今回は匝瑳市の飯高寺の「飯高檀林跡」を訪ねます。

飯高寺(はんこうじ)には、天正八年(1580)から明治七年(1874)までの約300年にわたり、
「飯高檀林」と呼ばれる法華宗(日蓮宗)の学問所が置かれていました。
総門、鼓楼、鐘楼、講堂等は国の重要文化財に指定され、鬱蒼とした森に覆われた境内は
県の指定史跡となっています。
檀林(だんりん)とは、僧侶の集りを栴檀(せんだん)の林に例えた「栴檀林」の略で、仏教の
学問修行所のことを指します。
「飯高寺(ハンコウジ) (一)日蓮宗。 (二)妙雲山と號す。初め日祐、法輪寺なる一寺を
松崎村に建立す。これ本寺の草創なり。永禄年中、もと小田原北條氏の臣平山某の城址
なる現在の地に移る。天正十九年、徳川家康、寺領三十石の朱印を附與せしがこの朱印狀
に飯高寺とありしかば爾後寺號を今の如く改むと云ふ。尚ほ此際、檀林設置を許可せられ、
大講堂以下の諸堂造營せられる。教藏院日生これが開講の祖たり。宗門最初の根本檀林
と稍せらるゝ。飯高檀林即ちこれにして、學僧常に千人を越えたりと云う。 (三)寺域、丘陵
の地を占めて眺望に富み、大講堂・書院・庫裏・學問所・對面所・鐘楼・鼓堂・一切経藏・
文句論談所・玄義論談所等の諸堂宇を具備す。寺寶に、徳川光圀書簡其他あり。」
(「日本社寺大觀 寺院編」 昭和45年 名著刊行会)
飯高檀林は、明治五年(1872)の「学制」発布により、明治七年(1874)に廃檀となりました。

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急坂に続いて、これまた急な石段を登ったところに、国の重要文化財の「総門」があります。
間口は約4.7m、脇門が約1.9m、左袖約2.7m、右袖約3.6mの腕木門です。



「総門」は初め延宝八年(1673)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
所々に補修の跡がありますが、主要部分には335年前の堂々たる木組みが残っています。
天明二年は、その後7年間続いた「天明の大飢饉」の始まりの年でした。


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総門をくぐり、樹齢2~300年の杉の大木が並ぶ参道を進みます。
これらの杉は、紀州家から寄進された熊野杉です。
千葉県教育委員会の説明板は、次のように「飯高檀林(跡)」を解説しています。
「天正八年(一五八〇)土地の豪族平山刑部少輔常時は日生を招き、城内に寺をつくり学問所
(檀林)としたのが始まり伝えられています。 天正十九年に徳川家より日蓮宗の宗門根本檀林
として公認され、以後徳川家の保護を受けてきました。特に、家康の側室養珠院「おまんの方」
の信仰が厚く、その子水戸頼房・紀伊頼宣の寄進等により規模が整えられました。以後、寺は
日蓮宗の根本檀林として遠近各地から参集する修行僧たちでにぎわい、名僧を輩出しました。
慶安三年(一六五〇)に火災にあい、 衆寮・楼門・大講堂を焼失し、 現在の建物はその翌年
(慶安四年)に再建されたものといわれています。」
参道を右に折れて、しばらく進むと歴代の化主(けしゅ)の供養塔が並ぶ「廟所」があります。
「化主」とは、檀林の最上位である檀林長のことです。


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正面には檀林初期の化主の供養塔が並んでいます。
中央に「開山蓮成院日尊聖人 慶長八癸卯年」と刻んだ塔があり、その左右の塔には、
二世・法雲院日道、三世・心性院日遠、十三世・寿量院日祐などの名が読み取れます。
手前の灯籠は正保四年(1647)のものです。
「蓮成院日尊」は、天正元年(1573)に「要行院日統」が飯塚村の光福寺に開いた
「飯塚檀林」を、「教藏院日生」と共に飯高村の妙福寺に、さらに法輪寺(後に飯高寺)
へと移して「飯高檀林」の基礎を築いた名僧です。
日尊は後に池上本門寺の十三世貫首となっています。
「法雲院日道」は、約1年の在位の後、久遠寺の十九世となっています。
「心性院日遠」は、約5年間にわたって檀林の組織や教育制度の充実などに尽力し、
その後身延山西谷檀林の檀林長となっています。
ここに、墓石ではなく慰霊塔が並んでいるのは、歴代の化主はそれぞれに池上本門寺や
身延山久遠寺をはじめとする全国の寺へと招聘されていったため、その墓所は招聘先に
存在するからです。

風化が進んで読みにくくなっているものもありますが、いずれも「○○世○○聖人(または上人)」
と刻まれ、宝永、正徳、享保、元文、寛延、宝暦、天保などの元号が読めます。

この「飯高檀林(飯高寺)」は、その学問所としての成り立ちから、檀家を持たないと聞いて
いましたが、この廟所の一段高くなった場所に比較的新しく見える、「○○家」と刻まれた
墓石群があります。
たまたまここを清掃中であった方に尋ねると、「もともと崖下にあった墓地が崖崩れに遭い、
仕方なくこの場所に移設させてもらったのだが、偉いお坊さんより高い場所となってしまい、
申し訳ない気持ちです。」と話してくれました。

参道に戻ると、ここが元々は平山常時の居城であった痕跡の空堀があります。
過日の面影はありませんが、相当深く掘られています。


経文や諸文書を収める「一切経藏」。
寛文十二年(1672)に建立されましたが、天明二年(1782)に再建されました。
傷みが激しいため、外壁はモルタル塗装で補強されています。

飯高檀林は現在の「立正大学」発祥の地とされています。
立正大学のホームページにも、平成2年に建立されたこの石碑が紹介されています。



木造寄棟造の「題目堂」。
18世紀ごろの建立とされています。
学僧達が上級試験に合格できるよう祈願したと伝えられています。
手前の手水鉢は明治八年(1875)の寄進ですが、その時には檀林は既に廃檀となって
いましたので、どんな気持ちでこの小さな手水鉢を寄進したのでしょうか?

題目堂の先、参道の左手に鳥居が見えます。
「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」です。
この神社にまつわる話が、匝瑳市のホームページにありました。
少々長くなりますが、面白い話なので、ふりがなを省略して紹介します。
「その昔、檀林の僧が、朝早く、掃除をしようとして、大講堂の前庭に出てみると、総門の方か
ら、大講堂の昇り段のところまで、狐の足跡がはっきりとついていた。 庭を歩き回った足跡
からみて、大講堂の中へ入った様子なのだ。 僧は狐がどうして大講堂の中に入ったのか、
不思議に思えてならなかった。翌日も、足跡は大講堂のところで切れていた。 僧は、仲間に
このことを話した。 「それはおもしろいぞ。みんなで探してみるか」ということになり、鶯谷一帯
を探し回ってみた。 狐は見つからない。 夜中も見張っていたが、狐らしいものは一向に見当
らないのだ。 何日かたって、今度は、「南無妙法蓮華経」とお題目を書いた木の葉が、庭に
落ちていた。 このことは、飯高村ばかりではなく、このあたり一帯の評判となった。 足跡を
残した狐の仕業とも思われず、かと言って、そんなことは誰もしていない。 当時は、憶測に
憶測が重なって、いろいろなうわさ話が生まれたようだ。 ところが、何年か過ぎて、その正体
がはっきりした。 能化上人の檀林入山式の日のことである。 その日は、上人の入山式と
あって、大酒盛があった。 普段、酒など飲めない学僧なので、その日だけは、無礼講とばかり、
みんな酔いつぶれるほど飲んだ。 酒宴も終わり、僧たちはみんな引き上げてしまった。 ところ
が、一人の僧が酔いつぶれて動こうとしない。 上人は、不思議に思っていろいろと尋ねてみた。
僧は、上人の前にひざまづき、ついに、正体を現わしてしまった。狐だったのだ。 この狐は、
表参道の橋げた近くの穴に住んでいた。 毎日、毎日学僧の唱える法華経の教えに感動して、
勉強がしたくなり、能化の授業に出席していた。 何年も何年もの間。しかも、一生懸命だったの
で、いろいろな教えの奥義を身につけ、時々、学寮の僧たちに、法門を指南するほどであった。
上人は、この話を聞き、法華経の奥義をきわめ、学僧の師となった努力に対して、僧に化けて
いたことを許してやることにした。 狐は、これから後、法華経の教えを守る一族として、仕える
ことを誓ったのである。 上人は、狐のために、大講堂の前庭の一角に、祠をつくり、ここに住ま
わせた。 後に、この祠は、古能葉稲荷大明神と呼ばれ久遠寺本仏(くおんじほんぶつ)の代
わり身として、信心する者が多いという。 今でも、五穀の守護神として、願をかけ、成就のお礼
に赤い幟を立てる者が大勢いる。」

絵馬掛けには多くの絵馬が


寛政十二年(1800)



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明治三十九年(1906)に奉納の狐の表情は、何か笑っているような・・・。

「古能葉稲荷大明神」と参道を挟んだ場所に三基の石造物があります。
右は明治四十九年(1909)の題目塔です。

左の石塔は「享保廿乙卯年」の紀年銘がある、道標です。
正面には「飯高檀林道」と刻み、側面には「いいたか」や「てうしみち」と刻まれています。
(「てうしみち」とは九十九里浜を銚子へと向かう「銚子道」のことと思われます。)
享保二十年は西暦1735年ですから、約280年前のものです。

真ん中にあるこの石造物に刻まれた文字は「崇石」と読めますが、「崇」はもともと高い山という
意味で、「たっとぶ」とか「あがめる」という意味をもっています。
”それにしては何ともこじんまりしているなァ”と思ったら、「これは『崇』ではなく、『祟』ですよ。」
と、観光ガイドの方(※追記を参照してください)に教えられました。
確かによく見ると、「山に宗」ではなく、「出に示」の祟(すい=たたる・たたりの意)でした。
匝瑳市のホームページにこの「祟石(たたりいし)」にまつわる話が載っています。
「正保四年(1640)、飯高檀林で総門前に石段をつくることになり、江戸から石を買い、小見川
まで船で運んで来た。そのあと、陸路を檀林まで運ぶのであるが、途中の神生村(旧山田町)
の藤右衛門という者が、そのうちの一つを盗んでしまった。 ところが、藤右衛門の家に不幸が
続き、「石を盗んだ祟りだ」ということになった。 そこで、親類の勘衛門という人に頼み、飯高寺
名主与右衛門を通して詫を入れ、ざんげの意を「祟石」と刻し、檀林へ戻したと言われている。」

「講堂」の前に来ました。
珍しい栩葺(とちぶき)の堂々たる姿で、重要文化財としては県内最大級の建築物です。
「八日市場市史」の記述から、この「講堂」の変遷を要約すると、次のようになります。
檀林の初期の頃、講堂は総門の左側にあったと考えられていますが、慶長元年(1596)
に初代檀林長の日尊によって現在地に再建されました。
この講堂は、学僧の増加によって手狭となったため、慶安元年(1648)に家康の側室
「おまんの方」の寄進によって再築されました。
しかし、慶安三年(1650)の火災により焼失してしまったため、慶安四年(1651)に水戸藩
によって再建されたのが現在の講堂です。
約370年前の慶安四年は、軍学者・由井正雪の乱、いわゆる慶安事件が起こった年です。



千葉県教育委員会のホームページには、この講堂について次のように解説されています。
「その後、何度かの修理を経て桁行26.7m、梁間16.2mで寄棟造、鉄板葺となって
いたが、平成9年(1997)から平成14年(2002)の半解体修理の際の調査で、かつては
屋根が入母屋造の栩葺き(とちぶき)であったことが判明し、旧に復した。」


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講堂の前面には、3.82mの奥行を持つ広縁がまっすぐ伸びています。
この広縁を、大勢の学僧が行き来している風景が浮かびます。

境内の右手には、入母屋造り茅葺き、袴腰の付いた、重要文化財の「鼓楼」があります。
享保五年(1720)に建立されました。


ここで、学僧を講堂に呼集するために太鼓を鳴らしました。
太鼓の音が遠くまで響くように、袴腰の地面に大きな瓶を口縁部分を残して埋めてあります。

「鼓楼」の脇に、集落へ下る石段があります。
「水門坂」と呼ばれ、集落には学僧相手の様々な店が並んでいたようです。
ある程度裕福な家の子弟でないと、全てが自己負担である檀林での長期間の生活は難し
かったようで、それだけに、近隣の集落は学僧達の落とす金でそこそこ潤っていたようです。

境内の左側には、これも国の重要文化財の鐘楼があります。
慶安三年(1650)の火災で焼失した後、承応年代(1652~1654)に再建されました。
「梵鐘には寛永十六年(一六三九)秋の銘があり、現存の鐘楼が再建される以前、やはり
鐘楼があって慶安三年の火災で講堂などとともに焼失したと考えられる。」
(「八日市場市史 下巻」 P198)

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屋根は鉄板葺きでしたが、平成4年の補修の際に講堂と同様に以前の栩葺きに戻されました。

講堂の裏手には化主の住居であった「庫裏」があります。
現在の庫裏は、明治の廃檀後に移築され、その後も改修を加えられていますが、元々の
庫裏は何度か改築や焼失を繰り返して、寛文十年(1670)ごろに再建されました。

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庫裏の横を下る道は裏参道です。


裏参道を登ってくると、講堂の裏側と鼓楼が見えてきます。

『「学徒帳」によると、元禄期(一七〇〇年)ごろはおよそ四五〇から六五〇名の生徒が学んで
おり、文政十三年の「檀林明細書」には「千人以上」と見られる。それらのほとんどは寄宿生活
で、 (中略) 享和三年(一八〇三)四月の「御由緒明細書」によると、城下谷一七軒、中台谷
二〇軒、松和田谷二二軒、合わせて五九軒あった。』 (八日市場市史 下巻 P202)

「その飯高檀林の修学課程は、天台学研究を踏まえて、最後に日蓮聖人の御書を研鑽すると
いう初等教育課程から専門研究過程に至る八階級が設置されている。すなわち、(1)名目部
(2)四教儀部 (3)集解部 (4)観心部 (5)玄義部 (6)文句部 (7)止観部 (8)御書科の
八課程である。名目部に入学して全課程修了まで、早い者で十三~十五年、普通は二十年
の修学期間を必要とした。」 (同 P190)


厳しく長い修行を終えた学僧達は、ここから全国の寺へと旅立って行きました。
かつては、大勢の学僧の研鑽する熱気が充満していたであろう境内には、今はただ冷峻な
空気が静かに流れています。

※ 「飯高檀林(跡)」 匝瑳市飯高1789
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