今回は二年以上前(平成26年8月)に一度ご紹介した、船形の「薬師寺」を再び訪れます。


「薬師寺」は真言宗のお寺で、山号は「船形山」、本尊は「阿弥陀如来」とされています。
「千葉縣印旛郡誌」には、「薬師寺」が次のように紹介されています。
「船形村字船形にあり眞言宗にして東勝寺末なり本尊を阿彌陀如來とす元は麻賀多神社の
別當にして今も船形北須賀二ヶ村の祈願にて二百年前船形の文書にも別當とありしと云ふ
堂宇間口六間奥行四間庫裏間口六間奥行三間半門間口三間奥行二間境内六百四十九坪
官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒四十三人を有し管轄廳まで八里七町なり境内
佛堂一宇あり即
一、藥師堂 藥師如來を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行三間」
今は本堂は無く、仁王門と薬師堂だけが残っています。


吽形の仁王像

仁王門の左右に、県の有形文化財に指定されている迫力ある二体の仁王像があります。


阿形像は像高1.7メートルで、右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。


吽形像は像高1.71メートルで、左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。
この仁王像は、応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
近年、この仁王像の解体修理を行った際、腕と胴体の部材に大永二年(1522)と天正
二十年(1592)の修理墨書銘が見つかりました。

仁王門の脇の手水盤には、延享三年(1746)と刻まれています。

仁王門下に立つ風化した石碑には、「奉 光明■眞言億万■■」「元禄十■■」と刻まれて
いるように見えます。
これは「光明真言百万遍塔」の一種だと思います。
「光明真言」はとても短いお経で( オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン )、これを一心に唱えれば、全ての災いを除くことができると
されています。
元禄十年は西暦1697年ですから、320年前のものです。

仁王門をくぐらずに左に行くと、小さな墓地があります。
元禄、明和、天明、寛政、文化、文政などの年号が読めます。

台座に「筆子中」とある文久二年(1862)の墓石には、「法印照山不生位」と刻まれています。
「照山という僧侶に学問を学んだ生徒が、師匠の菩提を弔うために建立したものである。
右側面には「松に日は暮てあかるきさくらかな 方円舎器水」の句が刻まれている。方円舎
器水は照山の俳号で、辞世の句であろうか。」 (成田の史跡散歩 小倉 博 P106)

墓地の外れ、と言うよりは近くの原っぱにポツンと小さな石仏が置かれています。
何か文字らしきものが見えますが、読むことはできません。


薬師堂へ登る石段の左右に、数基の板碑や石塔があります。
石塔には「大僧都法印照盛」「天明七丁未」と刻まれています。(天明七年は西暦1787年)


『船形村には薬師寺と明王寺という末寺がある。 薬師寺は船形山と号し、阿弥陀如来を本尊
としている。創建年代など不詳。天保八年(一八三七)の「寺柄書上」によると、薬師寺は東西
二〇間・南北二八間の除地に認可された境内に六間・四間半の客殿(本堂)をはじめ、庫裏・
薬師堂・仁王門が建ち、檀家は一一軒であった。』 (P787~8)
「成田市史 中世・近世編」は、「薬師寺」を「東勝寺」の末寺として、こう解説しています。
また、「成田の史跡散歩」(小倉 博 著)にも、
「明王寺跡から少し行った左側が船形の薬師寺である。薬師寺は山号を船形山と号する
真言宗豊山派の持院で、阿弥陀如来をご本尊としている」 (P104)
とあり、その他のほとんどの資料が本尊を「阿弥陀如来」としています。
しかし、全国寺院名鑑(昭和44年)には、
「薬師寺 真言宗(豊山派) 本尊薬師如来境内八五六坪建物薬師堂一一坪仁王門寺宝
旗曼荼羅版木梵鐘(応永元年作) 由緒 船形山と号し、創建年代不詳。麻賀多神社の
別当寺であったといわれる。」
とあり、また安政五年(1858)の「成田名所圖會」には、
「舟形山薬師寺 船形村にあり。本尊薬師如来行基菩薩の開眼なりと云開基詳ならす。
此寺旗曼荼羅と云古き板木を蔵す。古色掬すべし。」
とあります。
さらに、「成田の地名と歴史」では、「薬師寺の木造薬師如来坐像」を本尊としています。
さて、ご本尊は「阿弥陀如来」か、「薬師如来」か?

薬師堂の中には三尊像があります。
「成田の史跡散歩」ではこの三尊像について次のように解説しています。
「仁王門をくぐると正面に石段があり、その上に本堂(薬師堂)が建つ。本堂にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と観音菩薩立像・勢至菩薩立像の、いわゆる阿弥陀三尊が祀られ、その
後方の厨子に平安時代から鎌倉時代の作品とされる、やはり千葉県指定文化財の木造
薬師如来坐像が納められている」 (P105)
ずっと疑問に思っていたことがあります。
それは、「薬師寺」なのになぜご本尊が「阿弥陀如来」なのか?
さらに、薬師堂になぜ「薬師三尊」ではなく「阿弥陀三尊」なのか?
ということでした。
これまで多くのお寺を訪ねてきましたが、この船形の「薬師寺」は特に好きなお寺の一つ
なのですが、訪ねる度にこの疑問が湧いてきます。


「阿弥陀如来」であれば九品来迎印や弥陀の定印を結び、衣は偏袒右肩が一般的ですが、
この像は定印で通肩、しかも薬壺らしきものを抱えています。
もしこの像が薬師如来だとすれば、この像容は珍しく、ネット上で画像を探しましたが、東京都
中野区の新井薬師、山口県山口市の瑠璃光寺、京都府井出町の西福寺で見つかりました。
そして中尊が薬師如来ならば、脇侍は日光菩薩と月光菩薩ということになります。
背後に十二神将が並んでいることも整合します。




「阿弥陀三尊」だとすると、左脇侍の「観音菩薩」、右脇侍の「勢至菩薩」、ともにその像容に
やや違和感があります。

「薬師三尊」である確信は持てませんが、「阿弥陀三尊」にも疑問が残ります。
へそ曲がりの素人の妄言かもしれませんが、専門家の方のご意見が欲しいところです。
三尊像の両脇後方には十二神将が並んでいます。



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十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来や
薬師経を信仰する人を守護するとされています。
十二神将とその本地物を列挙すると、
宮毘羅大将(くびら) 弥勒菩薩 ・ 伐折羅大将(ばさら) 勢至菩薩
迷企羅大将(めきら) 阿弥陀如来 ・ 安底羅大将(あんちら) 観音菩薩
頞儞羅大将(あにら) 如意輪観音 ・ 珊底羅大将(さんちら) 虚空蔵菩薩
因達羅大将(いんだら) 地蔵菩薩 ・ 波夷羅大将(はいら) 文殊菩薩
摩虎羅大将(まこら) 大威徳明王 ・ 真達羅大将(しんだら) 普賢菩薩
招杜羅大将(しょうとら) 大日如来 ・ 毘羯羅大将(びから) 釈迦如来
薬師三尊像の眷属として十二神将像をともに安置することが多く見られます。
後ろの厨子に安置されている、「木造薬師如来坐像」の画像を、千葉県教育庁教育振興部
文化財課の許可をいただいて、掲載します。

(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ )
「この像は同寺の本尊として本堂に安置されている。 ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼が
はめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、現状では素地となっているが、
薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」
この画像の解説にはこう書かれています。
ここでもこの「薬師如来」を本尊としています。
ご本尊は「阿弥陀如来」なのか、「薬師如来」なのか、そして、三尊像は「阿弥陀三尊」なのか
「薬師三尊」なのか・・・。
素人なりに追いかけるには、おもしろいテーマだと思っています。

薬師堂の前に、宝珠と火袋部分が無くなって、中台の上に笠だけが乗っている石灯籠が二基
並んでいます。
「享保十一午」の文字が読めますので、1726年のものです。

本堂左手に立つ一対の灯籠と宝篋印塔。

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灯籠の竿の部分には地蔵菩薩が刻まれています。

この宝篋印塔は、明和二年(1765年)に建立されました。


宝篋印塔の後方に裏山へ登る石段があり、小さな祠が見えています。
登ってみましたが、何の祠かは分かりませんでした。


祠の先の急な山道を登ると、子安観音を祀った祠がひっそりと建っています。
こんな足許の悪い狭い急坂を登って、熱心にお詣りする方がおられるようで、新しい御札が
置かれています。
二年前にここに登ったときにも、新しい御札が置かれていました。

子安観音には宝暦四年(1754年)と記されています。

子安観音から坂を下る途中から薬師堂を見ると、軒下に何やら彫刻が並んでいます。






長い年月で木が痩せ、どれがどれだか分かりませんが、十二支であることは確かです。

境内の右手には大きな宝篋印塔と大師堂があります。

宝篋印塔は宝暦とだけ読めますので、約260年前のものです。

大師像の後ろにある石版には、「量海法師皆得体怡信士」と記されています。
文化十年(1813)の文字も見えます。

この薬師寺にはもう一つ、県の有形文化財に指定されているものがあります。
応長元年(1311年)に造られた梵鐘で、現在は宗吾霊堂(東勝寺)の宝物殿内に置かれて
いるものですが、「木造薬師如来坐像」と同様に、千葉県教育庁教育振興部文化財課の許可
をいただき、画像を掲載します。

(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )
「宗霊宝殿に保管されている梵鐘で、総高79.6㎝、口径51.4㎝、3段組で鋳造されていて、
乳は4段4列、上帯下帯とも文様のない素文である。蓮の花をかたどった蓮華文を陰刻した
撞座が一つというめずらしい例で、県内で撞座が一つというのは他に印西市龍腹寺の梵鐘
があるのみである。竜頭も簡略化されたものとなっている。
4区画された池の間の1区画目の銘文には「下州印東庄八代郷船方薬師寺」とあり、成田市
船形の薬師寺に奉納されたものであることがわかる。さらに、梵鐘の由来として、僧良円が
願主となって応長元年(1311)に、娑弥善性という茨城県新治郡出身の鋳物師によって鋳造
されたことが記されている。」
この画像の解説にはこう書かれています。
梵鐘の銘文からすると、この「薬師寺」は、700年以上の歴史があることがわかります。



境内の外れにシイの大木があります。
「船形の大シイ」と呼ばれているこの大木は、市の天然記念物で、幹周りは6メートル、高さは
15メートルもあります。
一部に傷みも見えますが、樹勢はまだまだ盛んです。




『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷船方
薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に豆留しながら
印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」には仁王門・
薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代にはこの地方屈指の大寺
であった。』 (成田の地名と歴史)
「成田名所圖會」には、薬師寺から北須賀村越しに、帆掛け舟が浮かぶ印旛沼を望み、その
遥か先には富士山が描かれています。
実に風光明媚なお寺であったことが分かります。
境内は狭くなり、干拓によって印旛沼は遠くなって、見晴らしも悪くなってしまいましたが、長い
歴史を有する古刹の雰囲気は十分に残っています。

※ 「船形山薬師寺」 成田市船形219-1
追記: 二年間で少しは進歩したでしょうか?
二年前の「薬師寺」の記事 ☜ ここをクリック
お寺なんですが、私にはここは「少彦名」関係に見えます。
少彦名=薬師如来、
常世の国=常磐(つまり茨城県)
周りに船形や須賀や吾妻があったり
茨城に行った少彦名が此処を通って行ったのかも知れません。
麻賀多神社に関係があるのでしたらば尚更
私は那賀猫さんのようには神道の知識がありませんので、ピンとは来ませんが、
確かに「少彦名」は常世の神、温泉の神、酒造りの神などの他に医薬の神の面を
持ちますので、何かのつながりがあってもおかしくありませんね。
近くには須賀神社や吾妻神社もありますし・・・。
本尊の薬師様は、厨子の中で、普段は公開していません。
謎が解けましたでしょうかね?
コメントをありがとうございます。「お前立て」という言葉は知りませんでした。
厨子の中の「薬師如来坐像」は、千葉県教育委員会の許可を得て、画像を掲載し
ました。 史料・資料に混乱があって、2014年8月の初回お参り時では疑問が
多かったのですが、この回の訪問で疑問が全て解けました。 このお寺は好きな
お寺の一つで、何度もお参りをしています。