攝社(せっしゃ)とは、
「本社と末社の間に位し、本社の祭神にかかわりをもつ神などを祭った神社。」 (歴史民俗
用語辞典 日外アソシエーツ)のことです。

「十二代 景行天皇40年(111年)日本武尊東征の時、蝦夷征討祈願のため勧請。現在
の香取市大戸の地に遷座し、幾度かの遷宮の後、三十六代 孝徳天皇白雉元年(650年)
現在地に宮柱造営されました。」
大戸神社のホームページにある「由緒」の項はこのように始まっています。
1900年以上前に勧請され、現在地に鎮座してから1370年近く経っているという、圧倒され
るような長い歴史を持った神社です。
また、「香取神宮志」(昭和13年)には、香取神宮の攝社の一つとして、
『大戸神社 香取郡東大戸村にあり、社家傳説に「天武天皇ノ白鳳年中建ニ此社一、所レ祭
手力雄神也」とあり、或云磐筒男神磐筒女神即ち經津主命の御親神を祭ると。』
と「大戸神社」について記述されています。
天武天皇の在位は673~686年ですから、ホームページの記述よりだいたい570年ほど後
のことになりますが、それでも約1340年前です。
ご祭神の「手力男神 (タヂカラオノカミ)」は、「天手力男神(アメノタヂカラオノカミ)とも呼ばれ、
天の岩屋戸に隠れた天照大神を、岩戸を開いて手を取って引き出した怪力の神です。
「香取神宮志」にある 「或云磐筒男神磐筒女神即ち經津主命の御親神を祭ると」 の部分は、
本稿の冒頭にある香取神宮の攝社の定義からすれば納得できます。
ただ、「磐筒男神(イワツツノオノカミ)」と「磐筒女神(イワツツノメノカミ)」の二柱に関しては、
「大戸神社」のホームページや配布されている由緒書きにも現れません。

この御神燈の年代は不明ですが、基礎の地輪の部分に亀が彫られています。
各部の石質が異なりますので、何回も補修していることが分かります。

鳥居の手前にある手水舎の手水盤には、「元禄十四辛巳」と刻まれています。
元禄十四年は西暦1701年で、江戸城内の松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介
に切りかかる事件を起こしました。

手水舎横にある社号標は昭和62年のものです。

手前の大きな灯籠は平成15年、後ろの小さなものは平成7年の寄進です。

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千葉県指定有形文化財の説明板
(上) 大戸神社和鏡
松喰鶴鏡(鎌倉時代)、素円紐蓬莱鏡(鎌倉時代)、花亀甲亀蓬莱鏡(室町時代)の三面で、
この種の鏡としては大型で文様も鮮明な優れた作品です。
(下)
羅龍王面(らりょうおうめん)
舞楽に用いる面で、内側に嘉歴二年(1327)の紀年銘(この年の干支は丁卯ですが、翌年
の戊辰となっているそうです)があります。
このお面に水を注ぐと雨が降るという言い伝えがあり、雨乞いの面としても知られています。
納曽利面(なそりめん)
舞楽に用いられる面で、羅龍王面と同じ鎌倉時代末の作品とされています。
蒙古来襲の時、鎌倉幕府の武将が奉納したものと言われています。
「日本社寺大觀 神社編」(昭和45年)には、「大戸神社」の宝物についてこう書かれています。
「所藏の寶物は社記によれば、籠目太刀(北條時政奉納)・古面四枚(羅龍王面二、納曾利面
二、旱魃の際、請雨塚なる地にて此面に三度水を注げば雨降るといふ。)禁制狀(浅野彈正少
弼、木村常陸介花押)・折紙三葉(佐藤忠行、庄司信平、陸奥六郎連署)・太刀二口(佐藤忠信
奉納)等あり。」
これらの宝物は、境内の右奥にある「宝物殿」に納められているのでしょうか?

「宝物殿」は高床式建築で、瓦葺きのしっかりした建物です。

「大戸神社改装記念之碑」(昭和36年)。
社殿は、白雉元年(650)に現在の地に遷座して以来、正応二年(1289)、明徳四年(1393)、
寛文四年(1664)と改築を重ね、宝永四年(1707)の改築が現在の社殿となっています。
その後、大正五年(1916)、昭和36年に改修が行われ、この記念碑はその時のものです。

境内の右手にあるスダジイの古木。


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「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。
「祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと) 本殿・銅板葺神明造六坪、弊殿・銅板葺
破風造六坪、拝殿・銅板葺入母屋造一六.五坪 新館・銅板葺方形造二六坪、旧館・同一五
坪 境内一、五七七坪 氏子三、〇〇〇戸」
「景行天皇の御宇、日本武尊が東夷御征討のとき勧請、宮柱造営。その後天武・伏見・霊元
各天皇のとき社殿の改築をし、伏見・後小松両帝より社領一万貫の御寄進があった。その後
源家・北条家・豊臣家・千葉家等の武将の崇敬が厚く、御宝物、寄進状その他がある。徳川
家よりは社領一〇〇石を寄せられ、明治六年県社に列せられた。 香取神宮の攝社で氏子は
佐原市・大栄・大栄・栗源各町、茨城県東村に及ぶ。」

氏子が3000戸と言われるだけあって、境内右手には立派な「氏子会館」が建っています。


拝殿正面に掲げられている神額には「大戸神宮」と書かれています。

拝殿の中には色鮮やかな掲額が見えます。
どうやら有名な「天岩戸(あまのいわと)」の物語のようです。
右端に描かれているのは「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、横に立って岩を掴んでいるのが
この神社のご祭神である「天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)」、そして中央で「天宇受賣命
(アメノウズメノミコト)」が踊っています。

こちらは大きく迫力のある鬼面の掲額です。


拝殿前の御神燈は昭和25年の寄進で、中台の部分には龍が彫られています。
境内左手に並ぶ二基の石碑は、風化もあって刻まれている文字が読めません。

年代不明・神門改造之碑


本殿は見事な彫刻で飾られています。
「大戸神社」のホームページには、
「そして、平成15年(2003年)、神幸祭の記念事業として本殿・拝殿の彩色塗装および、一部
補修、神輿修復、玉垣屋根の総銅板葺等々が全て完了致しました。」
と書かれています。
鮮やかな彩色は十年ほど前に修復塗装が行われたためです。


本殿左壁面の装飾。


本殿右壁面の装飾。
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脇障子にも色鮮やかな彫刻が施されています。
何かの故事に題材を求めたのでしょうか、楽しげに語らう二組の人物が描かれています。

鰹木は七本、千木は垂直切りで男神を祭っていることを表しています。

境内の裏手からも出入りができるようになっていて、ここにも手水舎が置かれています。

通りを挟んで三基の記念碑が建っています。
左から、陸軍大臣・林銑十郎書の「従軍記念碑」、「忠魂碑」、乃木希典書の「明治卅七八年
戦役紀念碑」で、いずれも明治三十九年(1906)の建立です。

記念碑側からは本殿の裏側と手水舎が見えます。
境内の裏手にも多くのお社や祠などがあります。


二本の大杉の根元がつながっている「夫婦杉」。
根元にはお社と灯籠、そして「道しるべ」と刻まれた四角柱があります。
四角柱の左右の側面には、「一笑一若一怒一老」と「日日是好(幸)日」と刻まれています。


大正八年(1919)


二基の子安観音を祀る「子安堂」。
左の子安観音像の陰に、破損して赤子と観音の足だけが残る子安像が転がっています。
壊れたのか、壊されたのか・・・無残な姿です。

手前の祠には「大六天王」と書かれています。(奥は「稲荷大明神)
これは「大六天神社」または「第六天神社」です。
「第六天魔王」を祀る神社が「第六天神社」ですが、神仏習合の神社であったため、明治政府
によって神仏分離令が出された際に、多くの神社が「第六」という社名の連想(?)から、神世
七代における第六代神である、面足命(オモダルノミコト)と惶根命(アヤカシコネニミコト)に
ご祭神を変更しました。
「第六天魔王」とはあまり聞き慣れない名前です。
仏教には六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)という世界観があります。
最上位の天上界も「欲天」「初禅天」「二禅天」「三禅天」「四禅天」「無色天」に分かれていて、
最下位の「欲天」は「人間界」に近いため、未だ欲望に縛られている状態にあります。
「欲天」の世界も「四大王衆天」「忉利天」「夜摩天」「兜率天」「楽変化天」「他化自在天」に
分かれているとされています。
「他化自在天」は「欲天」の最上位(第六天)で、“他者が仏によって教え導かれ、救済され、
悟ること(教化)”を奪い取ってしまう、つまり仏道修行を妨げる「天魔」である「第六天魔王」
の世界であると言われます。
このような「魔王」をなぜ祀ったのかは分かりませんが、災いをなすものを丁寧に祀ることで
災いを防ぐ、または「福」に変えようとすることは、よくあることです。
また、日蓮宗では修行者を法華経からあえて遠ざけることで、さらなる信心を重ねるきっかけ
となる、ありがたい仏の一人とされています。
織田信長が武田信玄との書状のやりとりの中で、信玄が「天台座主沙門」と自らを称したこと
に対抗して「第六天魔王」と名乗ったことは、歴史好きの方ならご存じでしょう。


明治二十九年(1896)建立の「琴平大神」。
ちょっと離れて置かれている手水盤は大正十三年(1924)のものです。


雑草の中に建つ木製の靖国鳥居の先には、向き合う二社の「神明宮」があります。

この碑には、崩し字で「天満宮」と記されているような気がしますが、自信はありません。
「慶応乙丑年」と読めますので慶応元年(1865)の建立です。

境内の一番奥にはたくさんの祠が並んでいます。

天保九年(1838)の「白山大権現」

宝暦七年(1757)の「道祖神」。

宝暦十一年(1761)の「疱瘡神」。

昭和39年の「三峯神社」

昭和32年の「伊勢大社」
この他にも社名不明、年代不明の祠がたくさん並んでいます。

境内の左手にある「神輿奉安殿」。
中に納められている神輿は元禄十五年(1702)に造られたものです。

境内の真ん中に参道に食い込むように立っている杉の大木があります。

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注連縄や説明板はありませんが、その圧倒的な存在感から、ご神木ではないかと思います。


「東大戸村大戸區字宮本に在り域内千三百二十七坪手力雄命を祀り天照大神手栲幡姫命を
相殿とす祭日三月中午日雑祭一年の間四十五度社傳に曰ふ日本武尊東征の時之を大内臺
本社を距る三町餘に勧請し白鳳二年更に今の地に再榮す或は曰く大戸社は天鳥船命を祀れる
ものなりと其據を知らず中世武家紛爭の時に際し文書等兵亂に罹り散逸するもの多し」
「千葉縣香取郡誌」の「大戸神社」の項は、こう書き出しています。
ご祭神や由緒に関する諸説が出るのは歴史ある神社にはつきものですが、いずれも兵乱
や火災等によって記録が消失し、伝承に頼らざるを得なくなるためです。
「大戸神社」もその例外ではありませんが、伝承の真偽を諮るまでもなく、その長い歴史の
持つ重みのようなものが、全ての説を納得させてしまうような気がします。

※ 『大戸神社」 香取市大戸520
大戸神社ですか、手力男神なのに天岩戸別神社じゃないのは
摂社だからかも知れませんね~。
毎回、神社とご祭神の関係には悩まされます。
大戸神社は香取神宮の文書にはっきりと摂社と書かれています。
かつては広大な社地を有していたようですが、氏子の多さが衰退を
防いでいるような感じです。
天岩戸伝説で日本史上初の「引き籠り」認定されてしまった天照大御神ですw
天の岩戸に引き籠ってしまったのは「娘」の栲幡千々姫命こと、天照大御神。
その実娘を岩戸から引っ張り出したのは「父」の天手力男。
父親が引き籠った娘を部屋から引っ張り出す・・・と言うのは現代でも通じる所がありますねw 天照大御神を「引き摺り出す」という失礼極まりない行為(w)も、実父なら許されるのでしょう。
頑張れ日本のお父さん お手本は天手力男神ですw
確かに神話を現代に置き換えてみると、いろいろと思い当たる
ことがあったりしますね。
記紀も現代語訳だけではなく、身近な人物に置き換えて読むと、
もっと興味が湧くかもしれません。