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Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中で引用したり、取材のヒントを得るために良く利用する書籍です。  文中の注釈が長くなりますので、ここに掲載します。               ■「成田の史跡散歩」小倉 博 著 崙書房 2004年               ■「成田の地名と歴史」大字別地域の事典編集委員会 2011年      ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会編 1986年       ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会編 1972年

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【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

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再訪~七百年以上の歴史ある古刹、船形の「薬師寺」

今回は二年以上前(平成26年8月)に一度ご紹介した、船形の「薬師寺」を再び訪れます。

薬師寺-164

薬師寺-100

「薬師寺」は真言宗のお寺で、山号は「船形山」、本尊は「阿弥陀如来」とされています。

「千葉縣印旛郡誌」には、「薬師寺」が次のように紹介されています。
「船形村字船形にあり眞言宗にして東勝寺末なり本尊を阿彌陀如來とす元は麻賀多神社の
別當にして今も船形北須賀二ヶ村の祈願にて二百年前船形の文書にも別當とありしと云ふ
堂宇間口六間奥行四間庫裏間口六間奥行三間半門間口三間奥行二間境内六百四十九坪
官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒四十三人を有し管轄廳まで八里七町なり境内
佛堂一宇あり即
一、藥師堂 藥師如來を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行三間」


今は本堂は無く、仁王門と薬師堂だけが残っています。


薬師寺-121
薬師寺-168  阿形の仁王像
吽形の仁王像  薬師寺-166

仁王門の左右に、県の有形文化財に指定されている迫力ある二体の仁王像があります。


薬師寺-170
薬師寺-169

阿形像は像高1.7メートルで、右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。

薬師寺-165
薬師寺-167

吽形像は像高1.71メートルで、左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。

この仁王像は、応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
近年、この仁王像の解体修理を行った際、腕と胴体の部材に大永二年(1522)と天正
二十年(1592)の修理墨書銘が見つかりました。


薬師寺ー42

仁王門の脇の手水盤には、延享三年(1746)と刻まれています。


薬師寺-122

仁王門下に立つ風化した石碑には、「奉 光明■眞言億万■■」「元禄十■■」と刻まれて
いるように見えます。
これは「光明真言百万遍塔」の一種だと思います。
「光明真言」はとても短いお経で( オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン )、これを一心に唱えれば、全ての災いを除くことができると
されています。
元禄十年は西暦1697年ですから、320年前のものです。


薬師寺-123

仁王門をくぐらずに左に行くと、小さな墓地があります。
元禄、明和、天明、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


薬師寺-126

台座に「筆子中」とある文久二年(1862)の墓石には、「法印照山不生位」と刻まれています。
照山という僧侶に学問を学んだ生徒が、師匠の菩提を弔うために建立したものである。
右側面には「松に日は暮てあかるきさくらかな 方円舎器水」の句が刻まれている。方円舎
器水は照山の俳号で、辞世の句であろうか。」
 (成田の史跡散歩 小倉 博 P106)


薬師寺-125

墓地の外れ、と言うよりは近くの原っぱにポツンと小さな石仏が置かれています。
何か文字らしきものが見えますが、読むことはできません。


薬師寺-127
薬師寺-128

薬師堂へ登る石段の左右に、数基の板碑や石塔があります。
石塔には「大僧都法印照盛」「天明七丁未」と刻まれています。(天明七年は西暦1787年)


薬師寺-154
薬師寺-129

『船形村には薬師寺と明王寺という末寺がある。 薬師寺は船形山と号し、阿弥陀如来を本尊
としている。創建年代など不詳。天保八年(一八三七)の「寺柄書上」によると、薬師寺は東西
二〇間・南北二八間の除地に認可された境内に六間・四間半の客殿(本堂)をはじめ、庫裏・
薬師堂・仁王門が建ち、檀家は一一軒であった。』
 (P787~8)
「成田市史 中世・近世編」は、「薬師寺」を「東勝寺」の末寺として、こう解説しています。

また、「成田の史跡散歩」(小倉 博 著)にも、
「明王寺跡から少し行った左側が船形の薬師寺である。薬師寺は山号を船形山と号する
真言宗豊山派の持院で、阿弥陀如来をご本尊としている」
 (P104)
とあり、その他のほとんどの資料が本尊を「阿弥陀如来」としています。

しかし、全国寺院名鑑(昭和44年)には、
「薬師寺 真言宗(豊山派) 本尊薬師如来境内八五六坪建物薬師堂一一坪仁王門寺宝
旗曼荼羅版木梵鐘(応永元年作) 由緒 船形山と号し、創建年代不詳。麻賀多神社の
別当寺であったといわれる。」

とあり、また安政五年(1858)の「成田名所圖會」には、
「舟形山薬師寺 船形村にあり。本尊薬師如来行基菩薩の開眼なりと云開基詳ならす。
此寺旗曼荼羅と云古き板木を蔵す。古色掬すべし。」

とあります。
さらに、「成田の地名と歴史」では、「薬師寺の木造薬師如来坐像」を本尊としています。

さて、ご本尊は「阿弥陀如来」か、「薬師如来」か?


薬師寺-104

薬師堂の中には三尊像があります。

「成田の史跡散歩」ではこの三尊像について次のように解説しています。
「仁王門をくぐると正面に石段があり、その上に本堂(薬師堂)が建つ。本堂にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と観音菩薩立像・勢至菩薩立像の、いわゆる阿弥陀三尊が祀られ、その
後方の厨子に平安時代から鎌倉時代の作品とされる、やはり千葉県指定文化財の木造
薬師如来坐像が納められている」
 (P105)

ずっと疑問に思っていたことがあります。
それは、「薬師寺」なのになぜご本尊が「阿弥陀如来」なのか?
さらに、薬師堂になぜ「薬師三尊」ではなく「阿弥陀三尊」なのか?
ということでした。

これまで多くのお寺を訪ねてきましたが、この船形の「薬師寺」は特に好きなお寺の一つ
なのですが、訪ねる度にこの疑問が湧いてきます。


薬師寺-103
薬師寺-205

「阿弥陀如来」であれば九品来迎印や弥陀の定印を結び、衣は偏袒右肩が一般的ですが、
この像は定印で通肩、しかも薬壺らしきものを抱えています。
もしこの像が薬師如来だとすれば、この像容は珍しく、ネット上で画像を探しましたが、東京都
中野区の新井薬師、山口県山口市の瑠璃光寺、京都府井出町の西福寺で見つかりました。
そして中尊が薬師如来ならば、脇侍は日光菩薩と月光菩薩ということになります。
背後に十二神将が並んでいることも整合します。


薬師寺-106
薬師寺-207 左脇侍(漢音菩薩か日光菩薩)

薬師寺-105
薬師寺209 右脇侍(勢至菩薩か月光菩薩)

「阿弥陀三尊」だとすると、左脇侍の「観音菩薩」、右脇侍の「勢至菩薩」、ともにその像容に
やや違和感があります。


薬師寺-156

「薬師三尊」である確信は持てませんが、「阿弥陀三尊」にも疑問が残ります。

へそ曲がりの素人の妄言かもしれませんが、専門家の方のご意見が欲しいところです。


三尊像の両脇後方には十二神将が並んでいます。

薬師寺-213
薬師寺-217
薬師寺210
***********薬師寺-211

十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来や
薬師経を信仰する人を守護するとされています。
十二神将とその本地物を列挙すると、
                         
宮毘羅大将(くびら)   弥勒菩薩   ・  伐折羅大将(ばさら)   勢至菩薩 
迷企羅大将(めきら)  阿弥陀如来 ・  安底羅大将(あんちら) 観音菩薩
頞儞羅大将(あにら)  如意輪観音 ・  珊底羅大将(さんちら) 虚空蔵菩薩
因達羅大将(いんだら) 地蔵菩薩   ・  波夷羅大将(はいら)   文殊菩薩
摩虎羅大将(まこら)  大威徳明王  ・  真達羅大将(しんだら) 普賢菩薩
招杜羅大将(しょうとら) 大日如来   ・  毘羯羅大将(びから)  釈迦如来

薬師三尊像の眷属として十二神将像をともに安置することが多く見られます。


後ろの厨子に安置されている、「木造薬師如来坐像」の画像を、千葉県教育庁教育振興部
文化財課の許可をいただいて、掲載します。

薬師寺ー36
(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ 

「この像は同寺の本尊として本堂に安置されている。 ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼が
はめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、現状では素地となっているが、
薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」

この画像の解説にはこう書かれています。

ここでもこの「薬師如来」を本尊としています。

ご本尊は「阿弥陀如来」なのか、「薬師如来」なのか、そして、三尊像は「阿弥陀三尊」なのか
「薬師三尊」なのか・・・。
素人なりに追いかけるには、おもしろいテーマだと思っています。


薬師寺-130

薬師堂の前に、宝珠と火袋部分が無くなって、中台の上に笠だけが乗っている石灯籠が二基
並んでいます。
「享保十一午」の文字が読めますので、1726年のものです。


薬師寺ー6

本堂左手に立つ一対の灯籠と宝篋印塔。


薬師寺-134
***********薬師寺-135

灯籠の竿の部分には地蔵菩薩が刻まれています。


薬師寺-136

この宝篋印塔は、明和二年(1765年)に建立されました。


薬師寺-137
薬師寺-138

宝篋印塔の後方に裏山へ登る石段があり、小さな祠が見えています。
登ってみましたが、何の祠かは分かりませんでした。


薬師寺-139
薬師寺-141

祠の先の急な山道を登ると、子安観音を祀った祠がひっそりと建っています。
こんな足許の悪い狭い急坂を登って、熱心にお詣りする方がおられるようで、新しい御札が
置かれています。
二年前にここに登ったときにも、新しい御札が置かれていました。

薬師寺ー8  二年前の子安観音

子安観音には宝暦四年(1754年)と記されています。


薬師寺-142

子安観音から坂を下る途中から薬師堂を見ると、軒下に何やら彫刻が並んでいます。


薬師寺-143
薬師寺-144
薬師寺-145
薬師寺-146
薬師寺-147
薬師寺-148

長い年月で木が痩せ、どれがどれだか分かりませんが、十二支であることは確かです。


薬師寺-153

境内の右手には大きな宝篋印塔と大師堂があります。


薬師寺-149

宝篋印塔は宝暦とだけ読めますので、約260年前のものです。


薬師寺-152

大師像の後ろにある石版には、「量海法師皆得体怡信士」と記されています。
文化十年(1813)の文字も見えます。


薬師寺-154

この薬師寺にはもう一つ、県の有形文化財に指定されているものがあります。
応長元年(1311年)に造られた梵鐘で、現在は宗吾霊堂(東勝寺)の宝物殿内に置かれて
いるものですが、「木造薬師如来坐像」と同様に、千葉県教育庁教育振興部文化財課の許可
をいただき、画像を掲載します。

薬師寺ー37
(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )

「宗霊宝殿に保管されている梵鐘で、総高79.6㎝、口径51.4㎝、3段組で鋳造されていて、
乳は4段4列、上帯下帯とも文様のない素文である。蓮の花をかたどった蓮華文を陰刻した
撞座が一つというめずらしい例で、県内で撞座が一つというのは他に印西市龍腹寺の梵鐘
があるのみである。竜頭も簡略化されたものとなっている。
4区画された池の間の1区画目の銘文には「下州印東庄八代郷船方薬師寺」とあり、成田市
船形の薬師寺に奉納されたものであることがわかる。さらに、梵鐘の由来として、僧良円が
願主となって応長元年(1311)に、娑弥善性という茨城県新治郡出身の鋳物師によって鋳造
されたことが記されている。」

この画像の解説にはこう書かれています。

梵鐘の銘文からすると、この「薬師寺」は、700年以上の歴史があることがわかります。


薬師寺ー33
薬師寺-160
薬師寺-161

境内の外れにシイの大木があります。
「船形の大シイ」と呼ばれているこの大木は、市の天然記念物で、幹周りは6メートル、高さは
15メートルもあります。
一部に傷みも見えますが、樹勢はまだまだ盛んです。


薬師寺-155
薬師寺-159
薬師寺-121
薬師寺-101

『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷船方
薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に豆留しながら
印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」には仁王門・
薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代にはこの地方屈指の大寺
であった。』
 (成田の地名と歴史)

「成田名所圖會」には、薬師寺から北須賀村越しに、帆掛け舟が浮かぶ印旛沼を望み、その
遥か先には富士山が描かれています。
実に風光明媚なお寺であったことが分かります。

境内は狭くなり、干拓によって印旛沼は遠くなって、見晴らしも悪くなってしまいましたが、長い
歴史を有する古刹の雰囲気は十分に残っています。


薬師寺-220

                          ※ 「船形山薬師寺」 成田市船形219-1


追記: 二年間で少しは進歩したでしょうか? 
二年前の「薬師寺」の記事 ☜ ここをクリック



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公津村の寺社 | 07:54:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
温かい光に満ちた本堂~北須賀の「勝福寺」と道端の「六地蔵」
勝福寺ー3

北須賀の「勝福寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「大台山」、院号は「龍岸院」。
ご本尊は「聖観音菩薩」です。


勝福寺ー1

石段の下に建つ寺号標と石仏は、最近寄進されたものです。


勝福寺ー5
勝福寺ー6
勝福寺ー7
勝福寺ー15

石段の上には、決して大きくはありませんがしっかりした立派な山門が建っています。


勝福寺ー4

山門脇に数基の石塔がありました。
風化で文字が読みにくくなっていますが、読誦塔のようです。
一つは文化二年(1805)、もう一つは天保十年(1839)と読みましたが・・・。


勝福寺ー8

これは板碑でしょうか?
細長い形は珍しいと思います。


勝福寺ー10

「千葉縣印旛郡誌」には「勝福寺」について次のように書かれています。

「北須賀村字和田にあり眞言宗にして東照寺末なり正觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳
堂宇間口七間奥行五間庫裡間口七間奥行四間半門間口二間通間九尺境内三百五十
三坪官有地第四種あり住職は鈴木運照にして檀徒三百六十五人を有し管轄廰まで八里八町
十間なり寺院明細帳

※ 東照寺は東勝寺(宗吾霊堂)の間違いと思われます。

「成田市史」に収められた「公津村誌」(大正四年)には、この「勝福寺」についての記述
は見当たりません。


勝福寺ー11
勝福寺ー12

ご本尊の「聖観世音菩薩」です。
「聖観音」は「正観音」とも言い、一面二臂の像で阿弥陀如来の化仏の付いた宝冠をかぶり、
蓮華を持って蓮台に立つのが一般的ですが、こちらの観音様は座っておられます。
六観音(聖観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝観音)の中では地獄道
を化益します。
※ご住職のお許しを得て、撮影させていただきました。


勝福寺ー24
勝福寺ー14

本堂の右手にある大師堂。


勝福寺ー17

境内の一角にある二基の石仏は享保年間(1716~1735)のものです。


勝福寺ー20
勝福寺ー18
勝福寺ー19
勝福寺ー22

墓地はやや荒れていますが、寛文、元禄、宝暦、安永、天明などの年号が見えます。


勝福寺ー16
勝福寺ー25
*********** 勝福寺ー26

石段を下りて周りを散策してみました。


勝福寺ー27

印旛沼方向に少し行くと、道端に「六地蔵」がありました。

「六地蔵」については何度か紹介していますが、あらためて簡単に紹介すると、
六体の地蔵菩薩を並べて祀ったもので、全ての生命は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、
人道、天道を輪廻する(六道輪廻)とする思想に基づいて、六道のそれぞれを六種の地蔵
が救うとする説から生まれたものです。
その六地蔵とは、一般に、檀陀地蔵、宝珠地蔵、宝印地蔵、持地地蔵、除蓋障地蔵、日光
地蔵とされています。

耕田寺ー23 耕田寺の墓地の六地蔵
琴平神社ー18 松子・旧街道の六地蔵
押畑稲荷ー70 押畑の山中の六地蔵
善導大師-34 善導大師堂の六地蔵

ここは地元では「和田のろくじょう」と呼ばれています。
「和田」はこの地の小字(こあざ)で、「ろくじょう」は「六地蔵が訛ったものです。


勝福寺ー28
勝福寺ー29

ブリキの説明板が置いてあります。
それによると、前列左が「勢至菩薩」、中央は「三界萬霊塔」、その右が「大日如来」、右端
が「如意輪観音」、そして後列左にある二基は「地蔵菩薩」、中央の背の高い石塔は「光明
真言塔」、右の二基は「地蔵菩薩」となっています。

「光明真言塔」には享保十三年(1728)の紀年銘があります。
「光明真言」はわずか23文字のお経です。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
と唱えますが、「“進むべき道を無量の光をもって遍く照らし御導きください”と、大日如来に
お願いする」という意味です。

さて、ここには「地蔵菩薩」は四体しかありません。

勝福寺ー30
勝福寺ー31

実は、「六地蔵」は脇に立つ灯篭にありました。
六角形の火袋のそれぞれの角に一体ずつの地蔵菩薩が彫られています。
「六地蔵」とは、こちらのことのようです。

陽も傾いてきました。
もう一度「勝福寺」に戻って、観音様にお参りしてから帰ることにします。

勝福寺ー13

晩秋の夕暮れ、山中の寺を訪れる人はありませんが、開け放たれた本堂は温かい光に
満たされていました。


勝福寺ー32


                    ※ 「龍岸院勝福寺」 成田市北須賀426-1




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公津村の寺社 | 07:53:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
牛頭天王を祀る「根山神社」と、渡し守甚兵衛の「水神の森」
今回は北須賀の「根山神社」と「水神の森」を訪ねます。

根山神社ー1

「成田市史 中世・近世編」の「市域の主な神社」には、古社名を「牛頭天王宮」、ご祭神は
「須佐之男命」、馬場美濃守の創建、と書かれています。


根山神社ー4

「成田市史 近代編史料集一」に収録の大正四年(1915)の「公津村誌」には、

「本村北須賀字宿ニアリ、須佐之男命ヲ祭ル。古ハ牛頭天王ト称シ馬場美濃守ノ守神ナリ
ト云フ。七月廿五日神輿ノ御渡アリ。」
「因ニ曰ク馬場美濃守ハ此ノ地城山ト云フ築城セラル。宿ハ此ノ城下ナリ、其臣兵衛四郎
現今門川住居鈴木四郎兵衛宅ニハ徒歩蓑ノ古物アリト云フ。」


と記されています。

「牛頭天王(ゴズテンノウ)」については諸説ありますが、一般に「須佐之男命」や「薬師如来」
の垂迹(すいじゃく=仮の姿)であるとされています。


吾妻神社ー4
今年初めに訪ねた吾妻にある「八坂神社」の案内板には、「素戔嗚尊(牛頭天王)」と書かれていました。


根山神社ー2

「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)では、この神社のご祭神を「速須佐之男命(ハヤスサノオ
ノミコト)」の他に、「水波之女命(ミズハノメノミコト)」、「市寸嶋比賣命(イチキシマヒメノミコト)」、
「惶根命(カシコネノミコト)」、「天日鷲命(アメノヒワシノミコト)」の五柱であると記しています。

「水波之女命」と「市寸嶋比賣命」は神話における代表的な水の神で、印旛沼のほとりに建つ
この神社らしい神様です。
惶根命は神代七代(かみよななよ)と呼ばれる、最初の神である国常立尊(クニノトコタチノ
ミコト)から、国を産んだ伊奘諾尊(イザナキノミコト)と伊奘冉尊(イザナミノミコト)までの七代
十一柱(日本書紀。古事記では十二柱)の内の一柱で、女神とされています。

大鷲神社ー12 
今年の8月に訪ねた北羽鳥の「大鷲神社」のご祭神は「天日鷲命」でした。


根山神社ー3

鳥居の手前にある手水盤には、天保十四年(1843)と刻まれています。


根山神社ー26

「明治四二年八月二四日、同所字宿前無格社揖波神社、同所字大坂無格社嚴島神社、
同所字南大台無格社皇産霊神社、同所無格社鷲宮神社を合祀する。これにより北須賀
宿前荒蕪地五畝一〇歩、同字大坂荒蕪地八歩、同南大台荒蕪地五畝二〇歩、同南大台
荒蕪地六畝一九歩を氏子に売却する。」


「千葉県神社名鑑」には「根山神社」の項にこう記しています。
荒蕪地(こうぶち)とは、原野、未開地という意味です。

ここにある「揖波神社」の名が、境内に入ったところにある小さな手水盤に刻まれています。

根山神社ー6
根山神社ー5

風化でほとんど読めませんが、「揖波神社」と「北須賀村」の文字がかろうじて読めます。


根山神社ー21
根山神社ー7
根山神社ー8

「北須賀村字大坂にあり速須佐之男命水波命市寸嶋比賣命惶根命天日鷲命を祀る創立
不詳なれども明治四十二年八月二十四日許可を得て北須賀字宿前にありし無格社揖波
神社仝所字大坂にありし無格社嚴島神社仝所字南大台にありし無格社皇産靈神社仝所
鷲宮神社を合祀す」
「須佐之男命を祀る古は牛頭天皇と稱し馬場美濃守の守護神なりしといふ七月廿五日神輿
の渡御あり馬場美濃守は此地の城山に築城せられ宿社の所在地は此城下なり其臣兵衛四郎
現今門川住居鈴木四郎兵衛氏の宅には徒歩蓑の古物を藏すといふ古老口碑


「印旛郡誌」には「根山神社」について、このように記しています。
なお、この文中には牛頭天皇とありますが、古い書物には牛頭天王を牛頭天皇と表記する
ものもあるようで、「新撰佐倉風土記」の中には「根山神社在北須賀村祭牛頭天皇」とあり、
「利根川圖志」には「根山神社は北須賀村門河といふ所にあり牛頭天皇を祭る」とあります。

字(あざ)については郡誌、村誌、神社名鑑のそれぞれに多少の齟齬が見られます。
また、「馬場美濃守」とは千葉氏の一族で、有名な甲州武田家の重臣「馬場美濃守信春」
とは別人です。


根山神社ー9  
根山神社ー17
根山神社ー18

社殿の裏や境内の一角に3基の祠があります。
明治時代に合祀されたという厳島、皇産霊、揖波神社でしょうか?


根山神社ー10

神社の裏山には崩れかけた狭く急な石段があります。
この石段の上に「鷲宮神社」があります。


根山神社ー11
******根山神社ー12
根山神社ー13

63段の石段は苔や枯葉や折れた枯枝が積もっていて、とても危険です。
登り切ったところに小さな台地があり、「鷲宮神社」があり、昭和四十年と記されています。


根山神社ー14

目を凝らすと、密生した木々の間からかすかに印旛沼の水面が見えました。
昔はきっと素晴らしい眺めだったと思われます。


根山神社ー15

石段の脇にある石柱には、「北須賀村女人講中」と「芝宿」の文字が刻まれています。


根山神社ー25

現在の社殿は享保十四年(1729)に建造されました。
徳川吉宗の時代です。
屋根は葺替えられていますが、建造から300年近く経っているとは思えないほどしっかり
した感じがするのは、手入れが行き届いているからでしょうか。


根山神社ー19
根山神社ー20

嘉永五年(1852)の御神燈。


根山神社ー28

「根山神社」は道路に面していますが、背の高い木々が境内と社殿を囲んでいるため、
少々薄暗い感じがします。


根山神社ー27

境内から出た道路脇に数基の祠が並んでいます。
一番大きな祠には「文政十二己丑六月」と刻まれています。
いずれも道祖神のようです。
文政十二年は西暦1829年になります。


根山神社ー30

「根山神社」から印旛沼の方向に100メートルほど進むと、「水神の森」に出ます。
広々とした敷地内に松の巨木が点在する開放的な空間です。
樹高20メートルを超え、樹齢300年以上の松もあるようです。


根山神社ー32
根山神社ー31

「水神社」には大小数基の祠がありますが、右にある細長い祠は明治四十三年(1910)
のもの、真ん中の祠は年代不詳、左は享保十一年(1726)のものです。
周りにある小さな祠にも、それぞれ「水神宮」と刻まれています。
「成田の史跡散歩」には、「弥都波能女命(ミツハメノミコト)」がご祭神と書かれています。
この神は水の神様で、「古事記」では弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)、「日本書紀」では
罔象女神(ミツハノメノカミ)と記されます。


根山神社ー33
根山神社ー34 甚兵衛供養堂と書かれた掲額
根山神社ー36 堂中正面の甚兵衛の肖像画(?)
根山神社ー37

「水神の森」は別名「甚兵衛公園」とも呼ばれています。
「水神社」の傍に昭和39年に建立された「甚兵衛堂」があります。
ここは昔「水神の渡し」と呼ばれる渡し場があった所で、有名な「木内惣五郎(佐倉宗吾)」
が、近隣の村々への過酷な年貢の取り立てを緩和してもらおうと、藩の江戸上屋敷に願い
出たものの聞き入れられず、やむなく将軍への直訴を決意して、家族に別れを告げに村に
戻る途中、藩の役人によって繋がれていた渡し舟の鎖を切って対岸へと渡し、その後沼に
身を投じた「渡し守の甚兵衛」を讃えて「甚兵衛渡し」と呼ばれるようになりました。

もっとも、この「渡し守甚兵衛」は歌舞伎の「東山桜荘子(佐倉義民伝)」で創作された架空
の人物のようですが、大評判を呼んだ芝居の登場人物が独り歩きして、あたかも実在した
かのように扱われています。
「千葉縣香取郡誌」(大正10年)中にある「公津村誌」には、村内の名勝の一つに「甚兵衛
渡し」をあげて、次のように記しています。

「本村北須賀より六合村吉高に通する要津なり松崎停車塲より一里弱成田驛よりは二里強宗吾靈堂
よりは二十余町
木内宗吾の事蹟と共に人口に膾炎す當時宗吾江戸より歸り書伏夜行辛して
承應元年十二月上旬渡船塲に達し甚兵衛の茅屋を叩き渡船を求む當時公津より江戸に
至る各渡船塲は取締嚴にして定刻必ず毎船鎖を以て封じ一々行人を誰可し舟夫と雖猥に
渡船を許さず若し犯すものは誅戮せらるるの嚴命あり然るに甚兵衛深く宗吾の義狡に感激
し夜半降雪霏々祁寒肌を裂く時敢て斧鉞の嚴刑を犯し決然鉈を揮って鎖を斷ち勇奮棹を
操りて渡航せしめたる著名■遺跡なり今此津に臨み往時を追懐せば風䔥々として沼水寒く
松籟颯々として宛ら往時を語るの想あり」

※ 膾炎は膾炙(かいしゃ)の間違いだと思われます。

仲の町ー15
昔の「甚兵衛渡し」の風景 (成田観光館に展示)

さらに、「郡誌」には「水神の森」に関して、次のような記述もあります。

「北須賀にあり印旛湖中に突出せる半嶋にして水神を祭れる社あり樹木蓊鬱として繁茂し
對岸は即花嶋山にして北は遠く安食を臨み南は邇く中川岩橋に對す朝夕の眺望四季の
變化千態萬狀極りなく湖中絶景の地たるが故に雅人墨客の杖を曳くもの頗る夥し承應
元年八月惣五等上訴の議成り將に出發せんとするや捕卒に襲はれて進退谷り戸の森
にのがれ湖中に投じて後舟人に救はれ危く一命を助かりし所とも傳ふ」


風光明媚であった往時が思い浮かびます。
どうやら宗吾一行は江戸へ上る時にも、この渡し場で危機一髪の目にあったようです。


根山神社ー38
根山神社ー29

晩秋の沼の上空をトンビが二羽、ゆっくりと弧を描いて滑って行きます。

沼岸は遠くへ後退し、渡し舟は昭和43年の「甚兵衛大橋」の開通によって姿を消しました。
「水神の森」に一部残った松林が、わずかに往時をしのばせています。


根山神社ー39


                        ※ 「根山神社」 成田市北須賀98
                           「水神の森」 成田市北須賀1626



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公津村の寺社 | 08:37:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
遥か印旛沼が望める、下方の「浅間神社」
下方浅間ー8

今回は、印西市と酒々井町に接する下方(したかた)の「浅間神社」を訪ねます。

「千葉県神社名鑑」によれば、ご祭神は「木花佐久夜姫命(コノハナノサクヤヒメノミコト)」。
この神様は、木花咲耶姫、木花之佐久夜毘売、木花開耶姫とも記されます。
もともとは石宮だったものを昭和54年に社殿を新築して、社殿内に奉斎しました。


下方浅間ー1
下方浅間ー2

地図を頼りに「浅間神社」の麓までくると、道端に大きな石の鳥居が建っています。
鳥居は道路に背を向けて、印旛沼の方向に開かれています。
回り込んで見上げると、額束には「麻賀多神社」とありました。
「麻賀多神社」は1キロほど離れていますが、側に「麻賀多神社神輿渡御之地」と彫られた
石柱と「鳥居河岸」と書かれた標柱が立っています。

『古代・中世においては、印旛沼周辺の低地は「香取の海」と呼ばれる霞ヶ浦から続く広大
な入り海であった。このため陸上交通より水上交通の方が発達しており、麻賀多神社に
参詣するにはこの鳥居河岸に船を着け、ここから上陸したのである。』
「鳥居はもとは印旛沼の中に建てられており、奈良時代末期の延暦二年(七八三)九月
に勅使大伴家持が建立して以来、六十一年ごとに建て替えるのを定例にしていた。最も
新しいのは地上に建てられていたが、その場所が成田市の道路計画にかかったため、
場所を少し移動して平成七年に半永久的な石造の鳥居として再建したのである。」

(「成田の史跡散歩」 P108)


下方浅間ー3

初めて鳥居が建立されてから1230年以上の時が流れ、水位の変動やその後の干拓に
よって印旛沼の水面は大きく後退しました。
今では「鳥居河岸」の名がわずかに往時を偲ばせています。


下方浅間ー4

鳥居の後ろの山に向かって細い坂道が見えます。
ここをちょっと上ると、「浅間神社」の鳥居と、「浅間神社登山口」と記された石柱があります。
鳥居は平成19年、石柱は昭和54年の建立です。


下方浅間ー5

“登山口とは大袈裟な・・・”と思って鳥居の下に立つと、なるほど登山のような急勾配の
石段が上へ伸びています。


下方浅間ー6

石段の踊り場に置かれた手水盤は平成元年に寄進されたものです。


下方浅間ー7

石段は155段ありました。
これは確かに「登山」です。


下方浅間ー9

石段を登り切ったところにある手水盤は風化のため何も読めません。
自然石をくり抜いたような形状です。


下方浅間ー10
下方浅間ー11

この神社についての記述は多くはありません。

「成田市史 近代編史料集一」に収録されている「下方邨一村限調帳」には、ただ一行、
「村社浅間神社村中字浅間山鎮座」 とあります。

また、明治二十二年(1889)に合併してできた公津村の村誌にも、
「無格社浅間神社 下方字浅間下ニ座。創祀不詳。」
とのみの記述です。
そして、「成田市史 中世・近世編」中の「成田市域の主な神社(P794~807)」にはこの
下方の「浅間神社」に関する記述は見当たりません。

一番詳しい記述は千葉県神社庁の「神社名鑑」にありました。
「由緒不詳。昭和五四年氏子・崇敬者により社殿を建立して祭儀の厳修と参詣者の便が
高められている。先年氏子の協力によって百余段の石段と鳥居、また特殊崇敬者により
石造社名標が奉納されている。当社は古来成田市台方・下方・宗吾住民を氏子とされ、
毎年七月一日に幼児が父兄家族と共に登山参詣する。近年眼下に展開する印旛沼の
景観を眺める参詣者も増加している。」



下方浅間ー20
下方浅間ー16

失礼して中を覗かせていただくと、本殿の新築前にあった石宮が見えています。
「神社名鑑」には、本殿は亜鉛板葺の流造りで建坪は5坪、境内は93坪あり、氏子は
300戸とあります。


下方浅間ー14
下方浅間ー15

境内は93坪とされているわりにはとても狭く感じます。
社殿の周りを多くの大木が取り囲み、境内を浸食している感じです。


下方浅間ー13

社殿の後方に、道のようなものがあります。
かつては人が通る道であったものが、利用されることが無くなって消えてしまったように
見え、少し進むと深い藪に阻まれて進めなくなります。


下方浅間ー17
下方浅間ー21
下方浅間ー18

木々の間から印旛沼が見えています。
かつては視界いっぱいに水面が広がっていたはずです。
江戸時代以降、数次にわたる干拓事業で、かつての半分の大きさになりましたが、それでも
千葉県内での湖沼では最大の面積を持っています。
初夏の新緑の季節にここから眺める景色は、きっと素晴らしいと思います。


下方浅間ー22

土に埋もれた板碑が1基。
梵字のようなものがかすかに残っています。


下方浅間ー23
下方浅間ー24

長い石段を下ると、沼の水面は背伸びしないと見えなくなります。


下方浅間ー25

神社のある山裾を西へ150メートルほど進むと、道端に石塔がありました。
「観世音菩薩」と刻まれ、側面に「普門品千部供養」と記され、「享和三癸亥年十二月吉日
開眼」とも記されています。
享和三年は西暦1803年にあたり、癸亥(みずのとい)は干支(えと)の組み合わせの最後
(60番目)になります。


下方浅間ー26

石塔の後ろに、山に入る道の跡のようなものがみえます。
雑木と竹に覆われて中へは進めませんが、もしかすると先ほど見た神社の裏にあった
道跡とつながっているのではないでしょうか?
と、すると、ここが石段ができる前の登山道の入口なのかも・・・。


下方浅間ー12
下方浅間ー19

境内から見える景色は大きく変わってきました。
満々と水を湛えていた沼面ははるかな先に後退し、北総線の鉄橋が水面を横切っています。

ご祭神の「木花佐久夜姫命」は、この移ろいをどのように見ておられるのでしょうか。


下方浅間ー27


                 ※ 下方の「浅間神社」 成田市下方199


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公津村の寺社 | 08:16:20 | トラックバック(0) | コメント(2)
狛犬がいる顕本法華宗の「大経寺」と、土俵がある「五社神社」
大経寺-1

「大経寺」は顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)のお寺で、山号は「正栄山」。
ご本尊は「釈迦如来」です。

「顕本法華宗」とは私にとって聞き慣れない宗派でしたので、少し調べてみました。
文和元年(1352)に天台宗の延暦寺学頭となった玄妙は、応安五年(1372)に故郷の
会津の「羽黒山東光寺」の住職となり、康暦二年(1380)に日蓮宗に改宗し、名も日什と
改めました。
その後日什が康応元年(1389)に上洛して「妙満寺」を建立し、一派を興したのが「顕本
法華宗」の始まりとされています。
明治になってから日蓮宗妙満寺派と称しましたが、第二次大戦後になってから日蓮宗内
に残った「日蓮宗什師会」と、日蓮宗から離れて独立した「顕本法華宗」とに分裂しました。


大経寺ー2
大経寺ー3
大経寺-10

境内の入口にそびえ立つ銀杏は、樹周りが4メートル以上はあろうかという大木です。


大経寺-4
大経寺-5

「大袋村字金堀にあり日蓮宗妙満派にして輕胤寺末なり釈迦如来を本尊とす創立年月
中興等焼付に付不詳西京妙満寺より小本寺格許可せられる堂宇間口五間奥行四間半
境内一千百二十一坪官有地第四種あり」


大正二年(1913)編さんの「印旛郡誌」にはこのように記されています。
この頃はまだ日蓮宗妙満寺派であったわけです。


大経寺-6
大経寺-7
大経寺-8

インドから唐を経由し、朝鮮から伝わった狛犬は、今では神社の守護獣となっていますが、
日本に伝わってきた頃には神仏習合の時代でしたから、この「大経寺」のようにお寺にある
ことも珍しくありませんでした。
古いお寺には今でも狛犬が残っているようですが、この狛犬は平成12年の寄進ですから、
とても珍しく思えます。


大経寺ー12

「元祖日蓮大菩薩」「開山日什大正師」と刻まれた石碑。
天明九年(1789)と記されています。


大経寺-13

墓地には明治、大正の比較的新しい墓石に交じって、貞享、享保、寛保、文化、文政など
の古い墓石が並んでいます。


大経寺ー15

「成田市史」には「大経寺」に関する記述がほとんど無く、「成田市史 中世・近世編」中の
「近世成田市域の寺院表」に寺名・山号・本寺・開山の1行と、
「大袋村の正栄山大経寺は、印旛郡本佐倉村(印旛郡酒々井町)経胤寺の末寺で、創建
年代は不明だが、経胤寺八世日貞によって開山されている。」
 (P790)
との2行のみが記されています。
なお、宗派は「日蓮宗」とされています。
市史の編さんは昭和61年ですから、これは間違いですね。
千葉県の宗教法人名簿には「顕本法華宗」と記載されています。


大経寺-19

参道の入り口には髭文字で「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目塔が建っています。
明和二年(1765)と記されています。


大経寺-20
大経寺ー36

題目塔から後ろを振り返ると、土俵が見え、その先に神社が見えています。

「石塔のそばに相撲の土俵が作られている。毎年八月二十四日、盂蘭盆(うらぼん)の早朝
にここで子どもたちによる相撲が行われるのである。三百年以上の伝統をもつ行事で、もと
は県神社の朝相撲といわれていた。県神社は、丸氏が大袋に移住する際に、一族の氏神
として土気にある県神社の分霊を移して安置したものと伝えられ、その県神社へ奉納する
神事相撲であった。だが県神社が台方の麻賀多神社に合祀されたので、現在では大経寺
の朝相撲になっている。」
 (「成田の史跡散歩 P112)

丸氏とは、古くから上総地方に根を張っていた豪族です。


大経寺ー23
大経寺ー24
大経寺ー25

この神社は「五社神社」と呼ばれています。
「千葉県神社名鑑」(昭和62年)には、
「本殿・亜鉛板葺流造〇.八坪 境内一七〇坪 氏子三十戸」
と記されています。


大経寺ー33

「大袋村字椎塚田にあり天照大神少彦名命大巳貴命倉稲魂命安媛命を祭る創立不詳
と雖五穀豊穣の爲舊領主に於て施行せられし春秋两度社日を以て于今祭典を執行す
社殿は五方面三寸の石宮にして境内百七十坪官有地第一種あり神官は鈴木氏にして
氏子二十五戸二十五戸を有し管轄廰まで七里十三町あり神社明細帳」


「印旛郡誌」にはこの神社についてこう記しています。

また、「千葉県神社名鑑」には、
「現在の本殿は昭和二八年の新築で、それまでの石宮(五角形柱)は本殿内に遷宮された。」
と記されています。

天照大神(アマテラスオオミカミ)・少彦名命(スクナビコナノミコト)・大巳貴命(オオナムチ
ニミコト)・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)・安媛命(埴安媛命ハニヤスヒメノミコト)をご祭神
とする五角形柱の石宮といえば、八代の稲荷神社の境内にある「地神碑」と同じようなもの
だと思われます。

善勝院ー28 八代・稲荷神社の地神碑


大経寺ー27 名前は分からない小社
大経寺ー26 稲荷大明神・馬頭観世音
                                          (文政十三年=1830)    

大経寺ー29

明和六年(1769)の手水盤には寄進者の名前がびっしりと刻まれています。


大経寺-31

「五社神社」の境内からは土俵の向こうに「大経寺」参道入口の題目塔が見えています。


大経寺-34
大経寺-18

顕本法華宗のホームページには、「法華経」と日蓮の遺した「御書」から直接教えを乞うとし、
“他宗派の神仏の信仰や秘儀秘伝と称する教義は一切認めない”と書かれています。 
きれいに整備された境内の雰囲気は、この宗派の姿勢を現しているような気がします。


大経寺ー39


                      ※ 「正栄山大経寺」 成田市大袋421
                         「五社神社」    成田市大袋383



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公津村の寺社 | 07:32:56 | トラックバック(0) | コメント(0)
住民の増加で夏祭りも復活~飯田の「琴平神社」
飯田琴平神社-1

「琴平神社」のご祭神は「金山彦命(カナヤマヒコノミコト)」。
200年以上前に四国の琴平宮から分祀されました。

「金山彦命」はその名の通り「金山」(かなやま=鉱山)を司る神で、金属に関わる技工を
守護する神とされています。

「成田市史 中世・近世編」中の「成田市域の主な神社」表と解説にはこの神社についての
記述が見当たりません。
「成田市史近代編史料集一」中の「公津村誌」にも記述は無く、「千葉縣印旛郡誌」に公津村
の“その他の神社”として一行名前があるのみです。


飯田琴平神社ー33

石段を数段上って鳥居をくぐります。
昭和53年に建立された石造りの立派な明神鳥居です。


飯田琴平神社ー32
飯田琴平神社ー21
飯田琴平神社ー22

小柄な狛犬は愛嬌のある表情です。
平成10年に設置されました。


飯田琴平神社ー17
飯田琴平神社ー18

手水舎と手水鉢は昭和61年に地元企業から寄進されました。


飯田琴平神社ー19
飯田琴平神社ー2

「千葉県神社名鑑」には、次のように記載されています。
「琴平神社 本殿・銅板葺一坪、幣殿・銅板葺八幡造一.五坪、拝殿・同六坪、社務所瓦葺
木造三二坪、神輿山庫・瓦葺木造七.五坪 境内坪数五〇八.六坪 氏子二〇〇戸」


大正二年(1913)編さんの「千葉縣印旛郡誌」に一行だけあった「琴平神社」の項では、氏子
は十八戸とありましたが、昭和62年編さんの「千葉県神社名鑑」ではそれが200戸となり、
後述の「社殿建設記念碑」(昭和53年)では氏子は500戸を超えると書かれています。
宅地化が進んだ現在では、さらに氏子の数は増えているはずです。


飯田琴平神社ー3
飯田琴平神社ー14

八幡造りの拝殿はバランス良く、その大きさ以上の重みが感じられます。


飯田琴平神社ー4
飯田琴平神社ー5
飯田琴平神社ー31

銅板葺き、神明造りの本殿は、幣殿で拝殿とつながっています。
鰹木は3本、千木は垂直切りでご祭神が男神であることを示しています。


飯田琴平神社ー7
飯田琴平神社ー8

「天満宮」(上)と「子安神社」(下)。


飯田琴平神社ー9

「子安神社再建碑」。
大正十二年(1923)に建てられましたが、現在の「子安神社」は昭和53年に再建されました。


飯田琴平神社ー10

「再建碑」の隣にある手水鉢は大正八年(1919)のものです。


飯田琴平神社ー11

境内左手に並ぶ「子安神社」と再建碑と手水鉢。
左端は納札所。


飯田琴平神社ー12
飯田琴平神社ー13

赤い木柵で囲まれた一角があります。
説明板がありませんが、何か神聖な場所のようで、中には数個の石が積まれています。
香取神宮の「要石」を思い出しました。

香取神宮ー13  香取神宮の「要石」


飯田琴平神社ー15
飯田琴平神社ー24

境内の右手には公民館と社務所があります。


飯田琴平神社ー16

昭和53年建立の「社殿建設記念碑」。
碑文には、
「当琴平神社は今を去る二百余年前 旧飯田新田の鎮守神として四国琴平宮より ご祭神
金山彦命を分祀し古くより家内安全 五穀豊穣 進学 就職 縁結びの守護神として各方面
に御神徳を顕現せられ 氏子崇敬者の信仰尊敬極めて篤く今日に及んだ 創祀当時の氏子
は十八戸なるも現在区内五百数十戸に激増し社殿の狭隘甚だしく夙にその改築と諸施設の
整備が望まれていた 今日成田ニュータウンへの幹線道路の建設に伴い境内地一、〇一八
平方米の譲渡を機に建設委員会を組織して 神社役員 地権者相計り社殿を始め天満宮 
子安神社 社務所 鳥居 参道及び本記念碑の建設を議決 昭和五十三年一月着工し仝年
十月完成した・・・」
とあります。 

各地の「琴平神社」はそのほとんどがご祭神を「大物主神」としていますが、この神社のよう
に「金山彦命」をご祭神としている所もあるようです(和歌山・紀美野町、山形・南陽市等)。
明治政府による「神仏分離令」によって象頭山松尾寺が廃寺となり、神仏習合の神であった
金毘羅権現は金刀比羅宮となりました。
金毘羅権現時代のご祭神は不詳とされていますが、「大物主神」とも、「素戔嗚尊」とも、また
「金山彦命」とも言われていましたので、ここ飯田新田の「琴平神社」のご祭神が「金山彦命」
となったのでしょう。


飯田琴平神社ー20

昭和59年に建立された「夏祭復活記念之碑」。

夏祭りが昭和36年を最後に行われなくなっていましたが、周辺の人口増加もあって復活
の機運が高まり、昭和58年に神輿を新調して再び夏祭りが行われるようになった経緯が
書かれています。


飯田琴平神社ー25

通りを挟んだ向かいは「成田赤十字病院」です。


飯田琴平神社ー26

「山車蔵」は通りに面して建てられています。
隣は消防団の第2分団第8部の詰所です。


飯田琴平神社ー27

神社の裏手にあるスーパー銭湯「華の湯」。


飯田琴平神社ー29
飯田琴平神社ー28
飯田琴平神社ー23

よく整備された「琴平神社」は人口が増加する市街地の中にあって、過疎化や神社離れの
風潮に晒されている多くの神社に比して、とても恵まれた環境にあります(いや、恵まれた
環境を神様が与えて下さっていると言うべきでしょうか)。
この神社の夏祭りの復活のように、神社やお寺が、地域の精神文化の中心に戻れる日が
来てほしいものです。


飯田琴平神社-34


               ※ 「琴平神社」  成田市飯田町89



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公津村の寺社 | 17:41:21 | トラックバック(0) | コメント(2)
寺社が並立する信仰の場~八代の「善勝院」と「稲荷神社」
善勝院ー33

「善勝院」は八代にある真言宗豊山派のお寺で、山号は「大張山」。
ご本尊は「十一面観音菩薩」です。


善勝院ー1
善勝院ー2

創建年代等は定かではありませんが、元禄元年(1688)、澄賢和尚によって江戸時代の
初めの頃に焼失した本堂が再建されたことが分かっています。
その後も何度か火災に遭い、現在の本堂は昭和58年に再建されました。

推定400年近い歴史のあるお寺です。


善勝院ー3

本堂前に立つ空海(弘法大師)像は平成17年の建立です。
「南無遍照金剛」と刻まれています。


善勝院ー4

「百観音霊場巡拜結願記念」と刻まれた石碑。
南無観世音菩薩」の文字の左右に、西国霊場、秩父霊場、坂東霊場と記されています。
平成元年の建立です。


善勝院ー5

並んで立つ「弘法大師入定一、一五〇年御遠忌」「四國霊場巡拜結願記念」と刻まれた
この石碑は、昭和59年の建立です。


善勝院ー6

さらに、「四國霊場巡拜結願記念」と刻まれた、平成25年建立の石碑も並んでいます。

境内右手の崖下に並ぶ3基には、それぞれに巡拝年月日と巡拝者名が記されています。


善勝院ー9

地蔵堂の隣に立つ「戸井氏碑」。
千葉氏遺臣戸井四郎・・・と始まるこの顕彰碑は明治八年(1875)の建立です。

ここに記されている「戸井四郎」とは、干ばつに苦しむ八代の農民を救うため、農業用水路
の開発に尽くした人物で、千葉氏の遺臣・戸井四郎の孫である八代村の名主・戸井四郎
左衛門のことです。
全長約6.5キロの「万治掘」と呼ばれる用水路は、万治二年(1659)3月に完成し、近年、
土地改良事業が行われるまでの長い間、八代地区に恩恵をもたらしました。


善勝院ー10

昭和58年の「善勝院再建記念碑」。

「元禄年間澄賢和尚により創建・・・昭和26年、39年に祝融に会って灰燼に帰し・・・」
と記されています。
祝融とは聞き慣れない言葉ですが、中国の神話に出てくる火の神のことで、火災にあう事を
「祝融に遇う」とたとえる言い方があるようです。


善勝院ー11

大正二年(1913)の「千葉縣印旛郡誌」は、「善勝院」について次のように記述しています。

「八代村字谷津にあり眞言宗にして東勝寺末なり十一面勸世音を本尊とす由緒不詳堂宇
間口六間奥行五間三尺庫裡間口五間三尺奥行二間三尺境内二百三十一坪官有地第四種あり」

「檀徒三百六十六人を有し管轄廰まで八里十町とす境内佛堂三于あり即
一、地蔵堂 地蔵尊を本尊とす由緒不詳建物間口六尺奥行三尺
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺
三、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行三尺 寺院明細帳


善勝院ー7

大師堂。


善勝院ー8

地蔵堂。


善勝院ー12

本堂の屋根に「輪違い紋」が見えます。
この紋は、真言宗豊山派の宗紋です。

『「輪違わちがい」は仏さまと衆生しゅじょうは同じであり、異なることはない凡聖不二ぼんじょうふに
というおしえを基にしています。』
 (真言宗豊山派ホームページ)


善勝院ー13

境内に入ってすぐ左手に墓地があり、寛文、享保、文政、天保、弘化等の年号が読めます。


善勝院ー14
善勝院ー15

びっしりと古い墓石が並ぶ無縁塚。

善勝院ー16
善勝院ー36

「善勝院」の入口からすぐ右に登る石段があり、少し登ると鳥居が建っています。
控柱の付いた立派な台輪鳥居です。
脇にある手水盤は天保六年(1835)のものです。


善勝院ー17
善勝院ー30

長く急な石段を登ると、境内が広がります。

「村社稲荷神社 八代字時田にあり蒼稲魂命を祭る神位正一位寛政十一年未年贈位社殿
間口三間奥行三間境内三百坪官有地第一種


「印旛郡誌」には「稲荷神社」についてこう書かれています。

「蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)」は穀物・食物の神で、「日本書紀」では倉稲魂命、「古事記」
では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と表記します。
「伏見稲荷大社」の主祭神で、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。

正一位を贈られた寛政十一年は、西暦1799年になります。


善勝院ー20
善勝院ー21
善勝院ー22
善勝院ー23

流造りの本殿は、小さいながらもどっしりとした重量感があります。

キツネの狛犬は拝殿の前ではなく、本殿の前に並んでいます。


善勝院ー19

「疱瘡神社」。
疱瘡神(ホウソウシン)は疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種ですが、これを
鎮め、治癒と流行の防止を祈願して祀られています。


善勝院ー24  文久二年(1862)の祠
善勝院ー25 明治三十二年(1899)の祠

善勝院ー26
善勝院ー27

境内の奥に鳥居とお堂があります。
鳥居は笠木が円柱で貫が角柱の靖国鳥居です。
お堂の中には古い神輿と、色鮮やかな新しい神輿がありました。

善勝院ー29  明治二十三年(1890)の手水鉢


善勝院ー28

境内の外れに小さな五角柱がありました。
「地神碑」と呼ばれ、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植安媛命
(ハニヤスヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と
刻まれています。
何れも農業に深い関わりを持つ神々です。


善勝院ー31

上部が欠けて「・・記念」とのみ読めるたこの石碑には、「公津村八代區歓迎會」と記され、
「・・■十九年四月廿八日建立」と刻まれています。
公津村は昭和29年3月31日に成田町、八生村、中郷村、久住村、豊住村、遠山村と合併
して成田市となりましたので、この碑は昭和29年建立の合併記念碑ですね。


善勝院ー32

石段を下りて「善勝院」の境内に戻ります。


善勝院ー34
善勝院ー35

「善勝院」と「稲荷神社」は、以前訪れた山口の「證明寺」と「稲荷神社」のように、寺社が並立
する信仰の空間を持っています。
日本人が昔からそうであったように、“お寺にお参りしたついでに神社にも・・・”、”神様・仏様”
といったような、“ゆるい信仰の場”が私は好きです。

瑠璃台はいずこ(?)~山口の古刹「證明寺」 ☜ ここをクリック
ちょっとしたスポット~山口の稲荷神社 ☜ ここをクリック


善勝院ー37


                 ※ 「大張山善勝院」 成田市八代805



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公津村の寺社 | 23:31:11 | トラックバック(0) | コメント(2)
木の間隠れに朱色の屋根~下方の「普門寺」
普門寺ー2

「普門寺」は真言宗豊山派のお寺です。

「 寺 貮ヶ所
    真言宗  東勝寺  村中字堀尻
    同     普門寺  村中字堂谷ツ 」


明治七年(1874)に作成された「下総國印旛郡下方村一村限調帳」(成田市史近代編
史料集一に収録)には、村内のお寺についての記述はこの二行しかありません。


普門寺ー1

寺への小道は田んぼの畦道のようです。
路肩に小さなお地蔵様。
年代は分かりません。


普門寺ー3

真っ直ぐに伸びた石段の先に、朱色の屋根の本堂が見えています。


普門寺ー4

手水盤には良く読めませんが宝暦十■■未年と記されています。
宝暦年間の二桁の年で干支の後ろが未の年は宝暦十三年(1763)になります。


普門寺ー5
普門寺ー6
普門寺ー7

寺額は色褪せて読みにくい状態ですが、「鷺田山」と読めるような気がします。
このお寺に関する資料はほとんど見つかりません。

「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院表」にも、「東勝寺(宗吾霊堂)」の末寺
であることの他は、山号、創建年代、開山、本尊のいずれも空欄になっています。
わずかに、所有する土地に関して
「屋敷五畝一八歩・中田一反三畝八歩・下田七反三畝三歩」 (P787)
との記述があるだけです。

真言豊山派のホームページで検索しても名前が出てきません。
同じ真言宗豊山派で、「普門寺」の寺号を持つお寺をネットで調べると、近県では埼玉県の
八潮市にある「普門寺」(本尊・不動明王)や、茨城県つくば市の「普門寺」(本尊・阿弥陀如来)
の他、いくつかのお寺が見つかりましたが、成田市の「普門寺」はヒットしません。

このお寺の「普門」という名前は、「普門品(ふもんぼん)=観音経」に因んでいると思われます
ので、宗派に関係なく「普門寺」という寺名のお寺のご本尊は観音菩薩が多いようです。

やっと見つけたのが、大正二年(1913)年の「千葉縣印旛郡誌」にある以下の文章です。

「下方村字冲畑にあり眞言宗にして東勝寺末なり十一面勸世音を本尊とする由緒不詳堂宇
間口三間奥行三間境内百七十三坪官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒二十九人
を有し管轄廰まで六里二十町なり寺院明細帳


これによりご本尊は「十一面観音」であることが分かりました。


普門寺ー8
普門寺ー9
普門寺ー21

境内左手のお堂には祠と如意輪観音が祀られています。
向かって右の如意輪観音はコケに覆われて表情も良く分かりません。
左の祠には嘉永七年(1854)と記されています。

嘉永七年は「日米和親条約」が締結された年です。
前年にはペリーの黒船が浦賀沖に来航し、当年5月には京都の大火で御所が全焼し、7月
には伊賀上野大地震、12月には東海大地震・南海大地震。豊予海峡大地震が立て続けに
発生するなど、世の中が騒然としていた頃です。


普門寺ー10

「普門品千部供養塔」。
台座の文字が「享保」と読めるような気がしますが・・・。


普門寺ー11
普門寺ー25
普門寺ー12
普門寺ー22

本堂の脇に並ぶ古い墓石群は草に覆われています。
約20基の墓石には、元禄、享保、延享、宝暦などの年号が見えます。


普門寺ー13
普門寺ー24
普門寺ー20

本堂にはまだ「賀正」と書かれたポスターが貼られたままです。
普段は訪れる人も無いのか、さほど広くない境内ですが、何かがらんとした雰囲気です。


普門寺ー14
普門寺ー15

境内右手にある大師堂。
大師像には「南無大師遍照金剛」と書かれた襷が掛けられています。
右手にあるお堂と同様に、堂内にはたくさんの人形が奉納されていますが、これにはなにか
謂れがあるのでしょうか。


普門寺ー16
普門寺ー18
普門寺ー19

裏にはたくさんの墓石が並んでいます。
その多くにお地蔵さまや如来像が彫られていて、延宝、元禄、正徳、享保、宝暦などの
年号を読むことができます。


普門寺ー23
普門寺ー26
普門寺ー27

石段の下から見上げる「普門寺」は、いかにもお寺らしい風情です。
鮮やかな朱色の屋根が、木々の間から見え隠れしています。

創立の年代は不詳ですが、境内にある年代の判読できる墓石で一番古い延宝年間
(1673~81)にはこのお寺はあったと考えて良いと思います。
少なくとも350年程度の歴史はあるということになりますね。


普門寺ー29
普門寺ー28


                      ※ 「普門寺」 成田市下方1043



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公津村の寺社 | 07:48:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
江弁須の虚空蔵様~正蔵院
前回の皇産霊神社のすぐ近くにある「正蔵院」を訪ねます。

正蔵院ー21

「正蔵院」は山号を「妙見山」とする真言宗豊山派のお寺です。
日本で最初に大僧正となった行基(669~749)によって天平十一年(739年)に
開山されたと伝えられています。

「成田市史」中に収載されている「公津村史」には正蔵院について次のような記述があります。
「本院ハ真言宗ニシテ東勝寺ノ末寺ナリ。創立紀年詳カナラズ。本尊ハ虚空蔵菩薩ニシテ
其尊像ハ行基菩薩ノ作ナリト言ヒ傳フ。」


他の資料でも成田市の指定文化財となっている「虚空蔵菩薩坐像」を本尊としていますが、
小倉 博氏は本尊は「大日如来」であると記しています。(「成田の史跡散歩」P91)


正蔵院ー6

「公津村史」には次のような記述もあります。
「本院ハモト千葉家ノ祈願寺ニシテ檀家ト云フモノナカリシカバ、當區全戸数ハ
三十二戸ナルモ其多クハ法華宗ニシテ、東勝寺(真言宗)ニ属スルモノ僅カニ
五、六戸ニ過ギズ。」

「明治維新ノ際初メテ檀家ヲ募リ、追々増戸、現今ハ成木新田及飯田新田ニ於テ約
二十戸ノ檀家ヲ有ス。」


「正蔵院」は現在は宗吾霊堂として知られる東勝寺(真言宗)の末寺ですが、千葉氏の
祈願寺であったため、檀家を持っていませんでした。
もともと区内の32戸の多くが法華宗徒で真言宗徒は5、6戸でしかなかったようです。
明治時代になってから檀家を募り、以降その数を増やしてきました。


正蔵院ー8

本堂脇に建つ石板には次のようにあります。
「当院境内に勧請し奉る智恵福徳の広大無辺な虚空蔵菩薩は日本最初の大僧正に
なった人、行基(西暦670-749)の彫刻で福智授与の誓願安産・育児の霊験、殊に
あらたかにして現に数万の信徒を有する当山は天平十一年(738)行基の開山にて
境内幽遂老杉天を摩し、堂閣荘重、古色蒼然、実に森厳なる霊地なりしが、惜哉、元禄
年間火災に被り全焼烏有に帰せり、今の本堂は大正十五年に再建されたものである。」

(原文のまま)


境内には本堂より立派に見える「虚空蔵堂」があります。

正蔵院ー1
正蔵院ー2
正蔵院ー16

このお寺は「江弁須の虚空蔵様」として知られています。
福徳と知恵が授かり、安産・育児の神様として、多くの信者が「虚空蔵堂」を訪れます。

「効験甚ダ顕著ニシテ主ニ福徳知恵ヲ得セシメ、就中婦人ノ安産小児ノ健全ヲ守護シ給フ、
現ニ千人ノ信徒ヲ有シ縁日ハ毎月十三日ナルモ𦾔暦正月十三日ノ如キハ信徒群衆區内
挙テ饗應ニ奔走ス。」
 (公津村史)


正蔵院ー3

享和四年(1804年)と刻まれている手水盤。


正蔵院ー4

常夜燈には文化十三年(1816年)と記されています。


正蔵院ー18
正蔵院ー19
正蔵院ー20

本堂の前にスダジイの古木があります。
根元は空洞化し、わずかに根元が残っているだけですが、上部には葉が茂り、
根元からは若い芽を伸ばしています。
すばらしい生命力です。


正蔵院ー11
正蔵院ー15

「虚空蔵堂」の右手にあるお堂には風化でお顔が平たくなった仏様がおられます。
台座にある紀年銘は、文政十一年(1828年)と読めるような気がします。

仏様はお遍路さんが装束の背中に書く「南無大師遍照金剛」の襷を掛けています。
消えかけた木札には「四国霊場第十二番焼山寺移す」とありました。

「焼山寺(しょうざんじ)」は難所で知られる徳島県神山町にある四国霊場十二番の真言宗の
お寺で、ここも「虚空蔵菩薩」が御本尊です。
「のちの世を 思えば苦行焼山寺 死出や三途の 難所ありとせ」との歌も添えられています。


正蔵院ー12
正蔵院ー13

お堂の奥にある小さな墓地。
彫られた文字はほとんど読めませんが、お坊さんのお墓のようです。

正蔵院ー23

「不生位」と読めます。
「不生位(ふしょうい)」とは、真言宗の僧侶の位牌に書かれる「悟りの世界」を表す位号で、
「死は永遠の悟りの世界に入ることである」という意味です。


正蔵院ー24
正蔵院ー25

境内の藤棚を軽快に飛び跳ねているシジュウカラを見つけました。
回りは開発が進んだ住宅街ですから、近くの「皇産霊神社」(前回掲載)とこの「正蔵院」の
森が、僅かに残った羽根を休められる場所なのかも知れません。


正蔵院ー17

正蔵院ー9

「虚空蔵様」と言えば「鰻」ですね。
磐裂神社の項で紹介しましたが、「虚空蔵様」の地域の人々は「虚空蔵様の使い」とされて
いる鰻を決して口にしません。
「虚空蔵堂」の中を覗かせていただくと、鰻が描かれた奉納額がたくさん掲げられています。

「故ニ当區内ノ者は宗旨ノ如何ニ關ラズ、又男女老少ノ別ナク決シテ鰻ヲ食スル者ナク、
他郷ニ転籍スルモ亦同ジ、サレバニヤ彼ノ円滑ニシテ且ツ力アル鰻スラ当區内ノ者ニハ
何處テモ二本指ニテ挾ミ得ル由。」
 (公津村史)

近くの池に棲む鰻は、捕まえられても殺されることがないので、二本指で挟むことができる
と書かれています。
今も池に棲んでいるとすれば、近くの成田山の門前では毎日大量の鰻が消費されている
のですから、何とも幸せな鰻たちですね。
奈土のオビシャとウナギ ⇒


正蔵院ー27


                   ※ 「正蔵院」 成田市江弁須295
                      京成公津の杜駅から徒歩約15分



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公津村の寺社 | 07:53:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
1200年の歴史~江弁須の皇産霊神社
今回は江弁須(えべす)の「皇産霊神社(みむすびじんじゃ)」です。

皇産霊神社ー1

津冨浦、一坪田、臼作など、成田市内に「皇産霊神社」はいくつかありますが、
そのいずれも資料が少なく、ここ江弁須の皇産霊神社に関する資料も、わずかに
「成田市史 近代編資料集一」中の明治17年頃の公津村史に、
「無格社皇産霊神社 臺方字井戸花ニ坐ス。創祀不詳 
              祭事ハ井戸花中ニテ行フ。」

の二行しか見つけられませんでした。
臺方は現在の台方で、当時はこの一帯は臺方に属していたのでしょう。


皇産霊神社ー2
皇産霊神社ー4

「平安時代の西暦800年にさかのぼり、坂上田村麻呂が東方出征の折に
兵糧を確保するため、この地に陣を構え「江弁須」と名付けた。
高御産霊巣日之大神が祭神。
1987年に大規模な改修が行われた。」

(「拝殿建設記念碑」より

「たかむすびのかみ」は、古事記では「高御産霊巣日神」、日本書紀では「高皇産霊尊」と
書かれている「創造」の神様です。
江弁須と名付けた時にこの神社も創建されたということのようです。


皇産霊神社ー5
皇産霊神社ー6


皇産霊神社ー7
皇産霊神社ー8
皇産霊神社ー9

流造の本殿はどっしりとバランスの良い佇まいです。


皇産霊神社ー10

本殿の裏には三つの祠と一つの石柱が並んでいます。
中央の大小二つの祠は「熊野神社」で大きい方には大正7年と記されています。
小さな熊野神社の紀年銘は読めません。
また一番右側の祠は風化が進んでいて、何の神様か分かりません。
五角形の石柱は「地神塔」で、各面に「天照皇太神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」
「大己貴命(おおあなむちのみこと)」「少彦名命(すくなびこなのみこと)」「埴安姫命
(はにやすひめのみこと)」「倉稲魂之命(うかのみたまのみこと)」と刻まれています。
「形状が五角形の石柱であることから、地神塔は一つの石仏のように思われがちだが、
旧公津地区ではそれぞれ五社神という神社として崇拝したのである。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P91)


皇産霊神社ー11

左の格子の中には「天満宮」「子安神」「疱瘡神」が並んでいます。
右側は神輿蔵です。


皇産霊神社ー12

古い神輿です。
今は使われていないようです。


皇産霊神社ー13

天保二年(1831年)の紀年銘がある手水盤。


皇産霊神社ー28

皇産霊神社の参道に添うように二つの神社の参道が並んでいます。
「稲荷神社」と「浅間神社」です。


皇産霊神社ー27
皇産霊神社ー18

「稲荷神社」の参道です。
左側に見えているのは「皇産霊神社」の参道、右側は「浅間神社」の参道です。


皇産霊神社ー14

安政六年(1859年)と記された稲荷神社の手水盤。


皇産霊神社ー19

近年に補修されたようです。


皇産霊神社ー16

「浅間神社」の参道。


皇産霊神社ー15

明治39年と刻まれています。


皇産霊神社ー17

昭和7年の建立です。


皇産霊神社ー20

「皇産霊神社」と「稲荷神社」の参道の間に建つ石碑には、
「公津村江辧須字珎重鎮座 村社皇産靈神社」と刻まれています。


皇産霊神社ー25
皇産霊神社ー26

掘り込まれた参道に石垣を裂いて根を張り、あるいは二本の木の間にあった石を挟んで
持ち上げてしまったり、参道の木々はいずれも大木です。


皇産霊神社ー22
皇産霊神社ー23
皇産霊神社ー3

住宅街の中にありながら、深い森に囲まれた「皇産霊神社」。
深く沈んだ空気が境内を支配しています。


皇産霊神社ー24
 

                  ※ 「皇産霊神社」 成田市江弁須304
                    京成公津の杜駅から徒歩約15分






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公津村の寺社 | 11:00:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
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