏参道ー55

参道に戻ってきました。
さすがに成田山に近付くと、古い家や壊れかけた土蔵などが見えて、
参道らしい雰囲気が出てきます。


裏参道ー56

ずっと見え隠れしてきた「平和大塔」も大きく見えています。

成田山裏門は目の前です。

今回は脇道にそれてばかりでしたが、まだまだ気になる脇道がありました。
機会があれば探索してみたいと思います。


          ※1 「成田の史跡散歩」(小倉 博 著 崙書房)80ページ。

          ※ 薬王寺  成田市土屋8

  



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参 道 | 20:36:53 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田山の表参道を歩く(2)
前回に引き続き表参道を歩きます。



前回最後に紹介した薬師堂から坂を下ります。


表参道ー67

薬師堂と通りをはさんで成田出身の俳人、三橋鷹女(みはし たかじょ)の像が立っています。
成田高等女学校を出た鷹女は若山牧水や与謝野晶子に師事し、
夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり
鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし 愛は 奪うべし
等の激しい句で知られています。


表参道ー66

ここは駅から続く表参道が、郷部(ごうぶ)方面から来る西参道と合流する地点です。
右に下れば成田山の総門、左を行けば以前紹介した三ノ宮埴生神社に至ります。
二股路に古い酒屋さんが建っています。
前回紹介した成田の地酒「長命泉」のノボリが見えます。


表参道ー65

参道は緩く右に曲がりながら下って行きます。
ここまで来ると両側に続く店はいずれも歴史を感じさせるものばかりです。


表参道ー63
表参道ー62

うなぎ屋、薬屋が目立つ一角ですが、オリジナルの竹製品を売る店も繁盛しています。


表参道ー61

道はこんどは緩く左へと曲がって行きます。


表参道ー60
表参道ー59

うなぎで有名な「川豊本店」です。
店先でうなぎをさばき、おいしそうな匂いの煙を参道に流しながら焼いています。
休日には行列が絶えない名店です。
かつては旅館だった建物は、大正6年に建てられたものです。


表参道ー51

川豊本店の向いには「成田観光館」があります。


表参道ー55
表参道ー54

中には7月の成田祇園祭に使われた山車を始め、
数々の成田にまつわる展示物を見ることができます。


表参道ー53
表参道ー52
表参道ー56
表参道ー58
表参道ー57

入場無料なので、歩き疲れた方の恰好の休憩所になっています。


表参道ー3

目立たない細い路地の奥にしゃれた甘味処がありました。
両側のお店のひさしの間を抜けて入って行くような感じで、
気をつけていないと見過ごしてしまいます。


表参道ー38
表参道ー2

この場所にこんな空間があるとは・・・
表通りの喧騒は聞こえてきません。
あまり知られていない店なので、ちょっとした隠れ家のような気がします。


表参道ー50

そろそろ総門が近づいてきました。


表参道ー49
表参道ー48

老舗の「梅屋旅館」です。
今は旅館業はお休みで、お食事処として営業しているようです。
交通が便利になると旅館業が苦しくなるという話しは、あちこちで聞きますね。


表参道ー47
表参道ー46

同じく老舗の「大野屋旅館」です。
こちらも旅館業は開店休業で、お食事処と漬物屋として営業しています。

平成17年に国の有形文化財に指定された建物は、
木造3階建てで望楼が付いているユニークな外見です。
創業は江戸中期ですが、この建物は昭和10年に建てられたものです。

大分前になりますが、大勢の修学旅行の生徒たちが、
二階から参道を眺めていたことを思い出します。


表参道ー43

大野屋の先にベンチのある小さな休憩スペースがあります。
「延命院旧跡」と彫られた石碑が建っています。

天保の改革で贅沢なものが狙い撃ちにされた中に、歌舞伎も入っていました。
失意の中にあった七代目市川団十郎に、縁の深い成田山新勝寺が
手を差し延べ、ここにあった延命院に住まわせたのです。


表参道ー45

朽ち果てたような木造の建物がうっそうとした庭木の合間から見えましたが、
これが延命院にゆかりあるものなのかは分かりません。


表参道ー41
表参道ー40
表参道ー39

門前町の風情が色濃く残る表参道。
この雰囲気を残し、維持して行くには大変な苦労があることでしょう。
店先をただ通り過ぎるだけではなく、中に入ってその苦労と、
古きものを守って行こうとする“心意気”みたいなものを感じてみたいものです。


山門ー46
山門ー21
山門ー18

大師堂、弁財天と続いて総門に辿り着きました。


表参道ー1

表参道から総門をくぐり、仁王門から急な階段を上って大本堂へ。

JR成田駅からは徒歩15分程度の距離ですが、
参拝の行き帰りには是非お店のいくつかを覗いてみて下さい。




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参 道 | 00:04:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
成田山の表参道を歩く(1)
成田山の表参道を歩きます。
JR成田駅から出発しましょう。

表参道ー17

JR成田駅の東口に地元では「権現山」とよばれる一角があります。
駅前ロータリーの左奥、交番の後ろになります。
この一帯は鉄道が通るまではうっそうとした森だったそうです。


表参道ー19

「湯殿権現神社」で、ご祭神は神仏習合の神「牛頭(ごず)天王」です。
牛頭天王といえば京都・八坂神社、八坂神社と言えば「祇園祭」、
成田祇園祭でもこの権現神社の境内で御神輿が一晩夜明かしする習わしがあります。
何かつながりがあるのでしょうね。


表参道ー18
表参道ー16

詳しく見てみたいのですが、「聖地につき関係者以外の立ち入り禁止」の立て札が
睨みを効かしていて、長居はし難い雰囲気です。


表参道ー20

ロータリーの左手に「成田駅東口」の項で紹介した、
成田山と縁が深い歌舞伎役者の像があります。
すっきりしていて躍動感のある舞姿です。


表参道ー24

歌舞伎役者の像を左に曲がると直ぐに「太子堂」があります。


表参道ー22
表参道ー21
表参道ー23

表参道に入って直ぐの場所のため、ほとんどの人が気付かずに通り過ぎて行きます。
残念ながら説明板等は無く、調べても由来等は分かりません。
狭い境内ですが、右手に小さなお社があります。
「入定大師 高野山奥之院」の掲額がありました。


表参道ー25

まだ新しい蔵造り風の建物があります。


表参道ー26

なんと、銀行でした。
確か参道に入って3、4分ほど歩いたところにあったはずですが、
移転してきたばかりなのですね。
街並みの景観を考えた建築には拍手です。


表参道ー13

景観を考えた、と言えば、コンビニの看板の色も参道に溶け込んでいます。
店は通りから少し引っ込んだところにあって、あの全国統一のデザインですが、
通りに出ている看板は地味なこげ茶色です。


表参道ー12

コンビニの隣は成田の地酒「長命泉」本舗です。


表参道ー15
表参道ー14

知る人ぞ知る、参道名物「甘太郎」です。
いわゆる“大判焼き”ですが、とにかくおいしい。
店先の行列が途切れることはありません。


表参道ー6

空港が近い成田山には外人観光客も多く訪れます。
横文字の店も少しですが進出してきました。
外国からのお客さんがたくさん来てくれるのはとても良いことだと思いますが、
門前町や参道の雰囲気が壊れないか、ちょっと複雑な思いがします。


表参道ー11
表参道ー10
表参道ー9

沿道の両脇には十二支の石像が一定間隔で並んでいます。
自分の干支を見つけて石像を撫でる人が多く見られます。


表参道ー8
表参道ー7

「なごみの米屋」として知られる「米屋総本店」は表参道のほぼ中間点にあります。
羊羹だけでなく、いろいろな和菓子が売られています。
遠方からの参拝客はみんなここでおみやげを買って行くようです。


表参道ー32

店の脇を奥に進むと「羊羹博物館」があります。


表参道ー34
表参道ー33

木造2階建ての小さな博物館ですが、羊羹の製造工程や、
昔の道具、懐かしい広告などが展示されています。


表参道ー31

博物館の奥は米屋の工場です。
ここで「大納言」をはじめ種々の羊羹や和菓子が作られています。


表参道ー30

工場敷地の一角に小さな公園があります。


表参道ー29
表参道ー28
表参道ー27

現在成田山の大本堂に安置されているお不動様は、初めは公津ヶ原(現富里市)にありましたが、
長引く戦乱等のため荒れ果ててしまいました。
見かねた名主たちが相談し、成田村の諸岡三郎左衛門が不動像を自分の敷地内に遷座し、
井戸水をお供えして大切にお祀りしたのがこの場所です。
諸岡三郎左衛門は、ここ米屋の創業者の遠縁にあたります。


表参道ー4

米屋のとなりは後藤だんご店です。
弘化二年(1845年)創業だそうです。
もちろん、お店は何度か建て直されているのでしょうが、
それにしても貫禄充分のお店です。


表参道-67

だんご屋さんからちょっと先に以前紹介した「薬師堂」があります。
ここから表参道は右に折れ、総門に向って坂道を下ります。

次回はこの続きで表参道を総門まで紹介します。




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参 道 | 00:01:39 | トラックバック(0) | コメント(2)
「明暦の本堂」はひっそりと薬師堂に




成田山の表参道脇にひっそりと佇む小さなお堂があります。
最近整備されてすっかりきれいになりましたが、
それまでは高いブロック塀に遮られて、
参道からは屋根の一部がちらりと見えるだけでした。

薬師堂というのですが、実はこのお堂、大変由緒あるお堂で、
明暦元年(1655年)に建立された新勝寺の本堂だったのです。







その後本堂は三度建て直され、それぞれ建て直された年号から
元禄の本堂(現光明堂)、安政の本堂(現釈迦堂)と呼ばれ、
この薬師堂は明暦の本堂と呼ばれました。
現在の本堂は薬師堂から数えて四代目となります。

天慶三年(940年)に開山した成田山新勝寺ですが、
現存する本堂としては最古のものだそうです。

この薬師堂(旧本堂)には、水戸光圀公や初代市川団十郎も
参拝したと言われています。

成田山の境内からは離れた場所に移設され、
今はめっきり訪ねる人も少なくなりました。



御水舎にはいつ来るかも知れぬ参拝客を待つ龍が
静かに水を吐き出しています。







数段の階段を登った境内には足元の参道の賑わいは届きません。

忘れ去られたような薬師堂の境内を
柔らかな春の風が流れて行きます。





     ※薬師堂(明暦の本堂)
      JR、京成成田駅から徒歩10分。
      成田山表参道が二股に分かれるロータリーの左側。
      なごみの米屋を過ぎ、京増の先、薬師堂のバス停が目印。





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