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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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「円應寺」~唯一現存する成田山の門徒寺
今回は米野の「円應寺」を訪ねます。

円應寺ー1
円應寺ー2

「円應寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「米野山」。
成田山新勝寺の門末六ヶ寺の一つで、「米野山円能寺」と称していましたが、近世になって
「円應寺」と寺号を改めました。
創建年代等は不明ですが、残る記録から、少なくとも三百数十年の歴史があります。
新勝寺の門末六ヶ寺とは、末寺が延命院のみで、門徒寺として観音院・正福院・南光坊・
神光寺・円應寺となっていますが、現在残っているのはこの「円應寺」のみです。
(観音院・正福院・神光寺が明治初期に、南光坊が明治十七年、延命院が明治二十六年
に廃寺となっています。)

「公津新田字中台ニアリ。成田山新勝寺ノ末寺ニシテ真言宗ニ属シ、正観世音ヲ本尊トス。
由緒詳カナラズ。住職ハ池田照誓ニシテ檀徒六十八人ヲ有ス。」

(「八生村誌」 大正三年)
(※ 昭和29年に公津新田から米野に改称)


円應寺ー3
円應寺ー4
円應寺ー40

境内右手ある「如意輪観音」。
天保四癸巳二月吉日の紀年銘があります。
天保四年は西暦1833年です。

修復の痕があり、首が傾いていませんので、何となく違和感があります。
観音様も首の座りが悪いのか、ちょっと苦笑されているようにも見えますね。


円應寺ー5
円應寺ー6
********** 円應寺ー7

参道から境内に入る場所に「大師堂」があります。
手水盤は明治二十一年(1888)のものです。


円應寺ー8
円應寺ー9
********** 円應寺ー10
円應寺ー11

庫裡の裏に山を下る石段が見えています。
裏参道のようです。
下り切った場所には目印になる石碑や案内板は無く、静かな田園風景が広がっています。


円應寺ー12

裏参道の周りには手つかずの鬱蒼とした森です。


円應寺ー13

本堂脇にある、流造の小さなお堂の名前は分かりません。
内部も荒れていました。



円應寺ー14
********** 円應寺ー16

本堂の中がチラリと見えましたが、きれいに整頓されています。
庫裡の屋根には大きなスズメバチの巣が・・・。


円應寺ー17

『享保八年の「公津新田寺社差出帳」には「一真言宗 一境内弐反歩 除地 是ハ南北
三拾間 東西弐拾間」と記されている。同寺が別当をしている真杉大明神宮を宝永元年
(一七〇四)に再建したとき、成田山の照範が遷宮導師になっているので、同寺と成田山
との関係はかなり古い。宝永年間以降、宥性・寂明・尊専・照呼らが住していた。』

(「成田市史 中世・近世編 P709)

この記述からすれば、「円應寺」の歴史は少なくとも三百数十年以上あるようです。

「千葉縣印旛郡誌」には、「圓應寺」について次のように記しています。
「公津新田村字中台にあり新勝寺の末寺にして眞言宗に屬し正観世音菩薩を本尊とす
由緒不詳堂宇間口五間奥行四間庫裡間口五間奥行二間境内四百二十坪官有地第四種あり
住職は池田照誓にして檀徒六十八人を有し管轄廰まで七里六町四十九間あり境内堂宇
三宇あり即
一、釋迦堂 釋迦如来を本尊とす由緒不詳建物間口二間奥行一間なり
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間なり
三、子安堂 子安観世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間なり寺院明細帳

いずれの堂宇も失われてしまい、大師堂のみが形を変えて境内入口に建っています。


円應寺ー23

昨年の十一月には33年に一度のご本尊の御開帳があったようで、回向柱が残っています。
正面には「奉開帳 聖観世音菩薩 為参詣檀徒 現當二世 安樂也」とあり、右側面には
「福聚海無量是故応頂礼」、左側面には「具一切功徳慈眼視衆生」、そして裏面には「維時
平成二十六年十月十八日 山主敬白」と記されています。


円應寺ー46
********** 円應寺ー45
円應寺ー21
********** 円應寺ー20

ちょっと離れた所に小さな墓地がありました。
寛文、延享、享保、寛政、天明、天保、慶応等の年号が読めます。
大きな地蔵像には歴代住職の名前が刻まれ、元文五年(1740)の文字が見えます。


円應寺ー27
円應寺ー24
円應寺ー25

墓地を抜けてしばらく行くと、椎の大木の下に小さなお堂が見えました。
近づいて中を覗くと、「馬頭観音」が安置されています。
成田市文化財保護協会発行の「成田史談第22号」(1977年)に、「米野山円応寺雑考」
という後藤栄一氏の論文があり、その中に次の一説があります。

『なぜならば寺の南方五十米の大椎の根元から、純金の守本尊が発見されたと伝えられ
ている。円応寺縁起からして多分公津ヶ原の大合戦の最中にかくしたのではないだろうか。
古老の話だと、其の時に寺(館)が火災にあったらしいと言う。同寺の縁起によれば「下総
国印旛郡公津新田村米野山円応寺で本尊聖観世音菩薩は、千葉氏十二代貞胤の守本尊
にして天正三年に一旦其の行衛を失いしが、承応三年に至り、字中台の畑地の大椎の樹
下より、武田彦兵衛翁に因りて発掘せられたるを、千葉家の遺族たる宥澄上人(承応三年
成田山貫主となる)の発願に依りて一寺を建立して奉安供養して今日に至る。抑も聖観音
菩薩は、大日如来の大悲の総徳を司り、三十三種の大願を立て弘誓の深きこと、海の如く、
娑婆、世界に遊化して無数の衆生を済度に依し奉る時は、各其の所願に応じ、観音の妙智
力、能く無量の苦患を免れて、無辺の福徳を増し、現当二世如意、円満ならん」とある。』


「現在その場所には、交通安全と深いつながりをもつと言われる馬頭観音菩薩と、二柱が
祀られて区民の信仰を集めている。」
 (P61)

この場所が、「円應寺」のご本尊が掘り出された場所のようです。
そして、「円應寺」の建立は、前述した宝永元年の記録による推測よりも古い、承応三年
(1654)あたりである可能性があることが分かります。
天正三年(1575)から承応三年までの約80年間、「聖観世音菩薩像」は椎の木の根元に
眠っていたわけです。


円應寺ー43
円應寺ー42 
      ご本尊が納められている厨子 


円應寺ー44
円應寺ー47
********** 円應寺ー37
円應寺ー38

「米野」の地は、東・西・南の三方を成田ニュータウンに囲まれた場所ですが、開発とは無縁
のような、森と畑が広がるのどかな環境です。
昔から十数軒の家しかない住民の少ない地区であったことと、(部外者には分からない事情
があるのでしょうが)昭和42年に「成田ニュータウン計画に反対する請願書」の提出を行った
ことに見える、地区の住民の方たちの”開発”に対する姿勢が、この景色の背景にあるような
気がします。
個人的には、「円應寺」を中心とした自然が、ニュータウンに囲まれたの一角の「米野」の場所
に残っていて欲しいと思いますが・・・。


円應寺ー36


                        ※ 「米野山円應寺」 成田市米野202




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

八生村の寺社 | 11:00:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
下福田の山中に笑う(?)石仏群~正福寺
正福寺ー39

下福田の「正福寺」は真言宗智山派のお寺で、ご本尊は「阿弥陀如来」です。


正福寺ー43
正福寺ー42

「正福寺」へと向かうこの坂はすごい傾斜で、まるで登山のようです。
顔を上げても先が見えない急坂は150メートルほど続きます。


正福寺ー1

坂を登り切ると左手に墓地が広がっています。
新旧の墓石が並んでいて、古い墓石には、寛政、文化、文政、天保、慶應などの年号
が記されています。


正福寺ー41

木々の間から、遠く新妻、芦田、荒海方面が見えます。


正福寺ー2

お寺が見当たらないので右にしばらく進むと、下に向かう長い石段がありました。
せっかく急坂を登ってきたのに・・・と思いながらも、ともかく石段を下りてみました。


正福寺ー3
正福寺ー4

89段の石段の下に「正福寺」がありました。
どうやら裏参道から来てしまったようです。

明治十七年(1884)に書かれた「千葉縣下總國下埴生郡下福田村誌」には、「正福寺」
について次の一行のみの記載があります。
「正福寺ハ本村ノ南方ニ在リ、之亦旧記ナシ建立不詳。」
(「成田市史近代編史料集一」に収録)

また、「成田市史中世・近世編」には、
「下福田村の正福寺はもと南羽鳥村の小字正福寺にあった寺で、遷座年代など不詳で
あるが、天正十九年の「福田郷御縄打水帳」にその名がみえるので、これ以前のことに
なる。」
「本尊は阿弥陀如来で宝暦三年(一七五三)に本堂が再建されている。」
 (P786)
とあり、「成田市域の寺院表5-1」には、真言宗で飯岡村の永福寺の末寺であり、創建は
天正十九年以前で、南羽鳥村から遷座したと記されています。
天正十九年は西暦1591年ですから、それ以前の創建となれば425年以上の歴史を有し
ていることになります。


正福寺ー5
正福寺ー7

本堂の鬼瓦には、真言宗智山派の宗門である桔梗紋があります。


正福寺ー8

「延享元甲子五月」「當寺親住法印尭辧」と記された「宝篋印塔」。
延享元年は西暦1744年にあたります。
「宝篋印塔」は、本来は内部にお経を納めるものですが、石塔の場合は内部にお経を
納めることは無いようです。


正福寺ー9
正福寺ー10

「法印筐塔」に並んで立つ「地蔵尊」。
寛文十年(1670)と読めるような気がします。


正福寺ー11
正福寺ー12

境内の一角に数基の石仏と墓石が並んでいます。
大きな板碑状のものは明治三十三年(1900)のもので、二つの戒名が刻まれています。
右側にある3基の石仏の内、後ろにあるのは「如意輪観音」で、「天明」(?)と記されて
いるように見えます。


正福寺ー13
正福寺ー14

本堂に向かって左側には「大師堂」があります。


正福寺ー15
正福寺ー17
*********** 正福寺ー49
正福寺ー57
*********** 正福寺ー58

「大師堂」の右半分には十体の木像が並んでいます。
一見して「十二神将」や「天龍八部衆」を思い浮かべましたが、傷みが激しく、また持物が
ことごとく欠損しているので、判別はできません。
いずれも鎧のようなものを着けているように見えるので、二体が欠けた「十二神将」では
ないか、と思うのですが・・・。


正福寺ー18
正福寺ー19
********** 正福寺ー20
正福寺ー21

境内奥に並ぶ墓石群。
延宝、元禄、享保、明和、安永、文化などの年号が読めます。


正福寺ー22
正福寺ー25
*********** 正福寺ー23
正福寺ー24
*********** 正福寺ー26

こちらの墓石群に刻まれている石仏の多くは、微笑むと言うより、笑っているように見えます。
微笑むような石仏は見ますが、神仏習合の産物とも言える「七福神」の他には、笑う石仏は
見たことがありません。
もちろん、これは風化やカビのなせる技ですが、私には、石仏が何やら語り合っている内に、
誰かの言葉に思わず皆が笑ってしまったような景色に見えました。


正福寺ー27
正福寺ー35

二つの墓石群の間に、山頂に向かって道のようなものがあります。
枯木や竹が道を塞ぎ、足許が滑ります。


正福寺ー54
正福寺ー50
正福寺ー51

薄暗い竹やぶの中を蜘蛛の巣にからまれながら登ると、小さなお社がありました。
鳥居もあって鞘堂に守られていますが、神社の名前は分かりません。


正福寺ー52
正福寺ー32

目を上に向けると、10メートルほど先に祠がありました。
「天明三■卯二月吉日」と刻まれています。
天明三年(1783)の干支は癸卯(みずのと・う)です。


正福寺ー33

祠まで登ってみると、さらにその奥に「辧財天」と刻まれた祠が・・・。
明治三十七年(1904)の文字と、とぐろを巻いた蛇が描かれています。

「弁財天」はもともと「弁才天」と表記されていたものが、江戸時代になってから金運・開運の
神として信仰されるようになり、「弁財天」と表記されることが多くなりました。

「弁才天はサンスクリット語でサラスヴァティーといい、その昔インドにあった同名の河(現在
は存在しない)を神格化したもの。もともとは河川の神であるが、川の流れる音を音楽に例
えて音楽の神となり、さらに音楽は流暢な言葉に通じることから弁舌の神になり、雄弁さは
頭の良い証拠でもあるから学問の神となり、さらには幸福や財宝、子宝を授ける神として
信仰されるようになった。」
「このサラスヴァティーが仏教に取り入れられ、すぐれた智慧をもって雄弁に語ることから
「弁才天」と名付けられ、雄弁、智慧、音楽、豊穣などの神になったのである。」

(「仏像鑑賞入門」 瓜生中 著 幻冬舎 2004年 P170~171)

もともと川の神であったことから、インド古来の蛇・龍信仰と結びついて、蛇や龍が「弁才天」
の使いだとされています。


正福寺ー44
正福寺ー59
正福寺ー36

大正二年(1913)の「印旛郡誌」は「正福寺」について、次のように書いています。

「下福田村字表にある眞言宗新義派に屬し飯岡村永福寺末なり本尊は木造阿彌陀如来
にして寶暦三酉年再建立堂宇間口六間三尺奥行五間境内二百二十九坪民有地第一種


再建立された宝暦三年は、西暦1753年になります。
前々回に訪ねた「星光院」と同じく、「印旛郡誌」の新義真言宗から、現在の宗教法人名簿
では真言宗智山派へと表記が変わっています。

下福田の静かな田園を前に、背後には山を抱いた「正福寺」には、420年以上の歴史が
眠っています。


正福寺ー60
正福寺ー61


                       ※ 「正福寺」 成田市下福田248



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

八生村の寺社 | 07:44:24 | トラックバック(0) | コメント(2)
これも時の流れか・・・~大竹の「勧行院」
大竹の「勧行院」を訪ねます。

勧行院ー1

「勧行院」は天台宗のお寺で、山号は「天王山」。
天文年間に祐海により創建されました。
栄町の龍角寺の末寺でした。


勧行院ー44

坂田ヶ池公園の駐車場脇の急坂を登った先に「勧行院」はあります。


勧行院ー2

境内の真ん中に建つこの宝塔には宝暦七年(1757)と読める文字があります。


勧行院ー3

境内は閑散とした雰囲気です。

写真で見るよりずっと荒れた感じのお寺で、これは本堂ではなく、使われなくなった集会所
といった感じです。
建物の中も荒れています。


勧行院ー5
勧行院ー6

「勧行院は本尊が「薬師如来」で山号を天王山と号する。天文年間(一五三二~一五五五)
祐海によって創建されたが、当時は草庵程度のもので、宝暦五年(一七五五)覚栄のときに
六間・五間の本堂ができた。」
 (「成田市史 中世近世編 P784)

今はすっかり寂れていますが、480年近い歴史あるお寺です。

このお堂は比較的新しいもののようです。
大きさも上記の「成田市史」にある本堂より小さいので、本堂が何らかの理由で消失した後、
ここにご本尊の「薬師如来像」を納めた「薬師堂」だと推測しました。

なお、成田市の指定文化財のリストには、このお寺の懸仏が載っています。
これもこのお堂の中に収められているのでしょうか。


勧行院ー9

なぜか境内に一つだけある墓石。
明治11年と記されています。


勧行院ー10
勧行院ー11

大師堂の中に風化でお顔が平面的になった大師像が座っています。
背後の壁だけ新しく合板で補修されています。


勧行院ー8

大師堂の裏、境内の外れに小さな祠が二つ。


実は、この場所には昨年8月に訪れていますが、ここが「勧行院」だとは気付きませんでした。
近くにある「円光寺」を訪ねる途中で道を間違えてしまい、この場所に出てしまったのです。

  ↓ その時の記事です。                   (平成26年8月24日)  
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここだと思って登った坂の上にはポツンとお堂が建っていました。
「天王山」と掲額があるだけで、何の手掛かりもありません。

円光寺ー3

境内に一つだけ建っている宝塔には宝暦七年(1757年)と刻まれています。

円光寺ー4
円光寺ー5

細い山道の反対側に小さな墓地がありました。
墓石を見ると、寛文二年(1662年)、貞享四年(1687年)、正徳三年(1713年)、
明和六年(1769年)等の文字が読めました。
荒れ果てていますが、さぞかし歴史のある場所なのでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

前回私が訪ねて以来、誰かがここに来たことはあったのでしょうか?
目に入る景色は何一つ変わっていないような気がします。

勧行院ー29

この先は人が通ることは無いようです。
枯葉が積もり、歩くと靴が沈みます。

道の反対側に小さな墓地が点在しています。

勧行院ー12

墓地は5~6メートル置きに3ヶ所に分かれています(もともとはつながっていたものが竹やぶ
に浸食されて離れてしまったのかもしれません)。
一番奥の墓地には5基の墓石が並んでいます。
手前の墓石には、宝暦十一年(1761)、宝暦十三年(1763)、明和六年(1769)、安永四年
(1775)に亡くなった方の戒名が並んで刻まれています。


勧行院ー13

隣の2体のお地蔵さまは、頭が欠けています。
「歸空」と刻まれている左のお地蔵様は元文三年(1738)のものです。
右のお地蔵さまは元文五年(1740)のもので、こちらは頭を付け直されています。


勧行院ー14  正徳元年(1711)
勧行院ー15   元禄十五年(1702)
勧行院ー17


勧行院ー19

真ん中の墓地の奥には寛政十二年(1800)と宝暦九年(1759)の墓石が並んでいます。
寛政十二年の墓石は倒れてしまっています。


勧行院ー20

手前の墓地の入口には3基の小さな石仏。
左側の石仏は寛文八年(1668)のもので、真ん中の石仏は正徳年間(1711~15)のもの、
右端の石仏は風化で崩れていて分かりません。


勧行院ー22
勧行院ー38

「大師子吼林釋清潭塔」と刻まれたこの石塔の側面には、「昭和四十八年七月当山兼住
大乘寺髙融建立」と記されています。
近隣の天台宗のお寺で「大乘寺」を探すと、栄町にありました。

「現住職ハ小見尠馨ニシテ最モ宗教哲学ニ通ジ、又詩文ヲ以テ其名江湖ニ知ラル。」
「成田市史近代編史料集」に収録の「八生村誌」にはこうありました。
「八生村誌」は大正三年の編さんですので、その頃は尠馨という住職がいたわけです。
この石碑によれば、昭和48年時点での住職(髙融)は兼任となっていることが分かるので、
大正三年からの60年間の間にこの寺は無住となってしまったわけです。

ここにはたくさんの石仏がありますが、多くは竹やぶにのみ込まれてしまいました。

勧行院ー23  正徳3年(1713)
勧行院ー24
勧行院ー25
勧行院ー21

勧行院ー26
勧行院ー28
勧行院ー7


「村ノ北方字竹内ニ在リ、地坪百弐拾七坪。天台宗天王山ト号ス。本郡龍角寺村天竺山
龍角寺ノ末派ニシテ、開基ノ年号干支及開祖ノ名詳ナラス。境内ニ大師堂アリ。」

(「成田市史近代編史料集」に収録の「下総國下埴生郡大竹村誌」より)

「大竹字竹ノ内ニアリ、薬王寺ト稱ス。天台宗ニシテ中本寺龍角寺門徒タリ。本尊ヲ薬師
如来トス。開山ハ天文二十五年四月法名權律師祐海和尚ナリ。」

(「成田市史近代編史料集」に収録の「八生村誌」より)

「勧行院」の項に「薬王寺」の名前が出てきました。
寺名が変わったという記録は見当たりませんので、記載ミスでしょうか?
天台宗の「薬王寺」は土屋にあり、他に成田地区で同名のお寺はありません。

照于か照千か・・・土屋の薬王寺 ☜ ここをクリック

※ 追 加 (8月5日21:00) ※
「千葉縣印旛郡誌 後編」(大正二年 千葉縣印旛郡役所編)に次の文章を見つけました。
(句読点が一切無い文章で、読みにくいのですが原文のまま引用します。)
「大竹村字竹ノ内にあり藥王寺と稱す天台宗にして中本寺龍角寺の門徒たり本尊を藥師如来
とす開山は天文廿五年四月法名權律師祐海和尚なり二世道香禪定門勸行房は祐海和尚の
父なり院號は即ち勸行房の名より出でたりと云ふ六三部都法大阿闍梨法印覺榮勸行院の
草庵に來り寺院築造に志し遂に間口六間奥行五間の道場を創立せしめたり時に寶暦五年
二月二十八日より寛政二年再建立堂宇間口六間奥行四間半境内百二十七坪民有地第一種
あり住職は小見妙馨にして檀徒十八人管轄廰まで九里三十二町とす八坂神社の神霊と稱
する鏡あり天台宗にて最貴き一字金輸佛長如來にして本宗の秘佛と稱へられ唯一のものな
るに今勸行院に数百年蔵せらるとは大に疑ふ所なりとて本山に照會研究中に屬すと云ふ
寺院明細帳村誌
 (P834~5)
(※ アンダーライン部分は「一字金輪仏頂」の間違いと思われます。)


これで八生村誌の記述にある「薬王寺」は間違いではなく、「勧行院」は院号で、「薬王寺」が
寺号だったことが判明しました。
「一字金輪仏頂」如来の件はその後どうなったのでしょうか?
どこにもこの件についての記述が見つかりませんので、残念ながら伝承通りのものでは
なかったようですね。


勧行院ー43

荒れているとは言え、廃寺になることも無く今日まで480年の時を紡いで来た「勧行院」。
ガランとした境内には、他のお寺の境内に並んでいるような石塔や石仏、板碑などは(1基を
除いて)見当たりません。

お堂が残っているとは言え、墓地も荒れ果て、新しい墓石も無いことから、檀家も離れて
しまったことが分かります。
これはこれまで見てきた多くのお寺に共通する状況です。
一部のお寺を除いて多くのお寺は無住となり、荒れ果てて地域とのつながりを失っています。
過疎化や少子高齢化、公園墓地や葬祭場の普及などが、地域の文化的中心であったお寺
から人々を遠ざけてしまいました。

また1年後にここに来ても、景色は変わらずにあるでしょうか?
これも時の流れで仕方無いことなのかも知れませんが、とても寂しい気がします。


勧行院ー46


                       ※ 「天王山勧行院」 成田市大竹759



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八生村の寺社 | 07:34:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
三基の青面金剛と忘れられた旧街道~押畑の「稲荷神社」
今月はじめに「新福寺」を訪ねましたが、そのとき気になった旧佐原街道を辿ってみます。

押畑稲荷ー79

旧佐原街道は国道408号線によって分断されています。
街道は「新福寺」からの山道が、地図で見る成田病院の方向へ続いていたはずです。
408号線はこの間を切通しで横切る形になっています。

道がつながっていたとすると、その先にある神社にヒントが隠されているはずです。

地図上では「子安神社」と「金刀比羅神宮」が途切れた道の先にありますが、神社リストでは
ここにあるのは「稲荷神社」になっています。


押畑稲荷ー77
押畑稲荷ー78

ここが408号線の切通し。
左手前の道が「新福寺」から続く道で、急角度で下って408号線に合流しています。
地図では中央の赤の+マークの下、バス停マークがある所に下りてきます。
切通しができる前の旧道はここまで下らずに、写真右側の山中に続いていたと思われます。

「新福寺」から下ってくる坂から、408号線を渡って反対側の山を登る道はありません。
少し土屋方面(画面の先)を進んでから右に入ると(地図の信号マーク)道は二又に分かれ、
そこを右に坂を登って行くと昔は続いていたであろうと思われる道に出会います。

この坂を登り切ったところに「稲荷神社」がありますが、なぜか地図には書かれていません。
地図には載っていない神社が神社リストにあったり、地図には載っている神社がリストには
無かったり・・・、今回はここを探ります。


押畑稲荷ー25
押畑稲荷ー66

「稲荷神社」の前を通り過ぎて、まずは昔の街道のつながりを探してみました。

神社の先は三叉路になっていて、「新福寺」の方向への道は右に行く道です。
50メートルほど進むと道は突然行き止まりとなり、その先は雑木林が続いています。
以前には道があったとは思えない景色です。
左に下る細い坂がありますが、方角が逆になります。


押畑稲荷ー23
押畑稲荷ー24

行き止まりの道を「稲荷神社」に戻る途中の斜面に青面金剛像の「庚申塔」がありました。
ここは間違いなく人が通う道だったのです。

庚申塔には延宝八年(1680)と刻まれています。
現存する青面金剛像では、福井県にある正保四年(1647)のものが最古とされています
ので(ウィキペディア)、この像は結構古いものですね。

三叉路を右に折れ、地図に載っている「子安神社」と「金刀比羅神宮」を探します。


押畑稲荷ー17
押畑稲荷ー14
押畑稲荷ー16

「子安神社」は曲がって直ぐ、目線のずっと上にあります。
石段がありますが狭く急なうえ苔が生えているので、その先のスロープから神社に上ります。
最近建てられた鞘堂の中に、飾り気の無い「子安神社」がありました。

「千葉縣印旛郡誌」(大正2年 千葉縣印旛郡役所編)中にある押畑村稲荷神社の項には、
明治四十二年(1909)に合祀した神社として、
「大字仝字西ノ内にありし無格社子安神社」
とあります。
安産・子育ての神様ですが、この立地は女性がお参りするには少々難がある感じです。


押畑稲荷ー15

「子安神社」の隣には明治十五年(1882)と刻まれた「足尾神社」があります。
茨城県の筑波連峰の一角にある足尾山に「足尾神社」があり、そこからの分祀ではないか
と思われますが、「千葉縣印旛郡誌」には分祀や合祀の記録はありません。


押畑稲荷ー18
押畑稲荷ー19

「子安神社」のお堂の後ろに青面金剛を刻んだ「庚申塔」が立っています。
お堂の陰に隠れ、下の道からは目線より上の竹薮の中にあるので、見過ごしてしまいそうです。

足場が悪く、近づくのは危険ですが、何とか「天明■■巳十一月吉日」と読めました。
天明年間で“巳”が付く年は五年だけですので(乙巳)、天明五年(1785)の建立です。


押畑稲荷ー13

「子安神社」からさらに先に進むと、右側に石段があり、わずかに開けた場所があります。


押畑稲荷ー12

一番上の石段の両側に小さな石柱があり、右側には「文政十丁亥年 六月吉祥日」とあり、
左側には「當邑中」とあります。
文政十年は西暦1827年になります。


押畑稲荷ー7

一番奥にある「金刀比羅神社」。
祠には文化九年(1812)と記されています。
地図には「金刀比羅神宮」となっていますが、側の木札には「金刀比羅神社」となっています。


押畑稲荷ー9   「愛宕神社」の木札  
   「白幡神社」の木札  押畑稲荷ー11

同じ敷地内に「愛宕神社」と「白幡神社」の木札が立っていますが、祠はありません。

「千葉縣印旛郡誌」の押畑村稲荷神社の項に、明治四十二年(1909)に合祀した神社として、
「大字仝字廣台にありし無格社白幡神社大字仝字西ノ内にありし無格社愛宕神社大字仝字
西ノ内にありし無格社金刀比羅神社」

とありますので、ここにある「白幡神社」、「愛宕神社」、「金刀比羅神社」は、そのときの三社だ
と思われますが、「白幡神社」と「愛宕神社」の祠はどうなってしまったのでしょうか?
木札が立っているということは、かつてはそこに祠があったということなのでしょう。

道の先にはもう何も無さそうなので、「稲荷神社」に戻ります。

押畑稲荷ー20
押畑稲荷ー22

三叉路にもう一つ「庚申塔」が立っていることに気付きました。
憤怒の表情というより、頬を膨らませて少しすねているような表情に見えます。
正徳四年(1714)と記されています。

延宝八年、正徳四年、天明五年と百年余りの間に、この三叉路に三基の青面金剛が刻まれ
た「庚申塔」が立てられたということは、ここが人々が往来した旧佐原街道であることを示して
いると考えて間違いなさそうです。

押畑稲荷ー19  天明五年(1785)の青面金剛
押畑稲荷ー20  正徳四年(1714)の青面金剛
押畑稲荷ー23  延宝八年(1680)の青面金剛


押畑稲荷ー25

三叉路の手前の「稲荷神社」に戻りました。
鳥居は台輪鳥居です。

押畑稲荷ー26

石段の下に「小御岳石尊大権現」と記された石碑が立っています。
左右に「大天狗」「小天狗」と記されています。
「石尊大権現」とは神奈川県伊勢原市にある「大山阿夫利神社」を指します。
「大山阿夫利神社」への参拝記念に建立される石碑には、「石尊大権現・大天狗・小天狗」
と書かれます。
この石碑には「小御嶽」とありますので、富士山五合目にある「富士天狗宮」とも呼ばれる
「小御岳神社」への参拝記念ですね。
萬延元年(1860)と刻まれています。

そういえば、昨年6月に訪れた取香の「側高神社(そばたかじんじゃ)」にも同じような石碑
がありましたが、そのときは勉強不足で何の石碑か分からずじまいでした。
今読み返してみると「大山阿夫利神社」の参拝記念碑ですね。

謎の多い側高神社 ☜ ここをクリック


押畑稲荷ー27

本殿と拝殿は平成24年に改修されました。

「千葉縣印旛郡誌」には、「稲荷神社」について以下のように詳述しています。
(句読点が全く無い文章です)
「村社稲荷神社 押畑村字台にあり宇迦之魂神木花咲耶姫之命大物主之神應仁天皇
豊玉姫之命加具津知之命菅原天神市杵島姫之命天之御中主之神久奈門之神岡象女之命
住吉之神を祭る創立年代記録亡失の爲詳ならざるも古老の口碑に存する處に依れば治暦
二年後冷泉天皇の御宇源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時凶荒連年にして
百姓困憊に陥りたるを憐み郷土安全五穀豊穣を祈願するが爲本社を勸請して當地の産土神
となし崇敬怠らず孜々耕転に勤めたる爲漸次土地拓け村内殷富となりたるより爾來益々崇敬
して措かさるに至りたるものなりと而して中世の事實は詳かならざるも慶安四年十月本殿改造
の際領主堀田加賀守殿より銀三枚を賜はり元文元年正一位を授けられ文化壬申年拜殿一棟
氏子中にて改造し天保十三壬寅年氏子中にて本殿を再建す即今の本殿是なり明治五年村社
に列せらる仝四十二年十月廿八日許可を得て押畑字台にありし無格社天満神社大字仝字
淺間にありし無格社淺間神社大字仝字廣台にありし無格社白幡神社大字仝字西ノ内にありし
無格社愛宕神社大字仝字西ノ内にありし無格社金刀比羅神社大字仝字西ノ内にありし無格社
子安神社大字西ノ内にありし無格社辧天社大字仝字台にありし無格社千葉神社大字仝字
邊田前にありし無格社水神社大字仝字台にありし無格社道祖神社大字仝字西ノ内にありし
無格社瘡守稲荷神社を本社に合祀す社殿間口五尺六寸奥行六尺二寸拜殿間口三間奥行
三間神庫間口二間二尺奥行二間境内四百坪・・・」
 (P828~830) 

「宇迦之魂神(ウカノミタマノカミ)」「木花咲耶姫之命(コノハナノサクヤヒメノミコト)」、「大物主
之神(オオモノヌシノカミ)」、「應仁天皇(オウジンテンノウ)※1」、「豊玉姫之命(トヨタマヒメノ
ミコト)」、「加具津知之命(カグツチノミコト)※2」、「菅原天神(スガワラテンジン)」、「市杵島姫
之命(イチキシマヒメノミコト)」、「天之御中主之神(アメノミナカヌシノカミ)」、「久奈門之神(クナ
ドノカミ)※3」、「岡象女之命(ミツハノメノカミ)※4」、「住吉之神(スミノエノカミ)」と、12柱もの
神様を祀っているとは何とも欲張りな神社ですが、「宇迦之魂神」がこの「稲荷神社」のご祭神で、
「木花咲耶姫之命」以降は合祀された神社のご祭神ということでしょう。
( ※1 應神天皇か? ※2 加具土命か? ※3 久奈斗神か? ※4 罔象女神か? )

なお、治暦二年は西暦1066年になります。
古老による言い伝えを信じるなら、この神社は実に950年もの歴史を有していることになります。


押畑稲荷ー28

文化六年(1809)の灯篭。

押畑稲荷ー29

手水盤には天明四年(1784)と記されています。
この年は、国宝になっている「漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)」が、筑前国
志賀島で発見された年です。


押畑稲荷ー30
押畑稲荷ー31

文政八年(1825)の狛犬(キツネ)。

押畑稲荷ー32   拝殿に架る神額
押畑稲荷ー54  本殿に架る神額

押畑稲荷ー33
押畑稲荷ー34
押畑稲荷ー35
押畑稲荷ー49

本殿は質素な装飾ですが、しっかりとした木組みが見えます。

境内に並ぶ祠の中に、祠も無くただ木札が立っている場所が多くあります。
木札は社号標の代わりなのでしょうが、何か不思議な空間です。

押畑稲荷ー38  押畑稲荷ー39  押畑稲荷ー40
    明治天皇           神武天皇           宗吾様
押畑稲荷ー43  押畑稲荷ー46  押畑稲荷ー47
  天保十年の祠           最上神社           日吉神社
押畑稲荷ー57  押畑稲荷ー41  押畑稲荷ー42
    不動様              追想の碑          戰役記念碑
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
天保十年(1839)の祠は、境内の外れに一つだけ離れて、背を向けています。
何の神様なのかは分かりませんが、気になる祠です。
「最上神社」と「日吉神社」の祠には大正七年(1918)と記されています。
「追想の碑」は昭和58年の建立で、この地区から戦地に向かった93名の内15名が戦死
しましたが、帰還した78名によって建立された慰霊と感謝の碑文が記されています。
「戰役記念碑」は昭和4年の建立で、明治二十七年(1894)から大正七・八年(1918・9)
戦役までに出征した26名の名前が刻まれています。


押畑稲荷ー53

本殿の裏に朽ちた木札があります。
半分以上が欠けていますが、「大山阿夫利神社」と書かれていたはずです。


押畑稲荷ー55

旧道から境内に上る階段に小さな石柱があり、寛延二年(1749)と記されています。


押畑稲荷ー59

境内の隅にあちこちが欠けて傷ついた狛犬(キツネ)がポツンと置かれていました。
向き合っていますが、まだお互いが見えているのでしょうか?
拝殿前にある現在の狛犬の先代でしょうか?


さて、「稲荷神社」のある三叉路が佐原街道の旧道であることは間違いないと思われますが、
この道をもう少し進んで、いくつか確信が持てるものを探したいと思います。

「金刀比羅神社」「愛宕神社」「白幡神社」の前を通り過ぎて、さらに先に進んでみます。

押畑稲荷ー1
押畑稲荷ー2
押畑稲荷ー6

ほんのちょっと視界が開ける場所がありました。
眼下には押畑地区の田園風景が広がり、斜面にはヤマユリが咲き誇っています。


押畑稲荷ー5
押畑稲荷ー4

何やら気になるものがあり、カメラをズームして見ると、「お稲荷さん」のようです。
一旦下に降りて回り道をしないと辿りつけないようです。


押畑稲荷ー3

この先に何があるのか?
曲がりくねった山道がずっと先まで続いています。


押畑稲荷ー70

山道を7~800メートルも進んだでしょうか、三叉路の左手に墓地が現われました。
今はお参りする人も無さそうな墓地ですが、入口には六地蔵が並んでいます。


押畑稲荷ー67   嘉永四年(1851)
押畑稲荷ー68  寛政十二年(1800)
押畑稲荷ー69  宝暦十二年(1762)

墓石には、正徳、宝暦、安永、天保、萬延等の年号が刻まれています。

三叉路を左に進んでみます。

押畑稲荷ー71

数百メートル進むと、またもや道は二手に分かれます。
分かれ道には享和三年(1803)の「馬頭観音」が立っています。
像は無く、「馬頭観世音菩薩」の文字が刻まれています。


押畑稲荷ー72

分かれ道を左に入って行くと、年代不詳の「庚申塔」が立っています。
青面金剛像を刻んでいますが、小さい石像なので見過ごしてしまいそうです。


押畑稲荷ー73
押畑稲荷ー74

庚申塔の先に笹薮を分け入るような小道があり、突き当たりに「白旗神社」がありました。
誰も来ないような場所ですが、なぜか新しい木札が立っています。
「白旗神社」の多くは源頼朝をご祭神としますが、源義家、義経などの源氏の武将や、源氏の
氏神の八幡神をご祭神とするものも多くあるようです。
源氏の旗である白旗を社名にした神社です。

この神社については、「千葉縣印旛郡誌」にある源頼義が、ここを通ったと言われている
ことと関連がありそうです。(・・・源頼義朝臣奥州追討の勅命を蒙り此地を過ぎし時・・・

さて、ここまで「稲荷神社からは軽く1キロ以上は歩いてきました。
所々に庚申塔や馬頭観音が立ち、ここがかつては人々が往来した道であることを証明して
いますが、分かれ道が多く、どこが旧佐原街道であったのかは自信がありません。


押畑稲荷ー75
押畑稲荷ー76

今では誰も通らない、落葉に埋もれた脇道がたくさんあり、これ以上進むと遭難しそうな
不安を感じます。

陽が傾き始めて、ヒグラシの声が森の奥から聞こえてきます。
急いで「稲荷神社」まで戻りることにします。


押畑稲荷ー50
押畑稲荷ー64

「創立年代詳カナラズ。慶安四年十月本殿改造ス。文化年中拜殿ヲ改造ス。天保十三年
本殿ヲ改造シテ今日ニ至ル。」

大正三年の「八生村誌」は、「稲荷神社」についてこのように書いています。
天保十三年は西暦1842年ですから、平成24年の改修は170年ぶりのことでした。

千葉県神社庁の「神社名鑑」(昭和62年)には、
稲荷神社  押畑一  祭神  宇迦魂神
本殿・一坪、拜殿・六坪  境内坪数  四四三坪
氏子  一三〇戸

と記載されています。
押畑には他に神社の記載はありません。

「稲荷神社」には地元の方たちによって大切に守られてきた雰囲気がありますが、今では人が
通わなくなった旧道にひっそりと佇む石仏は、やがては森に埋もれて行くのでしょうか・・・。

押畑稲荷ー69
※※※※※※※※押畑稲荷ー71
※※※※※※※※※※※※※※※※押畑稲荷ー72

押畑稲荷」-60
押畑稲荷ー61


                    ※ 「稲荷神社」 成田市押畑 1



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八生村の寺社 | 07:59:19 | トラックバック(0) | コメント(2)
火災除けに絶大なご利益~宝田の醫王寺と愛宕神社
宝田の「醫王寺」と「愛宕神社」を訪ねます。

医王寺ー1
医王寺ー2

表札をかけたような寺号標。
天台宗のお寺であることと、山号が「光照山」であることが記されています。
脇に書かれている「愛宕大権現」には後ほど立寄ります。


医王寺ー3
医王寺-53

「医王寺ハ北方字邊田郭ニアリ。光照山ト号ス。同郡山ノ作村圓融寺末流ナリ。
開基創建詳カナラツ。」
 (「成田市史 近代編史料集一」P224)
「下総國下埴生郡。寶田村誌」には、「醫王寺」についての記述はこれだけしかありません。

また、後に合併した八生村誌には、
「寶田字邊田ニアリ、天台宗ニシテ中本寺円融寺末ナリ。阿弥陀如来ヲ本尊トス。
慶長二年再建立ス。檀徒百四十人ヲ有ス。」
 (同P248)
とあります。
慶長二年は西暦1597年で、豊臣秀吉の命により小西行長、黒田長政らが朝鮮に侵攻した
慶長の役があった年です。


医王寺ー4

本堂の手前に小さな手水鉢があります。
天保十一年(1840)と刻まれています。
この年は英国と清国との間でアヘン戦争が起こった年です。


医王寺ー6
医王寺ー7

境内に登る階段脇に、木々に隠れるようにお地蔵さまが立っています。
首は取れてしまい、後から着け直したようです。
台座に小さなアマガエルがいました。
暑さを避けて木陰の石の上でジッとしています。


医王寺ー8
医王寺ー16

何の掲額も無いこのお堂は、多分地蔵堂だと思います。

中を覗かせていただくと、正面に大きな厨子があり、左右に小さなお社のようなものが見え
ますが、いずれも中には仏様がおられません。
このお寺には白馬に乗った「勝軍地蔵」が安置されていて、2月24日の御祭礼の時のみに
御開帳となるそうですが、一時期近隣の無住の寺を荒らす不心得者が横行したため、普段
は某金融機関から譲り受けた金庫に収められているという話を聞いたことがあります。
そう言えば、本堂の厨子はどう見ても金庫でしたね。

「勝軍地蔵」は本来このお堂の厨子の中におられるはずなのでは・・・と推測しました。
したがって、このお堂は「地蔵堂」だと・・・。
通りかかった人に訪ねてみましたが、押畑の方だそうで分かりませんでした。

「勝軍地蔵」は「将軍地蔵」とも書き、甲冑を着けて右手には錫杖を持ち、左手に如意宝珠
を載せ、軍馬にまたがっています。
戦勝を祈願する武家の間で鎌倉時代以降に信仰された地蔵です。


医王寺ー9
医王寺-52

お堂の前に建つこの石仏は「聖観音」と見ましたが、「馬頭観音」のようにも思えます。
憤怒の表情は無く穏やかな表情ですが、頭上にあるのは馬の顔のようです。
小泉の自性院にも穏やかなお顔の馬頭観音がありましたので、ここは「馬頭観音」としますが、
間違っていましたら後ほど訂正を入れます。
正徳四年(1714)と記されています。

小泉の自性院と十三仏 ☜ ここをクリック


医王寺ー10
医王寺ー11
医王寺ー12
医王寺ー13

境内の左側の大師堂は昭和51年の建立で、大師像が三体並んでいます。
真ん中が木像で両端は石像です。
石像は風化でお顔が平たく見えますが、木像は眼光鋭く迫力のあるお顔です。


医王寺ー14

大正十五年(1926)の「奉讀誦普門品一萬巻供養塔」。

余談ですが、大正十五年は大正時代最後の年ですが、12月25日まででした。
従って、昭和元年は同じ12月25日からとなり、わずか1週間しか無かったため、昭和元年の
紀年銘はまず見ることがないはずです。


医王寺ー19
医王寺ー20

地蔵堂の後ろの台地にある墓地は、最近整備されたようで、古い墓石の間に比較的新しい
墓石も建っています。


医王寺ー17
医王寺ー18
医王寺ー23

一方、整備された墓地の上の山腹には、古い墓石が散在しています。
もうお参りする人はいないため、階段も道も無いに等しく、近づくのは大変です。


医王寺ー22
医王寺ー24
医王寺ー21
医王寺ー25

ところどころに平らな場所があり、こうしたところでは墓石もきれいに並んでいます。
元禄、宝永、享保、宝暦、明和、天明、安永、寛政、文化、文政などの年号が読めます。


医王寺ー27
医王寺ー28

大師堂の脇には明治十一年(1878)と読める「奉讀誦普門品一萬巻供養塔」と、お地蔵様
が並んでいます。
小さなお地蔵様の足下には、さらに小さな子供の像がすがりついています。

地蔵菩薩は六道を行脚して、救われない衆生や、親より先にこの世を去った幼子の魂を救う
旅を続けているとされています。
特に幼子は、徳を積む間もなくこの世を去ったために、三途の川を渡ることができず、手前の
賽の河原で親や兄弟を懐かしみ、回向のための石の塔婆を積むものの、鬼がやって来ては
それを崩してしまうため、永遠に石を積み続けなければなりません。
地蔵菩薩は鬼から幼子達を守り、仏法や経文を聞かせて徳を与えることで、成仏への道を
開いてあげるのだと言われています。

この地蔵像はまさにこの伝承を形に現したものですね。


医王寺ー30
医王寺ー32

本堂の屋根には天台宗の宗紋である三諦章(さんたいしょう)が光っています。

三つの星は天台宗の教理で実相の真理を明かす三要諦(空諦・仮諦・中諦)を表しています。
十六菊については諸説あるようですが、確証はありません。


医王寺ー31

「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院」表に、「医王寺」の開山は「覚伝」で、
開基は「山田三郎兵衛」とあるのを見つけました。
開基に僧侶ではない名前があるのは珍しいことです。

「医王寺はもと天台宗修験山田三郎兵衛が開基した行屋で般若院と称していたが、寛永
三年延命寺にいた覚伝が住職となったときに寺に取り立てられ、光照山般若院医王寺と
号し、円融寺の末寺に加わった。」
 (「成田市史 中世・近世編」P782)

修験(しゅげん)とは、修験道または修験者の略で、山伏と呼ばれることもあります。
山田三郎兵衛は修験道の聖護院流の行者で、「行」のために建てられた行屋を般若院と
呼んだようです。
寛永三年は西暦1626年ですから、「医王寺」となってから390年、般若院と称した行屋
時代からは少なくとも400年以上の歴史を有していることになります。


医王寺ー34

「醫王寺」の前にはのどかな田園風景が広がっています。

ちょっと足を延ばして「醫王寺」が別当をしていた「愛宕神社」を訪ねてみましょう。

医王寺ー35

「愛宕神社」は長い階段の上にあります。
下の通りからは木々の間からチラリと鳥居の頭が見えるだけです。


医王寺ー36

階段の踊り場に、元帥陸軍大将上原勇作の書による「戰役記念碑」がありました。
裏面には「明治參拾七八年戦役従軍者」として29名の氏名と階級が記されています。
「明治三十七八年戦役」とは、日露戦争の別称です。
なお、29名中数名は「日獨戦役従軍者」と書かれていました。
「日獨戦役」とは、第一次世界大戦中の中国青島での対ドイツ戦のことで、この記念碑が
大正十三年(1924)に建立されたことから、書き入れられたのでしょう。
宝田村からも多くの人が従軍したのですね。
上原勇作は薩摩出身の軍人で、「日本工兵の父」と呼ばれた人物です。


医王寺ー38

鳥居は昭和5年に建立された神明系の靖国鳥居です。


医王寺ー37

鳥居の脇にある手水盤には文政五年(1822)と記されています。


医王寺ー39

ここまでの階段は24段でしたが、社殿まではまだまだ階段は続き、合計111段になります。
鳥居の場所からは僅かに拝殿の屋根が見えています。


医王寺ー40

「愛宕神社」のご祭神は「火結神(ホムスビノカミ)」です。

「元亀元年戊午正月二四日、山城国愛宕神社を奉還、文禄三年社殿建立すという。」
(「神社名鑑」 千葉県神社庁 昭和62年)

元亀元年は西暦1570年で、織田信長・徳川家康連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で
「姉川の戦い」が繰り広げられた年です。

この神社の歴史は440年を超えるわけです。
社殿が建立されたという文禄三年は、西暦1594年です。


医王寺ー41
医王寺ー45

神額にはなぜが寺院のような「愛宕山」と書かれています。

一枚だけ見つけた掲額には、何が描かれていたのか分かりませんが、提灯に「医王寺」と
書かれているような気がします。


医王寺ー42
医王寺ー49
医王寺ー50

周りの地形は切り立った崖のようになっています。
ところどころに野生のユリが咲いています。


医王寺ー46
医王寺ー47

「本殿・一坪、拝殿・七.五坪、境内坪数一四四坪」
「氏子一一〇戸」

(「神社名鑑)

社殿の周りを見渡しましたが、社殿は一つの建物で、本殿は見当たりません。
おそらく拝殿の建物の中に隠されているのだと思います。

火伏せの神様として昔から信仰を集めていましたが、先の大戦中に空襲による火災が
この神社のお札が貼ってある家の前で鎮火したとの言い伝えがあり、2月24日の祭礼
には遠くからも参詣客が訪れるほどです。

また、この地区では祭礼の日は一日中“お酒を飲まない出さない”風習があります。
「江戸時代初期、隣村押畑村と土地をめぐって争論のあったとき、愛宕神社に酒断ちを
して祈願したことからこの風習が生まれたという。」

(「成田 寺と町まちの歴史」小倉 博 著 昭和63年 聚海書林 P219)


医王寺ー48

眼下に広がる田園風景の向こうを、旅客機が飛んで行きます。
7月の強い日差しに焼かれる境内には、なぜか蝉の声も無く、かすかに遠くを滑る旅客機の
ジェット音だけが聞こえます。


医王寺-57
医王寺ー57


                    ※ 「光照山醫王寺」 成田市宝田1933
                       「愛宕神社」    成田市宝田1997 



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八生村の寺社 | 22:23:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
旧佐原街道に佇む~押畑の「新福寺」
押畑の「新福寺(しんぷくじ)」は真言宗智山派のお寺です。

新福寺ー9
新福寺-1

飯岡の「永福寺」の末寺で、山号は「陀基処山(だきしょさん)。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
「永福寺」には、押畑村に「新福寺」・「万行寺」・「山之坊」・「福寿院」の四つの末寺が
ありましたが、この「新福寺」の他は明治の始めに廃寺となっています。

門柱は大正十二年(1923)のものです。


新福寺-2

境内に入ると左右に古い墓石が並ぶ墓地があります。


新福寺-3
新福寺ー5

元禄、享保、明和、天保、安政、文久などの年号が見えます。


新福寺ー7

明治二十二年(1889)に建立された「後藤蒼齊翁寿蔵碑」。
寿蔵碑は生前に功績を讃えて建立されるものですが、この後藤蒼齊は和算学者で、近郷の
人々に和算を教えていました。
成田山に明治二年(1869)に奉納された算額は、極めて高度な数学の問題と解答であり、
千葉県の有形民俗文化財に指定され、現在成田山霊光館に収蔵されています。


新福寺ー8

この立派な宝塔には、「大阿闍梨法印澄傳」と刻まれています(澄傳は読み違いの可能性が
あります)。


新福寺ー28
新福寺ー10

本堂は平成6年に新築されたもので、寺額には山号の「陀基処山」と書かれています。

昭和61年編さんの「成田市史」には、山号が「吒岐尼山(だきにさん)」と記載されています。
また、「成田市史近代編史料集一」に収録の「押畑村誌」にも、
「新福寺 村ノ中央字西ノ内ニアリ。地坪六百七拾二坪、新義眞言宗吒岐尼山ト号ス。
本郡飯岡村永福寺ノ末派ナリ。」 
 (P254)
と記されています。

「吒岐尼」とは聞き慣れない言葉ですが、真言密教における荼枳尼天(だきにてん)または、
吒枳尼天(だきにてん)に関連するのでしょうか?
荼枳尼天は白狐に乗る天女の姿で、稲荷信仰と合体して真言宗とともに全国に広まり、
多くの稲荷社が建立されました。
明治になって神仏分離が行われた際、多くの稲荷社は宇迦之御魂神などの神を祀る神社と
なりましたが、一部は荼枳尼天を本尊とする寺になりました。
こうしたことと、この山号は関係があるのかもしれません。
ただ、境内には稲荷社らしき痕跡は見えませんので、この推理は当てになりません。

創建年代は不詳ですが、文禄三年以前とされています。
その根拠は、文禄三年(1594)の押幡郷御縄打之水帳」の名前が見えることによります。
少なくとも420年以上の歴史を持ったお寺です。


新福寺ー12
新福寺ー13  安政二年(1855)
新福寺ー14  天保四年(1833)

数体の石仏が置かれたお堂があります。
首の無い石仏には天保四年と文政五年(1822)の二人の子供の戒名が記されています。


新福寺ー15

本堂の裏手に回ると、この寺の場所が相当高い位置にあることが分かります。


新福寺ー17 大きなキノコが生えていました
新福寺ー18


新福寺ー16

本堂の屋根に珍しい瓦を見つけました。
鬼がわらの変形でしょうか、何か宗教的な意味がありそうです。
成田山新勝寺と同じ牡丹のように見えますが・・・


新福寺ー38
新福寺ー40
新福寺ー56

日をあらためて撮影して見ると、椿のような気がしてきました(迷っています)。


新福寺ー20
新福寺ー21

本堂の左手にたくさんの板碑が並んでいます。
並んでいるといっても、倒して重ねているだけなので、どんな謂れがあるのかは分かりません。

「成田の史跡散歩」には、この板碑について次のように書かれています。
『新福寺の開基などについては不詳であるが、本堂の左側に三〇枚近くの板碑が積み重ね
られており、その中に延慶三年(一三一〇)の銘をもつものがある。また、大正二年(一九一三)
の「千葉県印旛郡誌」には、康元元年(一二五六)銘の板碑があったと記されているので、鎌倉
時代中期には新福寺が存在していたことになる。』
 (P197~198)

康元元年の板碑がこの寺の境内に建っていたものならば、「新福寺」の歴史は420年以上では
なく、760年以上ということになります。

石の色と形から、全て下総板碑ですが、立っている形で見たかったと、残念な気がします。


新福寺ー22
新福寺ー23
新福寺ー24

「新福寺」には裏参道があります。
長い石段が続く参道ですが、こちらを利用する人はほとんどいないようで、石段下は草が
石段を隠すほどに生えていました。


新福寺ー25
新福寺ー27

裏参道の石段を登り切ったところにある古木の幹は、恐ろしげな表情です。


新福寺ー29

境内の右手にも墓地があり、左手の墓地と同様に古い墓石が並んでいます。


新福寺ー30
新福寺ー31
新福寺ー43

文化、文政、天保、弘化、安政、文久などの年号が読めますが、左手の墓地よりは比較的
年代が新しいように思えます。
一部に明治や大正の墓石も見えています。


新福寺ー55

この石碑は上部が剥がれ落ちていますが、境内の反対側にあった寿蔵碑の「後藤蒼齊」
と同じ和算の学者、「幡谷信勝」の追悼碑のようです。
「・・・立得寚居士」と読めます。

(後藤蒼齊は) 「幡谷信勝の弟子になる山口村の山田宗勝に学んでいるので、信勝から
見れば孫弟子にあたる。」
 (「成田の史跡散歩」P199)


新福寺ー36
新福寺ー35

小さなお堂の中には石仏が一つ。
風化で刻まれた文字は消えていますが、わずかに「三月」とだけ読めました。


新福寺ー45

通りかかった方から、「新福寺」の前の道は、旧佐原街道だと教わりました。
写真の手前は曲がりくねった下り坂で、前方は国道408号線に出ます。


新福寺ー47
新福寺ー49

「新福寺」の前を右に下ったところに「道祖神」がありました。
小さな祠がたくさん並んでいます。
この道が旧佐原街道だと教えてくれた方が、これを「ドウロクジン」と呼んでいました。
「松崎街道・なりたみち」の(1)で、「三竹山の道祖神」を地元の人たちが「ドウロクジン」と
呼んでいると書きましたが、どうやらこの一帯では「道祖神」を「ドウロクジン」と呼ぶようです。

「ドウロクジン」を調べると、「道陸神」と書き、「道祖神」と同じものであることが分かりました。
「三竹山ドウロクジン」は道祖神が訛ったものではなく、始から「ドウロクジン」だったのですね。


新福寺ー50
新福寺ー51

上り坂になる手前左側に、文政六年(1823)の如意輪観音が立っています。
この石塔は道標を兼ねていたようで、正面には「此方なりたミち」「此方なめ川みち」と記され、
左の側面には「右左さくミち」と記されています。

「さくミちとは作業道、農業用の道である。この変則の十字路は、左右が成田と滑川に向かう
旧道で、バス停から直線に進む道は農道であったことがわかる。」

(「成田の史跡散歩 P197)


新福寺ー34
新福寺ー37

もともとは飯岡の「永福寺」の末寺であった「新福寺」ですが、現在は成田山から時々お坊さん
が来て、管理をされているようです。

「押幡郷御縄打之水帳」には、「新福寺」は九反一畝一四歩半の面積で、廃寺となった押畑村
の他の永福寺・末寺よりは相当広い敷地を持っていました。
(万行寺は五反九畝三歩、山之坊は四反六畝二四歩半、福寿院は二畝二五歩とあります)
廃寺の三寺の本尊は、現在ここ「新福寺」に収められています。

押畑村を含む近隣八村が合併してできた八生村の村誌には、
「新福寺 押畑字西ノ内ニアリ、真言宗ニシテ久住村飯岡永福寺ノ末寺ナリ。開基ノ年号
詳カナラザレトモ莫然タル古碑アリ。表面梵字ヲ記ス。一ハ康元元年十一月一日、一ハ
延慶三年ニシテ何レモ六百年前ノ建立ナレバ開山モ此当時ナランカ。」

(「成田市史 近代編史料集一 P248)

教えられなければそれと分からぬ旧佐原街道に、ひっそりと佇む「新福寺」です。


新福寺ー53


                  ※ 「新福寺」  成田市押畑2214



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八生村の寺社 | 08:34:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
古代に創建の二宮神社~三宮埴生神社との関連は?
今回は松崎の「二宮神社(にのみやじんじゃ)」を訪ねます。

二宮神社ー1

千葉県神社庁の「千葉県神社名鑑」には「二宮神社」について、
『経津主之命 本殿・流造一坪、幣殿・三坪、拝殿・七坪、 境内九〇〇坪、氏子一五〇戸』 
と記載されています。

ご祭神の「経津主之命(フツヌシノミコト)」は香取神宮に祀られている神として有名で、剣神、
または武神・軍神とされています。
この神は日本書紀に登場しますが、古事記には登場しません。


二宮神社ー2

立派な鳥居の傍に「二宮神社鳥居の再建」と記された石碑があります。
その碑文には次のように書かれています。
『当神社の鳥居は、安永五年(西暦一七七六年)佐倉藩主堀田氏から寄進を受け控柱の
付いている両部鳥居として作られた。直近では昭和四十七年七月に木造で再建されたが、
経年劣化に加え平成二十三年三月十一日に発生した東日本大震災により損傷した為、
新たに御影石で建替える。 二宮神社氏子中 平成二十四年七月吉日建立』


多くの寺社を訪ねていますが、東日本大震災による被害が、神社の鳥居や神殿、お寺の
山門や本堂、そして墓石や石仏の倒壊等、想像以上に下総でも広がっていることを実感
させられます。


二宮神社ー4

社号標は平成20年の建立です。


二宮神社ー5

鳥居の左右に立つ常夜燈は昭和9年に奉納されました。


二宮神社ー8
二宮神社ー7

小さな手水舎と手水盤。
大きな文字で「水盤」と刻まれています。
宝暦四年(1754)の紀年銘が読めます。


二宮神社ー9

「成田市史 中世・近世編」にある「成田市域の主な神社表」には、「二宮神社」ではなく、
「埴生神社」の名前で記載され、古社名を「二宮大明神」としています。
「三ノ宮埴生神社」との関連については諸説ありますが、この表示によれば両社の関連
は明らかのように思えます。
両社については次のように記述されています。

『埴生神社 成田村と松崎村および成木新田にあり、成田村のを三宮埴生神社・三宮
大明神といい、松崎村のを二宮埴生神社・二宮大明神といっている。成木新田の埴生
神社は享保十六年に創建された三宮埴生神社の分社である。』
『三宮・二宮というには当然一宮もあり、埴生郡矢口村(印旛郡栄町)に一宮埴生神社
が祀られている。』
 (P801)


二宮神社ー10

意外にあっさりした神額です。



二宮神社ー31

流造りの本殿は、どっしりとした感じのお社です。

「下埴生郡松崎村誌」には、

『二ノ宮埴生神社 村ノ北方字遠原ニアリ。社地九百坪ヲ有ス。軽津主ノ命ヲ祀ル。祭日
陰暦六月廿七日及ビ九月二十日トス。其鎮座詳ナラズ。古ハ二ノ宮埴生大明神ト唱ヒシ
處、元文三年中正一位ノ號ヲ賜ハリ、明治元年ニ至リ二ノ宮埴生神社ト改ム。』
『往時ハ五ケ村松崎村、寶田村、大竹村、下福田村、上福田村ノ郷社タリシモ、明治戊辰年特ニ
松崎村ノ鎮守トナレリ。其境内ニ存スル末社ハ金比羅神社、春日神社及ビ住吉神社
トス。』
 (成田市史 近代編史料集一 P218)

と記されています。


二宮神社ー26
二宮神社ー29
二宮神社ー30
二宮神社ー37

細かい彫刻が施されています。


二宮神社ー11

拝殿の神額の横に神社の由緒について書かれた掲額があります。

『創建年月日は不詳であるが、神職由緒禄に斉衝三年(八五六)神職外記相続するとあり
これにより千年以上の歴史があることがわかる。古くに二ノ宮埴生大明神と称せられ元文
三年(一七三八)正一位二ノ宮埴生大明神となり明治元年(一八六八)埴生神社と改め
さらに二宮神社と称し、現在松崎地区約二百三十戸の鎮守様として崇敬を受けている。
また二宮神社という名称から近隣の成田市郷部の三ノ宮埴生神社、栄町矢口の一ノ宮
神社との何らかの関連が諸説考えられるが、事実は不明である。』


三宮・一宮との関連については、前述の「成田市史」の記述に比べて、ややトーンが低い
感じがする文章です。

この由緒によれば、二宮神社は実に1160年以上の歴史を有していることになります。
なお、「成田市史 中世・近世編」の「成田市域の主な神社表」には、この神社の創建
年次欄に「古代」とだけ記しています。


境内には合祀された多くの神社があります。
主だったものには社号標のようにひらがなの名札が立てられています。

二宮神社ー12

「おいせさま」。
伊勢神社です。
鳥居をくぐってすぐ左手にあります。

二宮神社ー15

「こやすさま」。
子安神社です。
境内の左手奥にあります。

二宮神社ー33

「こんぴらさま」。
金比羅宮です。
鳥居をくぐった右手奥にあります。

以上の三社は比較的大きなお社です。

この他に小さな祠の合祀された神社が多く見られます。
拝殿に向かって時計回りに見て行きます。

二宮神社ー16 「かとりさま」香取神社
二宮神社ー17 「いなりさま」稲荷神社
二宮神社ー18  社号標がありません
二宮神社ー19  社号標がありません
二宮神社ー20 「せんげんさま」浅間神社
二宮神社ー22 「かすがさま」春日神社
二宮神社ー23 「うけもちさま」
二宮神社ー24 「すみよしさま」住吉神社

「すみよしさま」だけが「住吉大明神」の文字が読めますが、他は風化で読めません。

「うけもちさま」だけは正式の神社名が分かりませんが、多分「保食神社」だと思います。
保食神(ウケモチノカミ)をご祭神とする「保食神社」は、数は少ないのですが全国に散ら
ばってあるようです。
多くの稲荷神社は「宇迦之御食神(ウカノミタマノカミ)」または「倉稲魂命(ウカノミタマノ
ミコト)」をご祭神としていますが、一部の稲荷神社では「保食神」または「保食命」がご祭神
となっています。
成田市内では下福田、長沼、成毛の稲荷神社のご祭神が「保食命」をご祭神にしています。

「保食命」については「長沼城址と稲荷神社、そして福沢諭吉」の項に説明があります。
長沼城址と稲荷神社、そして福沢諭吉 ☜ ここをクリック

合祀されている神社の中には「いなりさま(稲荷神社)」がありますので、「うけもちさま」は
「稲荷神社」ではなく、「保食神社」と推測しました。
以上、合祀されている神社は合計11社、内2社は社名が不明です。


二宮神社ー25
二宮神社ー27
二宮神社ー28

本殿を見上げていて、おもしろいものを見つけました。

本殿の屋根を支える「力士像」です。
東西に一体ずつありますが、何故か東側の力士の顔がザックリと削られています。
何があったのでしょうか?
イスラム圏にある仏像や神像の顔が削られているのを見ることがありますが、そんな風な
何か恐ろしいことがあったような雰囲気があります。

屋根を支える力士像は、多古町の「浄妙寺」で見たことがあります。

浄妙寺ー19
浄妙寺ー23

多古町の浄妙寺 ☜ ここをクリック

また、成田山の「釈迦堂」には、力士ならぬ「火伏せの鬼」がいます。

釈迦堂ー21
釈迦堂ー28

正体見たり釈迦堂の鬼 ☜ ここをクリック




二宮神社ー13

ひときわ目立つ石碑は、「征清従軍紀念碑」と書かれた明治二十九年(1896)のもので、
裏面には13名の日清戦争従軍者の氏名が刻まれています。

二宮神社ー32

山車倉です。


二宮神社ー40
二宮神社ー41

神社の周りには「成田西陵高校」の実習農場が広がっています。
この高校は明治三十九年(1906)に「八生村立八生実業補習学校」として始まり、大正三年
(1914)には「八生農学校」と改称されたころからの農学の伝統を持っています。


二宮神社ー35
二宮神社ー36
二宮神社ー43

屋根のところどころに千葉氏の「七曜紋」が見えます。
資料には千葉氏との関わりについて書かれているものはありませんが、下総の多くの寺社と
同様に、この「二宮神社」も千葉氏の影響を多く受けていたものと思われます。


二宮神社ー38
二宮神社ー39
二宮神社ー3

念のため、松崎村が合併で八生村となった後、大正三年頃に書かれた「八生村誌」を調べ
たところ、「二宮神社」についての記述を見つけました。

『二宮神社 松崎字遠原ニアリ、経津主命、木花咲邪姫命、宇賀䰟命、 (天之日鷲命大日鷹神)
大雷神ヲ祭ル。鎮座ノ年号詳カナラズト虽モ、同社神職由緒録ニ齊衡三年神職外記相続スト。
之レニヨリテ観レバ本社ノ勧請セラレシハ、千五十三年前ノコトト知ラル。』
『保食二宮埴生大明神ト唱ヘ来リシガ、元文二年正一位二宮大明神と稱シ、明治元年ヨリ
二宮埴生神社ト改メ、今ハ更ニ二宮神社と称ス。』
 (「成田市史 近代編史料集一 P245)

ご祭神が増えました。
木花咲邪姫命(コノハナノサクヤヒメニミコト)は、このブログでも何度か登場しています。
邇邇芸命(ニニギノミコト)の妻で、大山祇神(オオヤマツミノカミ)の娘です。
宇賀䰟命(ウカノミタマノミコト)は、古事記では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)、日本書紀
では倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)と表記される穀物の神様です。
ここに、元文二年(1732)以前には「保食二宮埴生大明神」と称していたとありますので、
先ほどの「うけもちさま」は「保食神社」で間違いなさそうですね。

「三宮埴生神社」、「二宮神社」と訪ねてきましたので、いずれ栄町にあるという「一宮神社」
も訪ねる必要がありそうです。


二宮神社ー44

                  ※ 「二宮神社」 成田市松崎 1



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八生村の寺社 | 09:49:27 | トラックバック(0) | コメント(0)
瑠璃台はいずこ?~山口の古刹「證明寺」
山口の古刹、「證明寺(しょうみょうじ)」を訪ねます。
松崎街道から山を回り込むように脇道を進んだ先に「證明寺」はあります。

証明寺ー1

長い石段が、境内に向かって一直線に伸びています。


証明寺ー24

「證明寺」は天台宗のお寺で、院号は「観明院」、山号は「臻暁山(しんぎょうざん)」です。
ご本尊は「阿弥陀如来」、来迎三尊の形式です。

※ 「成田市史 中世・近世編」や「成田の史跡散歩」では、本尊を「大日如来」または「薬師如来」としていますが、
   後述のようにご本尊は「阿弥陀如来」でした。


『堂宇は六間四面の本堂、創建は不詳なるも、中世の正和四年(一三一五)、応永十三
(一四〇六)、永享八(一四三六)年の古文書に證明寺の名が見える。』
(證明寺由来書)

少なくとも700年以上の歴史を持ったお寺です。
安政六年(1859)の火災で全山が焼失し、多くの寺宝が失われましたが、翌、万延元年
(1860)には再建されました。
ご住職の話では、安政六年の火災は花火が原因だったとのことです。


証明寺ー15

焼失を免れた、享保五年(1720)の「稲荷神社及證明寺縁起」によって寺暦の概要が
分かっています。
證明寺由来書には、この「稲荷神社及證明寺縁起」の要約を次のように書いています。

『縁起書によれば、戦国時代千葉宗家二十一代千葉勝胤の室(奥方)にかかわる記録
があり古くから千葉氏の信仰があったことがわかる。』
『貞和年中(一三四五~五○)天台修験道の行者、信海が逗留、村民の悪疫祈祷を
行っている。』
『中興は延文年間(一三五六~六一)道名法印、ついで叡山の儒僧恵心僧都が東国
行脚の折り、自ら薬師如来を刻し、裏山に堂宇を建て~』


この裏山の堂宇や写経を埋納した供養塚などは、瑠璃台と呼ばれていました。
その場所は今では分かりません。
ご住職のお話では、今の美郷台の辺りではないか、とのことでした。

なお、「成田の史跡散歩」には、
『当初は日蓮宗であったが、八世行運上人が以前に山之作の天台宗・円融寺の住職で
あったことから、天台宗に改宗し、寺も現在地に移したという。また瑠璃台は先に述べた
湯川の場所で、薬師如来はそこに湧出する温泉の守り本尊であるともいっている。』

(P221) とあります。

温泉が出ているとされる場所は、ニュータウンの開発に伴い消えてしまったと言われます。
瑠璃台の場所の謎は深まるばかりです。

證明寺の寺伝には、
『江戸時代の初期、山之作円融寺四世行運法印は、この證明寺に隠居し、十一面観音像
や堂宇建立、寺観を整備している。』

とあるだけで、改宗や移転については触れていません。
堂宇の建立、整備は、現在地に移転して行われたのでしょう。


証明寺ー14

「稲荷神社及證明寺縁起」にある、信海と恵心僧都にまつわる話を、「成田の史跡散歩」から
(少し長くなりますが)引用してみます。

『貞和年間(一三四五~五○)に信海という行者が不治の病にかかったとき、仏力に頼るしか
ないと各地の霊像を訪ね歩いた。物忌みをし、露を飲んで飢えをしのぐなど、ひたすら仏の
力に頼った。そしてある日、この地に至り山口の日月の滝の下に宿したとき、夢の中に神が
現われ「われは薬師垂迹、日月の神で、この滝の主なり。昔国中に疫病が流行して死者が
多く出たとき、恵心僧都という僧がこの里で、九寸三分の薬師如来を刻み、その災いから
のがれることができた。この霊験あらたかな薬師如来像は、今でも北方の瑠璃台にあるので、
汝もそこで尊像に祈念してみよ」とお告げをうけたのであった。』
『夢から覚めた信海が、ふと滝の上を見上げると日月神の古い祠があった。これは不思議な
ことと、夢の教えに従って瑠璃台に行ったところ一宇のお堂があり、そこに九寸三分の薬師
如来が祀られていた。信海は感嘆涕泣し、懇願すると不治の病が治ったのである。』
『そこで信海はここに新たに堂宇を建て、出家して名を道名と改めた。これが証明寺の開山
の由来で、室町時代初期の延文四年(一三五九)ころのことである。』
 (P220~221)

さて、話を蒸し返すようですが、「下総國下埴生郡山口村誌」(明治十七年)に、こんな文章を
見つけました。

『湯川谷 八幡臺ノ西麓ニアリ(現今字宮田)傳昔温泉ヲ湧出セシ所ナル由ナリ。』
『日月滝 村南端字下谷津ニアリ。僅ニ遺蹟ヲ存シ殆ト井ノ埋瘞セシ者ニ彷彿タリ。然トモ
微水湧出セリ。』
『八幡臺(仝字宮田)村ノ中央ヨリ以南ニ崛起ス。』 

(いずれも「成田市史近代編史料集一」P215)

温泉の出ていた湯川谷は、「證明寺」のある字(あざ)宮田(きゅうでん)にあり、日月滝は
村誌が書かれた明治十七年(1884)には、すでに水量は無く単なる湧水程度でしたが、
宮田から丘ひとつ越えた字・下谷津にあったようです。
下谷津の隣の字・天神台には證明寺の境外地の「観音堂」があったり、さらにその奥の
字・下井戸には同じく境外地の「地蔵堂」があることなどを考えると、思ったより瑠璃台は
現在の「證明寺」に近い場所だったかもしれませんね。


証明寺ー16

「臻暁山」の寺額。


証明寺ー17

本堂の軒下に吊るされた鐘は、以前、「雷神社」にあった火の見櫓に吊るされていたもので、
櫓の撤去によって行き場の無くなったものを貰い受けたのだそうです。

1400年前の雷鳴~雷神社 ☜ ここをクリック


証明寺ー2
証明寺ー3

ご住職のお許しを得て、本堂に入り、ご本尊の写真も撮らせていただきました。
中央の仏様は阿弥陀如来、如来様から見て左(写真では右)が観音菩薩、如来様から見て
右(写真では左)は勢至菩薩です。

阿弥陀如来は九品来迎印(くぼんらいごういん)の上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)
を結び、衣は偏袒右肩(へんたんうけん)の形をとっています。
右肩は露出せずに衣を(袖を通さずに)かけています。

脇侍の観音菩薩、勢至菩薩はすっきりした立ち姿です。


証明寺ー7

本堂は山の中腹に張り付くように建っていて、前方は崖のような地形です。
裏手はすぐに山腹が迫っています。


証明寺ー4

「普門品壱萬巻供養塔」は昭和5年に建立されました。


証明寺ー5

「大師堂」です。
左の石仏には、文政十三年(1830)と記されています。


証明寺ー6

境内の一角に一体の石仏があります。
風化が進み、あちこちが欠けています。
昔、近隣から持ち込まれたもののようで、ご住職にも何の仏様かは分からないそうです。


証明寺ー8
証明寺ー12

古い墓地が、本堂から一段高い山の斜面にあります。
寛延、享保、寛政等の年号が読めます。


証明寺ー10

墓地の一角に「竪者法印慧行塔」と刻まれた「筆子塔」があります。
慧行というお坊さんに学問を教わった弟子たちが、文化十五年(1818)に建立したものです。
「竪者(りっしゃ)」とは、仏法論議での質問に答えることのできるお坊さんのことで、天台宗の
お寺では良く見かける文字です。
慧行というお坊さんは算盤の名人だったそうです。


証明寺ー11
証明寺ー18

本堂の後方の山には、かつて薬師堂があったそうですが、今はすっかり竹林になり、お堂も
消えて登って行くのも難しい様子です。


証明寺ー15
証明寺ー24

境内が狭いので、本堂の全景は、墓地の上からか、山を下りて反対側の道に出て振り返る
しか見ることができません。


証明寺ー19
証明寺ー20

境内から見上げると、木々の間から鳥居やお堂が見えています。
「稲荷神社」でした。
(次回はここを訪ねる予定です。)


証明寺ー22

石段を下りると、二本の見事な銀杏の木が、まるで山門のように立っていました。


証明寺ー25

山を下り松崎街道に出ると、もう「證明寺」は見えません。


証明寺ー23

草深い山中で、長い歴史を抱えて静かに佇む「證明寺」です。


証明寺ー26


              ※ 「臻暁山證明寺」 成田市山口71



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八生村の寺社 | 09:53:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
印旛沼に出現したご本尊~善導大師堂
今回は、前回の「来迎寺」のすぐ傍にある「善導大師堂(ぜんどうだいしどう)」を訪ねます。
ここは、もともとは「来迎寺」の境内でしたが、いまでは民家や道路で分断されています。

善導大師ー1
善導大師ー2

石段の下、左右に石柱が立っています。
左側の石柱には、「印旛沼出現 善導大師 文政十三年庚寅」と刻まれています。
文政十三年は西暦1830年になります。
右側の石柱は「南無阿弥陀佛」と刻まれた、天保五年(1834年)のものです。


善導大師-34

石段の脇には「六地蔵」があります。

人は生前の行いの善悪によって、その死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道を
輪廻・転生すると言われ、その六道それぞれに衆生救済のために檀陀・宝印・宝珠・持地・
除蓋障・日光の六地蔵が配されているという信仰から、墓地の入口などに六体のお地蔵様
を並べ建てることが行われています。


善導大師ー4

「下總國下埴生郡松崎村誌」には、「善導大師堂」について

善導大師堂、字備後ニアリ。境内百九十二歩ヲ有ス。松葉山来迎寺ノ別當ナリ。

と記しています。(「成田市史 中世・近世編」 P219)
松葉山来迎寺 ☜ こちらをクリック

また、由来については以下のような説明があります。

抑々善導大師ノ由来ヲ探求スルニ、往古唐ノ長安、修南山ノ瀧壺ヨリ出現シ、四百餘年ノ
星霜ヲ経テ、日本洛陽ノ真葛ガ原ニ顕ハレ、其後、建暦元年ノ春人皇八拾四代順徳帝ノ
御宇ニ大師ノ尊像筑州博多ノ津ニ着キタルヲ里人奉迎シテ、草庵ヘ安置シケルトナリ。


長安の修南山の滝壷から発見されたとされる、「善導大師像」は、400年以上の年月を
経て建暦元年(1211年)に筑州博多の地に渡り、小さな庵に安置されました。

其後安貞元年八月十四日夜當國ノ城主千葉六郎太夫入道、法阿沙弥善導大師ノ靈夢ヲ
蒙リ、印旛湖ノ湄リ埴生ノ郡松崎ト云里ヲ尋ネ給フニ浦辺近キ芦間ヨリ光明赫々、其容貌
半バ金色ニテ、腰ヨリ上ハ黒染ノ木像壱軀ト水難除ノ守船板名号ヲ発見シ、大ニ警キ再拜
崇敬シ、則チ松崎村ヘ草堂ヲ建設アリ。


安貞元年(1227年)に、夢のお告げで千葉六郎が印旛沼から引き揚げた木像は、かつて
筑州博多にあって長らく行方知らずとなっていた「善導大師像」であったというわけです。

其頃当村ニ善心坊ト云フ道心者ヲ呼出サレテ大師ヲ預ケシトナリ。是レ當寺古代ノ開基
ナリト云。既ニ千葉家モ断絶シ世モ縡ニ移リ変リテ寛永元年、當住廿八世純誉法印ノ
時代トカヤ、謂アリテ天台宗ニ改メラレシトナリ。 以上善導大師ノ縁起 今猶印旛湖中ニ
善導堀ト称シ、湧水ノ深淵ヲ残存ス。


これにより開基は安貞元年、寛永元年(1624年)に天台宗に改宗したことが分かります。
790年近くもの歴史のあるお堂だということになります。
現在のお堂は嘉永五年(1852年)に再建され、平成10年に改修されたものです。

ご本尊は「善導大師」。
木像は、カヤ材の寄木造りで1.6メートルの大きな立像です。
善導大師(613~681)は、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した唐の名僧で、
曇鸞・道綽・懐感・少康とともに浄土五祖の一人とされています。


善導大師ー6・・・・・・・・・・
  天保(?)と読める狛犬  善導大師ー7

 天保九年(1838)の常夜燈 善導大師ー8
善導大師ー9

善導大師ー10

一部が欠けて打ち捨てられたような手水鉢。
寛延四年(1751年)と記されています。


善導大師ー11

こちらは平成11年の新しい手水鉢。
側面には古い手水鉢にあった「寛延四年辛未天閏六月良日」が転記されています。


善導大師ー12
善導大師ー5

「下總國下埴生郡松崎村誌」に出てくる、善導大師像を印旛沼から引き揚げた「千葉六郎太夫
入道」とは、千葉介常胤の六男の東胤頼(とう たねより)のことです(六郎は通称)。
久寿二年(1155年)に生まれ、安貞二年(1228年)に没しました。

下総国東庄に父・常胤から所領を与えられて東六郎を名乗り、東氏の初代当主となりました。
官途は父より上位の従五位下です。
五位は俗に「大夫」と称されるため、千葉六郎大夫と呼ばれたようです。
晩年は上洛して法然上人の弟子となって法阿弥陀仏と号し、源頼朝朝から絶大な信頼を
得ていました。

旧小見川町(現・香取市)の芳泰寺に胤頼夫妻の墓と伝えられる供養塔があるそうなので、
いつか訪ねてみたいと思います。


善導大師ー13

本堂の軒下にある掲額には、「善導大師 願ひの利益 松ヶ崎 闇夜を照らす 法の月影」
と歌が書かれています。


善導大師ー32

正面の龍の彫刻。
迫力満点です。


裏手の墓地には古く、立派な墓石が並んでいます。

善導大師ー15   寛永四年
 寛文十二年(2基対) 善導大師ー16
善導大師ー18


善導大師ー17

この墓石には「夢幻童子」と刻まれています。
“夢幻、ゆめまぼろし”とは、天保十一年(1840年)に幼くしてこの世を去った子どもに、
親はどんな思いでこの戒名を付けたのでしょうか。


善導大師ー19

天和二年(1682年)の如意輪観音像が刻まれた墓石。
この年は世に言う「お七火事」の天和の大火が起きた年です。


善導大師ー20

寛延二年(1749年)の墓石。
この如意輪観音像は珍しく厳しい表情です。


善導大師ー22

普門品一千巻供養の碑。


善導大師ー23

享保二年(1717年)の「十九夜塔」。


善導大師ー25

境内の右手に建つ「不動堂」。


善導大師ー26
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・善導大師ー27
善導大師ー28

本堂の左手に建つ2つのお堂の名前は分かりません。


善導大師ー35

樹周り5メートル以上はあるシイの大木。
長い年月にわたってこの場所に立ち、来迎寺の境内の一角にあって、大梵鐘の音を聞き、
時代の流れから、道路や民家によって境内が分断される日々を眺めてきたのでしょう。


善導大師ー30

階段を登り切った所に立つ「護摩木山」の碑。
昭和3年と記されています。

善導大師ー14
善導大師ー31

善導大師像は全国各地に見られますが、特に京都の知恩院や善導院の立像、奈良の来迎寺
の座像などは良く知られています。
ここ、善導大師堂の善導大師像については、画像を見つけることができませんでした。

前述した東胤頼(東六郎太夫)が、善導大師像を印旛沼から拾い上げたとされる安貞元年
(1227年)には、京都である事件が起こっています。
東胤頼が師事した法然は、建暦二年(1212年)に没していますが、その死後15年目に
あたる嘉禄三年(1227年・同年安貞に改元)に、天台宗からの圧力によって弟子であった
隆寛、幸西らが流罪となり、僧兵に廟所を破壊されるという事件が発生しました。
法阿と名乗っていた胤頼らは、法然の遺骸を掘り起こして嵯峨の二尊院に隠したものの、
天台宗からの攻撃は続き、太秦の来迎院(現・西光寺)へ、さらに西山の三昧院(現・光明寺)
へと転々とせざるを得ませんでした。
十七回忌となる安貞二年(1228年)1月になって、弟子たちの手でようやく荼毘に付され、
その遺骨は知恩院などに分骨されました。

善導大師像が拾い上げられた時期と、この事件の時期は重なっています。
京にいた胤頼が印旛沼で大師像を拾い上げることなど・・・、と野暮は言わぬこととしましょう。
法然に心酔していた胤頼の想いが、この伝承となったのでしょうから。
それにしても、創建から400年あまり経った寛永元年(1624年)になって、恩師・法然の遺骸
を必死に守った自分を攻撃した、天台宗に改宗となる皮肉な運命をどう思っているのか、聞い
てみたい気がします。


善導大師ー36

                  ※ 「善導大師堂」 成田市松崎247-7
                    JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分
                    北総鉄道成田湯川駅から徒歩約15分



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八生村の寺社 | 08:15:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
カヤの大木と「来迎寺(らいこうじ)」
今回は松崎の「来迎寺(らいこうじ)」を訪ねます。

来迎寺ー1

「来迎寺」の創建年代は不詳とされています。
天台宗のお寺で、山号は「松葉山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

門柱には「宗祖大師御遠忌記念」と記されており、大正9年に建てられたものです。


来迎寺ー2

明治16年に千葉県令船越衛の通達によって編さんされた町村誌には、

「来迎寺、村ノ中央字備後ニアリ。境内五百四十六坪。天台宗松葉山ト號ス。下埴生郡
龍角寺村天竺山龍角寺ノ末派ナリ。其開基ノ年月ニ至テハ今詳明スベカラズ。」

とあります。(成田市史 近代編史料集一 P218)

また、後に近隣の村が合併してできた八生村の村誌(大正3年頃の作成)には、

「松崎字備後ニアリ。天台宗ニシテ安食町天竺山竜角寺ノ末寺ナリ。本尊ヲ阿彌陀如来
トス。開基詳カナラズ。鐘楼ニハ天録十四年十二月ト刻セル大梵鐘アリ。法要ハ毎十三日
ノ待夜ト十四日ノ縁日トナリ。」

とあります。(同P247)

今は鐘楼も梵鐘も姿がありませんが、大正初期まではそれなりに立派なお寺だったようです。
記録が見当たりませんが、後述の「本堂再建の碑」が大正14年と記されていることから、
火事で焼失してしまったのではないかと想像されます。

なお、梵鐘に刻まれていたとされる「天禄十四年」とは何かの間違いでしょう。
天禄年間は西暦970年から973年までの4年間しかなく、天禄十四年は存在しません。
梵鐘にこのような間違いが刻まれることは考えられませんから、記録ミスだと思います。
まず考えられるのは天禄四年(973年)を十四年と誤記した、ということですが、この年代
に制作された梵鐘であれば間違いなく重要文化財級のものですから、もっとしっかりとした
記録が残っているはずです。
また、年号を間違えて刻んであったとすれば、記録を取る時にその間違いには当然気付く
はずでしょうから、それについての記述があってしかるべきでしょう。
次に考えられるのは「天禄」ではなく「元禄」の記録間違いではないか、ということです。
とすると、その梵鐘は元禄十四年(1701年)の制作となります。
どうやらこちらの方が現実的ですね。

現在の本堂は一見民家風で、寺額もありません。


来迎寺ー3

境内にある成田市指定天然記念物の榧(カヤ)の大木です。

説明板によると、
「この“カヤ”は、わが国において、学術上価値があり、植物学上においても、このような
大樹は記録的なもので、貴重なものといえます。」


樹齢は不明ですが、目通り樹周り3.9メートルと書かれています。
この説明板は昭和55年に立てられたものですが、それ以降も成長は続いているようで、
4.3メートルと落書きがされています。


来迎寺ー4
来迎寺ー17

「八生村誌」にこのカヤの木に関する記述があります。

  日暮ノ榧
松崎来迎寺境内ニアリ。周圍二間。丈高カラズシテ其枝八方二垂レ、殆ント一反歩餘ヲ壓ス。
夏季此ノ下ニアルヤ涼気自ラ来リ去ル能ハズ。遂ニ日ノ暮ルゝヲ覚ヘズト。因リテ此名アリ。

(成田市史 近代編史料集一 P244)


来迎寺ー5

大正14年の「本堂再建寄附芳名の碑」。

見たところ、現在の本堂はその後にさらに建て直されています。


来迎寺ー6
来迎寺ー7

境内の左手にあるお堂。
中の石仏は風化してお顔も平たくなっています。


来迎寺ー8

来迎寺ー9

「二十三夜塔」。
弘化四年(1847年)の紀年銘があります。
室町時代から;始まった月待講」は、江戸時代に入って急激に全国に広まりました。
特定の月齢の夜に「講中」と称する仲間が集まって、飲み食いをしながら、経などを唱えて
月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
その際に供養のために建てた石碑が「月待塔」です。

地方によっていろいろな月待講がありますが、月齢によってもお祭りする仏様が違います。
十三夜待   虚空蔵菩薩
十五夜待   大日如来、聖観音など
十六夜待   大日如来、阿弥陀如来など
十七夜待   千手観音、聖観音など
十八夜待   千手観音、聖観音など
十九夜待   如意輪観音、馬頭観音など
二十夜待   如意輪観音、十一面観音など
二十一夜待  如意輪観音、准胝観音など
二十二夜待  如意輪観音
二十三夜待  勢至菩薩
二十六夜待  愛染明王、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)
(参考:Yahoo!知恵袋)

なかでも、月が勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も
盛んに行われるようになりました。


来迎寺ー10
来迎寺ー11

「子育大明神」の掲額があるお堂。


来迎寺ー12

掲額の文字が消えてしまって、何のお堂か分かりませんが、斜めから見ると「天神社」と
読めるような気がします。
後述する資料から推測すると、「太子堂」かもしれません。


来迎寺ー14

裏手にある墓地には、比較的新しい墓石が目立ちます。
墓地の外れの一角にわずかに数基の古い墓石があり、文久とか慶應の年号が読めました。


来迎寺ー13
来迎寺ー16

「成田市史 中世・近世編」に、来迎寺について触れている文章がありました。

「来迎寺は山号を松葉山と号し、阿弥陀如来を本尊としている。 創建など明らかでないが、
文禄三年の「松崎村御縄打水帳」に寺名がみえるので中世にさかのぼる。 除地に認可
された東西六十五間・南北八〇間の境内に、五間・六間の本堂をはじめ善導大師堂、
阿弥陀堂、鐘楼堂、聖徳太子堂などがあり、また浅間宮・香取宮などを支配している。」

(P784)

かつてここに、東西約118メートル、南北約145メートルという広い境内があったとは思え
ない現状ですが、文禄年間にその名が出てくるのであれば、少なくとも420年以上の歴史
を有するお寺ということになります。
今は民家や道路で隔てられた場所にある「善導大師堂」も、もともとは境内であったわけです。


来迎寺ー20

通りに出るとそこは「善導大師堂」の裏手にある墓地の外れです。


来迎寺ー21

この通りが、かつての境内を分断しています。
郵便局もある生活道路になっています。


来迎寺ー19

「来迎寺」の境内からは、わずかに「善導大師堂」の屋根が望めるだけです。


来迎寺ー15

カヤの大木の枝が、境内の3分の1ほどを覆っています。
なるほど、村誌にあった通り、夏はこの木の下はとても涼しいことでしょう。



来迎寺ー18


            ※ 「来迎寺」 成田市松崎254
              JR成田線下総松崎駅から徒歩約20分
              北総鉄道成田湯川駅から徒歩約15分



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八生村の寺社 | 21:25:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
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