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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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歴史の彼方にチラリと見える「成田五郎」とは誰か?そして何処に眠るのか?


成田五郎-43

成田総鎮守「埴生神社」の御由緒書きの中に、

「 歴史的に年代が出てくるのは、まず仁安3年(西暦1168年)に成田五郎頼重という埴生郡
を領していた武士が鉱物を奉納したと言うことが書かれてあり、成田という文字が出てくる
最初と言われております。」


というくだりがあります。
今回は、ここに出てくる「成田五郎頼重」という人物を追いかけてみます。

三年前に「埴生神社」についてこのブログで取り上げたときは、「成田五郎頼重」には特に
関心を持ちませんでした。
”「成田」という姓から、当時の埴生庄の有力な武士だろう・・・”ぐらいにしか思っていません
でしたが、今年に入って安政五年(1858)の「成田參詣記」中にある「成田山全圖」に次の
ような文字が書き込まれていることに気付いて、俄然、この人物のことが気になってきました。

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

さて、調べ始めたところが、全くと言って良いほど資料が見つかりません。
市立図書館や成田山仏教図書館で調べ、それぞれレファレンス・サービスでも調べてもらい
ましたが、わかりません。
「成田五郎」に関して見つけた記述は、わずかに「埴生神社・御由緒書き」の他に、「成田の
史跡散歩」(小倉 博 著 平成16年)、「成田村誌」(明治十九年)と「成田町史」(大正元年)、
そして「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)に、「鉱石を埴生神社に奉納したこと」と「成田五郎の
墓」がある」ということだけで、どんな人物であったかは全く触れられていません。
そして、その「墓」についても曖昧な記述しかなく、その場所が特定できません。

********成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI成田五郎-0000_LI (4)

横着をして、「埴生神社」に直接お伺いしてみましたが、やはりわかりませんでした。

「成田の史跡散歩」に次のような一節があります。

宮司の宮崎家に伝わる縁起や古文書によると、領主の成田五郎頼重が、仁安三年(一一
六八)に直径一寸五分の鉱物を二個奉納している。縄文時代の磨石であろうか。」


”「成田五郎」は埴生庄の領主だった”というのです。
埴生神社の「御由緒書き」にも、”成田五郎頼重という埴生郡を領していた武士”とありました。
領主とあらば系図にその名前があるはず・・・と当時の埴生庄を治めていた千葉氏の流れを
組む「埴生氏」の系図を追いましたが、「成田五郎」の名はありません。
念のため、同時代の千葉氏の系図も追ってみましたが、やはり「成田五郎」はみつかりません。

*************成田五郎-0000_LI (4)

もしやと思い「成田氏」も調べてみることにしました。
「成田氏」の出自には諸説ありますが、いずれも武蔵国崎西郡成田郷(現在の埼玉県熊谷市
近辺)に勢力を持っていた一族で、下総の埴生庄とは地理的に離れています。
念のため「成田氏系図」を調べてみましたが、「成田五郎頼重」の名は出てきません。
ウィキペディアの「成田氏」の項では、

「承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が
討死している。建保5年(1217年)には、北条泰時の家人で成田一族とみられる成田五郎が
刃傷沙汰を起こしている。」

「成田氏の菩提寺たる龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。」

とあります。
承久の乱は1221年のことで、成田五郎が鉱石を奉納した仁安三年の約50年後のことです。
また、「龍淵寺」とは、埼玉県熊谷市にある曹洞宗のお寺で、その縁起では、成田家中興の祖
「成田左京亮家時」が応永十八年(1411)に創建したとあります。
いずれも年代的には探している「成田五郎」とは一致しません。

ちょっと先が見えません。

「成田五郎頼重」とはどんな人物なのか?
「埴生氏」なのか、「千葉氏」なのか、あるいは「成田氏」なのか?
領主なのか、家臣なのか?

成田五郎-0000_LI (4)


視点を変えて「成田參詣記」の「成田山全圖」に戻り、「成田五郎」の墓を探してみましょう。

img005 (2)
(「成田參詣記」(安政五年)中の成田山全圖の一部を模写)

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

右中央に、『「要害」(地形が険しいところ)が訛った「ユウガイ」という字(あざ)があり、そこに
「成田五郎」の墓がある』、と書かれています。

書かれている場所は、滑川村へ向かう道の傍らになります。
「三竹山道祖神」(地図では現在の場所から道路を挟んだ反対側に書かれています)から
土屋へ向かう、旧滑川道の左側の一帯のようです。


成田五郎-25  三竹山道祖神と旧滑川道
成田五郎-27
成田五郎-28

旧滑川道の左手は深い谷のような地形です。


成田五郎-29

谷の底に下りてNTTの鉄塔を見上げると、高低差はかなりあることがわかります。
確かに、要害と呼ばれてもおかしくない地形です。


成田五郎-30
成田五郎-31

谷底の道を進むと、市立成田中学校の下に出ます。


成田五郎-35

やがて成田山裏参道の旧三里塚鉄道の橋脚跡に突き当たり、右へ行けば成田山裏門への
登り坂、左に行けば土屋への下り坂となります。


成田五郎-34
***********成田五郎-36

住宅もだいぶ建っていますが、空き地はどこもこうした景色です。

確かに要害という字(あざ)が付いていたかもしれない地形ですが、隅々まで歩いてみても、
「成田五郎の墓」らしきもの、または、その跡のようなものは見つかりませんでした。


明治十九年の「下総國下埴生郡成田村誌」(「成田市史史料集一」に収録)には、

「亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、之但シ成田五郎ナル者ハ本村
之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」
 

とあり、さらに同誌の「埴生神社」についての記述の中に、

「最モ神輿ニ寛元二年六月日埴生次郎平時常奉納スト。蓋シ東鑑ニ埴生次郎ハ、上総國
大柳之館ニ於テ自殺スト云々。亦仁安二年正月日成田五郎頼重奉納箱入之石二ツ有、
之但シ成田五郎ナル者ハ本村之住人ニシテ、字要害ト申ス地ニ墳墓アリ。」


とありますので、「要害」という字(あざ)には間違いなく「成田五郎」の墓があるはずです。
ここでは「成田五郎」を単に「本村の住人」として、領主やその家臣というような表現をして
いないことが気になりますが、ただの住人の墓について記すということは考えられません
ので、やはり「成田五郎」はそれなりの人物だったはずです。

*************成田五郎-0000_LI (4)


「千葉縣印旛郡誌」を何度か読み返している内に、収録されている「成田町誌」に、「成田五郎
頼重墓」という一項があることに気付きました。

「成田區の東方松原にあり坪數百八十坪自ら一塚をなし高二丈余墓上竹藪荊蕀叢生す
頼重の事蹟詳ならず口碑によれば千葉家の臣族にして亦本郡の守なりし由」


「松原」は昔の字で、現在の東町あたり、国道51号線を挟んだ一帯です。
「成田山全圖」に「成田五郎ノ墓アリ」と書き込まれていた「土屋」近辺からは、ずいぶん離れた
場所ですが、「成田區の東方松原」と場所を特定しています。
意外な場所ですが、これは有力な手掛かりになります。
二丈の高さといえば約6メートルですから、相当目立つはずです。

あらためて、「成田市史史料集一」に収録されている「成田村誌」と「成田町誌」も読み返して
みると、見落としていた記述を見つけました。
「成田村誌」には「墳墓」という一項があり、そこに「成田五郎頼重墓」とありました。

「本村東方字松原(舊要害)小高キ丘ニアリ、松木ヲ以テ墓標ス。最モ年號干支詳ナラスモ、
千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」


これも、「松原」と場所を特定して、しかも、「字松原(舊要害)」と、「成田山全圖」にあった

ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン 此所ニ成田五郎ノ墓アリ」

との書き込みと一致します。
「成田村誌」が書かれた明治十九年(1886)頃には、松原の字要害の小高い丘の上に、
松を植えて墓標とした「成田五郎頼重」の墓があったのです。
その後、墓は「印旛郡誌」が書かれた大正二年(1913)頃には、竹薮とイバラの生い茂る
荒れた様子となっていたようです。

*************成田五郎-0000_LI

あとは「旧松原」一帯で「成田五郎」の墓を探すだけです。
ヒントは「要害」という地形を表すような場所です。

その地形は、現在「東町高架配水塔」や「お仙稲荷」のある一角以外にありません。


成田五郎-1
成田五郎-51
成田五郎-20
成田五郎-53

(上から順に、成田山自動車祈祷殿側から ・ 新参道から ・ 国道を挟んだイオンの屋上から
・ 東町公民館側から)


さて、この小山にある「お仙稲荷」には何度も行っていますが、「成田五郎の墓」とおぼしき
ものは記憶にありません。

もう一度訪ねてみます。
小山を登るには、「お仙稲荷」への参道か、「高架配水塔」への自動車用道路しかありません。
自動車用道路には目立つものは何もありませんので、参道側から登ってみます。

成田五郎-16 ← 小山の登り口の大師堂
    子安観音の石碑 → 成田五郎-17
成田五郎-18 ← 子安観音と将軍地蔵堂

参道の登り口には、大師堂・子安観音の石碑・子安観音と将軍地蔵のお堂がありますが、
墓や塚らしきものを連想させる景色はありません。


成田五郎-54
成田五郎-55

朱色の鳥居が連なる参道を登って行きますが、やはりそれらしき景色は見当たりません。

参道を登り切ったところは、ちょっとした広場になっていて、右手に「高架配水塔」、左手に
「お仙稲荷」があります。


成田五郎-57
成田五郎-58

「お仙稲荷」の説明板には次のように書かれています。

「お仙稲荷は、成田山の出世稲荷が男で、お仙、おろく、お竹という三姉妹があり、この
うちお仙がこのお仙稲荷であるという話が伝えられています。昔は、赤い屋根の立派な
社屋があったといわれていますが、そのうち朽ち果て、そこで、地元東町の篤信者である
三名のご婦人が発起人となり、昭和三十四年に再建されました。
里人の話によれば、このお仙稲荷は霊験あらたかであり、地元民はもとより、とくに明治
以降には花柳界や舞台役者たちの信仰が厚く、浅草、新橋、川口の方からの参詣者も
あり、祭礼日の三月十日には多くの信者が集まります。」



成田五郎-3
成田五郎-13

「お仙稲荷」の場所は、台地からさらに一段高くなっています。
「村誌」や「町誌」にある塚のような感じですが、ここは「墓」ではなく、「神社」です。


成田五郎-6
***********成田五郎-7

境内をくまなく探しましたが、ここには「墓」らしき痕跡がありません。
だいたい、神道では「死」を「穢れ」としていますから、境内に墓など無いのが当然です。

*************成田五郎-0000_LI (4)

成田五郎-9
成田五郎-10

台地の一角に窪地があり、そこには「稲倉魂命」を祀る「松原稲荷大明神」があります。
この「松原稲荷」に関する資料はありませんが、この一帯の昔の字(あざ)の「松原」はここ
から来たのかもしれません。
とすると、相当古くからこの地にあった神社だと思われます。


成田五郎-59
成田五郎-19
成田五郎-60
成田五郎-63
成田五郎-62

ぐるぐると歩き回ってみましたが、どこを探しても、墓らしきものの痕跡はみつかりません。

いよいよ行き詰まりの感が漂い、あきらめかけた時、パラパラとめくった「成田町誌」の中に、
見逃していた「古蹟・古墳」という一項が目に止まりました。

「古墳ノ三  成田区の東方松原の丘陵上、一方は畑地一方は松林の中間に周囲約六十歩
地積百八十坪を有し高さ三丈余の塚あり。近年塚上をかきならして径十五歩許の平地を作り、
稲荷の小祠を建てたるものあり。松原おせん稲荷と称し、芸人共の信仰するものある由にて、
赤き木柵、鳥居等を建て列ね俗気満ちたる地と化了せり。 傳へ云ふ。 是れ千葉氏の族臣に
して埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」


さらに、「印旛郡誌」中の「埴生神社」の項にも、こんな文章が見つかりました。

「寶物として直徑約一寸八分の饅頭形鑛物二個之を収めたる桐箱は仁安三年正月吉日
成田郎頼重の奉納たることを明記す今村仙稲荷と稱して小社を營める塚ありとこれ
頼重の墳墓なりと云ふ」
  (は五の誤植か) 


お仙稲荷ー42

だいぶ回り道をしてしまいましたが、ついに見つけました!
「お仙稲荷」の場所こそが、「成田五郎頼重の墓」だったのです。

*************成田五郎-0000_LI

「成田町誌」は大正元年に書かれていますから、ここにある「近年」とは明治後期のことでしょう。
大正二年の「印旛郡誌」には稲荷のことが書かれていませんが、編集上の時間的な誤差で、
明治後期に、荒れ果てた五郎の墓を整地して「お仙稲荷」を建てた人たちがいたのでしょう。
「塚上をかきならし」「赤き木柵、鳥居等を建て列ね」「俗気満ちたる地と化了せり」と書かれた
「町誌」の文章には、筆者の怒りのようなものが感じられます。

資料を読むときに、ある程度の狙いをつけた個所を拾い読みして、精読をサボる悪い癖が、
今回も核心に迫る道を遠いものにしてしまいました。
反省して(?)あらためて各資料を精読すると、こんな文章も見つかりました。

中世には成田氏・埴生氏の外護があったようで、仁安二年(一一六七)奉納になる鉱石
の箱書に「仁安二壬戊(ママ)年正月大吉日 成田五郎頼重奉納」とあり、また現在はない
が寛元二年(一二四四)の古神輿には「埴生神社神輿一基 埴生次郎平時常献之 寛元
二年六月日」と記されていたと伝えられている。」

(成田市史 中世・近世編 P242 埴生神社に関する記述の中に)

寿永二年(1183)に、上総氏は埴生庄から千葉氏によって追われましたから、「五郎」が
鉱石を奉納した仁安二年のころの埴生神社は上総氏の庇護のもとにあったと考えられ、
地理的には離れているものの、現在の埼玉県熊谷や行田あたりを所領としていた「成田氏」
からも崇敬を受けていたということでしょうか。
とすれば、家系図には見当たらないものの、「成田五郎頼重」は「成田氏」の有力な一員で
あったのでしょう。

ただ、この地に墓まであるので、「成田五郎」が「成田氏」の一員であることに疑問が生じます。

「成田町誌」にある、
「是れ千葉氏の族臣にして埴生郡司たりし成田五郎頼重の墳墓なりと。」 や、
「成田村誌」にある、
「最モ年號干支詳ナラスモ、千葉家ノ族ニシテ当埴生郡ヲ守タルコトヲ口碑ニ傳ヘリ。」
とあるように、「成田五郎」は千葉氏の一員であった可能性は捨てきれません。

話はますます迷路に入り、妄想は広がります。

*************成田五郎-0000_LI (4)

「成田五郎」は千葉氏の一員であるとして、「成田」姓の人物は千葉氏の家系図には現れ
ませんので、(よくあるケースの)その領する所の地名を姓として名乗ったと考えられます。

さあ、こうなると、平安時代末期には「成田」という地名が既にあったことになります。

文字としての「成田」が最初に出てくるのが「成田五郎頼重」ならば、地名としての「成田」が
最初に出てくるのは、寺台の「永興寺」にある聖観音像の胎内銘であるとされています。
「成田市史 風俗編」には、「成田」の地名の由来について、次のように書かれています。

「 成田の初出  成田の地名が始めてみられる記録としては、寺台の永興寺所蔵になる
聖観音像の胎内銘で室町時代の応永一五年(一四〇八)二月「成田郷大檀那光量」と
いう文字が記されている。 この聖観音像は、もと成田の仲町にあった禅宗安養寺の本尊
にして、明治初年の廃寺のときに本寺永興寺へ移されたものである。 当時、成田の郷に
安養時の大檀那として光量なる人物が存在していたことがわかる。 なお、神奈川県横浜
市の金沢文庫文書の如賢書状に「成田御百姓并羽鳥大御田作人等」になる文字があり、
鎌倉末期から室町初期にかけての文書と考えられているが、惜しいことに年代がはっきり
していない。 その点から前記聖観音像の胎内銘は、成田の地名を応永一五年までさか
のぼれる貴重な資料といえる。」 
(P9~10)

「聖観音像」の胎内銘の年代は、「成田五郎」が鉱石を寄進した240年後ですが、金沢文庫
の「如賢書状」の存在もあり、「成田」という地名が「五郎」の生きた時代には既にあったと
考えてもおかしくありません。
「成田五郎」は、「成田」という文字が(知られているかぎり)最初に現れる人であり、「成田」
の地名を(知られているかぎり)最初に知らしめた人でもあるということになります。

「成田」という地名の由来については諸説あるようです。
① 昔から雷が多い地だったので、雷の鳴る田→鳴田→成田となった
② 良い稲ができる地だったことから、熟田(ナリタ)となった
③ 田を開いた地なので、田に成る→成田となった
などですが、前掲の「成田山全圖」に、成田という字(あざ)が書き込まれています。

img007 (2)
①ユウガイト云字アリ要害ノ訛ナラン
②成田村 鎮守三ノ宮 (三ノ宮埴生神社)
③石宮 道祖神 (三竹山道祖神・北向きのドウロクジン)
④不動堂 (成田山新勝寺)
⑤藥師堂 (明暦の本堂)
⑥大井戸字成田ト云

上部の⑥に、「大井戸字成田ト云」とある場所です。
この場所は、現在の幸町にある成田小学校の下、「古葉師踏切」のあたりになるようです。
表参道の米屋本店裏にある「不動の大井戸」と同じ水脈がこの「字成田」を通り、ほどなく
地表に現れて「小橋川」となっていたと思われます。

足跡ー59 ← 不動の大井戸
 成田小学校下 → 幸町-65幸町-69 ← 古葉師踏切

素人の妄想に近い推論ですが、
「平安時代末期に、「大井戸字成田」あたりを領していた、千葉氏に連なる「成田五郎頼重」が、
「お仙稲荷」の下に葬られている。」となりそうです。


成田五郎-14

「成田五郎」が眠っている「要害」の地からは、遠くに新勝寺の大伽藍が見えています。
彼がここに葬られたであろう頃には「新勝寺」はまだこの地に無く、遠く公津ヶ原の森の中で、
忘れられたように荒れ果てていました。


成田五郎-0000_LI (4)成田五郎-0000_LI
                                   [PIXTA]

「成田五郎頼重」は、歴史の彼方でほんの少し顔を出しているだけです。
その存在はほとんど知られていないままですが、実は成田にとってとても重要な人物だった
のかもしれません。

いつかまた、意外なところで「成田五郎」を目にすることがあるような予感がします。




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

人とその歴史 | 10:39:08 | トラックバック(0) | コメント(0)