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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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世渡り下手な大剣豪「小野次郎右衛門」
【 さて、海保三吉を説得して切腹させたと伝えられる小野次郎右衛門については、三吉と共に
伏見にて御番を務めていた同僚であり、三吉の乱暴狼藉を上司に注進した人物でもあります。
小野派一刀流で知られた剣豪であり、三吉の後に寺台領主となりました。
三吉に絡むこの人物の生き様もまた、大変興味が湧いてきます。】


前回の「海保三吉」の項の最後でこのように記しましたが、早速「小野次郎右衛門」について
追いかけることにしました。

次郎右衛門が海保三吉とともに伏見で務めていた「御番」とは、江戸時代に非役の小普請や部屋
住みの旗本・御家人から選ばれて、小姓組・書院番・大番などに任じられる役職のことです。

剣豪としての小野次郎右衛門は、多くの時代小説の主人公としてその名声をほしいままにして
いますが、今回は「而シテ小野氏本墓何ノ由緒アリテ本村ニ在ルヤ詳ナラス」とまで地元寺台
村の村誌に書かれるほど、領主としての評価が残されていない人物像に迫ってみたいと思います。

剣豪としてではなく、一人の武士として、あるいは一人の人間としての小野次郎右衛門は、どんな
人物だったのでしょうか?


典膳-6
(炭火焼き 山海料理 「隠れ屋敷 典膳」 ホームページより)


千葉県教育委員会のホームページに、小野次郎右衛門に関する一項があります。
【成田山公園に隣接する、永興寺所有の小高い丘の上に、江戸時代初期の剣豪で小野派一刀流
の流祖小野次郎右衛門忠明・二代小野次郎右衛門忠常の墓(五輪塔)が建っている。
小野派一刀流は、小野次郎右衛門忠明により開かれ、柳生新陰流とともに徳川将軍家に採用され
隆盛を誇った流派である。流祖忠明は、房州御子神(現安房郡丸山町)の生れで少年時代を御子
神の地で過ごし、御子神典膳と称していた。たまたま来遊した一刀流開祖の伊藤一刀斎景久に
入門し、修行を重ねた後、一刀流継承をかけた小金原の決闘で小野善鬼を破り、一刀流の正統を
継承した。その後に徳川家康に仕え、母方の小野姓に改め、元和3年(1617)成田市寺台の地頭
となり、寛永5年(1628)12月7日没した。
2代忠常は、3代将軍家光の指南番となり、小野派一刀流の隆盛に大きく貢献し、寛文5年
(1665)12月6日没したのち、流祖忠明とともに永興寺境内に埋葬された。】



地元の寺台村誌(明治十七年)には、小野次郎右衛門に関する記述がほとんどありません。
不行跡を咎められて切腹に追い詰められた前の地頭・海保三吉に関する記述に比して、不自然
なほどの無関心ぶりです。

【 小野忠明墓
本村永興寺ニ在リ。忠明ハ即チ神子上典膳ナリ。弱冠ヨリ刀槍ノ術ヲ好ム。慶長五年信濃
真田ニ戦ヒ七槍ノ誉アリ。後外祖氏ヲ冒シ小野次郎左衛門(右ノ誤リ)ト称ス。三百石ヲ食ム。
而シテ小野氏本墓何ノ由緒アリテ本村ニ在ルヤ詳ナラス。

(「下総國下埴生郡寺臺村誌」 明治17年)

専門家でもない村役人が作成した町村誌には、多くの誤りが記されていますが、この記述に
あるように小野次郎右衛門への関心は、専ら剣豪であったことに集中しているように思えます。


小野次郎右衛門の出身地である、現南房総市・旧丸山町の町史には彼についての記述がくつか
みられますが、剣客としての描写しかなく、人物像に関する史料は見当たりません。

【 御子神典膳は御子神地区岩浪治兵衛(当主岩浪仁氏)の家の出生という。火災のため文書等
は失ったが、屋敷近くに今宮様と称する五輪塔がある。】

(「丸山町史」 平成元年 第八節 近世の村々中の御子神村 P341)

この「今宮様」とは、後述する、典膳によって殺された相模出身の旅の剣客・「今宮勝人」の墓で
あると伝えられています。

【 小野派一刀流は、江戸時代初期の剣豪・小野次郎右衛門忠明により開かれ、柳生とともに德川
德川将軍家に採用され隆盛を誇った。流祖忠明は、安房國朝夷郡御子神村(現丸山町御子神)の
生れで御子神典膳といい、上総國万喜城主に仕え、たまたま来遊した一刀流開祖伊藤一刀斎

景久に入門し、遂に一刀流の正統を継承した。】
【 その後、江戸に出て当時の兵法家小幡景憲によって非凡な剣技を見込まれ、文禄二年
(一五九三)景憲の推挙によって、徳川家康に仕え、二代将軍秀忠の剣法指南役を勤めた。
このころ、家康の命により外祖父の姓を継いで小野氏を名乗り、小野次郎右衛門忠明と改名した。
忠明の忠は将軍秀忠から賜ったと伝えられる。】
【 忠明は晩年、下総國埴生郡寺台村の地頭となり、寛永五年(一六二八)没した。】
【 二代忠常は、三代将軍家光の剣法指南役となり、父忠明に劣らず勇名を響かせ、小野派
一刀流の隆盛に大きく貢献した。寛文五年(一六六五)没した。】


唯一、彼の剣以外の業績について述べられている部分は、
【 流祖忠明と二代忠常の墓は、成田市寺台の保目山永興寺近くの山上(成田高校裏山)に
あり、永興寺本堂には、曹洞宗宗祖道元禅師と並んで忠明の木像がまつられ、地頭としての
優れた業績と同寺の発展への貢献を物語るように、宗祖と同格に中興の祖として崇められている。】

(丸山町史 第七章 郷土の文化 P1380)
しかし、地頭としての業績や永興寺への貢献についての具体的な記述はありません。


典膳-5
(ユーイの航海日誌 「ユーイ・痴郎」 千葉探訪記115 中の写真)

小野次郎右衛門(御子神典膳)生誕の地には彼の記念碑が建てられ、公園となっています。


有名な剣豪の墓がなぜ成田にあるのか?
寺台村の地頭であったというだけで、生誕の地や活躍した江戸の町ではなく、なぜ成田なのか?

埋葬の地とされるほどの寺台村とのつjながりがあるのか?



本ブログの2014年7月「成田山東参道を歩く」の記事中に、小野次郎右衛門父子の墓に関する
記述があります。 (成田山東参道を歩く 2014年7月 ☜ ここをクリック)

【 高校の手前の急坂を少し登ると狭く急な階段が上へ延びています。

東参道ー4  草に覆われ、顔に蜘蛛の巣がかかります。
             相当きつい階段です。  東参道ー5

東参道ー7

登り切った平地に、小野派一刀流で有名な「小野次郎右衛門」父子の墓がポツンと建っています。

小野次郎右衛門忠明は房州御子神村(現南房州市)の出で、小野次郎右衛門となる前は
神子上典膳と名乗っていました。
小野派一刀流のホームページには、
「伊藤一刀斎景久を一刀流元祖とし、流祖小野次郎右衛門忠明が一刀斎直伝の一刀流の
正統を継ぐ。他の分派・支流と区別するためこの正統に小野派を冠す。忠明は将軍家徳川
秀忠の指南役となる。小野次郎右衛門忠常は忠明の三男。初め忠勝と称す。父に学びその
統を継ぎ次郎右衛門を襲名す。忠常は徳川家並びに多数の門人を指南した。」とあります。
忠明は柳生新陰流の柳生宗矩とともに徳川家指南役となった剣豪です。
ちなみに、北辰一刀流はこの小野派一刀流の分派になります。


東参道ー8

忠明の墓石には「妙法蓮華経 清岸院妙○霊」と刻まれ、寛永五年(1628年)の日付が読めます。
また、忠常の墓石には「妙法蓮華経 清海院日岸居士」と刻まれ、寛文五年(1665年)の日付が
あります。
墓石の後ろから撮ってみました。
これが父子が見ている景色です。
優しい木漏れ日に包まれて、二人は静かに眠っています。
忠明は元和三年(1617年)に寺台の地頭となっていることから、
この地に埋葬されているのでしょう。



父子の五輪塔の墓にはそれぞれ次のような文字が刻まれています。

(忠明)   妙法蓮蕐經  寛永五戊辰  清岸院妙達霊  十二月七日
(忠常)   妙法蓮蕐經  寛文五乙巳年  清海院日岸居士  十二月六日了

寛永五年は西暦1628年、寛文五年は1665年になります。



慶長六年九月に寺台村に本領二百石を賜った小野次郎右衛門ですが、「丸山町史」のP1498に
【典膳(忠明)は将軍家の御指南、御側役のため本領地にはほとんど居なかったようである。】
と書かれているように、寺台村との関わりは希薄だったようです。

このへんが、寺台村誌やその他の史料に次郎右衛門の人間性をうかがわせるエピソードを
見つけることができない理由になるのでしょうか。



小野忠明は、大阪冬の陣・夏の陣に参戦をしていますが、同僚の四奉行の戦場でのふるまいが
見苦しいものであったと強くなじったため、奉行達が諸大名が同席している席で将軍秀忠に直訴
し、大騒動になったことがあります。
【 ところが突発的に不幸が起った。典膳が元和元年、大阪夏の陣に諸道具奉行として出陣中、
同僚の神谷、山角、伊藤、石川の諸奉行が戦況不利に陥った時、督戦の事を忘れ兵と共に
動揺した事を誹謗したとして罰せられ、翌年九月閉門と決まり将軍家の側を去ることになる。
同僚奉行の捨て逃げたあと踏み留まって督戦につとめた働きを認められず、他の奉行達の
反論に上司の心無い裁定であった。しかし後に閉門を解かれたと「寛政重修諸家譜」に記され
ている。】 
 (「丸山町史」第八章 人物 P1498)

また、少し名の通った剣士に対して、相手を誹謗中傷する言辞を吐き、勝負に持ち込んで相手を
叩きつぶすようなことがあったり、同じ将軍家剣術指南の柳生宗矩をあからさまに蔑視するなど、
大人げない言動が多く伝えられています。

傲慢不遜というか融通の効かない、偏屈な天才剣士という、次郎右衛門の人物像が伝えられて
いますが、領民との触れあいのない孤独な後半生であったと推測されます。


東参道ー6
                                          (2014年7月撮影)

次郎右衛門の影の部分について、次のような記述を見つけました。

【まず丸山町御子神に語り伝えられる話から書いてみる。その伝説とは、御子神典膳が十七、八才
頃、御子神の村里に一人の旅の武芸者が訪れた。剣術自慢の典膳は早速、武芸申し込んだ申込
んだ。立合った結果は惨憺たるもので、コテンコテンに打ち据えられてしまった。悔しくて仕方ない
典膳は一計を案じた。それは、家の附近の樹に繫いであった牛を態と解き放し、その武芸者に
牛を取り押さえてくれるよう頼んだ。そして武芸者が牛を捕まえようとして、牛に気を取られている
スキを見て、突然斬り掛かり武芸者を殺してしまったという伝説である。】
【また、もう一つは彼の知行地である成田での話であるが、最初彼の領地は下総埴生郡の一部
だったと言われている。そして当時、成田の寺台領主として海保甲斐守という者が居た。甲斐守も
豪勇の士として有名であった。その海保甲斐守を小野次郎右衛門が、自らか?又は、家来に命じ
てか?暗殺したという伝説である。】
 (「考証 小野次郎右衛門忠明」 宇田川秀雄 昭和63年 P27~29)

海保甲斐守の件については諸説あり、
(本ブログ「寺台城の豪傑海保三吉」を参照 寺台城の豪傑 海保三吉 ☜ ここをクリック )
真実は闇の中ですが、この本の著者は、次のように述べています。
【これらの伝承は今迄小説等に書かれてきた、真面目な御子神典膳像や、粗暴なところはあるが
卑怯な振舞を嫌う武辺一本槍の小野次郎右衛門の映像からは想像できない汚れた姿である。
これは私にとっても郷土の英雄の像を汚すことであるから大変残念至極であるが、調査の結果
その様な伝承が在ることが判明したのだから、ここに書きしるすのもやむを得ないのである。】

(同 P29)


どんな人にも明るい部分だけでなく、暗い部分もあるものです。
剣豪としての名声をほしいままにした小野次郎右衛門にも、闇の部分が見え隠れします。
命のやりとりを何度も行ってきた剣客が、その勝負の全てで正々堂々と振舞ったということは
考えられなく、修羅場の中で人には言えぬ卑怯な行為や策略があったはずです。
生き残った勝者は堂々と勝ったことになり、倒した相手の数だけ伝聞が膨らみ、やがて高潔な
人格者としての「剣豪像」が一人歩きして行きます。
小野次郎右衛門がそうであったとは言い切れませんが、人々の記憶からはただひたすら強く、
剣以外の俗事など彼を語るに不要なこととされてきたのでしょう。
諸説あるものの、忠明には忠常をはじめとして三人または四人の子どもがいたようなので、妻
がいたはずですが、ここに触れている文献は見つかっていません(永興寺には次郎右衛門夫妻の
木像が保管されています)。
人々には、彼の人間性や知行地での施策などは記憶に留めるほどの価値がなかったのでしょう。


次郎右衛門が寺台村の地頭となったのは元和三年(1617)ですが、領民には人気のあった海保
三吉が切腹となったのも元和三年。
つまり、次郎右衛門は前地頭の海保三吉が無念の死を遂げた直ぐ後に地頭となり、しかも、諸説
あるものの、海保三吉を追い詰めた張本人と目されていたわけですから、村人達に人気がない
のも仕方ないところでしょう。


天才肌、または一芸に秀でた人の中には、往々にして融通の利かない、付き合いづらい人物が
いるものです。
言わずもがなの一言を言ってしまう、大局に影響ないのに自説に固執する、妥協することができず
組織の内で常に敵をつくってしまう・・・。

徳川家康によって、柳生新陰流の柳生宗矩と一刀流の神子上典膳(小野忠明)の両名は同時期
に200石で召し抱えられましたが、その後柳生宗矩は関ヶ原で2000石に、大坂の陣の後には
3000石に加増されています。
一方、小野忠明は、生涯で600石に加増されたのみです。
世渡り下手な次郎右衛門の生涯を象徴するような結果です。



人並みに野心はあったものの、生来の性格が出世を阻み、並外れた剣の力を活かす場面の
少ないままに人生を終えてしまった剣客・小野次郎右衛門忠明。
その剣名の高さに相応しいとは言えない不遇とも思える一生に、後悔はなかったのでしょうか。


房総風土記の丘に御子神家住宅が移設されています。

風土記の丘ー12
                        風土記の丘ー11
風土記の丘ー13
(房総風土記の丘に移設されている「旧御子神家住宅」)

のどかな上総の農家ですが、このような環境の中からどのようにして剣聖と称される人物が生まれ
たのでしょうか。
どこかがほんの少し変っていたら、典膳の人生はどう違っていったのでしょうか。
軒先に立って覗く薄暗い室内から、若き典膳の息づかいが聞えてくるような気がします。


東参道ー16
(「永興寺」 2014年7月 撮影)





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テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

人とその歴史 | 13:42:44 | トラックバック(0) | コメント(0)
寺台城の豪傑・海保三吉
戦国末期の世を風のように駆け抜けて行った海保三吉(かいほ みつよし生年不詳~元和三年
(?~1617)は、剛力で知られた武将で、寺台の高台にあった寺台城の城主でした。

海保三吉は謎の多い人物で、「新編成田山史」には次のような記述があります。
【そもそも海保三吉なる武将そのものが、かなり不明瞭な伝承的かと考えられ、その事績につい
ても、全てを史実と考えることは躊躇される。】
 (P169)

今回は、この「海保三吉」を追いかけてみます。


足利幕府と下総の結城一族との合戦 ―結城合戦・永享十二年(1440)~嘉吉元年(1441)で
結城方に与して討ち死にした里見家基の嫡子・義実と次男・家氏は、安房に逃れて安房里見氏
を興しましたが、三男の又三郎は父・家基の領地であった上総の里見邑に逃れて、上総の守護
・千葉介胤直に仕え、海保庄の領地を与えられて海保氏を興しました。

以降、海保氏は代々千葉氏に仕え、徐々に重用されるようになってゆきます。
海保氏四代の泰氏の時には下総佐倉山城に移り、嫡子信氏が千葉介勝胤と昌胤の代に執権職
を務め、さらに信氏の子の勝氏は千葉介利胤・親胤の代にも執権を務めました。
信氏の子・七代の氏之は千葉介富胤の執権を務め、成田の寺台城主でもありました。

八代・英氏のとき、豊臣秀吉の小田原・北条攻めがあり、北条氏が敗れると、九代・氏次(三吉)
は德川家に仕えたものの、後の改易等によりやがて海保氏宗家は断絶することとなります。
     
里見家基--海保氏義--氏重--氏俊--泰氏--信氏--勝氏--氏之--英氏--氏次(三吉)



                                   ( 寺台城址 )


三吉にまつわる伝承は多くありますが、代表的な二つの話を紹介します。

【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の2つ
の仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に信仰の
深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さまの脇におら
れる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】
  (新勝寺ホームページ)

この記述の後半部分、斃れた三吉が蘇生したという合戦とは、天正元年(1573)小田原北条氏と
下総千葉氏とが戦った公津合戦のことで、戦死が伝えられていた陣営に三吉が戻ったため、皆が
大層驚いたことは事実のようです。

成田山公園-115
                 (成田公園内にある不動明王三尊像)
**額堂-99
                 ( 光明堂脇にある不動明王三尊像)                    

制咤迦童子(せいたかどうじ)と矜羯羅童子(こんがらどうじ)が脇侍となって不動明王の左右に
控える三尊像は成田山内にいくつか見られます。
通常、明王の左(向って右)に制咤迦童子を、右(向って左)に矜羯羅童子が控えています。

成田山を深く信心していた三吉らしい話です。


三吉の剛力ぶりを示すもう一つの伝承は、前述のホームページ文章の前半部分に関わる、
成田山の仁王さまとの力比べです。

成田山の二王様は「朱振りの仁王尊」といわれていますが、かつては白木の仁王様でした。
あるとき、寺台城主だった海保三吉が成田山に参詣したとき、「私に誰にも負けない大きな力を
与えていただけたら、朱塗りを奉じたい」と願をかけました。
その帰路のこと。闇夜の中で大男が両手を拡げて三吉の行く手を遮りました。
三吉はこの大男に組み付き、信じられないほどの力で大男を投げ飛ばしてしまいます。
その時、頭上から「我は成田の仁王なり。汝の願いを聞き入れて敵一倍の腕力を授けたり。」と
大声が響きわたりました。
三吉は約束どおり仁王を朱塗りにし、仁王を投げ込んだ田を仁王面と名付け、成田山に寄進
しました。




模写 「怪談春雨草紙」中の挿絵 (市川三升 作 歌川國安 画 文政十三年ー1830)
    孝蔵(海保三吉)と仁王との格闘 (「仮名垣魯文の成田道中記」昭和55年に収録)


山門ー16
                成田山の仁王門      (2014年5月撮影)

山門ー9
                        ( 那羅延金剛[ならえんこんごう])
山門ー8
                         ( 密迹金剛[みっしゃくこんごう])

さて、三吉と格闘したのはどちらの金剛様だったのでしょうか。


【・・・それぞれにひかえたるうちにたゞ一人、土俵の上に力足をふみならしいる者あり。見るに、
その丈七尺五寸余にして、眼するどく、顔色総体朱をそゞぎしごとく、あくまで骨太にして仁王の
いけるがごとし。宵より二十七番をとるといえども、一度もまけをとらず、かちつゞけたり。見物
一同こゝろにくしとおもへども、たれ相手になるべき者もなく、口おしながらひかへゐる。この時、
桟敷より孝蔵にとるべしと下知あり。つれきたりし山伏もたってとるべしと、そのかはりには汝が
のぞみごとかなへべしとすゝむるゆへ、いまはせんかたなく、孝蔵土俵のうちにとびあがり、
たがひに式礼なし、たちあはんとせし時、孝蔵心におもふやう、なかなかかれにひきくんでは
かなふまじ、手先にてとるべしと、アイヤと声かけ。双方たちあひ、しばらくもみあふそのありさま、
竜虎の勢、されど孝蔵はわづか五尺五寸あまりの小男、かたがたは七尺五寸にあまる大の男
なれば、やゝともすれば孝蔵あやうく見へければ、見物固唾をのみ、目ばたきもせず見つめて
ゐたりしが、大の男やっと声かけ孝蔵をつかまんとするところをすかさずとって足をかけつき
けるが、なんなくかの大の男を土俵の外へおのれが力にて半身土の中へうづんだり。】


これは、七代目市川団十郎が文政十三年(1830)に書いた、「怪談春雨草紙」にある一節で、
海保三吉の伝説的武勇伝からヒントを得たと思われます。


秀吉による北条氏討伐に際して、北条方の体制は団結とはほど遠いものでした。
長い間、関東の八カ国に君臨してきた北条氏の暴政に苦しめられてきた多くの家臣の不満は
大きく、大名達の評定(小田原評定)はなかなか定まらず、秀吉軍につけいる隙を与えました。
後に「小田原評定」とは、「議論ばかりで結論が出ないこと」と揶揄されることになります。

面従腹背の家臣達につけいって帰参を呼びかけたのが徳川家康です。
千葉氏一族の大須賀氏・原氏・押田氏・土気、東金の両酒井氏等も、それぞれ領地を与えられて
德川氏の直参となりました

寺台城主であった海保英氏は小田原城に詰めていたため、殿台城主であった馬場伊勢守勝政が
城代として寺台城を守っていました。
しかし、優勢な德川勢との戦いは厳しく、馬場勝政は討ち死にし、寺台城と殿台城はともに炎上し、
あえなく落城してしまいます。
直線距離で2キロにも満たない二つの城が炎上する様は恐ろしい景色だったに違いありません。
住民はどんな思いで燃える城を見上げたのでしょう。

なお、殿台城は今は跡形もありませんが、現在の美郷台のJR線路脇にあったようです。
馬場勝政は土屋の「大宮神社」を創建した千葉氏一族の武将で、寺台城下の永興寺に葬られた
と伝わっています。


裏参道-58
                     大宮神社 (2014年5月撮影)
*******東参道ー16
                     永興寺 (2014年7月撮影)


英氏は家康に帰参しましたが、寺台城の再建は叶わず、焼け跡に屋敷を構えていたようです。
【三吉は部屋住とは云え身長七尺五寸、力量二十五人力と云われ、殊に膂力(りょりょく)が非常
に強かったので、家康は大御番を命じ別に三百石を給わり信任された。父の没後家督を相続して
四千三百石の直参となって甲斐守氏次と称するようになった。】
  
(「広報よこしば 第46号」 昭和43年7月)

7尺5寸って227センチ! 
NBAウィザーズの八村塁(203㎝)やVリーグジェイテクトの伏見大和(207㎝)よりも背が高い!
この時代にこの背丈は事実ならば怪物です。
まあ、よくある大袈裟な表現なのでしょうが、ともかく図抜けた大男だったのでしょう。
ちなみに、部屋住み(へやずみ)とは嫡男でまだ家督を相続していない者や、次男以下の独立
せずに親元にいる者を指します。
また、大御番とは、江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊のことです。


大御番となった三吉は、生来の粗暴さ故の不祥事を重ねてしまいます。
房総関連の古文書や諸記録を集大成した「房総叢書」の中の「千葉傳考記」に、次のような
記述があります。

【海保三吉は、千葉家の士なり。後に召し出されて幕府の直參となり、大番組を勤む。然るに、
慶長十四年十月十六日、大番頭たる水野市正・近勝口口切腹を命ぜらる。其の故は、去月
廿九日、市正宅に於て服部牛八が久米左不治を双傷せし事あり。其の時、近勝は寺院に入
りて、陳謝する所ありしも、去々年以來、此の市正組の海保三吉・荒尾長五郎・有賀忠三郎・
世良田小傳次・小股猪右衛門・間宮彦九郎等、伏見在番中、徒然に堪へずして密々所々を
徘徊し、樊崎講といふものを催し、街中に於て双傷を遊戯とし、殊に海保は坂東の強力たるに
依りて、忍びて上京し、好みて相撲を取りけるが、遂に秀賴の中間を抛殺せり。やがて、三年
の在番終りて歸府し各々其の知行所に休息しけるところ、其の濫行露顯し、遂に死罪又は改易
となりたりといふ。この時、間宮彦九郎一人逃亡せしが、妻子を虜とせらるゝ、由を聞き、忽ち
出で自殺せり。其の外、松平九郎右衛門忠利・津野戶左門・岡部庄九郎・駒井孫四郎も連座に
よりて其の祿を沒收せらる。小斐仁左衛門は、父の忌中に密々江戶へ下りし爲め改易。藤方
平九郎・小川左太郎は罪なしと雖も、其の家僕が商人を摶殺して逐電せし故、「尋ね出し斬戮す
べし」とて、其の間のを祿收せられしが、後遂に探り出し、之を斬りて歸參する】



三吉の乱暴者ぶりは相当なもので、喧嘩で複数の武士を殺したり、相撲で相手を投げ殺したり
したと言われています。
一方で、三吉が領民に慕われていた、善政を行っていた、という記述も散見されますが、乱暴者
とする記述に比し非常に少なく、検証がむずかしいところです。

史料のほとんどは大御番時代の振る舞いから寺台での最期まで、そして彼の墳墓に関する記述
ばかりです。
三吉の領主としての姿、領民とのふれあいなどについての史料は海保家の記録として残されて
いましたが、残念ながら焼失してしまったため、今では知ることができません。
わずかに「広報よこしば」第48号(昭和43年9月)に、以下のような記述を見つけました。

【さて寺台の人々は今でも甲斐守様とか三吉様とかと尊敬しているから、豪放多く非道に出たと
伝えられた節もあるが、己が領民に対しては善根を施したから、それが子孫に伝わり今に残って
いるのであろう。】 



史料は一気に寺台城下での三吉の最期を語ります。

【これらのことで小野次郎右衛門が三吉の非道を将軍に言上したため、佐倉城主土井大炊頭
利勝に命じ御名代として篠田勘兵衛、日暮弥市の二人に大将を命じ三百騎をもって寺台城攻略
にかかったのである。】 
 (「広報よこしば 第47号」 昭和43年8月)

【それから三吉は寺台の河岸まで来て見ると橋を引いて河面には篠田、日暮両人の上使が出迎え
「御上意にて土井大炊頭名代としてわれ等両人罷り越した。それにて切腹なされ候え」と呼ば
わる。三吉これを聞いて「御上意なれば是非なし。城に入って切腹仕る。橋を渡し候え」と答えた。
これに対し「橋を渡すこと罷りならぬ。それにて切腹召され候らえ」と言うや否や三百騎の兵、三吉
を渡さじと切先をならべ、槍ふすまをつくって川端に馳せ向う。三吉これを見て幅八間の根木名川
を飛び越えながら、二十四本ひかえた槍を両手にて八本をかい掴み引折って捨ててしまった。この
勢いに恐れをなし大勢の者ども一度にどっと引き退く。しかし渡って行っては御上意に叛く。ちょうど
川辺に嶋の坊という行屋があったので、そこに立入り見ごと切腹して相果てた。時に元和三年十月
一日、三吉行年四十八才であった。】 
  (「広報よこしば 第48号」 昭和43年9月)

「行年四十八才」とあるのが正しいとすると、三吉は永禄十一年(1568)生まれ(数え年齢)という
ことになりますが、そうすると公津合戦で制咤迦童子に助けられたという伝承の天正元年(1573)
ではまだ6才ということになり、(伝承とはもともと不合理に満ちていますが)話に無理があります。

【神君海保氏ノ暴慢ヲ悪ミ、土民ヲシテ之ヲ誅セシム。三吉偶山之作村圓融寺ニ在リ、棋ヲ圍
ム。之ヲ聞キ将サニ帰ラントス。酒々井人篠田勘七槍ヲ持シ、寺臺橋下ニ隱レ其過ルヲ伺ヒ、
突テ之ヲ僵ス。今橋側松アリ血塚ノ松ト云、其所ナリト。】
  
(下総國下埴生郡寺臺村誌 明治十七年)

【海保三吉ノ遺址ハ本村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉力ヲ飽マテ強ク能ク尺ノ圍ノ竹ヲ握リテ之ヲ
潰ブス。後、力ヲ負ミ豪放ニシテ其為ス所多ク非法ニ出ツ。元和中神君小野次郎左衛門(右ノ
誤カ)ニ命シテ之ヲ誅セシム。小野氏三吉ヲ攻ム。三吉輙輙クモ屈セス。小野氏諭シテ曰、汝チ
順逆ノ分ル所ヲ知ラス、而孤城落日ヲ恃ミ強力ニ誇コルルト雖、能ク幾ハク時ヲ保タンヤ、速ニ
自衂スルニハ如カス。汝若シ我言ニ従ハゝ我汝カ為メニ墳墓ヲ營ミ、香花永ク絶エサラシメント。
三吉其言ヲ容レ割腹シテ死ス。】
   (同上)

三吉の最期については諸説あるようですが、根木名川の寺台橋近辺が波乱の人生の終焉の地
であったようです。
< 山之作の円融寺で住職と碁を打っているとき、三吉討伐の軍勢が来たとの知らせがあり、
急いで城に戻る途中の寺台橋で討伐隊と遭遇し、獅子奮迅の抵抗を続けたが、小野次郎右衛門
の説得を受け入れて切腹した>といったところでしょうか。

円融寺ー21
                          三吉が碁を打っていた円融寺


寺台橋とはどこに架かっていたのでしょうか?
寺台城の位置や、昔からの古い街道である三里塚街道の起点などから、現在の「あづまばし」
付近と考えて間違いないと思われます。

三里塚街道ー75  (上流)
三里塚街道ー76  (下流)

現在の「あづまばし」から見た景色です。
当時は現在よりも川幅は広かったようです。


三吉の墓については、明治十七年の「下総國下埴生郡寺臺村誌」に詳しく記されています。

【海保三吉墓 村ノ北方字竹林ニ在リ。三吉ハ海保丹波守ノ子ナリ。天正十八年千葉氏滅ビ、
東照神君千葉氏ノ奮臣海保三吉及ビ某々等ヲ召シ采地ヲ賜フ。三吉本村ニ居ル後暴慢ニ
シテ誅ニ遇フ。茲ニ葬ムル。】
                    

【海保塚  村ノ東北ノ間ニ突出ス。四面林巒村落其間ニ参見シ、平田数百町歩一目ニ瞰下ス。
風光壮快月ニ宜シク、雪ニ宜ク、花ニ宜ク納涼ニ宜シ、本地ハ海保氏墳墓ノ在ル處ニシテ、古
松矗々林立シ頗ル名勝ノ區ナリ。】
 

【本地ハ海保氏ノ墳墓アル所ニシテ墓上巨松アリ、大サ四抱許、一幹三枝ニ分ル。三枝ノ大サ
皆二抱許、枝下ノ長サ配枝ノ風容相同シク翳欝トシテ髙ク雲辺ニ聳ユ。口碑ニ依レハ海保三吉
自劒ノトキ遺言スラク、墓標トシテ松ヲ植ヘヨ、後世該松ノ三枝ニ分ルヲ見ハ吾成佛セシナリト。
松ノ三枝ニ分レシハ其何年頃ナルヤ詳ナラス。其他境内ノ古松大サ皆二、三抱許アリ。】

                               

三吉の亡骸は焼け落ちた寺台城の出丸跡に葬られ、遺言によって墓標に松が植えられました。
昭和28年に松が枯れ、撤去のために根元を掘り起こしたところ、真下から一体の人骨が出土
し、調査した結果、言い伝え通りの偉丈夫らしい骨格で、三吉の骨であることが判明しました。
永興寺にて供養が行われた後、再び元の場所に埋葬されました。

東参道ー16
                   三吉の供養が行われた永興寺(ようこうじ)              


寺台城址の様子は、2014年7月の「成田山東参道を歩く」から引用します。

東参道ー25
東参道ー26

「寺台城主海保甲斐守遺跡」と刻まれた石碑と傾いた祠のみが、訪ねる人も無い林の中に
建っています。
石碑は昭和31年に建てられたもので、そこには要旨次のように書かれています。

【後に徳川に帰参した海保三吉は、打ち捨てられたように公津ヶ原にあった不動明王を
成田に移し、本堂の建立に尽力するなど、領民の信望も厚かったが、粗暴な振る舞いも
多かったため、元和三年(1617年)に寺台橋畔にて徳川の刺客によって殺害された。】


東参道ー27

傾いた祠の中にはいくつかのお地蔵さまが置かれていますが、どこにも説明はありません。
失礼ながらお地蔵さまの背中を覗かせていただきましたが、読める文字は書かれていません。


現在はきれいに整備されていると思いますが、約7年前の様子は寂しいものでした。



さて、最期に三吉と成田山の関係について見てみましょう。


【 海保甲斐守三吉は、諸堂伽藍の建立や絵馬堂の奉納、またかつて白木造りだった当山の
2つの仁王像を、所願成就のお礼として、朱塗りにして仁王門に奉安したというほど、非常に
信仰の深かった人物です。合戦の最中に刀で刺された海保甲斐守三吉の前に、お不動さま
の脇におられる制咤迦童子が現れ、蘇生させたという霊験記が残っています。】

                            (新勝寺ホームページ)

【伝承では成田山新勝寺は、現在の成田市寺台の地にあった寺台城の城主海保甲斐守三吉(?
~一六一七)の肝入りで、永禄九年(一五六六)六月二十八日に現在地で落慶供養を行ったと
いわれている(「新修成田山史」三一頁)が、これが他所(公津ヶ原)からご本尊を遷座しての入仏
落慶供養であったのか、あるいはすでに現在地に遷座していて、新たに本堂や他のお堂を整え
てからの落慶供養であったのか判然とせず、またこのときの寺台城主は海保三吉ではなく馬場
伊勢守勝正(?~一五九〇)であったはずであり、混乱しているところがある。】

                           (「新編成田山史」 P91~92)

【この城は、千葉氏一族出身で家臣であった馬場氏の居城(詰の城であった)と伝承され、豊臣
秀吉の天正十八年(一五九〇)の小田原攻めのとき、城主馬場伊勢守勝政が千葉氏とともに
北条方に加わって敗死し、そのために城は徳川家康から海保三吉に与えられたと伝えられて
いる。これによれば海保三吉は、馬場勝政の後に寺台城の城主になっていたことになり、小田原
攻めの後となるので、永禄九年(一五六六)に新勝寺落慶供養が行われたとすれば、そのときの
城主は勝政であったとみられる。後の者が寺台城の城主ということからだけで単純に海保三吉と
記してしまったのであろう。】
  (同 P149)

成田山新勝寺としては、海保三吉が新勝寺を現在地に移し、諸堂を整備・建立したとする説には
疑問を持っているようですが、ホームページでは三吉が諸堂の建立をしたと記しています。
また、馬場勝政は寺台城落城の時点では殿台城の城主であって、寺台城主は海保英氏でした
(当時、馬場勝政は寺台城の城代家老)。
つまり、馬場勝政の戦死にによって海保三吉が寺台城主になったのではなく、秀吉の小田原攻め
の時点での寺台城主は三吉の父・英氏だったのです。
海保氏が寺台城主として記録に表れるのは、三吉の二代前、英氏の父・氏之ですので、海保氏が
永禄九年の落慶供養に大いに貢献した可能性はあると思います。
記録には、氏之は千葉介富胤の執権を務めたとありますが、千葉介富胤が下総千葉氏宗家の第
27代当主となったのが弘治三年(1557)ですから、永禄九年(1566)の新勝寺落慶供養に向け
て氏之が寺台城主としてまた千葉氏執権として大いに貢献したと考えることに無理はありません。

私は、年代的にみて落慶供養の主役は三吉ではなく、氏之であったと考えます。
三吉が仁王像を朱塗りにしたのは事実のようですから、史料の記述の際に寺台城主として知名度
のある三吉の業績と記してしまった、ということではないか、と想像します。


「新編成田山史」は、海保三吉について一項を割いています。
【海保三吉 武士・武将による信仰の最後として、海保三吉の霊験譚について述べる。 海保三吉
は、現在の寺域に隣接する寺台にあった寺台城の城主で、甲斐守を名乗った。 ただし、これは
官途名乗りであって、朝廷の任命する国史としての実質や、甲斐国(現山梨県)との関係は一切
ない。三吉は当山の諸堂を再建し、永禄九年(一五五六)六月二十八日に落慶入仏供養を行った
と伝えられる。 これはまた一説に、同元年に係るともいう。 これより先、天文七年(一五三八)に
生実御所源義明と相模小田原の北条氏綱とが戦ったとき、堂宇や文書・記録類がことごとく失わ
れたといわれており、それを復興したということであろう。
具体的な話としては、かつて当山の仁王門にある密迹・金剛の仁王尊像が素木造りであったの
を、大力を授かった礼として朱塗りに改め、田地を寄進したという。この田地は寺台にあって、
小字名を仁王面というが、おそらく仁王免であろう。】 
 (P153~154)


部屋住みでありながら家康に引き立てられて京・伏見の御番頭となった三吉は、すっかり舞上
がってしまったのでしょう。
勢いづいての乱暴狼藉を注進され、亡くなった父・英氏の跡を継いで寺台城主となったものの、
討手を差し向けられて無念の切腹をした三吉。
制咤迦童子による蘇生伝説や、仁王との格闘伝説が物語るように、成田山を深く信仰した三吉。
領民に慕われ、後世にまで語り継がれる一面を持つ三吉。

私は、力を持て余してついつい乱暴を働いてしまうが、直情径行型の気のいい大男(昔はこんな
ヤツがいたなあ)を想像してしまいます。


***境内ー20





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人とその歴史 | 13:00:00 | トラックバック(0) | コメント(2)
歴史の彼方にチラリと見える「成田五郎」とは誰か?そして何処に眠るのか?


成田五郎-43

成田総鎮守「埴生神社」の御由緒書きの中に、

「 歴史的に年代が出てくるのは、まず仁安3年(西暦1168年)に成田五郎頼重という埴生郡
を領していた武士が鉱物を奉納したと言うことが書かれてあり、成田という文字が出てくる
最初と言われております。」


というくだりがあります。
今回は、ここに出てくる「成田五郎頼重」という人物を追いかけてみます。

三年前に「埴生神社」についてこのブログで取り上げたときは、「成田五郎頼重」には特に
関心を持ちませんでした。
”「成田」という姓から、当時の埴生庄の有力な武士だろう・・・”ぐらいにしか思っていません
でしたが、今年に入って安政五年(1858)の「成田參詣記」中にある「成田山全圖」に次の
ような文字が書き込まれていることに気付いて、俄然、この人物のことが気になってきました。

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

さて、調べ始めたところが、全くと言って良いほど資料が見つかりません。
市立図書館や成田山仏教図書館で調べ、それぞれレファレンス・サービスでも調べてもらい
ましたが、わかりません。
「成田五郎」に関して見つけた記述は、わずかに「埴生神社・御由緒書き」の他に、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著 平成16年)、「成田村誌」(明治十九年)と「成田町史」(大正元年)、
そして「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)に、「鉱石を埴生神社に奉納したこと」と「成田五郎の
墓」がある」ということだけで、どんな人物であったかは全く触れられていません。
そして、その「墓」についても曖昧な記述しかなく、その場所が特定できません。

********成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI成田五郎-0000_LI (4)

横着をして、「埴生神社」に直接お伺いしてみましたが、やはりわかりませんでした。

「成田の史跡散歩」に次のような一節があります。

宮司の宮崎家に伝わる縁起や古文書によると、領主の成田五郎頼重が、仁安三年(一一
六八)に直径一寸五分の鉱物を二個奉納している。縄文時代の磨石であろうか。」


”「成田五郎」は埴生庄の領主だった”というのです。
埴生神社の「御由緒書き」にも、”成田五郎頼重という埴生郡を領していた武士”とありました。
領主とあらば系図にその名前があるはず・・・と当時の埴生庄を治めていた千葉氏の流れを
組む「埴生氏」の系図を追いましたが、「成田五郎」の名はありません。
念のため、同時代の千葉氏の系図も追ってみましたが、やはり「成田五郎」はみつかりません。

*************成田五郎-0000_LI (4)

もしやと思い「成田氏」も調べてみることにしました。
「成田氏」の出自には諸説ありますが、いずれも武蔵国崎西郡成田郷(現在の埼玉県熊谷市
近辺)に勢力を持っていた一族で、下総の埴生庄とは地理的に離れています。
念のため「成田氏系図」を調べてみましたが、「成田五郎頼重」の名は出てきません。
ウィキペディアの「成田氏」の項では、

「承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が
討死している。建保5年(1217年)には、北条泰時の家人で成田一族とみられる成田五郎が
刃傷沙汰を起こしている。」

「成田氏の菩提寺たる龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。」

とあります。
承久の乱は1221年のことで、成田五郎が鉱石を奉納した仁安三年の約50年後のことです。
また、「龍淵寺」とは、埼玉県熊谷市にある曹洞宗のお寺で、その縁起では、成田家中興の祖
「成田左京亮家時」が応永十八年(1411)に創建したとあります。
いずれも年代的には探している「成田五郎」とは一致しません。

ちょっと先が見えません。

「成田五郎頼重」とはどんな人物なのか?
「埴生氏」なのか、「千葉氏」なのか、あるいは「成田氏」なのか?
領主なのか、家臣なのか?

成田五郎-0000_LI (4)


視点を変えて「成田參詣記」の「成田山全圖」に戻り、「成田五郎」の墓を探してみましょう。

img005 (2)
(「成田參詣記」(安政五年)中の成田山全圖の一部を模写)

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

右中央に、『「要害」(地形が険しいところ)が訛った「ユウガイ」という字(あざ)があり、そこに
「成田五郎」の墓がある』、と書かれています。

書かれている場所は、滑川村へ向かう道の傍らになります。
「三竹山道祖神」(地図では現在の場所から道路を挟んだ反対側に書かれています)から
土屋へ向かう、旧滑川道の左側の一帯のようです。


成田五郎-25  三竹山道祖神と旧滑川道
成田五郎-27
成田五郎-28

旧滑川道の左手は深い谷のような地形です。


成田五郎-29

谷の底に下りてNTTの鉄塔を見上げると、高低差はかなりあることがわかります。
確かに、要害と呼ばれてもおかしくない地形です。


成田五郎-30
成田五郎-31

谷底の道を進むと、市立成田中学校の下に出ます。


成田五郎-35

やがて成田山裏参道の旧三里塚鉄道の橋脚跡に突き当たり、右へ行けば成田山裏門への
登り坂、左に行けば土屋への下り坂となります。


成田五郎-34
***********成田五郎-36

住宅もだいぶ建っていますが、空き地はどこもこうした景色です。

確かに要害という字(あざ)が付いていたかもしれない地形ですが、隅々まで歩いてみても、
「成田五郎の墓」らしきもの、または、その跡のようなものは見つかりませんでした。


明治十九年の「下総國下埴生郡成田村誌」(「成田市史史料集一」に収録)には、

「亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、之但シ成田五郎ナル者ハ本村
之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」
 

とあり、さらに同誌の「埴生神社」についての記述の中に、

「最モ神輿ニ寛元二年六月日埴生次郎平時常奉納スト。蓋シ東鑑ニ埴生次郎ハ、上総國
大柳之館ニ於テ自殺スト云々。亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、
之但シ成田五郎ナル者ハ本村之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」


とありますので、「要害」という字(あざ)には間違いなく「成田五郎」の墓があるはずです。
ここでは「成田五郎」を単に「本村の住人」として、領主やその家臣というような表現をして
いないことが気になりますが、ただの住人の墓について記すということは考えられません
ので、やはり「成田五郎」はそれなりの人物だったはずです。

*************成田五郎-0000_LI (4)


「千葉縣印旛郡誌」を何度か読み返している内に、収録されている「成田町誌」に、「成田五郎
頼重墓」という一項があることに気付きました。

「成田區の東方松原にあり坪數百八十坪自ら一塚をなし高二丈余墓上竹藪荊蕀叢生す
頼重の事蹟詳ならず口碑によれば千葉家の臣族にして亦本郡の守なりし由」


「松原」は昔の字で、現在の東町あたり、国道51号線を挟んだ一帯です。
「成田山全圖」に「成田五郎ノ墓アリ」と書き込まれていた「土屋」近辺からは、ずいぶん離れた
場所ですが、「成田區の東方松原」と場所を特定しています。
意外な場所ですが、これは有力な手掛かりになります。
二丈の高さといえば約6メートルですから、相当目立つはずです。

あらためて、「成田市史史料集一」に収録されている「成田村誌」と「成田町誌」も読み返して
みると、見落としていた記述を見つけました。
「成田村誌」には「墳墓」という一項があり、そこに「成田五郎頼重墓」とありました。

「本村東方字松原(舊要害)小高キ丘ニアリ、松木ヲ以テ墓標ス。最モ年號干支詳ナラスモ、
千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」


これも、「松原」と場所を特定して、しかも、「字松原(舊要害)」と、「成田山全圖」にあった

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

との書き込みと一致します。
「成田村誌」が書かれた明治十九年(1886)頃には、松原の字要害の小高い丘の上に、
松を植えて墓標とした「成田五郎頼重」の墓があったのです。
その後、墓は「印旛郡誌」が書かれた大正二年(1913)頃には、竹薮とイバラの生い茂る
荒れた様子となっていたようです。

*************成田五郎-0000_LI

あとは「旧松原」一帯で「成田五郎」の墓を探すだけです。
ヒントは「要害」という地形を表すような場所です。

その地形は、現在「東町高架配水塔」や「お仙稲荷」のある一角以外にありません。


成田五郎-1
成田五郎-51
成田五郎-20
成田五郎-53

(上から順に、成田山自動車祈祷殿側から ・ 新参道から ・ 国道を挟んだイオンの屋上から
・ 東町公民館側から)


さて、この小山にある「お仙稲荷」には何度も行っていますが、「成田五郎の墓」とおぼしき
ものは記憶にありません。

もう一度訪ねてみます。
小山を登るには、「お仙稲荷」への参道か、「高架配水塔」への自動車用道路しかありません。
自動車用道路には目立つものは何もありませんので、参道側から登ってみます。

成田五郎-16 ← 小山の登り口の大師堂
    子安観音の石碑 → 成田五郎-17
成田五郎-18 ← 子安観音と将軍地蔵堂

参道の登り口には、大師堂・子安観音の石碑・子安観音と将軍地蔵のお堂がありますが、
墓や塚らしきものを連想させる景色はありません。


成田五郎-54
成田五郎-55

朱色の鳥居が連なる参道を登って行きますが、やはりそれらしき景色は見当たりません。

参道を登り切ったところは、ちょっとした広場になっていて、右手に「高架配水塔」、左手に
「お仙稲荷」があります。


成田五郎-57
成田五郎-58

「お仙稲荷」の説明板には次のように書かれています。

「お仙稲荷は、成田山の出世稲荷が男で、お仙、おろく、お竹という三姉妹があり、この
うちお仙がこのお仙稲荷であるという話が伝えられています。昔は、赤い屋根の立派な
社屋があったといわれていますが、そのうち朽ち果て、そこで、地元東町の篤信者である
三名のご婦人が発起人となり、昭和三十四年に再建されました。
里人の話によれば、このお仙稲荷は霊験あらたかであり、地元民はもとより、とくに明治
以降には花柳界や舞台役者たちの信仰が厚く、浅草、新橋、川口の方からの参詣者も
あり、祭礼日の三月十日には多くの信者が集まります。」



成田五郎-3
成田五郎-13

「お仙稲荷」の場所は、台地からさらに一段高くなっています。
「村誌」や「町誌」にある塚のような感じですが、ここは「墓」ではなく、「神社」です。


成田五郎-6
***********成田五郎-7

境内をくまなく探しましたが、ここには「墓」らしき痕跡がありません。
だいたい、神道では「死」を「穢れ」としていますから、境内に墓など無いのが当然です。

*************成田五郎-0000_LI (4)

成田五郎-9
成田五郎-10

台地の一角に窪地があり、そこには「稲倉魂命」を祀る「松原稲荷大明神」があります。
この「松原稲荷」に関する資料はありませんが、この一帯の昔の字(あざ)の「松原」はここ
から来たのかもしれません。
とすると、相当古くからこの地にあった神社だと思われます。


成田五郎-59
成田五郎-19
成田五郎-60
成田五郎-63
成田五郎-62

ぐるぐると歩き回ってみましたが、どこを探しても、墓らしきものの痕跡はみつかりません。

いよいよ行き詰まりの感が漂い、あきらめかけた時、パラパラとめくった「成田町誌」の中に、
見逃していた「古蹟・古墳」という一項が目に止まりました。

「古墳ノ三  成田区の東方松原の丘陵上、一方は畑地一方は松林の中間に周囲約六十歩
地積百八十坪を有し高さ三丈余の塚あり。近年塚上をかきならして径十五歩許の平地を作り、
稲荷の小祠を建てたるものあり。松原おせん稲荷と称し、芸人共の信仰するものある由にて、
赤き木柵、鳥居等を建て列ね俗気満ちたる地と化了せり。 傳へ云ふ。 是れ千葉氏の族臣に
して埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」


さらに、「印旛郡誌」中の「埴生神社」の項にも、こんな文章が見つかりました。

「寶物として直徑約一寸八分の饅頭形鑛物二個之を収めたる桐箱は仁安三年正月吉日
成田郎頼重の奉納たることを明記す今村仙稲荷と稱して小社を營める塚ありとこれ
頼重の墳墓なりと云ふ」
  (は五の誤植か) 


お仙稲荷ー42

だいぶ回り道をしてしまいましたが、ついに見つけました!
「お仙稲荷」の場所こそが、「成田五郎頼重の墓」だったのです。

*************成田五郎-0000_LI

「成田町誌」は大正元年に書かれていますから、ここにある「近年」とは明治後期のことでしょう。
大正二年の「印旛郡誌」には稲荷のことが書かれていませんが、編集上の時間的な誤差で、
明治後期に、荒れ果てた五郎の墓を整地して「お仙稲荷」を建てた人たちがいたのでしょう。
「塚上をかきならし」「赤き木柵、鳥居等を建て列ね」「俗気満ちたる地と化了せり」と書かれた
「町誌」の文章には、筆者の怒りのようなものが感じられます。

資料を読むときに、ある程度の狙いをつけた個所を拾い読みして、精読をサボる悪い癖が、
今回も核心に迫る道を遠いものにしてしまいました。
反省して(?)あらためて各資料を精読すると、こんな文章も見つかりました。

中世には成田氏・埴生氏の外護があったようで、仁安二年(一一六七)奉納になる鉱石
の箱書に「仁安二壬戊(ママ)年正月大吉日 成田五郎頼重奉納」とあり、また現在はない
が寛元二年(一二四四)の古神輿には「埴生神社神輿一基 埴生次郎平時常献之 寛元
二年六月日」と記されていたと伝えられている。」

(成田市史 中世・近世編 P242 埴生神社に関する記述の中に)

寿永二年(1183)に、上総氏は埴生庄から千葉氏によって追われましたから、「五郎」が
鉱石を奉納した仁安二年のころの埴生神社は上総氏の庇護のもとにあったと考えられ、
地理的には離れているものの、現在の埼玉県熊谷や行田あたりを所領としていた「成田氏」
からも崇敬を受けていたということでしょうか。
とすれば、家系図には見当たらないものの、「成田五郎頼重」は「成田氏」の有力な一員で
あったのでしょう。

ただ、この地に墓まであるので、「成田五郎」が「成田氏」の一員であることに疑問が生じます。

「成田町誌」にある、
「是れ千葉氏の族臣にして埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」 や、
「成田村誌」にある、
「最モ年號干支詳ナラスモ、千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」
とあるように、「成田五郎」は千葉氏の一員であった可能性は捨てきれません。

話はますます迷路に入り、妄想は広がります。

*************成田五郎-0000_LI (4)

「成田五郎」は千葉氏の一員であるとして、「成田」姓の人物は千葉氏の家系図には現れ
ませんので、(よくあるケースの)その領する所の地名を姓として名乗ったと考えられます。

さあ、こうなると、平安時代末期には「成田」という地名が既にあったことになります。

文字としての「成田」が最初に出てくるのが「成田五郎頼重」ならば、地名としての「成田」が
最初に出てくるのは、寺台の「永興寺」にある聖観音像の胎内銘であるとされています。
「成田市史 風俗編」には、「成田」の地名の由来について、次のように書かれています。

「 成田の初出  成田の地名が始めてみられる記録としては、寺台の永興寺所蔵になる
聖観音像の胎内銘で室町時代の応永一五年(一四〇八)二月「成田郷大檀那光量」と
いう文字が記されている。 この聖観音像は、もと成田の仲町にあった禅宗安養寺の本尊
にして、明治初年の廃寺のときに本寺永興寺へ移されたものである。 当時、成田の郷に
安養時の大檀那として光量なる人物が存在していたことがわかる。 なお、神奈川県横浜
市の金沢文庫文書の如賢書状に「成田御百姓并羽鳥大御田作人等」になる文字があり、
鎌倉末期から室町初期にかけての文書と考えられているが、惜しいことに年代がはっきり
していない。 その点から前記聖観音像の胎内銘は、成田の地名を応永一五年までさか
のぼれる貴重な資料といえる。」 
(P9~10)

「聖観音像」の胎内銘の年代は、「成田五郎」が鉱石を寄進した240年後ですが、金沢文庫
の「如賢書状」の存在もあり、「成田」という地名が「五郎」の生きた時代には既にあったと
考えてもおかしくありません。
「成田五郎」は、「成田」という文字が(知られているかぎり)最初に現れる人であり、「成田」
の地名を(知られているかぎり)最初に知らしめた人でもあるということになります。

「成田」という地名の由来については諸説あるようです。
① 昔から雷が多い地だったので、雷の鳴る田→鳴田→成田となった
② 良い稲ができる地だったことから、熟田(ナリタ)となった
③ 田を開いた地なので、田に成る→成田となった
などですが、前掲の「成田山全圖」に、成田という字(あざ)が書き込まれています。

img007 (2)
①ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン
②成田村 鎮守三ノ宮 (三ノ宮埴生神社)
③石宮 道祖神 (三竹山道祖神・北向きのドウロクジン)
④不動堂 (成田山新勝寺)
⑤藥師堂 (明暦の本堂)
⑥大井戸字成田ト云

上部の⑥に、「大井戸字成田ト云」とある場所です。
この場所は、現在の幸町にある成田小学校の下、「古葉師踏切」のあたりになるようです。
表参道の米屋本店裏にある「不動の大井戸」と同じ水脈がこの「字成田」を通り、ほどなく
地表に現れて「小橋川」となっていたと思われます。

足跡ー59 ← 不動の大井戸
 成田小学校下 → 幸町-65幸町-69 ← 古葉師踏切

素人の妄想に近い推論ですが、
「平安時代末期に、「大井戸字成田」あたりを領していた、千葉氏に連なる「成田五郎頼重」が、
「お仙稲荷」の下に葬られている。」となりそうです。


成田五郎-14

「成田五郎」が眠っている「要害」の地からは、遠くに新勝寺の大伽藍が見えています。
彼がここに葬られたであろう頃には「新勝寺」はまだこの地に無く、遠く公津ヶ原の森の中で、
忘れられたように荒れ果てていました。


成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI
                                   [PIXTA]

「成田五郎頼重」は、歴史の彼方でほんの少し顔を出しているだけです。
その存在はほとんど知られていないままですが、実は成田にとってとても重要な人物だった
のかもしれません。

いつかまた、意外なところで「成田五郎」を目にすることがあるような予感がします。




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人とその歴史 | 10:39:08 | トラックバック(0) | コメント(2)