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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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再訪~改修なった「成田山・額堂」
しばらくお休みしていましたが、久しぶりに更新します。
まずは、あまり歩き回らずにすむ成田山の「額堂」の再訪から始めます。
更新は、以前のようなペースにはなかなか戻れませんが、これからもお付き合いください。


改修なった成田山の「額堂」を訪ねます。

額堂-96

今回は、大本堂の後ろの階段を登る通常のコースではなく、裏門側から外周路を登ります。


額堂-1

外周路の急坂をあえぎながら登っていると、何となく視線のようなものを感じ、ふと上を見ると、
こんなものが目に入りました。


額堂-3額堂-5

「のぞき小僧」と呼ばれているようですが、由来は全くわかりません。
ニヤリとしたずらっぽい表情で、「のぞき小僧」とは言い得て妙ですね。

石塀に描かれているのは中国の何かの故事のようで、寄進名には左端に大きく「横■■■町
八幡屋彦兵■」、右端には「深川大工町講中」とあります。
下に並んでいる寄進名には全て昭和29年と記されています。


額堂-61

後ろ側が気になって、そばの駐車場の隙間から覗いてみました。
台の上に乗って伸び上がるようにしています。
初めからここにあったのか、後から付けたのか・・・遊び心が感じられる風景です。


額堂-62
額堂-63


額堂-4

周りにはたくさんの石碑、石版が林立しています。
「永代御膳料」「永代護摩料」と記されたものが多く、「壹千圓」「参百圓」「百圓」など、寄進当時
では非常に高額であったであろう金額が書かれています。


額堂-7
額堂-6

人通りはほとんどありませんから、猫ものんびり日向ぼっこです。


額堂-8

「包丁塚」がありました。
「この塚は、長年愛用し使い古した包丁を納めてその功徳に感謝すると共に、調理した
鳥獣魚菜の霊を慰め供養するため建立したものである」

説明板にはこう書かれていました。
何年も何年も使い込み、切れ味が鈍れば砥石で研いでまた何年も使う・・・。
最近はセラミックやプラスチックの包丁がほとんどで、包丁を研ぐ風景ははついぞ見かけなく
なりましたが、こうした供養塚には日本人の感性がとても良く反映されているように思います。


額堂-10

「額堂」は包丁塚の前を右に曲がったところにあります。
長い間耐震補強工事が行われていましたが、工事が終わり、工事囲いは取り払われています。
工事は、東日本大震災で全体が少し右側に傾いたために行われました。

「額堂」は奉納額や絵馬などを掲げるお堂で、文久元年(1861)に建立されました。
「建物は桁行正面が3間(約5.5 メートル)背面は6間(約 11 メートル) で、屋根は入母屋
桟瓦葺です。現在は四方が開放されていますが当初は背面が板壁でした。組物 は平三斗、
中備蟇股、二軒の半繁垂木です。額堂としては虹梁や木鼻など細部まで本格的な建物で、
近世における庶民信仰をあらわす代表建築の一つであります。」
 (成田山ホームページ)

この「額堂」は、正式には「第二額堂」と呼ばれます。
文政五年(1822)に七代目市川團十郎の寄進によって建立された「第一額堂」は、残念なが
ら昭和40年に焼失してしまいました。

「第一額堂」は、寄進した団十郎の定紋の三枡(みます)から「三枡の額堂」と呼ばれました。
「一切経堂の左隣にあった、間口一六・五メートル、奥行九・六メートル瓦葺き入母屋造りの
堅牢な建物で文政四年五月、当山の篤信で梨園の大御所であった七代目市川団十郎が、
当時の金で壱千両を寄進して建立したもので、翌五年一二月一九日に上棟した。 其の折
七代目は門弟一同を引具して登山し盛大なる上棟式を行ったという。 大工棟梁は大塚新八・
道明作兵衛、周囲の牡丹・唐獅子・歌舞伎十八番の「解脱」の景清等の彫刻は長坂猪之助
の刀にして精巧を極めている。」
「中央の柱には、「せったい所七代目団十郎」と書した自筆の招牌を掲げた。 当時は七代目
自ら參詣者に、茶の接待をしたという。 又堂内には七代目の袴姿の石像がある。」

(「新修成田山史」 昭和43年 P126~127)

大正元年(1912)八月の「成田町史」は、二つの額堂について次のように記述しています。
額堂 一切経藏の隣に建てり。間口九間一尺・奥行五間の堅固なる建築にして、文政四年
五月の建設にかかる。 俳優七代目市川団十郎の寄附進せるものなりといふ。 無数の額面
處狭き迠に掲げられ、中央に團十郎の石像を据えつく。」
第二額堂 光明堂の左側に立てり。 間口十間半、奥行五間半あり。 文久元年の建立にして、
多くの額面を掲ぐること前記のものに同じ。」 
(「成田市史 近代編史料集一」 P117)


額堂-11

瓦が新しく葺き直され、懸魚や虹梁も化粧直しされています。


額堂-23

四隅を新たに鉄パイプが支え、これまでの木柱には金属ベルトがはめられています。


「額堂」は二回目の訪問ですが、今回は奉納額を少し詳しく見てみましょう。

額堂-70

南側の全面です。

額堂-72

長い間風雨にさらされて、文字はほとんど読めない状態です。


額堂-64  昭和15年の奉納額

額堂-67
額堂-65 古銭を貼り付けています

額堂-68*額堂-69 

不動明王を現す剣の奉納額が目立ちます。


額堂-86

東側の全景です。


額堂-76

大きな「清元講」の額は大正六年(1917)、「成田山不動明王」と書かれている額は大正九年
(1920)の奉納です。


額堂-77
額堂-78

真ん中の大きな額は大正七年(1918)。
右上の消えかかっている絵馬には、不動明王と明王を拝む女性が描かれているようです。


額堂-79
額堂-80
***********額堂ー31

左下にはお不動様の剣に龍と富士が彫られています。
右下の額に描かれていた絵はほとんど消えていますが、中央にうっすらとお不動様の姿が
浮かんでいるように見えます。


額堂-81

「明治四拾参年」(1910)と読めます。


額堂-82

上の「敬神講」と書かれた額には昭和拾年と記されています。
左上には「心」の文字が浮き彫りされています。
その下の額は昭和6年、右上の「必願成就」と書かれた額は大正十年(1921)のものです。


額堂-83

北側に回ってみます。

額堂-84

「武蔵國北足立郡草加町」と読める明治25年(1892)の奉納額。


額堂-85

凱旋祝と書かれたこの額は「明治廿八年」(1895)と記されています。


額堂-87

西側にもびっしりと奉納額が並んでいます。

中央の大きな奉納額は、大正十三年(1924)のもので、「東京市外入新井町 諸職聯合」と
書かれています。
上に並んでいる二つの奉納額は、左が昭和15年、右が昭和26年のものです。
左にある奉納額には「上毛安中宿永代護摩講」と書かれています。


額堂-88

ひときわ目を引く大正十年(1921)の大きな奉納額には、「永代大般若経 睦會 三十六童子」
と記されています。
三十六童子は不動明王が従える童子で、大本堂裏の斜面にその像が並んでいます。


額堂-89

上に並ぶ三つの額は、「成田山」とある左が明治三十三年(1900)、「御手長」とある真ん中
が明治三年(1870)、右端は読めません。
左下は明治四十三年(1910)のものです。
奉納年は見つかりませんが、右下の奉納額には「不動明王横浜復興講社」とあります。


額堂-91

「額堂」の内部にもたくさんの奉納額・絵馬が掲げられていますが、残念ながら内部に入れない
ため、その一部が覗けるだけです。

額堂-90

昭和42年に東京理器株式会社が奉納した、バリカンとカミソリの奉納額。
この会社は昭和21年の設立(創業は大正十四年)で、現在はハサミに特化したメーカーとして、
東京・板橋で事業を展開しています。


額堂-73
額堂-74

大正七年(1918)に横須賀の料亭「小松楼」が奉納したこの額には、当時の横須賀の様子が
いきいきと描かれています。
「料亭小松」は、明治十八年(1885)創業の老舗料亭で、帝国海軍時代から海軍軍人に利用
され、戦後は米海軍、海上自衛隊にも利用されてきたことから「海軍料亭」と呼ばれています。
額を奉納した当時は海岸沿いの田戸にありましたが、海岸の埋め立てなどのため大正十二年
(1923)に米が浜に移転しています。
残念ながら今年の5月に原因不明の火事により焼失してしまい、、東郷平八郎、山本五十六、
米内光政らの書をはじめ、日本海軍に関する多くの資料も失われてしまいました。


奉納額の他に堂内には、梵鐘、将軍地蔵像、方位盤、七代目市川團十郎像、青銅製大地球儀
が展示されています。
内部に入れないため、柵の外から眺めるだけなのが残念です。

額堂-25

慶應三年(18967)に鋳造された梵鐘で、昭和43年まで門前の町々に時を告げていました。
供出を免れたこの梵鐘は、神田鍋町の藤原国信の作で、912.5キロの重量があります。


額堂-26
額堂-75

勝軍地蔵尊です。
昭和15年にここに設置されたということ以外、この像に関する記述は見つかりません。
「勝軍(または将軍)地蔵」は、甲冑を着け、右手に錫杖、左手に如意宝珠を持って軍馬に跨がる
地蔵菩薩で、この地蔵に祈れば戦に勝つと言われ、鎌倉時代以後,武家の間で信仰されました。
ヨーロッパに戦火が広がり、日本の周辺にも戦雲が漂う時勢を反映した寄進だったのでしょう。


額堂-27

この公園の水飲み場のようなものは「方位盤」といいます。
「この方位盤は群馬県伊勢崎町の佐藤藤三郎氏が奉納したものです。 八角形の図形の内側
には東西南北の文字が、その外側には壬・子・癸 丑・艮・寅 甲・卯・乙 辰・巽・巳・午・丁 未・
坤・申庚・酉・辛 戌・乾・亥の方位を現す十干と十二支の文字が また欄外には放射状にその
方向の地名が、南の方向には東金・勝浦また、辰の方向には八日市場、 卯の方向には銚子
等の地名が記入されています。」
 (新勝寺ホームページ)


額堂-28
額堂-29

第一額堂を寄進した七代目市川團十郎の石像です。
鼻が欠けているのは火災時の出来事だったのでしょうか?
「團十郎の石像は、自身が奉納した第一額堂内にありましたが第一額堂は昭和40年に焼失
した為、石像を第二額堂内の現在位置に移設しました。」
 (新勝寺ホームページ)


額堂-30

青銅製の大地球儀。
「作製は、神田岩井町の紀伊国屋伝七が請負、技師は村田鉄之助、鋳工は大島金太郎。
明治40 年(1907)11月に東京上野の牛肉店の奥平洋三、梅子夫妻が店名の「世界」に
ちなんで、日露戦争の戦勝記念に奉納したものです。 直径 約110cmの青銅製で、子午
環儀の上に23.5度の傾斜をもって設置されていて、大日本帝国の範囲に銀の象嵌を
施していました。 日本帝国を銀色にしたるは目立ちて見せんが為なり、これを看る人能く
注意して此国を思ひ、彌々将来の発展を図り、益々此色を輝かすことに心掛けられたし」
と説明があったようです。」
 (新勝寺ホームページ)

以前は中に入って触ることができましたから、表面がツルツルになってしまい、良く判別でき
なくなっています。
カメラを望遠にして覗いてみました。

額堂-92 
タヒチなどがあるフランス領ポリネシアのソシエテ諸島です。

額堂ー28
アフリカ東海岸のタンザニア沿岸のようです。

額堂ー29
亜米利加(アメリカ)です。


額堂ー33
額堂ー34

見事な龍や獅 子などの彫刻は後藤勇次郎経慶の作です。


額堂-31
***********額堂-32

龍の目には銅製の目がはめ込まれていましたが、今でははこの写真の龍の左目に残っている
だけです。(機会があったら探してみてください)


「額堂」の周りを見渡してみましょう。

額堂-00
額堂-35

裏手には明治二十年(1887)に建立された天満宮と、慶応三年(1867)に建立された
「朝日観音堂」が並んでいます。


額堂-97

「光明堂」です。
元禄十四年(1701)に当時の本堂として建立され、別名「元禄の本堂」と呼ばれます。

新勝寺の本堂は何度も建て直されていますが、現存する最古のものは明暦元年(1655)
に建立された現在の「薬師堂」です。
江戸・深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって建て替え
られた本堂が、この「光明堂」です。
その後、参詣客が増えて手狭になった本堂は、安政五年(1858)に建て替えることとなり、
現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年の間、本堂
としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と呼ばれ
ていますが、それぞれに当時の新勝寺の賑わいぶりがしのばれます。


額堂-98

「額堂」と「光明堂」との間には「三社」があります。
中央に「金毘羅大権現」、左に「白山明神」、右は「今宮神社」です。


額堂-99

三社の隣には「不動三尊像」があります。
真ん中の剣が「不動明王」を表し、向かって左には「制多迦(せいたか)童子」、右には「矜羯羅
(こんから)童子」の像が立っています。
制多迦童子は強さを、矜羯羅童子は優しさを表しています。
真ん中の剣が不動明王を表していますが、二人の童子は不動明王の持つ二つの面、“強さと
優しさ”を表現しています。


額堂-49

「額堂」の向い側には「開山堂」が建っています。
昭和13年に建立のお堂で、新勝寺の開山上人・寛朝大僧正のお姿が安置されています。
寛朝大僧正は、朱雀天皇より平将門の乱平定祈願のため、高雄山護摩堂の不動明王を
捧持して下総に下り、天慶三年(940)に公津ヶ原に成田山を開山しました。


額堂ー40
**額堂ー41

天保四年(1833)に寄進された「成田山絵図」の石碑。
風化が進み良く見えませんが、細かく彫られた精緻な絵図です。


額堂-51

「成田山絵図」の隣にも「不動三尊像」があります。


額堂-33
額堂-20

天満宮の側に昭和58年に建立された二つの句碑があります。
中興一四世貫主・三池照鳳の「節分や 本堂ゆるる 人なみや」と、中興一七世貫主・池田照誓
の「人馬絡繹万戸の村やことし米」です。
以前は、中興十五世貫首・石川照勤の「風凪ぎし雲の切日や皈る雁」と、中興十六世貫首・服部
照和の「霧や深し 天地にあるは 我ばかり」の句碑もあったのですが、大本堂裏から「額堂」や
「光明堂」へ登る石段脇にエレベーターを設置する工事のため撤去されてしまいました。(工事
完了後に戻されるのかも知れませんが・・・)         

額堂-59 工事中のエレベーター
***********額堂-60


額堂-95
額堂-41

「額堂」の前からは「光明堂」の屋根越しに「平和大塔」が見えます。
改修なった「額堂」の内部が解放される日は来るのでしょうか?
隠れている奉納額や青銅地球儀上の日本を是非見てみたいものです。



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成田山 | 07:56:31 | トラックバック(0) | コメント(4)
「福は内」だけの成田山節分会
今回は去る2月3日に行われた「成田山せつぶんえ」の様子をお伝えします。

節分ー13

「節分」は雑節の一つで、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことです。
季節の終わりの日ということになります。
江戸時代頃から、立春の前日のみが「節分」と言われるようになりましたが、本来は年4回
の「節分」があったわけです。
季節の変わり目には邪気(邪鬼)が出ると考えられていて、これを追い払う儀式が行われます。


節分ー1

豆撒きが始まる1時間も前から、お坊さんが節分の由来や本日の手順などを説明しています。
今日の特別ゲストの名前を読み上げると、どよめきが広がりました。
大相撲の横綱白鵬、大関稀勢の里、前頭隠岐の海、前頭遠藤の四力士、NHK大河ドラマの
出演者の井上真央、東出昌大、伊勢谷友介、優香、長塚京三の計9名が地元有力者や
年男らとともに豆を撒きます。


節分ー12
節分ー4
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・節分ー40
大本堂の階段の上には祭壇が設けられ、震災で被災した陸前高田市の杉で作られた
大きな「勝御守」が置かれています。
下は御札売り場で500円で売られている御守り札です。
500円の内の100円が陸前高田市に寄付されます。


節分ー19
節分ー20
節分ー21
境内は人でいっぱいです。
大本堂の階段から香堂に向かって、芝居の花道のように舞台が造られています。
舞台に近い場所にいる人たちは豆を撒く力士や芸能人が良く見え、豆もキャッチできる
でしょうが、身動きできないくらい窮屈そうです。
舞台から遠い人は力士や芸能人は良く見えないでしょうし、豆も届かなそうです。


節分ー2

機動隊員も大勢出て警備にあたっています。


節分ー6
                                            横綱 白鵬
節分ー9
                                            大関 稀勢の里
節分ー7
                                             前頭 隠岐の海
節分ー8
                                             前頭 遠藤

大相撲の力士たちが階段の上に並びました。
さすがに大きな体です。


節分ー24
節分ー25

NHK大河ドラマの出演者たちも記念撮影のために並び始めました。
見物客からは時折黄色い声援が湧き起こります。


節分ー11
節分ー26

豆撒きに参加する年男(女)の皆さんも参加しての記念撮影が始まりました。
こうしてみても大相撲の力士たちは頭一つ二つ抜きん出ています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・節分ー22
節分ー23
節分ー10

お坊さんの吹く法螺貝の先導で大僧正が登場します。


節分ー28

記念撮影の後、本堂内での読経が始まります。
三重塔、一切経堂、鐘楼の前にも大勢の人が集まっていますが、ほんのひと時
スピーカーから流れる読経に聞き入って、動きが止まっています。


節分ー16

この豆撒きは「震災に勝つ!福は内!」と叫びながら行う、「特別追儺豆まき式」です。
この式の他に、年男(女)の皆さんが本堂内のお不動様の前で豆を撒く「開運豆まき」も
行われています。
成田山では「鬼は外!」とは唱えません。
御本尊の不動明王の前では、鬼も改心ししてひれ伏すからだそうです。

この日、撒かれる大豆は860キロ、殻付の落花生が400キロです。
その他にこの日のために用意された「節分會福御守」(剣守)が1095枚(1年の日数の365×
3回の豆まき式)撒かれます。

節分の行事は平安時代の追儺(ついな)が始まりだと言われています。
宮中で大晦日に行われていた「鬼やらい」が変化し、民間に伝わったのでしょう。
宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が都に下りてきて悪さをするので、豆で目を打って
追い払ったという伝説が残っていますが、このころから豆撒きが始まったようです。


節分ー32
節分ー29
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・節分ー30
大きな手で豪快に撒く力士の枡の中はみるみる空になって行きますが、役者さんたちの
枡にはまだ沢山の豆や剣守が残っています。


  憮然とした表情の二人 節分ー15
節分ー17
突然警官の吹く笛で豆撒きが中断されたのです。
誰かが落ちた豆を拾おうとしゃがんだようです。
警備の警官からは倒れたように見えるのでしょう、繰り返し「途中でしゃがまないでください」と
注意がアナウンスされて再開です。


節分ー18
節分ー31
節分ー33

警官の制止もなんのその、湧きあがる歓声と押し合いへしあいの中、豆撒きは終わりました。

節分ー36
節分ー38

次の回に備えて早くも陣取りをする人、御参りを済ませて帰路につく人・・・。
ざわついた境内に豆撒きの余韻が残ります。


節分ー39
                                         撒かれた豆と剣守

ここ30年以上は2月4日が立春で、節分は2月3日でした。
難しいことは分かりませんが、立春は地球が天球上の黄経315°の点を通過する時
なのだそうです。
天体の動きによって決まっているのならば、多少の変動は当然あるわけです。
1980年や1984年は2月4日(立春は2月5日)でしたし、東京オリンピックの翌年の
2021年は2月2日になります。
立春をはじめとする二十四節気、そして節分や彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、
土用、二百十日、二百二十日の九雑節など、日本人は微妙な季節の移り変わりを敏感
に感じて暮らしてきました。
でも、最近の地球温暖化と異常気象のせいか、季節感がなくなってきたように思われます。
それぞれにささやかな祭事があったはずですが、その多くは忘れられてしまいました。
「節分」は生き残っている数少ない祭事ですが、なんとか後世に伝えて行きたいものです。




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成田山 | 07:55:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
「神明山」から「現本堂」まで~お不動様の旅(4)
お不動様
                                (不動尊像 成田山ホームページより)

(お不動様の道を辿る最終回です)

さて、天文年間の前半に神明山に本堂が建立され、お不動様は表参道の米屋裏の
「不動尊御遷座之旧跡」から遷座されました。
「神明山」は現在の成田山の向かい側、信徒会館の裏側に位置する小高い山です。
信徒会館や参道の店舗に視界を遮られ、この山に気付く人はほとんどいません。
今や「忘れられた旧跡」と言えるでしょう。


上町ー13

神明山に登る道は3か所ありますが、いずれも非常に狭く、分かりにくくなっています。
今回は表参道から一本中に入った路地、「神明山通り」から登ってみます。

足跡ー91

神明山通りは、表参道が薬師堂の前で大きく曲がる三差路の脇から、右に入る路地と
交わる辺りで、突然消えてしまいます。
これがその場所の景色です。

足跡ー92
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・足跡ー103
足跡ー104

トタンやフェンスの廃材で囲まれた小道がありました。
途中に人家は数軒ありますが、人が住んでいる様子はありません。

足跡ー93

しばらく進むと下に降りる階段になります。


足跡ー95
足跡ー96

階段は途中で「電車道」から上ってくる階段と合流して、今度は上りに変わります。
合流点に祠が3つ、明和八年(1771年)と天保五年(1834年)と記されています。
平成23年の大震災で山の一部が崩れ、今も補修工事が続いているようで、
上りの階段にはロープが貼られていました。
人が通らないのでモミジの落葉が積って、赤絨毯のようです。


足跡ー86
足跡ー97


現在の神明山です。
小さな祠がひとつ、ポツンとあるだけで、フェンスに囲まれ立ち入り禁止になっています。
中に入れないので説明板も読めません。
フェンスにへばりついて何とか読んでみると、この祠は「将軍地蔵」をご本尊とする「地蔵堂」
で、普段は空になっていて11月の御祭礼の時だけここにお祀りされます。
地元では「愛宕様」と呼ばれているそうです。


足跡ー100
足跡ー98


小さな台地の向こうに、現在の成田山の本堂や三重塔、総門などが一望でき、参道の
大野屋の望楼が見えます。


残念ながらこの場所での成田山の記録はほとんど見つけることができません。
永禄九年(1566年)に当時の寺台城主、海保甲斐守三吉によって現在の地に諸堂が
再建されるまでは、この神明山に本堂があったと思われます。
(なお、「新修成田山史」には永禄九年というのは諸堂が整備された落慶の式典であって、
“神明山から現在地に移ったのは、天文年間のはずだ”という説が述べられています。)
海保甲斐守三吉については ⇒


足跡ー101

神明山通りからと、電車道からの他にもう一本登り口がありましたが、現在はこの状態です。
以前は参道の菊屋別館の辺りから登れたはずです。
明治40年ごろの地図では愛宕様への階段が描かれています。


足跡ー71
足跡ー72

西参道から出世稲荷に通じる路地を歩くと、木々の間からこの神明山が見え隠れします。
傍からではフェンスに阻まれて見えなかった祠の中が、ここから望遠で見ると良く見えました。
成田山の学問の道 ⇒

神明山はいかにも狭い敷地であったので、永禄九年(1566年)、海保甲斐守三吉らの
尽力により、神明山の向かい側、現在の大本堂の場所に新たに本堂が建立されました。
お不動様もようやく落ち着けたことでしょう。


足跡ー81

そしてさらに約90年後の明暦元年(1655年)に本堂が再建され、水戸光圀公(黄門様)や
初代市川団十郎などが参拝しています。
その時の本堂は、前回紹介した「成田不動尊御遷座之旧跡」から参道を進み、西参道と
台の坂に分かれる三差路に面して建つ「薬師堂」として残っています。

足跡ー82
     (本年3月撮影)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
足跡ー84

元禄十四年(1701年)に新本堂が建立されたため、この建物は「光明堂」として使われ、
安政二年(1855年)にこの場所に移築されて「薬師堂」となりました。

せっかく落ち着いたお不動様ですが、50年も経ずに新本堂に遷座されることになりました。
近在のみならず、遠方からの参拝客も増えたことから、手狭になったためです。



足跡ー78

本堂の建立と共に鐘楼や山門も新たに建てられました。
新しく建立された本堂は安政五年(1858年)に次の新たな本堂が建立されるまで、
150年以上にわたって多くの信者の参拝を受け入れることになります。


足跡ー79
      (本年7月に撮影)    光明堂ー13
光明堂ー3
足跡ー77

お不動様も落ち着いた年月を過ごし、正徳二年(1712年)には「三重塔」が建立、享保七年
(1722年)には「一切経堂」、享保十七年(1732年)には清瀧権現堂、天保二年(1831年)
には仁王門と次々と諸堂が建立されて、大伽藍が形成されました。

その後160年近く経った安政五年(1858年)にさらに次の本堂が完成し、役目を終わった
本堂は「光明堂」となり、それまでの「光明堂」が「薬師堂」にと変わることになります。
この「光明堂」はもともとあった場所(現在の大本堂の位置)から額堂や清瀧権現堂のある
高台に引き上げられました。
ある程度解体してから組み立て直したのでしょうが、当時としては大工事だったでしょうね。

なお、この大工事の間にお不動様は江戸にお出かけになられています。
世に言う「江戸出開帳」です。

足跡ー73


安政五年に建立された新本堂が、現在の「釈迦堂」です。
建立当時はその豪華さが人々を大いに驚かせたと言われていますが、確かにバランスの良い
重厚な佇まいは人々の信仰心をいやがうえにも高めたことでしょう。


x
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・釈迦堂ー31
足跡ー74

110年後の昭和43年、現在の「大本堂」が建立され、旧本堂は、新本堂の横に移動して
「釈迦堂」となります。


足跡ー76

現在の大本堂は、余計な装飾を排した大伽藍です。
「高さは三二.六メートル、内陣の広さは二九六畳といわれる。成田山信仰の中心となる
場所で、内陣の中央奥の須弥檀にご本尊不動明王像が安置されている。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博 著 P55) 

境内ー20
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・境内ー16
足跡ー75

正月には全国屈指の参拝客を集める成田山。
初詣が終わっても、一年中参拝客の途絶える日はありません。

遥か昔、京の神護寺を出てから千年以上の旅を続けて今、参拝客を静かに見守って
おられるお不動様。
これからもずっと私たちを見守り続けていただけることでしょう。


足跡ー85

明暦の本堂はひっそりと薬師堂に ⇒
元禄の本堂-光明堂 ⇒
釈迦堂に棲む鬼 ⇒
正体見たり釈迦堂の鬼 ⇒




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成田山 | 09:25:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
「御遷座旧跡」と「不動尊旧跡」~お不動様の旅(3)
お不動様
                                (不動尊像 成田山ホームページより)

お不動様の旅はまだまだ続きます。

寛朝大僧正による祈祷の効もあってか、将門の乱も治まり、天皇から寺号も賜った「新勝寺」
でしたが、時が経つにしたがって次第に人々からは忘れられて行き、荒れ果ててしまいます。
見かねた近郷の名主たちが集まり、相談の結果、お不動様を成田村の名主諸岡三郎左衛門
の屋敷内に移すことになりました。
以後、お不動様はこの場所で大切にお祀りされていました。

足跡ー58

「成田不動尊 御遷座旧跡」の碑。
昭和41年に建立されました。


足跡ー59

「不動の大井戸」。
三郎左衛門は、霊水が湧き出ると言われた近くの大井戸から毎朝水を汲んでお不動様に
お供えしました。
その井戸はもう埋められてしまいましたが、同じ水脈より湧出する清水を「不動の大井戸」と
名付けて今日に伝えています。
三郎左衛門は羊羹の米屋の創業者の遠縁にあたる人物で、その屋敷跡は米屋總本店の
の裏側にある、ここ「お不動様旧跡庭園」のあたりになります。

お不動様は現在の成田山の向かい側にある神明山に本堂が建立されるまで、この場所に
留まることになります。


表参道ー8

米屋は表参道のほぼ中間点にあり、一年中参拝客がお土産を求めて来店します。


表参道ー31
表参道ー30

総本店の裏に工場があり、その工場敷地の中に「お不動様旧跡庭園」はあります。
案内板はあるのですが、店舗とは仕切られた工場内なので、ちょっと入りにくい感じがします。


足跡ー57

平成4年に建立の「平成水守り不動」。
裏側に「大本山成田山新勝寺貫主 照硯 開眼」と記されています。
この庭園を守護し、「不動の大井戸」の水源を守っていただくよう願って建立したと、
米屋のホームページに書かれています。


足跡ー60
足跡ー61

小さな庭園ですが、いつもきれいに清掃され、手入れされています。


お不動様が諸岡家屋敷内から神明山へ遷座した年代は不明ですが、小倉 博氏の著書
「成田 寺と町まちの歴史」(聚海書林)によれば、 
「遷座年代は不明だが、天文年間(一五三二~五五)に千葉郡生実の大厳寺の道誉
上人が参拝したとの記録があるので、それ以前のことと思われる。」

とあります。(参拝したのは神明山)
神明山はとても狭かったので、永禄九年(1566年)には現在の成田山の場所へ遷座した
のですが、いくら狭かったとはいえ、せっかく建立した本堂をわずか十年や十五年で放棄
してしまうとも思えません。
道誉上人は、享禄四年(1531年)に和泉国(大阪)から関東に下って修行し、帰国。
しばらくして再び関東に下った際、成田山にて21日間の断食修行を行い、天文二十年
(1551年)に大厳寺の開山となりましたから、成田山で修業した時は大厳寺開山の
前ということになります。
諸岡家の屋敷内から遷座したのは天文年間の早い時期だったと私は推測しています。



さて、もう一か所忘れてはならない場所があります。

足跡ー56

ここは「不動尊旧跡」と呼ばれる場所です。
安政五年(1858年)、新勝寺の新本堂(現釈迦堂)が完成し、その入仏供養の行列が
ここから出発しました。
元禄十四年(1701年)の新本堂(現光明堂)の入仏供養は、前回訪ねた不動塚から
出発しましたが、その後この地が幕府直轄領となったため、約1.7キロ離れたこの地に
仮の安置所を設け、ここから出発したのが始まりです。

現在でも7月の祇園祭では、ここから神輿と稚児行列が出発して始まります。

祇園ー15 今年の祇園祭でのお稚児さんと神輿
祇園ー17


足跡ー43
足跡ー45
足跡ー51

中央に小さな祠がありました。
失礼して中を覗かせていただきました。


足跡ー47
足跡ー49

慶應四年(1868年)と明治4年の「永代護摩木山」と刻まれた石碑。
護摩木山とは護摩木になる杉を切りだす山のことで、山ごと寄進されるものです。


足跡ー53
足跡ー54

足元には京成本線、その先にはJR成田線の線路が見えています。
見えている陸協は「阿利耶(ありや)」という難解な仏教語がついた「阿利耶橋」です。


足跡ー55

落葉の季節ですが、きれいに掃き清められていました。
新本堂の入仏供養のために、一時的に使われただけの場所ですが、
成田山新勝寺と地元の人々に大切に守られていることが分かります。


次回は神明山から薬師堂(明暦の本堂)、光明堂(元禄の本堂)、釈迦堂(安政の本堂)、
そして現在の大本堂へとお不動様の旅を追いかけます。


足跡ー69
・・・・・・・・・足跡ー68


             ※ 「お不動様旧跡庭園」
               JR・京成 成田駅から表参道を徒歩5~6分
               なごみの米屋本店内を抜けて裏に出られます。
             ※ 「不動尊旧跡」
               JR・京成 成田駅から徒歩約15分
               駐車場はありません。




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成田山 | 08:17:00 | トラックバック(0) | コメント(3)
成田山発祥の地「不動塚」~お不動様の旅(2)
お不動様
                                (不動尊像 成田山ホームページより)

前回に続いてお不動様の旅の跡を辿ります。

さて、寛朝大僧正は尾垂ヶ浜に上陸後、公津ヶ原まで進み、その地で将門の乱を
鎮めるべく、21日間の祈願を行うことになります。
奇しくも祈願の最終日に将門が藤原秀郷、藤原為憲、平貞盛らに討たれ、さしもの
大乱も治まりました。


足跡ー63
祈祷を行う寛朝大僧正(成田山ホームページより)


足跡ー26

寛朝大僧正が祈祷を行ったとされる場所は「不動塚」と呼ばれています。
並木町のJR踏切のそばには小さな祠があり、中に石のお不動様が立っています。


足跡ー28
足跡ー27
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・足跡ー29

昭和16年にこの像は建てられました。
長い間野ざらしになっていたのでしょうか、風化が進んでいます。


足跡ー30

「成田山舊跡 不動塚之碑」と刻まれたこの石碑は明治17年に建てられました。

将門の乱が平定され、寛朝大僧正が都へ帰還する際に、なぜか不動明王像が
全く動かなくなりました。
その時の様子を「新修成田山史」(成田山新勝寺編 P15)にはこう書かれています。

「兵乱既に治まりしを以て、僧正再び尊像を俸持して都に還らんとせしに、重きこと盤石の
如く、僧正未曾有の想をなし、合掌瞑目至心に黙禱せしに明王髣髴として告げ給わく、
『夫れ衆生は無辺にして、我が願も亦尽くることなし。儻し深信機熟の者あらば、処として
応ぜざるなし、我復び京師に還るを願はず、永く此の地に留りて東国の逆徒を鎮押し
渇仰の輩を利益せん』と。」 


この話を聞いた天皇は大いに感動し、「新たに勝った」という意味を込めて、「神護新勝寺」の
寺号を与えてこの地に堂宇を建て、不動明王を祀りました。
天慶三年(940年)のことです。

これが成田山の始まりです。

「こうした縁故から、成田山が元禄十四年(1701)に新本堂(現光明堂)を建立したとき、
この不動塚から御本尊の入仏供養の行列が出発したという。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博 著 P87)


足跡ー31

一応、手水舎になっていますが、手水盤には水は無く、刻まれた文字も読めません。


足跡ー35
足跡ー32

さして広くもない境内の手水舎の傍に小さな石仏が置かれています。


足跡ー33

この祠には「十九夜様」と書かれた木札が掛っています。
十九夜様(十九夜講)とは、安産や子供の健康を祈って、地域の女性が旧暦の
十九日に集まって、如意輪観音に灯明や線香をあげて十九夜念仏を唱える
風習です。


足跡ー34

祠の中におられるのは如意輪観音さまと思いきや、右手で如意宝珠ならぬ赤子を抱く
子安観音さまのようです。
やさしく微笑んで赤子を見つめています。


足跡ー36

不動塚に並んで小さな金刀比羅神社があります。
地図を見ると不動塚の表示は無く、金刀比羅神社のみが表示されています。
お不動様は間借りしている感じです。


足跡ー38
明治45年奉納の手水盤  足跡ー37


足跡ー40

寛朝大僧正がこの地で将門の乱の平定を祈願し始めた天慶三年一月頃には、平貞盛
と藤原秀郷が4千の兵を集めて将門軍を攻め破りました。
貞盛・秀郷軍が二月半ばに将門の本拠である石井に攻め寄せた時には、将門軍には
わずか4百の兵しか残っていませんでした。
攻め手には藤原為憲も加わって、連合軍と将門の決戦が始まります。
強風が吹き荒れる中、風上に立った将門軍は弓矢による戦いを優位に展開し、圧倒的に
数の優位を持つ連合軍を退けます。
しかし勝ち戦の中、自陣に引き上げる将門は、急に風向きが変わって反撃に転じた連合軍
によって放たれた矢を額に受けて討死してしまいます。
戦場から遠く離れた公津ヶ原では寛朝大僧正が21日間の祈祷を終わるころでした。


足跡ー39

成田山発祥の地とか、神護新勝寺に関する説明板は無く、不動塚は踏切脇の道端に
金刀比羅神社と同居しています。
厳密にこの場所であったかどうかはともかく、この場所に由緒あるお寺があったとは
とても思えません。

今では千葉県内のほか、北海道から沖縄まで、成田山の別院、分院、末寺、教会は
71ヶ所に上ります。
これほどの大寺院の発祥の場所としては、寂しい景色です。


足跡ー64


お不動様の旅はまだ続きます。
次回は表参道の「なごみの米屋」裏にある、「成田不動尊御遷座旧跡」と、不動が岡にある
「不動尊旧跡」を訪ねます。


                ※ 不動塚  成田市並木町
                   京成電鉄公津の杜駅から徒歩約30分
                   京成成田駅から千葉交通バス八街(やちまた)行き
                   並木町下車徒歩約5分(1時間に1本程度の運行)



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成田山 | 19:31:46 | トラックバック(0) | コメント(2)
お不動様上陸の地「尾垂ヶ浜」~お不動様の旅(1)
お不動様
                                
成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼
(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。
成田山では、この霊験あらたかな御本尊不動明王の御加護で、千年以上もの間、
御護摩の火を絶やすことなく、皆さまの心願成就を祈願してきました。

                               (成田山新勝寺ホームページより)


今回はこの成田山新勝寺のご本尊、「不動明王」が現在の大本堂に鎮座されるまでの
長い「旅」を4回にわたって追跡してみます。

天慶二年(939年)、平将門が関東で兵を挙げ、自らを新皇と称して朝廷に反旗を翻し、
関東は混乱の極みにありました。
時の朱雀天皇はこれを鎮めるべく、諸寺に調伏の祈祷を命ずるとともに、藤原忠文を
征東大将軍に任じて追討軍を向かわせ、あわせて寛朝大僧正に京の高尾山神護寺の
護摩堂にあった不動明王像を与えて、関東に入って調伏の祈祷を行うよう命じました。

寛朝大僧正(916~998)は真言宗の僧で、父は宇多天皇の皇子・敦実親王。
真言宗の僧侶としては初めて、日本では三人目の大僧正となり、洛外・広沢に遍照寺
を開いています。

寛朝大僧正は不動明王を奉持して大阪から船に乗り、房州の尾垂ヶ浜(おだれがはま)
に上陸しました。

足跡ー23
不動明王上陸の図(成田山新勝寺ホームページより) ⇒


足跡ー22

ここが尾垂ヶ浜(おだれがはま)です。
九十九里浜の中央よりやや銚子寄りの海岸で、横芝光町にあります。
付近には堀川浜、木戸浜、屋形、殿下等の海水浴場が並んでいますが、この浜には
ただ太平洋の波が打ち寄せるだけで、何もありません。


足跡ー1

海岸線から100メートルほど入ったところに「成田山」の額束が懸った鳥居があります。


足跡ー4

「成田山御本尊不動明王御上陸之地」とありますが、なにせ今から千年以上も
前のことですから、海岸線は現在よりもずっと内陸部にあったと思われます。
海上(うなかみ)、干潟、春海等の地名が、現在の海岸線よりだいぶ内陸にある
ことや、○○新田(しんでん)と付く地名が海岸近くに多くみられることからも
推測できると思います。


足跡ー2

鳥居の傍に建つ昭和36年1月建立の「殉職碑」。
「流るる雲よ 打ち寄する波よ しばしとどまりて聴け~」と始まる碑文には、
昭和35年8月8日にこの近くの海岸で遊泳中に溺れた子供たちを救って、
自らは海中に沈んだ市原幸治郎氏を悼む言葉が記されています。


足跡ー3

遠くに見えるのは不動明王像でしょうか?
まっすぐ続く道の両側には二十数本の桜の木が植えられています。
それぞれの木には寄進者の名前と年齢が記されていますが、寄進は昭和53年と
なっており、寄進者の年齢は85歳、81歳、78歳などと、いずれも高齢の方たちです。
失礼ながら大部分の方はすでに亡くなられているでしょうが、こうして名前の付いた
桜が毎年咲くことを想って植えられたのでしょう。
海岸近くのせいか、30年以上の樹齢のわりには成長が遅いようですが、来年も
きっとささやかながら綺麗な桜並木を見せてくれると思います。


足跡ー7
足跡ー8

不動明王像です。
10メートルはあるでしょうか。
台座には「浪切不動尊」と記されています。
首をやや右に傾け、左眉を吊り上げて、海の方角を睨んでいます。


足跡ー9

「成田山御本尊 不動明王 御上陸之地」と記された石碑は、昭和38年に建立され、
「大本山成田山貫主 大僧正照定 謹書」とありました。
現在の橋本照稔貫首の3代前、第18世の貫首です。


足跡ー5
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・足跡ー6

ここから見える海には、ただ水平線が広がっています。
寛朝大僧正はなぜこの海岸に上陸したのでしょう?
現在とは違う地形だったのでしょうか、それとも、“たまたま”だったのでしょうか?


足跡ー11

「成田山御本尊 御上陸記念碑」の裏には、この場所を整備するために寄付をした
人たちの名前がびっしりと記されています。


足跡ー13

海に向かって降りてみます。
この海岸はウミガメの産卵地であり、コアジサシの営巣地でもあるようで、車やバイクの
乗り入れが規制されています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・足跡ー14
足跡ー15

看板のそばを、注意を無視した車輪の跡が・・・
残念ながら心無い人たちはどこにでもいます。


足跡ー16

はるかに見えるのは日本のドーバー・屏風ヶ浦です。


足跡ー18
足跡ー20
足跡ー21

上陸の時もこんな穏やかな海と、砂浜の景色だったのでしょうか?


足跡ー10

この地に上陸した不動明王はいよいよ将門の乱を鎮めるため、内陸に向かいます。

次回からは幾多の変遷を経て現在の成田山に鎮座されるまでの足跡を追います。


足跡ー25


                   ※ 尾垂ヶ浜  横芝光町尾垂
                      JR横芝駅より循環ひかり号バス 尾垂浜下車徒歩5分
                      (1日3本程度しかありませんので車をおすすめします)



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成田山 | 07:48:49 | トラックバック(0) | コメント(2)
成田山の火渡り修行(紫灯大護摩供)
成田山新勝寺では5月、9月、12月に野外で行う御護摩祈願の紫灯大護摩供
(さいとうおおごまく)が行われます。
今回は9月28日に行われた紫灯大護摩供と火渡り修行の様子をお伝えします。
東日本大震災以来、成田山では事あるごとに震災復興祈願を行ってきましたが、
今回も陸前高田市の高田松原の松をお焚きあげして、物故者の供養と被災地の
復興を祈願しました。

火渡り修行ー1
火渡り修行ー5

大本堂と釈迦堂の間の広場に祭壇が設けられ、果物と野菜、お餅などが
供えられています。


火渡り修行ー2
火渡り修行ー4

火を使う行事ですから、万一に備えて消防車が待機しています。


火渡り修行ー3

見物客が続々と集まってきます。
集まり方を見ていると、この修行を見物するために成田山に来たというより、
たまたま参拝しに来たら幸運にもこの修行に出会った、という人の方が多い感じです。


火渡り修行ー9

お坊さんが、この修行についての解説を始めます。


火渡り修行ー11
火渡り修行ー12
火渡り修行ー13

修行が始まりました。
修験者が四方に向かって弓を引き、刀をかざしたりしています。


火渡り修行ー14

お坊さんの右手には護摩札が積まれています。
この後この護摩札のお焚き上げが行われます。


火渡り修行ー15

高く積まれたヒバの枝に火が点けられます。


火渡り修行ー16火渡り修行ー17
火渡り修行ー18

燃え上がる炎に向かって見物客が合掌していますが、風向きによっては
それどころではなくなります。

私は少し離れた大本堂の回廊から見ていますので、煙にまかれることはありません。


火渡り修行ー19
火渡り修行ー21

ある程度炎が回ると煙は少なくなり、護摩木の投げ入れが始まります。


火渡り修行ー22

見物客の手荷物を修験者が預かって炎にかざし、厄除け祈願をします。


火渡り修行ー24

火勢が弱まると、燃えカスを叩いてならし、火渡りの準備をしています。


火渡り修行ー25

風が吹くと消えたはずの炎がまた上がり、なかなか鎮まりません。


火渡り修行ー26

いよいよ火渡りの始まりです。
最初にわたる修験者が精神を集中させています。
火渡り修行は正式には火生三昧耶法(かしょうさんまやほう)と言い、心を静めて集中し、
お不動様と一体となる修行です。


火渡り修行ー27

修験者が火渡りを始めると見物客からどよめきが上がりました。


火渡り修行ー29
・・・・・・・・・・・・・・・・火渡り修行ー30
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・火渡り修行ー31

精神を集中し真ん中をゆっくりと歩けば、それほど熱くはないそうです。
ただ、あせって早足になると真ん中を外れてまだ熱い部分を踏むことになり、足の裏が地面に
平行に出せないため燃えカスを掘り返してしまい、結局熱い思いをしてしまいます。


火渡り修行ー32

でも、どうしても途中から走ってしまいます。


火渡り修行ー28

修行が足りないとこうなります。


火渡り修行ー34
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・火渡り修行ー33

ただ一人の女性修験者は合掌を崩さず見事に渡りきりました。


火渡り修行ー35
火渡り修行ー36

希望すれば一般の方も火渡りを行えます。
しっかり渡る人も少なくありませんが、時間が経っているので、修験者が渡った時よりは
熱さもさほどではないようです。
それにしても見事な渡りっぷりでした。


火渡り修行ー37

火渡りの一般参加者は女性の方男性よりも多いように見えます。


火渡り修行ー38

渡り終わった人たちは水で足を洗ったり、冷やしたりしています。


火渡り修行ー39

勇気ある小学生の渡り。


火渡り修行ー40

こんな見物客もまじっていました。


火渡り修行ー7

釈迦堂の火伏せの鬼もじっと見守っています。


火渡り修行ー41

火渡りの希望者は長い列を作って順番を待っています。
その列は釈迦堂の前を通り過ぎて、裏門の方まで続いていました。


火渡り修行ー23

9月は成田山のお参り月、そして毎月28日はご縁日です。
普段は格子の間から拝む本堂裏の大日如来像も御開帳になっています。


火渡り修行ー42

火渡り修行が行われている間にも、お参りの人が途切れることはありません。




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成田山 | 07:26:37 | トラックバック(0) | コメント(4)
元禄の本堂―光明堂とその周辺
光明堂ー1

「光明堂」は元禄十四年(1701年)に当時の本堂として建立されたもので、
別名「元禄の本堂」と呼ばれ、大本堂の裏手の小高い場所に額堂や開山堂、
清瀧権現堂などとともに建っています。

成田山の本堂の歴史は建立と移転の歴史です。
成田山新勝寺は、朱雀天皇から平将門の乱を平定せよとの勅命を受けた寛朝大僧正が、
護摩祈祷の法でこれを平定した天慶三年(940年)の開山ですが、
その後長く忘れられたお寺でした。
幾度かの変遷を経て現在の地に遷座した後に、建立された本堂としては、
現存する最古のものが明暦元年(1655年)に建立された現在の「薬師堂」です。
その後江戸深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって
建て替えられた本堂が、この光明堂です。
約一世紀半の間にさらに参詣客が増え、手狭になったこの本堂は、
安政五年(1858年)に建て替えることとなり、現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年間、
本堂としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と
呼ばれるのは、こうした歴史があるからです。


光明堂ー3
光明堂ー4
                            光明堂ー12

本堂の中央に大日如来、左に不動明王、右に愛染明王が並んでいます。
愛染明王には縁結びのご利益があると言われていて、
成田山の中ではここは若い男女の御参りが目立ちます。


光明堂ー21

絵馬には愛染明王像が描かれ、思いを込めた札がびっしりと掛けられています。


光明堂ー22
光明堂ー6
                             光明堂ー23
光明堂ー26

色あせてはいますが、往時は華麗な装飾に人々は目を奪われたことでしょう。                       


光明堂ー11
光明堂ー27
光明堂ー25

お不動様を象徴する剣の扁額が目立ちます。
かろうじて読めるものには、享和二年(1802年)、嘉永元年(1848年)、
嘉永三年(1850年)などの年号があります。


光明堂ー24

右の壁面にはひときわ大きな奉納額がはめ込まれています。
「佛説聖不動経」とあり、安政三年(1856年)と書かれています。


光明堂ー16
光明堂ー17
                             光明堂ー18

光明堂の向って右側には「清瀧権現堂」(せいりゅうごんげん)があります。
享保十七年(1732年)に建立され、清瀧権現と地主妙見が祀られています。

右側の白い建物は祇園祭で活躍した御神輿が納められている御神輿蔵です。


光明堂ー31

裏手に回ってみると、拝殿・本殿ともに華麗な装飾です。
天明八年(1788年)、安政五年(1858年)に大幅な補修が行われました。


光明堂ー19

風雪に削られた狛犬はなかなかリアルです。


光明堂ー15

光明堂の手前左側には金毘羅大権現を中心として、
左右に今宮神社、白山神社の「三社」があります。


光明堂ー14

三社の隣には制多迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんから)童子の像が立っています。
制多迦童子は強さを、矜羯羅童子は優しさを表しています。
真ん中の剣が不動明王を表していますが、二人の童子は不動明王の持つ二つの面、
“強さと優しさ”を表現しています。


光明堂ー10

「奥之院」は光明堂の裏にあります。
年に数日の開扉を除いて、常に暗い洞窟の中に大日如来がおられます。


光明堂ー13
光明堂ー8光明堂ー2

縁結びで有名になるのは、本意なのか、不本意なのか。
成田山の一角に建つ光明堂は貫禄充分な佇まいです。
さすが約一世紀半にわたって本堂として使われてきたお堂です。




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成田山 | 07:35:38 | トラックバック(0) | コメント(2)
額堂とその周辺
成田山の大本堂に向って左側の階段を上ると、「額堂」が見えてきます。

額堂ー16

この「額堂」は文久元年(1861年)に建立されました。
以前は「三重塔」前にも七代目市川団十郎が寄進した額堂がありましたが、
残念ながら昭和40年に焼失してしまいました。

額堂ー17

くすんではいますが、龍や獅子の彫刻は見事なもので、
江戸深川の後藤勇次郎経慶の作です。


額堂ー33
額堂ー34
額堂ー35

その躍動感に圧倒されます。


額堂ー18
額堂ー7
                            額堂ー6

奉納額や絵馬が所狭しと並んでいます。
建立当初は背面が板壁で囲まれていましたが、今は四方を開放しています。
残念なことに、東日本大震災の影響で、現在は中に入れません。


額堂ー31

正面の扁額は採色がすっかりはげ落ちて何も読めませんが、
なぜかお不動様のお姿だけは何んとなく分かります。
とても不思議で、ありがたく思えます。


額堂ー37

願いがかなった方、信心深い方、それぞれの想いがこもった扁額の数々です。


額堂ー4

焼失した三重塔脇の額堂を寄進した七代目市川団十郎の像です。
この団十郎は「成田山の表参道を歩く(2)」で紹介した、
天保の改革でスケープゴートにされ、「延命院」に身を寄せていた、あの団十郎です。
成田山と歌舞伎の「成田屋」との深い縁をここにも見ることができます。  


額堂ー5
額堂ー28
                             額堂ー29
青銅製の大地球儀があります。
以前は中に入って触ることができましたから、表面はツルツルになって
良く判別できなくなっています。(私も何度か触ったことがあります)
遠くて見えないので望遠で覗いて見ました。
上は多分アフリカ東岸の島々、下はアメリカです。


額堂ー12

昭和48年まで「三重塔」のそばの鐘楼に吊るされていた梵鐘です。
今はここで静かに休んでいます。


額堂ー15

金網に囲まれて良く見えませんが、「勝軍地蔵尊」です。
昭和15年にここに設置されました。


額堂ー1
額堂ー13額堂ー11

背面にもビッシリと扁額が掲げられています。


額堂ー8

「額堂」の横には「天満宮」と「朝日観音堂」が並んでいます。
「天満宮」は明治20年に再建されたもので、ご祭神は菅原道真公です。


額堂ー10

「朝日観音堂」は慶応三年(1867年)に建立され、ご本尊は朝日観音菩薩です。


額堂-20

「額堂」の周りには歴代貫主の句碑が並んでいます。
どれも独特の字体(草書体)で読み難いのですが、
「風凪し 雲の切れ目や皈る厂(雁?)」
「人馬絡驛 万戸の村や ことし米(?)」
の二句が何んとか読めました(?)。


額堂ー23

額堂の向いには「開山堂」です。
成田山新勝寺の開山上人、寛朝大僧正のお姿を安置しているお堂で、
昭和13年に建立されました。


額堂ー25
額堂ー26

装飾の無い質素な作りですが、バランスの良い堂々とした造りです。


額堂ー40
額堂ー41

「成田山絵図」の石碑がありました。
風化が進み良く見えませんが、細かく彫られた精緻な絵図です。
天保四年(1833年)に寄進されたものです。
もう少し良く見えれば、現在との違いが分かっておもしろいのですが・・・。


額堂ー2

「額堂」は成田山の中では異彩を放つ建造物です。
中には入れれば扁額の一つ一つを読んで楽しむこともできるのでしょうが、
外から腰をかがめて覗きこむのも一興です。


             

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成田山 | 08:20:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
大本堂の周辺をぶらつく
大本堂、釈迦堂、三重塔、一切経堂、鐘楼、と紹介してきましたが、
広い境内にはまだまだ見所があります。

境内ー2

「石摺(いしずり)不動尊」です。
分かりにくい場所にありますが、仁王門から階段を上って香閣の前を右に行き、
東門への階段の手前を右に入ります。

文政十年(1827年)照胤上人によって建立され、
天保十三年(1842年)に照阿上人が再開眼したと裏面に書かれています。


境内ー1

現在は禁止されていますが、以前はこのお不動様の像に墨を塗って
拓本のようにして写し取り、お札代わりにしていたそうです。


境内ー3

石摺不動尊から下を眺めると、前々回に紹介した「こわれ不動堂」が見えます。


境内ー4

前回紹介した一切経堂の後方には「聖徳太子堂」があります。
1992年に建立され、我が国の仏教興隆に尽くした聖徳太子を祀っています。


境内ー5
境内ー6

ずいぶん童顔の聖徳太子ですね。


境内ー8
境内ー7

周りの塀にはずらりと掛け灯篭が並んでいます。


境内ー9

境内のはずれにあるためか、ここに入ってくる人は少ないようです。
塀に囲まれた敷地内には木が一本もなく、ちょっと異質な感じのする空間です。


境内ー10
境内ー12
境内ー13
境内ー14

大本堂の裏手の斜面には不動明王の手助けをする
八大童子や三十六童子、五大明王、役行者等の像が並んでいます。


境内ー15
境内ー16

大本堂に中を覗くと御護摩の最中でした。
堂内は撮影禁止なのでガラス越しにシャッターを切ってみましたが、
ガラス面が反射してうまく撮れません。
場内撮影禁止ですから仕方ありませんね。


境内ー17

なんとか隙間を見つけて、雰囲気だけでもと撮ってみました。


境内ー19
境内ー18

大本堂は周りをぐるっと回ることのできる広い廊下があります。
裏側には大日如来を真ん中に虚空蔵菩薩、聖徳太子像が安置されています。


境内ー23
境内ー20

大本堂の左手、大日如来像のそばの階段を上ると
「額堂」「光明堂」「平和大塔」などがありますが、
今回は大本堂の前を香閣からの煙にむせながら左へ進みます。


境内ー21
境内ー24

見慣れた釈迦堂の前に立つと、左手に真っ白な「聖天堂」が見えます。


境内ー25

秘仏「大聖歓喜天」が安置されています。
この大聖歓喜天は良くインドで見かける象頭人身像です。
子授けの神様として信仰を集めています。


境内ー22

ちょっと戻って釈迦堂の先を右に曲がると「出世開運稲荷」に通じる長い階段が見えます。


出世稲荷ー3

明治21年に再建されたこのお稲荷さんは、
小さいながらいつも熱心な信者で賑わっています。
佐倉城主の稲葉丹後守が宝永年間に寄進した
吒枳尼天(だきにてん)を本尊としています。


出世稲荷ー4
境内ー27

私は十数年前、このお稲荷さんのお賽銭箱のそばで小さな子猫を拾いました。
足を骨折していましたが、与えたエサには見向きもせず、私の後を必死に追ってきました。
十年あまり成田を離れていて久しぶりに帰って来たばかりで、
とても忙しい中でしたが、見かねてそのまま獣医さんに連れて行きました。
以後13年にわたり我が家のマスコットとして幸せに過ごしましたが、
この場所は彼にとって、まさに「開運」の場所だったのです。


出世稲荷ー5
出世稲荷ー7

たくさんの絵馬や狐の置物が並んでいます。
こじんまりしたこの場所は、何かほっとする空間です。


境内-27

帰り道の階段からは成田山の広い境内が見渡せます。
次の機会には「光明堂」や「額堂」、そして遠くに見える「平和大塔」を訪ねたいと思います。



          ※大本堂、釈迦堂についてはすでに書いていますので、
           左欄の「記事の分類とアップ数」中の「成田山」を
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成田山 | 09:34:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
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