
「大乗寺」は天台宗のお寺で、山号は「安榮山」、院号は「實相院」。


左に「照一隅」、右に「宝道心」と刻まれた山門前の灯籠は昭和46年に設置されました。


この立派な山門については、後述の「千葉縣印旛郡誌」に記載がありませんが、江戸時代
末期の建立と伝えられています。
屋根には鯱が乗った四脚門です。

山門をくぐった正面に池を挟んで大きな本堂が見えています。
「千葉縣印旛郡誌」は、「大乗寺」について次のように記しています。
「安食村字谷前にあり天台宗にして龍前寺末なり彌陀如来を本尊とす由緒不詳本堂間口
四間半奥行二間半庫裏間口七間三尺奥行八間三尺境内一千二百二十六坪官有地第四種あり
住職は弘海高順にして檀徒一千八百一人を有し管轄廰まで十一里なり持院明細帳」
(アンダーラインの龍前寺は龍角寺の間違い)
「大乗寺」の創建は慶安五年(途中改元で承応元年・1652)と伝えられていますので、360年
以上の歴史を有しています。
明治六年(1873)には安食小学校の前身の鶯谷学校が境内に開校しています。




本堂の左にあるのは旧本堂です。
扉の上に天台宗の宗紋である「三諦星」が掲げられています。
旧本堂の脇には「根本伝教大師尊像」と記された、天台宗の宗祖である最澄の像があります。

「一隅を照らそう」と記された石碑。
これは最澄の記した「山家学生式」にある有名な一節です。
土屋の「薬王寺」にもこの一節の碑がありました。
『帰路、山門から下る石段の途中にある石板には「照于一隅此則国宝」と記されています。
「比叡山開創一千二百年記念」として建立されたとありますが、この最澄の言葉には「照于
一隅此則国宝」と読むか、「照千一隅則国宝」と読むかの二説があり、とても興味深いもの
です。伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」
(さんげがくしょうしき)にある言葉で、「照于一隅此則国宝」(一隅を照らすこれすなわち国宝
なり)が一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照千一隅此則国宝」
(一隅を守り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。最澄の時代の
背景を考えると「照千一隅~」なのでしょうが、「照于一隅~」が長年人々の心に響いてきた
言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑には于と彫られて
います。』 (14/10/11 「薬王寺」の項より)
照于か照千か・・・土屋の薬王寺 ☜ ここをクリック


鐘堂の屋根にも、山門と同じく鯱が乗っています。
この鐘堂は明治四十年(1907)に完成しました。


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撞座の上には「南無藥師如来」の文字が記され、左右には天女が描かれています。
左側面にはやはり天女を挟んで「南無釈迦如来」、右側面には「安栄山実相院大乗寺」、
そして裏面には「南無阿弥陀如来」の文字が記され、天女は四面に描かれています。
旧本堂の脇の繁みにひっそりと「六地蔵」が建っています。

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「六地蔵」は角柱の四面中の三面に二体ずつ彫られている珍しいもので、正徳五年(1715)
の銘があり、二人の戒名が刻まれています。




新旧本堂の裏には墓地が広がり、裏山の上まで続いています。
享保、寛政、文政、安政、万延、文久などの年号が読めます。
山の上の墓石は明治、大正など、新しい墓石が目立ちます。


裏山の斜面に鞘堂に守られた祠がありますが、何の祠かは分かりません。

中腹の台地には歴代高僧の墓石や読誦塔が並びます。

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享保、寛政、宝暦などの年号と、「法印権大僧都」や「竪者法印」などの高い僧位が読めます。

この立派な宝篋印塔は文化四年(1807)のものです。

見事にスマートな地蔵菩薩。
左袖の部分に文字が並んでいますが、風化と剥落で読めません。
「寛■十」とだけ読めましたが・・・。
後日、栄町の図書室で見つけた「文化財シリーズ第二集 栄町の地蔵・観音」(昭和63年)と
いう小冊子の中に、この像に刻まれた銘文が載っていました。
「奉造立地蔵菩薩尊仏為逆修菩提也」「寛文十庚戌天十月吉日」 とあるそうです。
寛文十年は西暦1670年ですから、約350年前のものになります。

参道から墓地に入る場所には、子安観音が並んでいます。






子安観音の後ろにある線描された「月讀大神」。
「月讀大神」は、月を神格化した夜支配する神で、天照大神の弟神、須佐之男命の兄神です。
ちょっと場違いな感がしますが、なぜここにあるのかは分かりません。

鐘堂の裏側には六基の石仏が並んでいます。


左側面に「寛政十一己未」(1799)と記されています。
右側面にも欠損した文字があり、「寛永三■■」(1626)と読めるような気がします。


「奉造立十九夜」と読める六臂の如意輪観音(年代不明)。


「奉造立十九夜」と刻まれた二臂の如意輪観音。
元文三年(1738)のものです。


六臂の如意輪観音。
「寛文」の元号のみが読めます。

右端の二基は原型を留めていません。
他の像と同じ月待塔だとは思いますが・・・。


参道の入口の左右には、「安食百観音」と「無縁墓地」があります。
(「安食百観音」は別項で紹介する予定です。)



「本堂 由緒不詳。 旧本堂は、明治四〇年に四間半×二間半の規模で再建。 現本堂は、
昭和四六年に竣工した。」
「庫裏 明治二五年に仮本堂とともに竣工したが、現存せず、昭和四六年に現庫裏が落成。」
「栄町史調査報告書第2集 千葉県印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には、こうあります。
手入れが行き届いているためか、旧本堂は100年以上、新本堂も築後45年も経っているとは
思えない佇まいです。
裏山全体が墓地となっていることもあり、周辺の騒音が届かない、静かな空間です。

※ 「安栄山大乗寺」 印旛郡栄町安食3633