参道はこの景色から始まります。

寺台の吾妻橋の袂に、夏草に覆われてわずかに顔を出している石碑がありました。
今までいくら探しても見つからなかった「寺台河岸」の碑です。
説明板がなければ見つけることは難しい場所です。

吾妻橋から根木名川下流を望む

「寺台河岸」とは、「黒川河岸」「山小河(やまこが)河岸」「山六河岸」の総称で、
「黒川河岸」は吾妻橋の上流側、橋の下流側に「山小河河岸」、さらに下流の関戸橋際に
「山六河岸」がありました。
川幅は現在よりも広く、水深もあった昔は、利根川からの水運の起点であったようです。
石碑は「黒川河岸」のみにあり、往時を偲ばせるものは何もありません。

吾妻橋から東参道に入ると右に入る細道があります。
ちょっと登ると民家の軒先が迫り、このまま進んで良いものか迷うほどの道です。
途中にちょっと舗装された部分がありますが、大部分は「けもの道」のような様子です。

片側は崖の急斜面をしばらく登ると視界が開けます。
ここが寺台城址です。
15世紀ごろには千葉氏の支城がこの地にあったと言われています。
室町時代の城主は土屋の大宮神社の項で登場した馬場伊勢守勝政。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に、この城主だった
海保甲斐守三吉は北条方について敗れ、この城も落城しました。

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、
訪ねる人も無い林の中に建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。
「後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。」

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。
足元に気をつけながら坂を下り、東参道に戻ります。

参道の右側に「保目(ほうめ)神社」があります。
7月末に行われる祭例では、御輿を担いで根木名川を渡る「お浜下り」が行われます。


本殿には鞘堂がかけられていますが、見事な彫刻で飾られています。

説明板にある成田市指定文化財の「懸仏」です。
直径17.5センチの青銅製で、中央に千手観音像があります。
下部が欠け、ひびも入っていますが、これは「喧嘩御輿」と呼ばれた「お浜下り」の際に
何度も御輿を放り投げたために壊れたものです。(今は危険なので投げないそうです)

以前に紹介した裏参道と同じく、ありふれた生活道路が続きます。

保目神社からしばらく進むと、「永興寺(ようこうじ)」が見えてきます。
永興寺は曹洞宗のお寺で、ご本尊は「延命地蔵尊」です。
「室町時代の1398(応永5)年に、寺台城主の馬場伊勢守勝政の室である藤松女こと
藤原松女の開祖で、1426年に勝政が七堂伽藍を整備し、丹波国(京都府)の永沢寺3世の
陳庭顕淋を招き開山したという。」(「成田の地名と歴史」成田市発行)
なお、永興寺が所蔵する「木造聖観音菩薩坐像」は鎌倉時代の作とされていますが、
背面に「成田郷安養寺本尊」と記されていることから、成田の地名を確認できる
金石文(金属や石などに記された文字資料)としては最古のものと言われています。

山門横には「不許葷酒入山門」と彫られた石柱が建っています。
これは“臭いの強い野菜を食べたり酒を飲んだ者は入山してはならない”という意味です。

境内は保育園になっていて、かわいい遊具がたくさん並んでいます。
安全でとても素晴らしい環境ですね。

山門の手前左側に「大日如来」の掲額があるお堂が建っています。
享保十五年(1730年)の銘がある石仏で、寺台村の護神として信仰を集めていたものです。
昭和55年にこのお堂を再建して祀った、と書かれた木札が掛っていました。

大日如来のお堂の隣り、参道から見ると正面に「延命地蔵菩薩」のお堂があります。
お堂のそばにはたくさんの石碑が並び、宝暦、文化、弘化などの年号が読めます。

東参道の標識は、私の知る限りこれだけだと思います。
※ 後日、田町を取材していて、公民館の横にもう一つあるのを見つけました。

火の見櫓です。
何か懐かしい風景です。

ちらりと広いグランドが見えました。
成田高校のグランドです。
ここで室伏広治や増田明美が育ったのですね。

成田高校の正門が右手に見えてきます。
成田山新勝寺が運営する私立高校で、中学校、小学校も併設されています。
高校の手前の急坂を少し登ると狭く急な階段が上へ延びています。

相当きつい階段です。


登り切った平地に、小野派一刀流で有名な「小野次郎右衛門」父子のお墓が
ポツンと建っています。
小野次郎右衛門忠明は房州御子神村(現南房州市)の出で、小野次郎右衛門となる前は
神子上典膳と名乗っていました。
小野派一刀流のホームページには、
「伊藤一刀斎景久を一刀流元祖とし、流祖小野次郎右衛門忠明が一刀斎直伝の一刀流の
正統を継ぐ。他の分派・支流と区別するためこの正統に小野派を冠す。忠明は将軍家徳川
秀忠の指南役となる。小野次郎右衛門忠常は忠明の三男。初め忠勝と称す。父に学びその
統を継ぎ次郎右衛門を襲名す。忠常は徳川家並びに多数の門人を指南した。」とあります。
忠明は柳生新陰流の柳生宗矩とともに徳川家指南役となった剣豪です。
ちなみに、北辰一刀流はこの小野派一刀流の分派になります。

忠明の墓石には「妙法蓮華経 清岸院妙○霊」と刻まれ、
寛永五年(1628年)の日付が読めます。
また、忠常の墓石には「妙法蓮華経 清海院日岸居士」と刻まれ、
寛文五年(1665年)の日付があります。
墓石の後ろから撮ってみました。
これが父子が見ている景色です。
優しい木漏れ日に包まれて、二人は静かに眠っています。
忠明は元和三年(1617年)に寺台の地頭となっていることから、
この地に埋葬されているのでしょう。


東門が近づいてきました。
参道の右上方に「子安観世音菩薩」の木札が掛ったお堂が見えます。
左側には「水子地蔵」があり、毛糸の帽子に涎掛け、かざぐるまを持った
お地蔵さまが並んでいます。
二つのお堂の間にはいくつかの石仏があり、文化、元禄、享保などの年号が刻まれています。

このちょっと変わった観音様には明和四年(1767年)と刻まれています。

東門の手前を右に登ると「成田山仏教図書館」があります。
明治35年の開館で、貴重な資料を大量に所蔵しています。
名前に似つかぬモダンな建物です。

図書館脇の階段から仰ぎ見る三重塔と一切経堂です。

東門に着きました。
東参道は裏参道と同様に、脇道に興味をそそられる歴史がたくさん隠れています。