【「仁王さま」として親しまれている金剛力士像は、釈迦如来の「倶生神」(守るべき相手と同時に
生まれ、生涯を捧げ守護する使命を持つ者)である。梵名の「ヴァジュラダラ(阿形)」と「ヴァジュ
ラバニ(吽形)」は金剛杵を手にする者という意味で、「常に釈迦如来の周囲で金剛杵をとる」
仏法守護神とされる。】 (「知っておきたい仏像と仏教」 今井浄圓・廣瀬良弘・村越英裕・
望月真澄/監修 2016年 宝島社 P147)
【金剛は「金剛杵」の意。あらゆるものを破壊する強力な武器で、金剛力士はこの武器を手に、
仏や信者を敵から護る、忿怒相の夜叉神です。日本では、上半身裸で筋骨隆々とし、血管が
誇張され、忿怒相の躍動感あふれる姿に表すのが主流となっています。敵を退散させる意味で
山門などに二一組で造像される金剛力士は、二つの王の意で仁王とよばれ・・・】
(「仏像の事典」 熊田由美子/監修 2014年 成美堂出版 P73)

旧本大須賀村の一坪田(ひとつぼた)に、廃寺となった田中山宝蔵院があります。
現在観音堂として残るお堂への登り口に、二基の丸彫りの仁王像が立っています。


めずらしい石造の仁王像です。



(2014年10月撮影)
この仁王像に出会ったのはいまから5年前、偶然通りかかった道端でした。
これまでは、仁王門の格子や金網の中に立つ仁王像ばかり見てきたので、最初はずんぐり
した地蔵菩薩像かと思いました。
近づいてみると、それは初めて見る石造の仁王像でした。



【一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。】
(「成田の地名と歴史」 P365)
寛保三年は徳川吉宗の治世で、歴史上六番目の明るさと言われる「クリンケンベルグ彗星」
が現われた年です。
この彗星は、香取神宮の旧社家である、大禰宜家に伝わる「香取大禰宜家日記」にも記述が
あり、流言飛語が飛び交う不穏な空気の漂う中、二体の仁王像はこの地に建立されたのです。


左手に金剛杵を持って、口を開いている「阿形」は、諸法や物事の始りを示しています。


左手は拳を握り右手を開いて、口を閉じている「吽形」は、諸法や物事の終わりを示します。





.阿形の仁王像の背面には、次のような文字が刻まれています。
當村施主北崎氏甚右衛門
戒名即翁須達沙弥
奉建立田中山阿吽両躰
法師智元
寛保三癸亥正月廿三日
また、吽形の背面には多くの戒名が刻まれています。
(一部の文字については自信がなかったので、「大栄町の歴史散歩」(久保木良 著 1994年
崙書房 P58~59)に助けを借りました。)

宝蔵院に関する記録は少なく、「大栄町史」の中でも旧昭栄村域の寺院として、簡単な記述が
あるだけです。
【 宝蔵院 新義真言宗。 一坪田村に所在。 山号は田中山(史話)。 「新義十五」に稲荷山村
大聖寺の門徒寺として載せられている。 元文二年の香奠帳(史料編Ⅲ)に名が見えている。】
元文二年(1737)の香奠帳とは、「元文二年閏十一月 津富浦村実岩良相香奠帳」のことで、
その中に「弐百文 一坪田宝蔵院」と出ています。

丸彫りのずんぐりした体型と、忿怒相でありながらことなく表情に愛嬌のあるこの仁王さまは、
約280年もの間「田中山」を護ってきました。
もう寺は廃寺となってしまいましたが、わずかに残った「観音堂」をこれからも守り続けるでしょう。
さて、「成田の地名と歴史」に”石造の二王さまは県内では3例しかない”と書かれていました
ので、他の2例についても見てみましょう。
九十九里町粟生の善福寺にも石造仁王像があります。
若尾山善福寺は寛永二年(1625)の創建と伝えられる顕本法華宗のお寺。
「山武郡郷土誌」(大正五年 千葉縣山武郡教育會)に、豊海村にある善福寺についての記述が
一行だけありました。
【若尾山善福寺 粟生區にあり、顕本法華宗に屬せり。】
本堂の前に二体の立派な石造仁王像が立っています。

説明板には次のように書かれています。
【 石造金剛力士像阿吽一対
この金剛力士像は、宝暦一〇年(一七六〇)江戸松屋町の石工上総屋二兵衛の作である。
古文書によれば、宝暦六年、粟生の表飯高十兵衛が蓮沼宮免の収益金を資とし、不足金
八両を助力して造立したが、十兵衛とのみ刻して第六天社に奉納したため、村内から苦情
が出、台座の文字を「惣氏子 助力願主飯高氏」と刻みなおして決着したという。金剛力士像
は寺門の左右を警護することから、後に別当の善福寺に移され、近年の寺堂改修際、現在
の位置に安置されたものである。】


(阿 形)


(吽 形)
阿吽両像の台座には、次のような文字が刻まれています。
前面に、「宝暦十歳庚辰改」「惣氏子」
側面に、「助力願主飯高氏」





一坪田の仁王さまと比べると、筋骨隆々の忿怒形という標準型の仁王さまです。
そしてもう一つの石造仁王像が旭市にあります。
( ※ 私はこの旭市の石造仁王像が一坪田・九十九里に続く3例目だと思っていましたが、
3例目は上総勝浦の長秀寺にあるとの記述を目にしました。 いつか機会があれば訪ねて
みたいと思います。)

旭市の「成田山真福寺」にある石造仁王像は、不動明王を護るように立っています。


(阿 形)


(吽 形)


「旭町史 第2巻」(旭市史編さん委員会 1973年)に収録されている成田村の項に、真福寺に
ついての記述があります。
【 真福寺 字田町にある。摩尼山と号し、新義真言宗智山派。銚子市本銚子町(旧飯沼村)
円福寺末。寺伝によると、千葉氏一族の海上理慶が檀越である。理慶は成田に城塁を築き、
軍中の守本尊として聖観音を尊び、応永二年(一三九五)堂宇を造立して、理慶が日頃帰依
していた貞範を開基としたのが寺の草創であるという。文明年間(一四六九ー八七)兵火に
罹ったともいわれている。慶安二年(一六四九)十月朱印地一〇石を賜った。もと境内の東南
小塚の上に、海上公胤(理慶)の墓があったが、のち滅失したという。】 (P118)





建立の日付らしき文字がうっすらと見えますが、風化で読み取ることはできません。
宝蔵院や善福寺の仁王像のような丸彫りではない分、やや迫力に欠けますが、忿怒の表情や
力一杯開いた手の形は、仏法を守護する神としての姿を十分に現しています。






ふつう、木造の仁王さまは仁王門の中に立っています。
屋根があるとはいえ、風雨に晒される環境ですから、どうしても傷みが進みますが、その点、
石造りの仁王さまは長持ちがします。
細かい細工や彩色には向きませんが、大分県の国東半島のように、もっとたくさん造立例が
あってもよさそうな気がします。
「仁王」は、もとはインドの執金剛神(しつこんごうしん)という一体の神でしたが、インドから
中国を経て日本に伝えられる中で、二体となって「仁王」と呼ばれるようになりました。
日本語の五十音はサンスクリット語のアルファベットから生まれたと言われています。
仁王の「阿」は、サンスクリット語でも「ア」で、、「吽」は「ン」です。
「仁王さま」は恐い顔で立っているだけではありません。
私たちの日常に深く関わる存在なのですね。