長い間ご無沙汰しておりました。
この間の事情は追記に簡単に記しておきました。
以前よりスローペースになると思いますが、再開させていただきます。
今回は、以前から気になっていた、成田山の石仏です。
成田山の外周路に、ひっそりと佇む石仏があります。

光明堂裏辺りの外周路。
寄進された金額や奉納物が刻まれた、大きな石碑が立ち並ぶ一角に、隠れるようにして
その四体の石仏はあります。


もともとこの外周路を歩く人は少ないうえに、大きな奉納碑や記念碑に囲まれているので、
気付く人はほとんどいません。
成田山の境内には多くの奉納碑、記念碑、修行碑、句碑などが立ち並んでいます。
大本堂裏の築山には不動明王の眷属(けんぞく)童子群が並んでいますし、光明堂・開山堂・
額堂に囲まれた一角には、不動明王像や矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せい
たかどうじ)を従えた三尊像が複数見られます。


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ただ、不思議なことに、どこのお寺でも普通に見られる観音菩薩や地蔵菩薩のような石仏を
目にすることはありません。
広い境内のどこかに立像や坐像が隠れているのかも知れませんが、私はこの四体の石仏
以外には見つけることができていません。

これらの石仏には、この場所にある必然性も、配置の意味も感じられなく、あちこちに分散して
あったものを境内の整備などの事情で、とりあえずここにまとめて置いたように見えます。
一体ずつ見てみましょう。


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左端に立つのは庚申塔の青面金剛像です。
顔から上半身にかけて大きく削り取られています。
右側面には文字が刻まれていますが、風化と欠損で、わずかに「本尊」と「八月吉日」の文字
が読み取れるのみです。

この青面金剛像をよく見ると珍しい一面八臂像です。
今までこのブログでたくさんの青面金剛像を見てましたが、どれもが一面六臂像でしたので、
これは初めて見る八臂像です。
正面の二臂は削られていますが、合掌している様子がかすかに残っています。




通常、六臂の像容は、法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)等を六臂全てに持つか、四臂で
いずれかを持って、残る二臂で合掌しています。
忿怒相で、邪鬼を踏みつけ、左右に童子や鶏を刻み、台座に三猿を置いています。

この八臂像は、六臂で持物を持ち、さらに合掌する二臂が加えられています。

邪鬼と三猿の部分も風化や欠損ではなく、削られた痕があります。
顔から上半身、邪鬼と三猿、いずれも廃仏毀釈の嵐に揉まれたことによるものでしょう。
この像にはもう一つ変わった部分があります。
ふつう金剛像の足許の左右に刻まれる鶏が、三猿の下に刻まれているのです。

三猿を刻むのは、庚申の申(さる)にかけて、三尸(さんし)に“見ざる・言わざる・聞かざる”で
天帝への告げ口をさせないようにするためだと言われ、鶏は、鶏が鳴くまで起きていることを
表しているとか、十二支の申(さる)の次に来る酉(とり)の日になるまで起きていることを表し
ているとか言われていますが、この位置に鶏があるのは初めて見ます。

この珍しい青面金剛像の建立年代が分からないのは、とても残念です。
(庚申や庚申塔については度々書いてきましたが、「駒井野の道祖神と石仏群」の項に書いた
解説を参考までに追記に載せておきます。)
金剛像の隣にある石仏には大いに迷わされました。

一見、観音菩薩像と思いましたが、なにか違和感があります。


頭部は隣の青面金剛像と同じく、廃仏毀釈により落されたようです。
修復の痕が痛々しい姿です。

今は失われていますが、頭上には宝冠のようなものが載っていたようです。

宝冠をかぶり、左手に蓮華、右手は与願印を結ぶこの石像は「虚空蔵菩薩」と思われます。
虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)とは、無限の智恵と慈悲を持った菩薩という意味で、智恵や
知識に関するご利益をもたらす菩薩です。
この石像は、いろいろ比較してみると、京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵菩薩立像」にとても
良く似た像容です。
醍醐寺の虚空蔵菩薩像は、長らく「聖観音像」と伝えられてきましたが、平成27年に「虚空蔵
菩薩」であることが判明しました。
一見、観音菩薩と見誤るのは当然と言えば当然ですね。


上の虚空蔵菩薩像はいずれも十三夜の月待塔に本尊として刻まれたもので、この石像の
ような単立像は珍しいものです。

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「月待塔」の可能性もあるので、刻まれた文字を探しましたが、「寛文十一年」の文字が読める
だけで、月待らしき文字は見当たりません。
寛文十一年は西暦1671年、約350年も前のものです。
この年には歌舞伎の「先代萩」や映画・小説でも多く題材にされている「伊達騒動」がありました。
手前にある坐像は「十一面観音」です。

この観音菩薩は、十種の現世利益(十種勝利)と、四種の来世利益(四種果報)をもたらす
とされています。
【<十種の勝利>(一)病気せず、(二)つねに諸仏に憶念され、(三)財物や衣服飲食に欠乏
せず、(四)すべての怨敵を破り、(五)衆生の慈悲心をおこし、(六)虫害や熱病、(七)刀杖に
害されることがなく、(八)火難、(九)水難をのがれ、(十)横死しない、ことの十種である。
<四種の果報>(一)臨終の時に諸仏を見ることができ、(二)地獄に堕ちず、(三)禽獣に害
せされず、(四)無量寿国に生まれることができることの四種である。】
(「目でみる仏像事典」 田中義恭・星山晋也著 P275)

「十一面観音」はヒンドゥ教のシヴァ神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の変化身
の一つです。
頭部に十一の顔を持ち、正面の顔は修行によって得られた如来の境地を表し、他の十面は
修行中の菩薩を表しています。
【菩薩の顔が三面、忿怒の顔が三面、牙を持つものが三面、暴悪大笑と称するものが一面】
(「仏像鑑賞入門」 瓜生 中著 P112)
ただ、この十一面観音像には忿怒相は見当たりません。



頭上に三面、額上に五面、左右側面に一面ずつ刻まれ、本面を含め全て菩薩面です。
頭頂部には削られたような痕があるので、もともとはここに阿弥陀如来の化仏が載っていた
のかもしれません。


十一面観音の像容は、右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶を持つ形が
多いのですが、この観音像には持物はなく、両手は膝上で変わった印を結んでいます。

掌を上に、親指と中指を付ける「上品中生」の印を両手を離して膝上に置く形で、いろいろ
調べても該当する印相が見つかりません。
「上品中生」の変形とでも言うのでしょうか。
「仏像印相大事典」(秋山昌海 著 昭和60年)にあった、
【・・・もうひとつ、わが国の観音像は、蓮華を持つことでは、ほとんど例外がないほどで変わり
ばえしないのに、印のかたちはまちまちで、これは、印については、観音像というものがかなり
自由に、形式にわずらわされずに造られていたことをものがたる。】 (P321)
という文章に納得して、”自由に、形式に囚われずに彫られた”像だとしておきましょう。
足は半跏趺座に組んでいます。
全体のバランスがあまり良くないので、印の部分等が補修されて、もともとの形から違って
しまったのではないか・・・と、何度も見ましたが、その痕跡はありません。
右端は、亀に乗った珍しい石仏です。


一見、妙見菩薩のように見えますが、乗っているのは妙見菩薩が乗る玄武ではなく、亀です。


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どこを見ても蛇と合体した玄武の痕跡はありません。


左手に持っているのは薬壺のようです。
とすれば、これは亀に乗った薬師如来だと思われます。

亀乗藥師如来は浦安の「東学寺」(坐像)や京都の「亀龍院」(立像)のものが知られていますが、
全国的にあまり例がありません。

この四体の珍しい石仏について、何も資料が見つからないのはとても残念に思い、何度も
現地を訪ね、思いつく資料を片っ端からあたってみました。
そして、奇跡的に「成田山新勝寺史料集 別巻」(成田山新勝寺 平成20年)の巻末にある
「金石一覧」表の中に、この四体の石仏が記載されていることを見つけました。
境内にある全1442件の金石について、1件1行ずつの記載です。
なお、代表的な270件については本文中に詳細な記述があります。
810 庚申塔 年代 ― 奉納者 ― 位置 97
811 十一面観音像 年代 ― 奉納者 ― 位置 98
812 聖観音像 年代 ― 奉納者 ― 位置 99
813 獏に觀音像 年代 ― 奉納者 ― 位置 100
いずれも年代、奉納者ともに不詳とされていて、「虚空蔵菩薩像」と見た石仏は「聖観音像」、
「亀乗薬師如来像」と見た石仏は「獏に観音像」と書かれています。

ここで「聖観音」とされてる石仏は、その像容と、前述した”京都醍醐寺の国宝「木造虚空蔵
菩薩立像」”の例を踏まえて、私としては「虚空蔵菩薩像」であるとしたいと思います。
年代不詳となっていますが、よく見ると寛文十一年の文字が読み取れます。
【密教で発達した菩薩で、真言宗などでは虚空蔵菩薩を本尊として、さまざまな修法が行わ
れる。 また、この菩薩を本尊として記憶力を高める求聞持法という修法も古くから行われ、
弘法大師も若いころこの法を行ったという。】
【また、大日如来を中心とする五仏の化身として、五大虚空蔵菩薩が造られた。 このほか、
飛鳥時代に造られた聖観音に、虚空蔵菩薩と呼ばれるものがある。 中世以降、虚空蔵菩薩
の信仰が盛んになるにつれて、そのように呼ばれた。】(「仏像鑑賞入門」瓜生 中著 P104)
このように、真言宗・大日如来と虚空蔵菩薩との関連を考えれば、虚空蔵菩薩像が成田山
新勝寺の境内の片隅に置かれていても不思議はないでしょう。
(大本堂の回廊を裏側に回れば、裏仏として、不動明王の本地物である大日如来像とともに
虚空蔵菩薩像と聖徳太子像が安置されています。)
次に、「亀乗薬師如来」と見た石仏が、「獏に観音」とされている件ですが、「獏に観音」とは
聞き慣れない名前です。
仏像に関する本や仏教辞典類などを見ても、この名前は出てきません。

”最後の望み”で「成田山仏教図書館」を訪ね、質問をしてみました。
答えは意外にも、
”いろいろ調べても分からなかったので、見た目の印象を記したのだろう。 こういうことは
ままある。” というものでした。
「獏に観音」という観音は無く、たまたま調べた人が確信が持てなかったので、像容の印象
から、仮に「獏に」と名付けた、ということらしいのです。
それにしても「獏に」とはどういう印象なのでしょう?
恐いもの知らずの素人が、ここはちょっぴり勇気を持って「亀乗薬師如来」としたいと思います。

境内の片隅に、片付けられたかのように佇む四体の石仏ですが、よく見ればそれぞれに興味
深い特徴があり、見飽きません。
境内の片隅にひっそりと佇む四体の石仏。
成田山裏門の駐車場から境内へと上る坂道を、奥山広場に入らずにまっすぐ上って行き、
額堂の裏側を過ぎて、光明堂の裏側辺り、薬王寺に下る細い坂道の手前左側に見えます。
続きを読む >>

八生村誌には「村社 麻賀多神社」として、次のように記述されています。
「公津新田字宮下ニアリ、稚産霊命ヲ祭ル。由緒詳カナラズ。社殿間口三間、奥行三間、
境内二百五十坪アリ、神官ハ稷山久興ニシテ、氏子十二戸ヲ有ス。又境内ニ二社アリ、
一ヲ疱瘡神社ト稱ス。直日命ヲ祭ル。一ヲ三峰神社ト稱ス。伊邪那岐命ヲル。由緒共ニ
詳カナラズ。」
市内の台方と船形にある「麻賀多神社」は、「延喜式」に記載されている由緒ある神社で、
史書によれば、応神天皇の時代に印波国造の伊都許利命が創始した神社です。
麻賀多神社のホームページによれば、「麻賀多」という珍しい名前の由来は、古来より
この地方が麻の産地であったこと、そしてこの神社を創建した国造・伊都許利命が多氏
一族の出であることから、「麻の国で多氏が賀す神の社」という意味の「麻賀多神社」と
なったとされています。
珍しい名前の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
船形の麻賀多神社(奥宮) ☜ ここをクリック
この神社はちょっと分かりにくい場所にあります。

赤坂の郵便局(本局)から西口大通りを突っ切り、中央公民館・図書館脇を抜けて中台中学
の前を通る「郵便局通り」に面していますが、通りからは「米野集会所」の建物に遮られて、
植木の間からチラリと見えるだけです。

目線より高い位置にありますので、気をつけて見ないと見落とします。

米野方面からは急坂を登った場所になり、左手に鳥居が見えます。
成田市の「宗教法人一覧」や、千葉県神社庁の「神社名鑑」、その他の資料にも所在地が
“米野121”となっていますが、地図で調べると神社の位置は中台になります。
「麻賀多神社」の辺りの郵便局通りの西側は、道にへばりつくように僅かな幅の字・中台が
あり、崖のような傾斜地から先は米野の田んぼが広がっています。
資料にある“米野121”は、下の写真の辺りだと思われます。


「千葉縣印旛郡誌」には、「村社 麻賀多神社」として、次のように記されています。
「公津新田村字宮下にありて稚産靈命を祭る由緒不詳或伝寶永甲申正月の觀請にかかると社殿
間口三間奥行三間境内二百五十坪官有地第一種あり神官は稷山久興にして氏子十二戸を
有し管轄廰まで七里六町四十九間とす按るに此地は昔公津村の一部なりしが稷山の麻賀多神社を奉遷
せしものか境内二社あり即
一、疱瘡神社 直日命を祭る由緒不詳建物三尺四方あり
二、三峰神社 伊邪那岐命を祭る明治九年六月十五日觀請建物二尺四方あり神社明細帳村誌
伝承にある「寶永甲申正月の觀請」とは、宝永元年(1704)のことですから、この神社は
310年を超える歴史があることになります。
また、「公津村誌」に由緒不詳とあった「三峰神社」は、明治九年(1876)に勧請されたこと
が分かります。
なお、現在の社殿の大きさも書かれているものとは違いますし、「疱瘡神社」、「三峰神社」
ともに今では境内には見当たりません。
※ 稷山の麻賀多神社とは、成田市内には二社ある内の台方の総社を指します(稷山は
昔の”字”です)。

境内の奥に九基の祠や石柱が並んでいます。
左から、大正七年(1918)の「浅間神社」、慶応元年(1865)の「馬頭観世音」、明和七年
(1770)の「二十三夜塔」、享保十三年(1728)の「青面金剛」、大正八年(1919)の祠、
安永八年(1779)の祠、文化六年(1809)の祠、年代不詳の祠、年代不詳の「地神碑」。

この五角柱は「地神碑」と呼ばれるもので、神々に五穀豊穣を祈願するためのものです。
それぞれの面に、「大己貴命(オオムナチノミコト)、少彦名命(スクナヒコノミコト)、植安媛命
(ハニヤスヒメノミコト)、倉稲神命(ウカノミタマノミコト)、天照大神(アマテラスオオミカミ)と、
何れも農業に深い関わりを持つ神々が刻まれています。


この「青面金剛」像は、290年近く経っているとは思えないほど保存状態が良いものです。
「講中拾三人 印旛郡公津新田村」と記されています。
六臂の像で上右手には三叉、下右手には仏具の棒、上左手には法輪、下左手にショケラ
(三尸虫=サンシのムシを象徴する半裸の女人像)を持ち、中央の二臂は合掌して、足許
の左右に鶏、邪鬼を踏みつけ、台座には三猿が配されている、正統な(?)像形です。

「二十三夜講中十二人」とあるこの月待塔には、「勢至菩薩」が刻まれています。

鰹木は3本、千木は垂直切り
神社名鑑には、
「祭神 稚産霊神(わかむすびのかみ)、本殿・流造〇.二五坪、境内坪数二六〇坪、氏子
一五戸、 宮司 欠員」と記載されています。
稚産霊神の「ワク」または「ワカ」は若々しいことを表し、「ムスビ」は生成の意味を持つので、
穀物の育成を司る神ということになります。



古い地図で米野の「麻賀多神社」を探してみました。
1967(昭和42年)の手書きの地図(「成田市動態図鑑」)には、「麻賀多神社」は現在の
場所より大分西方に書かれていました。
手書きのため位置関係が曖昧ですが、明らかに違う場所です。
そして、1985(昭和60年)のゼンリン地図には、現在の場所に神社名は無いものの神社
マークが書き込まれ、「成田市動態図鑑」にあった場所には神社は見当たりませんでした。
神社マークの周辺は「造成中」と書かれていて、「郵便局通り」は完成していません。
どうやら、米野にあった「麻賀多神社」は、昭和60年より少し前に、米野から隣の中台へ
移転したようです。
隣接地とは言え、境内にある「米野集会所」とともに、「中台」に鎮座する「稚産霊命」の
居心地は、いかがなものなのでしょうか?

※ 米野の「麻賀多神社」 成田市中台4-26

「妻恋稲荷神社」は郷部大橋から成田市体育館に向かう道筋にあります。


鳥居と社号標は昭和59年に奉納されたものです。
鳥居は柱、笠木、貫の全てが円柱形のシンプルな神明鳥居です。


この「妻恋稲荷神社」については、「成田市宗教法人名簿」にも記載がなく、ネット上の
神社リストにも名前が見つかりません。
試しに「妻恋」を外して「稲荷神社」で調べても、郷部にある神社としては、「埴生神社」と
「土師神社」の二社のみで、「稲荷神社」はありません。
後述のように、この神社の鳥居、社号標、手水盤等に昭和59年の銘が入っています。
この年は道路を挟んで建つ「成田市体育館」が完成し、周辺の運動公園が整備されました。


裏手は小橋川の河川敷とJRの線路で、相当な高低差があり、周りに人家はありません。
この場所にわざわざ新しく神社を造るのは、何となく不自然に思えます。

創建、由来等、何も分からないので、手掛かりを探してみました。
わずかに以下の2ヶ所で郷部の「稲荷神社」についての記述を見つかりました。
「稲荷神社 中央ヨリ未ノ方字加良部ニ有リ、境内百十坪、祭神倉稲魂命。」
(「成田市史 近代編史料集一」中の明治十七年編「下埴生郡郷部村誌」 P43)
「五穀の神といわれる稲荷神社を祀る村は数多く、八代・飯仲・山口・押畑・下福田・長沼・
成毛・赤荻・西吉倉の九か村が鎮守とし、それ以外に取香・長田・郷部・成田・荒海・成木
新田・寺台など十数か村にも祀られている。」 (「成田市史 中世・近世編」 P804)
このことから、「郷部村」には「妻恋稲荷神社」は無いが、「稲荷神社」は存在していたことが
分かります。
次に、図書館で閲覧することができる成田市の地図で、一番古い「千葉県成田市動態図鑑」
(昭和42年)を調べてみましたが、郷部地区に稲荷神社は記載されていませでした。
一方、「ゼンリン地図・成田」の一番古い昭和59年版には、「妻恋稲荷」として現在地に記載
がありました。

気になるのは、明治十七年の「郷部村誌」にあった、 「中央ヨリ未ノ方字加良部ニ有リ」
の部分です。
加良部は郷部からは中台を挟んだ西方にあります。
ニュータウンの開発に伴い、この地区一帯が整備された時期に加良部から現在地へ移されて
きたのではないか、と想像しました。
しかし、「郷部村誌」には、村内の「加良部」に神社があると書いています。
成田の字(あざ)を詳しく調べると、次のようなことが分かりました。
現在の「加良部」は昭和46年に、郷部、米野、台方、江弁須、成田、飯田、江弁須のそれぞれ
の一部を統合して作られた字で、地名は郷部の字であった加良部から採用したようです。
明治十七年の時点では、現在の加良部のどこかに「稲荷神社」があり、そこは当時の郷部村
の小字だったということなのではないでしょうか。
そして、こんなことも見つけました。
「成田市の文化財 第34集(平成14年版)」に「消えた小字」の項があり、そこに郷部の消えた
小字として「加良部」の名前が載っていました。
昭和46年に、ニュータウンの区域・字名の変更を行った時のことでした。
五穀豊穣を祈願する稲荷神社は地域に密着した存在ですから、神社があった場所が他の字に
編入されるとなれば、もともとの残った字に移すのが自然です。
昭和46年頃に、郷部の小字・加良部にあった「稲荷神社」が、現在地に移設されたというのが、
私の勝手な推測です。

それでも、“なぜ「妻恋稲荷神社」となったのか”については分かりません。
(推測が的外れで、全く違う事実が見つかるかもしれませんが、その時はお知らせします。)


手水鉢も昭和59年のものです。



キツネの台座にも昭和59年と記されていますが、上に坐るキツネの像はちょっと古そうです。
補修の跡も目立ちますので、このキツネは元の稲荷神社から持ってきたものでしょう。


昭和62年の「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)に、
「稲荷神社 成田市郷部七九〇 祭神・倉稲魂之命 境内坪数二〇〇坪」
とあるのを見つけました。
地図で調べてもこの地番は出てきませんが、周りの地番からほぼ現在地だと思われます。
さらにネット上の情報に、中台5の3に稲荷神社があるとするリストも見つけました。
中台には神社はありませんが、該当する地番は郷部790との境界線あたりになります。
郷部790も中台5-3も地図上には表示がなく、だいたいこの辺りと推測するだけです。
図書館のレファレンス・サービスでも、この神社に関する疑問は解けませんでした。
とりあえず、「稲荷神社」としては消化不良ながらも推論を立てることができましたが、「妻恋」
については不明のままです。
東京・湯島にある「妻恋稲荷神社」のご祭神は、「弟橘姫命」と「日本武尊」で、「倉稲魂之命」
が合祀されています。
もし、この「妻恋稲荷神社」からの分祀であるとすれば、境内に何か説明があっても良いので
は、と思うのですが・・・。
「妻恋」などとロマンチックな名前が付いている由来を何とか知りたいものです。
何かご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ともご一報いただきたいと思います。

※ 「妻恋稲荷神社」 成田市郷部790
「成田市史・近代編史料集一」(昭和47年 成田市史編さん委員会)に収録されている
明治19年の「町村誌料」には、芦田について、
「伝ニ云。中昔千葉家臣芦田五郎ト云シ者本村エ居住シ、村名ヲ芦田村ト改称セリ。」
と書かれていますが、佐倉藩や淀藩に属した後、明治になって芦田村となり、昭和29年に
成田市に編入されました。
芦田は昭和63年時点での人口が683人でしたが、平成22年には166人と急速に
過疎化が進んでいます。(「成田の地名と歴史」平成23年 成田市発行 P65)


芦田の「八幡神社」の脇に、山を下って行く細道があります。
鬱蒼とした森の中に続く道は薄暗く、入って行くにはちょっと勇気が要ります。
芦田の八幡神社 ☜ ここをクリック

道は荒れ果てて、そこここに竹や杉の木が倒れています。
人が通ることはほとんど無い感じで、枯葉が路面を覆っています。

倒木をまたいだり、くぐったりして、500メートルも進んだでしょうか、突然視界が開けて、
小さなお社が現れました。
正月に飾られたのでしょうか、まだそれほど傷んでいない注連縄が飾られています。

消えかけた神額には「妙見社」と書かれているようです。


この一帯はその昔、千葉一族の大須賀氏の勢力圏でした。
屋根につけられた九曜紋は、その大須賀氏の紋です。
以前に訪ねた伊能の寶應寺には、堂々たる九曜紋が掲げられていました。
寶應寺 ☜ ここをクリック



四隅には地味ながらしっかりとした彫刻があります。

前述の「成田市史・近代編史料集一」に、芦田村の「妙見社」に関する記述を見つけました。
妙見社
所在 字臺 坪數 百八坪
祭神 天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)
社格 無格社
創建年月日 不詳
祭日 舊暦十一月八日ヲ用ユ。
氏子 芦田村
末社 ○
祠官澤田總右衛門
雑項 ○
天御中主命は、天地開闢の時に高天原に最初に出現した造化三神の内の一神です。
造化三神とは、「天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)」、「高皇産霊神(たかみむすびの
かみ)」、「神皇産霊神(かみむすびのかみ)」を指しますが、「天御中主神」は天地開闢
以降、「古事記」にも「日本書記」にもプッツリと登場しなくなります。
自然に忘れられた神となっていましたが、鎌倉時代以降に天地を支配する「最高神」として
信仰されるようになり、江戸時代に入るとその信仰は全国津々浦々に広まって行きました。
北の空にあって常に動かない「北極星」を宇宙の中心ととらえる道教の思想が、仏教では
「妙見菩薩」となり、神道では「天御中主神」となりました。
なお、祠官澤田總右衛門とありますが、この人物は当時芦田村の全ての神社、すなわち、
八幡神社(字・臺)、妙見社(字・臺)、愛宕神社(字・海老川)、愛宕神社(字・臺)の四社の
祠官として、名前が出てきます。
また、明治19年当時の芦田村の状況については、次のような資料が残されています。
○ 戸数は、士族が2戸、平民が91戸、計93戸
○ 人口は、士族が5名(戸主2名、家族3名)、平民が470名(戸主91名、家族391名)
○ 戸主93名の内、男性は91名、女性は2名
○ 家族394名の内、男性は177名、女性は217名
20歳未満は149名で全人口の31%、50歳以上は113名で23%となっています。
少子高齢化と過疎化が進む現在とは違い、民力の伸長する時代を反映した人口構成ですね。


ここから先は道はありません。
荒れた山が続いています。
この道は「妙見社」にお参りするためだけの道のようです。

・・・・・・・・・・・・


山中にひっそりと佇む「妙見社」の周りには、ただ静寂があるばかりです。
時折、上空を飛ぶ旅客機の轟音が、その静寂な空気を揺らします。
お社以外に何もない空間ですが、私のようなひねくれ者にはなかなか気持ちの良い場所です。

※ 「妙見社」 成田市芦田
以前紹介した「芦田の八幡神社」から徒歩約5分
前回訪ねた「自性院」で見た「十三仏」のつながりで、「芦田の十三仏」を探しました。

土室街道の「芦田入口」バス停の傍に「芦田入口」と書かれた標識が立っています。
芦田の「八幡神社」を過ぎ、さらに曲がりくねった芦田の細い山道を進むと突然右手に
石仏群が現れます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


頭の欠けた石仏には、新たにどこかで見たようなお顔が乗っています。

ここは芦田の共同利用施設になっています。
道から見えた石仏群は、施設への階段に沿って並んでいます。

共同利用施設の左手に祠が2つ。
埃にまみれた仏様


祠の中には新旧入り混じっていろいろなものが入っています。

傍にはたくさんの石仏が無造作に置かれています。

寛政十二年(1800年)の子安観音。
十五夜講と刻まれています。

この石仏は風化と損傷が激しく、上部が欠損しているため紀年銘が読み取れません。
なんとか「●暦(?)三癸酉七月」と読めたような気がします。
とすると、年号は明暦か宝暦だと考えられます。
明暦三年(1657年)は丁酉、宝暦三年(1753年)は癸酉ですから、読み方を間違えて
いなければこの石仏は宝暦三年のもの、ということになります。

この板碑には種子のようなものが彫られているように見えますが、風化ではっきりとは
分かりません。



一番奥にある祠には、古い仏像や奉納物が詰め込まれ、物置のような状態です。

共同利用施設の裏手に回ると、置き忘れられたような小さな墓地があります。
ここは昔、天台宗の「証明寺」というお寺があった場所で、明治の初めにお寺が廃寺に
なった後、お墓だけが取り残されたのでしょう。
宝永、明和、文化、文政などの古い墓石の中に、比較的新しい昭和2年の墓石がある
ので、墓地としてはしばらくの間利用されていたようです。

墓石の中に紛れるように十三仏がありました。


「西国」「秩父」「坂東」「百番」などと刻まれた中に、「先祖代々供羪塔」の文字も見えます。
寛政四年(1792年)の紀年銘があります。
一番上には、他の像より一段大きい「如意輪観音」が彫られています。
「芦田の十三仏」と呼ばれてはいますが、「十三仏」は前回の「自性院」の項にあるように、
不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・ 地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・
勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩ですから、明らかに違いますね。
小泉の自性院と十三仏 ⇒




これは「十三仏」ではなく、富里市の高野にあるものと同じ「六観音六地蔵」ですね。
六観音は、千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、准提観音(天台宗
では不空羂索)で、六地蔵は、檀陀菩薩、宝珠菩薩、宝印菩薩、持地菩薩、除蓋障菩薩、
日光菩薩となります。
それぞれの像は簡略化されていますので、分かりにくいのですが、一列目の「馬頭観音」
や「十一面観音」などは分かります。
人々がその「業(ごう)」によって六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)
を輪廻する苦しみから救済するために、六道に六観音と六地蔵を配したものです。
「成田の史跡散歩」の小倉 博氏は、ここが天台宗の寺院の跡であることから、「六観音に
不空羂索観音を加えて七観音にしたのではないか」と推測されています。
つまり、この石塔は「七観音六地蔵」と言うわけです。

ここに「証明寺」があったのでしょうか。
墓地の先には草地が広がっています。
「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院表」に、「天台宗 芦田村 証明寺
本寺は西和泉村城固寺 明治初年廃寺」の一行がありました。
寺が無くなってからそろそろ150年、取り残された石仏や墓石はどんな思いでこの時間を
過ごしてきたのでしょうか・・・。

※ 「証明寺跡(七観音六地蔵)」 成田市芦田1562
成田市コミュニティバス大室循環コース(赤萩経由)
芦田入口下車徒歩約 30分 駐車スペース有
(道が狭いため車は注意して走行してください)
この一年間、多古の中村にある「日本寺」を基点として江戸まで続く里程標の一番目、
「染井の一里塚」を探していました。
地図には載っていませんし、折につけ染井のあたりを探していましたが見つかりません。
半ばあきらめかけていたところ、偶然多古コミュニティプラザ内の図書室の奥で見つけた
「多古町史」の中に、僅かな記載があることに気づきました。
去年の5月に偶然見つけた「三里塚」も忘れられた存在でした。

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「三里塚」は幹線道路から外れた住宅地の中で辛うじて生き残っていましたが、それでも
遠くから見える二本の大木がその存在を主張するように立っていました。
三里塚街道を往く(その参 三里塚交差点界隈) ⇒

これがやっと見つけた「一里塚」です。
小さな木の鳥居があり、小石が積まれています。


50センチほどの今にも崩れそうな小さな祠です。
これがかつて道往く人々に行程を知らせていた「一里塚」とはとても思えません。
「多古町史上巻」(昭和60年多古町史編さん委員会)の329ページにこんな記述があります。
「佐倉を経て江戸へ至る江戸道に沿って、染井に一里塚、芝山町白枡に二里塚、成田
に三里塚があった。四里目は四の字を避けて法華塚といい遠山村(成田市)にあった。
染井の一里塚は現在、その名残の道祖神が国道二九六号線交差点付近の畑の中に
祀られている。このあたり元は台地縁辺部であって、道路工事のため掘り崩し原状を
とどめていないが、一里塚はその縁辺部にあったのである。
この一里塚の基点は南中の日本寺であるとか、松崎神社であるともいわれている。
里程からいえば日本寺説が有力であるが、なぜ日本寺を基点としたか、だれがそれを
制定したのかは明らかでない。」
基点とされる日本寺


関東三大檀林日本寺 ⇒


すぐ上を国道296号線が走っていますが、この位置と場所では気づく人はいません。

「多古町史下巻」にも一里塚に関わる資料を見つけました。(P746)
文化三年(1806年)に俳人の飛鳥園一叟が記した文です。(■は判読不能個所)
「染井なる里に醇醤を販て、風雅の店舎あり。さながら猩々も待ねば遷■をも畜はず、前には
纓濯ふ難き流を構へ、三笑の徒も渡るべき橋を懸て、更に欲界にそまらず、只恵みを天に
まかせて、福いを私に願はざりけり。
さて武蔵野や■に名高き花の都へ往き来る■の旅客は、貴となく賎となく僧俗風人酒中の
仙も此処に憩ふて飽く迠に楽み、春は遠山の枕なし雲に雨運ぶかと■き、秋は洗染の紅葉
に■き目を疑ふ。遙に七村八村の山邑の美景は、いづれの工も刻りなしがたく。画工も筆を
投難しと眺望して麻の脚半に刻を移すとかや。
されば彼村々あるが中に東台てふ処の水月庵のあるじ俳地の利を考て、此酒家に月毎文台
の席を設、遠近の風君群参して終日滑稽を詠吟す。幸なるかな酒舎の傍にさくらを栽し一塚
あり。いにしむかしより往還の一里塚にして一と木の花今に春を忘れず。斯栄の久しければ、
其まゝに酒軒を名付て一櫻舎と呼事になりけらし。」
今では想像できない、なかなか景色の良い所であったようです。
多分、昔の「一里塚」はもう少し大きく、目印の木なども植えられた「塚」であったのでしょう。
春には近隣の住民が桜の下で酒宴をひらくような、風流な場所でもあったようです。
田畑の開墾や道路の整備によってこの場所に追いやられ、やがて忘れられて行ったのだと
思います。

やっと見つけた嬉しさと、この景色の寂しさに複雑な思いが交差する「染井の一里塚」でした。


室町時代の宝徳年間(1449~52)の創建で、真言宗豊山派のお寺です。
現在は本堂は無く、この観音堂だけが残っています。
説明板には次のように書かれています。
「この周辺は平安時代の和名抄に「埴生郡玉作郷」とある歴史上古い土地である。
当山も宝徳年間創建と伝えられこのお堂も宝徳寺伽藍の一棟で貞享元年(一、六八四)
住持照栄和尚の発願により近江国坂田郡柏原吉田又左衛門家次設計によるもので
成田山光明堂も同人の設計である。 堂宇は六角四面造りで珍しい六柱造りであるため
一名六角堂と呼ばれ県内でも数例しかなく建築史上注目に値する建造物である。
御本尊は銅造聖如意輪観音像で三百余年の今日も安産子育、の観音様と言われて
諸人の崇敬を集めております。」

この2つの祠には万人講と書かれています。

細い参道の入り口に立つお地蔵様には「奉造立念佛供養」と刻まれています。
他にも文字が刻まれていますが、判別できません。
凛とした立ち姿です。
『観音堂の前に地蔵菩薩を刻んだ石仏が立っている。寛文九年(一六六九)十月の造立で、
「奉造立念仏供養」の銘がある。造立者は八代村の念仏講であるが、石仏としては成田市内
最古のものと思われる。』
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P140)

ヤツデの葉に覆われた手水盤には元文五年(1740年)と刻まれています。
参道の左手に3基の板碑が並んでいます。

「三十三年目供養 聖如意輪観音菩薩」の板碑には明治37年と記されています。

明治18年の「普門品供養塔」。

上部に種字を刻んだ「先祖代々供養塔」は明治23年のものです。

3基の板碑の後ろには沢山の石仏が並んでいます。

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享保、寛保、宝暦、安永、天明などの年号が読めます。
どれもとても味わいのあるお姿です。


不思議な言い伝えがある「木隠れ観音」の大木です。
説明板にはこうあります。
「この古木に包まれた石佛は「木隠れ観音」と呼ばれ「この観音様が見えなくなる時この
土地は発展する」と言い伝えられて来ましたが当時は山林と畑に囲まれた淋しい処で
誰も夢想だにしませんでした。 然し今この言い伝えが現実のものとなり周辺が市街化
するを見るにつけ先人の残された言い伝えの中に子孫への期待感と未来への願望を
見る思いがします。 刻々と移り行く人生の中で正しい信仰を持ち先人・古老の教えを
大切にしこの伝承を子孫に伝えて行き度いと念じております。 宝徳寺 照文 敬白 」
もう観音像は見えません。
古木の幹に包み込まれてしまったのでしょうか。
昭和40年ごろまでは幹に空いた小さな穴から台座のような石が見えたそうです。

石灯篭の形も六角の観音堂。
ピカピカで出来たてのようです。
実はもともとあった観音堂は平成23年8月に不審火により焼失してしまったのです。
茅葺の美しい姿はもう見ることができません。
つい最近再建されたのがこの観音堂。
以前のものとは形も少々違っていますが、これはこれで見事な建造物です。
しかし、歴史の重みが感じられない分、ちょっと趣が足りません。
木隠れ観音の古木は焼け残り、説明板も火災以前のものです。
古木の中に隠れた観音様が、火事で再び現れなくて良かったですね。



観音堂の火災に関する多くの記事を読みましたが、ご本尊の行方が分かりません。
焼失してしまったのでしょうか?
火災に遭う前の記事に「立派な厨子の中に安置され~」とありましたが・・・

失礼して中を覗かせていただきましたが、厨子らしきものも見えません。
ご本尊が失われてしまったので、説明板も書き直さないままになっているのでしょうか?

お堂の左手奥に、いずれも「権大僧都~」と読める墓石らしきものがあります。
左手は享保七年(1722年)と読めました。
右手は正徳六年(1716年)と読みましたが、ちょっと自信がありません。
風化で読みにくく、正徳六年は年の途中で享保に年号が代わっているからです。


住宅地の中にこんな空間があるのはとても良いことですね。
昔の写真を見ると、お堂は鬱蒼とした木々に囲まれていましたが、防災上の配慮
からか、現在は周りから見渡せるようになっています。
真新しいこのお堂が、年月を重ねて趣のある姿になるのを見るのは、
何世代後の人たちなのでしょうか?

※ 「宝徳寺観音堂(六角堂)」 成田市玉造3-9
JR成田駅西口より千葉交通バス中央通り線成田湯川行き
玉造中学下車 徒歩3分