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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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「おはつ稲荷」と、御神楽を踊る猿がいる「百庚申」(竜台)
今回は竜台にある「稲荷神社」、通称「おはつ稲荷」を訪ねます。

竜台稲荷ー1

国道408号線が利根川に架かる長豊橋に向かって大きく右にカーブするあたり、竜台車庫
のバス停のちょっと先に「おはつ稲荷」はあります。
細い道を左に入って行くと、鮮やかな朱色のお社が見えてきます。
鳥居は平成16年に建立されました。


竜台稲荷ー24
竜台稲荷ー4

この神社は成田市の宗教法人一覧には名前が無く、「成田市史 中世・近世編」中の「成田
市域の主な神社表」にも見当たりません。
「千葉県神社名鑑」や「全国神社名鑒」にも記載がありません。
唯一、「千葉縣印旛郡誌」中にある「豊住村誌」に、「其の他神社」として以下のような簡単な
記述があります。
「稲荷神社 龍台村字堤通 祭神 蒼稲魂命 延保元癸丑三月觀請 社殿間口一間三尺
奥行一間 境内坪数七〇 氏子八一人 管轄廰まで十一里四町八間」


蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)は穀物の神様で、稲荷神社の多くがご祭神としています。
ここには延保元年に勧請されたと書かれていますが、「延」が先に付く元号は、延暦、延喜、
延長、延久、延応、延慶、延元、延文、延徳、延宝、延享の十一ありますが、「延保」という
元号は見つかりません。
これらの元号の中で干支が「癸丑」のケースは「延宝」のみであることから、これは「延宝」
の間違いだと思われます。(保延という元号もありますが、ここにも該当する干支はありません)
延宝元年は西暦1673年ですから、約340年前に勧請されたことになります。


竜台稲荷ー2
竜台稲荷ー28

鳥居の脇に「御即位紀念」と刻まれた大正三年(1914)の石柱があります。
各側面には「此方面 地蔵尊至」を始め、矢口、安食、滑河、成田等の地名が刻まれていて、
道標になっていたようです。


竜台稲荷ー3
竜台稲荷ー29

短い参道の右側に手水盤と風化した石造物が並んでいます。
手水盤は弘化三年(1846)、「御寶前」と刻まれた灯篭は元文三年(1738)のものです。
手前から二番目の石碑は、「天明二」と読めるような気がします。
天明二年は西暦1782年ですが、約6年間続いた天明の大飢饉が始まった年です。


竜台稲荷ー5

社殿裏の祠の中にもう一つ小さな祠が入っていて、「稲荷大明神」と刻まれています。
天保三■辰二月と記されています。
天保三年は西暦1832年です。


竜台稲荷ー6

「御神燈」と刻まれた石灯籠は、火袋と宝珠の部分が新しく、笠や中台、竿などは古いものの
ままで、「弘化五戊申二月」と記されています。
弘化五年は西暦1848年になります。


竜台稲荷ー7
竜台稲荷ー30

社殿横の路地に面して二基の「馬頭観音」が立っています。
左は文字のみで「馬頭観世音」と刻まれ、寛政の元号が読めます。
右は六臂の馬頭観音像で、年代は不詳です。


竜台稲荷ー8
竜台稲荷ー9
竜台稲荷ー23

路地を馬頭観音の先に進むと、「大日如来像」があります。
宝永五年(1708)のものですが、修復のため全体が新しく見えます。
「成田の史跡散歩」には、この大日如来像について次のように紹介されています。

『 おはつ稲荷の後方に、法界定印を結ぶ大日如来像を刻んだ石像がある。 宝永五年
(一七〇八)十月八日の建立で、「下総国埴部(生)郡竜台村 施主男女六十三人」と刻ま
れている。毎年旧十月八日に大日様の祭りがあり、このとき老人たちによって三本の竹と
藁で石像の前の飾りが作り直されている。 土地の人はただ「大日様の飾り」といっている
が、これは出羽三山信仰によく見られる梵天のようである。』
「山形県の月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山には、江戸時代には成田市周辺からも数多
くの人々が参詣に出向いている。竜台も同様で、明治年間まで講があったという。 そして
講がなくなったことから、出羽三山のことは忘れられて大日様の祭りとなったが、梵天を
立てることだけは継続されたのであろう。」 
(P146)


竜台稲荷ー10

大日如来像の後方にある嘉永元年(1848)の「月山 湯殿山 羽黒山 西国 秩父 坂東供養塔」
と刻まれた石碑。
隣の石碑には、「奉納 大乘妙典 日本廻國」と刻まれ、文久二年(1862)と記されています。


竜台稲荷ー11

路地が行き止まりとなるところに、「竜台の百庚申」と呼ばれる庚申塔群があります。
成田市内には四ヶ所の「百庚申」とよばれる場所がありますが、ここはその一つで、本当に
百基の庚申塔があります。

「庚申塔」という文字だけにものと、「青面金剛像」が刻まれたものとが二列に並んでいて、
前列には四九基(内大きなものが三基、青面金剛像は七基)、後列には五一基(内大きな
ものが五基、青面金剛像は八基)、そしてなぜか如意輪観音が刻まれた月待塔が一基紛
れ込んでいます。


後列の手前側には大きめの五基が並んでいます。

竜台稲荷ー12
竜台稲荷ー31  天保九年(1838)
  年代不詳 竜台稲荷ー32
明和六年(1769)月待塔 竜台稲荷ー15
  年代不詳 竜台稲荷ー34
竜台稲荷ー17  寛政十二年(1800)


前列の奥にも大きめの三基が並んでいます。

竜台稲荷ー18
竜台稲荷ー19  安政六年(1859)
  嘉永七年(1854)  竜台稲荷ー38
竜台稲荷ー20  安政六年(1859)

真ん中の「青面金剛尊」と刻まれた庚申塔には、とても珍しい三猿が刻まれています。

竜台稲荷ー25
竜台稲荷ー26
********** 竜台稲荷ー39

普通、青面金剛像に刻まれる三猿は、「見ざる・言わざる・聞かざる」のポーズをとっていますが、
この三猿はなんと御神楽を舞っているようなポーズをとっています。
帽子をかぶり、左の猿が叩く太鼓に合わせて二匹の猿が踊っています。
庚申講で夜通し飲んで舞う村人の姿を模したのでしょうか、意表を突いたユーモアを感じます。


竜台稲荷ー22

百庚申と言われる場合でも、ここのように実際に百基の庚申塔がある所は滅多にありません。
一番古いものでも寛政十二年、ほとんどが安政年間のものですが、平成7年に成田市の指定
文化財となりました。


終りに、「おはつ稲荷」と呼ばれるようになったいきさつについて、「成田の歴史小話百九十話」
(小倉 博著)からの要約で触れてみましょう。

竜台稲荷ー42

江戸後期に竜台村の作兵衛の女房「おはつ」に稲荷神が取りつき、生神と称して予言をする
ようになったことに目を付けた神官が、神社とは別のお社を建て、ここで「おはつ」に人々の
相談を聞いてはお金を取ってお託宣を授けるようになります。
「おはつ稲荷」などと呼ばれて評判が高まり、遠方からも人々が集まるようになると、同じ村の
吉祥院の住職が託宣に疑問を持って神官の組合に訴え、組合もこの行為のいかがわしさを
指摘し、「おはつ稲荷」の解散を申し入れますが神官は聞き入れず、「おはつ」による託宣を
続けます。
組合は関東取締出役に訴え出て、ついに「おはつ稲荷」は解散させられてしまいました。
お社は取り壊されましたが、「おはつ稲荷」の名前だけが仏具等を移した稲荷神社の通称と
して残りました。

御託宣の中身はともかく、こうした話は現代でも時々耳にしますね。
なお、当時の「稲荷神社=おはつ稲荷」は「豊住村誌」に「龍台村字堤通 祭神 蒼稲魂命」
あるように、利根川の堤防上の「堤通」にありました。


竜台稲荷ー27


                     ※ 竜台「おはつ稲荷」と百庚申  成田市竜台476



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豊住村の寺社 | 07:53:15 | トラックバック(0) | コメント(2)
コウノトリが名付け親(?)~540年以上の歴史ある竜台の「六所神社」
今回は竜台(たつだい)にある「六所神社(ろくしょじんじゃ)」を訪ねます。

竜台六所ー37

「千葉県神社名鑑」には、
「祭神 鹽土翁之命(しおづちのおきなのみこと) 本殿・瓦葺三坪  幣殿・亜鉛板葺三坪 
拜殿・瓦葺八坪  境内坪数四〇六坪  氏子 六〇戸」

と記載されています。

六所神社は全国に分布していますが、六柱の神様を祭神とすることからこの神社名になった
とされ、近隣では多古町にある「六所大神」が、伊弉諾尊・伊弉冉尊・天照皇大神・素戔嗚尊・
月読尊・蛭子尊の六神を祭り、匝瑳市にある「六所神社」は、伊邪那岐大神・伊邪那美大神・
天照大神・素盞鳴男大神・月讀大神・蛭子大神と、多古と同じ神様をご祭神としています。
この竜台の六所神社のご祭神がなぜ一柱だけなのかは分かりません。

「鹽土翁之命」は、古事記では「塩椎神」、日本書紀では「塩土老翁」または「塩筒老翁」と
表され、伊邪那岐(伊弉諾)の子で、海路の神とされています。


竜台六所ー1
竜台六所ー2

「六所神社」へは急な山道を200メートルほど登らなければなりません。
途中に「疣神」(いぼがみ)と記した石碑があり、周りには多くの柄杓がぶら下げられています。
その中には柄の部分に「治りました ありがとうございました」と書かれたものもあります。
神水をかけると疣が取れるとされ、取れたらお礼に柄杓を奉納する風習がある「疣神」のこと
は良く聞きますが、ここには湧水も何もありません。(涸れてしまったのでしょうか?)


竜台六所ー3

明神鳥居から真っ直ぐに社殿に向かう参道が伸びています。
鳥居は昭和12年の寄進です。


竜台六所ー4

鳥居の脇に「指定社六所神社」と刻まれた、昭和12年建立の石碑が立っています。
指定社とは「神饌幣帛料供進神社」のことを指していると思われます。
大東亜戦争の終戦時まであった神社の社格の内、官幣社は皇室から、国弊社は国庫から
幣帛が供進され、諸社の府県社・郷社・村社に対しては地方公共団体から幣帛が供進され
ていました(無格社は対象外)。
ただ、村社の中でも供進を受けられない神社もあって、由緒などが考慮されていたようです。


竜台六所ー5
竜台六所ー6 天保四年(1833)の手水盤
篠田惣兵衛建立鳥居跡址の碑竜台六所ー7

拝殿までの間には、手水盤と「篠田惣兵衛建立鳥居跡址」と記された石碑があります。
「大正十二年十月吉日」と併記され、裏面に「2013年竜台自治会」とあります。
私の頭の中に勝手にストーリーが組み上がります。
大正十二年(1923)十月に建てられたことには事情があったはずです。
一か月前の九月一日には未曾有の被害をもたらした関東大震災がありました。
古い鳥居は倒壊したか破損したに違いありません。
そんな時に篠田惣兵衛という人がこの場所に鳥居を寄進したことで、神社の佇まいが少し
でも取り戻せたとしたら、村民は大いに喜び感謝したことでしょう。
鳥居は「惣兵衛鳥居」などと呼ばれたかもしれません。
平成20年に現在の新たな鳥居を建てた際に、地元の自治会が惣兵衛への感謝を込めて、
顕彰碑の意味でこの碑をここに置いたのではないでしょうか。
何気ない一つの石碑や石仏を見ながら、勝手に隠れたストーリーを空想するのも、寺社巡り
の楽しみの一つです。


竜台六所ー8

「千葉縣印旛郡誌」中の「豊住村誌」に、この「六所神社」についての記載があります。
「龍臺村字箸木山にあり鹽筒翁父命を祭る創立不詳に候得共内陣棒幣の串に文明八丙
年九月十一日と記有之或傳云奥州鹽釜神社を奉遷座葉敷神社とも稱し奉りきと神殿間口二間奥行一間
四尺境内六百坪官有地第一種あり神官は鈴木熊之助にして氏子八十戸戸を有し管轄廰まで
十一里四町八間なり境内三社を祭る即
一、 天神社 菅原道真公を祭る由緒不詳建物間口五尺奥行四尺なり
二、 金刀比羅神社 大物主命を祭る文政三寅年八月の創建にして建物間口一尺五寸
   奥行一尺五寸奥行一尺五寸あり
三、 三峰神社 日本武尊を祭る元治二乙丑年二月の創建にして建物間口三尺奥行一尺
   五寸あり 神社明細帳


文明八年は西暦1476年ですから、実に540年前のことです。
なお、この年の干支は丙で、棒幣の串に書かれていた丙辰は書き間違いです。(郡誌の
記述違いかもしれません。)


竜台六所ー10

また、「成田市の文化財 第41集 神社編」(平成22年)には、
「祭神 塩土翁之命(しおづちのおきなのみこと) 由緒沿革 一説に奥州塩釜神社を遷座し
て葉敷神社とも称したとあります。またこの神社の森へ筑波山よりこうのとりが来て、ここに
巣をかけたことにより筑波の六所の名を取って竜台六所大権現と改めたと、地元の小倉家
所蔵文書に記されています。」

と書かれています。

塩釜神社のご祭神は「塩土老翁神」、神紋は葉敷桜の塩釜桜です。
「コウノトリ」も昔はこの地方にごく普通に生息していたのですね。
この「六所神社」のご祭神が、他の六所神社と違って一柱である理由が、何となく分かった
気がしてきました。
塩釜神社から「塩土翁之命」を勧請して「葉敷神社」とし、後に「こうのとりの伝承」によって、
社名を筑波南麓の聖地・六所に因んで「六所神社」に改めた・・・とすれば、辻褄が合います。
「こうのとり」が「六所神社」の名付け親というわけです。


竜台六所ー11

この「御神燈」は風化も進んでいなく、それほど古いものとは思えませんが、紀年銘等は文字
の彫が浅くて読めません。
うっすらと昭和6年と読めるような気がしますが・・・。


竜台六所ー12
****** 竜台六所ー13

さほど大きくはない狛犬ですが、なかなか重量感があります。
台座には昭和50年と記されていますが、狛犬はずっと古いもののように見えます。


竜台六所ー14

狛犬の後ろに一基だけ古い「御神燈」が立っています。
「天保四巳七■吉日」と記されています。
天保四年は西暦1833年になります。


竜台六所ー15

拝殿に掲げられた神額には明治三十年(1897)と記されています。


竜台六所ー16

拝殿の格子の間から本殿が見えています。


竜台六所ー17
竜台六所ー18
***** 竜台六所ー19
********** 竜台六所ー20
********** 竜台六所ー21
***** 竜台六所ー22
竜台六所ー23

流造の本殿は凝った彫刻で飾られています。
一つ一つが異なる形の木鼻は赤に、欄間や脇障子は白に塗られています。


竜台六所ー24
竜台六所ー42
********** 竜台六所ー43
竜台六所ー45

「千葉県神社名鑑」では本殿は瓦葺となっていますが、現在は亜鉛板葺となっています。
この「神社名鑑」は昭和62年に発行されていますから、瓦葺を亜鉛板葺に替えてから30年
にもならないはずなのに、ずいぶんと荒れた様子です。
山中深く、木々に囲まれた環境のせいでしょうか?


竜台六所ー25

本殿裏に三基の祠が並んでいます。
社名は分かりませんが、右の祠には「享保十■巳」、真ん中の祠には「明治十二年」、左の
祠には「■永八■亥八月」と刻まれています。
享保十年は西暦1725年、明治十二年は西暦1879年、そして左の祠については、後ろに
「永」の付く元号としては、(南北朝合一以降に絞って)応永・大永・寛永・宝永・安永・嘉永が
考えられますが、嘉永は7年で終っていて、その他の元号の八年の干支に亥が付くものは
安永のみですから、1779年のものということになります。


竜台六所ー26

拝殿の向かって左側にある「御嶽大神」(左・昭和13年)と「淺間神社」(右・年代不明)。


竜台六所ー27
竜台六所ー28

同じく左側にあるお社。


竜台六所ー29
竜台六所ー30
********** 竜台六所ー44

本殿の裏には「八坂神社」と表示された大きな建物があります。
ガラスが曇っていて良く見えませんが、中には古そうな神輿のように見えるお社があります。


竜台六所ー31

「八坂神社」よりさらに奥にあるこの祠には、「文政十三寅」と記されています。
文政十三年は西暦1830年になります。


竜台六所ー32
竜台六所ー33

このお社の脇には「力石」らしき丸い石が置かれています。


竜台六所ー34

裏側から見た「八坂神社」と「六所神社」。


竜台六所ー38
竜台六所ー39
竜台六所ー46

参道の両側は鬱蒼とした森ですが、手入れが行き届いています。
ひときわ目立つ大木の根元には「夫婦杉 樹齢三百八十年」と書かれています。 


竜台六所ー40
竜台六所ー49

登ってきた坂道とは反対側に30メートルほど行った三叉路に二基の庚申塔と一基の祠が
ひっそりと立っています。
祠には「享保七壬寅九月吉日」と記されています。
享保七年は西暦1722年です。


竜台六所ー41
竜台六所ー47
********** 竜台六所ー48

青面金剛が刻まれた庚申塔は道標を兼ねていたようで、「東ハなりた」「西ハ矢口村」などの
文字がと読め、「安永六丁酉」の年号が記されています。
安永六年は西暦1777年になります。


竜台六所ー9
竜台六所ー35
竜台六所ー36

森の中に隠れるように建つ「六所神社」。
ここに再びコウノトリが飛来する日はあるのでしょうか?


竜台六所ー50


                        ※ 竜台「六所神社」  成田市竜台118

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豊住村の寺社 | 08:26:30 | トラックバック(0) | コメント(3)
廃仏毀釈の爪跡(?)~南羽鳥の「観音寺」
今回は南羽鳥の「観音寺」を訪ねます。

観音寺ー26
観音寺ー1

「観音寺」の境内に向かう細道は切通しのように両側が土手になっています。
その道の途中に「一隅を照らそう」と記された石碑が建っています。
この言葉は最澄の「照于一隅此則国宝」という言葉から採った言葉ですが、私は昨年10月に
土屋の「薬王寺」を紹介した時に、この言葉について以下のように書いています。

伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」(さんげ
がくしょうしき)にある言葉で、「照一隅此則国宝」(一隅を照らす、これすなわち国宝なり)が
一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照一隅此則国宝」(一隅を守
り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。
最澄の時代の背景を考えると「照千一隅~」なのでしょうが、「照于一隅~」が長年人々の心
に響いてきた言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑には
于と彫られています。
 (平成26年10月11日)
「照于か照千か・・・土屋の薬王寺」 ☜ ここをクリック

「于」と「千」。
字は良く似ていますが、意味は微妙に異なります。
この碑も「照于」説を採用しています。


観音寺ー2
観音寺ー3

境内の入口に並ぶ7基の石仏群。
一番左の石仏には元禄の文字が読めます。
隣は宝永、次は享保十七年(1732)、元禄■■寅年(元禄年間で干支に寅があるのは十一
年のみ=1698)、享保、延宝、右端は元禄十三年(1700)年と読めました。


観音寺-4

萬延元年(1860)と記された「馬頭観音」。

「馬頭観音」は六観音の内の一尊で、八代明王の内の一尊にも数えられます。
観音としては珍しい忿怒の姿で、人々の無智や煩悩を排除し、諸悪を打ち破る菩薩です。
また「馬頭」という名前から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られ、さらにあらゆる畜生類
を救う観音ともされています。
この「馬頭観音」は一面六臂の形で、下部が損傷して補修されています。


観音寺ー5
観音寺ー6

「南羽鳥村字鍛冶内にあり天台宗にして安食町龍角寺末寺格四等なり本尊大日如来
木像一身
は座像丈九寸厨子入惣金箔なり由緒伝得知山勸音寺は元龜元年二月の創立
にして亮盈法師の開基なり然るに天明三年に至り本堂其の他㤁皆焼失し再建の際
年月不詳大日如来を以て本尊とす明治元年四月十八世亮融與津智性院より當山に轉住
仝二十八年六月十六日遷化すこれより暫時は本寺兼務なりしが仝卅三年四月十二日
亮融徒弟十九世亮朝住職たりしが仝四十二年四月三日香取郡奈土正福寺に轉住に
つき廿世堯潤與津智住院より轉住せり」


「千葉縣印旛郡誌」(大正二年編さん)は「観音寺」に関してこのように記述しています。

これにより、
○ 天台宗のお寺で、山号は「得知山」であること
○ 亮盈(りょうえい)法師により元亀元年(1570)に創立されたこと
○ 天明三年(1783)に火災により堂宇が焼失したこと
○ 年代は不詳だが、堂宇の再建の時に「大日如来」を本尊としたこと
が分かります。
約450年の歴史があるお寺です。

なお、引用文の最終行に智住院(アンダーライン部分)とあるのは、智性院の間違いだと
思われます。
「智性院」は安食町の興津にある天台宗のお寺です。


観音寺ー7

本堂右側にある小さな大師堂。
大小2体の大師像が並んでいます。


観音寺ー8
観音寺ー9

大師堂の後ろ、境内の一角にある墓地。
元禄、延享、宝暦、天明などの年号が刻まれています。
この墓地の墓石には上部が四角錐になっている神道式の奥津城(おくつき)形のものが多い
ように感じます。
良く見かける如意輪観音や地蔵菩薩を刻んだ墓石は、ここには数基のみです。


観音寺ー11
観音寺ー12

境内の一角に大きな石碑が2基並んでいます。
風化と白カビで碑文の判読が難しいのですが、顕彰碑のようなものであることは分かります。
どちらか1基は「成田の史跡散歩」にある「鳥居先生頌徳之碑」ではないかと思います。

『本堂に向かって右側に、題額に「鳥居先生頌徳之碑」と刻まれた大きな石碑が立っている。
高岡藩侍講福田錦斎らに学び、千葉師範学校卒業後、各地で教員をした鳥居忠亮の記念碑
である。大正八年(一九一九)の建立になる。』
 (P169)


観音寺ー13

境内の外れに古い墓石が並んでいる一角がありました。
こちらは全て石仏が刻まれたものです。


観音寺ー10
観音寺ー14

さて、これまで各地で多くの墓石や石仏を紹介してきましたが、よく見かける頭部が欠損した
石仏については単に“頭部が欠けている”とだけ表現してきました。
「観音寺」の石仏にも頭部が欠損したものが多く見られますので、ここでこれまで避けてきた
「廃仏毀釈」について書いておこうと思います。

「廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈、はいぶつきしゃく)とは「仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、
僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、
「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味。日本においては一般に、神仏習合を
廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。」

(ウィキペディア 廃仏毀損)

徳川幕府はその施政の柱の一つに仏教を置き、「寺請制度」によって人々を地域に縛り
つけ、支配してきました。
一方で神道も人々の中に生き続け、いわゆる「神仏習合」が信仰の形として受け入れられ、
お寺の境内に神社が祀られていたり、神社に石仏が置かれていたりしました。
“神様、仏様”と何もかもごちゃまぜにして、お祈り・お願いする、いわば“おおらかな信仰”
が我が国には根付いていました。

『しかし、幕末になると諸外国からの開国要求が激しさを増し、尊皇攘夷論が生まれる。
そうした中、天皇を中心とした中央集権国家の樹立を理想とした江戸末期の国学者・
平田篤胤の思想が盛り上がりを見せる。日本は「神の国」であるという国学思想が武士
らに浸透し、神道と仏教を切り分ける思想へと発展していく。』
「一八六八年(慶応四年)、新政府によって出された神仏判然令(神仏分離令)が決定的
となり、いよいよ寺院や仏像、寺宝に対する破壊行為が全国に広がった。僧侶は還俗
させられ、中には兵士になる者も多かった。廃仏毀釈の強弱は、藩主ら権力者の一存で
決まることも多く、破壊行為が実施されなかった地域もある。」

(「寺院消滅」 鵜飼秀徳 著 日経BP社 2015年 P183)

明治政府は「神仏分離令」は発しましたが、廃仏毀釈については明確な指示があって
行われたものではありません。
江戸時代のお寺が、幕府によって様々な特権を与えられ、寺請制度下で人々を縛り、
管理してきたことへの反発が、過激な仏教攻撃に向かったと考えられます。
明治新政府は、それまで徳川家によって長い間続いてきた統治体制を崩壊させ、天皇
を中心とした中央集権を確立するために、この過激な運動を利用し、黙認したのです。

この廃仏毀釈に関わる一連の大事件は歴史の闇に隠され、正面からこれを検証したり
評価することは憚られてきました。
その評価をここですることは差し控えますが、各地のお寺の石仏が、首をはねられたり、
あるいは打ち壊されているのは、この廃仏毀釈運動によってもたらされたことで、(中に
は自然にそうなったものもあるかも知れませんが)その傷跡が各地に残っているのです。


勧行院ー32 
 大竹の「勧行院」  首の無い石仏と間に合わせの首を付けた石仏
神光寺ー3
 野毛平の「神光寺」  とりあえず首を付け直してポツンと立つ・・・
観音堂ー36
 「新橋観音堂」  打ち落とされたまま、今日まで・・・
証明寺跡ー21
 芦田の証明寺跡  セメントで作られた頭が重そうなお地蔵様
観音寺ー15
 「観音寺」にはイスラム圏で良く見る、顔を削られた石仏も・・・

痛ましくて掲載するに堪えない写真も多くあります。
多くの貴重な文化財が失われ、多くのお寺が廃寺となり、首の無い石仏やセメントで間に
合わせの頭を乗せた石仏が虚しく立ちつくしている姿を見るのは悲しいことです。

「廃仏毀釈」は長い間タブー視されてきましたが、これを正面から見つめて、(誰がやったか
を追求するのではなく)人々の信仰心が壊れて行く過程をきちんと検証しておく必要はある
と私は思います。

本来日本人が持っていたおおらかな信仰心が戻ってくることはあるのでしょうか?


観音寺ー17
観音寺ー19

本堂のガラス戸には、天台宗の宗紋である三諦章(さんたいしょう)が描かれています。
ペンキの剥げかかった屋根にも同じ三諦章が光っていました。


観音寺ー21
観音寺ー23
観音寺ー22

「観音寺」入口の斜面には青面金剛像を刻んだ「庚申塔」があります。

「観音寺の入口左側にも庚申塔がある。邪鬼を踏まえ、髑髏つきの宝冠をかぶった一面六臂
の青面金剛像で、六臂では鉾や剣・輪宝のほかに左下の手でショケラ(裸婦)をつかんでいる。
造立は安永六年(一七七七)九月である。」
 (「成田の史跡散歩」 P169)

「ショケラ」とは三尸虫(さんしちゅう)のことです(異説あり)。
三尸(さんし)とは、人の体内にいていろいろな悪さをする考えられていた虫で、60日に一度
巡ってくる干支の庚申(こうしん)の日に、眠っている人間の体から抜け出して天帝にその人の
日常の罪状を告げ口するため、その人の寿命が縮められてしまうと言い伝えられてきました。
そのために庚申の夜は眠らずに過ごそうと大勢で集まり、飲み食いしながら夜明かしをする
風習が生まれ、これを庚申待(こうしんまち)と言うようになりました。
全国各地で庚申講が作られ、3年間に18回の庚申講が続いた記念に庚申塔や庚申塚を建て
ることが多くなりました。
「青面金剛」は、庚申講の本尊として知られ、この像を庚申塔に刻むことが多く見られます。


観音寺ー24

「庚申塔」の反対側に立つ「普門品一萬巻」と書かれた供養塔。


観音寺ー25
観音寺ー16

なお、「印旛郡誌」には「観音寺」に関して次のような記述もあります。

寺帳並村誌伝區の北隅字谷田舊鍛冶内に勸音寺あり天台宗得山勸音寺と稱す安食町大字
龍角寺なる天竺山龍角寺の末派にして文禄三年申午釋了尊の開基創建する所明暦年間盗
あり僧を殺し寺に火す嘉永元年戌申權大僧都律者法印海應之を再建す現在に至るまで三十
余世なり」


これは寺伝や村の言い伝えとでも言うのでしょうか、大変物騒な話も書かれていますが、これに
よると「観音寺」の創建は文禄三年(1594)ということになり、「千葉縣印旛郡誌」の記述より
約30年遅いことになります。

「成田市史 中世・近世編」には、創建は元亀元年、開基は亮盈として、「千葉縣印旛郡誌」と
同一の記述がなされています。(火災についても天明三年としています。)
一方、「成田市史近代編史料集一」に収録されている「南羽鳥村誌」(明治十八年)には、文禄
三年に釋了尊により創建され、明暦年間に強盗殺人があり火災により焼失したことなど、寺伝
と同様の記述が見えます。

どちらが正しいのかは分かりませんが、創建や開基、事件などに諸説あるのは、それなりの
歴史があるということなのでしょう。


観音寺ー27
観音寺ー28

                    ※ 「得知山観音寺」 成田市南羽鳥1614 




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豊住村の寺社 | 07:34:26 | トラックバック(0) | コメント(2)
ぼけ封じ観音とぽっくり地蔵~「常蓮寺」
常蓮寺ー2

「常蓮寺」は天台宗のお寺で山号は「北方山」。
御本尊は「阿弥陀如来」です。
「創建年代は不詳だが、元和元年(一六一五)三月に秀覚上人が中興開山となっている。」
「御本尊の銅造阿弥陀如来立像は室町時代の作で、「山越えの阿弥陀如来」と呼ばれている。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉博著 P168)
少なくとも400年以上の歴史があるわけです。


常蓮寺ー3

天台宗のお寺では良く目にする最澄の「照于一隅」の碑。
この言葉については「薬王寺」の項で触れました。
「薬王寺(照于一隅)」 ⇒


常蓮寺ー4

平成11年に建立された「ぼけ封じ観音」。


常蓮寺ー5
常蓮寺ー7

境内左手の銀杏の大木の幹を一部をえぐって、その中に「ぽっくり地蔵」が祀られています。
「ぼけ封じ観音」を拝んで、ぼけずに老後を過ごし、「ぽっくり地蔵」に「周りに迷惑をかけずに
ぽっくりと逝かせてほしい」とお願いするわけです。


常蓮寺ー6

銀杏の根元に建つ「贈㳒眼肇安墓」と記された筆子塔。
常蓮寺の肇安上人に学問を教わった弟子たちが建てたもので、文久元年(1861年)の
紀年銘があります。
筆子塔は筆のように上部を細くしたものが多く見られますが、これは四角い墓石です。


常蓮寺ー8
常蓮寺ー9

苔むした墓石には、寛文、宝永、天明、天保、文化、安政等の年号が読めます。


常蓮寺ー10
常蓮寺ー11

「成田市史 中世・近世編」(成田市史編さん委員会編)には、
「近世初期に南羽鳥にあった秀覚寺を辻の台に移し、寺号を改めて常蓮寺とした。」
(P255)とあります。
現在の本堂は平成4年に再建されました。


常蓮寺ー13

明治33年の「奉読誦普門品六萬巻供養塔」。
普門品(ふもんぼん)とは法華経のうちの「観世音菩薩普門品(観音経)のことです。
19世紀以降に、村落共同体の安泰を願って造立されるようになりました。


常蓮寺ー14

こちらは文久三年(1863年)のもの。
この年は幕末の世情騒乱の渦中にあって、京都壬生村で浪士隊(後の新撰組)が発足し、
薩英戦を始め諸外国との争いも頻発していました。
やれ勤皇だ佐幕だとか、あるいは開国だ攘夷だとか、詳しいことは分からないまでも、
不安な世情の中で、村の安泰が保たれるよう、ただ祈るような気持ちでこの供養塔は
建立されたのでしょう。


常蓮寺ー16

「二十三夜塔」と刻まれた月待塔。
慶應の文字が読めますので、150年ほど前のものです。
一般に、十三夜塔は虚空蔵菩薩、十五夜塔は大日如来、十七夜塔から二十二夜塔までは
観音様をお祀りしますが、二十三夜塔は勢至菩薩をお祀りするようです。


常蓮寺ー17

門柱にも最澄の言葉が記されています。


常蓮寺ー18
常蓮寺ー19

門前の交差点に4基の庚申塔が立っています。
1基だけが「青面金剛」像を刻み、他は文字のみのものです。
この庚申塔の前で、4月に「北羽鳥の獅子舞」の「花かがりの舞」が行われます。
「北羽鳥の香取神社」 ⇒


常蓮寺ー15

御本尊の「阿弥陀如来」について、成田市発行の「成田の地名と歴史」では、 
「像高32.2cm、髪際で29.4cmを測る立像である。内衣・衲衣・覆肩衣・裙を着け、
左手を垂らし、右手をやや内に向けて、胸前に屈臂し、両足を揃えて立つ。現在、
両手首先を失っているので、当初の名称は判明し得ない。」
 (P278)
として、単に「銅造如来形立像」としています。
火災に遭ったためでしょうか、表面が爛れて、全身が右に傾いているそうです。

再建された本堂の中で、波乱の歴史をくぐって来た仏様が、静かに時を編んでおられます。


常蓮寺ー20


           ※ 「北方山常蓮寺」 成田市北羽鳥1803-1
              京成成田駅よりコミュニティバス豊住ルート 北羽鳥入口徒歩約5分



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豊住村の寺社 | 08:12:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
元寇の役と北羽鳥の「香取神社」
北羽鳥の「香取神社」を訪ねました。

香取神社ー5

ご祭神は「経津主命(みつぬしのみこと)」で、弘安五年(1282年)に香取神宮から分祀
して創建されたという歴史をもっています。


香取神社ー1

昭和56年に建てられた明神鳥居。

境内への階段の下、鳥居の脚元に2体の庚申塔(青面金剛)が立っています。

香取神社ー2

右側に立つ制作年代不詳の青面金剛像。

香取神社ー3

左側に立つ青面金剛像は天保八年(1875年)の作です。

鳥居の脇には、成田市教育委員会によるこの神社に伝わる伝統芸能についての説明板
が立っています。

「北羽鳥香取神社の獅子舞(成田市指定無形民俗文化財)
毎年4月の第一日曜日、ここ香取神社の祭礼において五穀豊穣を祈って奉納される
伝統芸能です。この獅子舞は風流系の獅子舞といわれる一人立ちの獅子舞で、竜の
頭をいただき、腹に太鼓をつけた大獅子、中獅子、雌獅子の3匹で舞われます。
江戸時代から伝承されてきました。舞は14曲からなる「ほんしば」と、10曲からなる
「花がかり」の2種類で構成され、社殿前の地面に幣束を立て、そこを舞台にします。
「ほんしば」は50分ほど続く舞ですが、獅子舞の見どころの一つになっている雌獅子
を奪い合う踊りも入っています。そして、「花がかり」は、幣束の前で3匹の獅子が1匹
ずつ順番に踊り、最後に大獅子の幣束奉納で終る、25分の舞です。なお、この貴重な
獅子舞を守っていくために、昭和47年に北羽鳥香取神社獅子舞保存会が結成され、
後世に伝える努力が続けられています。」



香取神社ー6

二の鳥居は稚児柱が付いた台輪鳥居。
平成23年12月の建立ですが、以前ここに建っていた木造の鳥居が、平成23年3月の
東日本大震災の時に損壊したため建て直されたものです。
平成16年に出版された「成田の史跡散歩」(崙書房 小倉 博著)には以前の鳥居について
次のように紹介されています。
「石段を登って行くと今度は朱塗りの鳥居がある。この鳥居は、柱頭上に台輪がのせられ
ており、また柱の支えとして四脚の控柱(稚児柱という)がついていることから、これを両部
鳥居と呼んでいる。」
 (P166)


香取神社ー7

手水盤には文政十年(1827年)と刻まれています。


香取神社ー8

「袚戸大神」。
裏面は苔むしていて年代は分かりません。


香取神社ー9

「指定村社 香取神社」の碑は昭和9年の建立です。


 大正9年奉納の御神燈 香取神社ー10
香取神社ー11

香取神社ー12

御神燈の左手に名前が消えてしまった木札が立っている神社があります。


香取神社ー14
香取神社ー15

拝殿も本殿も装飾のないすっきりした造りです。


香取神社ー17
香取神社ー18

弘安五年(1282年)に「香取神宮」より「香取神社」として遷座した際に植えられたと
伝えられる杉の「御神木」。
樹齢は700年以上、幹の周囲は5メートルもあります。
幹には無数の釘痕のようなものがありますが、これは日清・日露・大東亜戦争の際、武運長久
を祈願して絵馬を打ちつけた痕なのだそうです。


香取神社ー19

「奉待十五夜」と刻まれたこの「月待塔」には、「子安神」と書かれた木札が立っています。
年号の部分が○和三癸亥と欠けていますが、癸亥とありますので享和三年(1803年)
でしょう。(もう一つの可能性がある明和三年(1766年)は丙戌でした。)
子どもを抱いているように見えますが、よく分かりません。
特にお顔が崩れているのが残念です。


香取神社ー20

御神木の根元にはたくさんの祠が並んでいます。
宝永、享保、文久等の年号がかろうじて読み取れます。


香取神社ー23

境内の右奥にある「青面金剛尊」の碑には文政八年(1825年)と記されています。


香取神社ー24  稲荷大明神
香取神社ー26  愛宕神社

香取神社ー28
香取神社ー29

カヤの木でしょうか?
上部はこの通りの状態ですが、下からは新たな枝が伸びています。
何か潜望鏡のようですね。


香取神社ー30 神輿蔵には古い神輿が
香取神社ー31

香取神社ー27
香取神社ー32

「香取神社史」には次のような記述があるそうです。
「爰ニ栴檀椿ノ枝ヲ交ヒ、花ノ盛リニハ天紅ヒニ花ノ散ル時ハ地其亦紅ナリ。 依テ豊直三十四
歳直幸十五歳里人ヲ率ヒ花見ノ宴会ス。 時ニ栴檀ノ本ニ異人ノ彷徨ヲ見、衆驚キ怪シム、
豊直進ミ敬礼以テ其ノ来ル由ヲ尋ス。 異人答テ曰ク、吾西国ニ蒙古ノ軍船ヲ破リ香取ノ本宮
ヘノ帰リナルニ、花ノ艶シサニ暫ク立寄リシノミナリ、恐レ怪シムアラント言ヒテ、徐歩シテ
立去ルト見ル間ニ、姿ハ不見成リタリ。 因テ影向在ラセラレタル栴檀ヲ諸人拝礼セシニ年ヲ
経テ枯木相成ツタリ。 因テ爰ニ宮殿ヲ営ミ其ノ栴檀ヲ桶ニ入レ御神体ト崇メ、御内陳ヘ納メ、
年々伊美敷祭祀ヲ営ミ奉仕スル今尚然リ。」
 (原文のまま)
(「成田市史 中世・近世編」 P243)

この北羽鳥の「香取神社」が創建された弘安五年の前年には、「元寇の役」という未曾有の
大事件がありました。
ここに出てくる蒙古の軍船とは元寇の役のことであり、この見知らぬ男とは香取神宮の神で
あったというわけです。
元寇の役に吹いた「神風」について、香取地方にはこんな伝承があります。
「蒙古が攻めてきたとき、香取神宮と鹿島神宮の神馬が忽然と消えてしまった。 そして暫く
するとまた帰って来た。 このとき両軍神は神馬に乗って戦いに向かったのだ。」と。

遠い九州での大事件と、この香取神社がつながっている・・・。
単に伝承とだけで片付けたくない、歴史のロマンを感じます。


香取神社ー32


           ※ 北羽鳥の「香取神社」 成田市北羽鳥2022
              京成成田駅よりコミュニティバス「豊住ルート」
              「豊住郵便局前」下車 徒歩約10分



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豊住村の寺社 | 08:14:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
長沼城址と稲荷神社、そして福沢諭吉
今回は5月に傍を通り過ぎた「長沼城址」を訪ねます。

長沼城址ー1

小高い丘の上にある長沼城址の斜面に、貼りつくように稲荷神社が建っています。
階段は相当に急な勾配で、この場所からお社は見えません。(81段あります)


長沼城址ー2

階段の登り口にある手水盤には天明二年(1782年)とありました。


長沼城址ー6

手水盤のある場所は小さな台地になっていて、「長沼下戻記念碑」(大正7年)、「福沢諭吉
功績記念碑」(大正15年)、「干拓頌功之碑」(昭和54年)の3基の記念碑が並んでいます。

なぜ、この地に「福沢諭吉」の名前が出てくるのでしょう?
通称「長沼事件」または「長沼訴訟」と言われることの経緯を「成田市史」(成田市編纂)の
記述などを参考に要約すると、次の通りです。

長沼村に隣接する地に長沼という約70万坪の瓢箪形の沼があり、村は江戸時代の昔から
この沼から得られる恵みに頼っていました。
いろいろな経緯を辿って、延宝五年(1677年)からは年貢を納めることと引き換えに、長沼
の漁猟採藻権は実質的に村の専有権となりました。
「運上高は一ヵ年に米八石四斗、すなわち一俵に三斗五升入りで二四俵であった。
同年、荒海磯部両村は長沼村に下猟銭を支払うことによって入猟できるようになった。
次いで正徳三年(1713)長沼村は年貢割付状に沼高を記入させることに成功し、ここに
長沼村は長期安定的に沼に関する権利を手中に収めた。」

(「成田市史 近世編資料集三 産業・文化」 P9~10)

近隣の村にとっては、長沼は地域の排水が流れ込む遊水池として重要な役割を持っており、
長沼村の独占状態に不満を持っていましたが、明治5年に維新以後の混乱に乗じて沼の
国有化を当時の印旛県に申請し、県はこれを受理したため、長沼村は独占権を失いました。
沼に頼ってきた長沼村は困窮し、県へ利権の回復を請願しましたが認められません。
村の代表の小川武平は、かねてより心酔している福澤諭吉を訪ね、事の解決を依頼します。
面識もない諭吉を訪ねる武平も、そんな武平に気軽に会う諭吉も大したものです。
当時はそうした時代だったのでしょうか・・・。
武平の話を聞いて長沼村の利権回復運動に共鳴した諭吉は、請願書の作成や、当時の
政府高官に働きかけて支援しました。

明治30年1月に小川武平ほか3名が福沢邸に年始あいさつに訪れた際に、諭吉と交わした
会話記録が残されています。
長沼村の現状についての諭吉の質問に対する武平の答えの要旨はこうです。
「300年前の長沼村は僅か14戸の寒村でした。明治の初めには114戸になっていますが、
これは長沼の恵みがあったからです。田畑は300年間にほとんど増えておらず、もっぱら
漁業で生計を立ててきました。最近では養蚕にも力を入れていますが、沼から採れる藻など
が良い肥料となって桑が良く育つからです。」
諭吉の働きかけもあって、明治30年6月に県知事の阿部 浩によって「沼地下戻命令書」
が発せられ、ようやく長沼村の利権が回復しました。

この争いに関しては、近隣の村々にももっともな言い分がありますが、各地で養蚕を奨励して
いた諭吉が、養蚕に力を入れていた長沼村に協力したとも言われています。
現在長沼は全てが干拓されて、一面の水田地帯となっています。


長沼城址ー7

城跡に向かう中腹に「稲荷神社」があります。
ご祭神は「保食之命」(うけもちのみこと)で、文久三年(1863年)に京都の伏見稲荷より
分神勧請されました。
「保食之命」は食物の神様で、神話に次のように出てきます。
「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」
(ウィキペディア「保食神」)

なるほど!と思わず頷いてしまいそうな神話ですね。


長沼城址ー8

拝殿の中には小さな石の祠が隅に置かれているだけです。
向こう側に本殿が透けて見えています。


長沼城址ー10
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長沼城址ー12
                         ・・・・・・・・・・・
150年を経て、さすがに傷みが目立ちますが、しっかりとした骨組みのお社です。


長沼城址ー13

神社の脇を城跡に向かう急坂の途中にある祠には、文久元年(1861年)とありました。
稲荷神社が建立される前からここにあったのでしょうか。


長沼城址ー15

なかなか険しい地形です。


長沼城址ー17
長沼城址ー18

登ってみると、この城跡は意外に広い台地です。


5月ー9
                                              (本年5月に撮影)
城があった頃は、長沼に突き出た島のような地形であったのでしょう。
この城は長沼氏の居城で、最後の城主の長沼五郎武俊が天正九年(1582年)の
竜台合戦で討死して廃城となりました。

竜台合戦とは、天正九年に滑川城主の小田左京太夫政治が、長沼城の長沼五郎武俊らと
助崎城の内田信濃守を攻めたことが発端です。
一進一退の戦いは内田氏と同盟を結んでいた常陸の足高城主岡見宗治の差し向けた援軍
により、小田方が劣勢となり、利根川近くの竜台城において小田方の諸将がことごとく討死
して終わった合戦です。
その戦いは4カ月にも及びました。


祥鳳院ー25
                                              (本年9月に撮影)
祥鳳院から見る助崎城址です。


長沼城址ー19

木々の間から見える下の景色はのどかな田園風景です。


長沼城址ー20
 堀の跡のような人工的な地形が見えます 長沼城址ー21
長沼城址ー23
「縄張構造としては、長軸120m、短軸60mほどの土塁で囲まれた平坦面を
居住空間とし、斜面部に横堀と腰曲輪を配して防御性を高めている。角部の
腰曲輪には仕切りの土塁を設け、容易に回り込めないよう工夫が凝らされている。」

(「成田の地名と歴史」成田市発行 P323)


長沼城址ー30
長沼城址ー26
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長沼城址ー27

展望台があったので登ってみました。
この眺望ならば、確かに城を構えるには絶好の場所です。


長沼城址ー28
長沼城址ー29

台地の北西側に一段高くなっている場所があり、その上に祠があります。
大きな方の祠は金比羅大権現です。
文化元年(1804年)と記されていて、側面には鰐が彫られていました。
(実ははじめは「象」だと思って「象」と書いたのですが、Romanさんからのコメントで気付
かされて、改めて調べた結果「鰐」だということが分かりました。ありがとうございます。)


長沼城址ー32

この長沼城址は現在は「長沼市民の森」となっています。
何もない場所ですが、つわもの共の夢の跡をのんびりと散策するには
良いかもしれません。


長沼城址ー41


               ※ 長沼城址(稲荷神社) 成田市長沼2189
                  JR久住駅より徒歩約45分
                  京成成田駅東口よりコミュニティバス豊住ルート
                  長沼保育園下車 徒歩5分(1日に5本)



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豊住村の寺社 | 08:34:39 | トラックバック(0) | コメント(4)
蝉時雨の熊野神社
今回は南羽鳥の熊野神社を訪ねました。

熊野神社ー18

熊野神社は延喜二十年(920年)に仮宮を建て、延長元年(923年)に創建されました。
ご祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の夫婦神です。


熊野神社ー1

階段を上ると拝殿までのまっすぐな石畳が続きます。
降るように蝉の声が響いています。
蝉時雨という言葉をふと思い出しました。


熊野神社ー17

鳥居の前に立派な石碑が立っています。
「指定村社 熊野神社」と記されたこの石碑は昭和15年に建立されました。
この神社は、南羽鳥、北羽鳥、長沼、竜台、田川(茨城県河内町)の
旧五か村の総鎮守です。

熊野神社ー3


熊野神社ー4
熊野神社ー6

参道の左側、「祓戸大神」の先に「庚申猿田彦大神」の石碑と
少し離れて「青面金剛像」が立っています。
寛政十二年(1800年)と記されているこの石碑は、
庚申の申の字が申(さる)に通じることから、庚申信仰と猿田彦神とが結びついたものです。
庚申塔には青面金剛像が彫られることが多いのですが、ここでは二つに分かれています。


熊野神社ー5
熊野神社ー20

天正九年(1581年)の豊臣軍と北条軍との竜台合戦で社殿を焼失し、
寛文七年(1667年)に再建されたもののこれもまた焼失することとなり、
天保十年(1839年)に再建されたのが現在の社殿です。


熊野神社ー8
熊野神社ー15
熊野神社ー9

本殿は切妻造りで鰹木は5本、千木は垂直に切られています。


熊野神社ー12

木々の茂る薄暗い中に、灯りがともる拝殿の景色は厳かで、何やら幻想的でもあります。



熊野神社ー7

境内の右奥にある「天神様」。


熊野神社ー10

拝殿に向って左手の小高い丘の上に浅間神社があります。
享和四年(1804年)に建立され、昭和52年に再建されました。
新しい石造りの小さな祠ですが、昔からここにあって、戦前までは
子供の健やかな成長を願って、親子が裸足でお参りする習わしがあったそうです。



熊野神社ー11
熊野神社ー14

裏山にたくさんの祠が打ち捨てられていました。
新しい祠が建って、用済みとなったのでしょうが、何か虚しく寂しい景色です。


熊野神社ー16
熊野神社ー22

神社のパンフレットには、ご祭神は夫婦神で、配神として「速玉男命(はやたまおのみこと)」、
「事解男命(ことわけおのみこと)」をお祀りするとありますが、
多くの文献には伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と速玉男命、事解男命の三神を合祀している
ことから、「三熊野神社」とも呼ばれていると書かれています。
私見ですが、夫婦神は二柱で一代とするので、この場合は夫婦神を伊弉諾尊として
三神としたのではないでしょうか。


陽が傾き、いつの間にかヒグラシのもの哀しい声だけが響く境内でした。


熊野神社ー23


         ※ 成田豊住 「熊野神社」  成田市南羽鳥76
            京成成田駅よりコミュニティバス豊住ルート 宮下下車 徒歩3分
            JR成田線下総松崎駅より徒歩約30分



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豊住村の寺社 | 17:41:09 | トラックバック(0) | コメント(0)