前回の「大戸神社」の近くにあります。


「地福寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「大戸山」。
ご本尊は「地蔵菩薩」です。
深くえぐれた谷のような場所にあるので、道路からは何も見えません。


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曲がりくねった急さかを下りた、境内の入り口に並ぶ石仏群。
13基の内4基が月待塔で、他は戒名のようなものが刻まれていますので、もともとは墓石
だったもののようです。

石仏群の傍らには「六地蔵」が並んでいます。
左端は安永年間(1772~78)、その隣は年代不明、次は天明元年(1781)、安永年間、
年代不明と続き、右端は安永六年(1777)のものです。
仏教では、あらゆる命は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道の間を生まれ
変わりながらさまよい続ける、という「六道輪廻」の考え方があります。
そしてそれぞれの道に衆生救済のために檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の六地蔵が
配されています。
こうしたことから、墓地の入り口などに「六地蔵」が置かれることが多いようです。

吉倉・てらだい道の墓地




全ての地蔵の頭部が落とされています。
ここにも廃仏毀釈の傷跡が・・・。
落とされた頭を付け直したもの、間に合わせの頭を載せたもの・・・。
壊した人たちも、直した人たちも同じ村人だったはずです。

地蔵堂の中には、子供を抱き、足下にも子供がすがりつく、地蔵菩薩像があります。
「地蔵菩薩」は、釈迦が入滅した後、五十六億七千万年後に「弥勒菩薩」が現れるまでの間、
現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされ
ますが、特に子供の守護尊とされています。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないとされています。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なのです。
これは、賽の河原で鬼にいじめられる子供達を守る「地蔵菩薩」の姿で、「子安地蔵」とも
呼ばれています。



「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には、「地福寺」について次のように書かれています。
「大戸山地福寺 東大戸村大字大戸字寺作に在り域内九百二十坪臨濟宗にして地蔵菩薩を
本尊とす寺傳に曰く僧方外宏遠なるもの開山たり天正中兵亂の為め燒失せるを以て由緒詳
らかならず寺寶には佛畫幅二十餘幀佛像十三體あり就中觀音藥師空海の三像は尤も信者
の歸依する所なりと」

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本堂の横に回ってガラス窓越しに中を覗くと、欄間に不思議な文様が並んでいます。
菊紋や源氏車紋のような感じですが、何か宗教的な意味があるものなのでしょう。


「六地蔵」と背中合わせに観音堂があり、「戸ノ峰観世音」と掲額に書かれています。
由緒等については全く分かりません。



お堂の中には全体が黒い「聖観音菩薩立像」が安置されています。
宝冠の阿弥陀如来の化仏や白毫、瓔珞、臂釧、腕釧の金色がアクセントになっています。

大勢の女性が観音様を拝んでいる絵馬が架かっています。
この図はどこかで見たことがあります。
思い出しました。
2年前に訪ねた、中里の「楽満寺」の本堂に架かっていた「女人観音拝み絵馬」です。

静けさが寺の始まり~楽満寺 ☜ ここをクリック

観音堂の前には欠けた板碑が散乱しています。

鞘堂の中にたくさんの板碑が並べられています。
説明板には、
『千葉県指定有形文化財
板碑(正元元年九月在銘) 1基 板碑(正元元年十月廿五日在銘) 1基
2基とも佐原市、香取郡を中心に分布する黒雲母片岩の下総型板碑です。板状の石の頭部
を山形に整形し、上部に二条線、中央連座の上に金剛界大日如来をあらわす種子、その上
に天蓋を刻んでいます。銘文中に「正元元年(1259年)とあり、製作年代の明らかな下総型
板碑としては最も古いものです。』
と書かれています。

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750年以上も前の、しかも、下総型板碑としては製作年代がはっきりしている最古の板碑の
保管場所としては、少々寂しい気がします。

裏山の中腹に三基の祠が見えています。
祠への道はありません。

気にはなりますが、登るのをあきらめて本堂前に戻り、「沿革の碑」を読んだところ、
「幕末に天満宮を祭祀し学問所を開設す」 とありました。
もしかするとあの祠はここに記されている「天満宮」かもしれないと思い、もう一度引き返し
て、斜面を登ることにしました。



風化が進んでいますが、左端の祠にかすかに「天満宮」の文字が見えました。
お決まりの梅鉢紋も刻まれています。
登った甲斐はありました。

境内の片隅に二基の石碑がありました。
右は墓石のようで、宝永、享保、安永等の年号と、戒名がビッシリと刻まれています。
左の碑文は所々で 「・・藥師護摩供・・天下泰平国土安全・・・」 などと読めますので、
何かの祈願碑のようです。


薄暗い坂道が上の道路へと延びています。
今では反対側から下りる舗装された道を利用するのか、人が通っている形跡はありません。

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鬼瓦が徳川氏の「三つ葉葵紋」になっています。
本堂は江戸末期のものですが、前述の「沿革の碑」に、
「慶長年間に堂宇を再建」「爾来徳川氏代々の祈願所」 とあるように、徳川氏との
強いつながりがあったようです。

境内から少し下がった場所に墓地があります。
墓石はどれも比較的新しいものです。

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奥に進むと古い墓石がたくさん現れました。
寛永、明暦、寛文、元禄、享保などの古い元号が多く見られます。
一番奥には住職等の僧侶の卵塔が並んでいます。


「沿革の碑」には、ご本尊は「延命地蔵菩薩」であると記されています。
延命・利生を誓願する地蔵菩薩を「延命地蔵」と呼びますが、地蔵菩薩の多くの功徳・利益
から、「身代わり地蔵」、「とげ抜き地蔵」、「子安地蔵」、「水子地蔵」のように、民衆が信仰の
中で生み出してきた地蔵尊の一つです。
「佐原市史」(昭和41年)には、ただ一行ですが、この寺を「鎌倉中期の創建」と記しています。
境内には歴史を感じさせるような石造物が少ないような気がしますが、おおよそ780年から
740年の時の流れがここにはあるわけです。

※ 「地福寺」 香取市大戸594
攝社(せっしゃ)とは、
「本社と末社の間に位し、本社の祭神にかかわりをもつ神などを祭った神社。」 (歴史民俗
用語辞典 日外アソシエーツ)のことです。

「十二代 景行天皇40年(111年)日本武尊東征の時、蝦夷征討祈願のため勧請。現在
の香取市大戸の地に遷座し、幾度かの遷宮の後、三十六代 孝徳天皇白雉元年(650年)
現在地に宮柱造営されました。」
大戸神社のホームページにある「由緒」の項はこのように始まっています。
1900年以上前に勧請され、現在地に鎮座してから1370年近く経っているという、圧倒され
るような長い歴史を持った神社です。
また、「香取神宮志」(昭和13年)には、香取神宮の攝社の一つとして、
『大戸神社 香取郡東大戸村にあり、社家傳説に「天武天皇ノ白鳳年中建ニ此社一、所レ祭
手力雄神也」とあり、或云磐筒男神磐筒女神即ち經津主命の御親神を祭ると。』
と「大戸神社」について記述されています。
天武天皇の在位は673~686年ですから、ホームページの記述よりだいたい570年ほど後
のことになりますが、それでも約1340年前です。
ご祭神の「手力男神 (タヂカラオノカミ)」は、「天手力男神(アメノタヂカラオノカミ)とも呼ばれ、
天の岩屋戸に隠れた天照大神を、岩戸を開いて手を取って引き出した怪力の神です。
「香取神宮志」にある 「或云磐筒男神磐筒女神即ち經津主命の御親神を祭ると」 の部分は、
本稿の冒頭にある香取神宮の攝社の定義からすれば納得できます。
ただ、「磐筒男神(イワツツノオノカミ)」と「磐筒女神(イワツツノメノカミ)」の二柱に関しては、
「大戸神社」のホームページや配布されている由緒書きにも現れません。

この御神燈の年代は不明ですが、基礎の地輪の部分に亀が彫られています。
各部の石質が異なりますので、何回も補修していることが分かります。

鳥居の手前にある手水舎の手水盤には、「元禄十四辛巳」と刻まれています。
元禄十四年は西暦1701年で、江戸城内の松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介
に切りかかる事件を起こしました。

手水舎横にある社号標は昭和62年のものです。

手前の大きな灯籠は平成15年、後ろの小さなものは平成7年の寄進です。

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千葉県指定有形文化財の説明板
(上) 大戸神社和鏡
松喰鶴鏡(鎌倉時代)、素円紐蓬莱鏡(鎌倉時代)、花亀甲亀蓬莱鏡(室町時代)の三面で、
この種の鏡としては大型で文様も鮮明な優れた作品です。
(下)
羅龍王面(らりょうおうめん)
舞楽に用いる面で、内側に嘉歴二年(1327)の紀年銘(この年の干支は丁卯ですが、翌年
の戊辰となっているそうです)があります。
このお面に水を注ぐと雨が降るという言い伝えがあり、雨乞いの面としても知られています。
納曽利面(なそりめん)
舞楽に用いられる面で、羅龍王面と同じ鎌倉時代末の作品とされています。
蒙古来襲の時、鎌倉幕府の武将が奉納したものと言われています。
「日本社寺大觀 神社編」(昭和45年)には、「大戸神社」の宝物についてこう書かれています。
「所藏の寶物は社記によれば、籠目太刀(北條時政奉納)・古面四枚(羅龍王面二、納曾利面
二、旱魃の際、請雨塚なる地にて此面に三度水を注げば雨降るといふ。)禁制狀(浅野彈正少
弼、木村常陸介花押)・折紙三葉(佐藤忠行、庄司信平、陸奥六郎連署)・太刀二口(佐藤忠信
奉納)等あり。」
これらの宝物は、境内の右奥にある「宝物殿」に納められているのでしょうか?

「宝物殿」は高床式建築で、瓦葺きのしっかりした建物です。

「大戸神社改装記念之碑」(昭和36年)。
社殿は、白雉元年(650)に現在の地に遷座して以来、正応二年(1289)、明徳四年(1393)、
寛文四年(1664)と改築を重ね、宝永四年(1707)の改築が現在の社殿となっています。
その後、大正五年(1916)、昭和36年に改修が行われ、この記念碑はその時のものです。

境内の右手にあるスダジイの古木。


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「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。
「祭神 天手力雄命(あめのたぢからおのみこと) 本殿・銅板葺神明造六坪、弊殿・銅板葺
破風造六坪、拝殿・銅板葺入母屋造一六.五坪 新館・銅板葺方形造二六坪、旧館・同一五
坪 境内一、五七七坪 氏子三、〇〇〇戸」
「景行天皇の御宇、日本武尊が東夷御征討のとき勧請、宮柱造営。その後天武・伏見・霊元
各天皇のとき社殿の改築をし、伏見・後小松両帝より社領一万貫の御寄進があった。その後
源家・北条家・豊臣家・千葉家等の武将の崇敬が厚く、御宝物、寄進状その他がある。徳川
家よりは社領一〇〇石を寄せられ、明治六年県社に列せられた。 香取神宮の攝社で氏子は
佐原市・大栄・大栄・栗源各町、茨城県東村に及ぶ。」

氏子が3000戸と言われるだけあって、境内右手には立派な「氏子会館」が建っています。


拝殿正面に掲げられている神額には「大戸神宮」と書かれています。

拝殿の中には色鮮やかな掲額が見えます。
どうやら有名な「天岩戸(あまのいわと)」の物語のようです。
右端に描かれているのは「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、横に立って岩を掴んでいるのが
この神社のご祭神である「天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)」、そして中央で「天宇受賣命
(アメノウズメノミコト)」が踊っています。

こちらは大きく迫力のある鬼面の掲額です。


拝殿前の御神燈は昭和25年の寄進で、中台の部分には龍が彫られています。
境内左手に並ぶ二基の石碑は、風化もあって刻まれている文字が読めません。

年代不明・神門改造之碑


本殿は見事な彫刻で飾られています。
「大戸神社」のホームページには、
「そして、平成15年(2003年)、神幸祭の記念事業として本殿・拝殿の彩色塗装および、一部
補修、神輿修復、玉垣屋根の総銅板葺等々が全て完了致しました。」
と書かれています。
鮮やかな彩色は十年ほど前に修復塗装が行われたためです。


本殿左壁面の装飾。


本殿右壁面の装飾。
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脇障子にも色鮮やかな彫刻が施されています。
何かの故事に題材を求めたのでしょうか、楽しげに語らう二組の人物が描かれています。

鰹木は七本、千木は垂直切りで男神を祭っていることを表しています。

境内の裏手からも出入りができるようになっていて、ここにも手水舎が置かれています。

通りを挟んで三基の記念碑が建っています。
左から、陸軍大臣・林銑十郎書の「従軍記念碑」、「忠魂碑」、乃木希典書の「明治卅七八年
戦役紀念碑」で、いずれも明治三十九年(1906)の建立です。

記念碑側からは本殿の裏側と手水舎が見えます。
境内の裏手にも多くのお社や祠などがあります。


二本の大杉の根元がつながっている「夫婦杉」。
根元にはお社と灯籠、そして「道しるべ」と刻まれた四角柱があります。
四角柱の左右の側面には、「一笑一若一怒一老」と「日日是好(幸)日」と刻まれています。


大正八年(1919)


二基の子安観音を祀る「子安堂」。
左の子安観音像の陰に、破損して赤子と観音の足だけが残る子安像が転がっています。
壊れたのか、壊されたのか・・・無残な姿です。

手前の祠には「大六天王」と書かれています。(奥は「稲荷大明神)
これは「大六天神社」または「第六天神社」です。
「第六天魔王」を祀る神社が「第六天神社」ですが、神仏習合の神社であったため、明治政府
によって神仏分離令が出された際に、多くの神社が「第六」という社名の連想(?)から、神世
七代における第六代神である、面足命(オモダルノミコト)と惶根命(アヤカシコネニミコト)に
ご祭神を変更しました。
「第六天魔王」とはあまり聞き慣れない名前です。
仏教には六道(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界)という世界観があります。
最上位の天上界も「欲天」「初禅天」「二禅天」「三禅天」「四禅天」「無色天」に分かれていて、
最下位の「欲天」は「人間界」に近いため、未だ欲望に縛られている状態にあります。
「欲天」の世界も「四大王衆天」「忉利天」「夜摩天」「兜率天」「楽変化天」「他化自在天」に
分かれているとされています。
「他化自在天」は「欲天」の最上位(第六天)で、“他者が仏によって教え導かれ、救済され、
悟ること(教化)”を奪い取ってしまう、つまり仏道修行を妨げる「天魔」である「第六天魔王」
の世界であると言われます。
このような「魔王」をなぜ祀ったのかは分かりませんが、災いをなすものを丁寧に祀ることで
災いを防ぐ、または「福」に変えようとすることは、よくあることです。
また、日蓮宗では修行者を法華経からあえて遠ざけることで、さらなる信心を重ねるきっかけ
となる、ありがたい仏の一人とされています。
織田信長が武田信玄との書状のやりとりの中で、信玄が「天台座主沙門」と自らを称したこと
に対抗して「第六天魔王」と名乗ったことは、歴史好きの方ならご存じでしょう。


明治二十九年(1896)建立の「琴平大神」。
ちょっと離れて置かれている手水盤は大正十三年(1924)のものです。


雑草の中に建つ木製の靖国鳥居の先には、向き合う二社の「神明宮」があります。

この碑には、崩し字で「天満宮」と記されているような気がしますが、自信はありません。
「慶応乙丑年」と読めますので慶応元年(1865)の建立です。

境内の一番奥にはたくさんの祠が並んでいます。

天保九年(1838)の「白山大権現」

宝暦七年(1757)の「道祖神」。

宝暦十一年(1761)の「疱瘡神」。

昭和39年の「三峯神社」

昭和32年の「伊勢大社」
この他にも社名不明、年代不明の祠がたくさん並んでいます。

境内の左手にある「神輿奉安殿」。
中に納められている神輿は元禄十五年(1702)に造られたものです。

境内の真ん中に参道に食い込むように立っている杉の大木があります。

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注連縄や説明板はありませんが、その圧倒的な存在感から、ご神木ではないかと思います。


「東大戸村大戸區字宮本に在り域内千三百二十七坪手力雄命を祀り天照大神手栲幡姫命を
相殿とす祭日三月中午日雑祭一年の間四十五度社傳に曰ふ日本武尊東征の時之を大内臺
本社を距る三町餘に勧請し白鳳二年更に今の地に再榮す或は曰く大戸社は天鳥船命を祀れる
ものなりと其據を知らず中世武家紛爭の時に際し文書等兵亂に罹り散逸するもの多し」
「千葉縣香取郡誌」の「大戸神社」の項は、こう書き出しています。
ご祭神や由緒に関する諸説が出るのは歴史ある神社にはつきものですが、いずれも兵乱
や火災等によって記録が消失し、伝承に頼らざるを得なくなるためです。
「大戸神社」もその例外ではありませんが、伝承の真偽を諮るまでもなく、その長い歴史の
持つ重みのようなものが、全ての説を納得させてしまうような気がします。

※ 『大戸神社」 香取市大戸520
下金山の「若王神社」(じゃくおうじんじゃ)を訪ねます。

前回に訪問した「七星神社」と同じく珍しい社号のようで、ネットでやっと二社を見つけました。
岐阜県中津川市と、岡山県津山市の「若王神社」は、「にゃくおうじんじゃ」と呼ばれています。
有名な京都市左京区の「熊野若王子神社」も「にゃくおうじ」と呼ばれますが、ここ成田市の
「若王神社」は「じゃくおうじんじゃ」と呼ぶようです。

平成八年に建立の明神鳥居は、通りから路地をちょっと入ってさらに右へ曲がったところに
あるため、注意して歩かないと見逃してしまいそうです。

鳥居の脇には十数基の墓石が並んでいますが、古いものは倒れています。

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なだらかな石段が続いています。


「千葉県神社名鑑」には次のように紹介されています。
「祭神 事解男命(ことさかのおのみこと) 本殿・流造一坪、弊殿・二坪、拝殿・四坪 境内
坪数三〇坪 氏子四〇戸」
亡き伊弉冉尊(イザナミニミコト)を黄泉国にまで追った伊弉諾尊(イザナギノミコト)は、醜悪
な姿となった伊弉冉を見て驚き、現世に逃げ帰ります。
途中で追いついた伊弉冉と離縁することを決め、吐いた唾から速玉男命(ハヤタマオノミコト)
とともに生まれたのが事解男命です。
唾を吐くことは約束を確認するために行われる行為のようです。
「コトサカ」は「コト」を「サク」の意味で、縁切りと浄化を表していると言われています。
「事解男命」は全国の熊野神社に多く祀られていることから、この「若王神社」も熊野神社の
流れをくむ神社でしょう。
桜田の「熊野大神」や南羽鳥の「熊野神社」のご祭神も「事解男命」でした。

南羽鳥・熊野神社

「成田市史 近代編史料集一」に収録の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
「若王神社 本村字北之内台ニアリ。地坪壱畝歩。祭神ハ伊弉諾尊。創建詳カナラス。」
と記述されています。
一畝は30坪になりますから、「千葉県神社名鑑」の記述と整合がとれていますが、ご祭神は
事解男命の親神の伊弉諾尊とされています。
神社のご祭神に関してはよくあることで、伊弉諾尊と御子神の事解男命の二柱が祀られて
いるということで良いのではないでしょうか。

手水盤には安政四年(1857)と記されています。
(政の字は異体字で、偏(へん)を上に、旁(つくり)を下にしています)


拝殿の小窓から覗くと、薄暗い中に本殿が見えています。
蟇股の彫刻は鳳凰でしょうか。


本殿は大きな鞘堂の中にあるため、その全容を見ることができません。


本殿と鞘堂との間に1メートルほどの隙間があり、そこから本殿の周りを見ることができます。


鞘堂の内壁に、いくつかの掲額が掛かっています。
「昭和拾四年 富士浅間神社 霊峰参拜記念」(上)、「大正七年 伊勢神宮参拜紀念」(下)。

鞘堂ができるまで長い間風雨に晒されていたのでしょうか、大分傷みが目立ちます。
本殿の裏には小さな流造のお社が点在しています。

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何のお社かは分かりませんが、いずれも土台を多くの丸石で固めたしっかりした造りです。

明治三十年(1897)建立の「出羽三山参拝記念碑」。

傾いた祠の前には力石のような二つの石が置かれています。

大木の根元に寄りかかっている石碑があります。
風化と、表面が削られたような痕があり、刻まれた文字はほとんど判別できません。
中央上部に「天」の文字が見え、右端に「植」、左端に「少」の文字が読めます。
「天」は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」、「植」は「植安媛命(ハニヤスヒメノミコト)」、
「少」は「少彦名命(スクナヒコノミコト)」と刻まれていたと推測すれば、他には「大己貴命
(オオムナチノミコト)」と「倉稲神命(ウカノミタマノミコト)」の名前が刻まれていたはずです。
これは、五穀豊穣を祈願する「地神塔」で間違いないと思います。
側面に「文政」の元号が読み取れますので、200年近い昔のものです。
「地神塔」は五角の石柱に五柱の神名を刻むものが多く、このブログでもこれまでに江弁須
の「皇産霊神社」、米野の「麻賀多神社」、八代の「稲荷神社」の三基を紹介しています。

八代・稲荷神社

ちょっとしたスポット~米野の麻賀多神社 ☜ ここをクリック
寺社が並立する信仰の場~八代の「善勝院」と「稲荷神社」 ☜ ここをクリック


境内の裏の竹林に道のようなものが見えています。
尾根のような地形で緩やかに上っています。



100メートルほど登ると突然社殿が現れました。
神額も社号標もありません。
社殿の後ろに鳥居があり、その先にお社が見えています。
社殿の形状と鳥居の位置などから考えると、これは神楽殿かもしれません。



神額の文字はすっかり消えてしまっています。
後で調べたところ、ここは「三王神社」のようです。
「千葉県神社名鑑」その他の資料にもこの神社の名前は出てきません。


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屋根には徳川家の紋章である三葉葵が見えます。
「下金山村誌」に「山王神社」として次のような記述がありました。
「字北之内ニアリ。泉城ノ出城ニテ寺台海保守ノ城、押畑千葉家ノ出城ヲ目前ニ望ムコト
ヲ得。祭神ハ大山咋命ヲ祀ル。其後素盞嗚尊ヲ合祀シ三王神社ト改ム。」
「大山咋神」の別名は「山王」で、山の地主神です。
「山王神社」は山王信仰に基づいて滋賀県大津市の「日吉大社」より勧請を受けた神社で、
広く全国に分布し、大山咋神(オオヤマクイノカミ)と大物主神(オオモノヌシノカミ)を祭神
としています。
この二柱に素戔嗚尊が加わって「三王神社」となったわけです。

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昭和57年に寄進された御神燈。
片方は宝珠・傘・火袋の部分が崩れ落ちています。

手水盤には安政四年(1857)と刻まれています。
側には割れた手水盤と同じ安政四年と記された板碑が置かれています。

境内の片隅には、壊れた板碑や石碑が積み上げられています。

昭和61年建立の鳥居を挟んで見た 神楽殿(?) ↑ と三王神社 ↓


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木々の合間からはのどかな田園風景と、空港へ向かう鉄道の高架線が見えています。
その向こうに見えるのは吉倉にある「インターナショナルガーデンホテル」です。



狭い境内の全景を撮ろうと苦戦中に、視線をを感じました。
いつの間にか社殿の横に猫が一匹、じっとこちらを見つめています。
こんな人気のない山中で何をしているのでしょう?
(向こうも同じことを思っているか・・・)
「北之内北方ノ台ニ隆起ス。地形馬ノ背ノ如シ。高サ五丈ニ余レリ。南方耕地ヲ隔テ成田山
アリ。北方ニ新妻、押畑其他数村ノ耕地及長沼及利根川ノ風帆漁船ヲ見ル。又晴天ノ日ニ
極目遠望スレハ常陸ノ筑波、足尾ノ諸山風景ヲ見ルコトヲ得。」
「下金山村誌」には「山岳」と題した、こんな記述も見られます。
これは「若王神社」と「三王神社」のある高台のことを指していると思われます。


南方には鉄道の高架線が横切り、大型のショッピングモールができて、往時の景色とは
一変していますが、かろうじて成田山の一角は見えています。
北方は竹と雑木に覆われて、何も見えません。


深い森の中の「若王神社」と「三王神社」。
かつての見晴らしの良さは半減してしまいましたが、秋の紅葉の時期はきっと鮮やかな
色彩に彩られることでしょう。

※ 「若王神社」 成田市下金山589

天台宗のお寺で、山号は金峰山、ご本尊は阿弥陀如来です。
「龍金寺 下金山村字西前にありて天台宗に屬す金龍山と號す阿彌陀佛を本尊とす由緒
不詳堂宇間口二間奥行二間寺院間口五間奥行八間半境内二百七十三坪官有地第四種にして
管轄廰まで八里十八町なり寺院明細帳」
(下線の部分で山号が「金龍山」となっているのは誤りで、正しくは「金峰山」。)
「千葉縣香取郡誌」中の「中郷村誌」に、「龍金寺」はこう記述されています。

いかにも旧道らしい、曲がりくねった「和田下金山線」沿いに「竜金寺」はあります。
入り口には四基の石造物が並んでいます。

右端の如意輪観音は全体が白苔に覆われていますが、何とか「文政三年」と読めます。
文政三年は西暦1820年、約200年前のものです。

隣の石仏は風化と破損が激しく、何の石仏か分かりません。

これは墓石でしょうか、寬保や延享などの元号と、~禅定門の文字が見えます。

左端も風化と苔で文字がほとんど読み取れませんが、奉誦塔のようで「~万巻」と読めます。

瓦葺きの方形造りの本堂は、通りから一段高い場所にあります。
明治十七年の「下總國下埴生郡下金山村誌」には、
「本村字西前ニアリ、地坪九畝三歩。天台宗・金峰山龍金寺。由緒開基詳カナラス。」
とあります。
山之作の「円融寺」の末寺ですが、なぜか成田市の宗教法人名簿にも、天台宗の寺院名簿
にも記載がありません。
「成田市史 中世・近世編」の中で、「円融寺」の末寺として寺名が載っているだけです。


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失礼して中を覗かせていただきました。
反射でよく見えませんが、木造仏が数体おられるようです。
「阿弥陀如来像」ではないか、とは思うのですが、来迎印を結んでいるようには見えないのは
両手が欠損しているからでしょうか?

山口・證明寺の阿弥陀三尊像 證明寺 ☜

神崎町・神宮寺の阿弥陀如来像 神宮寺 ☜
『阿弥陀如来は仏の領土=浄土のなかでも最も広大な西方極楽浄土にいながら、現世で
人々に無量の寿命(永遠の生命)を与えてくれる法力を持つ如来です。「人は念仏さえ唱え
れば極楽浄土に往生できる」「臨終のときには菩薩や天(神々)を連れて迎えにいく(来迎)」
ことを誓願し、人々を救ってくれる阿弥陀如来は、十世紀以降、厚く信仰されるようになり
ます。』 (「仏像の事典」 熊田由美子監修 成美堂出版 P24)
ちょっと脱線しますが、私なりに解釈した、想像を絶する「阿弥陀如来」の広大な世界を、
数字で見てみましょう。(計算違いがありましたらお許しを)
遙か昔のインドに王位を捨てて「法蔵」と名乗った修行僧がいました。
「法蔵」は五劫という永い期間の修行を経て悟りを開き、「阿弥陀如来」となりました。
「劫(こう)」とは時間の概念で、一辺が一由旬(ゆじゅん=7.2㎞)の立方体にケシの実を
ぎっしりと詰めて、その実を100年に一粒ずつ取り出し、すべてのケシの実がなくなるまで
の時間を言います。
立方体の体積は約373㎦で、ケシの実は直径5ミリ程度ですから、”気の遠くなるほどの
長い時間”という意味になります。(「未来永劫」の「劫」もこの言葉から来ています)
さて、「阿弥陀如来」の極楽浄土は、私たちの住むこの世界から十万億土もの彼方にある
と言われています。
十万億土の「十万億」とは、一億の十万倍という意味ですから、10兆ということになります。
十万億土の「土」とは、“一尊の仏が治める銀河系ほどの広さをもつ国”を指す言葉なので、
十万億土の彼方とは、銀河系を10兆回越えた先ということになります。
銀河系の直径はおよそ10万光年とされていますから、その10兆倍とは、100京光年の
距離ということになります。
気の遠くなるような距離、と言うより、想像の範囲を超えた遙か彼方という意味です。
仏教の時間や空間の概念の大きさには圧倒されますね。


本堂の右裏手にあるお堂には数枚の欠けた板碑が置かれています。

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本堂の左裏手には墓地が広がっています。
寛文、貞享、元禄、宝永、正徳、享保、延享などの元号が見えます。

墓地の向こうの景色は大きく変わりました。
成田空港への鉄道の延伸による高架の建設、大型ショッピングモールの開業は、ここ20年
ほどの間の出来事です。


比較的新しい墓石の陰に、草生す無縁墓石が多く見られます。
人が生き、死んでいった痕跡のこのような姿を見るたびに、人生の無常を感じ、以前訪ねた
野毛平の「東陽寺」の景色を思い出してしまいます。




太子堂の二体の太子像は年代が分かりません。
頭は欠損し、近年になって付け直されたものです。

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寺の裏山は寺台城主であった馬場氏の一族が居城としていた「下金山城址」です。
急斜面は木々に覆われ、登り口は見当たりません。


山裾を切り開いた台地にある境内は、南側に開けて、前方には遮るものも無いためか、
とても明るい空間になっています。

「下金山城址」の手掛かりを探して少し近所を歩いてみました。
民家の庭先の向こうにチラリと鳥居が見えました。


鳥居の神額には「七星神社」と記されています。

しばらくの間は石段がありましたが、途中からこんな様子になりました。
45度以上の急斜面で、飛び出している木の根やツルを掴んで登るしかありません。
足を滑らせたら大怪我は間違いありません。

二十メートルほど、這いつくばるように登った先に小さなお社がありました。
狭い台地にはお社以外何もありません。

十メートルくらい先のがけ下に祠が見えています。
側面に何やら神紋のようなものが付いていますが、とても近づくことはできません。
急斜面を降ることばかりが気になって、早々にこの場所を離れましたが、道に戻ってふと
頭をよぎったのは、馬場氏が千葉一族であるなら、城跡であろう場所にあったあのお社は、
“「七星神社」となっているが、実は「妙見社」ではないだろうか?”ということでした。
「千葉縣印旛郡誌」に収録の「中郷村誌」に、「七星神社」の名前を見つけました。
「七星神社 下金山村字東前 無格社 祭神 天御中主命 由緒不詳 社殿間口二尺奥行
二尺 境内二五坪 氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」
天御中主命(=天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ))は、天地開闢に関わった別天津神
(コトアマツカミ)の一柱で、高天原の中央に座する主宰神という意味があります。
「天之御中主命」をご祭神とする神社としては、「千葉神社」・「秩父神社」・「東京大神宮」等
がありますが、全国的には「妙見社」がご祭神としています。
特に下総地方一帯は、千葉氏の影響下にあった関係から、多くの城跡には「妙見社」が
セットのように見られます。
また、「成田市史 中世近世編」の「成田市域の主な神社」の項に、
「七星神社 古社名 七星権現 祭神 妙見菩薩」
とあるのを見つけました。
ご祭神の「天之御中主命」と「妙見菩薩」との混乱は、明治新政府の神仏分離令により、
妙見社では仏教世界の「菩薩」を祀れなくなり、天之御中主神を、妙見菩薩をと同一視
してご祭神としたことによります。(千葉神社や秩父神社もこの理由により天之御中主神
をご祭神としました。)
これで、この「七星神社」とは、妙見信仰からの北斗七星から来た社名で、実は「妙見社」
であることが分かりました。

馬頭観音堂の七曜紋

源頼朝を支えたことで勢力を拡大した千葉氏は、「妙見菩薩」を深く信仰し、領地内に多く
の妙見社を建立しました。
「妙見」とは北極星や北斗七星を神格化したもので、千葉家の家紋とした月星紋や九曜・
七曜紋などはこの信仰に根差しています。
さて、前述の「中郷村誌」には下金山村にもう一つ「天神社」があると書かれています。
「天神社 下金山村字北ノ内 祭神不詳 由緒不詳 間口一尺奥行二尺 境内一六坪
氏子二七人 管轄廰まで八里十八町」
氏子の人数や管轄廰への距離が全く同じですから、「字」は違っていても、「七星神社」の
下方に見えた小祠は「天神社」の可能性があります。
ぼやけて見えた紋のようなものは、梅鉢紋(平隅切り梅鉢紋(?))だったのかもしれません。
(確認のためいつものように再訪問したいところですが、あの崖をまた登る勇気は出ません)
それにしても「七星神社」とは珍しい社名です。
ネットでいろいろ調べてみましたが、二社しか見つかりませんでした。
秋田県山本郡三種町の「七星神社」と、山形県西置賜郡白鷹町の「立岩・七星神社」です。
三種町の「七星神社」のご祭神は「天御中主神」ほか六柱、白鷹町の「七星(しちょう)神社」
のご祭神は「金山比古命」「金山姫命」「倉稲魂命」の三柱です。
いずれも由緒不詳ですが、三種町の方はご祭神から考えて「妙見社」系かもしれません。


明るい台地に鎮座する「龍金寺」と、崖の上に取り残された形の「七星神社」との関係は、
今後千葉氏の盛衰を追って行くうちに、いずれもっと明らかになってくると思われます。

※ 「龍金寺」 成田市下金山520

浅間神社

「香取神社」から見てゆきます。

木製の鳥居は控柱の付いた両部鳥居です。

社号標は昭和51年の建立です。

鳥居の脇に二つの手水盤が置かれています。
手前は明治三十一年(1898)、奥の小さい方には「天明六丙午」と刻まれています。
天明六年は西暦1786年になります。

神 額 ***



「千葉県神社名鑑」によれば、ご祭神は「經津主命(フツヌシノミコト)」、本殿は亜鉛板葺で
流破風造の1.2坪、拝殿は亜鉛板葺入母屋造の7坪、境内は647坪で氏子は80戸です。
由緒沿革には次のように書かれています。
「創立は第五一代平城天皇の大同元年で、今の社殿は第一〇七代後陽成天皇慶長九年
庚辰九月一七日の改造になるものという。往時、本村は亀山村と称していたが、邪神駆除
の時に用いられた大神の旗を社殿に納め崇敬したる縁故により、後に幡谷村と改めたと
いわれる」
大同元年は西暦806年で、実に1200年以上前のことになります。
また、慶長九年は1604年ですから、本殿は400年以上前に改築されたことになります。
拝殿は昭和51年に改築されました。


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400年もの風雪を耐えてきたとは思えない、しっかりとした社殿です。
「千葉縣印旛郡誌」中の「久住村誌」には、こう書かれています。
「村社 香取神社 幡谷村字宮下にあり經津主命を祭る由緒不肖と雖慶長九年九月創立に
係る棟札を見る社殿間口七尺奥行七尺拜殿間口三間奥行二間神門高一丈一尺間口八尺
境内六十七坪官有地第一種あり神官は澤田總重郎にして氏子六十九戸を有し管轄廰まで九里
三十一町十一間一尺なり神社明細帳」

境内の右手には、古事記奉上文の一節を刻んだ石碑が建っています。
「明治貳拾六年八月十日」と、「正六位勲六等 岩佐為春書」とあり、次の文が刻まれています。
「議安河而平天下 論小濱而淸國土」
「古事記」は第四十代天武天皇の命によって編纂が始まり、一時期の中断を経て第四十三代
元明天皇によって作業が再開され、稗田阿礼の口述を太安万侶が筆記編纂した我が国最古
の歴史書ですが、「臣安萬侶言 夫 混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形~」と始まる
その冒頭の序文の中にこの一節があります。
【安河(高天原の河)で天下(葦原中国=地上のこと)の平定について神々が相談し、小濱
(島根県出雲市にある稲佐の浜)で建御雷神(タケミカヅチノカミ)が事代主神(コトシロヌシ
ノカミ=大國主神)を諭して国土を清めました。】

拝殿前の二基の灯籠には、「天明三癸卯六月」と記されています。
天明三年は西暦1783年で、天明の大飢饉のまっただ中にありました。
この灯籠が寄進された翌月には、死者二万人を出したと言われる浅間山の大噴火が起こり、
飢饉はさらに深刻度を増してゆきます。

境内の左手にある二基の祠は、風化が進んでいて刻まれていたはずの文字は読めません。

大正四年(1915)のこの石碑には次のように刻まれています。
「村社香取神社は平城天皇大同元年の創立にして庶人の崇敬いと厚き古社なり 今上天皇
御即位奉祝の記念として今年三月祭田九畝拾三歩山林八反参畝参歩を氏子より基本財産
に寄附し同八月六日幣帛神撰料供進の式社に列せられる因で御大典擧行の吉事を撰ひ碑
を建て由緒を刻し以て永く後年に傳ふ」
(崩し字が多く一部読み間違いがあるかもしれません。)

境内を出たところに、小さな祠がたくさん並んでいる場所があります。

およそ五十基ある祠は「道祖神」です。
風化でほとんど読めませんが、文化、元文などの元号がかろうじて読み取れます。

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小さな道祖神群に合わせたような小振りの灯籠が並んでいます。
一基には「文政九丙戊歳九月」と刻まれています。
文政九年は西暦1826年になります。
もう一基には「安永■辰」の文字が見えます。
安永年間の干支に「辰」があるのは元年(壬辰)だけですので、安永元年(1772)のもので
あることが分かります。

中央の一番大きな祠には「元文四己未」と刻まれています。
元文四年は西暦1739年、約280年前になります。

道祖神群はスダジイの大木に抱かれるようにして、その根元に並んでいます。

道を渡って「浅間神社」に向かいます。


こちらは石造の明神鳥居です。
社号標は昭和51年のものです。

年代不詳の手水盤


延享年代(1744~48)の祠


この「浅間神社」に関しては「千葉縣印旛郡誌」中の「久住村誌」に簡単に記述されています。
ご祭神は「木花開耶姫(コノハナノサクヤヒメ)」で、社殿は板造小祠であり、神官名や氏子数、
管轄廰までの距離は隣の「香取神社」と同じです。
板造小祠から石造小祠になったのは昭和50年です。
また、「千葉県神社名鑑」の「香取神社」の項に、境内神社として「浅間神社」が記載されて
いることから、この「浅間神社」はもともと「香取神社」の境内にあったものと考えられます。


両神社の間に名古屋地区方向への道路が造られ、「香取神社」の境内社であった「浅間神社」
が境外社となったようです。

両社の間の道路から見た「浅間神社」 ⇑ と「香取神社 ⇓



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境内の外れに建つ、昭和3年の「御大典記念改修道路碑」。
この時、両社の間に道路ができたのでしょうか?




幡谷の「香取神社」と「浅間神社」。
道路に分けられはしましたが、それぞれの社殿の後ろには、まだ豊かな森が広がっています。

※「香取神社」「浅間神社」 成田市幡谷573