今回は二年以上前(平成26年8月)に一度ご紹介した、船形の「薬師寺」を再び訪れます。


「薬師寺」は真言宗のお寺で、山号は「船形山」、本尊は「阿弥陀如来」とされています。
「千葉縣印旛郡誌」には、「薬師寺」が次のように紹介されています。
「船形村字船形にあり眞言宗にして東勝寺末なり本尊を阿彌陀如來とす元は麻賀多神社の
別當にして今も船形北須賀二ヶ村の祈願にて二百年前船形の文書にも別當とありしと云ふ
堂宇間口六間奥行四間庫裏間口六間奥行三間半門間口三間奥行二間境内六百四十九坪
官有地第四種あり住職は田中照心にして檀徒四十三人を有し管轄廳まで八里七町なり境内
佛堂一宇あり即
一、藥師堂 藥師如來を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行三間」
今は本堂は無く、仁王門と薬師堂だけが残っています。


吽形の仁王像

仁王門の左右に、県の有形文化財に指定されている迫力ある二体の仁王像があります。


阿形像は像高1.7メートルで、右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。


吽形像は像高1.71メートルで、左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。
この仁王像は、応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
近年、この仁王像の解体修理を行った際、腕と胴体の部材に大永二年(1522)と天正
二十年(1592)の修理墨書銘が見つかりました。

仁王門の脇の手水盤には、延享三年(1746)と刻まれています。

仁王門下に立つ風化した石碑には、「奉 光明■眞言億万■■」「元禄十■■」と刻まれて
いるように見えます。
これは「光明真言百万遍塔」の一種だと思います。
「光明真言」はとても短いお経で( オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン )、これを一心に唱えれば、全ての災いを除くことができると
されています。
元禄十年は西暦1697年ですから、320年前のものです。

仁王門をくぐらずに左に行くと、小さな墓地があります。
元禄、明和、天明、寛政、文化、文政などの年号が読めます。

台座に「筆子中」とある文久二年(1862)の墓石には、「法印照山不生位」と刻まれています。
「照山という僧侶に学問を学んだ生徒が、師匠の菩提を弔うために建立したものである。
右側面には「松に日は暮てあかるきさくらかな 方円舎器水」の句が刻まれている。方円舎
器水は照山の俳号で、辞世の句であろうか。」 (成田の史跡散歩 小倉 博 P106)

墓地の外れ、と言うよりは近くの原っぱにポツンと小さな石仏が置かれています。
何か文字らしきものが見えますが、読むことはできません。


薬師堂へ登る石段の左右に、数基の板碑や石塔があります。
石塔には「大僧都法印照盛」「天明七丁未」と刻まれています。(天明七年は西暦1787年)


『船形村には薬師寺と明王寺という末寺がある。 薬師寺は船形山と号し、阿弥陀如来を本尊
としている。創建年代など不詳。天保八年(一八三七)の「寺柄書上」によると、薬師寺は東西
二〇間・南北二八間の除地に認可された境内に六間・四間半の客殿(本堂)をはじめ、庫裏・
薬師堂・仁王門が建ち、檀家は一一軒であった。』 (P787~8)
「成田市史 中世・近世編」は、「薬師寺」を「東勝寺」の末寺として、こう解説しています。
また、「成田の史跡散歩」(小倉 博 著)にも、
「明王寺跡から少し行った左側が船形の薬師寺である。薬師寺は山号を船形山と号する
真言宗豊山派の持院で、阿弥陀如来をご本尊としている」 (P104)
とあり、その他のほとんどの資料が本尊を「阿弥陀如来」としています。
しかし、全国寺院名鑑(昭和44年)には、
「薬師寺 真言宗(豊山派) 本尊薬師如来境内八五六坪建物薬師堂一一坪仁王門寺宝
旗曼荼羅版木梵鐘(応永元年作) 由緒 船形山と号し、創建年代不詳。麻賀多神社の
別当寺であったといわれる。」
とあり、また安政五年(1858)の「成田名所圖會」には、
「舟形山薬師寺 船形村にあり。本尊薬師如来行基菩薩の開眼なりと云開基詳ならす。
此寺旗曼荼羅と云古き板木を蔵す。古色掬すべし。」
とあります。
さらに、「成田の地名と歴史」では、「薬師寺の木造薬師如来坐像」を本尊としています。
さて、ご本尊は「阿弥陀如来」か、「薬師如来」か?

薬師堂の中には三尊像があります。
「成田の史跡散歩」ではこの三尊像について次のように解説しています。
「仁王門をくぐると正面に石段があり、その上に本堂(薬師堂)が建つ。本堂にはご本尊の
阿弥陀如来坐像と観音菩薩立像・勢至菩薩立像の、いわゆる阿弥陀三尊が祀られ、その
後方の厨子に平安時代から鎌倉時代の作品とされる、やはり千葉県指定文化財の木造
薬師如来坐像が納められている」 (P105)
ずっと疑問に思っていたことがあります。
それは、「薬師寺」なのになぜご本尊が「阿弥陀如来」なのか?
さらに、薬師堂になぜ「薬師三尊」ではなく「阿弥陀三尊」なのか?
ということでした。
これまで多くのお寺を訪ねてきましたが、この船形の「薬師寺」は特に好きなお寺の一つ
なのですが、訪ねる度にこの疑問が湧いてきます。


「阿弥陀如来」であれば九品来迎印や弥陀の定印を結び、衣は偏袒右肩が一般的ですが、
この像は定印で通肩、しかも薬壺らしきものを抱えています。
もしこの像が薬師如来だとすれば、この像容は珍しく、ネット上で画像を探しましたが、東京都
中野区の新井薬師、山口県山口市の瑠璃光寺、京都府井出町の西福寺で見つかりました。
そして中尊が薬師如来ならば、脇侍は日光菩薩と月光菩薩ということになります。
背後に十二神将が並んでいることも整合します。




「阿弥陀三尊」だとすると、左脇侍の「観音菩薩」、右脇侍の「勢至菩薩」、ともにその像容に
やや違和感があります。

「薬師三尊」である確信は持てませんが、「阿弥陀三尊」にも疑問が残ります。
へそ曲がりの素人の妄言かもしれませんが、専門家の方のご意見が欲しいところです。
三尊像の両脇後方には十二神将が並んでいます。



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十二神将(じゅうにしんしょう)は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、薬師如来や
薬師経を信仰する人を守護するとされています。
十二神将とその本地物を列挙すると、
宮毘羅大将(くびら) 弥勒菩薩 ・ 伐折羅大将(ばさら) 勢至菩薩
迷企羅大将(めきら) 阿弥陀如来 ・ 安底羅大将(あんちら) 観音菩薩
頞儞羅大将(あにら) 如意輪観音 ・ 珊底羅大将(さんちら) 虚空蔵菩薩
因達羅大将(いんだら) 地蔵菩薩 ・ 波夷羅大将(はいら) 文殊菩薩
摩虎羅大将(まこら) 大威徳明王 ・ 真達羅大将(しんだら) 普賢菩薩
招杜羅大将(しょうとら) 大日如来 ・ 毘羯羅大将(びから) 釈迦如来
薬師三尊像の眷属として十二神将像をともに安置することが多く見られます。
後ろの厨子に安置されている、「木造薬師如来坐像」の画像を、千葉県教育庁教育振興部
文化財課の許可をいただいて、掲載します。

(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ )
「この像は同寺の本尊として本堂に安置されている。 ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼が
はめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、現状では素地となっているが、
薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」
この画像の解説にはこう書かれています。
ここでもこの「薬師如来」を本尊としています。
ご本尊は「阿弥陀如来」なのか、「薬師如来」なのか、そして、三尊像は「阿弥陀三尊」なのか
「薬師三尊」なのか・・・。
素人なりに追いかけるには、おもしろいテーマだと思っています。

薬師堂の前に、宝珠と火袋部分が無くなって、中台の上に笠だけが乗っている石灯籠が二基
並んでいます。
「享保十一午」の文字が読めますので、1726年のものです。

本堂左手に立つ一対の灯籠と宝篋印塔。

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灯籠の竿の部分には地蔵菩薩が刻まれています。

この宝篋印塔は、明和二年(1765年)に建立されました。


宝篋印塔の後方に裏山へ登る石段があり、小さな祠が見えています。
登ってみましたが、何の祠かは分かりませんでした。


祠の先の急な山道を登ると、子安観音を祀った祠がひっそりと建っています。
こんな足許の悪い狭い急坂を登って、熱心にお詣りする方がおられるようで、新しい御札が
置かれています。
二年前にここに登ったときにも、新しい御札が置かれていました。

子安観音には宝暦四年(1754年)と記されています。

子安観音から坂を下る途中から薬師堂を見ると、軒下に何やら彫刻が並んでいます。






長い年月で木が痩せ、どれがどれだか分かりませんが、十二支であることは確かです。

境内の右手には大きな宝篋印塔と大師堂があります。

宝篋印塔は宝暦とだけ読めますので、約260年前のものです。

大師像の後ろにある石版には、「量海法師皆得体怡信士」と記されています。
文化十年(1813)の文字も見えます。

この薬師寺にはもう一つ、県の有形文化財に指定されているものがあります。
応長元年(1311年)に造られた梵鐘で、現在は宗吾霊堂(東勝寺)の宝物殿内に置かれて
いるものですが、「木造薬師如来坐像」と同様に、千葉県教育庁教育振興部文化財課の許可
をいただき、画像を掲載します。

(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )
「宗霊宝殿に保管されている梵鐘で、総高79.6㎝、口径51.4㎝、3段組で鋳造されていて、
乳は4段4列、上帯下帯とも文様のない素文である。蓮の花をかたどった蓮華文を陰刻した
撞座が一つというめずらしい例で、県内で撞座が一つというのは他に印西市龍腹寺の梵鐘
があるのみである。竜頭も簡略化されたものとなっている。
4区画された池の間の1区画目の銘文には「下州印東庄八代郷船方薬師寺」とあり、成田市
船形の薬師寺に奉納されたものであることがわかる。さらに、梵鐘の由来として、僧良円が
願主となって応長元年(1311)に、娑弥善性という茨城県新治郡出身の鋳物師によって鋳造
されたことが記されている。」
この画像の解説にはこう書かれています。
梵鐘の銘文からすると、この「薬師寺」は、700年以上の歴史があることがわかります。



境内の外れにシイの大木があります。
「船形の大シイ」と呼ばれているこの大木は、市の天然記念物で、幹周りは6メートル、高さは
15メートルもあります。
一部に傷みも見えますが、樹勢はまだまだ盛んです。




『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷船方
薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に豆留しながら
印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」には仁王門・
薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代にはこの地方屈指の大寺
であった。』 (成田の地名と歴史)
「成田名所圖會」には、薬師寺から北須賀村越しに、帆掛け舟が浮かぶ印旛沼を望み、その
遥か先には富士山が描かれています。
実に風光明媚なお寺であったことが分かります。
境内は狭くなり、干拓によって印旛沼は遠くなって、見晴らしも悪くなってしまいましたが、長い
歴史を有する古刹の雰囲気は十分に残っています。

※ 「船形山薬師寺」 成田市船形219-1
追記: 二年間で少しは進歩したでしょうか?
二年前の「薬師寺」の記事 ☜ ここをクリック
「安食百観音」は、前回紹介した「大乗寺」への参道の入口にあります。

観音経では、観音菩薩は衆生救済のために人々の機根に応じた三十三の姿に変身すると
されています。(「機根=きこん」とは、仏の教えを理解したり、修行できる能力のことです。)
この三十三の変化に因んで、各地に三十三ヵ所の霊場を巡礼する風習が生まれました。
その代表的なものが、「西国三十三ヵ所」「秩父三十四ヵ所」「坂東三十三ヵ所」の霊場です。
秩父の三十四番「水潜寺」は西国・秩父・坂東各三十三ヵ所の「結願寺」となっていて、合計
百ヵ所となります。
「夫々の観音霊場を実際に歩いて廻ることは江戸時代の民衆にとっては容易なことでは
なかった。その簡便化として多くの地方に写し巡礼が生まれた。それすら出来ない人々の
ために、百観音すべてを一山一寺の一ヵ所に集め、誰でも簡単に參詣出来るミニチュア
版が考え出された。これが百観音霊場である。」
「安食村とその周辺の村々(現栄町)は古くから観音信仰が盛んな所で、正保四年(1647)
寛政七年(1795)までの間に六観音を初めとし七九体の観音像が方々に祀られていた。」
「寛政十年(1798)に安食村に百観音霊場が建立されたのは、江戸で流行った観音信仰
が地方にまで広がった証しと見られるが、ここには既にその土壌があったのである。」
(「古文書でたどる安食の歴史」(今井康之 著 平成23年 P69~70)

正面に立つ寛政十年(1798)の「阿弥陀三尊」。
「阿弥陀三尊(あみださんぞん)」は、阿弥陀如来を中尊として、その左右に左脇侍の観音菩薩
と右脇侍の勢至菩薩を配する仏像安置形式です。
観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」を現す化身、勢至菩薩は「智慧」を現す化身とされています。



中央の阿弥陀三尊を囲むように、西国・秩父・坂東の百体の観音像が並んでいます。

境内の左手にある「弁財天堂」には「寬保元年酉八月」と記されています。
寛保元年は西暦1741年になります。

「奉納 明和四丁亥天 大乘妙典 日本回国 信濃善光寺三拾三度」と刻まれた石碑。
明和四年は西暦1767年です。

手水鉢は昭和63年のものです。
では、三体ずつ、全ての観音像を見てみましょう。
全て写真左からの解説です。
各観音像の側面には、像の寄進者の名前と、その親族でしょうか、一~三名の戒名と没年
が刻まれています。
風化でその多くが読めなくなっていますが、没年が読めるものは括弧内に示しました。
【 西国三十三ヵ所 】
兵庫・大阪・奈良・和歌山・京都・滋賀・岐阜の二府五県に点在する観音霊場で、三十三ヵ所
の霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行です。

一番 「青岸渡寺」 本尊・如意輪観音 和歌山県那智勝浦町
二番 「金剛宝寺」 本尊・十一面観音 和歌山県和歌山市
三番 「粉河寺」 本尊・千手観音 和歌山県紀の川市

四番 「施福寺」 本尊・千手観音 大阪府和泉市
五番 「葛井寺」 本尊・千手観音 大阪府藤井寺市 (寛政四年・1792)
六番 「南法華寺」 本尊・千手観音 奈良県高取町

七番 「龍蓋寺」 本尊・如意輪観音 奈良県明日香村
八番 「長谷寺」 本尊・十一面観音 奈良県桜井市
九番 「興福寺」 本尊・不空羂索観音 奈良県奈良市 (宝暦十四年・1764)

十番 「三室戸寺」 本尊・千手観音 京都府宇治市
十一番 「上醍醐寺」 本尊・准胝観音 京都府京都市 (天明八年・1788)
十二番 「岩間寺」 本尊・千手観音 滋賀県大津市 (明和三年・1766)

十三番 「石山寺」 本尊・如意輪観音 滋賀県大津市
十四番 「園城寺」 本尊・如意輪観音 滋賀県大津市
十五番 「観音寺」 本尊・十一面観音 京都府京都市
(享保十六年・1731 延享四年・1747)

十六番 「清水寺」 本尊・千手観音 京都府京都市
(安永元年・1772 寛政九年・1797)
十七番 「六波羅蜜寺」 本尊・十一面観音 京都府京都市 (寛政三年・1791)
十八番 「頂法寺」 本尊・如意輪観音 京都府京都市
(天明七年・1787 寛政八年・1796)

十九番 「行願寺」 本尊・千手観音 京都府京都市
二十番 「善峯寺」 本尊・千手観音 京都府京都市
二十一番 「穴太寺」 本尊・聖観音 京都府亀岡市 (天明七年・1787)

二十二番 「総持寺」 本尊・千手観音 大阪府茨木市
(宝暦十三年・1763 安永六年・1777 寛政二年・1790)
二十三番 「勝尾寺」 本尊・千手観音 大阪府箕面市
二十四番 「中山寺」 本尊・十一面観音 兵庫県宝塚市

二十五番 「清水寺」 本尊・千手観音 兵庫県加東市
二十六番 「一乗寺」 本尊・聖観音 兵庫県加西市
二十七番 「圓教寺」 本尊・如意輪観音 兵庫県姫路市

二十八番 「成相寺」 本尊・聖観音 京都府宮津市
(宝暦十一年・1761 安永六年・1777)
二十九番 「松尾寺」 本尊・馬頭観音 京都府舞鶴市
(寛保二年・1742 宝暦二年・1752 明和六年・1769)
三十番 「宝厳寺」 本尊・千手観音 滋賀県長浜市

三十一番 「長命寺」 本尊・千手観音・十一面観音・聖観音 滋賀県近江八幡市
三十二番 「観音正寺」 本尊・千手観音 滋賀県近江八幡市
三十三番 「華厳寺」 本尊・十一面観音 岐阜県揖斐川町
【 秩父三十四ヵ所 】
埼玉県秩父地方の秩父市・横瀬町・小鹿野町・皆野町の一市三町に点在する観音霊場です。
西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所と併せて日本百観音と言い、秩父三十四番の「水潜寺」を
結願寺(けちがんじ)としています。
結願をした後には、長野の善光寺にお詣りするのが慣例です。

一番 「四萬部寺」 本尊・聖観音 秩父市
二番 「真福寺」 本尊・聖観音 秩父市
三番 「常泉寺」 本尊・聖観音 秩父市 (寛政六年・1794)

四番 「金昌寺」 本尊・十一面観音 秩父市
五番 「語歌堂」 本尊・准胝観音 横瀬町
六番 「卜雲寺」 本尊・聖観音 横瀬町 (安永四年・1775)

七番 「法長寺」 本尊・十一面観音 横瀬町
八番 「西善寺」 本尊・十一面観音 横瀬町
九番 「明智寺」 本尊・如意輪観音 横瀬町

十番 「大慈寺」 本尊・聖観音 横瀬町
十一番 「常楽寺」 本尊・十一面観音 秩父市
十二番 「野坂寺」 本尊・聖観音 秩父市 (安永四年・1775 天明六年・1786)

十三番 「慈眼寺」 本尊・聖観音 秩父市
十四番 「今宮坊」 本尊・聖観音 秩父市
十五番 「少林寺」 本尊・十一面観音 秩父市

十六番 「西光寺」 本尊・千手観音 秩父市 (宝永四年・1707)
十七番 「定林寺」 本尊・十一面観音 秩父市 (寛政十二年・1800)
十八番 「神門寺」 本尊・聖観音 秩父市

十九番 「龍石寺」 本尊・千手観音 秩父市
二十番 「岩之上堂」 本尊・聖観音 秩父市 (安永四年・1707)
二十一番 「観音寺」 本尊・聖観音 秩父市 (天明八年・1788)

二十二番 「童子堂」 本尊・聖観音 秩父市
二十三番 「音楽寺」 本尊・聖観音 秩父市
二十四番 「法泉寺」 本尊・聖観音 秩父市
(明和六年・1769 明和八年・1771 天明六年・1786)

二十五番 「久昌寺」 本尊・聖観音 秩父市
二十六番 「圓融寺」 本尊・聖観音 秩父市
二十七番 「大渕寺」 本尊・聖観音 秩父市

二十八番 「橋立堂」 本尊・馬頭観音 秩父市 (元文五年・1740)
二十九番 「長泉院」 本尊・聖観音 秩父市 (天明八年・1788)
三十番 「法雲寺」 本尊・如意輪観音 秩父市

三十一番 「観音院」 本尊・聖観音 小鹿野町
三十二番 「法性寺」 本尊・聖観音 小鹿野町 (安永八年・1779 寛政元年・1789)
三十三番 「菊水寺」 本尊・聖観音 秩父市 (宝暦四年・1754 天明四年・1784)

三十四番 「水潜寺」 本尊・千手観音 皆野町 (百観音結願寺)
【 坂東三十三ヵ所 】
神奈川・埼玉・東京・千葉・茨城・群馬・栃木の一都六県に点在する観音霊場。
源頼朝が発願し、源実朝が西国の霊場を模して制定したと伝えられています。
(坂東三十三観音は、西国・秩父の並びとは逆になっているため、写真左の札所番号が
大きくなっています。)

三十三番 「那古寺」 本尊・千手観音 千葉県館山市
三十二番 「清水寺」 本尊・千手観音 千葉県いすみ市
三十一番 「笠森寺」 本尊・十一面観音 千葉県長南町

三十番 「高蔵寺」 本尊・聖観音 千葉県木更津市 (元禄四年・1691)
二十九番 「千葉寺」 本尊・十一面観音 千葉県千葉市 (寛政四年・1792)
二十八番 「龍正院」 本尊・十一面観音 千葉県成田市

二十七番 「圓福寺」 本尊・十一面観音 千葉県銚子市
(宝暦十年・1760 安永七年・1778)
二十六番 「清瀧寺」 本尊・聖観音 茨城県土浦市
二十五番 「大御堂」 本尊・千手観音 茨城県つくば市

二十四番 「楽法寺」 本尊・延命観音 茨城県桜川市 (寛政元年・1789)
二十三番 「正福寺」 本尊・十一面千手観音 茨城県笠間市
二十二番 「佐竹寺」 本尊・十一面観音 茨城県太田市

二十一番 「日輪寺」 本尊・十一面観音 茨城県大子町
二十番 「西明寺」 本尊・十一面観音 栃木県益子町
十九番 「大谷寺」 本尊・千手観音 栃木県宇都宮市

十八番 「中禅寺」 本尊・千手観音 栃木県日光市
十七番 「満願寺」 本尊・千手観音 栃木県栃木市
十六番 「水澤寺」 本尊・千手観音 群馬県渋川市

十五番 「長谷寺」 本尊・十一面観音 群馬県高崎市 (寛政四年・1792)
十四番 「弘明寺」 本尊・十一面観音 神奈川県横浜市 (天明四年・1784)
十三番 「浅草寺」 本尊・聖観音 東京都台東区

十二番 「慈恩寺」 本尊・千手観音 埼玉県さいたま市
十一番 「安楽寺」 本尊・聖観音 埼玉県吉見町
十番 「正法寺」 本尊・千手観音 埼玉県東松山市

九番 「慈光寺」 本尊・十一面千手千眼観音 埼玉県ときがわ町 (宝暦六年・1756)
八番 「星谷寺」 本尊・聖観音 神奈川県座間市
七番 「光明寺」 本尊・聖観音 神奈川県平塚市
(寛政六年・1794 天明七年・1787)

六番 「長谷寺」 本尊・十一面観音 神奈川県厚木市 (天明八年・1788)
五番 「勝福寺」 本尊・十一面観音 神奈川県小田原市
四番 「長谷寺」 本尊・十一面観音 神奈川県鎌倉市

三番 「安養院」 本尊・千手観音 神奈川県鎌倉市
二番 「岩殿寺」 本尊・十一面観音 神奈川県逗子市
一番 「杉本寺」 本尊・十一面観音 神奈川県鎌倉市
百観音の中には、明らかに風化ではない傷跡が残されているものがあります。
各地の寺院の石仏と同様に、ここの観音像も「廃仏毀釈」の嵐に巻き込まれたようです。










また、西国三十二番、秩父五番・八番・九番・十一番・十三番、坂東五番・二十二番・二十五番・
二十八番の十体は新しく造られています。
補修が難しかったのかもしれません。
「古文書でたどる安食の歴史」(平成23年)には、観音像の寄進者名が記載されていますが
(P71~74)、秩父十三番を除いて上記九体は(欠)となっていますので、これらはここ数年の
間に新たに安置されたものであることが分かります。

そして、中央の阿弥陀三尊像もその例外ではなく、三体とも首が落とされて補修されています。
削られたり、割られたりした石仏は、その傷口からさらに風化が進んでしまいます。
「廃仏毀釈」という悲しい歴史の一コマは、風化させずにしっかりと検証しておくべきでしょう。

阿弥陀三尊の隣に「西国番外」として、左から花山院・藥師如来(兵庫県三田市)、元慶寺・
藥師如来(京都府京都市)、法起院・徳道上人(奈良県桜井市)が並んでいます。

これは何の碑か分かりません。
「觀■■■ 妙■■■」しか読めません。
紀年銘は文政とあるような気がしますが・・・。

前面の大乗寺参道側にもたくさんの観音像が並んでいます。


***********


「安食百観音霊場」の場所は三方を池に囲まれていて、通称「弁天島」と呼ばれています。





約220年前の寛政十年に建立されてから、長い間に石仏は風化し、境内は荒廃していましたが、
昭和60年に整備されて今の姿になりました。
百ヶ所の霊場を一ヶ所にまとめてお詣りできる「安食百観音」。
お気に入りの札所や観音像を決めて、お詣りするのも良いかもしれませんね。

※ 「安食百観音」 栄町安食3633(付近)

「大乗寺」は天台宗のお寺で、山号は「安榮山」、院号は「實相院」。


左に「照一隅」、右に「宝道心」と刻まれた山門前の灯籠は昭和46年に設置されました。


この立派な山門については、後述の「千葉縣印旛郡誌」に記載がありませんが、江戸時代
末期の建立と伝えられています。
屋根には鯱が乗った四脚門です。

山門をくぐった正面に池を挟んで大きな本堂が見えています。
「千葉縣印旛郡誌」は、「大乗寺」について次のように記しています。
「安食村字谷前にあり天台宗にして龍前寺末なり彌陀如来を本尊とす由緒不詳本堂間口
四間半奥行二間半庫裏間口七間三尺奥行八間三尺境内一千二百二十六坪官有地第四種あり
住職は弘海高順にして檀徒一千八百一人を有し管轄廰まで十一里なり持院明細帳」
(アンダーラインの龍前寺は龍角寺の間違い)
「大乗寺」の創建は慶安五年(途中改元で承応元年・1652)と伝えられていますので、360年
以上の歴史を有しています。
明治六年(1873)には安食小学校の前身の鶯谷学校が境内に開校しています。




本堂の左にあるのは旧本堂です。
扉の上に天台宗の宗紋である「三諦星」が掲げられています。
旧本堂の脇には「根本伝教大師尊像」と記された、天台宗の宗祖である最澄の像があります。

「一隅を照らそう」と記された石碑。
これは最澄の記した「山家学生式」にある有名な一節です。
土屋の「薬王寺」にもこの一節の碑がありました。
『帰路、山門から下る石段の途中にある石板には「照于一隅此則国宝」と記されています。
「比叡山開創一千二百年記念」として建立されたとありますが、この最澄の言葉には「照于
一隅此則国宝」と読むか、「照千一隅則国宝」と読むかの二説があり、とても興味深いもの
です。伝教大師最澄が弘仁九年(818年)に天台宗の修行規定として書いた「山家学生式」
(さんげがくしょうしき)にある言葉で、「照于一隅此則国宝」(一隅を照らすこれすなわち国宝
なり)が一般に広く知られている言葉と意味ですが、最近の学説では「照千一隅此則国宝」
(一隅を守り千里を照らす、これすなわち国宝なり)が正しいとされています。最澄の時代の
背景を考えると「照千一隅~」なのでしょうが、「照于一隅~」が長年人々の心に響いてきた
言葉と意味なので、この方が良いと判断されたのでしょう、薬王寺のこの碑には于と彫られて
います。』 (14/10/11 「薬王寺」の項より)
照于か照千か・・・土屋の薬王寺 ☜ ここをクリック


鐘堂の屋根にも、山門と同じく鯱が乗っています。
この鐘堂は明治四十年(1907)に完成しました。


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撞座の上には「南無藥師如来」の文字が記され、左右には天女が描かれています。
左側面にはやはり天女を挟んで「南無釈迦如来」、右側面には「安栄山実相院大乗寺」、
そして裏面には「南無阿弥陀如来」の文字が記され、天女は四面に描かれています。
旧本堂の脇の繁みにひっそりと「六地蔵」が建っています。

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「六地蔵」は角柱の四面中の三面に二体ずつ彫られている珍しいもので、正徳五年(1715)
の銘があり、二人の戒名が刻まれています。




新旧本堂の裏には墓地が広がり、裏山の上まで続いています。
享保、寛政、文政、安政、万延、文久などの年号が読めます。
山の上の墓石は明治、大正など、新しい墓石が目立ちます。


裏山の斜面に鞘堂に守られた祠がありますが、何の祠かは分かりません。

中腹の台地には歴代高僧の墓石や読誦塔が並びます。

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享保、寛政、宝暦などの年号と、「法印権大僧都」や「竪者法印」などの高い僧位が読めます。

この立派な宝篋印塔は文化四年(1807)のものです。

見事にスマートな地蔵菩薩。
左袖の部分に文字が並んでいますが、風化と剥落で読めません。
「寛■十」とだけ読めましたが・・・。
後日、栄町の図書室で見つけた「文化財シリーズ第二集 栄町の地蔵・観音」(昭和63年)と
いう小冊子の中に、この像に刻まれた銘文が載っていました。
「奉造立地蔵菩薩尊仏為逆修菩提也」「寛文十庚戌天十月吉日」 とあるそうです。
寛文十年は西暦1670年ですから、約350年前のものになります。

参道から墓地に入る場所には、子安観音が並んでいます。






子安観音の後ろにある線描された「月讀大神」。
「月讀大神」は、月を神格化した夜支配する神で、天照大神の弟神、須佐之男命の兄神です。
ちょっと場違いな感がしますが、なぜここにあるのかは分かりません。

鐘堂の裏側には六基の石仏が並んでいます。


左側面に「寛政十一己未」(1799)と記されています。
右側面にも欠損した文字があり、「寛永三■■」(1626)と読めるような気がします。


「奉造立十九夜」と読める六臂の如意輪観音(年代不明)。


「奉造立十九夜」と刻まれた二臂の如意輪観音。
元文三年(1738)のものです。


六臂の如意輪観音。
「寛文」の元号のみが読めます。

右端の二基は原型を留めていません。
他の像と同じ月待塔だとは思いますが・・・。


参道の入口の左右には、「安食百観音」と「無縁墓地」があります。
(「安食百観音」は別項で紹介する予定です。)



「本堂 由緒不詳。 旧本堂は、明治四〇年に四間半×二間半の規模で再建。 現本堂は、
昭和四六年に竣工した。」
「庫裏 明治二五年に仮本堂とともに竣工したが、現存せず、昭和四六年に現庫裏が落成。」
「栄町史調査報告書第2集 千葉県印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には、こうあります。
手入れが行き届いているためか、旧本堂は100年以上、新本堂も築後45年も経っているとは
思えない佇まいです。
裏山全体が墓地となっていることもあり、周辺の騒音が届かない、静かな空間です。

※ 「安栄山大乗寺」 印旛郡栄町安食3633

中里の「楽満寺」から七沢の八坂神社方向に抜ける旧道(今は寸断されてほとんど消えて
いますが・・・)に「中里の道祖神」と呼ばれる場所があります。
「道祖神」は、主に昔の村の境界や道の辻、三叉路などに祀られている神で、村の守り神で
あり、子孫繁栄や旅の安全を守ってくれる神様として信仰されていました。
呼び方はいろいろあって、成田近郊ではドウロクジン(道陸神)と呼ばれることが多く、他にも
賽の神または障の神(サイノカミ)と呼ぶ地方もあります。


ここの「道祖神」には、数え切れないほどの小さな祠がうずたかく積まれています。
「道祖神」といえば、道端にポツンと立っているイメージですが、びっくりするような景色です。

鳥居は平成7年に建てられました。

手水盤の願主の数名の名前が読めますが、奉納の年代は読めません。


手水盤の脇に大正十一年(1922)の道標が立っています。
「此方 小野 大和田 滑河」と刻まれた面には、わざわざ「正面」とも刻まれています。
別の面二は、「此方 七澤 名古屋 ■■」、「此方 青山 倉水 成井 本大須賀」とあります。
今では目立たない脇道ですが、元々はここが人々の行き交う旧道だったようです。


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正面中央に周りのものより大きい、唐屋根に楓の紋が刻まれた祠があります。
明治三十二年(1899)のものです。


おびただしい数の小祠が並んでいる、というよりは積み上がっています。
人通りの無い小道の、それも大木の陰に・・・、この光景は怪しげですらあります。

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文字は無いが祠の形


お札のような形や、さらに小さな形のものまでが混在しています。


積み上げられた小祠で、さながら塚のようになった裏側も、この景色です。


大部分は文字も刻まれていないものですが、丁寧に見て行くと、ほんのわずかですが年号が
記されているものがあります。
文化元年、文化四年、文化五年、文化十一年のものを見つけました。
ほとんどが文化年間(1804~1818)のもののようです。

中に一つだけ、奉納された常夜燈が崩れたのでしょうか、中央の祠の脇に置かれていました。
これまでにたくさんの道祖神を見てきましたが、そのどれにも無い、強く訴えかけてくるような、
「道祖神」群です。

幸町の三竹山道祖神(ドウロクジン)

東和田の道祖神

幡谷・香取神社脇の道祖神群

前林・妙見神社前の道祖神

吾妻・吾妻神社側の道祖神

堀籠・須崎神社の道祖神

押畑・新福寺下の道祖神(ドウロクジン)


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道祖神はタブの巨木の根元に積まれています。
このタブの木の推定樹齢は2~300年と言われています。
旧道の三叉路にタブの木が生えた小塚があって、ここに村人が「道祖神」を置き、何かに
つけて皆が小さな祠を奉納して行く内に、タブの木も大木になり、こんな不思議な光景に
なったのでしょう。
この道祖神群について唯一見つけた記録は、「下総町の社寺と石宮」(昭和60年)にある、
次のような記述です。
「道祖神 字原大間戸(一八一) 猿田彦命 足の悪い人が参拝する。また、現在三峰講は
ここを中心に行われる。」
あっさりした記述のため、これが「中里道祖神」のこととは気づきませんでしたが、巻末にある
古い写真は間違いなくこの鳥居とタブの木、そして積み上げられた道祖神群でした。

道祖神に刻まれた年号はほとんど文化年代(1804~1818)ですから、そのころはタブの木
もありふれた大きさの木であったはずです。
初めにここに小さな道祖神を奉納した村人は、200年後のこの景色を想像したでしょうか?

※ 「中里道祖神」 成田市中里181