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sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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1350年の時の流れ~神崎町の「神崎神社」
今回は、前回の「神宮寺」に続いて、神崎町の「神崎神社」を訪ねます。

神崎神社ー63

大正十年の「香取郡誌」中の神社誌の項に「神崎神社」が次のように紹介されています。

「神崎町神崎本宿字雙生山に在り域内六千八百八十八坪面足尊大貴己尊惶根尊少彦名尊
を合祀す祭日一月四日三月廿日五月六日九月新嘗祭等なり創建詳かならず然れども古史
巳に之を載するを見れば其最古に在りしは以て證ず可し社傳に曰ふ白凰二年二月朔日常陸
國河内郡と本郡の境界なる大浦沼字二ッ塚より此地に遷座す」

(※ 面足尊(オモダルノミコト) 大貴己尊(オオナムチノミコト) 惶根尊(カシコネノミコト) 少彦名尊(スクナビコナノミコト)
「大貴己尊(オオナムチノミコト)」については通常「大己貴尊」と書きます。)


「白凰(はくほう)」という年号は日本書紀には記されていない諸説ある年号で、西暦674年と
する説が有力ですが、651年とする説や662年とする説などがあります。
いずれにしろ実に約1350年ほど前のことになります。

「史に元慶三年四月五日下總國正六位上子松神に從五位下を授くと三代實録記するものは
即ち本社なり承平二年春宮學士大江某本州の國司なりし時社殿を造り社領卅六町餘を寄進
し廿一年毎に改造の例と為す」


明治時代初期まで、「神崎神社」は「子松神」とも呼ばれていました。
正六位上から一段階上の從五位下を賜った元慶三年は、西暦879年になります。
社殿が造営された承平二年は西暦932年になり、約1080年前のことです。


神崎神社ー12
神崎神社ー11
********** 神崎神社ー13
神崎神社ー14

神崎町を横切る「利根水郷ライン」に面して大きな鳥居と社号標が立っています。
昭和10年に寄進された狛犬の台座には、お馴染“魚がし”のマークが刻まれています。


神崎神社ー15

真っ直ぐ伸びる石段は101段もあります。


神崎神社ー16
神崎神社ー18

石段を登り切った右側には「金刀比羅宮」があります。
側に数基の祠がありますが、唯一紀年銘が読めたのが■保十一丙■年で、該当するのは
「享保十一年丙午年」(1726)となります。


神崎神社ー20

「金刀比羅宮」の反対側に小高い場所があり、数基の祠があります。
神社の案内板に「愛宕神社」のお宮が描かれていた場所ですが、今は石祠だけです。


神崎神社ー21

今度は42段の石段を下って小さな広場のような場所に出ます。
「皇紀二千六百年四月十五日 中段参道コンクリート工事延長二十三間」と刻まれた石碑
が立っています。


神崎神社ー33

右側の石段は鳥居から登って下った参道です。
左側へは石段が下へ伸びています。
「神崎神社」は後方になります。

なかなか「神崎神社」に辿りつきませんが、ちょっと石段を下りてみます。

神崎神社ー24
********** 神崎神社ー25
神崎神社ー28

石段の下は墓地になっています。
寛文、明和、安永、天明、寛政、文政、慶応等の年号が読め、中には400年近く昔の寛永
年間の墓石もあります。
墓地を抜けると、昭和3年に建立の「神崎神社近道」と刻まれた大きな石柱がありました。


神崎神社ー29
神崎神社ー30

通りに出ると、そこは日本酒製造販売の「寺田本家」です。
延宝年間の創業で、約340年の歴史がある老舗です。
すぐ近くにはもう一軒の老舗、元禄二年創業の「鍋店」があります。
そう言えば、神崎町のキャッチフレーズは「発酵の里こうざき」でした。


神崎神社ー32

下りてきた石段を登って戻ります。
この石段は「女坂」と呼ばれていて、61段あります。


神崎神社ー34
神崎神社ー35

「女坂」上の広場には鳥居を持った「三峰神社」があります。
新しくお堂を覆った鞘堂は、大変失礼ながら何やら犬小屋のようで・・・。


神崎神社ー67

この道祖神は寛政元年(1789)のものです。


神崎神社ー39
********** 神崎神社ー40

大正十一年(1922)に寄進された狛犬。
毛並みの良い巻毛の狛犬です。

そばに神社の説明板がありました。
「白鳳時代に大浦沼二つ塚より現在の地に遷座し、明治6年に郷社、大正10年県社に
昇格しました。 7000坪あまりの境内は「神崎の森」と呼ばれ、全域が県の天然記念物
に指定されています。 また本殿脇には国指定天然記念物の「なんじゃもんじゃの木」が
あります。 ご祭神は天鳥船命、少彦名命、、大己貴命、面足命、惶根命であり、交通・
産業守護の神として深く信仰されています。」


天鳥船命(アメノトリフネノミコト)」の名前は「香取郡誌」の中では出てきませんでした。
この神はイザナギとイザナミとの間に産まれ、鳥の様に空を飛べるとされています。
またこの神の名は、神が乗る船の名前としても登場することから、船の神や運輸・交通の
神とも言われています。
「天鳥船命」をご祭神とする神社は少なく、この「神崎神社」の他は、
「隅田川神社(東京都墨田区)、大鷲神社(横浜市南区)、鳥船神社(埼玉県所沢市)など」
(ウィキペディア 「鳥之石楠船神」の項)数えるほどしか無いようです。

さて、さらに43段の石段を登ると、ようやく社殿が現われます。
(今回は段数ばかり数えていますが、「利根水郷ライン」の鳥居からは101段登って42段
下り、43段登って社殿前に着きます。)

神崎神社ー41
********** 神崎神社ー42

最後の石段の上にも狛犬がいます。
元禄八年(1695)の狛犬ですが、無残に顔が削られています。
明治初期の廃仏毀釈はお寺や仏像に向けられたものですから、神社にある狛犬の顔が
削られるということは考えられません。
一体何があったのでしょうか?


神崎神社ー43
神崎神社ー44

「香取郡誌」中の「神崎神社」の項には、
「文應元年正元改元三月神崎師時左衛門尉○社記に北條師時に作るは誤る文書を寄せ神崎神社内
惣領宮和田小松上畠多賀青山等六所四十餘町の神領及び神事並に神輿修理廿一年の
造謍等先例に因り・・・」

とあり、社殿は、造営された承平二年以降、何度かの改築・修繕が行われてきました。

「天正十九年徳川氏社領二十石を寄附す以上文書悉く存す當時神崎大明神と稱す寛文十一年
正殿を改造し神崎本宿外三十六區二千餘戸の領土神とし五月六日を例祭とす明治の初め
神崎神社と改號し六年八月郷社に列す」

天正十九年は西暦1591年、寛文十一年は1671年になります。

社殿は明治四十年(1907)に火災に遭ったため、新たに神殿の造営が行われて、大正五年
(1916)に至ってようやく本殿・中殿・拝殿が整ったと書かれています。


神崎神社ー45 またも狛犬(平成2年)
********** 神崎神社ー46
神崎神社ー48 文政五年(1822)の灯籠。


神崎神社ー49

社殿に向かって右手奥にあるこのお堂には、「安産子育聖観音」と書かれています。


神崎神社ー50

国の天然記念物の「なんじゃもんじゃの木」です。
クスの木で、親木の周りを数本のひこばえが取り巻き、主幹は周囲約13メートル、樹高は
約19メートルの大木です。

「神崎神社社側に在り一大巨樹にして高さ八丈圍二丈に餘り蒼々天を摩し遠望尚ほ之を認め
得べかりしが明治四十年中本社の火災に罹りし時樹も亦延焼するところとなり遂に舊狀を留
めざりしも根株の邊數本の萌蘖を生ぜり利根川圖誌に曰く本草綱目載するところ山桂樹の類
なりとし平田篤胤は以て藪肉桂とす傳へ曰ふ里人其名を知るものなく問ふにナンジャモンジャ
の語を以てす是より遂に稱となるナンジャモンジャは方言にして如何なるものゝ意なり又水戸
侯徳川光圀此名を附するの事を傳ふ」

「香取郡誌」中の「名勝誌」に、この「ナンジャモンジャの木」がこのように紹介されています。


神崎神社ー51
********** 神崎神社ー52
神崎神社ー56

「ナンジャモンジャの木」は意外と各地に点在していますが、木の種類ではなく、見慣れない
巨木・古木に対して付けられた名前のようです。

「神崎町史 近現代編」に、大正九年(1920)、この木についての「東京植物病院」からの
問合せに当時の神崎町町長・酒井子之助が答えた文書が載っています。
『千葉県香取郡神崎神社ノ社頭、神木「ナンヂャモンヂャ」ト称スル年古リタル老樹ガアル、
初メ其ノ何ノ木タルヲ知ラナカッタノデ、曖昧模稜ノ意ヲ以テ斯ク呼ンダトイッテ居ル、マタ
伝フ、水戸黄門光圀ノ命名ト』
『先哲平田篤胤先生ハ「藪肉桂」トイヒ鹿島日記著者高田輿清氏ハ「年経タル桂ノ樹」ト断
ジテ 神代より茂りて立てる湯津桂 栄え行くらん限り知らずも ト詠ンデ居ル、マタ利根川
図志ニハ「山桂」ト記シ、岩崎常正氏ハ「樟ノ異名」トイヒ近頃理学博士伊藤篤太郎先生ハ
研究ノ結果「樟樹ノ一種」ナルコトヲ証明シテ居ル、去ル明治四十年回祿ノ災ニ罹リ、老木
ハ廃幹ヲ残シ基根部ヨリ簇生セル数株ノ蘖ハ現ニ盛ニ成長シツゝアル、大正二年千葉県
ヨリ名木トシテ保存費金壱百円下付セラル、尚今回発布セラレタル天然記念物保存ニ指定
セラルゝコトニ内定シアリ』 

けっこう木の種類の特定には苦労したようですね。
結局、「ナンジャモンジャ」のままが一番良いようです。


神崎神社ー53

ナンジャモンジャの木のそばにある「地主稲荷」。
明治二五年(1892)の「神社明細帳」には、この神社について次のように書かれています。
「稲荷神社 祭神 受持命  由緒 地主ノ神ト称ス、神崎神社御遷坐以前稲荷神社ノ社地
ナルヲ以テシカ云フナリ」



神崎神社ー59
神崎神社ー60

本殿の裏を登る細道があり、いくつかの祠が並んでいます。


「神崎神社」へは神宿交差点から登るもう一つ登の参道があります。

神崎神社ー4

西側から坂を登る参道の途中に「八坂神社」があります。

説明板には、
「正徳二年(一七一二)創建 古くは「天王様」と呼ばれていた 明治元年に八坂神社に改称
祭神 建速須佐之男命と言われているが ここのお祭りは昔から女神の神輿といわれて出雲
の大蛇退治の神話中で後に命の奥方になった櫛稲田姫をお祭りしているとも言われている」

と書かれています。
(※ 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト) 櫛稲田姫(クシナダヒメ))
300年以上の歴史がある神社です。


神崎神社ー5
********** 神崎神社ー6
神崎神社ー7

流造りの本殿には、5本の鰹木と垂直切りの千木が載り、鬼面の鬼瓦が見えました。

なお、神社下の西側にも「八坂神社」があります。

神崎神社ー26


神崎神社ー8
神崎神社ー9

「八坂神社」の上には「天然記念物の大クス」と書かれた標柱が立っていますが、同じくらいの
大きさの木が何本もあります。


神崎神社ー64

「千葉県神社名鑑」には「神崎神社」は次のように紹介されています。
「祭神・天鳥船命(あまのとりふねのみこと)少彦名命(すくなひこのみこと)面足命(おもだる
のみこと)惶根命(かしこねのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと) 本殿・銅板葺流造六坪
幣殿・銅板葺一二坪 拝殿・同一六坪 社務所・亜鉛板葺三〇坪 境内七、〇六七坪 氏子
二、〇〇〇戸」
『由緒沿革 白鳳二年、常陸国と下総国との境である大浦沼二っ塚より現在の地に遷座した。
「三代実録」所載の子松神社で、元亀・天正の頃まで、神領七〇〇町歩を有した。 徳川時代
は代々御朱印二〇石を寄せられた。六所鎮守、神崎大明神、神崎大社等と称されていたが、
明治元年以降、神崎神社と改称されている。 明治六年郷社に列し、大正一〇年県社に昇格
した。』



神崎神社ー66
神崎神社ー47

神崎の深い森の中で、1350年の時の流れを過ごした「神崎神社」です。


神崎神社ー68


                  ※ 「神崎神社」 香取郡神崎町神崎本宿1994



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

神崎町の寺社 | 08:03:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
寺伝では1200年、少なくとも800年の古刹~神崎の「神宮寺」
今回は神崎町の古刹、「妙法山神宮寺」を訪ねます。

神宮寺ー1

参道の入口には、宝暦四年(1754)に建立された石柱が立っています。
正面に「南無遍照金剛第四番神宮寺」、側面に「阿彌陀如来第四十七番」と刻まれています。
(第四番、第四十七番ともに由緒は分かりません)


神宮寺ー3

正面に「仁王門」が見えています。
江戸時代中頃に建立されたものです。


神宮寺ー56
神宮寺ー4
********** 神宮寺ー58
神宮寺ー55
神宮寺ー5
********** 神宮寺ー57

阿形・吽形の二体は、大分傷んでいますが、迫力のある表情で、堂々たる姿です。


神宮寺ー6

仁王門の説明板には次のように書かれています。

「仁王門は間口十尺たらずの四脚門で、木割りが細く屋根は切妻造りになっています。
木柱は一般的な円柱ではなくごひらの柱で、柱天に縦長断面の冠木をおいています。
建立は江戸時代中期(17世紀後半)とみられていますが、本柱や冠木の形式が通常の
四脚門とは違っており、また藁座を蹴放から造り出しとする珍しい造りとなっています。」


(ごひら=五平・断面が長方形の木材  冠木=かぶき・左右の柱の上部を貫く横木  藁座=わらざ・柱の根元に
巻き付ける金属や木  蹴放=けはなし・門の下に置かれる水平な木材で、敷居のようなもの)
 


神宮寺ー10

山門をくぐると、左手に「並木の大梛(なぎ)」があります。
説明板には次のようにあります。

「梛の木は遠く中国海南島や台湾等に自生するが、南紀、四国、九州の温暖な地方に定着
した常緑の高木である。古代から神社の境内や庭園等に植樹する習わしがあり、神宮寺の
梛も同様と考えられるが、いつ頃植えられたものなのか定かではない。その昔、並木村の
住人達が相談し、代表者を五穀豊穣と村の興隆を祈願するため、お伊勢参りに向かわせた。
帰り際に一本の小さな梛の木の苗木を頂き、これを神社かお寺の境内に植えて大事に育て
よと言われ、現在のこの地に植えられた。梛の葉は多数の平行脈を有し「チカランバ」や「セン
ニンリキ」といった異名が示すように、強靭で切れにくいので大切な人とのご縁を結ぶとされる。
また二つの並んだ赤い実をつけることから「夫婦円満、相思相愛の木」といわれ、「固い契り」
の象徴とされ、大変縁起のよい神木である。」


梛の木の手前にある石碑は、明治四十年(1907)建立の「普門品供養塔」です。


神宮寺ー44

境内の一角に小さな池が見えています。
ちょっと覗いただけですが、魚影は見えませんでした。


神宮寺ー45

近年建て直された本堂です。

「神崎町史 史料編 近・現代編」(昭和60年)に収録されている、「明治十五年下総国香取郡
寺院明細帳」には、
「千葉県官下々総國香取郡神崎町並木村字田向根 惣持寺末新義真言宗智山派 神宮寺
本尊 阿弥陀如来 十一面観世音菩薩  由緒不詳  本殿間数 間口四間奥行四j間
客殿間数 間口五間奥行三間 仁王門 間口二間半奥行弐間 境内坪数 千百七拾壱坪」

とあり、檀徒は139人であることが記されています。
以前は四間四方の本堂と、五間・三間の客殿というで堂々たる構えであったようですが、老朽
化か損傷か、どのような経緯で建て直されたのかは分かりません。

また、「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には、次のような記述が見られます。
「妙法山神宮寺 同町大字並木郷に在り域内千百七十一坪眞言宗にして阿彌陀如来佛及
十一面觀音を本尊とす側に觀音堂あり寺傳に曰ふ僧空海彌陀觀音勢至三尊の像を携えて
東國に至り遂に此地に來り勝地を卜す」
「後慈覺大師之を草創して庵室を營むと往時は神崎神社の別當寺にして同社藏承久三年
六月廿四日下文に下總國神崎御領神官沙汰人等所可早宛行中臣廣勝神宮寺領田云々の
文あり其舊寺なる以て知る可し」
「徳川氏の時觀音堂領十四石余を給し往時又神崎神領の内より五石を寄せられたりしが社
等の區別ありしより漸舊時の觀を失せり」


寺伝は、空海(弘法大師)が開山したかのようにしているので、延暦・大同・弘仁・天長年代
あたりの平安初期から約1200年の歴史を有していることになります。
次の慈覚大師(円仁)が庵を営んだのは空海の数十年後でしかありません。
文書が残っているとする承久三年は西暦1221年で、これでも約800年前という、まさに
「其舊寺なる以て知る可し」ですね。  
最後の文は、徳川氏の手厚い保護が、明治になって「神仏分離令」により外され、衰退した
ことを言っています。

「神崎町史」に徳川家よりの朱印状が掲載されています。
天正十九年(1591)の家康から始まり、元和三年(1617)の秀忠、寛永十三年(1636)
の家光、寛文五年(1665)の家綱、貞享二年(1685)の綱吉、享保三年(1718)の吉宗、
延享四年(1747)の家重、宝暦十二年(1762)の家治、天明八年(1788)の家斉、天保
十年(1839)の家慶、安政二年(1855)の家定、万延元年(1860)の家茂などです。


神宮寺ー48

本堂のガラス越しに厨子に納まった「阿弥陀如来像」が見えています。
金色に輝いた柔和なお顔です。


神宮寺ー52
********** 神宮寺ー49

あちらこちらに千葉氏の九曜紋が見えます。
「千葉氏」と「神宮寺」に関する資料は今のところ目にしていませんが、この寺の裏山には
その昔、千葉一族の神崎氏の城(神崎城)がありましたので、「神崎氏」と「神宮寺」とは
深い関係があったことが想像できます。


神宮寺ー46
神宮寺ー47

境内の外れにとても珍しい猿の石像がありました。
紀年銘も説明板もありませんが、それほど古いものではなさそうです。
三猿といえば「見ザル・聞カザル・言ワザル」ですが、この三匹の猿のポーズは違います。
大きな猿が小さな二匹の猿を抱きかかえ、二匹の猿はそれぞれの掌を合わせて合掌する
形になっています。


神宮寺ー50

梅の古木は早くも蕾を開き始めています。


神宮寺ー53
神宮寺ー54

裏山の中腹に、鮮やかな朱色の「観音堂」の屋根が見えています。


神宮寺ー59
神宮寺ー12
********** 神宮寺ー13

石段の下にある常夜燈には、「文化九壬申年四月建立」と刻まれています。
文化九年は西暦1812年になります。
手水盤には、「元文五庚申」の文字が読めます。
元文五年は、西暦1740年になります。


神宮寺ー15

石段の中ほどに小さなお堂や石碑が並んでいます。
左のお堂は地蔵堂、右は子安堂です。
真ん中の宝塔は宝暦十二年(1762)のものです。


神宮寺ー16  地蔵堂の地蔵菩薩
神宮寺ー18  子安堂の慈母観音

子安観音には「文化十一甲戌」と記されています。
文化十一年は西暦1814年になります。

神宮寺ー17 少し離れて立つ庚申塔。
「青面金剛」と刻まれていますが、年代は不詳です。


神宮寺ー43

58段の石段を登ると、神崎町の指定文化財となっている「観音堂」があります。
この「観音堂」は元禄年間の建立と伝えられています。


神宮寺-20
神宮寺ー25

説明板には次のように書かれています。

「神宮寺は、神崎神社の別当寺として創建されたもので近世には、四国八十八ヶ所を移した
第九番札所として近郷庶民の信仰を集めてきた。観音堂は、初め石段の下にあったが、のち
現在地へ移したと伝えられている。柱総間二十六尺弱の方三間の堂で屋根は寄棟造とし、
一間向拝を設ける。元来は茅葺であるが、近年になって鉄板を被せている。三間堂としては、
規模が大きく建ちが高い。軸部と軒は和様で組み物を本格的な禅宗様とするが詰物の間に
蟇股を入れる手法はあまり例を見ない。向拝や外軸の複雑な架構は江戸時代中期以降、特に
関東地方の仏堂に多く用いられた形式であり、また外陣を吹放しとするのは大衆参詣の便宜
をはかったものであり時代の特徴をよく示している。寺蔵文書によると、元禄十年(一六九七)
頃の建立といい、扁額には宝永五年(一七〇八)の刻名、その下の欄間彫刻の裏面には元文
二年(一七三七)の墨書がある。」


約320年前に建立されたお堂は、今もしっかりとした木組みを見せています。


神宮寺ー21

失礼して中を覗かせていただきましたが、厨子の周りは暗くてほとんど見えません。

神宮寺ー22 
 観音像と四天王の「多聞天」でしょうか?

神宮寺ー23
 四天王の「増目天」?

厨子の中にある「木造十一面観音立像」は、11世紀後半から12世紀のころに造られたと
されている像高155センチの等身大の立像で、千葉県の有形文化財に指定されています。

千葉県公式観光物産ガイドの「まるごとeちば」には、
「カツラ材の一木造りで彩色が施してあったが、現在は素地を表しています。左手は華瓶を
持つために肘を曲げ、右手は下げて数珠をとっています。十一面観音としてはごく一般的な
スタイルであるが、天冠台には文様はなく、頭髪も髪の筋などは刻まない単純な平彫りです。」

と、「十一面観音立像」が紹介されています。


神宮寺ー26 
神宮寺ー27

お堂には何枚もの奉納額が掲げられていますが、いずれも観音様を拝む人々の絵です。
構図は中里の「楽満寺」本堂にある、「女人観音拝み絵馬」にそっくりです。

楽満寺ー34 中里・楽満寺の奉納額
楽満寺ー40


神宮寺ー33

観音堂の裏を登る山道があります。
山の頂上には古墳があると聞きましたので、がんばって登ってみます。
途中で折り返すように曲った急坂を400メートルほど登った先に「中ノ城古墳」があります。
神崎城の中の城があった所です。




急坂を登り切って、平坦になった所で何かの気配がして顔を上げると、タヌキがいました。





逃げもせず、こちらを見ながら一歩、二歩と近づいてきます。
7~8メートル位の位置で立ち止まり、またこちらをじっと見ています。



“今年はエサはたくさんあるかい?”“ここは君の縄張りかな?”“ちょっと通してくれる?”
当然タヌキは無言でしたが、何か会話ができたような気がしました。

神宮寺ー31

「中ノ城古墳」はこの地方最大の前方後円墳で、古墳時代後期のものとされています。
昔、この辺りが「香取の海」と呼ばれる内海であった頃にも、この場所は水面上にあった
のでしょう。
小さな丘のような古墳の上には、木が生い茂っているほかは何もありません。


神宮寺ー32

遠く、神崎の家並みが見えています。


神宮寺ー35

観音堂に戻ってお堂を一回りすると、7基の石仏群がありました。
左から寛文八年(1668)の観音菩薩、元禄四年(1691)の如意輪観音(十九夜月待塔)、
宝永六年(1709)の廿日夜月待塔、明和八年(1771)の如意輪観音(十九夜月待塔)、
天明元年(1781)の如意輪観音(十九夜月待塔)、右の2基は年代不詳です。


神宮寺ー37
神宮寺ー38

天明元年と明和八年の十九夜月待塔。
元禄四年のものと同様に、十九夜の本尊の如意輪観音が彫られています。


神宮寺ー34
神宮寺ー42
神宮寺ー60

千葉県指定有形文化財 の「神宮寺文書」に関する説明板には次のように書かれています。

「神宮寺に所蔵されている「大般若波羅密多経」の写経は、全六〇〇巻のうち約六〇巻を
欠くだけで、大部分が現存している。この写経は、貞治二年(一三六三)に、下総国塩古郷
(現在の佐倉市、八街町)とその近在の僧によって筆写され、塩古六所宮に奉納されたもの
である。写経の大半の巻末に奥書が記入されており、この奥書から当時の寺院や僧侶の
文化的活動の実態、信仰圏等が知られる。中世史料の乏しい本県においては稀に見る好
史料であり、神宮寺所蔵の文書のうち、最も価値が高いものである。」


650年も前に筆写された「大般若波羅密多経」が、どのような経緯でこの寺に収蔵されること
になったのでしょうか?
なぜ観音堂はわざわざ現在の高い場所に移されたのでしょうか?

追いかけたい謎が残る「神宮寺」です。


神宮寺ー61


                   ※ 「妙法山神宮寺」 神崎町並木642



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神崎町の寺社 | 08:41:56 | トラックバック(0) | コメント(2)