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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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「松崎街道・なりたみち」を歩く(3)~雷神社から善導大師堂まで
「山口県道踏切」を越えてきました。

松崎街道ー42
松崎街道ー43
雷神社ー1

踏切を越え、小橋川に架かる「雷神橋」を渡ると、正面が「雷神社(らいじんじゃ)」です。


雷神社ー6
雷神社ー11

『字雷アリ、地坪四拾九坪。祭神ハ大雷神ナリ。境内ノ土地醎気ヲ帯ヒ海塩ノ如シ』

「下総國下埴生郡山口村誌」にある、こんな記述を見て、
『塩害があるような場所ではありませんので、太古にこの一帯が海だった名残でしょうか?
そんな土壌に見事な森が育つものなのか、記述に誤りがあるのか、何らかの理由で一時的
に醎気(かんき-辛い・塩辛い)を帯びたのでしょうか?』

と、昨年暮れの「雷神社」の項で書きましたが、その後に、この一帯が太古には海底や浜辺
だったことが科学的に証明されていることを知りました。

神社の土が塩辛いのは、“太古の記憶”だったわけです。
悠久の時の流れの中では、成田詣での人々が行き交う「街道」が、鉄道に分断され、新しい
道が作られて、通う人の無い草生す廃道となって行くことなど、ほんの一瞬のことでしかない
ことを思い知らされました。

1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック

雷神社ー20

神社の木陰が心地良く、もう少し休んでいたいところですが、「松崎街道」はまだ道半ば、
がんばって先に進みましょう。


松崎街道ー44

小橋川の向こう岸に地蔵堂が見えています。
葦が密生していて近づけませんが、旧道の名残でしょうか?


松崎街道ー45

市街地をちょっと外れると、車に轢かれる野生動物が多くなります。
車の犠牲になったタヌキだけでも、毎年10頭は目にします。
たまたま私が目にするだけでこの数ですから、近郊で犠牲になる頭数は相当な数でしょう。

動物の生活圏を人間が侵し、移動が命がけになってしまったことを、せめて申し訳なく思って
注意して走るくらいは当然ですよね。
「松崎街道」を「満咲花街道(まんざきはなかいどう)」としたセンスは☆三つです。


松崎街道ー155
松崎街道ー153
松崎街道ー156

道は急な登り坂になります。
木々が両脇から迫って、昼間でも薄暗い坂道です。
(※ きつい“のぼり”は「登り」、ゆるい“のぼり”は「上り」と表現しています。)

江戸時代にはこの峠道に数軒の茶店があったそうです。


松崎街道ー157

坂を登り切ると、突然道幅が広がり、今度はすぐに下り坂になります。
左に見えているのは「成田北高校」です。

※ 「松崎街道」は、県道18号線(成田・安食線)の旧道とほぼ同じです。
  現在の18号線は土屋の交差点から栄町・酒直までのバイパスがメインで、「松崎街道」側は裏道という感じです。
  表現の混乱を避けるため、本ブログでは「県道18号線の旧道」ではなく、「松崎街道」に統一して呼んでいます。



松崎街道-169
湯川駅ー28
湯川駅ー25

坂を下りきった右奥に、成田高速鉄道アクセス線の「成田湯川駅」があります。


松崎街道ー159

平成22年7月に開業した「成田湯川駅」ですが、周辺ではまだ工事が続いています。

工事現場をのぞいていて、ふと、この駅を取材していたときにホームから見た不思議な
踏切のことを思い出しました。

湯川駅ー14 本年1月初旬撮影湯川駅ー15

『ふと外を見ると100メートルほど先で何やら工事が行われています。
トンネルを掘っているように見えますが、良く見ると踏切がありました。
仮設の踏切のようで、下の細い道から木組みの階段が設けられています。
工事の上は線路のようです。
と、すると、この工事はトンネルではなく、線路をくぐるガード工事ですね。
線路はJR成田線でしょうか?』

と、そのとき私は書きました。

成田で一番新しい駅「成田湯川駅」 ☜ ここをクリック

ちょっと寄り道をしてみましょう。
駅の脇を進むと、重機がうなり、警備の人が何人も見えます。
入って行くのはちょっと気が引ける感じです。


松崎街道ー160
松崎街道ー161

工事フェンスの壁の中、急坂を登ると、小さな踏切がありました。
もちろん、車は通れません。
両方向とも登山道のような急坂ですから、自転車も無理でしょう。
人が通るだけの道と踏切ですが、工事関係者以外に利用する人がいるとは思えません。

ゼンリン地図2014年版で調べたところ、「第二大鷲踏切」と書かれていました。
工事のために作られたものではなく、以前からあった踏切のようです。


松崎街道ー162

だいぶ先の方に、工事中の舗装道路が見えています。
警備の方に尋ねたところ、その先はまだつながっていないとのことでした。
(ゼンリン地図で確認すると点線になっていました。)

戻ることにしましょう。

松崎街道ー163 踏切から見る湯川駅
松崎街道ー164    成田駅方面


高架の下をくぐって街道に戻りました。
角に石仏が立っています。
「千波が池(千把ヶ池)跡」です。

松崎街道ー165

このお地蔵様の前には、辺り一面が萱原の「千把ヶ池(せんばがいけ)」という幅90メートル
深さ1メートルほどの池があったそうです。

大正三年(1914)の「八生村誌」には、
『昔松崎村ノ一農家ニお鶴ト云フ女アリケリ。体格力量衆ニ勝レ、仕事上手ニシテ数人前ノ
働キヲナセリ。或年ノ田植時千把ノ苗ヲ運バセテ一日ニ植終ラント一心不乱ニ植ケル程ニ、
日ハ西天ニ傾キタレド未ダ隠レザルニ植終リシカバお鶴ハ己ガ手柄ニ驕リヤシケン股内
ヨリ夕陽ヲノゾキテ、お日さまハ又入リヤラヌト叫ビシニ、忽チ天罰ヲ蒙リテ其場ニ斃レ死セ
リト。村民其田ヲ穿チテ池トナシ、千把ヶ池ト云フ。』
 
(成田市史 近代編史料集一 P243)
との記述が見えます。
この話は、こんな風に変化して伝わってもいます。
「松崎村にお鶴という身体の大きな娘がいたが、ある日、名主に“暮六つまでに千把の苗
を植えられたら、その田んぼはお前にやろう”と言われ、がんばって苗を植えてもう少しで
終わるところまできた。それを見た名主は慌てて寺に行き、早めに暮六つの鐘を撞いた。
しかし、お鶴は股下からお日さまを見て、“まだ暮六つじゃあない、オラの勝ちだ。”と叫ん
だが、力が抜けて田んぼに倒れ込んでそのまま死んでしまった。その後田んぼが沈んで
池になった。」

こうした言い伝えの変化はおもしろいものですね。
このお地蔵さまはお鶴の供養のために建てられたのでしょうか?


松崎街道ー167

文化十一年(1814)の建立で、側面には「十五夜講中」と記されています。


松崎街道ー166

左に建っているのは「廿三夜供養塔」です。
二十三夜の月待講の本尊、勢至菩薩が彫られていて、明和七年(1770)の建立です。


松崎街道ー168

右の「奉讀普門品一萬巻供養塔」には文政十三年(1830)と記されています。
側面を見ると、「ぜんどうだいしみち あじきへととおりぬけ」と読める文字と、指差すやじるし
)が見えています。
180年以上も前に、 が使われていたとは驚きです。

松崎街道ー231


ところで、この石塔が正しい位置に建てられているとすると、指は「成田湯川駅」の方向を
指しています。
もしかして、先ほどの踏切の道が「ぬけみち」なのでしょうか?


善導大師ー31

「ぜんどうだいし」とは、松崎にある「善導大師堂」のことで、街道からはちょっと外れた場所
にある、古いお堂です。
駅を抜けて踏切を越えて行く、消えかかった道は、「松崎街道」の旧道なのかも知れません。


湯川駅ー2

千把ヶ池の地蔵堂の前を過ぎ、信号を右に曲がると、またもやきつい登り坂です。
「成田湯川駅」が眼下に見えてきます。


松崎街道ー55
松崎街道ー56
松崎街道ー76

昔からの「峠の茶屋」風の蕎麦屋さん。
昔からこの場所にあったとすると、いろいろ話が聞けるかも知れません。
この日は定休日だったので、後日来店してご主人にお尋ねしましたが、残念ながら、創業して
30年程だそうです。


松崎街道ー77

蕎麦屋さんを過ぎて、もう少し登ると峠の頂上(?)になり、今度は下り坂になります。
(頂上付近は現在湯川駅関連の工事中です。)


松崎街道ー59
松崎街道ー60

街道の右側に、ツツジがきれいに刈り込まれた「無縁塚供養塔」が建っています。
お堂の中のお地蔵さまの台座には「百人講中」と刻まれています。


松崎街道ー173
松崎街道ー61

「無縁塚」のすぐ先で道は二又に分かれます。
「松崎街道」は右に下る坂道になります。
左に行くとニュータウンの玉造地区に至ります。


松崎街道ー57
松崎街道ー58

分かれ道に、白い苔に覆われた5基の石塔が並んでいます。
左から二番目は月待塔のようです。
全体が苔に覆われていますので、文字等は全く読めません。
二股の分かれ道ですので、場所からすると、どれかは道祖神だと思います。


松崎街道ー170
松崎街道ー171

二又を右に行くと小さな橋があり、再び上り坂になります。


松崎街道ー172

橋の下はJR成田線(成田~我孫子)です。
ここはびっくりするほど深い谷になっています。


松崎街道ー200

道はまた二又になりました。
「松崎街道」は左に折れ、今度は坂を下ります。


松崎街道ー201

二又の角に「八生村道路元(標)」があります。
台の坂上の「薬師堂」前にあった、「成田町道路元標」と同じようなものですね。

「八生村(はぶむら)」は、明治二十二年(1889)の町村制施行によって誕生した村で、
松崎村、大竹村、上福田村、下福田村、宝田村、押畑村、山口村、米野村が合併して
できた村です。
明治二十四年(1891)の人口は3227人、戸数は634戸でした。
昭和29年に成田町等と合併して成田市となりました。

ここまで来たらちょっと足を延ばして、以前訪ねた「来迎寺」と「千把ヶ池跡」にあった
指す「善導大師堂」に立ち寄りましょう。

松崎街道ー195

「八生村道路元標」のある二又路を街道から外れて、右に進んでみます。
道は狭く曲がりくねっていて、家並みが旧街道風です。


松崎街道ー199

突き当たりがT字路になって、ここを右に行きます。
左は車両進入禁止で、細い路地のようです。


松崎街道ー197
松崎街道ー196

T字路の一段高くなったところに小さな祠があります。
近づいてみると、「道祖神」と刻まれていました。


松崎街道ー202

細い道が続き、また二又路が現れます。
ここを右に進むと、「来迎寺(らいこうじ)」です。


松崎街道ー174
来迎寺ー4
来迎寺ー13

「来迎寺」は天台宗のお寺で、山号は「松葉山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」、栄町の「竜角寺」の末寺です。
創建年代は不詳とされています。

境内を覆うような榧(カヤ)の大木は、昔から「日暮の榧」と呼ばれています。
『 日暮ノ榧  松崎来迎寺境内ニアリ。周圍二間。丈高カラズシテ其枝八方二垂レ、殆ント
一反歩餘ヲ壓ス。夏季此ノ下ニアルヤ涼気自ラ来リ去ル能ハズ。遂ニ日ノ暮ルゝヲ覚ヘズト。
因リテ此名アリ。』
 (成田市史 近代編史料集一 P244)

来迎寺 ☜ ここをクリック

松崎街道ー176
松崎街道ー179

道を挟んで「善導大師堂」があります。

『其後安貞元年八月十四日夜當國ノ城主千葉六郎太夫入道、法阿沙弥善導大師ノ靈夢ヲ
蒙リ、印旛湖ノ湄リ埴生ノ郡松崎ト云里ヲ尋ネ給フニ浦辺近キ芦間ヨリ光明赫々、其容貌
半バ金色ニテ、腰ヨリ上ハ黒染ノ木像壱軀ト水難除ノ守船板名号ヲ発見シ、大ニ警キ再拜
崇敬シ、則チ松崎村ヘ草堂ヲ建設アリ。』

(「成田市史 中世・近世編 P219)

開基は安貞元年(1227)。
千葉一族で、東氏初代当主の千葉六郎(東胤頼)が、お告げを得て印旛沼から引揚げたと
伝えられる「善導大師像」を本尊としています。

善導大師堂 ☜ ここをクリック

さて、「松崎街道・なりたみち」も終盤になってきました。
ここで一息ついて、次回はこの一帯の旧道を巡りながら「下総万崎駅」へ向かいます。
そして街道の(私が勝手に定めた)終点の「成田街道踏切」まで歩きます。


松崎街道ー225
松崎街道ー224




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

街 道 | 08:43:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)~埴生神社裏から小橋川のほとりまで
今回は「埴生神社」からの出発です。

松崎街道ー128

郷部橋を渡ると左側には「埴生神社」の裏口が見えています。


松崎街道ー17

橋の下をJR成田線が走っています。
先に見えるのが、前回渡りかけた跨線橋です。
橋を渡ってすぐ、右(画面の左側)の坂道を下ります。


松崎街道ー130

橋の上から反対側を見ると、成田線の我孫子線と佐原・銚子方面への分岐点が見えます。


松崎街道ー18
松崎街道ー19

坂を下って跨線橋に着きました。
向こう側は前回歩いた滑川への旧道へ上る道です。
間違いなく、昔はこの跨線橋のあたりを「松崎街道・なりたみち」が通っていました。


松崎街道ー20

踏切跡(?)から道は大きく左へと曲がります。
下り坂はまだ続いています。


松崎街道ー22
松崎街道ー21

左手斜面に「記念碑」と記された石碑がありました。
碑文を読んでみます。

『抑この道は旧安食みちであり、成田市が道路改修を行うに当り、関係各位に多大な協力を
受け併せて久保庭利平氏により埴生神社御手洗井改修を行い工事の完成をなした。
此に交通安全と地域住民の繁栄を念願する。平成八年十二月吉日 成田市長 小川国彦』


ここは「埴生神社」の御手洗井戸だったようです。
この碑文でも分かるように、昔からこの街道は「安食みち」と呼ばれていて、「松崎街道」と
呼ぶようになったのは歴史的には最近のことのようです。


松崎街道ー23
松崎街道ー24

この井戸の後方は密生した竹やぶの山です。
ここには明治初期に廃寺となった「神光寺(じんこうじ)」がありました。

「神光寺」は真言宗のお寺で、山号は「仏伝山」。
成田山新勝寺の末寺で、ご本尊は恵心僧都作の「阿弥陀如来」でした。
「恵心僧都(えしんそうず)」は平安時代中期の天台宗の僧、源信の尊称です。
「證明寺」の項でも瑠璃台の薬師如来像を刻した高僧として登場しました。

『郷部村にあった門徒寺で、仏伝山神光寺と称し、本尊は恵心僧都作の阿弥陀如来と伝
えられる。石高は六石八斗八升九合。郷部村内に真言宗の檀家が三軒あるが、いずれも
成田山の檀家となっていて同寺は無檀家。享保年間以降、照盤・照寿・寛善・照竜といった
僧侶が住しているが、無住になることが多い。天保十年には後に成田山中興第十三世と
なる照輪もいたことがある。』
 (「成田市史 中世・近世編」 P709)

成田山新勝寺の末寺には、「門末六か寺」と呼ばれる、延命院・観音院・正福院・南光坊・
神光寺・円応寺の六寺があり、延命院のみが末寺で、他の五寺はその下の門徒寺と呼ばれ
ていました。
観音院、神光寺は明治初期に、南光院は明治十七年、延命院は明治二十六年に廃寺となり、
現在は米野の円応寺のみが残っています。
明治初期に廃寺となった「神光寺」については、明治十七年に編さんされた「下埴生郡郷部
村誌」には記述されていません。

「神光寺」については「成田の史跡散歩」にこんなエピソードが紹介されています。
『また歴代住職の一人、蹄阿上人は俳人小林一茶と親しくした僧侶で、俳号を至長という。
妻を亡くして、文化元年(一八〇四)に四二歳で出家した人物で、京都の智積院での修業
を経て、同七年四月に神光寺の住職になっている。文化十二年十二月十四日に成田山
参詣を終えた一茶は、成田から木下(現印西市)に向かっているが、このとき至長が道案内
をしているので、通り道になる神光寺にも立ち寄り、句作について語りあったことだろう。』

(P72)
200年前に、この道を一茶も同じように歩いたのですね。


松崎街道ー25

道は急な上り坂となり、前方に「観音堂」が見えてきます。


松崎街道ー26
松崎街道ー27

「観音堂」のご本尊は「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)」で、安産・子育ての観音様として
信仰を集めています。
この「観音堂」は「神光寺」の管理下にありました。
廃寺となった「神光寺」の本尊や、市の指定文化財となっている「阿弥陀如来三尊来迎図」
と「地蔵十王図」は、現在はこの「観音堂」に収められています。


松崎街道ー28
松崎街道ー29

狭い境内には小さなお堂や石塔が並んでいます。


松崎街道ー34

観音像が線描されているこの石碑は、昭和9年のものです。


松崎街道ー30

観音像の他の石塔は白い苔に覆われて、紀年銘などは読めません。

松崎街道ー31   青面金剛
松崎街道ー32   馬頭観音
松崎街道ー33   如意輪観音

松崎街道ー35

この「観音堂」は昭和63年に再建されたものです。
以前はここで、あの「いしばし」が渡り板になったり、井戸の流し台になったりしていました。

石橋地蔵ー39  かつての「いしばし橋」

石橋地蔵と清水地蔵 ☜ ここをクリック


松崎街道ー36
松崎街道ー37

「観音堂」をあとに、左に大きくカーブする街道は、ようやく平坦になります。
左側に「浅間神社」がありますが、周囲はすっかり住宅地となっていて、その一角にかろうじて
残っているといった感じです。


松崎街道ー38
松崎街道ー39

郷部の交差点が見えてきました。
ここまでは、台の坂を上り、「三竹山道祖神」から「埴生神社」や「神光寺跡」の下までを下り、
そこから「観音堂」まで再び上るという、アップダウンのきつい道のりです。


松崎街道ー41

正面に「石橋地蔵・清水地蔵」が現れます。

ちょっとお参りして行きましょう。

   「いしばし橋」の石橋 石橋地蔵ー13
「いしばし橋」の石橋地蔵 石橋地蔵ー29 
 首だけだった清水地蔵  石橋地蔵ー30

もう一度、石橋地蔵と清水地蔵 ☜ ここをクリック


松崎街道ー137
松崎街道ー136

ここで郷部の交差点を横切ります。
とても交通量の多い所で、左は郷部大橋です。


松崎街道ー131
松崎街道ー132

交差点を渡ると右側にちょっと変わった建造物が見えてきます。
これは郷部配水場の貯水塔で、平成元年から排水を開始しました。


松崎街道ー71
松崎街道ー72

右側に「成田山奉納 永代護摩木山」と刻まれた石柱が見えてきます。
護摩木山とは護摩焚きの護摩札になる木材を切り出す山のことで、成田山に向かう昔の
街道筋には十数ヶ所もあったと言われています。
この辺りは鬱蒼とした森が広がっていたのでしょう。


松崎街道ー68

明治十一年(1878)に建てられた「こま木山道」の石柱。
先ほどの石柱から少し下ったところに立っています。


松崎街道ー69
松崎街道ー70

「こま木山道」の石柱から道を挟んだ反対側の斜面に小さな墓地があります。
證明寺のご住職の話では、ここはニュータウンの開発などの伴い、この一帯にバラバラに
あったお墓を集めた場所です。
宝永、享保、寛延、延享、宝暦、天明、享和などの年号が見え、見事な彫りの墓石もありますが、
いくつかは不心得者によって持ち去られてしまったそうです。


松崎街道ー138
松崎街道ー139 坂は右に左に曲ります
松崎街道ー140

松崎街道ー141
松崎街道ー142
松崎街道ー143

ちょっと怖い橋がありました。
「山口橋」と書いてあります。
下はJRの線路で、渡った先には立派なお屋敷があります。
橋には相当傷みが出ているようで、欄干は工事用のフェンスで覆われています。


松崎街道ー144
松崎街道ー212

街道はひたすら下っています。
成田線の線路が目線の高さになってきました。

この先を右に入ると、つい先日紹介した「證明寺」と「稲荷神社」があります。

証明寺ー24
証明寺ー3 證明寺 ☜ ここをクリック
証明寺ー1
山口稲荷ー3
山口稲荷ー27 稲荷神社 ☜ ここをクリック
山口稲荷ー26


松崎街道ー211

「「證明寺」に入る道を過ぎて、少し進むと「山口県道踏切」があります。
踏切の手前で道が大きくカーブしていて、道幅も狭いため、車は踏切上ではすれ違えません。

向こうの方に「雷神社(らいじんじゃ)」の鳥居が見えています。

現在の松崎街道は、踏切を渡って「雷神橋」を渡り、まっすぐ「雷神社」まで進んでから右折して
湯川方面へと向かいますが、昔の街道は踏切の手前を右に入り(ちらっと小路が見えています)
300メートルほど進んでから小橋川を渡り、「雷神社」の先に出ていたようです。

小路は途中で途切れていますが、小橋川を渡る手前の場所にいくつかの石塔が立っています。

松崎街道ー145
松崎街道ー146

寛政六年(1794)の「奉待廿三夜」と刻まれた月待塔。

月待とは、十三夜、十五夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まって、
飲み食いした後にお経を唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
それぞれに本尊があり、例えば十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、二十三夜は
勢至菩薩が本尊になります。
月は勢至菩薩の化身であるとされていますので、二十三夜講が最も多く見られるようです。


松崎街道ー147
松崎街道ー65
松崎街道ー64


『石仏の場所は三叉路になった追分で、石仏はいずれも道標を兼ねている。一基は中央に
「南無阿弥陀仏」と文字を刻み、左右に「なめ川道」「なりた道」とある。』
『一基は文化七年七月のもので正面に不動明王像を刻み、左側面に「なめかわ道」、右側面
に「右なりた道」とある。』
 (「成田の史跡散歩」P219)


松崎街道ー148

手前にある丸い石は、「香取神宮」や「鎮守皇神社」にあった「力石」のように見えます。
何か文字が刻まれていますが、風化でほとんど判読できません。
かろうじて「右なりた」の文字だけが読めるような気がします。


松崎街道ー150

石仏の前にかつての街道の跡がかすかに残っていますが、今は畑に入る人だけが使う農道
になっているようです。
跡は数十メートル伸びて小橋川とJRの線路で断ち切られています。


松崎街道ー62

消えた街道の先を見ると、左にちらりと「雷神社」の鳥居が見えています。
昔の街道は「雷神社」の向かって右側、100メートルほどの所に出たはずです。


松崎街道ー151

道標を兼ねた石仏によれば、三叉路のもう一方は滑川に出る旧道のはずですが、こちらも
かつての面影は無く、単なる畦道と化しています。
少し先に進んでみましたが、田畑に通う人以外には通る人はいないようです。


松崎街道ー152

郷部大橋の下を流れてきた小橋川は、まだ川幅も狭く、葦に覆われて川面は見えません。

次回は小橋川を越えて湯川から松崎に入ります。


松崎街道ー223




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「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)~成田山から埴生神社まで
「松崎街道(まんざきかいどう)」とは、あまり聞き慣れない名前かも知れません。
いくつかある「なりたみち」の一つで、利根川から安食(あじき)を通って松崎(まんざき)を
抜け、成田山へ向かう旧街道のうち、前半が「安食街道(あじきかいどう)」、松崎に入った
後半が「松崎街道」となります。

松崎街道ー61

成田への街道の解説は、通常、成田山へ向かう上り(のぼり)の形で行われますが、今回は
趣向を変えて、成田山から松崎方面への下り(くだり)で歩いてみようと思います。
(いろいろ寄り道もしますので、数回に分けて紹介する予定です。)

余計なことですが、
MANZAKI St の表示より、Manzaki Road の方が「街道」のイメージが湧くと思うのですが・・・


境内ー20
山門ー16  昨年5月撮影
山門ー17
表参道ー40  昨年6月撮影
表参道ー39

成田山の大本堂、仁王門、総門を後に、表参道・台の坂を上ります。

松崎街道ー209
松崎街道ー207
松崎街道ー208

坂を上り切った突き当たりが明暦元年(1655)建立の、当時の本堂であった「薬師堂」です。
「薬師堂」下の歩道に「成田町道路元標」と刻まれた小さな石柱が立っていますが、大正八年
(1919)に設置されたもので、成田から各地への距離を計測するときの起点となります。

松崎街道ー108

薬師堂から右に向かうと、そこは「西参道・三の宮通り」です。


松崎街道-109
松崎街道ー1

西参道の幸町交差点付近から「松崎街道・なりたみち」は始まります。
「西参道三の宮通り」で紹介した道標にある、“西に上る 安食 木下 道”に従って、西参道
を進むことにします。

西参道・三の宮通り ☜ ここをクリック

松崎街道ー111
松崎街道ー3

交差点から西参道に入るとすぐに「黒田材木店」があり、その先を右に入る路地があります。


松崎街道ー10
松崎街道ー4

すぐに「三竹山道祖神」が見えてきます。
長い道のりを歩いてきた人たちがここで一息ついて、成田山参拝の準備をしたことでしょう。

あっさりと街道のスポットの一つに着いてしまいました。
ここはちょっと戻って、成田山の裏門から出発し直してみましょう。



裏門は土屋から長い坂を上る「裏参道」側にあります。


松崎街道ー115
松崎街道ー112

裏門から幸町の交差点に向かって坂道を上ります。
途中に信号のあるT字路があるので、ここを右へとさらに上ります。


松崎街道ー113
松崎街道ー116

けっこうきつい坂です。
振り返ると成田山の裏門の向こうに、イオンモールが見えています。


松崎街道ー117

しばらく上ると旧道に突き当たります。
左に行く道は「旧松崎街道・なりたみち」に合流する道で、(画面の手前になる)右に行く道は、
土屋を抜けて滑川へ向かう旧道です。
ここを左に300メートルほど進むと、先ほどの「三竹山道祖神」に着きます。(画面の正面方向)


松崎街道ー6
松崎街道ー7

道祖神の脇にはカヤの大木が祠を覆うように立っています。
細い道の路端にへばりつくような場所ですから、お参りするには膝を曲げてかがんで鳥居を
くぐらなければなりません。
鳥居は平成18年に奉納されたものです。


松崎街道ー9
松崎街道ー12

カヤの木の根元に三基の祠が並んでいます。
左と真ん中の祠には明和八年(1771)と刻まれています。
右端は元文四年(1739)の十五夜塔で、「奉唱十五夜講中町同行十八人」と記されています。
また、正面には「此方なりたみち」、右の側面には「此方なめ川道」、また左の側面には「此方
竜ヶ崎安食みち」とありますので、道標を兼ねていたのではないでしょうか。
方角が少しおかしいのは、もともとの場所から移されたからだと思われます。
表示からすると、本来は道祖神の反対側のT字路に、道祖神に向かって立っていたのでしょう。


松崎街道ー5

道祖神の脇には六体のお大師様が並んでいます。
台座には幾重にもお札が貼り付けられています。

「三竹山道祖神」は地元では「北向きのドウロクジン」と呼ばれています。
日中でもカヤの大木とNTTのビルに陽を遮られたこの場所は、まさに「北向き」の趣きですが、
「ドウロクジン」とは「道祖神」と六体のお大師様を併せて言った言葉なのでしょうか?

※ ドウロクジンとは「道陸神」と書き、「道祖神」と同じものだということが分かりました。(7/6)


松崎街道ー10

右側に見えているのがT字路で、左に向かうと「埴生神社」への道になります。
右へ入ると、滑川への旧道になります。


松崎街道ー86

先ほど成田山裏門方向から通ってきた道ですが、これが滑川への旧道です。
細くて暗い道ですが、こういう道には何か好奇心がくすぐられます。
もう一度戻ってみます。


松崎街道ー14

フェンス越しにチラリと階段が見えました。


松崎街道ー99
松崎街道ー100

階段は下へ下へと続いています。
普段人が通っている気配は無く、枯葉が積もっています。
この階段はどこへつながっているのでしょうか?


松崎街道ー120

道を覆っていた木々の隙間から、西参道にあるNTTの鉄塔が見えました。


松崎街道ー119
松崎街道ー121

道はまだまだ続きます。
突き当たりにコンクリートの壁が見えてきました。
民家が2、3軒ありましたが、あまり生活感が感じられません。


松崎街道ー122

コンクリートの壁の上はJRの線路でした。
細い道は一応舗装されてはいますが、人が通らないので草ボウボウです。
錆びた跨線橋が見えています。


松崎街道ー125
松崎街道ー126

跨線橋に上ってみました。
成田駅方向には西参道の郷部橋と「三ノ宮埴生神社」の森が見えています。
逆方向には、かすかに成田中学のグランドが見えます。


松崎街道ー124

気になるものを見つけました。
線路の向こう側のフェンスに、一ヶ所だけ扉のようになっている場所があります。

「西参道三の宮通り」の項で見つけた「旧江弁須街道跡」のように、ここには昔、線路を
横切る道があり、踏切があったのではないでしょうか?
跨線橋の向こうは埴生神社側から下ってくる坂道で、この踏切跡(?)に行きつきます。

何か分かったような気がします。
これは、「松崎街道・なりたみち」の旧道跡です!
旧道は「三竹山道祖神」から滑川への道を少し進み、左に曲がって坂道を下り、現在の
JRの線路を突っ切って「観音堂」へと向かっているのです。
「松崎街道」についての数少ない解説には、「三竹山道祖神」から郷部橋を渡り、すぐに
直角に右折して線路わきの坂道を下るように書かれていますが、「街道」としてはいかにも
不自然な形です。
鉄道が無かった昔ならば、「道祖神」からまっすぐ「観音堂」へと街道が伸びている方が
自然な形だと思います。

線路の反対側へは、現在の「松崎街道」に一旦戻ってから向かうことにしましょう。


松崎街道ー118

長い階段を上って、滑川への旧道に戻ってきました。

だいぶ寄り道をしていますが、寄り道ついでに滑川への旧道を少し歩いてみましょう。

松崎街道ー92

民家に挟まれたお堂の中に、「青面金剛」の庚申塔がありました。


松崎街道ー87
松崎街道ー88

お堂の壁に木札が掛けられていました。
「お地蔵さま」とありますが、「青面金剛」なので、狛犬ならぬお猿さんがここにいるわけです。
昭和15年に奉納されたお猿さんには、「たすき」は掛っていませんでした。

松崎街道ー89
松崎街道ー90
松崎街道ー91

風化が進んだ5基の石塔の、一番手前は寛政四年(1792)の「日本廻國塔」で、一番奥が
明治四年(1871)の「馬頭観音」です。


松崎街道ー95

道は下りになります。
左に時計が見えているのは、成田中学です。


松崎街道ー94

成田中学を過ぎ、しばらく進むと、前方に成田山の「平和大塔」が見えてきます。


裏参道ー2
裏参道ー3

そして突然、この道は裏参道に出ます。
目の前に見えるのは、かつての軽便鉄道が裏参道を跨いだ橋梁の橋台跡です。
こんなところを鉄道が走っていたことがあるのですね。

ここを走っていたのは、成田鉄道の多古線で、土屋から寺台、法華塚を抜けて三里塚へ、
さらに千代田、五辻、飯笹から多古まで伸びていました。
(軽便鉄道についてはいずれ書こうと思っています。)

滑川への旧道はまだまだ続きますが、これ以上進むと「松崎街道」から離れすぎますので、
そろそろ戻ることにします。

松崎街道ー15

「三竹山道祖神」に戻ってきました。

松崎街道ー16
西参道ー33

道祖神を左に見て、そのまま直進すると、ほどなく西参道に出ます。
郷部橋の向こうは「埴生神社」です。

西参道ー31


「埴生神社」については何度も紹介していますので、ここでは「下總國下埴生郡成田村誌」
にある数行を紹介するにとどめます。

『埴生神社 本村原標ヨリ凡四町未申ニ方リ字神代ニアリ。社地坪三百坪、祭神ハ埴山姫
之命、鎮座年暦詳カナラス。』
『抑当社ハ古来ヨリ当郡之内十一ヶ村之惣鎮守ニシテ、氏子村と稱スル村々左之如シ。
成田 郷部 寺臺 関戸 和田 下金山 押畑 新妻 山口 東和田 成木新田 』 

(「成田市史 近代編史料集一 P76)

「本村原標」とあるのは、薬師堂前の「成田町道路元標」が大正八年に新しく設置される前の
もので、場所は同じであったと思われます。

出だしから寄り道ばかりで、一向に街道を進めません。
次回は「埴生神社」をあとに、「観音堂」、「清水地蔵・石橋地蔵」を経て、山口の「雷神社」
方面に向かいます。


松崎街道ー210




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ちょっとしたスポット~山口の稲荷神社
【ちょっとしたスポット】 

前回訪問した「證明寺」の裏山に「稲荷神社」があります。

山口稲荷ー5

「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡山口村誌」には、この「稲荷神社」に
ついて次のように記しています。

『稲荷神社 字宮田ニアリ。地坪六百八拾坪。宇迦魂神ヲ祭ル。傳者元弘年間千葉貞胤ノ
家臣山田周防ナル者、山城国稲荷ノ四社ヲ勧請シ祭ル。』
『次テ慶長九年郡官天羽氏再ヒ之ヲ建立ス。』  
(P214)

「宇迦魂(ウカノミタマ)」は、古事記では「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」、日本書紀では
「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」として登場します。
「須佐之男命(スサノオノミコト)」と、「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘の「神大市比売
(カムオオイチヒメ)」との間に生まれた神です。
穀物の神で、古くから女神とされてきました。
伏見稲荷大社の主祭神で、お稲荷さんとして広く信仰されています。


山口稲荷ー28
山口稲荷ー29

「稲荷神社」には、「證明寺」への階段下の細い急坂を登ります。
すぐ下に「證明寺」の本堂の屋根が見えています。


山口稲荷ー1
山口稲荷ー2

登り坂の途中には古木、巨木が何本も立っています。


山口稲荷ー3

立派な明神鳥居です。


山口稲荷ー4

風雪に削られた手水盤に刻まれていたはずの文字は、すっかり消えてしまいました。


山口稲荷-6
山口稲荷ー7

この神社は、元弘年間の創設ですから、690年近くの歴史がある神社ということになります。
再建されたという慶長九年(1604)は、豊臣・徳川の決戦が迫っている時でした。

『享保五年(一七二○)の「稲荷社及証明寺縁起」(山口区有文書)では、その後千葉勝胤の
夫人が難産で苦しんでいたとき、同神社のことを聞き勝胤が詣でたところ、夫人の痛みは消え
無事出産できた。深く感激した勝胤は社殿を修造し、かつ神田三○石を寄進したという。』
『だが戦乱によって荒廃し、慶長九年(一六○四)に天羽忠兵衛なる武士が再建した。』
『明治四十二年村内の道祖神社・愛宕神社・大鷲神社などを合祀している。』

(「成田市史 中世・近世編」 P804)

千葉勝胤が寄進した神田は、その後の戦乱の中、幕府に没収されましたが、この一帯の
字(あざ)の宮田(きゅうでん)という名前が、その名残りとなっています。


平成5年には、合祀されている全ての神社の社号標が建立されました。
古い祠が残っているもの、祠の一部が残っているもの、新しい社号標のみのものなど
いろいろですが、木々の間に点在する全ての社号標と祠を見てみましょう。

古峯神社(ヤマトタケルノミコト)   山口稲荷ー8

古事記では「倭建命」、日本書紀では「日本武尊」と書かれます。
その蛮勇ぶりが父の景行天皇から疎まれ、西征に、そして東征へと向かわされ、大和への
帰途に現在の三重県北部で没したと伝えられる、古代史最大の英雄です。

ニュータウンの吾妻にある「吾妻神社」は、ご祭神が「日本武尊」です。
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社 ☜ ここをクリック

三峯神社(イザナギノミコト)      山口稲荷ー9

古事記では「伊邪那岐命」、日本書紀では「伊弉諾神」と書かれます。
神世七代の最後に生まれた神で、妻の「伊邪那美命(イザナミノミコト)」とともに多くの神や
国造りを行いました。

多古町の「六所大神」には、「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」と「伊弉冉尊(イザナミノミコト)」
が他の四柱とともに祀られています。
1180年の歴史~六所大神 ☜ ここをクリック

大山阿夫利神社(オオヤマツミノカミ)山口稲荷ー10

古事記では「大山津見神」、日本書紀では「大山祇神」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神で、山の神とされています。

 不  明 (社号標がありません)  山口稲荷ー11

享保十二年(1727)の紀年銘が読めます。 

雷神社(オオイカヅチノカミ)      山口稲荷ー12

「伊弉冉尊」の死体の頭より生まれた神で、八種の雷神(やくさのいかづちかみ)の一柱。
ひと山越えてJRの線路と小橋川を越えた所に「雷神社(らいじんじゃ)」があります。
1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック

愛宕神社(カグツチノミコト)      山口稲荷ー13

古事記では「火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)」または「加具土命(カグツチノミコト)」
と書かれ、日本書紀では「火産霊(ホムスビ)」と書かれます。
「伊弉諾尊」と「伊弉冉尊」との間に生まれた神ですが、火の神であったため、母の
「伊弉冉尊」が出産時に大火傷を負って亡くなってしまいます。
悲しんだ「伊弉諾尊」によって、「加具土命」は十拳剣で殺されてしまいました。
「加具土命」の血からは八柱の神が、死体からも八柱の神が生まれています。

浅間神社(コノハナノサクヤヒメ)   山口稲荷ー14

古事記では「木花之佐久夜毘売」、日本書紀では「木花開耶姫」と書きます。
先ほど見た、大山阿夫利神社の「大山津見神(オオヤマツミノカミ)」の娘で、「天照大神」
(アマテラスオオミカミ)の孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」の妻です。
全国の多くの浅間神社のご祭神として祀られています。

 不  明 (社号標がありません)   山口稲荷ー15

南無阿弥陀仏・・・と刻まれているようですが、判読が難しい状態です。
元文四年(1739)の記年銘が見えます。
このころは時代劇でお馴染の、八代将軍徳川吉宗と、南町奉行・大岡忠相(越前)が活躍
した時代です。

大鷲神社(ヤマトタケルノミコト)    山口稲荷ー16

栄町にある「大鷲神社(おおわしじんじゃ)」も同じ「日本武尊」をご祭神にしています。

金毘羅神社再建碑 年代不詳     山口稲荷ー17
金毘羅神社(オオクニヌシノミコト)   山口稲荷ー18

「大国主(オオクニヌシ)」は、国津神の代表的な神で、古事記や日本書紀にも記されている
天孫降臨の物語で、天津神に国土を献上したことから、「国譲りの神」とも呼ばれています。
国譲りの際に、大きな宮殿を建てて欲しいと願い出て、出雲大社の祭神となりました。
因幡の白兎の話は良く知られています。

鹿島神社(タケミカヅチノカミ)      山口稲荷ー20

「鹿島神宮」のご祭神として知られています。
剣の神、また雷神でもあり、相撲の元祖ともされています。
古事記では「建御雷之男神」または「建御雷神」と書かれ、日本書紀では「武甕槌」または
「武甕雷男神」と書かれます。
「伊弉諾尊(イザナギノミコト)」が「加具土命(カグツチノミコト)」の首を切り落とした際に、
剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうちの一柱です。

香取神社(フツヌシノミコト)        山口稲荷ー21

「経津主神(フツヌシノカミ)」は日本書紀のみに登場し、古事記には登場しません。
「香取神宮」のご祭神として知られています。
利根川を挟んで香取・鹿嶋の両神宮が相対する位置にあるように、「鹿島神宮」の「武甕槌神
(タケミカヅチノカミ)」と対で扱われることが多くあります。

天満宮(スガワラノミチザネ)       山口稲荷ー22

「菅原道真」(845~903)は平安時代の貴族で、学者・詩人・政治家として活躍しました。
宇多天皇に重用され、順調に出世の階段を昇ったものの、讒訴によって大宰府に流され、
不遇のうちに没しましたが、没後天変地異が続発し、道真の祟りだとの噂が広まり、怨念を
鎮めるために天満天神として祀られることになりました。
死後にも正一位・太政大臣の官位を贈られるなど、出世の階段を昇りつめたことや、優れた
学者・詩人であったことから、現在は学問の神様として知られるようになっています。

子安神社(コノハナノサクヤヒメ)     山口稲荷ー23

「木花之佐久夜毘売」は子安神社のご祭神として祀られることも多い神様です。

道祖神社(サルタヒコノミコト)       山口稲荷ー24

古事記では「猿田毘古神」、または「猿田毘古之男神」、日本書紀では「猿田彦命」と書かれます。
天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた「邇邇芸命(ニニギノミコト)」を道案内した国津神です。
中世には庚申信仰や道祖神と結びつき、信仰を集めました。
また、鼻長七咫、背長七尺、目は八咫鏡のようで、顔が鬼灯のように照り輝いているという姿
から、天狗の原型であるとも言われています。
  ※ 「咫(あた)」は手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ。


古い祠の一部が残されていても、傷みが激しく、年号が読めるものはありませんが、
点在するたくさんの祠と社号標を見つけながら境内を歩くのも、けっこう楽しいものです。

「下總國下埴生郡山口村誌」に、「稲荷神社」に接する場所に「穴八幡」があったとの記述
を見つけました。

『穴八幡 宮田ニアリ、稲荷神社ト接地ス。一ノ洞窟アリ、中ニ一個石アリ。文字塗抹シテ
弁識スルニ由ナシ。又骸骨両三本アリ、土人之ヲ穴八幡ト称ス。』

(「成田市史 近世編史料集一 P215)

村人がお堂を建て、近隣の人々が頻繁にお詣りしていたようですが、何故か幕府によって
来詣を禁じられ、洞窟は埋められてしまったようです。


山口稲荷ー26
山口稲荷ー27


この神社が創建された元弘年間(1331~1333)は、元弘の乱によって鎌倉幕府が滅亡
するという激動の時でした。
この神社を創建した「山田周防」の主君・千葉貞胤は、千葉氏第11代の当主で、元弘の乱
では当初鎌倉方に与し、後に新田義貞に与して鎌倉を攻めたり、その後も南北朝を行き来
するなど、綱渡りの処世をした人物です。
そうした貞胤の家臣でありながら、しかも時代の騒乱のさなかに、この稲荷神社を創建した
山田周防という人物は如何なる人物だったのでしょうか?
残念ながら、「山田周防」に関する資料を探し出すことができませんでしたが、とても興味
ある人物なので、いつか彼の痕跡を見つけたいものです。


山口稲荷ー30


                   ※ 「稲荷神社」 成田市山口71


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寺社 | 07:37:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
瑠璃台はいずこ?~山口の古刹「證明寺」
山口の古刹、「證明寺(しょうみょうじ)」を訪ねます。
松崎街道から山を回り込むように脇道を進んだ先に「證明寺」はあります。

証明寺ー1

長い石段が、境内に向かって一直線に伸びています。


証明寺ー24

「證明寺」は天台宗のお寺で、院号は「観明院」、山号は「臻暁山(しんぎょうざん)」です。
ご本尊は「阿弥陀如来」、来迎三尊の形式です。

※ 「成田市史 中世・近世編」や「成田の史跡散歩」では、本尊を「大日如来」または「薬師如来」としていますが、
   後述のようにご本尊は「阿弥陀如来」でした。


『堂宇は六間四面の本堂、創建は不詳なるも、中世の正和四年(一三一五)、応永十三
(一四〇六)、永享八(一四三六)年の古文書に證明寺の名が見える。』
(證明寺由来書)

少なくとも700年以上の歴史を持ったお寺です。
安政六年(1859)の火災で全山が焼失し、多くの寺宝が失われましたが、翌、万延元年
(1860)には再建されました。
ご住職の話では、安政六年の火災は花火が原因だったとのことです。


証明寺ー15

焼失を免れた、享保五年(1720)の「稲荷神社及證明寺縁起」によって寺暦の概要が
分かっています。
證明寺由来書には、この「稲荷神社及證明寺縁起」の要約を次のように書いています。

『縁起書によれば、戦国時代千葉宗家二十一代千葉勝胤の室(奥方)にかかわる記録
があり古くから千葉氏の信仰があったことがわかる。』
『貞和年中(一三四五~五○)天台修験道の行者、信海が逗留、村民の悪疫祈祷を
行っている。』
『中興は延文年間(一三五六~六一)道名法印、ついで叡山の儒僧恵心僧都が東国
行脚の折り、自ら薬師如来を刻し、裏山に堂宇を建て~』


この裏山の堂宇や写経を埋納した供養塚などは、瑠璃台と呼ばれていました。
その場所は今では分かりません。
ご住職のお話では、今の美郷台の辺りではないか、とのことでした。

なお、「成田の史跡散歩」には、
『当初は日蓮宗であったが、八世行運上人が以前に山之作の天台宗・円融寺の住職で
あったことから、天台宗に改宗し、寺も現在地に移したという。また瑠璃台は先に述べた
湯川の場所で、薬師如来はそこに湧出する温泉の守り本尊であるともいっている。』

(P221) とあります。

温泉が出ているとされる場所は、ニュータウンの開発に伴い消えてしまったと言われます。
瑠璃台の場所の謎は深まるばかりです。

證明寺の寺伝には、
『江戸時代の初期、山之作円融寺四世行運法印は、この證明寺に隠居し、十一面観音像
や堂宇建立、寺観を整備している。』

とあるだけで、改宗や移転については触れていません。
堂宇の建立、整備は、現在地に移転して行われたのでしょう。


証明寺ー14

「稲荷神社及證明寺縁起」にある、信海と恵心僧都にまつわる話を、「成田の史跡散歩」から
(少し長くなりますが)引用してみます。

『貞和年間(一三四五~五○)に信海という行者が不治の病にかかったとき、仏力に頼るしか
ないと各地の霊像を訪ね歩いた。物忌みをし、露を飲んで飢えをしのぐなど、ひたすら仏の
力に頼った。そしてある日、この地に至り山口の日月の滝の下に宿したとき、夢の中に神が
現われ「われは薬師垂迹、日月の神で、この滝の主なり。昔国中に疫病が流行して死者が
多く出たとき、恵心僧都という僧がこの里で、九寸三分の薬師如来を刻み、その災いから
のがれることができた。この霊験あらたかな薬師如来像は、今でも北方の瑠璃台にあるので、
汝もそこで尊像に祈念してみよ」とお告げをうけたのであった。』
『夢から覚めた信海が、ふと滝の上を見上げると日月神の古い祠があった。これは不思議な
ことと、夢の教えに従って瑠璃台に行ったところ一宇のお堂があり、そこに九寸三分の薬師
如来が祀られていた。信海は感嘆涕泣し、懇願すると不治の病が治ったのである。』
『そこで信海はここに新たに堂宇を建て、出家して名を道名と改めた。これが証明寺の開山
の由来で、室町時代初期の延文四年(一三五九)ころのことである。』
 (P220~221)

さて、話を蒸し返すようですが、「下総國下埴生郡山口村誌」(明治十七年)に、こんな文章を
見つけました。

『湯川谷 八幡臺ノ西麓ニアリ(現今字宮田)傳昔温泉ヲ湧出セシ所ナル由ナリ。』
『日月滝 村南端字下谷津ニアリ。僅ニ遺蹟ヲ存シ殆ト井ノ埋瘞セシ者ニ彷彿タリ。然トモ
微水湧出セリ。』
『八幡臺(仝字宮田)村ノ中央ヨリ以南ニ崛起ス。』 

(いずれも「成田市史近代編史料集一」P215)

温泉の出ていた湯川谷は、「證明寺」のある字(あざ)宮田(きゅうでん)にあり、日月滝は
村誌が書かれた明治十七年(1884)には、すでに水量は無く単なる湧水程度でしたが、
宮田から丘ひとつ越えた字・下谷津にあったようです。
下谷津の隣の字・天神台には證明寺の境外地の「観音堂」があったり、さらにその奥の
字・下井戸には同じく境外地の「地蔵堂」があることなどを考えると、思ったより瑠璃台は
現在の「證明寺」に近い場所だったかもしれませんね。


証明寺ー16

「臻暁山」の寺額。


証明寺ー17

本堂の軒下に吊るされた鐘は、以前、「雷神社」にあった火の見櫓に吊るされていたもので、
櫓の撤去によって行き場の無くなったものを貰い受けたのだそうです。

1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック


証明寺ー2
証明寺ー3

ご住職のお許しを得て、本堂に入り、ご本尊の写真も撮らせていただきました。
中央の仏様は阿弥陀如来、如来様から見て左(写真では右)が観音菩薩、如来様から見て
右(写真では左)は勢至菩薩です。

阿弥陀如来は九品来迎印(くぼんらいごういん)の上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)
を結び、衣は偏袒右肩(へんたんうけん)の形をとっています。
右肩は露出せずに衣を(袖を通さずに)かけています。

脇侍の観音菩薩、勢至菩薩はすっきりした立ち姿です。


証明寺ー7

本堂は山の中腹に張り付くように建っていて、前方は崖のような地形です。
裏手はすぐに山腹が迫っています。


証明寺ー4

「普門品壱萬巻供養塔」は昭和5年に建立されました。


証明寺ー5

「大師堂」です。
左の石仏には、文政十三年(1830)と記されています。


証明寺ー6

境内の一角に一体の石仏があります。
風化が進み、あちこちが欠けています。
昔、近隣から持ち込まれたもののようで、ご住職にも何の仏様かは分からないそうです。


証明寺ー8
証明寺ー12

古い墓地が、本堂から一段高い山の斜面にあります。
寛延、享保、寛政等の年号が読めます。


証明寺ー10

墓地の一角に「竪者法印慧行塔」と刻まれた「筆子塔」があります。
慧行というお坊さんに学問を教わった弟子たちが、文化十五年(1818)に建立したものです。
「竪者(りっしゃ)」とは、仏法論議での質問に答えることのできるお坊さんのことで、天台宗の
お寺では良く見かける文字です。
慧行というお坊さんは算盤の名人だったそうです。


証明寺ー11
証明寺ー18

本堂の後方の山には、かつて薬師堂があったそうですが、今はすっかり竹林になり、お堂も
消えて登って行くのも難しい様子です。


証明寺ー15
証明寺ー24

境内が狭いので、本堂の全景は、墓地の上からか、山を下りて反対側の道に出て振り返る
しか見ることができません。


証明寺ー19
証明寺ー20

境内から見上げると、木々の間から鳥居やお堂が見えています。
「稲荷神社」でした。
(次回はここを訪ねる予定です。)


証明寺ー22

石段を下りると、二本の見事な銀杏の木が、まるで山門のように立っていました。


証明寺ー25

山を下り松崎街道に出ると、もう「證明寺」は見えません。


証明寺ー23

草深い山中で、長い歴史を抱えて静かに佇む「證明寺」です。


証明寺ー26


              ※ 「臻暁山證明寺」 成田市山口71



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八生村の寺社 | 09:53:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
西参道三の宮通り
前回の「石橋地蔵」と「清水地蔵」で西参道に入り込みましたので、今回は西参道を歩きます。

石橋地蔵ー1
西参道ー21

「西参道三の宮通り」は公園通りの郷部大橋の上、郷部交差点から始まります。
この参道は県道18号線、成田安食線の旧道になります。


西参道ー40
石橋地蔵ー28

参道に入ると、右側に「石橋地蔵」と「清水地蔵」があり、すぐに道は二股に分かれます。
右が西参道で、左に入ると「旧松崎街道なりたみち」になります。


西参道ー22

一見、何の変哲もない生活道路です。


西参道ー23

右に下って行く細い道路があります。
前回の『郷部の「石橋地蔵」と「清水地蔵」』で紹介した、昔の「江弁須街道」です。
しばらく下るとJR成田線の線路に突き当たります。


西参道ー24
西参道ー25
西参道ー26

道は線路に向かって真っすぐ伸び、フェンスで行き止まりとなります。
線路の向こう側には、やはり先に延びる道の跡が見えています。
チラリと見えているのは「いしばし橋」です。
昔はこの道も大勢の人が行き交ったのでしょう。

「石橋地蔵」と「清水地蔵」 ☜ ここをクリック


西参道ー27

参道に戻り、さらに進むと、道は左に大きくカーブします。


西参道ー28
西参道ー29

カーブを曲がり切ると、正面に「三宮埴生神社(さんのみやはぶじんじゃ)」が見えてきます。
カーブからは300メートルほど先になります。


西参道ー41
ーーーーーーーーーーーー西参道ー37
西参道ー38

この通りは、畳屋、工務店、塗装店、建材店などがとても多いように感じます。
郷部にはニュータウンの開発前から、市営住宅が建設されていましたので、そのことが関連
しているのでしょうか?
それとも、昔から成田山の門前町が形成されて行く過程で、必要とされる職人たちが、自然と
この地区に集まったのでしょうか?
その両方かも知れませんね。

天保九年(1838)の「諸商渡世向取調書上帳」と、同十四年(1843)の「諸商人軒数書上帳」
から集計した、門前町成田でのさまざまな職業について、「成田市史 中世・近世編」にはこう
書かれています。

『なお、これらの商売の他に成田には医師五人をはじめ畳屋・薪屋・石屋・附木屋・鍛冶屋・
持遊(花札など遊具)屋などの商いもあり、~』
『また天保二年の「諸職人名前取調書上帳」(石井しげ家文書・近世編史料集五上)によると、
大工職七人、桶職七人、木挽四人、下駄職・左官・塗物職各二人、それに屋根職・建具職
各一人の計二六人の職人がいたとある。』
 (P743)


西参道ー30

「埴生神社」の姿が大きくなってきました。


西参道ー44


『本村原標ヨリ凡四町未申ニ方リ字神代ニアリ。社地坪三百坪、祭神埴山姫之命、鎮座
年暦詳カナラス。』
 (「成田市史近代編史料集一」P76)

「埴生神社」の古社名は「三ノ宮大明神」。
ご祭神は「埴山姫命(はにやまひめのみこと)」で、創建年代は不詳です。
御魂代は「土師器(はじのうつわ)」だとされています。
「埴山姫命」は土の神様で、「埴生(はぶ)」は、きめの細かい、黄赤色の土器や瓦の原料と
なる粘土のことです。
近くの美郷台には「土師神社」があり、この一帯は土器を連想させます。
   
『~古代に土師部一族がこの地に集団で居住し、その職業から、自分たちの祖神ともいう
べき埴山姫命を守護神として祀ったのが、三宮埴生神社と考えられる。まだ元号のない
時代のため、創建が○○何年とできないのであり、それだけ古いことになる。』

(「成田の史跡散歩」 P71)   


西参道ー43

「埴生神社」は、地元では「三宮(さんのみや)」の方が通りが良いようです。
ここが「三宮」なら、どこかに「一宮」、「二宮」があるはずです。

「一宮」は栄町の矢口に、「二宮」は松崎にありました。
それぞれの神社のつながりははっきりしていません。

『しかし、平安時代の書物の「倭名類聚鈔」に記載される、埴生郡内の麻在郷・玉作郷・山方郷
の位置が、それぞれ三社の周辺に比定されていることから、本来は各郷の守護神として創建
されたものと考えられるのである。』
 (「成田の史跡散歩」P70)

江戸時代末期に赤松宗旦が著した「利根川図志」に書かれている各宮について、「成田市史
中世・近世編」に次のような記載があります。

『一ノ宮大明神 下総埴生郡矢口村にあり佐倉風土記ニ云、伝フ延長二年九月十九日祭ルト
 二ノ宮大明神 同松崎村にあり年記詳ならず、経津主命を祭と云
 三ノ宮大明神 同成田より二三町西の方郷部にあり、祭神詳かならず、相馬日記に郷部村
           に埴生大明神の社ありて、鳥居に当国三ノ宮という額をかく、こハ神名帳に
           ハ見えぬ神なり、云云 
と記されている。ただし、このなかで三宮が郷部村にあるとしているのは、その場所が郷部村
と成田村の境界近くに位置するために誤ったものであろう。』 
(P801)

歴史ある立派な神社ですが、謎の残る神社とも言えますね。

昨年4月、このブログを書き始めた頃に、埴生神社を訪ねています。(参考まで)
新緑の埴生神社 ☜ ここをクリック


西参道ー31

西参道からは埴生神社の本殿がちらりと見えます。


西参道ー36

「埴生神社」の横には旅館の看板が見えます。
成田山からは少し離れていますが、西参道からお参りする人たちや、埴生神社に参拝する
人たちが利用する旅館だったのでしょうか?
今は、旅館の名前の前に「ビジネス」の表記が付いています。


西参道ー33
西参道ー98

「郷部橋」の下はJR成田線が走っています。
線路の左側に郷部橋から下る坂道がありますが、それが旧道の「松崎街道なりたみち」です。
この旧道は、近いうちに歩いてみる予定です。


西参道ー34

橋を渡った右側にある、壁面いっぱいにペイントされたビル。
大分以前からシャッターが降りていて、何のビルかは分かりませんが、音楽スタジオとか、
ライブハウスだったような雰囲気です。


西参道ー35

左側はNTTです。
旧街道はこのビルの裏側を通っています。


西参道ー39

幸町の三叉路です。
左に下る道は成田山の裏門を通り、土屋に抜ける道です。


西参道ー50

成田山裏門へは、ここを左に下ります。
さらに下って行くと「薬王寺」や「大宮神社」を経て、国道408号線に交わります。


西参道ー20
西参道ー19

三叉路を直進すると、薬師堂の三叉路、そこを左に下ると成田山の総門に至ります。
道端に小さな道標が立っています。
「正面成田不動尊」と記され、側面には『「南へ上る 酒々井 佐倉」「東へ下る 成田門前を
へて三里塚 芝山」 道』、『北へ下る 滑川 佐原」「西へ上る 安食 木下」 道』とあります。
明治十五年(1882)と刻まれていますが、この道標は新しいので、復元されたものでしょう。

さて、西参道はここから薬師堂まで進み、表参道に合流して台の坂を下り、総門に至るのか、
それとも・・・
この辺りには「西参道三の宮通り」の標識は見当たりません。

薬師堂を左に曲がり、総門に向かう道はおなじみの表参道になります。
多分、西参道のコースはこちらでしょう。

西参道ー47
上町ー35    薬師堂
上町ー39    台の坂
表参道ー61   台の坂

台の坂の詳細 ☜ ここをクリック
                                   
個人的には、薬師堂より手前の小路を左に入り、発心院・勧学院・修智院の成田山三学院
の前をを抜けて、出世稲荷から釈迦堂へ出るコースが好きなのですが・・・。

西参道ー49

幸町の三叉路と薬師堂の三叉路の中間に、レトロな赤いポストが立っています。
ここを左に入ると、成田山三学院、出世稲荷を経て成田山の境内に入れます。

西参道ー12   静かな小路
西参道ー14   成田山三学院
西参道ー15   出世稲荷
西参道ー48

ポストを通り過ぎて、成毛屋旅館を左に入っても三学院の手前で道は合流します。
参道の雰囲気としては、こちらの道の方がピッタリです。

成田山の「学問の道」 ☜ ここをクリック


西参道ー42

表参道は誰でも知っています。
裏参道も比較的知られていますが、東参道と西参道はあまり知られていないようです。
標識が立っていなければ、地元の人以外には気付かれないでしょう。
歩道が整備されていないので歩行者には少々歩きにくい道路です。
表参道ほどではないにしろ、もう少し整備がされれば、平行する「旧松崎街道・なりたみち」
もあるので、賑わいが出るのではないでしょうか。

東参道 ☜ ここをクリック


西参道ー45




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参 道 | 07:06:05 | トラックバック(0) | コメント(2)
郷部の「石橋地蔵」と「清水地蔵」
今回の主役は、この石板です。

石橋地蔵ー12

さて、これは何でしょう?
実は、これは「橋」なのです。(橋だったと言うべきでしょうが・・・)
詳しくは後ほどに。


石橋地蔵ー1

「石橋地蔵」と「清水地蔵」は、郷部交差点から成田山に向かう「西参道三の宮通り」の
入口にあります。
この通りは県道18号線の旧道でもあります。
木立に囲まれてちょっと見つけにくいかもしれませんが、赤い幟がたくさん立っています。


石橋地蔵ー14

三の宮通りからちょっと下ったところに石段があり、境内に入れます。
石段の左側に見えるのが「清水地蔵」、右奥に見えるのが「石橋地蔵」です。
狭い境内ですが、手入れが行き届いています。


石橋地蔵ー3
石橋地蔵ー29
石橋地蔵ー42

「石橋地蔵」は、昔、小橋川に架かっていた「いしばし橋」のたもとに立っていたお地蔵様です。
明治42年(1909)と刻まれています。
長い間風雨にさらされて、さすがにお顔が分かりにくくなっています。


石橋地蔵ー2

「石橋」の地名は、旧郷部村の字(あざ)で、そこに架かっている橋なので「いしばし橋」と
呼ばれたのか、「石の橋」が架かっていたので「石橋」が字になったのか・・・。
いずれにしろ、このお地蔵様が立っていた「いしばし橋」は、そうとう昔から小橋川に架かっ
ていたようです。
その橋がこの石板だとすると、昔の小橋川は小さな流れだったのでしょう。

『本村ハ此橋ヲ以テ中央トス幅五尺余リ長七尺余盤石ナリ』
 (成田市史 近代編史料集一 P43)
横幅が約1.6メートル、長さが約2メートルの石板です。
当時の小橋川は、
『幅六尺、深壱尺ヨリ貮尺位』(同)
とありますから、1.8メートル程度の川幅で、18~30センチの深さの小川ですね。
これなら、この石板を渡せば、なんとか橋の役割は果たせたでしょうね。


石橋地蔵ー5 石橋地蔵の裏にある祠
石橋地蔵ー6  道祖神と馬頭観世音


石橋地蔵ー8
石橋地蔵ー30
石橋地蔵ー41

石段を上がってすぐ左には「清水地蔵」があります。
もともとは郷部ヶ原の山林の中にあった、首だけしかないお地蔵様でした。
お地蔵様があった場所には清水が湧き出していたので、「清水地蔵」と呼ばれていました。

『~そして清水のことは、首の清水とか地蔵の清水と呼んでいたという。
というのは当時はこの地蔵に胴体がなく、首だけが置かれていたからである。
なぜ首だけなのかは今もって不明になっている。』 
 (「成田の史跡散歩」P74~75)

昭和39年に住民により胴体が作られ、現在のお姿となりましたが、周辺の開発のため、
昭和45年に観音堂に移され、昭和59年にここに移されてきました。


石橋地蔵ー10  見事な百日紅の木
石橋地蔵ー11


石橋地蔵ー13
石橋地蔵ー39

小倉 博氏は、 『古墳時代の石棺の蓋のようである』 (「成田の史跡散歩」P74)と表現して
いますが、なるほどそう見えますね。
小橋川の川幅が広くなると、この石板は外され、旧街道(松崎街道・なりたみち)の「観音堂」
の渡り橋に転用されました。
その後、観音堂の井戸の流し台になったり、工事中に捨てられそうになるなどの試練(?)を
経て、ようやく記念碑としてこの境内に落ち着くことになったのです。
この経緯を知ると、思わず“ご苦労様でした”と声をかけたくなりますね。

西参道ー99   旧街道の観音堂



石橋地蔵ー15
石橋地蔵ー16

郷部大橋をくぐるように坂道が下っています。
坂道が曲がったところに、「辧天宮」と「石神様」があります。
「辧天宮」と刻まれた石板がはめ込まれ、には享保十九年(1734)と記されていますが、
これは祠の建立の年代で、石板は最近のものです。

「石神様」のお堂は平成13年に建てられました。
中には何やら怪しげなモノが鎮座しています。


石橋地蔵ー17
石橋地蔵ー26

郷部大橋をくぐります。


石橋地蔵ー18
石橋地蔵ー25

300メートルほど下ると、西野内踏切があります。
向こうに見えているのは「成田国際福祉専門学校」です。

ここは見通しが良いので、鉄道マニアの間では撮影スポットとして知られた踏切だそうです。


石橋地蔵ー19   遮断機が降ります
 電車が通過して行きます 石橋地蔵ー21


石橋地蔵ー24

踏切を渡ると「ごうぶこばし」がありました。


石橋地蔵ー23

さて、「いしばし橋」はどこにあるのでしょう?
下を流れる小橋川の上流を眺めると、遠くに小さな橋が見えています。
あれが「いしばし橋」でしょうか?


石橋地蔵ー35
石橋地蔵ー31

ありました!
「いしばし橋」です。
小さい橋ですが、コンクリート製のしっかりした橋です。


石橋地蔵ー34

流れが見える幅は2メートルくらいですが、葦が群生していて実際の川幅は分かりません。


石橋地蔵ー38

『源ハ印旛郡江弁須村ノ北ノ山間ヨリ発シ、本村字池田ノ大清水ノ流ヲ合、小流シテ成田村
ノ流ト石橋ニ合、稍溝洫ノ狀ヲナシ 本村ハ此橋ヲ以テ中央トス幅五尺余リ長七尺余盤石ナリ 幅六尺、
深壱尺ヨリ貮尺位、西ニ趣キ山口村ニ落ツ。曲流シテ押畑、松崎、宝田數村之流ヲ合セ
新妻川ニ入ル。平時緩流ナリ。』
 (「成田市史近代編史料集一」P43)

郷部村誌には、「いしばし橋」付近の小橋川をこう書いていますが、護岸工事によって両岸の
幅は広がったものの、流れの幅は明治の頃からあまり変わっていないようです。

もちろん、かつての石板では渡れませんね。


石橋地蔵ー33

橋を渡った先には最近開発された住宅地があり、その後ろはJR成田線の線路です。
線路に向かってコンクリートの道路跡のような場所があります。
線路の手前でフェンスに阻まれているこの場所は、踏切跡のような気がします。


西参道ー26

どうしても気になって、「ごうぶこばし」から「郷部大橋」を渡り、地蔵堂を回って線路の反対側
を探ってみました。
線路の上は「西参道三の宮通り」(県道18号線旧道)のはずです。
そして、線路の反対側に辿りつきました。
こちらは西参道から細い坂道を線路に向かって下った場所で、以前は踏切だった様子です。

『上流のいしばし橋の道はもとは江弁須街道と呼ばれ、原野であったニュータウンを抜けて
公津地区の江弁須に向かう重要な道であった。』
 (「成田の史跡散歩」P74)

江弁須街道は鉄道やニュータウンに寸断され、今やどこを通っていたのかも分かりませんが、
わずかに残る数百メートルを見つけただけでも、とても得した気分です。


石橋地蔵ー27

明治時代に書かれた郷部村誌には、この二つの地蔵堂についての記述はありません。
石橋地蔵は石板の「いしばし橋」のたもとに立ち、清水地蔵は首だけの姿で山林の清水
の前に置かれていました。
開発が進んで、今はこの場所に落ち着きましたが、小川の流れと湧き出る清水を見てきた
二つのお地蔵さまにとって、交通量の多い公園通りと県道18号線旧道に面したこの場所の
居心地はどうなのでしょうか。


石橋地蔵ー43

地蔵堂の前の紫陽花は咲き始めていますが、まだ色づいてはいません。
澄み渡る空のような青を見せてくれるのは、もうひと雨、ふた雨必要でしょうか?


石橋地蔵ー44


              ※ 「石橋地蔵」「清水地蔵」 成田市郷部480



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成田町の寺社 | 07:59:47 | トラックバック(0) | コメント(4)
埋立られた池の主は何を想う?~赤荻の善福寺
赤荻の「善福寺」は同地区唯一のお寺です。

善福寺ー7

「成田市史近代編史料集一」にある下総國下埴生郡赤荻村誌(明治36年)には、

『寺号善福寺、宗派天台宗 寺格七等、村内西和泉城固寺末寺、創建不詳、開基住覚師。』

とあります。
六つの末寺を持っていた西和泉の城固寺の末寺としても、現在唯一残っているお寺です。
城固寺の末寺には、この「善福寺」の他に、西和泉の「守泉寺」、赤荻の「吉祥院」、水掛の
「正寿院」、芦田の「安養寺」、同じく芦田の「証明寺」がありました。
「吉祥院」が弘化四年(1847)に火災に遭って以降再建されなかったことを除き、いずれも
明治初頭に廃寺となっています。
本寺の城固寺 ☜ ここをクリック
芦田の証明寺跡 ☜ ここをクリック


善福寺ー2

本堂に向かう石段の前には畑が広がり、その中に取り残されたような墓地があります。


善福寺ー3
ーーーーーーーーーーーー善福寺ー4
善福寺ー5
ーーーーーーーーーーーー善福寺ー6

傾き、倒れ、風化した古い墓石には、貞享、正徳、元文、安永、文化等の年号が見えます。


善福寺ー19

小道を挟んだ墓地の手前に、記念碑が建っています。
「稲荷山・善福寺・弁天池跡」と記し、地域の事情から池を埋め、防火槽を設置するにあたり、
池の主に、“これまでの恵を感謝し、やむを得ず埋め立てる人々の詫びる心を受け入れて、
これからもお護りください”という趣旨のこの碑文は、自然を敬い大切にしてきた日本人の
心根を見るような気がします。

“自然界のあらゆる所に神が宿る”という昔からの素朴な庶民信仰は、大切に伝え続けて
行きたい素晴らしいものだと思います。

ところで、この池の主は埋められてしまったこの場所に、今も留まっているのでしょうか?


善福寺ー23

この銀杏の古木は、弁天池を知っています。
根元が池のほとりだったはずです。


善福寺ー1
善福寺ー22
善福寺ー21

池は姿を消し、コンクリートの防火槽と砂利が敷かれた空き地になっています。
空き地を巡る小道は昔からの道のようですから、「弁天池」はせいぜい20メートル四方の
小さな池だったと思われます。

ここ赤荻の地で没した幕末の剣豪、富士浅間流の中村一心斎と、この池にまつわる話が、
「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博著)に紹介されています。

一心斎は当代随一の剣豪と謳われ、一方ではその破天荒な言動でも知られる人物です。
乗っていた船が難破し、外国船に助けられて二年ほどアメリカに渡っていたと吹聴したり、
水野忠邦、勝海舟、千葉周作、斎藤弥九郎、二宮尊徳等、時代の著名人との交流などは、
高橋三千綱氏の「剣聖一心斎」シリーズで(史実か否かはともかく)良く知られています。

流派の普及のため諸国を巡り、晩年は木更津や九十九里に逗留した後、赤荻で安政元年
(1854)にこの世を去りました。

『村の天台宗善福寺に葬られ、門人たちによって墓石が建立されたが、その後若者の
いたずらなどにより、墓石は寺の門前の小池に沈められたという。』 
 (P259)

この池が埋められた時、一心斎の墓石は掬い上げられたのでしょうか?

一心斎の墓は木更津の「成就寺」にもありますが、これは弟子たちが善福寺より分骨して
建立したのもと伝えられています。


善福寺ー8
善福寺ー13

『善福寺は阿弥陀如来が本尊で、稲荷山と号している。安政三年当時、村内に一六軒の
檀家を有し、持高は四石七斗一升である。境内一畝六歩が除地で、鎮守稲荷大明神宮や
天狗宮を支配していた。』
『本堂は文化年間(一八○四~一八一八)の建立になる。』

(「成田市史 中世・近世編」 P783)

200年前の本堂はもうありません。
市史が編さんされたのが1988年ですから、現在の本堂はここ二十年くらいの間に建て替え
られたもののようです。
ほんの一部、窓越しに見える内部の様子からは、生活感が感じられる本堂ですが、声をかけ
ても返事はありませんでした。


善福寺ー26

善福寺ー9善福寺ー10
善福寺ー11善福寺ー12
境内には4つのお小堂が並んでいます。

右端のお堂には「観音堂」と書かれていますが、並んでいる他の三つのお堂には
何も書かれていません。
一番左の新しい鞘堂に入っているのが「稲荷大明神」でしょうか。
中の二つは「地蔵堂」のようです。


善福寺ー14

石段の下に残る桜の古木。
この桜は、埋め立てられた池のほとりに立つ銀杏とともに、かつての「善福寺」を見て
いるはずです。
明治27年(1894)ごろには、「善福寺」の境内に中郷小学校の仮校舎があり、近隣に
元気な子どもの声が響いていました。


善福寺ー16
善福寺ー17

石段と墓地の間の小さな畑でキジバトが何かを突いていました。
近づくとちょっとさがって距離を置きますが、あまり人を恐がっていないようです。
普段はひとけの無い場所だからでしょうか。


善福寺ー18
善福寺ー15

「成田の地名と歴史」によれば、天保九年(1838)の赤荻村の戸数は34戸、人口は174人
という記録が残っています。
昭和36年(1961)には人口は316人でしたが、平成22年には228人へと減少しています。

多くのお寺と同様、「善福寺」も地域の過疎化の影響を受けているのでしょうか。


善福寺ー28
善福寺ー27

前回ここを訪ねたのは4月の末でした。
この2枚の写真は5月末のものです。
1ヶ月経った今、石段も境内も、すっかり雑草に覆われていました。
一部のお寺を除き、大部分のお寺は、維持して行くのも難しいのが現実のようです。


善福寺ー20


               ※ 「稲荷山善福寺」  成田市赤荻1162



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中郷村の寺社 | 23:26:33 | トラックバック(0) | コメント(0)